2021年12月31日金曜日

2年をへた今、かすかに鳴り響く心のアラート


失われた、と彼らは言うのです。

それまで何ひとつ制約を受けなかった在りし日の日常に思いを馳せながら、本来なら得ていたはずの大小さまざまな機会とその尊さを噛みしめます。いずれ収束したら、とすこし先の未来を思い描くこともあるし、ホントそうだよねと頷くほかありません。

2年もたってまだ現在進行形だなんて想像もできなかったこともあるけれど、いっぽうで僕としてはもうこれ以上、何かを取り戻そうとするような向き合い方をしたくない、という気持ちが日に日に強まっています。あるものを大事にするならともかく、ないものをあったと仮定して惜しむその先に何があるのか、以前とは明確に異なっていて思うようにいかない日々を、否定するのにいいかげんうんざりしつつあるのです。

人生の半ばを過ぎてもいまだに地に足のつかない暮らしをしていることもあって、もしあれもこれもなかったらと想像することが今もよくあります。屋根がなかったらとか、ただでさえ少ない友人がいなくなったらとか、本当に文無しになったらとか、記憶がなくなったらとか、運がなかったらとか、今ほど健康でなかったらとか、たとえばそういうことです。ただどれだけ考えても、常に答えはそうなったらそうなったで生きていくしかないの一択しかありません。そしてまだそうなっていないのだとしたら、むしろその恩恵をしみじみ噛みしめたいのです。誰もが共感する大多数の印象は、そうでない人を不可視にしてしまうことも、忘れたくない。たぶん、「多数による当たり前」に対して心のアラートが鳴っているんだとおもう。

だからこそ、じぶんはどうだろう、まだなんとかなってる、明日はわからないけど、ひとまずそれはいい、よし、ふうー、と大きく息をついて、面を上げて、また明日への一歩を昨日と同じように踏み出したいのです。

それらを踏まえた座右の銘として、心の壁面にはいつでも「Peanuts」におけるスヌーピーの一言がチョークで大きく書きつけてあります。

“YOU PLAY WITH THE CARDS YOU’RE DEALT..” (配られた手札で勝負するしかないんだ)


そうしてどうにかこうにか、今年も大晦日を迎えています。何しろこんな日々なので、振り返るほどのトピックはありません。何か忘れていることがあったかもしれないと一縷の望みを抱いてブログを遡ってみたけれど、1月から10月までパンドラ的質問箱だけがずらずらと並んでいて目ん玉飛び出ました。え、もっと何かないの?いやあるでしょひとつふたつ何かしら、ないの?まじで?10ヶ月もいったい何をしていたの……?

なので挙げられることと言ったらつい先日7年越しに実施された「パン屋再襲撃」と、あとは安田タイル工業の本社ビルが破壊されたこと、並びに弊社の専務が留置場にぶち込まれてこないだ出所したことくらいですね。

改めて、「パン屋の1ダース」に興味を持ってくれたみなさま、本当にありがとう!ちょっとした思いつきで、そういえばまだちょっとだけ残ってた気がするな、と思ったらホントにちょっとだったけど、でもせっかくあるならと久しぶりにレーベルのボスと相談して、ひとつ残らず送り出せたことには感謝しかありません。さすがにあんなことになるとは思いもよらなかったので周章狼狽しきりではあったものの、これもひとえに今もお付き合いくださるみなさまのおかげです。ありがとうありがとうありがとう。


来年はおそらく、今やすっかり雲の上の人になってしまったタケウチカズタケ御大がどう考えても多忙すぎる日々の隙を縫いつつ丹精こめてリメイク(!)してくれた、またそれに伴ってリーディングも新たに録り直したいくつかの楽曲群が形になる…はずです。なるといいな。なりますように。カズタケさんから声をかけてくれたことが本当にうれしくて、新しい作品も生まれたらとか、珍しくそんな気持ちになっています。なぜ恋に落ちないのかと他人事のように首をかしげるばかりです。

さて、長くなりました。ついさっきまで年賀状キャンペーンにひとりどたばたやらかしていて、大晦日なのにおごそかもへったくれもありません。15年以上寄り添ってくれている古参のみなさま、今年初めて出会ってくれたみなさま、新年もこんな調子です。また引きつづき、と言っても特に得るものはありませんが、どのみち昔からそうなのであまりお気になさらず、ひとつよしなにお付き合いくださいませ。

よいお年を!今年もありがとう!

2021年12月25日土曜日

トラバター、12年ぶりに大幅リニューアルのお知らせ

お客様各位

製品リニューアルのご案内


平素は格別のお引き立てをたまわり、厚くお礼申し上げます。

香り高くもコクのあるなめらかな舌ざわりがホットケーキにぴったりと、創業から今年で122年をむかえる今なお絶賛の声を数多く頂戴します弊社トラバターも、世界各地における野生トラ(とりわけアムールトラ)の激減とその保護に伴い、近年はごく少量の生産とさせていただいておりました。

2010年

しかし十年一昔と申しますように、ここ数年で一気に社会的認知が高まり、今やその4文字を目にしない日はないSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の影響は何にも増して大きく、弊社としてもこのまま世界各地の希少なトラを原料にバターの製造を継続してよいのか、そもそもなぜよりによってトラなのか、というかこれは本当にバターだったのか、主力にして唯一でもある製品の存在意義を根本から揺るがす時代の到来に、新たなブランディングの必要性を痛感いたしました。

そこで改めて原点に立ち返り、未来を見据えた次世代のトラバターの開発に着手、日夜研鑽を重ねてまいりました結果、このたびトラがなくともトラたりうるまったく新しいトラバターとしてパッケージも刷新、大幅にリニューアルをさせていただくことになりましたので、ご案内いたします。

2022年

原料にトラを一切使用しない100%トラフリーでありながら、これまでの躍動感あふれる活き活きとした風味やごく少量の生産といった特徴はそのままに、むしろ野生のトラよりもずっとトラらしい味わいを実現いたしました。時代の趨勢にも沿う逸品です。

お客様には諸事情ご賢察の上ご理解を賜りたく、また今後もより一層の品質向上に努めてまいりますので、引き続きご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

