2024年4月26日金曜日

儚く散ったちいさな花とその供養のために


さてまたひとつ、供養のために書き残しておきましょう。

本当にやむを得ない、運がなかったとしか言いようがない、誰も責められない状況でお蔵入りとなった案件がありました。電車のマナーポスターです。

マナーポスターには個人的に以前からすこし思うところがありました。これはそもそも誰のためにあるものなんだろうか?

何しろポスターを目にする圧倒的大多数の人はすでにマナーを身につけています。彼らにとってそれはわざわざ言われるまでもなく当たり前のことであり、特に啓発の意味を持ちません。

それでいて、掲げられたメッセージは「ダメ」「NO」「しないで」等々、すべからくネガティブです。マナー向上のためなんだからこれも当たり前と言えば当たり前なんだけど、これではその行為をただ非難しているだけのようにも思われます。できればこうあってほしいということを伝えるのに、非難が必要かと言ったら必ずしもそうではないはずだし、マナーを大切にしている多くの人も目にするわけだから、ポジティブとまでは言わないにしてもネガティブではない、別のアプローチがあってもいいんじゃないだろうか?

とすれば最低限の注意を喚起しつつ、マナー違反を責めない(←重要)、それでいて目を留めた人がちょっと和むようなもののほうがはるかに共有もしやすく、また結果としてメッセージも浸透しやすくなるのではないのか、何ならちょっと意味がわからないくらいのほうがよほど心に残って多くの人の日々を彩るだろうし、全方位にハッピーで丸く収まりそうな気もするのです。

そんなことを考えながらせっせとこしらえ、満を持して提出し、クライアントからもばっちり好感を得ることができ(←これも重要)、ではこれでいきましょうというまさにその絶妙なタイミングでいくつかの不幸な偶然が重なった結果、やむなく白紙となってしまったポスター案がこちらです。








今みてもわるくないし、こんなポスター貼ってあったらいいのにとしんみり思います。どこかが採用してくれてもいいんだぞ。

2024年4月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その424


ジャンヌダルいさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 某猫型ロボットのポケットに新たな道具の開発チームに配属され3つアイデアを出せと上司から命令があったらどんな道具のアイデアにしますか?


無限の夢があって悩む甲斐のあるすてきな質問です。

しかし一方で、今の僕には昔なら考えもしなかったひんやりした現実を突きつけられているような気がしないでもありません。というのも、いい年をしたおっさんはすでに「あんなこといいな、できたらいいな」とはあまり考えなくなっているからです。子どもたちと共有できるほどやわらかな夢を見るにはあまりにも多くの、それができりゃ苦労はしねえんだよ的な苦渋を味わいすぎている。

開発チームに配属されたものの一向にアイデアが出ず、年齢もあって早々にチームのお荷物として腫れ物扱いになり、誰も彼もがひそひそと自分の噂をしているように感じられ、終電を逃した駅のベンチで「こんなことならいっそ…」と思い詰める未来しか見えません。

そんな身も心も重たいリストラ間近の僕が提案したいのは、「絶賛マイク」です。

このマイクを通した発言は、どんなにしょうもないことであっても破壊的な説得力をもち、半径5メートル以内の人を強制的に同意させてしまいます。これさえあればひみつ道具開発チームのお荷物になることなく、すべてのプレゼンが圧倒的大多数の賛意を集め、リストラを回避できること請け合いです。ただあくまで同意させるだけなので、開発チームの生産性が著しく低下したあげく解体されるリスクもなくはないですが、そのへんはまあ、出世コースを邁進する優秀な同僚がどうにかしてくれるでしょう。人生の瀬戸際にある僕が考えることではない。

それからふと思いついてちょっとほしいのは「100年ボックス」です。電子レンジみたいなイメージで、中に入れたものの時間を前後100年まで操作できます。操作後の時間を新たな起点にリセットできるので、根気よく繰り返せばトータル1億年も可能です。たとえば今のスマホが100年後にどんなデバイスになっているのか、あるいはスマホに対応していると言えそうな道具を何年前まで遡れるのか、といったことが確認できます。スマホはちょっと多機能すぎて「機能をひとつに限定してください」みたいなエラーが出そうですけど。

明らかに対応するものが存在しない年代まで到達すると、中に入れたものは消えます。つまり、中に入れたものが歴史に登場する年代をある程度まで特定できるわけですね。特にいま当たり前にある料理なんかは、どこまで遡れるのか見てみたい。国民食であるカレーライスにしても昭和初期と今では作り方も味もぜんぜん違うっぽいし、今でこそおしゃれスイーツみたいなことになってるマカロンも最初は単なるクッキーみたいな菓子だったらしいですよ。

3つ目は「足の小指エアバッグ」です。タンスの角にぶつけても大丈夫、指先タイプと靴下タイプの2種類があります。

唯一の懸念はタンスという家具がこの先いつまで存在するのかという点ですが、仮にタンスが歴史から消え去ったとしても、足の小指はどうあれぶつけるものと相場が決まっているので、タンスに代わる新たな障壁が立ちはだかることになるでしょう。オーバーテクノロジーの粋を集めて、脆弱な足の小指を守ろう。

どれもこれも既出だったらすみません。こうなるとむしろ既出でないものがひとつでもあれば勝ちって感じもするな…。


A. 「絶賛マイク」「100年ボックス」「足の小指エアバッグ」の3点です。




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その425につづく!

2024年4月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その423


アタフタヌーンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 好きな食べ物は先に食べる派ですか?後に食べる派ですか?


これはですね、どシンプルに思えるし実際どうでもいいことこの上ない話ではあるんだけど、考え始めるとなかなか奥行きがあります。

先であれ後であれ理由は基本的にどちらも同じです。そのほうが喜びが大きい。ですよね?好きなものを食べることの意味と価値もそっくり同じはずだし、にもかかわらずなぜ人によって着地が真逆になるのかという話にはあんまりなりません。互いにわかり合うことなく「へぇ〜」で終わります。不思議というほかない。

今の僕はどちらかというと先に食べる派です。でも昔は迷わず最後に食べる派でした。どの時点で変わったのか、ぜんぜん記憶にありません。気づいたらそうなっていた。

それを踏まえてつらつら思い返してみると、後で食べるのは食べたらなくなってしまうという気持ちが大きく作用していたような気がします。昔は深く考えなかったし、最後のひと口が好物ってうれしいじゃんくらいにしか思ってなかったけど、突き詰めるとどうも失うことの悲しみを無意識に避けようとしていた節がある。ごはんはまだあるのにいちばん好きなものはもうない、みたいなね。でも最後のひと口なら食事も終わりなので、そんな気持ちになることもない。

