2012年9月28日金曜日

電気的アスパラガス、あるいはプラグ氏の災難について 後編


【前回までの簡単なあらすじ】

プラグを抜いたら先っちょがなくなっていた。



これを男女の営みにたとえると男性にとっても女性にとってもその恐怖がたいへんわかりやすくてよいのですが、しかしこんなことで有害指定を受けてもつまらないし、もうすこし教育的に配慮したかたちで再現してみましょう。




ある一人の紳士がカプセルホテルに泊まっています。




通常の起床後は言うまでもなくこうですが




実際には起きたらこうなっていたのです。



これだけでも十分に猟奇的でおそろしい話だとおもいますが、不幸なプラグ氏の首についてはこの際しかたがありません。また別のプラグ氏を連れてくればよろしい。問題は彼の頭がぽろっと取れてしまったことよりも、部屋の枕元に生首を放置したままではホテルが機能しなくなる、という点にあるのです。

この状態ではとても次の客を入れる(=別のプラグをさしこむ)ことなどできないし、しかもこのホテルときたらそもそも部屋がこの一室しかありません。

傾けて転がり出てくれるならよいけれど、実際にはこの空間が数ミリの直径しかなく、おまけに内部でしっかりと固定されています。ピンセットもろくすっぽ入らない状態で、いったいこれをどうやって取り出せというのか?

経年による老朽化ならあきらめもつきましょう。あるいは気軽に「まあいいや、ホテルの1軒や2軒」と肩をすくめることができるならそれもよろしい。しかし手に入れたのはついひと月くらい前の話だし、元よりそれをうっちゃれるほど太い腹を持ち合わせてもいないのです。これが恐怖でなくて何だというのだ。


しかし打てる手がなさそうに見えるからといって、手をこまねいているわけにもいきません。ムチャをすればすべてが台無しになるかもしれないけれど、といって何もしなければしないで使えないのだから結果としては同じです。どうせ散るなら華々しく散りたい。


そう開き直ってピンセットの先端をムリにごりごり突っ込んでいたら、今度は「カラン」と妙な音がするのです。

カラン?

というのはつまり何かが転がり落ちた音であり、何かが転がり落ちるとすればそれはもうほぼまちがいなく先の生首であり、しかも「落ちる」ということはそれまで行き止まりだとばかりおもっていた空間の先にじつはさらなる空間が広がっていたらしいことを意味しています。

たぶんこういうことだとおもう。



ますます取り出せなくなった!





とおもって一瞬絶望したんだけど、よく考えたらひとまず生首が枕元にないのだから素知らぬ顔で次の客を入れることはできそうじゃないか…




そういうわけで、カプセルホテルは今日も元気に稼働中です。生首は今も転がり落ちたままだけど、愛さえあれば関係ないよね!





※注:オーディオインターフェイスとそこに差し込んだ標準プラグの話です。

2012年9月25日火曜日

電気的アスパラガス、あるいはプラグ氏の災難について 前編


数日前まで自他ともに認めるほどのアツアツぶりだったのに、どういうわけか一夜明けたらいきなり冷めていて、取りつく島もありません。おねだりするような上目遣いが、今や部屋の隅に転がるわたぼこりでも見下ろすような目つきです。心変わりの理由がちっともわからないまま、うすっぺらい布団にくるまって何となくちぢこまっています。戻ってほしいとは言わないし、終わりなら終わりでそれはしかたがないけれど、せめてきちんと話し合いをもって円満に別れを迎えたい。いくらなんでも冷たすぎるじゃないか?