敬具


※従来品からの変更点にご注意ください。
1. トラ成分は含まれておりません。
2. 前を向いて生きるために、在りし日の思い出を除去。
3. 内容量が12年前に比べて12oz(340g)増量となっております。
切替時期:2021年12月より順次



ご希望のかたは件名に「SDGs対応の次世代トラバター」と記入し、

1. 氏名
2. 住所
3. わりとどうでもいい質問をひとつ

上記の3点をもれなくお書き添えの上、dr.moulegmail.com(*を@に替えてね)までメールでご応募ください。

締め切りは12月29日水曜日です。

以前はどこからも応募がないことを見越して年明け3日くらいまではそわそわとお待ちしていましたが、よく考えたらそれはバレンタインデー後も来ないチョコを待ちつづけるのと同じだったので、もうやりません。29日といったら29日です。

応募多数の場合は抽選となります。かれこれ15年くらいこのキャンペーンを続けていますが、未だかつて一度も当たったことがないのは肝心の住所が記されていなかった人くらいの応募率なので、心配は無用です。あえて抽選と釘を刺すことで応募が殺到するかのような印象をでっちあげる立つ瀬のなさを察しつつ、ふるってご応募くださいませ。

今年もありがとうー!

2021年12月24日金曜日

暗く冷たい三畳のメリークリスマス2021


年の瀬も押し迫ったある日、心理的なスパイ組織でもある安田タイル工業の専務からコンタクトがあったのです。

ジリリリリン、ガチャ
「もしもし主任です」
「合言葉を言え。『餃子』
『おいしい』
「よし。実はだな」
「慰安旅行のことですよね」
シッ!その前に伝えることがある」
「誰か聞いてるんですか?」
「実は他でもない、本社ビルが破壊された
「え?本社ビルって」
「安田タイル工業の本社ビルだ」
「あの廃屋みたいな」
「そうだ、しかも満タンのな」
「そのハイオクじゃないですよ」
「なので本社はもうない」
「待って待って破壊?破壊って言いました?」
「映像を送る」
「スパイっぽい!」


「専務じゃないですか」
「何がだ」
「これ壊してるの専務ですよね」
シッ!今言えるのはこれだけだ。また連絡する」
「えっ待って待って慰安旅行は」
「なおこの通話は自動的に切断される。じゃあな」
「手動じゃん」



そうしてこの映像を最後に、専務との連絡は途絶えました。専務に何があったのか、積年の夢でもあった本社ビルはなぜ破壊されなくてはならなかったのか、そして肝心の慰安旅行はどうなるのか、次々と浮かび上がる疑問の先で、今年は本社ビル落成とその後の破壊を超える衝撃が待ち受けていたのです。


世界に向けて遠吠えを!

常に時代の先端で誰かが来るのを待ち続けている心のベンチャー企業、安田タイル工業の気付けばこの10年で半ば義務と化しつつある年末恒例業務が今年も帰ってきた!2020年12月以来となる今回も、専務と社員、総勢2名の大所帯で繰り出します。


※これまでの年末興行については以下をご参照ください。
2010年
2011年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年 前編
2018年 後編
2019年
2020年

※とりわけ重要なのは本社ビルが落成した<2019年>です。


……と思ったらあの日以来、一向に音沙汰がありません。こちらから呼びかけても反応がないし、LINEも既読がつかない。とはいえ専務はもともと年に数回スマホを失くしては契約ごと乗り換えてアカウントその他を一からこしらえる習性があるので、どうせまたそういうことだろうとうっちゃっていたのですが

そんなある日、一通の封書が届きました。見れば差出人は専務です。


中を取り出すと






B5のノート20枚分に文字がびっちりと詰め込まれた修羅のような手紙です。思わずその場で放り投げます。人生でこれほど傷ましい手紙を受け取った記憶がありません。危険物を取り扱うように指先でチラリとノートをめくってはまた放り投げるを繰り返した挙句、そのまま数日寝かせておくことにしました。何しろこっちの腹が据わらないことにはとても読み通せる自信がありません。気味がわるいこと甚だしい。

そうしてどうにかこうにか腹も据わって、しぶしぶ読み始めたところ、


拍子抜けするほどどうでもいいことしか書いていません。跳ね上がった心拍数と寝かせておいた数日がムダに思えてきますが、なんだいつもの専務じゃないかと安堵する反面、内容がまったくないにしては尋常ならざる文字量に若干引っかかるものがあるのも事実です。

そんなことを考えながらぺらぺらと読み進めていたら、あるページで指というか、時が止まりました。


「留置場に居ます。」

獄中手記じゃねえか!


66番と呼ばれていたらしい



そんなわけで手記にもあるように、今年の慰安旅行は物理的に不可能と相成りました。十数年欠かさずにつづけてきて初めての意図せざる中止のようにもおもえますが、じつは過去に一度、専務に彼女ができたという身もふたもない理由で中止になったことがあります。今回が初めてではありません。山もあれば谷もあり、留置場にぶち込まれることもある。それが人生というものです。晴れて自由の身となった暁には、また一からタイルを並べていくといたしましょう。


♪パ〜パラララ〜(エンディングテーマ)


飽くなき探究心と情熱と何らかの罪状を胸に、安田タイル工業は今後も逆風に向かって力強く邁進してまいります。ご期待ください。

安田タイル工業プレゼンツ「専務、留置場にぶち込まれるの巻」 終わり


人生の半ばを過ぎてとうとう公権力の手に落ちた専務に励ましのお便りを出そう!


ちなみにこの獄中手記、全文の末尾に明らかに専務ではない何者かの筆跡で日付が書き込まれており、これがきちんと検閲されたものであることを他の何よりも生々しく証明してくれています。

なお、安田タイル工業の社屋は現在、新宿区に店を構える古書店アルスクモノイのどこかに鎮座する愛らしい支社ビルしかありません。あしからずご了承ください。



2021年12月23日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その355


追伸にタイムリーな一言をいただいたので取り急ぎお答えしましょう。


コーヒー・ルンバ(掃除機)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. コーヒー豆を焙煎する際のチャフの処理はどの様にされていますか?

自宅で網をフリフリ直火で焙煎しているのですがチャフは飛び交うに任せているので豆を冷ましている間にいそいそと台所中を掃除しています。「え!そんな所にまで飛んでたんだ?!」と節分の豆を片付けているような気分になれて割と嫌いじゃない作業なのでこのままでも良い気はしますが、効率的な掃除法などございましたら御教授ください。もし可能であれはお気に入りの豆の品種や炒り加減なども教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

p.s. 今年も年賀状の募集はありますか?