とくに子どものころなんかは食事に対する主体性がかなり薄いし、次にいつ食べられるかわからないこともあってなおさら別れを惜しむようなところがあったかもしれません。

翻って今の僕は単純に食事ができることの喜びを、大げさでなく毎日ひしひしと感じています。この心境における好物にはもはやありがたみすら感じるくらいです。もちろん昔ほどたくさん食べなくなったとか、いちばん美味しいタイミングで食べたいとか他のいろんな要素が絡んでくるとはおもうけど、いずれにしても得られることの喜びが大きい。食べたらなくなることよりも、むしろ食べられることのほうに比重が置かれています。

以上のことから考えるに、好きな食べものを先に食べるか後に食べるかを決めるのはおそらく、「失うことの悲しみ」と「得られることの喜び」の天秤です。喜びに傾く場合は先に食べる、悲しみに傾く場合は後に食べる、ということですね。傾きが大きい場合もあれば小さい場合もあるから、白黒というより相対的かつ流動的で、これなら僕が立場を変えたのも頷けます。

そもそもそんなこと聞かれてないので回答としては一言で済むんですけど。


A. 今はわりと先に食べます。




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その424につづく!

2024年4月5日金曜日

あるひとりの女性についての気が遠くなるような長い話


今を去ること12年前、ひとりの女性があるミュージシャンの演奏に釘付けになりました。生で観たのか映像で観たのか失念してしまったけれど、とにかく一目で心奪われて、この人のことをもっと知りたいと思ったそうです。ほぼ恋ですね。

ところがそのミュージシャンはフロントマンではなく、バンドメンバーのひとりだったので、名前を知ることができません。クレジットもなかったと言います。たぶんソロアーティストのサポートで演奏していたんだとおもう。正確には違うかもだけど、そこはあまり重要ではない。

バックバンドとして常に固定されたメンバーならまだ追いようがあります。また、仮にその日たまたまサポートで演奏していた場合でも、ライブ中にメンバーを紹介したりもするでしょう。でも彼女はじぶんの心を奪ったミュージシャンが誰なのかを知ることはできなかった。

というのも、彼女が中国在住の中国人で、惹かれたミュージシャンが日本在住の日本人だったからです。

ググったりSNSでどうにかなりそうじゃんと思うかもしれませんが、ここにも2つの問題があります。12年前というと2010年代初頭であり、SNSも今ほど当たり前ではありません。僕がTwitterを始めたのだってたしか2010年です。すくなくとも「助けてフォロワー!」と叫んでみんなが応えてくれるような世界ではまだ全然なかった。

それ以上に、そもそも中国という国そのものが問題の解決を阻みます。ものすごく控えめに言って、かの地はインターネットにおける情報へのアクセスが日本や欧米諸国ほどオープンではありません。発信はもちろん、受信にも制限があって、ググればいいことにはまったくならないのです。

とはいえ今はその特異な環境について考えたいわけではないので、ここではひとまず知りたいことを自由に好きなだけネットで探れる環境ではないという点だけわかってもらえればよろしい。何しろ「解像度が低くて判別しづらい画像を手がかりに」とか探偵みたいなことを言っていたくらいだから、その苦難は推して知るべしです。

ともあれ彼女はそれから気が遠くなるほど長い年月をかけ、がんじがらめに制限された環境でもどうにか可能なありとあらゆる手を尽くしまくって、最終的に敬愛するミュージシャンへと辿り着きます。それがわりと最近の話です。

最初の一目惚れからゆうに10年以上が経過しています。完全な別人と勘違いしていた時期もあったそうだし、この人で間違いない!!!!と辿り着いたときの超新星爆発みたいな感動を想像するだけで、目頭が熱くなるじゃないですか?

満を持して彼女は文字どおり飛ぶように来日し、その期間中、件のミュージシャンが参加するすべてのライブに毎日、片っ端から通ったそうです。あとで聞いたら日本人である僕がググっても要領を得ないライブまで網羅していたので、その熱意たるや筆舌に尽くしがたいものがあります。よかった…。本当によかった…。

さて

ここまでは国境を越えたある種のラブストーリーみたいなものです。僕とは何の関係もありません。僕がこの話を知っているのは、例のミュージシャンと僕がたまたま長年の友人だったからです。僕はただ、友人から話を聞いて目を潤ませ、チーンと鼻をかんでいた観客のひとりにすぎません。このときはまだ、友人の大ファンである女性が僕の日々に登場する人物だとは想像もしていなかった。

今となってはそりゃまあそうかという気がしないでもないけれど、何しろ10年以上の歳月をかけて名も知らぬ異国のミュージシャンを探し当てた女性です。そこからごくごく細い線で繋がっていると言えなくもない僕にまでうっかり辿り着いてしまうのは、それほど不思議ではないかもしれない。ただ僕と友人のミュージシャンではやっていることがあまりに違いすぎます。たぶん同じステージに立ったのも、それこそ10年以上前に一度くらいしかありません。だいたい同じ日本人でさえ難儀する言葉過多なスタイル(僕のことです)に、日本語を解さない彼女が興味を示すとも思えない。

にもかかわらず彼女は僕に辿り着き、作品を耳にし、それでなくとも厄介な詞の数々を翻訳し(ここがいちばんびっくりした)、大意をつかんだ上でつい先日、巡り巡ってうちの人が営む古書店アルスクモノイで僕が店番をしているときに、訪ねてくれました。なんで???と今でもおもうけど、どうあれ出会ってしまったのだから仕方ありません。

僕がKiva(キワ)という彼女の通名を知ったのはこのときです。キワちゃんの髪がピンクで、背中に天使みたいな翼を背負っていて、全身カラフルで目もあやなファッションに身を包んだ、遠目からでもすぐわかる超キュートな女性であることも、ここで初めて知りました。

僕が今、ここでこうして彼女のことを書き連ねているのは、僕をフォローしてくれたからではありません。どうにかこうにか英語で交わす本当に些細な話の流れで、キワちゃんがピアノを弾く歌い手でもあることを知り、またその作品がどれも彼女の見目からはちょっと想像しづらい、ささやかでやさしい世界観に包まれていて、しかも彼女はそれを自ら語らなかったからです。

キワちゃんはじぶんの歌を聴いてほしいとは一言も口にしてはいません。僕があとで名前を検索して見つけただけです。まさかアルバムまで配信しているとは思わなかったし、ましてやそれがCDになっているなんて考えもしなかった。アピールは本当に全然、微塵もされていない。後日、僕らが聴いたことを知ったキワちゃん自身がびっくりして照れまくっていたくらいです。でもその歌と声は薄いガラスみたいに繊細で儚くて、可愛かった。人に対してはめちゃめちゃ積極的なのに、じぶんのこととなると途端に慎ましい、そのスタンスにキュッと心を掴まれたのです。

