2008年3月30日日曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その39
毎年決まって夜に花見をする場所があります。花見と言っても川沿いをてくてく歩くだけなんだけど、ここは真夜中に足を運ぶところとなんとなく決まっているのです。
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K.D.Japonに足を運んでくれたダブルスコップ(通称ダブスコ)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)垂直に穴を掘るときにつかう、柄が2本長く伸びた土木用のスコップですね。ごぞんじですか?
Q: 「身も蓋もない」の「身」と「蓋」って、「何の身」と「何の蓋」でしょうか?
身も蓋もないというのは、あからさますぎて含むところが何もないことをさす日本固有の言い回しであり、ある特定の身や蓋を引き合いに出しているわけではありません。
というのが身も蓋もない答えです。
ポテトが食べたいと言われて、土のついたじゃがいもを手渡すようなものですね。こういう手合いには顔に一度じゃがいもを投げつけてやるべきだと僕はおもいます。「このじゃがいも野郎!」と言い添えてもいいでしょう。ほぼまちがいなくケンカになりますが、ここは決して引くことなく、この際多少卑怯な手段をつかってでも勝利をもぎとってください。何しろこんな身も蓋もない輩を野放しにしていては、「アラ、麗子さんどちらへ?」「ええ、ちょっと雉撃ちに」という会話がいずれ「アラ、麗子さんどちらへ?」「ええ、ちょっとうんこに」というアグレッシブな会話にとって替わられるかもしれない危険性をいつまでたっても排除できないのです。そんな会話があるものかともおもうけど、下手をしたら百年の恋も腐ります。負けるな!
ただまあ、個人的にはアグレッシブなほうが刺激的で好きです。
君はまた一体先刻から何を言っているのだ。(室生犀星)
泣けるほど不毛な向こうのケンカはさておき、この句の意味するところから察するに、身にしても蓋にしても、「あったらよかったのに」と惜しまれていることはまちがいありません。惜しまれるということは望まれるということであり、望まれるということは好ましいということです。そして、好ましいというからにはあくまで十分条件であって、必要条件ではありません。言い換えると、「あったらうれしいけど、なくてもそんなに困らないもの」です。だいぶ道筋がはっきりしてきましたね。一見するとゆるやかな条件にも思えますが、これを満たす身とフタと言ったら、ひとつしかありません。
A: しじみの身と、お椀のふた
なんだ、しじみの味噌汁じゃないか。
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おや、もうひとつありますね。
Q: コーヒーの大好きな大吾さん、喫茶店も好きですか?お気に入りの喫茶店はありますか?
喫茶店も好きです。好きですが、外でコーヒーをのみたいというきもちはびっくりするほどありません。なぜか?一杯の量が少なくてさみしいのと、自分で焙煎している以上コーヒーに対する欲求は常に100%満たされているからです。
だから僕が喫茶店に求めるのはコーヒーそのものよりもむしろ、単純に安らぎやお店の雰囲気だと言えるでしょう。極端な話、コーヒーがまずいのに好き、という場合もあります。たとえば年末に古川Pと足を運んだ新宿の「西武」という喫茶店は、時代遅れなかんじですごく好きです。古き良き、ではなくてもっとこう、取り残されてるのに気づいてないというか、一歩まちがえばファミレスになりかねないギリギリの安っぽさに親しみをおぼえました。道をはさんで対面にある「らんぶる」より好き。
町田の高ヶ坂に、今もあるのかな、ある日いきなりレストランに格上げされてすっかり足が遠のいた、「マリポーザ」という喫茶店があって、ここはわりとしょっちゅう通ってました。ドリップポットに湯を移し替える前のやかんがすごく大きくて、それがうらやましかったのですよね。女性が両手で持ち上げるくらいの大きさで、銅でできてて、その側面には今にも喋り出しそうな顔が彫ってありました。昔のディズニーに出てきそうなかんじです。未だにあんなやかんを他で見たことはありません。どこに行けばあるんだろうと今でもときどきおもいます。
コーヒーにうるさいところは苦手です。僕にとってはほうじ茶みたいなものだから、こっちの付き合いかたがフランクすぎるのかもしれないですけど。
あと、カフェよりはやっぱり、喫茶店がいいですよね。そんなことない?
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ダブルスコップ(通称ダブスコ)さんは「三角バミューダの大脱走」に1票を投じてくれました。ひさしぶりに進展がみられてうれしいです。どうもありがとう!
ボート 8
蝸牛 7
バミューダ 7
話咲く 6
紙屑 3
ユリイカ 3
アンジェリカ 2
腐草為蛍 2
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dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その40につづく!
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