コーヒーの焙煎について質問をいただく日が来るなんて、時代は変わったとつくづく感じ入るものがあります。べつにコーヒーの専門家でも何でもないのに、ちょっとうれしいですね。

チャフというのは、コーヒーの生豆についている薄皮のことです。焙煎時に剥がれてなくなるのでご存じない方のほうが多いかもしれません。米の籾殻みたいなものですね。僕が焙煎を始めた30年前は確かシルバースキンと呼ばれていました。

さてその薄皮であるチャフですが、これはもう本当に薄くて軽いので、直火で焙煎すると熱で大量に舞い上がることになります。またその器具が網である場合は何しろ網なので、網目からも小さなチャフがハラハラ落ちまくります。網で焙煎するときの最大の難がこれですね。僕なんかはもう30年やっているので気にもなりませんが、これから始めようという人には確実に大きなハードルのひとつです。

僕が昔から今に至るまで一度も買い替えずに使いつづけているのは、大豆その他の豆を煎るための手網です。網と言っても同じ網の蓋がついているので、焙煎中にチャフが舞い上がることはありません。掃除が必要なのはむしろ網目からコンロに落ちたチャフのほうですね。

また焙煎後の豆を冷やすときもザルに移し替えてからベランダに出てパタパタとうちわで煽るので、チャフが舞い上がるとしたらここです。でもだいたい、風に乗ってどこかに飛んでいきます。

なので、僕のケースと異なるのは、「チャフが飛び交う」ことと、「冷ましている間に掃除をする」ことですね。蓋があれば飛び交うことはまずないし、急速に冷却する必要があるので掃除をするのは豆を冷ました後になります。さすがにその心配はないと思うけど、もし仮に自然に冷めるのを待っているのだとしたら、余熱で豆の中心から焦げていくので、気をつけてください。冷めたあと指先で豆を割ってみるとよくわかります。

もし手網に蓋がないなら蓋があるものに切り替えること、蓋はあるけど焙煎の度合いを見るために開きっぱなしにしているなら焙煎中はそれを閉じてしまうことで、チャフが飛び交うことはなくなるはずです。ありがたいことにコーヒー豆は焙煎するとパチパチと爆ぜるので、視認せずとも音で状態を判断できます。大きくパチパチと爆ぜた時点が浅煎りで、その後しばらくしてもう一度プチプチと小さく爆ぜた時点が中煎りから深煎りです。僕自身は2度目に小さくプチプチと爆ぜ始めたあたりで火を止めています。

それからコーヒーは豆の洗浄工程の違いで「ナチュラル」と「ウォッシュド」に分けられますが、ナチュラルのほうが断然チャフが多いので、なるべくウォッシュドを選ぶ、というのもひとつの手ではあるかもしれません。とはいえ風味がかなり異なるし、チャフのために変えるわけにもいかない気はしますけれども。

掃除はコンロに落ちた大量のチャフを濡れ布巾で拭き取るだけです。コンロ外に飛び散ることはほとんどありません。もし僕とまったく同じやり方で広範囲に飛び散っているとしたら、何が違うんでしょうね?

また、僕がふだん家で主に飲んでいるのはブラジルとマンデリンです。お気に入りというよりはとにかく圧倒的に安いという理由でブラジル、苦味が長所なのでモカなんかと違って焙煎しやすかったという理由で、マンデリンです。たまたま苦味に強くて好きだったから、ちょうどよかったというのもあります。そもそも以前はそれこそコロンビア、ブラジル、グァテマラ、モカ、キリマンジャロ、マンデリン、ブルーマウンテンくらいのざっくりした選択肢しかなかったから、その中から選んで今もそのまま、という感じですね。バリエーションも、あってせいぜい豆の形(例えばピーベリー)」と豆のサイズ(スプレモとかAAとか)くらいでした。それに比べると今は種類もめちゃめちゃ多いし、農園(!)も選べるし、ロブスタ種みたいな本来は缶コーヒーなんかに使われていた工業用の豆まで手に入るんだから、いい時代です、ホントに。

そして追伸に記されたこの時期最も重要な案件についてですが、年賀状キャンペーンはもちろん今年も実施されます。ぎりぎりになってしまうかもしれないけど確実にやるので、今しばらくお待ちくださいませ! 


A. なるべく蓋をしたまま焙煎することです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その356につづく! 

2021年12月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その354


やもめのジョナサンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 山の麓と湖の畔、居住するならどちらを選びますか?

というのも、私事ですが、今年度から仕事の部署移動があり、主な仕事が「アライグマの捕獲及び殺処分」になりました。アライグマについて聞きたいことがあったら、いつでもお申し付けください。


ひさしぶりに肝心の質問がまったく頭に入ってこない質問です。これはアライグマを捕獲するならこのエリア、という意味なのか、それとも殺処分にうってつけのエリアなのか、あるいはアライグマに荒らされやすいとか襲われやすいエリアなのか、それとも逆にその心配はありませんということなのか、いずれにしてもアライグマは見た目に反して懐きにくい上にかなり獰猛な生き物なので、なかなかハードなお仕事であるとお察しします。しかし世の中にはいろんな部署があるものですね。

僕が暮らす地域でアライグマを見かけることはほとんどありませんが、代わりにハクビシンがいます。夜中に大通りをのんびり横断しようとするもんだから原付を停車する羽目になったり、ふと夜空を見上げたら電線をサーカスよろしくトコトコ歩いていてギョッとさせられることしばしばです。木も土もろくにないような住宅街で普段いったい何食ってんだろうとおもう。

質問に戻りましょう。アライグマについてはまあ、いたらいたでどのみち対処しなくてはならないのだし、考慮に入れないでおくとして、山の麓と湖のほとりなら、圧倒的に湖のほとりですね。というのも、山はどうあれ、地面が盛り上がっているだけだからです。