僕は目の前に大きなものと小さなものがあったら、小さなものに手を伸ばすタイプです。たぶんキワちゃんもそうだとおもう。でも彼女の歌は、どんなにまっすぐ伸ばしても紆余曲折になってしまうKBDGなんかよりもよほどストレートではるかに多くの人に届いていいはずのものだと、僕は信じて疑いません。

僕の影響力なんてせいぜい数十人に届くくらいのものでしかないかもしれないけれど、それでももしここを訪れてくれる人がいるなら、キワちゃんの歌にも耳を傾けてみてほしい。彼女の視線はいつでも本当にささやかな、僕らと同じ日々の片隅に注がれています。言葉がわからなくても、それだけで心を寄せる甲斐はまちがいなくあるし、しなやかな歌声とメロディで伝わるはずです。彼女の本名である「高宇婧」で検索してみてください(「婧」は正しくは女偏に青です)。


2024年3月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その422


キングオブ混沌さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 通勤するのに往復で2時間、自動車を運転しています。当初は「歌っていればすぐ着くし」と気楽に考えていましたが、毎日2時間うたうには体力が足りませんでした。そんなこんなで運転中(とくに帰路)の眠気が酷くて辛いです。何かよい方法があれば教えてください。


生きることの不条理が凝縮したような質問です。異星人なら脳裏が大量のクエスチョンマークで埋め尽くされることになるでしょう。職場へ瞬時に移動できるとか、100%自動で運転してくれるとか、眠いときにちょっと時間を止めておくとかすればいいじゃないかと高度な文明の価値観からは一蹴されてしまいそうですが、実際のところまだテクノロジーがそこまで到達していない地球においては、それが人生というものです。なぜと言われてもそんなのこっちが聞きたい。

眠気の克服に最も効果的なのは、言うまでもなく睡眠です。なのでまず第一に考えられる解決は、勤務時間中にめっちゃ寝ることです。仕事が進まず、クビになるリスクも著しく高まる上にそもそもなぜ車の運転をしているのかもちょっとわからなくなってきますが、少なくとも溌剌として元気いっぱいな帰宅の実現には有効であると言えましょう。

次に考えられるのは、勤務後にさんざん寝てから満を持して帰ることです。帰宅前に6時間も眠っておけば眠気の介入する余地はなくなります。そうなると帰宅とは何かという哲学的な問題が新たに生じないでもないですが、それはまた別の問題なので別の機会に考えたらよろしい。

ただ、これらの方法は言うまでもなく大きな犠牲を伴います。

長時間の運転における最大の問題は、いつ何が起きるかわからないので、運転中どれだけ平穏かつ退屈であっても常に最大限の注意を払い続けなくてはいけない点です。適度な刺激が必要なのに気を取られるわけにはいかないのだから、理不尽なことこの上ありません。

この理不尽に対抗できる策があるとすればそれはラジオをおいて他にないと、僕はおもいます。動画や映画と違って視線を奪われることもないし、会話と違ってリアクションを求められることもない。なんなら聞き流してもべつに困りません。

ひと昔前なら、ちょうどその時間に聞きたい番組がないことも当たり前にあって難渋したものですが、今はちがいます。radikoによって好きな番組を好きな時間に楽しめる時代です。毎日就寝後に流れている番組を、毎日帰宅時に聴くこともできます。それはつまり、すべての民放ラジオ局で最も聴きたい番組をいちばん聴きたいタイミングで気兼ねなく聴けるということであり、妥協どころか日々をより豊かにし得る可能性が高いということでもあるのです。

自分の嗜好にぴったりと合う、ラジオ番組を探しましょう。眠かった帰宅時の運転がめちゃ楽しみになってしまう可能性、あるとおもいます。


A. ラジオがあります。




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その423につづく!

2024年3月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その421


このブログには不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描いていたらよほどマシだったかもしれない本ブログの特性に鑑み2024年当時の表現をあえて使用して投稿していますさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは、眼鏡を外すとどのくらい見えないんですか?


そうですね、たとえばどこからどう見ても幽霊でなんなら全体的にちょっと透けている、白い着物を着た髪の長い女性が恨めしい面持ちでこちらをじっと見つめながら暗い夜道にひとり佇んでいたとしても、メガネを外した僕がこれを幽霊と認識することはできません。ん?とは思うし、何かいることくらいは察知するはずですが、よくわからないので素通りしてしまう可能性が高い。つまり、異形の存在がほとんど意味をなさないくらいの視力です。

これは昔から僕が不思議に思っていることのひとつなんだけど、幽霊にとっては視認されなければ人のかたちで現れる甲斐がありません。気配があって何かがいることはわかるのにぼんやりしていてよくわからない、というのはおそらく幽霊にとって、気配すら感じられないことよりもよほど屈辱的なはずです。僕が幽霊ならこの至近距離で目を細めながら首を傾げてんじゃないよと言いたい。

もちろん、どちらかといえば肉体よりも精神に作用する存在だろうし、視力はぜんぜん関係ない可能性もあります。ド級の近視であっても、幽霊だけはその表情から細部まではっきりくっきり見えるのかもしれない。しかしそうすると視界のすべてが0.01の視力で描き出されているのに、幽霊の輪郭内だけが1.5とか2.0で映されるという気持ちのわるいことになります。度数のちぐはぐな視界ほど気持ちのわるいものはありません。というかその場合は幽霊に対する視力が1.2なのか1.5なのか2.0なのかもはっきりしてほしいし、その度数は何によって決まるんだという新たな問題が生じます。

そうなるとたとえ物質的には存在しない幽霊であっても、近視では家とか道とか電柱と同じようにぼんやりしてよく見えないと考えるのが自然です。見えているかどうかわからないのにとりあえず化けて出てみるというのもいささか非効率すぎるし、僕が幽霊なら夢に出るとか別のアピールを考えます。

いずれにしても幽霊の存在意義を根本から疑ってしまうくらいの視力である、とは申せましょう。どちらかというと僕はオカルトをわりと好むほうなので、そういう意味でもやっぱりメガネは必要だなと思います。疑わなくてすむからね。


A. 幽霊が舌打ちをするくらい見えません。




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その422につづく!


