2022年5月27日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その376


ドライブ・マイ・リヤカーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 姪っ子がシルバニアファミリーにハマりました。最初は小さな一軒家と4人の家族でしたかが、気づけば8人の家族に三階建ての家とハンバーガーショップとツリーハウスと赤いレンガの別荘とオマケみたいな一軒家に住んでいます。明らかに建物ばかり増えています、おそらくこれからも住民よりも建物がメインに増えていきそうです。姪っ子に、ゴーストタウン化する前に建物ではなく、住民に興味を持ってもらうにはどうすればいいのでしょうか?


ふむ、率直に申し上げてこれは典型的な、よくない大人の見本というやつですね。大人というのは往々にして「こういう時、ふつうはこう」という固定観念に囚われすぎています。道徳と倫理はともかく、それ以外で持ち出すには注意が必要な考え方のひとつです。そしてそれはまた、「物事にはそれ相応の正しい向き合い方がある」と思い込んでいる証でもあります。しかし実際のところ、そんなものはありません。

まず、正しさというものについて認識を改めましょう。誤解されがちですが、それはあくまで、徹頭徹尾、主観的なものです。時として客観的にも正しく見えるのは、大多数の人がそう考えるからであり、だから正しいには直結しません。それはあくまで、多くの人がそう考えるという相対的な合意の結果にすぎないのです。

相対的なものであるという認識に立てば「そういう人もいる」で済みますが、絶対的なものであるという認識に立った途端、そうでない人は矯正すべき異端にカテゴライズされてしまいます。なんなら排除すべきであるという圧力も生まれるでしょう。世に蔓延る対立のほぼすべてがここに端を発していると肝に銘じてください。

いやいや、シルバニアファミリーの話だからと仰りたい気持ちはわかります。しかし、そうあるべきという矯正的視点に大も小もありません。些細なことでもそう思うなら、重大なことではなおのことそう考えると受け止めるのが自然です。

そもそも、建物がやたらと増えたからといって住民に興味がないことにもなりません。それどころか逆に住民ひとりひとりの設定がより深まった結果かもしれないのです。それぞれのキャラクターに細かく性格や行動を肉付けしていくとなったら、僕だって80人より8人を選ぶし、空想がふくらめば服や建物も増やしたいとおもう。

そしてまた、仮にキャラクターよりもその付属品に異常な興味を示したとしても、なぜそれがあまり好ましくないのか、ここにも一考の余地があります。できればそうでないほうがいいと考えることにどれほどの理と根拠があるのか、今一度、よーく考えてみましょう。たぶん全然、ないはずです。「普通はこうだと思うけど……」は単なる印象であって理でも根拠でもありません。

したがって僕の結論としては、放置一択になります。だいたい、大人が良かれと思って子どもに干渉するとろくなことになりません。同じようにかつて子どもだった僕らはそれをイヤというほどよく知っているはずだし、だとすれば道を踏み外しそうなときだけ支えられれば十分です。

僕も気づいたら無限に枝分かれする子どもの未来を先入観から無自覚に剪定してしまうような大人になっていないか、ときどき立ち止まろうと思います、なるべく。


A. 放っておきましょう。




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その377につづく! 
 

2022年5月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その375


トロイの三角木馬さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 接客業をしていると、時折理不尽な「神様」が降臨するのですが、そんな時にじぶんのメンタルを保つお呪いを教えてください。(絶賛凹み中)


よくわかります。よくわかる理由をさんざん書き連ねた挙句思い直してぜんぶ削除しましたが、よくわかります。とりあえず僕の記憶にある接客は、アルスクモノイの店番を除けば、まだ10代だったころに確か天ぷら付きそうめんをコントよろしくお客さんの全身に丸ごとぶちまけてしまったうどん屋でのアルバイトが最後です。そんな僕がよく効くおまじないを知っていたら、今ごろスーパー店員としてTikTokあたりを賑わしていたに違いありません。

いつの世も、理不尽な人は一定数存在する、それは事実です。そしてなお悪いことに、下の世代の手本であるべき年代になってもまだ傍若無人であり続ける人がわりと普通にいる、これも事実です。中には子や孫のある人もいるし、いったいこれまでどうやって周囲と折り合いをつけてきたんだと絶句せずにはいられないけれども、はっきりしているのはどれだけ顰蹙を買いまくろうと、彼らは今もひとりの大人として生を全うしている、ということです。

もちろん、鉄面皮と言ってしまえばそれまでです。ただ、理不尽の権化でさえのびのびと暮らせてしまうのがこの世界なのだとしたら、実は僕らがふだん当たり前に受け止めていることこそ全然当たり前なんかではなく、むしろ奇跡にも近いように思われてくるのです。