誤解してはいけません。山は大好きです。多様な植生も、そこで暮らす獣たちも、また僕の体質的にも町よりは断然向いています。しかしそれでもなお、依然としてラクダのこぶみたいなものであることもまた確かです。斜面があり、頂上があり、より多くの水を貯えることができる、それだけです。結局のところ山とは森の一種であり、平地の森と何が違うのかと言えばその形状と高度にすぎません。また考慮すべきリスクとしてはオオカミや熊に食われることもあリます。21世紀を迎えシンギュラリティすら目前に控える今このときにあっても、丸腰の人間は大自然に対して無力です。

湖もまた大自然の一部ですが、山とはすこし違います。地面の代わりに水なので舟さえ用意しておけば追手が来てもすぐに逃げ出せるし、魚に食われる心配もありません。ネッシーみたいな怪獣がいれば若干リスクは高まるけれども、そこまで気にする必要もないでしょう。また、とりわけ大きな利点としては例えばうっかり斧なんかを落としてしまったときに、金と銀の斧を手にした女神が現れる可能性もあります。山ではそうもいきません。バイカル湖くらいの大きさになると女神の登場するポイントが岸からだいぶ離れて視認できないかもしれませんが、それでも可能性がゼロよりははるかにましです。日頃から「いえ、僕が落としたのは錆びついた小汚い斧です」とすらすら暗唱できるように練習しておく甲斐は十分にあるでしょう。アーサー王伝説でも「湖の貴婦人」はその絶世なる美しさを謳われているし、要するに湖にはなんというかこう、憧れにも似た夢があるのです。

山もすこしは湖を見習ってですね、何ならここで命を落としても本望であるとおもうくらいメロメロにさせられる夢があって然るべきだと、僕なんかは強くおもいます。


A. 湖のほとりです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その355につづく! 

2021年12月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その353



ちょっとずつ猛進さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 5-6年ぶりにできた彼女とけんかしたときのナイスな仲直りのしかたを教えていただきたいです。


3年前にいただいた質問なので、今もその仲は続いているのか、とうにお別れしているのか、なんならその方と結婚して今や父となっていたり、仮に父となっていてもお相手が別だったり、そもそも父ではなくおふたりとも母だったりしていろいろ面目ない可能性も大いにあるとおもいますが、その後いかがお過ごしでしょうか。僕はと言えばおかげさまで3年前とほぼ同じです。

さて、世の中にはナイスな仲直りについてのアドバイスが星の数ほど散らばっているように見受けられますが、そうですね、かれこれ20年ちかくをうちの人と共にすごした僕個人の印象から申し上げるなら、そんなものはありません。どちらか一方が折れて譲るのでないかぎり、仲直りというのは常に、木枯し吹く河川敷で対峙したふたりがさんざんボカスカ殴り合ってもうこれ以上は腕が上がらないほどへとへとになり、傷だらけでぶっ倒れて喘ぎながら「…やるじゃねーか」「…おまえもな」と互いに顔を見合わせてニヤリとするみたいなことでしかないのです。

お付き合い初期はまだ気持ちに余裕があるので、持ち上がった問題を脇に寄せつつ有形無形の贈り物かなんかでなんとなくうやむやにすることもできます。しかし実際のところそれはコップに水を1滴ずつ溜めていくようなものです。最後の最後は本当に1滴未満で溢れてそれ以上はどうやっても入らなくなります。何ならあくびをするときの顔が耐えられないとかそういう豆粒レベルの話で関係が終わるでしょう。

続くときはたとえ血みどろの殺し合いになってもなぜか続くし、続かないときはどんなに愛情を注いでもなぜか続きません。恋愛とはそれが始まった太古の昔からそういうものだし、またこの先も永遠にそうでしょう。それならあれこれ考えたところで同じことです。堂々と胸を張って指をポキポキ鳴らしながら河川敷に赴いてください。手を抜いてはいけません。いつでも全力で突っ込んでいき、一発お見舞いしたり返り討ちにされたりして、また明日を迎えるのです。互いに満身創痍で手をつないでこそ辿り着く、ふたりだけの境地があると僕はおもいます。


A. 全身全霊で立ち向かうその先に真の仲直りが待っています。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その354につづく! 

2021年12月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その352


おやゆび悲鳴さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 眠れない時に「羊が一匹、羊が二匹…」と数えると良いと言いますが、犬に置き換えるなら、どの犬種が良いと思いますか?


ふむふむ、たしかにそういう話は昔からよく聞くし、何なら今でもふつうに通じますよね。

しかし言い伝えとして道ばたのガムくらいがっちり定着しているわりに、実際に羊を数えて眠れたという話はとんと聞きません。なぜそう言われているのか、誰がそう言い出したのか、そもそもこの話のいったいどこにそんな説得力があるのか、そしてもうそろそろいいかげんはっきりさせておいたほうがいいのではないかとおもうから言いますけれども、この程度で眠れるならそれは眠れないとは言いません。ただ眠れない夢を見ているだけです。

だいたい思い浮かべるその羊が3次元(実写)なのか2次元(アニメ)なのかも判然としません。でも牧草地でもくもくと草を食むリアルな羊を頭の中でぞろぞろ歩かせる人がいるとも思えないし、ほとんどの人がデフォルメされたイラストをまず思い浮かべそうです。リアルじゃなくてもいい、もしくはせいぜい羊的な何かでよいのだとすれば、工場でベルトコンベアを延々と流れてくる肉まんを数えたって同じことじゃないですか?羊じゃないからダメだというなら、この肉まんの肉が羊であるとムキになって反論する用意もあるし、白くて温かいふわふわしたものに包まれた羊の肉ならそれは見た目からしても実質的にもほぼ羊です。これが羊でないなら一体何が羊だというのだ。

そうしてどうにかこうにかほかほかの肉まんもまたある種の羊であるとその筋の権威に認めさせて、心置きなく布団をかぶり、満を持して工場のベルトコンベアを流れてくる無限の肉まんを思い浮かべながら、肉まんがひとつ、肉まんがふたつ、肉まんがみっつ……まあ、ひとつくらいは食ってもいいだろう、どうせ無限に流れてくるんだし、また数え直すとして、もぐもぐ 、今流れていった20個くらいはカウントしなくてよいのかな、こうしている間にもどんどん流れてくけど……