季節の話です。唐突に秋ですね。


世の中には終わりたくても終われないねじれた関係もあるというのに、じつにあっさりしたことだとおもう。


それはそれとしてある日オーディオインターフェイスからヘッドホンの端子(というか変換プラグ)を抜いたら、先っちょがこんなことになっているのです。



わかる人にはこれだけでその恐怖(文字通りその一端)がおわかりいただけるとおもいますが、しかしやはりひとこと説明申し上げておかねばなりますまい。

オーディオインターフェイスというのは音響機器と編集機器(たとえばPC)を仲介する機械のことです。いろいろな種類とグレードがあるにせよ、楽器の演奏や声をPCに取りこむ場合はまずこの機械を介して行われます。残念ながらというべきかむしろ必然というべきか(←このへんに葛藤が感じられる)、僕にとっての主な用途はレコードの録音とその保存ですが、これは設備の整ったプロの厨房でお茶漬けをこしらえるような使い方であって、あまり大きな声では言えません。

ともあれよほど特殊な大家さんでないかぎり、住居の賃貸には不動産屋を介すのとだいたい同じ構図と言ってよいでしょう。この例で言うと、大家さんがPC、住人が外部音源、インターフェイスが不動産屋、ということになります。

また、こうして取りこんだ音を鳴らすときも、同じようにこのインターフェイスを介して出力されます。ヘッドホンを挿していたのは、つまり取り込んだ音をそこから鳴らしていたためです。

ヘッドホンやイヤホンを音楽プレイヤー等に差しこむ端子(先っちょ)はわりと多くの人が日ごろ目にしているとおもいますが、あれはミニプラグと言ってほぼ再生機器専用の規格です。一般的な音響機器に使われるプラグはもうちょっと大きくて、もやしとアスパラガスくらいのちがいがあります。先に示した画像はアスパラのほうなのですね。

それがこれ。



おわかりいただけましたか?

ではあらためてもう一度、先の画像を見てみましょう。




…おわかりいただけましたか?



じわじわっとこの恐怖が伝わりはじめたかしら、というところで次回につづく。

2012年9月22日土曜日

火災報知器とかけてシイタケととく心の話


うっかり気を抜くと日々がテケテケと小走りで去っていきますね。チャリで追いつけたらいいのにとおもう。

先だって参加したDJではとくに大難もなく、あえて言うなら1ミリくらいの瑕疵ですみました(フェーダーの右と左をまちがえた)。ホントに好きな曲ばっかりかけたので満足です。オープン直後だし、誰もいないと高を括ってかけた1曲目だけ載せておきましょう。

あげてよかった/ペア・スズラン


ふむ…何をでしょうね?



それはそうと、ウチはキッチン脇の壁に火災報知器があるのです。

取り付けたってそのために楽しくなるわけじゃなし、もうかれこれ長いこと住み着いていて1年前までなかったのだからべつに必要も感じていなかったのだけれど、ある次第から設置しなくてはいけないようなことになったので、「そうですか」と是非なく成り行きを見守った結果、今は壁のあらたな出っぱりとしてそこに報知器がしがみ付いています。

「いちおう取り外しができるようになっていますので…」
「はァ」
「火事ではないのに作動した場合は外してください」
「外すと止まるんですか」
「煙を感知しなくなれば止まります」

煙もないのに誤作動した場合はどうするのだ、という思いがふとよぎったものの、そのときはトンカチで粉々にしてやればいいし、根掘り葉掘りたずねて業者を困らせることもあるまいと思い直すあたり、われながら大人になったものだとおもう。だいたいこれはいざというときの備えであって、作動しなくて当たり前の機械じゃありませんか。いちいちほじくり返すほうがおかしい。心配するならむしろ火事を心配したまえよ君、と言われればそういう気もする。


ところがいざ設置してみたら豈図らんや、コイツがまた全身性感帯みたいなビンカンさでのべつまくなしにビービー鳴りやがるのです。たいがいにしろよコノヤロウ、とこれまでに何度堪忍袋の緒を切ってきたかわからない。

もちろん誤作動をしているわけではありません。ちゃんと煙を感知しています。見方を変えれば身を粉にしてせっせと働いてくれているだけと言うこともできる。

ではなぜ煙が出るかというと、ウチはコンロでコーヒー豆を煎っているからです。ロースターという専用の機械を使わずにただ火で煎ろうとすれば、油分をふくむコーヒー豆はその過程でかならず煙が出ます。