2024年3月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その420


ファイナルファンタグレープさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. これから年末年始を楽しもうという時に財布を失くしてしまいました🥲立ち直るためのアドバイスをいただきたいです🙇


これが3ヶ月前の話であることはさておき、財布の紛失は人生における重大な事故のひとつです。財布には紙幣や硬貨だけでなく身分の証明になるものが含まれていたりするので、自分が何者であるかを客観的に示すことができなくなる恐れもあります。そうなるともはや紛失というよりむしろアイデンティティの喪失に近い。取り乱すのも無理はないし、金額どころの話ではないとも申せましょう。

おまけにタンスの角に足の小指をぶつけるのにも似た精神的苦痛が2週間くらい続きます。治療法といえば近しい人の慰めと時間(流れるだけで特に何かをしてくれるわけではない)くらいであり、残念ながら現代の医学ではどれだけ手を尽くしてもどうにもなりません。運が良ければまるで初めから何ごともなかったかのようにきれいさっぱり完治するし、運が悪ければ心の奥にまたひとつブラックホールができます。そういう病です。

人もまた広大な宇宙と同じく心にいくつかのブラックホールを抱えて生きているわけですが、そのひとつに財布が、ひいてはアイデンティティが秒速1万kmで飲み込まれると考えるのはなかなか趣があります。太陽すら豆つぶ扱いするブラックホールと秒速1万kmという鬼のようなスピードの前では僕らの自己同一性など原子ほどの意味もありません。況や財布についてをやというか、なんならちょっと夢があるような気もしてくるじゃないですか?そんな気はしないと言われたら僕もそうだよねと思いますけど。

しかし一方で、財布がアイデンティティに等しいとするなら、今ここでこうしてキーを叩いている僕はなんなのだという疑問も湧いてきます。たしかに僕らはこの肥溜めみたいな世界を生き抜くために財布の機嫌を伺う必要があるし、それは確かなことだけれども、僕らが僕らであることまで財布に委ねているかといったら断じてそうではありません。どちらかといえば主人は僕らであって、財布の立場は単なる管財人です。僕らが財布を失ったのではなく、財布が職務を放棄したと言うべきでしょう。職務放棄どころか、業務上横領まで含まれます。ふつうに考えたら、財布に対する告訴まで視野に入れるべきです。腕のいい弁護士を探しましょう。そして告訴の準備が整うころには、だいぶ気が紛れていると僕は思います。


A. 財布を告訴しましょう。




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その421につづく!

2024年3月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その419


今夜は麦1パックさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. この世から豆板醤がなくなったとして、大吾さんなら代わりの調味料として何を推しますか?


先にお答えしておくと、僕はこれ、最適解を知っています。なのでいつになくスピーディにサクッと話を終わらせられるはずです。しかし実際にはキーボードに指を置いたまま、かれこれ1時間は逡巡しています。本当に答えていいんだろうかと躊躇わざるを得ません。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。

これは僕にとってあまりに都合が良すぎる質問なのではないか…?

何しろ豆板醤です。醤油や味噌ではありません。甜麺醤やコチュジャンでもなく、ましてやオイスターソースやナンプラーやスイートチリソースでもない。特に意味はないのかもしれないし、実際ないんだろうけど、しかしそれにしてはどうもこう、見えざる何者かに誘導されているような印象があります。何しろ僕は上に挙げた調味料の代用品を知らないのに、豆板醤の代用品だけは知っているのです。そんな自作自演丸出しみたいな話があるだろうか?

率直に言って、自作自演はまだいいのです。他ならぬ僕のブログだし、訪れる人も別にいないし、仮に莫大なアクセスを誇っていても初めからそのつもりで読まれていればどのみち同じことなのだから、今さら誰に憚ることもなく、大いに自作自演を繰り広げたらよろしい。正直そのへんはもうどうでもいいというか、どっちでもいい。

それよりもはるかに剣呑なのは、僕がそう答えるように予め仕組まれている場合です。人生のあらゆる分岐点において、僕らはみな自らの意志でキッパリと選び取っているつもりでいるけれども、実は初めから選ばされている可能性がないとは言い切れないんじゃないだろうか?すべては巷でうわさのディープステートの差金であって、気がついたらドナルドT的な人物の熱烈な支持者になっていたりするのではないのか?よりによってたまたま豆板醤の代用品について尋ねる人がいると同時にたまたま僕がその最適解を知っている、その確率と比べてもそれはあり得ないと果たして断言できるだろうか?

しかしまあ、だから何だという気がしないでもないので、ここはひとつあまり考えすぎずにお答えしておきましょう。


味わってもらえればわかりますが、ほぼ豆板醤です。ほんとに。


A. 富士食品工業の「粗挽きトウガラシ」です。




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その420につづく!

2024年3月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その418


アンハッピーターンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 読みたいな。と思って買った本なのに、どうしてか本棚にしまって読まずじまいのうちに次の本を買ってしまいます。全部の本を読み切るにはどうしたらいいでしょう。


いわゆる積読というやつですね。僕も家にあって読んでない本、結構あります。それでなくとも買うときは読み終わっても売らずに蔵書にしたいかどうかを基準にしているのでかなり厳選しているはずですが、それでもやっぱり積まれます。因果なことですね。

とはいえ原因はわりとはっきりしています。本を買うときは、誰であれ読む時間のことなど考えていないからです。

まだ配信というシステムがなかったころ、僕は月に30枚前後のCDを買っていましたが(よく考えたら1日1枚のペースです)、聴かずに積み上げた記憶はまったくありません。その日のうちにというか帰宅したら即再生していたし、それこそ繰り返し聴いていました。

一方で、これは僕のことではないけれど、プラモデルなんかも本と同じように積まれていくと聞いたことがあります。老後の愉しみにしている人も、まだ多くいるんではなかろうか。

音楽はCDであれレコードであれ、アルバムを聴き終えるのに1時間あればおおむね事足りたし、たとえば料理をしながらとか、散歩しながらとか、武器の手入れをしながらとか、何なら残しておくとまずい証拠を隠滅しながらでも楽しむことができます。

しかし書物やプラモデルはそうもいきません。時間はそのためだけに費やされるし、内容が充実していればしているほど、それに比例して費やされる時間も増えていきます。べつに一度に消化する必要は全然ないのだけれど、どうしてもゴールまでの所要時間を想定して向き合ってしまうわけですね。音楽としてのアルバムが数時間単位だったら、ながら聴きできるとしてもやっぱり本と同じように積まれていたとおもう。

僕が店番を務める古書店にときどき来られるお客さんで、常に数冊の本を持ち歩いている人がいます。聞けば出勤前に必ず勤め先近くの喫茶店で読書の時間を設けているそうですが、それは通勤中の電車で読む本とは別(!)なのだそうです。

これと同じくらい、というのは例えば就寝前のストレッチと同じくらい、読書が日々のルーチンに組み込まれていれば、読める本の数は飛躍的に増えるでしょう。ただそれでもやはり、本は積まれていきます。なんとなればそのぶん書店に通う回数も増えるわけだし、それでいて「買うのは誰でもいつでも一瞬」だからです。

本を買うのに費やす時間と、本を読むのに費やす時間がイコールでないかぎり、積まれた本が減ることはありません。仮にどんな本でも30分で読み切れるスキルを身につけたとしても、購入する冊数が増えるだけでやっぱり積まれていくでしょう。当たり前といえば当たり前という気もするのに、なぜか僕らはいつも首を傾げています。へんですね。

未読の本を読み終えるまで書店に行かなければいいじゃないか、とじつに尤もな、これ以上ない正論をおっしゃる御仁もあるでしょう。しかしそれは本をあまり読まないから言えることである、と僕らは断言できます。本が好きな人はそれを読むのと同じくらい、書店に行くことが好きだからです。書店に行かないということはつまり本を読まないことと同義であり、行かないことが読まないことと同じなら行かないかぎり読まないことになるので、やっぱり本は積まれたままになります。へんですね。

したがって、部屋に積まれた本を読み切ることは未来永劫ありません。

しかしそれは裏を返せば本が部屋に積んであるかぎり書店には通いつづけるということであり、書店に通いつづけるかぎり書物に対する愛情もまた変わらずにあり続けるということでもあります。

突き詰めると何のための何なのかわからなくなってくる気もするけれど、でもそれでいいじゃないですか?よくない理由が果たしてあるだろうか?