何しろ本質的には羊でありつつ実質的には肉まんでもあるから、飽きてきたらあんまんとかピザまんとかキン肉マンに置き換えることもできるし、それはそれで汎用性が高くていいけれど、いずれにしても安眠どころか不眠をこじらせるだけなのはわかりきっています。なぜおれは肉まんを食いながらキン肉マンを数えているのだと至極当然の疑問を抱くことなく眠れる人は、どう考えても初めから羊なんかいなくたって眠れる人です。

したがって文字通り、目を覚まさなくてはいけません。羊は数えるより毛を刈るべきものだし、肉まんは数えるより寒い冬に湯気を立てつつコンビニの前なんかでひとりもふもふと食むべきものだし、キン肉マンはマンガ史における不朽の名作です。

そうして真の意味で目覚めたとき、わたしたちは真の意味で新しい朝を迎えているでしょう。

それはそれとして犬についてですが、個人的にはシーズーなんかいいとおもいますね。飛び越えるべき柵の手前で「?」みたいな顔したりしてね。


A. シーズーです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その353につづく! 

2021年11月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その351


マザー偶数さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)2のことでしょうね、たぶん。


Q. なんとなく寂しくて寂しくて…というとき、どんなことをしますか?


これは僕にとって昔から興味深いものでありつづけている、問題のひとつです。というのも、僕は寂しさに対していささか鈍感で頓着しないところがあるからです。

寂しいという感覚はもちろんわかります。たとえば人がいっぱいいてざわめいているような場で、誰とも会話を交わすことなくぽつんと佇んでいるときに感じるいたたまれなさは、寂しいと言い換えてもいいとおもう。正確には自分が寂しいというより、傍目からは寂しく見えるだろうな、という客観的な意味合いのほうが近いとおもいますが、それほど大きな差はないはずです。個人的には逃避のしようがないこの状況のほうがよっぽどしんどい。

僕はそもそも知っている連絡先が人生の折り返し地点を過ぎた今も紙切れ一枚で済むような、きわめて身軽な男です。友人が少ないと言ってしまえばそれまでのことだけれど、何しろずっとこんな感じなので、しょうがないよな、と大らかに受け止めているところがあります。またその裏を返せば、寂しくない状況をろくすっぽ経験したことがない、とも言えましょう。海底しか知らない深海魚が海底の暗さを訊かれてもピンと来ないのと同じです。

浮気の経験がある人に聞くと、寂しいというキーワードがわりと頻繁に出てきます。これも僕にとっては未だにさっぱりわからない謎のひとつです。寂しさが一時的に紛れるのはわからないでもないけど、一度でも一線を越えれば二度とそのハードルは元に戻らないし、リスクと代償の大きさで言ったら覚せい剤なんかと変わりない気もするのです。その判断と行動が本当に寂しさによるものなのかどうかは当人しか知りようがないのでこうと断じることはできないけれども、少なくともここには、寂しさって何なんだと僕に首を傾げさせる何かがあります。

どうにかしたいと感じる寂しさがあるのだとしたら、それは寂しくない状況を経験していて、そうあるべきと考えているか、少なくともそれを是としているからです。でも世界はとても広いので、全然そうではない人も数えきれないくらい存在します。寂しさを当たり前のことと思わずに、はて、そも寂しさとは何ぞやとこの機会に改めて向き合ってみてもよさそうです。

僕自身はもともと一人志向なところがあるけれど、これはほっといてほしいとか積極的にそう努めているというより、ひとりでも平気というくらいのことにすぎません。また一方で、人とつながっていることはすごくすごく大事だという認識もあります。両極端に走らないこの両刀使いは実際のところかなり有益です。数十年生きてきた経験から、今まさにそのことをしみじみと実感しています。

したがって、定期的に寂しさに苛まれることがあるのだとすれば、まずはひとりで完結できる世界を構築することです。じぶん以外の誰かがいないと成り立たない世界は、それだけである種の強迫観念を生み出します。寂しさを一時的に埋めたり紛らしたりしたところでそれはあくまで対症療法であって根治にはならないし、いずれまた寂しさに苛まれるときが来るでしょう。それならその寂しさをパートナーとして温かく迎え入れるほうがむしろウィン=ウィンである、というのが僕の見解です。

ひとりでいることと、人と交わることを、等価で楽しめるように心がけましょう。と同時に、寂しさが程度の差こそあれ依存の一種であって一定の距離を保つほうがいいことも、胸に留めておきましょう。

あと、寂しさが今ここに影みたいな感じで存在するとして、大豆を煮ながらコトコト沸き立つ鍋を一緒に見つめたりしていると時間があっという間に過ぎていきますね。


A. 大豆を煮ています。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その352につづく! 

2021年11月19日金曜日

あらためて「パン屋再襲撃」のお礼とお詫びと釈明など


そんなわけでデッドストックとして発掘されたミニアルバム「パン屋の1ダース」を少数ですが販売するKBDG秋のパン祭り、もしくはプロデューサーである古川耕言うところの「パン屋再襲撃」(©村上春樹)はぶじ終了いたしました。うまいこと言うなあ……。ご購入いただいた数十名のみなさまには感謝しかありません。ありがとうありがとう。

パッと瞬いてぽとりと落ちる、線香花火のようなひとときを思い返してはしんみりとしております。花火のあとはいつもどこか物寂しい。

そして惜しくも逃されたみなさまには本当に面目ありません…!何しろあれからもう7年も経っているし、サブスク全盛で今や化石となりつつあるコンパクトディスクだけに、希望者にすこしお裾分けできればくらいの気持ちだったのです。だって7年て、古稀が喜寿になっちゃう年月ですよ。

16日(火)正午の販売開始から5分後にはレーベルのボスから完売メールが届きましたが、翌日のアルスクモノイ店頭で入手してくれた方によれば、事前に時計を日本標準時に合わせて正午ちょうどにカートに入れたにもかかわらず、購入完了まで辿り着けなかったといいます。

いったい誰がそんな、ビーチフラッグみたいな争奪を勝ち抜けるというのだろう?おまえまじでふざけんなよそんなの買えるわけないだろうが!と僕も声を大にして言いたい。ここで言うおまえというのはもちろん僕のことですが、ちがうんですすいませんそんなつもりでは全然とひれ伏してドブに頭を突っ込むほかありません。