ただ換気扇を回せばそれで事足りるくらいの煙です。それに20年来くり返してきた習慣でもあるから、今さら気にもならない。実家にいた10代のころは豆の焼けるにおいに父親が辟易していた(ときどき本気で腹を立てていた)けれど、報知器にしてみたら部屋にどれだけにおいが立ち籠めていようと関係ありますまい。

問題は感知器の性能がこっちの望む以上に良すぎることと、僕が三日にあげずコーヒーを煎る、どちらかといえば特殊なその習慣にあります。三日にあげずということは、つまりそのたびに必ず感知器が大きく息を吸ってビービーわめくのです。

おまけにその音ときたらゾッとするような高音で、わかっていても耳にすると身がすくみます。その上「火事です。火事です」と親切に音声アナウンスまでのっけてくるのだから、どうにもなりません。緊急事態を知らせる警告音なんだからあたりまえだけど、しかしこれを風が心地よい秋口のおだやかな宵に聞かされてご覧なさい。おまけに3日に1度は欠かさず鳴り響くとなったら、ちゃぶ台をひっくり返した挙げ句マシンガンで蜂の巣にしたくなるのも道理といえましょう。もうほっといてほしい。

そういうわけで昨夜もきっちりビービーと鳴り響き、全身の毛を逆立てながら電光石火でベランダにぽいとうっちゃっておいたのだけれど、朝になってふと思い出して窓を開けてみたら



シイタケと一緒に文字どおり干されているのです。


ぜんぜん意図していなかったこともあって、落語のオチみたいな偶然の光景にポンとひざを打つわたくし。

優秀すぎてひどく扱いづらい火災報知器にも、山田くんに座布団をもってきてもらうくらいの価値はあるらしい。



※意味のわからないおともだちは「干す」を辞書でしらべてみよう!

2012年9月10日月曜日

両面こんがりなパンケーキとしての手のひら的告知




あっ



そうだ、ちいさな告知を忘れていた。


もうDJなんてしない!」とめそめそしながら宣言したあの日から1年……。「またやらへん?」と請われて「あ、いいですよ」と手のひらを返すくらいには負った傷のかさぶたもとれ、ふたたびレコードを回す日がやってまいりました。思い返せばあんなに打ちのめされていたのに、懲りないことだとおもう。先のが上の句だとすれば、それを受ける下の句は「…なんて言わないよぜったい」となるはずですが、素知らぬ顔で手のひらを返すのは僕の専売特許でもあるから、たぶんまた素知らぬ顔で同じことを言うでしょう。ことあるごとにくるくる返してきたものだから、今じゃどっちが表でどっちが裏だかわかりゃしません。パンケーキなら両面こんがりとキツネ色に焼けて、いいかんじに食べごろのはずだぞ!


9/15 渋谷 7th floor
UNDER THE WILLOW NITE
OPEN 24:00~
CHARGE 2,000(including 2 drink tickets)

LIVE: タケウチカズタケ solo with DJ TOKNOW /
KO-ney (MPC player) + 砂山“sunapanng”淳一 (Bass) + タケウチカズタケ (Key) SP session/
Resident DJ: TOKNOW(Romancrew)
GUEST DJs: 小林大吾 / Killy Gackley
Food: 音柳食堂

多彩なゲスト陣


ライブゲストには、全編MPC生演奏による「PROPS(NO SEQEUNCE RMX)/KREVA」が、
KREVA本人のブログにて賞賛された若手筆頭のMPCプレイヤー KO-ney を迎え、45trioをはじめ数多くのセッションでその深い音を響かせるベースプレイヤー、砂山“sunapanng”淳一と共にドラムレスの新感覚バンドセッションを……


と告知文にありますが、カタカナとアルファベットばかりでいまいちピンとこない僕みたいな人のために解きほぐすと、本来楽器ではないMPCをプレイする、というのはこういうことです↓




すごいな!

つまりこれとベースとキーボードでセッションをするわけですね。たーのしそう!


「盛り上がるとか気にしないでいいから」
それはそもそもムリな話です
「好きな曲かけてくれたらいいよ」
「そんなら僕ディープソウルとか回しちゃいますよ」
「ええで、全然」


ディープソウルというのはたとえばこういう範疇の音楽です↓


塩っ辛い!