唾を吐いたり、喚き散らしたり、身勝手な言動を繰り返しても、人は平気で生きていくことができます。にもかかわらずほぼすべての人々がそうしないのは、そう振る舞わないことの美しさと心地よさを知っているからです。ほぼすべての人々がですよ!それはもう本当に、ぜんぜん当たり前のことではない、すごいことだと今の僕はしんみり思います。

石ころにつまずいてしょんぼりしていたけれども、ふと顔を上げたら周囲に可憐な花がいっぱい咲いていることに気づいた、そんな心境ですね。

足を掬ってくる石ころは、この先もありとあらゆる道に落ちています。その代わり、世界が石ころで埋め尽くされることもありません。そしてよくよく見れば、誰も気づかないくらいの小さな花を植えてくれる人がたくさんいたことにも気づきます。花に気づいたら自分もそれに倣って小さいのを植えてみる、そんな日々です。

あと、おまじないで僕が昔から好きなのは、少なくとも2世紀から伝わっているという「アブラカダブラ(Abracadabra)です。その語源や意味にも諸説あるらしいのだけれど、いちばん好きなのは「Disappear like this word(この言葉のように消えてなくなれ)」という解釈ですね。何と言っても詩的なのに峻烈でグッとくるものがあります。この言葉のように消えてなくなれ……とつぶやいて煙のように消え失せるのは心の傷か、はたまた理不尽な客そのものか、ためしにつぶやいてみる甲斐はありそうじゃないですか?

何の解決にもなってない気がするけれど、数多の客を代表して僕からもお礼を言わせてください。いつもありがとう!


A. 「アブラカダブラ」、おすすめです。




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その376につづく! 

2022年5月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その374


前回は5年前の質問だったので、今回は4年前のにいたしましょう。とある科学の正露丸さんからの質問です。


Q. どうしたら好きな人と付き合えますか?


単刀直入にして深淵かつ究極の、それがわかりゃ誰も苦労はしない質問のひとつですね。「どうしたら世界は平和になるのか」に近いものがあります。決して当たり前のことではないし、なし得たとしてもいつまで続くのかもわからないことを考えると、両思いもまた争い続ける人類の、ごく個人的な停戦にすぎないのかもしれません。

これは常々おもっていたことだけれど、人は恋をする時点で、相手のことをほぼ何も知りません。外見と、表面上もしくは内面からにじむ性格のごく一部を知っているだけです。すでに20年連れ添っている僕ですら、いまだに知らなかったと驚かされるくらいだし、はじまりの時点で相手についてわかっていることなど爪先ほどにすぎない、と断言してよいでしょう。そしてまた爪先だけで相手のすべてを受け入れられる気になってしまうのだから、恋とは結局のところ何なのか、推して知るべしです。

また、好きな人と付き合ったからといって、その先も連れ添えるとは限りません。むしろそれはぜんぜん別種の問題であって、10年付き合うこととひとつ屋根の下に1年暮らすのとではそれこそ本マグロとツナ缶くらいの違いがあります。お互いの生活習慣を端から端まで丸ごと共有した上で、10年目も1年目と完全に同じ気持ちでいられるほうがはるかにレアケースです。人も羨む大恋愛の末に数年であっさり破綻とか、そんな例はわりと普通に転がっています。さもありなんと肩をすくめるほかありません。げに恋とは、相手のことを知らないときだけそれを養分にして咲く花でもあるのです。

さて、その上でとにかく付き合うというただその一点にすべてを賭けるなら、というのはつまりその先を100%度外視するならですが、方法はいろいろあります。

全財産を投げ打ったり、嘘八百を並べ立ててうまいこと丸めこんだり、ディープフェイクで別人になりすましたり、その合わせ技でもいいし、なんならもっとストレートに自分と相手以外の人類を滅ぼすとか、もうすこし現実的にいくなら独裁政権を打ち立てるとか、ちょっとテクニカルなところではストックホルム症候群なんかを活用するのもいいでしょう。個人的にオススメなのはやはり、地球上の人類を2人だけにすることですね。新世界の王にもなれて言うことありません。

その先に待ち受けるのが弩級の破滅であろうと、それは付き合ってから考えればよろしい。付き合うというのは多かれ少なかれ互いに自分を良く見せようとする鍔迫り合いなわけだし、だとすれば道徳や倫理などせいぜい程度の差に過ぎません。たとえ地獄に落ちるとしても、今さえよければどうあれよし、それが恋というものです。