そしてこう仰りたい気持ちもすごくよくわかります。すなわち、「デッドストックとかケチくさいこと言ってないで1000枚くらいプレスしてたらこんなことにならなかったのに!」と。

しかしそうは問屋が卸してくれません。たとえば50枚に対して70人のウォントがあればそれはもうどうしたって血で血を洗うバトルロワイアルになります。しかし1000枚プレスすれば全員にまちがいなく行き渡る分、当然の帰結として930枚の在庫を抱えることになるのです。

ちょっと想像しづらいとおもいますが、CD930枚というのはその段ボールをベッド代わりにでもしないかぎり、4畳半の部屋ならかなりの部分を占めてしまう物量です。安田タイル工業の専務はかつてレーベル運営も手がける辣腕だったので実際に在庫を机とかベッドにして寝起きしていましたが、どうにかしたくともどうにもならない哀しみは筆舌に尽くし難いものがあります。

1秒を争う争奪戦になるのはさすがに想定していなかったけれども、といってじゃあ、えっめっちゃ人気じゃん再プレスしちゃう????とは全然、まったく、微塵もならない理由が、これでおわかりいただけましょう。

それにこれもすごくすごく重要なことだけれども、もし「パン屋の1ダース」がアルバムと同じくらい良いものなら、まちがいなく5枚目のアルバムになっています。ですよね?そうなっていないということはつまり、そういうことです。価値がないとまではご購入くださったみなさまと全身全霊を捧げた僕自身のために口が裂けても言えないけれども、そういうことです。速攻でメルカリに出品されませんようにと心から祈る今の僕のこの不安に満ちた胸の内を察していただきたい。無精髭に上下たるたるのスウェットで股ぐらをぽりぽりかきながらよたよた歩くしがない中年にすぎない小林大吾がどうという話ではなく、ただ形見みたいな製品の需要と供給に若干の誤差があったというだけなのです。

忘れてよろしい。どうあれ手元がすっからかんになった以上、僕も積極的に忘れていく所存です。なんだか惜しいことをしたような気にはやっぱりちょっとさせられるけれども、実際にはただ1本の儚い線香花火が瞬いて散った、それだけのことにすぎません。

それより僕としては、15年以上の時を経てタケウチカズタケと改めて録り直した「棘/tweezers」こそ現時点で最大のボムです。どれくらいボムかというと、一度完成した音源を聴き直すことがない、というか別に聴きたいと思わないのでまず聴き返さない僕が、生まれて初めて何度も繰り返し聴いてなお飽きないのだから、ただ事ではありません。YouTubeなのか配信なのかまだわからないけれども、これに関しては例のパン屋再襲撃とちがって聴きたいとおもえばいつでも聴ける形になります。なるはずです。

過ぎたパン屋はカラッと忘れて、どうかどうか、次はこれをお待ちあそばせ。

2021年11月12日金曜日

CD「パン屋の1ダース」販売のお知らせ

かつて存在し、今も世界のどこかにあるとまことしやかに伝えられ、都市伝説というか町内伝説というか所帯伝説というか、個人的に語り継いでいたかと言えばそんなこともないCD「パン屋の1ダース」が鬱蒼と生い茂る密林の奥からごく少数発掘され、このたびめでたく販売の運びと相成りました。


販売開始は11月16日(火)の12時、正午です。以下のサイトからご購入いただけます。

小林大吾「パン屋の1ダース」FNSR-015½
¥1,980(税込)+送料
FLY N' SPIN RECORDS


本当に少数なので、お一人様一点限りです。

さらに「小数点花手鑑」の取扱説明書(特装版)がオマケについてきます。というのもここには「パン屋の1ダース」に収録された曲の解説が載っているからです。ページが増えてしまったため、通常版に比べて「安全上のご注意」がやたらと増幅されています。


基本的には上記の通販がメインですが、唯一の例外として知る人ぞ知るイルな古書店「アルスクモノイ」店頭でも5枚限定で販売します。ただし16日(火)は定休日なので、翌17日(水)開店時からの販売です。またこちらは店頭のみで、通販、お取り置きには対応していません。ご注意ください。


念のためご説明申し上げておくと、「パン屋の1ダース」とは、今を遡ること7年前、2014年にリリースされたアルバム「小数点花手鑑」の特装版(500部限定)に同梱されていた、ミニアルバムです。

タイトルは「13」を意味する英語 "baker's dozen" の訳で、収録されている曲数がたまたま13だったという身もふたもない事実に由来しています。

そして今となってはこれも但し書きとして明記しておかねばならない気もしますが、これはCDです。CDというのはコンパクト・ディスク(Compact Disc)の略称であり、専用の機器によって再生される、円盤状のプラスチックでできた記録メディアです。盤面は銀色でキラキラしているため、マンションのベランダでカラス除けとして利用されることがあります。コンポやディスクドライブといったそれ用の機器がないかぎり、再生することはできません。ご注意ください。

特装版について誇らしげに語るつもりがその前に売り切れてしまって途方にくれた当時のブログを再掲しておきましょう。



さて、早まって購入ボタンを押してしまい、届いてからその内容に地団駄を踏んで後悔することがないよう、「パン屋の1ダース」の内容をここに洗いざらい記しておきましょう。

最大の特徴は、「小数点花手鑑」や他のアルバム同様、ブックレットがきちんと作りこまれている、という点です。もともと歌詞カードというよりちいさな書物をイメージした本気の仕様なので、15ページ足らずとはいえ読み応えがあります。仮にプレイヤーをお持ちでなくとも手にする甲斐はある、というのがこしらえた当人である僕の印象です。(※印象には個人差があります)


収録されている楽曲は以下の通りです。

01.  涙ぐむ蛙の三段論法/hop, step & dump
02.  行間1:賢いハンス号/RBTL1:clever Hans
03.  はたらく爆発物処理班/time after time
04.  行間2:赶老羊/RBTL2:Gan Lao Yang
05.  もちろん蚊帳は外のほうが広い/grilled fish in the sky
06.  行間3:百足みたいに多すぎる蛇足に関する補足/RBTL3:it's no use
07.  迂回路ビタースウィート/kidnap service., ltd.
08.  行間4:甘く乱暴なシュガーヒル・ギャング/RBTL4:sweet stuff
09.  コード四〇四/page cannot be found
10.  行間5:何かについて語るときのどこまで語るか問題/RBTL5:it's no use too
11.  アリアドネの糸玉/spin me a yarn
12.  安田タイル工業のかなり重要な会議/tile different
13.  七つ下がり拾遺(タカツキの乳製品リミックス)/synaptic ah-choo (Mr.T's milk products remix))