おまけに晩年のジェイムズ・カー、めちゃめちゃカッコいい…!


そういうわけなので、ぜんぜん躍れないレコードをいっぱいもっていこうとおもいます。そして行く先のターンテーブルに付属していようとなかろうと、7インチホルダーは忘れずに持参したい。


可愛いのもかけるよ




それにしてもこのブログが音楽にふれてるのってすごく新鮮な気がするけど、なぜでしょうね?


2012年9月5日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その110


しゃちほこバルさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)地下鉄極楽鳥線エドガー橋駅から徒歩3分のところにある、最近注目のスペインバルですね。


Q: 来年"バイクで日本一周"する予定なんですが、「ココだけは行っといた方が・見といた方が・食べといた方がいい!!」という所教えて欲しいです。


や、しまった。これはもっと早くに答えておくべきだったぞ」と後から気がついて脂汗をたらすことがときどき……というかわりと頻繁にあるんだけれど、これもそのひとつです。質問をいただいたのが去年の年末で、今はといえばそろそろ秋のにおいが立ちはじめるころですから、控えめに考えても一周どころかすでに三周目に突入されているような気がします。しかしまあ、歩みののろさでいったら三輪車にもひけをとらないブログです。そのへんはうやむやなかんじであんまり気にしないでください。

それにしても日本一周とはまた夢のある話ですね。バイクとはいえ、こまめに回っていたらどれくらいの日数を要するのか、想像もつきません。人生をゆさぶるような出会いや体験はありましたか?

僕自身はさほど旅人気質でないこともあって、オススメできるほど多くの土地を知りません。知らない土地をぶらぶらとねり歩くのは好きだし、おもわず感嘆の声を上げるような景勝地や万人の舌を唸らす美味もいくつか経験しているとおもうけれど、それだってたかが知れています。何かあったかしらと首をひねったら、茨城県にある友部というサービスエリアが真っ先に思い浮かんだくらいです。せっかく日本を一周するんだからもっと他にこう、ファンタスティックな物とか場所がありそうなのに、しようのないことですね。

ちなみになぜこのサービスエリアが印象にのこっているのかというと、露店で売られていた今川焼があまりにおいしくて、食べ終えたそばから踵を返してけっきょく20個も買って帰ったからです。「なぜこんなにおいしいのですか」と訊ねたら「小麦粉を3種類ブレンドしてるんだけど、それでかな」と威張るでもなく控えめに照れ笑いを浮かべたおじさんの人柄も忘れがたい。そう、とにかく皮がおいしかった。いくら粉モノ好きとはいえ、20個も買ったのは後にも先にもこのときだけです。ただし、同行した友人2人は「ふつうじゃん」とにべもなかったことを公平に記しておかねばなりますまい。

しかし僕にとって大事なのは、こうしたちいさな驚きです。おおきな驚きにだけ目をとめるくせをつけてしまうと、あちこちに転がっているちいさな驚きを見逃してしまいます。地平線まで広がる大草原も、ベランダの端っこにちんまりと生きる苔も、その美しさにちがいはないのに、ともすると感動を「機会の少なさ」でランク付けしてしまいかねません。そしていったんランク付けをすると、以降ちょっとした感動では物足りなくなっていきます。僕としては死ぬまでちょっとしたことでいちいち不思議を感じていたいのです。(※話をすり替えようとしています

そうした視点で見渡せば、それこそ日々は驚きの連続です。ある一日に見かけた風景を例に挙げましょう。



近未来っぽいけどよく考えたらべつに未来ではない電気店



マンションの一室すぎてどうしても入る勇気がでなかった書店



初めて聞くのにものすごい既視感をおぼえる丼



この視点さえキープできれば、どんな土地でも目いっぱい楽しめることうけあいです。


……


という具合にうまく煙に巻いてもいいのですが、そんなひねくれたことを言ってもはじまらないし、一箇所だけ挙げるとするなら、大阪の舞洲という人工島にあるゴミ焼却場(大阪市環境局舞洲工場)をピンポイントでオススメしましょう。


かのフンデルトヴァッサー(Hundertwasser)が設計した、なんてことは知らなくてもかまいません。「ゴミ処理場?これが?」とただ呆気にとられて立ち尽くせばそれでよいのです。見る価値あるよ!