なのでもう、あまり深く考えずにどんどん積んでいきましょう。積めば積むほど、というか何ならそれゆえにこそ、書物への愛は深まると僕はおもいます。そしてどうあれ最後まで守り抜くべきものが愛であることに、誰も異論はないはずです。


A. むしろ読みきれない状態を維持することこそが愛です。




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その419につづく!

2024年2月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その417


パーリーピーポくんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは宇宙旅行したいですか?私はいつか宇宙へいきっぱなしの旅行をしたいのですが、現代の技術では行けるところが限られています。世界一周もいいけれど、私はこの星より掴めないものや届かないものを知りたいです。


不世出の天才、手塚治虫のライフワークの一つに「火の鳥」があります。僕はこれを小学生の時に月刊マンガ少年の別冊で読んでいて(「ブッダ」もたしか同じ時期に別冊少年ワールドで読んでる)、いいおっさんになってしまった今でも折にふれては思い出すシーンがいくつもあるくらいには脳みそに刻みこまれているのだけれど、「ヤマト編」「鳳凰編」とテーマごとに分かれたシリーズのうち「宇宙編」はもう、とにかく冒頭から結末まで圧倒的に怖くていまだに忘れられません。

とりわけ脳裏に刻みこまれているのは、宇宙船が航行不能になり、数人の乗組員がそれぞれ一人用の脱出ポッドで宇宙を漂流する場面です。

このポッドには人が一人寝そべるだけのスペースしかありません。また航行機能はついていないので、本当にただ漂流するだけです。通信によって他の乗組員たちと会話することはできますが、ポッド同士がお互いに遠ざかるとこれも不可能になります。ポッド内における生命の維持は1年くらいが限度です。つまりこの状況から助かるためには、ポッドの生命維持が機能している間に、居住可能な惑星に辿り着くか、別の誰かに救出してもらうしかありません。そして物語中では、一つ、また一つとポッドが離れていき、それまで交わされていた会話ができなくなっていくのです。

怖すぎる。

四方に島影のない大海原のど真ん中を漂うのだってめちゃめちゃ怖いのに、宇宙ですよ!

おかげで僕は身動きの取れない閉鎖空間がめちゃめちゃ苦手になりました。まだやったことないけど、MRIとかパニックにならずにいられる自信がありません。


宇宙に対する憧れはもちろんあります。ただその憧れは、宇宙の無慈悲に対する恐怖と比べたらささやかなものです。この恐怖を克服するためには、いつでも楽に死ねるという安楽死的選択肢を常に身につけていなくてはなりません。

また、僕らの多くは地球で学んだ知識や物理法則が宇宙でもある程度までは普通に通じると思っているところがありますが、僕自身は地球における何から何までが宇宙においてはむしろ例外中の例外だと考えています。

生命という僕らにとって根源的な概念はもちろん、知能や五感、意識や感情といった感覚も全部ひっくるめて地球用にカスタマイズされているはずだし、そう考えるほうが自然です。宇宙は地球の延長では絶対にない。

さらに宇宙全体に対する地球のサイズ感は、おそらく知識や想像力にも当てはまります

試しにじぶんの身長を100万分の1に縮小してみましょう。これでもまだめちゃめちゃ大きすぎますが、想像する分にはこれくらいでよろしい。その小さな自分を、部屋の真ん中にぽちっと置いてみます。100万分の1なので、10cmが現実世界の100kmに当たります。たとえワンルームであっても、100万分の1の世界では何もない荒野が果てしなく広がるわけですね。そして現実世界の僕らにとっては屁でもない極小サイズのものすべてが脅威です。

宇宙ステーションから眺める地球は写真で見ても美しいですが、これは地上から400km上空の景色なので、これを100万分の1の世界に置き換えると40cmになります。40cmですよ!僕の身長だと膝にも届かない。ちなみに6畳一間のワンルームを横断するとしたら、少なくとも3000km以上は移動することになります。

さて、地球の直径に置き換えても1/4に満たないこのワンルーム宇宙で僕らが得られる驚異と感動は、果たして脅威と退屈の総量を上回るだろうか?

僕個人はむしろ地球のほうがはるかに脅威が少なく、それでいて無数の驚異に今も満ち満ちている気がします。宇宙は僕らが思うよりもずっと広大で、どう考えても虚無のほうが多いと言わざるを得ません。それでなくとも僕らは自分が実際に知る以上に、知っていると思いこみすぎなのです。

核シェルターとしても機能する(!)と言われる古代カッパドキアの不可解すぎる地下都市がいったい何のために作られたのか(礼拝のためと言われているけれど、実際のところ必要性とぜんぜん連動していない)、その全貌もいまだ定かではないというのに宇宙だなんて片腹痛いし、足元のアスファルトに咲く小さな花の名を知るほうがよほど甲斐がある、と僕はおもいます。ほんとに。


A. 500年くらい寿命があったら気晴らしにちょっと行ってみたいですね。




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その418につづく!

2024年2月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その416


てぶくろを解任さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. めんどうな用事はもちろんのこと楽しいであろう用事さえも行くまでが憂鬱で億劫なことが多いです。人間はなぜそのようにできているのでしょうか?