このうち、「行間」とある5つはインストです。詩はありません。「安田タイル工業のかなり重要な会議」には声が入っていますが、これは単なる会議です。「小数点花手鑑」に収められていたものの長尺版ですが、やっぱり途中でフェイドアウトしています。

したがって、リーディングが含まれているのは7曲です。

涙ぐむ蛙の三段論法/hop, step & dump」と「コード四〇四/page cannot be found」についてはYouTubeでも公開しています。

個人的には「迂回路ビタースウィート/kidnap service., ltd.」が詩としても、またブックレット上のデザインでも好きな一編ですが、なんだかよくわからないにもほどがありすぎるという理由で、あまり公に強調したことはありません。そして今後もないでしょう。


これが本当に最後のデッドストックです。どうかあなたに、届きますように。

2021年11月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その350



アリとわりとぎりぎりなキリギリスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)

Q. 私は、親切な人でありたいと思っているのですが、いまいち親切が何か分かってません。他人からしてもらった親切の中で、ダイゴさんの記憶に残ってるものってどんなものがありますか?


その昔、少年チャンピオンで連載されていた「マカロニほうれん荘」という作品があります。昭和50年代前半に描かれ、当時の子どもたちに核弾頭クラスの衝撃をもたらし、40年以上が流れ去った今もなお全国各地に熱狂的な支持者が多く存在する、伝説的なギャグマンガです。

連載されていたのはたしか、昭和52年から54年までです。たった2年の連載で数十年後も語り継がれているのだから、その影響力がいかに凄まじいものだったか、推して知るべしと言えましょう。

もちろん、僕はリアルタイムの読者ではありません。初めて目にしたのが小学校低学年だったから、連載終了からおそらく5年以上が過ぎています。進んでマンガを読むような親ではなかったし、買ってもらえることもあまりなかったのに、なぜか実家の本棚に1冊だけ、カバーのない「マカロニほうれん荘」の5巻がありました。それがすべての始まりです。ちょうど少年ジャンプでドラゴンボールの連載が始まったくらいの頃ですね。

今とはちがって、連載終了から数年が経過した少年マンガを、小さな町の本屋で手に入れるのは困難です。でもあちこち駆けずり回ってどうにかこうにか手に入れて、お小遣いで一冊ずつ増やして、揃えました。ひょっとすると人生で初めて全巻を揃えたマンガだったかもしれません。まず間違いなく今の僕を形づくったものすごく大きな原材料のひとつであり、死ぬまで手放さないマンガといったらこれと「超人ロック(初期同人誌版含む)」くらいしか思いつかない。それくらい、僕にとっては重要にして不可欠な作品です。

ただ、先にも書いたように、僕は後追いの読者です。リアルタイムでなく、単行本でしかそれを知らないということはつまり、「カラー原稿を単行本の表紙以外で見たことがない」ということでもあります。時代も時代だし、それはもうどうにもならないことなので、あんまり深く考えたことはなかったんだけれど、

注:ここまでが前置きです。

数十年後、夢にまで見たマカロニほうれん荘のカラー原稿を目にする機会がやってきました。それが2018年に東京・中野ブロードウェイで開催された原画展です。

展示期間は2週間くらいで、僕が行ったのは最終日の夕方です。そんなに大事な展示なら初日に行けよとじぶんでもおもうけど、ふだんから情報収集に長けていないのとおそらくは例によってぼんやりしていたのでしょう。どういうわけか観覧無料だったので、チケットが売り切れるとか、そういう心配をしていなかったこともある。ここで悲劇が起こります。

そのときまで僕はまったく知らなかったのです。観覧は無料だけれど、あまりに人気で入場を制限するため、時間帯ごとに区切った整理券が必要になっていたことを。最終日の夕方に観覧するための整理券は昼前に配布が終了していて、何をどうやっても観覧することは不可能でした。(このあと地方を巡回することも知らなかったから、まじで最初で最後だとおもっていた)

このときほど膝から崩れ落ちたことはありません。あまりに呆然としてその場に立ち尽くしてしまい、頭がまっ白で何も考えられなくなって帰るための階段さえまともに降りられなかったくらいです。一歩降りるのに5秒くらいかかってたとおもう。それまで過去に戻りたいと願ったことはなかったけれど、このときだけは本当に時間を巻き戻したいと、生まれて初めて痛感したことをよくおぼえています。だって1日前に来てただけでもぜんぜん話が違ってたはずじゃないか?

そのときひとりの青年が、顔面蒼白で灰になりかけていた僕に近づき、声をかけてくれました。

「あの、整理券余ってるんで……よかったら……」

え……?

何の話をしているのか脳内がフリーズしていてまったくわからず再びその場に立ち尽くします。え、待って待って、この麗しい青年はいったいどなた……?天使……?天使なの……?天使が見えるということは……まさか僕は本当に死にかけてるのではないか……?

だってそんな、もうこれ以上はどうにもならない状況で、唯一の解決策をなぜかたまたま余分に持つ人が通りがかって、見返りを求めることなく譲って去るとか、そんなご都合主義のラブコメみたいな話ある……?そりゃ人目も憚らず号泣しそうになろうというものじゃないですか?

少なくともひとつはっきりしているのは、彼がこのときの僕にとっては天使というか神にも近い存在だったということです。ここで運を使い果たしたと言われても、そうか、じゃしかたないな、と割り切れるくらい、本当に本当にうれしかった。ありがとうありがとう。本当にありがとう。大袈裟でなく、一生忘れません。だってもう、生きてるうちに鴨川つばめ御大の、マカロニほうれん荘のカラー原画を見る機会なんて、来ないかもしれないんだよ!!どうかどうか、僕が今も感じている恩義と同じくらいの幸運が、彼にも雨と降り注ぎますように……!!