率直に申し上げて、「どうすれば付き合えるか」と問う時点で先は見えています。なんとなればそれはゲームの攻略に似て、相手を慮る視点が致命的に欠けているからです。

自分を見てほしいという気持ちは痛いほどよくわかるし誰だってそうだと思いますが、できれば人にはその人にしかわからない幸せがあるという当たり前の現実を胸に刻んでおきましょう。その結果、ただ手に入れるのとは違ってできることがかなり限られてくるけれど、少なくとも大切な人を傷つけることだけは避けられるし、うまくいけばその先の安穏もある程度は保証されます。

そしてもし、相手を思いやる気持ちに達することができたら、じつはたったひとつだけ、チート級のすごい技があるのです。もちろん誰にでもできるわけではないし、そのハードルは火星のオリンポス山よりもはるかに高いですが、可能性で言えば決してゼロではありません。挑む甲斐は間違いなくあります。

それは、世界中の誰も太刀打ちできない全方位の魅力を身につけることです。誰よりも魅力的であれば、こちらが何もしなくとも、向こうから目をハートにして近づいてきます。世に並ぶ者のない天下無双とはすなわちこのことです。誰も傷つけず、何も失わず、生涯を通じて栄光に包まれ続けます。これ以上の完璧なプランが他にあるだろうか?

とりあえず「どうすれば付き合えるか」という一方的な思考回路を取り外すことから始めましょう。がんばってください。


A. 天下無双になることです。




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その375につづく! 

2022年5月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その373


未確認飛行仏陀さんから5年前にいただいた質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. まわりの人をもっと信じたいのですが、仲良くなってもどこか距離をおいてしまって心をゆるせません。ひとと深い関係になるための心構えをおしえてください…!


これは完全に僕ですね。何しろ5年前の話なのでひょっとするととっくにお答えしているかもしれませんが、そうだとすればうっかり2度お答えしてしまうくらいには完全に僕だし、それどころかもし3度目だったらどうしようと不安になるくらいには完全に僕です。僕である以上、3回とも互いに矛盾する全然ちがう話をしかねません。これが初めてであることを願うばかりです。

それはまあそれとして完全に僕のことであると仮定してお話しすると、たぶんこれ「人を信じられない」「距離を置いてしまう」「心をゆるせない」というより、むしろ「過剰に怯んで身構えてしまう」なんですよね。なんとなれば本人はみんなみたいにもっとナチュラルに距離を縮められたらいいのにと望んでいるし、そうしたいのにどうもうまくできない不随意な性質に思い悩んでいるからです。外からは意識的な拒絶に見えても、内実はかなり違います。ですよね?

また怯む気持ちもひとつではなくて、たとえば傷つくのが怖いとか、相手の重荷になってしまうんじゃないかとか、ガードや気遣いが複雑に絡まり合った結果、無意識に安全とおもえるだけの距離を確保してしまう傾向があります。とにかく難を避けようとする小動物の本能に近い。

さて、その上でひとつ胸に刻んでおきたいのは「人と深い関係になるための心構え」など存在しない、ということです。そもそも多くの人はそこまでいちいち考えません。なるようにしかならない中で自然と相対的に距離が縮まったりいつまでも縮まらなかったりします。自分の身に置き換えてみるとわかりますが、ただでさえ身構えて距離を置いてしまうのに、その状態から深い関係になりたいと望む人を受け入れることなどできるものだろうか?

むりですよね?

だとすればまず自らがその考えを捨てなくてはいけません。

人との関係は、意識してどうなるものでもありません。それは距離下手な僕らに限らず、誰でも同じです。僕らから見てうまくやっているように見える人々というのは、実際のところうまくいったりいかなかったりを僕らよりもはるかに多く繰り返しています。そしておそらく、それがすべてです。特に人と違った向き合い方をしているのではなく、ただ幾度となく繰り返すうちにその一部が残るべくして残っただけなのです。単に回数の差でしかないと言い換えてもよいでしょう。

いつもたどり着く結論のひとつではあるけれど、大事なのはどうあれ自分を良し悪しまるごと、そういうものとして受け入れることです。自らを否定すれば、それは当然、他者の否定にもつながります。裏を返せば、自分を肯定するだけで他者との親和性が高まるとも言えるのです。それを踏まえた上で、深呼吸をして、体と心の力を抜き、もうすこし長い目で見つめるように努めましょう。

信じきれなくても、距離を置かずにいられなくても、否定さえしなければ、最終的に残るものはいやでも残ります。今でこそ僕と分かち難く結びついているように見える安田タイル工業の専務だって、10年前は本当に全然、そんな感じじゃなかったですよ。むしろあいつら仲いいなあと遠巻きに眺めていたくらいだし、なんでこんなことになってんだと今でもときどき首を傾げているくらいです。


A. 自身をまるごと受け止められるように、少しずつでも努めましょう。




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その374につづく!