これはですね、まずヒトがいかに特殊で不遜な生物であるかということから始めなくてはなりません。

僕ら人間をのぞいて、およそすべての生物は常に死と隣合わせの日々を送ります。なんとなれば自身を食料とする上位の生物がいるからです。ライオンくらい上位になると捕食される危険性はあまりないですが、その代わりに食料調達のハードルがやたらと高く、ふつうに餓死と隣り合わせです。したがって、生物が生きるためにかかるコストは例外なく死を遠ざけるために費やされます。

このヒリついた環境では、いつもと違うちょっとした行動が命取りになりかねません。ヒトにとっては美点ともされる好奇心も、多くの生物にとってはハイリスクかつ場合によってはリターンどころか即死です。好奇心がないとは言わないし、ものすごく低い確率で莫大なリターンを得ることもあるんだけど、いずれにしてもギャンブルに近い衝動であることは間違いありません。生存に不可欠でない行為はしないに越したことはない、が生物としての不文律であると断言してもよいでしょう。今まさに死に瀕していないかぎり、生物においては事なかれ主義こそが生き延びる上で最上の戦略です。

ではこの視点から「楽しいお出かけ」について考えてみましょう。ヒト以外の生物が予定を組むことはまずないのでこれだけでも十分に異常きわまりないわけですが、これをダンゴムシにもわかる共通の意味に置き換えると「不可欠ではないイレギュラーな行動」になります。先にも述べたように生存戦略的には当然ハイリスクであって、全生物から総スカンを食らう愚行ということになるでしょう。この死にたがりめ!と罵られること請け合いです。

もちろん楽しいお出かけくらいでヒトが死の危険に晒されることはありません。ダンゴムシからどれだけブーイングを浴びようと、楽しく遊んでハッピーに帰ることが高確率で保証されています。それでなくとも本来なら全生物でシェアするはずの資源も浪費し放題だし、特権階級ここに極まれりと言うほかない。

とはいえ何から何まで異端尽くしでわがまますぎる存在であるヒトもまた、元を辿れば原材料はダンゴムシと同じです。ごはんは食べるし、うんこもするし、生殖もします。であれば今もその辺をころころ転がる多くのダンゴムシたちと同じように、先に挙げた生物としての不文律を本能的に保っていても不思議ではありません。生存に直結しない行動に躊躇いを感じるのは至極まっとうなことであると申せましょう。

極論すれば億劫とは、ヒトにかぎらずすべての生物において生存戦略的にきわめて妥当な感覚でもあるのです。だって別に、それをしないからと言って死にはしないんだもの。

七面倒くさい回り道をしながらごちゃごちゃと申してきましたが、ここではっきりと明確に結論づけておきましょう。

億劫とはひとつの真実であり、またある種の正義でもあると。

なので僕も貴重なエネルギーを温存するためにもうすこし寝ます。


A. 生存に不可欠な用事ではないからです。




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その417につづく!

2024年2月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その415


瓢箪からトマホークさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一人暮らしなのに、つい勢いであまりにも巨大な三浦大根を買ってしまったので、その使い方を教えてください。


何しろ一人暮らしでは誰も止めてくれないので、勢いで巨大な三浦大根を買ってしまうことがよくあります。どうせなら巨大な三浦大知がよかったと枕を濡らす夜もしばしばです。しかしいつまでもめそめそと大知くんを想っていても仕方がないので、ここはやはり目の前にある大根と向き合うことに集中しましょう。

圧倒的かつ順当な用途としては、やはり食べることです。生でもいいし、漬けてもいいし、蒸しても煮ても焼いても美味しくいただけます。食べ切るには大きすぎてちょっと多い場合は、大根を削って箸にしたり、くり抜いて茶碗にするのもよいでしょう。彫刻ができるのも、ほうれん草のような軟弱な連中には真似のできない、大根の大きな強みのひとつです。

大根は半分に切ると、スマートスピーカーによく似ています。テーブルに置いて、ときどき話しかけてみましょう。もちろん大根なので反応はしないはずですが、そうとも言い切れないのが人生のおもしろいところです。当たり前のように話しかけていると、そのうち大根も答えるのが当たり前のような気になるかもしれないし、ならなかったら食べてください。

大根には桂むきという切り方があります。くるくると回転させながら切れないように1本の帯をつくる手法ですが、これを道路の白線として使用するのも一興です。2車線を4車線にしたり、何もないところに停止線を引いたりして遊びましょう。自分が渡りたいときにだけ使うマイ横断歩道なんかも夢があっていいですね。

積もる雪にさわりたいけどちょっと冷たいしな、という時は大根をすりおろすとその代用になります。もちろん雪だるまも作れるし、温めても融けません。これは雪にない最大の長所であり、代用でありながらむしろ雪を凌駕している点でもあります。大量にすりおろせば、ゲレンデとして真夏にスキーやスノーボードを楽しむことも夢ではありません。

もちろん鈍器としても有効です。いけすかないやつの脳天めがけて垂直に振り下ろしましょう。大根が勝つか脳天が勝つか、目にもの見せてやりたいところです。

身長と同じくらいのサイズなら、身代わりの術にも使えます。ここぞというときに素早く入れ替わりましょう。問題があるとすればどうやって持ち歩くかですが、それは持ち歩く人間の問題であって大根の問題ではありません。

もちろん、危機に直面して瞬時に身代わりの術を繰り出せるほど忍術に長けていない人もいます。僕もその一人です。その場合には、夜のお供として抱き枕に転用しましょう。食べてしまいたいという口説き文句がぴったりの素敵なパートナーです。いい夢が見られるのは間違いありません。

大根は水に浮きます。難破時の救命ブイとして使うこともできるでしょう。この場合、大きければ大きいほど功を奏します。あるいはぜんぜん役に立たないかもしれませんが、それはつかまる人間の問題であって、大根の問題ではありません。

この中で一つ選ぶとなったら、僕は鈍器にします。首尾よくぶちのめした後は美味しく食べることもできるし、栄養にもなるし、なおかつ証拠が隠滅できて一石四鳥です。言うことありません。


A. 鈍器として使えます。




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その416につづく!

2024年2月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その414


アラビアンな伊藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.「日本料理」と「和食」の違いはなんでしょうか?


これはなかなか奥の深い質問です。僕も、というには視点が違うのでアレだけれども、このふたつの言葉には昔から関心を寄せています。というのも、そもそも海外視点でないかぎり自国の料理を客観的に表現する必要はないはずだからです。たぶん、もはやそれが基本というより選択肢のひとつにすぎないからだとおもうんだけど、そういう国って他にもあるんだろうか?