A: 大阪市環境局舞洲工場


それからこれはおまけみたいな話ですが、僕の母親は旅先でかならず油揚げを買ってきます。「なんで?」と訊いたら「食べればわかるよ」と言われました。なぜ油揚げなのかよくわからないけど、彼女曰く顕著に土地ごとのちがいが出るらしい。原料はどこだって同じのはずなのに、ふしぎですね。






質問はいまも24時間受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



 その111につづく!

2012年9月1日土曜日

池袋で力尽きた1匹の魚について考える午後




ある日、ベランダからふと下を見やると…





魚が1匹、駐車場に寝そべっているのです。




どうもアジのようにみえるけれど、日本人にはなじみ深いごくごくありふれた魚だし、アジならアジでそれはべつによろしい。問題は海から遠く離れたアスファルトの上に魚がゴロリと寝そべっていることは一般的に言ってあまりない、ということです。

似たようなケースに、「路上におけるバナナの皮問題」があります。ある種の文化的プロパガンダによってわたしたちはそれを一見して何でもない光景のひとつとしてスルーしがちですが、以前にもここですこしふれたように、路上にバナナの皮が落ちている状況というのはよくよく考えてみるといささか腑に落ちません。そこに至るまでの過程を巻き戻してみましょう。

 バナナの皮が落ちているということは、まず間違いなくそれを食べた人がいるはずです。しかし歩きながらバナナを頬張る人を見かける機会はほとんどありません。仮に「ただ見たことがないだけ」だとしても、アイスやお菓子にくらべて一房に何本もくっついてくるバナナは、どうしたって買い食いには不向きです。

もちろん、「好きだから」という単純にして明快な理由は十分に考えられます。べつに買い食いがしたかったわけではなくて、野菜その他を買うついでだったかもしれないし、ただバナナが欲しかっただけかもしれない。それは当然、ありうることです。ミス・スパンコールもちょいちょいバナナを買ってきては真っ黒になるまで放ったらかして、そのたびにガミガミとやかましく叱られています。

しかしさらにその皮を路上に捨てていくとなると、厚顔無恥が必要という点でこれはちょっとハードルの高い行為です。ただでさえさほど多いとも思われない、歩きながらバナナを食べる人々が、みな例外なくその皮を道にポイと捨てていくとは考えにくい。該当する人の数はさらに減るとみて間違いありません。ですよね?

にもかかわらず、よいですか、経験的に言って道にバナナの皮が落ちているのを見かける確率は、人が歩きながらバナナを食べ、かつその皮を捨てる確率よりもはるかに高い気がするのです。



脱線しすぎて何の話だったか忘れてしまうじゃないか。



だからえーと、つまり1匹の魚がアスファルトに寝そべっているというのは、これのさらに上をいく希有な光景である、と言わねばなりますまい。

買ってきた魚を1匹だけ落とすのも釈然としないし、どこかのネコが昼食に与えられたものだとしたら拾わずに去るのもへんだし、過程がちっとも想像できない。

空からカエルや魚がポイポイ降ってくる現象なら古代ローマの時代から記録されているそうじゃないか、と仰る碩学の方もおられましょうが、あいにくこっちはそんな科学的な講釈なんかより、ただおもしろいものをみつけたからああでもないこうでもないとヤイヤイ言いたいだけなのです。

みずからの足(ヒレ)で水を求めて方々をさまよいつづけたあげく、池袋の片隅でとうとう力尽きたのだとすれば、どうです、これくらい気の毒な話もないでしょうが?人なら海と同じ濃度の塩水を用意することもできるのに!



とまあこんな具合にヤイヤイと騒ぎ立てる9月です。早いですね。