本題に戻りましょう。

最大の違いは文字です。漢字にしてもひらがなにしても、見た目と数がぜんぜん違います。読みで言ったらかろうじて「ょ」だけが共通していますが、だからどうしたというほかありません。こと文字に関してはまるっきり違うと断言してよいでしょう。書かれていないひらがなを引き合いに出して「ょ」はどうしたと野暮を宣う御仁もあるでしょうが、折しも明日は節分だし、欲しけりゃくれてやると豆もろとも投げつけてやればよろしい。何しろ小さいので、散らばった豆に紛れたら見分けがつきません。ことによると豆を拾ったつもりでぽりぽり食べてしまう可能性もあります。

そうなればしめたものです。再度「ょ」を問題にするには排泄を待たなくてはなりません。仮にうまいことぷりっと排泄できたとしてもそれを俎上に載せるのはさすがにもうむりでしょう。俎上の俎ってまな板のことですからね。

腸を旅する「ょ」の話はさておき、原則として日本でしかお目にかかれない料理であればそれらはすべからく日本料理で和食です。というか、そうでないと否定することは誰にもできません。その上で、個人的な解釈にすぎないことを踏まえつつあえて区別してみるなら、外国人主体が日本料理、日本人主体が和食です。わりと明快ですね。

これを前提にすると、若干の違いも見えてきます。たとえば海外由来とはいえ独自の発展を遂げたラーメンは今や明確に日本料理と認識されている印象がありますが、和食と認識されることはあまりありません。同じようにカレーライスは最も愛されている国民食のひとつでありながら、日本料理と和食のどちらにも与しない印象があります。海外由来であることが問題になるなら、イタリア料理におけるトマトなんかはそもそも南米由来で、おまけに食用になったのも19世紀以降(!)です。ソースなしには成り立たないたこ焼きや焼きそばはどうだろう?

とまあ、一品一品を検証し出すとキリがないので、このへんにしておきましょう。こうなると和食とは何かということについてアンケートをとってみたくなりますね。何なら伝統とは何かという剣呑な論点にまで足を踏み入れることになってしまいそうです。


A. 外国人主体が日本料理、日本人主体が和食です。




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その415につづく!


2024年1月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その413


ポンコツ脱退さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)換骨奪胎をもじったつもりなんだけど、変に生々しくて気づいてもらえる気がしないですね…。


Q. 「これはちょっとラッキーだったな」と思ったことはなんですか?


「ちょっとラッキー」というサイズ感がいいですね。人生にはその有無で未来が変わるような得難いラッキーもあるけれど、それは「ちょっと」ではないし、突き詰めると運の強弱みたいなことになりかねないので、話がそれだけで完結してしまいます。できれば河原で拾った変な石くらい他人にとってどうでもいいほうが、語りがいもあるというものです。そういう縛りでみんなとちまちまシェアしながら「最高のちょっとラッキー」を決めたりしたい。

それでいうと、何だろうなあ…

真夜中に職務質問をされた挙句、パトカーでアパートまで送ってもらったことがあります。

当時の僕は風貌のせいかちょいちょい職務質問をされていたのでそれ自体はわりと日常というかどうということもないんだけれど、ふつうは何らかの事件に関わりがないかぎりパトカーなんかに乗ることはないと思うので、何ひとつ事件性がないにも関わらずパトカーに乗ったという点ではちょっとラッキーだったと思います。それをラッキーと呼ぶかどうかは人による気もしますけど、少なくとも僕にとってはいい思い出です。

ただし、警官の善意ではありません。というのも僕はこのとき、カッターナイフを持っていたからです。もちろんそこには明確な理由があるんだけれど、それはあくまで僕にとって明確というだけで、赤の他人、とりわけ警官にとっては不審なことこの上ありません。というか、僕だって客観的に考えたらそんなやつを野放しにするなとおもう。

真夜中にカッターナイフを所持する男があてどなくうろうろしているように見える極めて剣呑な状況をどう釈明してどう乗り切ったのかは覚えていないけれども、「とにかく用がないなら帰りなさい、家はどこなの、送ってあげるから」みたいな流れだったような気がします。僕としては、えっうそ乗せてくれるの、やった!というかんじだったのでいそいそと乗りこんだ次第です。警官にとっては念のために住所を特定しておこうという思惑だったのかもしれません。

僕がそのときそこで何をしていたのかはまた別の話だし、長くなるので割愛しますが、ここで言いたいのは「パトカーでアパートまで送ってもらったことがある」ということです。めちゃめちゃ不審というだけで悪いことをしたわけではないし、する予定も当然なかったことだけは明記しておきましょう。

それで思い出したけど、そのアパートから引っ越すことになって荷物を運び出すためにうちの人がレンタカーで2tトラックを借りてぶいぶい迎えに来てくれたときの話があります。ハンドルがデカくて、ギアもサイドブレーキも普通車とは違う位置にあって、車高が高い、いかにもトラックという感じのトラックです。たぶん普通免許で運転できるいちばん大きな車だったとおもう。

何から何まで勝手が違うのにぶじ荷物を運び終えてすげーなと感心していたら、渋谷の駅前で坂道発進に失敗して後続車にガションと接触してしまいました。軽微とはいえ、はっきりと事故です。

相手の方はたいそうお怒りで、というかそりゃそうなんだけど、レンタカーでよそ様の愛車を傷つけてしまうなんてこれはえらいことになったとハラハラしていたら、ここでちょっとした奇跡が起こります。

というのは、接触した相手の車もまたレンタカーだったのです。

それは一体どれくらいの確率なんだ…。

もちろん相手にとってどう考えても不要な時間を強いてしまったことは確かだしレンタカー会社にも本当に申し訳ないかぎりなんだけれども、事故処理としてはびっくりするほどあっさり済みました。

厳密には僕個人のラッキーではないので忘れていましたが、僕の人生におけるベストオブちょっとラッキーという意味ではたぶんこれになると思います。


A. パトカーでアパートまで送ってもらったことがあります。




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その414につづく!


2024年1月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その412


アウストラロ尾てい骨さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 響きがかっこいいという理由だけで好きな単語を教えてください。私はバケットホイールエクスカベーターと墾田永年私財法が好きです。


これを探し集めるために休日をまるまる費やしたい話です。なんなら広く募って、一定の同意を得た単語をずらりと並べた殿堂入りリストを作りたい。

バケットホイールエクスカベーターは僕も大好きです。名前もかっこいいけど、何と言ってもあの重機版ハウルの動く城とでも言うべき尋常ならざる巨躯がいい。大きすぎてひとつの町くらいの設備は揃ってるんじゃないだろうか。病院とか、スケートリンクとかね。想像すればするほど、夢が広がります。掘削機なんですけどね。

しかしそういう話ではない。

考え始めると1週間たってもまだ考えつづけていそうな気もするので、とりあえず真っ先にパッと思い浮かんだのを挙げるなら、バージェス頁岩ですね。

それが何なのかは僕もよく知らないし、知る気もありません。世界にはそう呼ばれるものが確かにあって、響きがかっこいいというだけで十分です。とにかくそこにあってくれさえすればいいので、超絶推してるアイドルとの距離感に近い気もします。

響きはかわいいのに用途がかっこいいシチュエーションに限定される言葉もあります。猪口才なんかがそれです。たぶん捨て台詞的にしか使えないとおもうんだけど、「ぐぬぬ、おのれ猪口才な」「待って、今チョコって言った?」というかんじで剣呑なムードが一気にホワンと和らぐ印象あります。今となっては日常的に使える言葉ではないし、ホワンとなるのもしょうがないよなとおもう。

特にどうということもないはずだし単語でもないんだけど、昔から胸に刺さって抜けない棘みたいな言葉が、西高東低の気圧配置です。どうあれ耳と記憶に刻まれてしまっているわけだから、初めて聞いたときに気持ちよかったんでしょうね。おっさんと化した今でも西高東低の気圧配置と聞くと、オッと反応してしまいます。われながらちょっと気の毒なことです。

カムチャツカ半島なんかも響きが好きな単語のひとつですね。だいぶ昔から、ムカつくの代わりにカムチャツカを使えないかなと思いつづけていますが、わかってもらえない気がするので言えずにいます。「あいつまじカムチャツカ」って言うほうが自身の傷も浅く済む気がするんだけど、おそらく気のせいであろうことは僕にもなんとなくわかります。

かっこよさの基準を語感とかリズムに置くと、途端に世界が広がります。いま思いつくかぎりでは、グリチルリチン酸ジカリウム日本道路交通情報センター東海道中膝栗毛ノンアルコールビールテイストアンデパンダン展ペンパイナッポーアッポーペン東洲斎写楽なんかが好きです。最後のは単語ですらないけど、それで言ったら名前なのに単語に聞こえる愛新覚羅溥儀もいいですね。


A. バージェス頁岩です。




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その413につづく!

2024年1月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その411


袖すり合うも他生のぴえんさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ムール貝博士の嫌いなことわざを教えてください。私の嫌いなことわざは、禍福は糾える縄の如しです。


「嫌いなことわざ」というのはなかなか新鮮な切り口です。とりあえずムール貝博士は火に油を注ぐのに忙しいので代わりに助手である僕がお答えしましょう。

禍福は糾える縄の如しとはまた渋いチョイスです。僕も日常生活で耳にした記憶がほとんどありません。あったかな?言われてみれば当たり前にセットにしてんじゃねえよという気もしますが、個人的にはむしろ好きなことわざのひとつです。

意味としてはまあ、人生山あり谷ありみたいなことですが(そういえば山と谷ではどっちがいいんでしょうね?)、それ自体は別にどうでもよろしい。好きなのはこれが僕にとってバイブルのひとつである曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にやたらと出てきまくる諺だからです。ついでに言うと、月満つれば則ち虧く、もめちゃめちゃ出てきます。月は満ちもすれば欠けもするという意味で、一般的には栄枯盛衰の意味合いで使われるようですが、実際には欠けてもまた満ちるので八犬伝では「禍福は〜」と同じように用いられていて、僕もそっちのほうがしっくりくる印象です。とにかく一難去ってまた一難みたいな話の連続なので、あるいは裏テーマのひとつなのかもしれません。現代語訳でもそうなんだろうか?

嫌いとまで強い思いを持っているわけではないけれど、これ別にいらねえな、と昔から思っているのは七転び八起きです。七転八倒という反物質みたいな熟語がある以上、互いに打ち消しあって何の意味もありません。なぜよりによって七と八なのか、そっちの方がよっぽど気になるくらいです。ファミマにする?ローソンにする?みたいなことでしかないとさえおもいます。

逆に好きなのは罪を憎んで人を憎まずです。これほど完璧な先人の知恵と高度な精神はそうそうないとおもうんだけど、今に至るまで僕自身も含めてほぼ誰一人実践していないところがいい。たぶんこの先もムリだろうし、せめて無形文化遺産として語り継がねばなりますまい。誰が言い出したのか知らないけど、ほんとにすごいとおもう。ある種の無理ゲーだからこそ今もふつうに通じてしまうという、典型例のひとつですね。

いずれにしても禍福は糾える縄の如しなんてそんなにしょっちゅう耳にする諺でもないし、記憶から抹消したところで何の支障もないと僕なんかはおもいます。上記の理由で、僕は好きですけど。


A. 七転び八起きです。




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その412につづく!

2024年1月5日金曜日

いずれ誉れあるリトルマーメイドの称号を得る話


2024年です。

どのみち一年の計などまともに宣言したことがないのでいつも通りと言えばいつも通りなのだけれど、とりわけ今年は2日からせっせと店を手伝っていたこともあっていつになくそういう感じでは全然ないので、ひとまず腸の話をしましょう。

話は腹を派手にぶち壊したひと月前に遡ります。よりにもよって1年で数えるほどもない稀有なライブがあった日の、ちょうど1週間くらい前です。

熱もしっかりあったので風邪では済まない病だったのは確かですが、何日か七転八倒したのち自力で回復したので、実際のところ体に何が起きていたのかはよくわからない。たぶんウィルス性の胃腸炎だろうとひとりごちつ、全快したのでそれはまあよろしい。重要なのはそれによって腹の中が完全に空になった、という点です。2日間でトイレに駆け込んだ尋常ではない回数と食事がまともに取れなかったことを考えると、本当にすっからかんだったと思う。

とにかくどうにかこうにか調子を取り戻し、懸案のライブもつつがなく終えて本当に心底ホッとしていたのだけれど、それからさらに数日が過ぎてふと気づいたのです。

腹の調子がいい。

より具体的には、腸の調子がめちゃめちゃいい。健康を取り戻したというよりも、むしろ明らかに以前よりも良くなっています。内臓を丸ごと洗浄したような清々しさに満ちているのです。

あんまりピンとこないと思うので割愛しますが、僕は腸に関してはまず人の共感を得られない体質の持ち主です。人に話すと一様に引かれます。僕自身、どうも異常らしいと気づいたのはわりと大人になってからです。健康診断で医者におそるおそる相談したら「若干おかしいだけで気に病むほどのことではない」という返答を得たこともありました。それがもう、明らかに正常になっています。

かれこれ数十年、僕の腸がふつうの人と同じであったことなどかつてありません。これはもう気長に付き合っていく他ないと半ばあきらめていたほどです。それがウィルス性胃腸炎もしくはそれに類する何らかの病のおかげで、正常に戻る未来がにわかに現実味を帯びてきています。何しろひと月たった今も一般的な腹の状態をキープできているのです。

気長に付き合うほかないと申しましたけれども、そうは言っても高齢になればそれこそ通常では考えられないような、できれば御免被りたい恥辱のリスクを抱えることになります。正常に戻れるならそれにこしたことはありません。できればこの状態を死ぬまで維持したい。この機を逃すともう2度と訪れないかもしれないし、ある意味では人生がかかっていると言っても過言ではないのだから、モチベーションが高いのも当然です。

なので今年の抱負には、「今のこの腸の状態を維持する」を掲げます。人魚が人になりたいと願うくらいの熱量で、これは本当にぜひ達成したい。達成した暁にはリトルマーメイドの称号を僕が僕に授与することになるでしょう。

腸からは以上です。

今年もよろしくお願いします。