あとで聞いた話では、地方から足を運んだにもかかわらず僕と同じような状況で観覧できなかった人がやっぱりいたらしくて、その絶望はもう誰よりよくわかるし、申し訳なさもあって人に話せるようなことではなかったけれど、「記憶に残る親切」で真っ先に思い出されるのがこれです。




さて、感極まって溢れ出した滂沱の涙をぬぐいつつ、質問にもどりましょう。僕の長すぎる話からおわかりいただけるとおもいますが、親切とはそれを受けた人だけがそう感じるものです。親切であろうとすることが、実際に親切であるかどうかは受けた相手にしかわかりません。僕に整理券を譲ってくれた神のように眩しい青年は、数年たった今でも僕がこうして拝んでいることなど想像もしていないでしょう。

そのときできることをする、その結果が親切になるかもというだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもありません。それはつまり、親切という結果を得ようとしない行動こそ親切の種である、ということでもあります。なんとなれば、大きなお世話にしかならないケースもままあるからです。

そうありたい、と願うきもちはすごくよくわかります。そう心がけつつ生きるだけで、きっと僕のように一生忘れない恩義を抱く人がいるはずです。


A. 灰になりかけたところを救ってもらったことがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その351につづく!  

2021年10月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その349


原子力炊飯器さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 文字を書く時に「書き順」って気にしますか?


わりと日常の、何でもないことのように思えて、考え始めるとなかなか奥の深い問題です。

完全に合理的な視点で言うと、書き順など何の意味もありません。なんとなれば文字とはあくまで伝達のための記号であり、伝わりさえすればそれで役目を果たしたことになるからです。どういう手順で書かれたかなど読む人には知りようがないし、そもそも文字は連ねてこそ意味を成します。どの文字もメッセージの一要素にすぎない以上、とにかく特定の文字であることが瞬時に判別できればそれでよろしい。

書き順で僕が昔から釈然としないのは「右」と「左」の2文字です。「右」ははらい(上から下)を先に書きますが、「左」は横棒(左から右)を先に書くことになっています。ですよね?

これには一応ちゃんとした理由、といっても合理性ではなく文字の成り立ちから来る理由があるらしくて、聞けばたしかにふむふむなるほどね、と納得はできるんだけれども、人生の折り返し地点をすぎたとおぼしき今になっても、だから何だとおもっているところがあります。

だいたい文字の成り立ちに敬意を払うならフォントだって左の横棒より右の横棒の方が長いはずだけど、フォントによっては長いどころかむしろ短くなっているくらいなのです。成り立ちがスルーされるのなら、それに基づく書き順も当然スルーされなくてはなりません。(ちなみに教科書用のフォントではちゃんと右の横棒が長くなっています)(逆に忌々しい


大昔は文字、とりわけ表語文字は使える人が限られていて、それ自体がある種の神性を帯びていたはずだから、書き順をまちがえることでその神性が損なわれたとしても無理はないし、だから書き順が決まっているのもすごくよくわかる。でも多くの人が当たり前に使うどころか、なんなら書かずに入力で済む現代にその順で書けと言われたらやっぱり何でだよとおもう。好きに書いていいけど、いちおう昔から伝わる書き順はこうだよ、くらいに留めてほしい。

ここまで書いて読み返すと合理性一本槍の強硬な反対派にしか見えませんが、論理的に突き詰めたらそうなるよなというだけで、僕個人はそうでもありません。それはそれ、これはこれです。少なくとも「右」と「左」のように、書き順を知っているものはそのとおりに書きます。

習慣というのもあるけど、すっかりおっさんになって老いが視野に入ってきた今の僕はむしろ、合理的でないものこそ世界を豊かに美しくする、必要にして不可欠な要素だと感じているからです。

気にするほどではないけれど、そういうことになっているならそういうことにしておこう、というゆるい受け止め方はそれが思考停止でなく明確に意識的であるかぎり、取り巻く世界にちょっとした彩りを添えてくれる、と今の僕は考えます。

何しろ合理性はぐうの音も出ない明快な答えを与えてくれるぶん、それ以外は無意味という拒絶も同時に孕んでいます。腹に入れば同じだし、味が変わらなければいいと盛りつけや提供の順に意味を見出さないようなものですね。

意味と無意味のモノトーンできちんと分けられた無駄のない世界と、無限のグラデーションに満ちたカラフルで無駄の多い世界のどちらで生きるかと言われたら、僕は後者を選びます。論破の牛耳る世界ではおちおちゴロ寝もできない。

したがって、書き順があり、それを知っているなら特に不都合がないかぎりそれに従う、というのが僕のスタンスです。知らないものまでそうあるべき、とは微塵もおもわないですけども。


A. 知っていればなるべく従います。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その350につづく! 

2021年10月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その348


げんこつ山のパルチザンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. たいやきくんが「ある朝、店のおじさんと喧嘩」したという、喧嘩の原因が知りたいです。


昭和50年に勃発し、平成、令和と二つの年号を経た今も語り継がれる伝説の大喧嘩、いわゆる「たいやき事変」ですね。何しろもう45年も前のことなので、リアルタイム世代ではないにせよ、かつては冷めたたいやきの1尾でもあった僕の耳にも、その言語に絶する凄惨ぶりは刻みつけられています。あのときそこで一体何が起きたのか、後世への教訓としても改めて記しておくべき歴史のひとつかもしれません。

そもそもの発端は、店のおじさんが「きのこの山、美味いな」と呟いたことにある、と伝承では言われています。来る日も来る日も一枚一枚、せっせとたい焼きを焼きつづける男の、迂闊と言えば迂闊すぎる一言です。たい焼き一筋で数十年生きてきた男が、仮にふと思ったとしても軽々しくそんなこと口にするんじゃねえよ、だいたいたけのこの里こそ至高だろうが!とたい焼きがキレたのも頷けます。

そこで思わず吹き出したのが店のおじさんです。たけのこの里だと?聞いたことねえな、ははははは!たけのこの里か、そんなもんがあるなら出してみろよ、ほら!ははははは、言うに事欠いてたけのこだとよ!こいつァ傑作だ!

なぜこんな鼻であしらうような話になっているかというと、きのこの山はたいやきくんが店のおじさんとケンカしたまさにこの年、昭和50年の発売ですが、今もつづく論争の相手であるたけのこの里の発売はこの4年後、昭和54年だからです。今では永遠のライバルであると誰もが認めるたけのこの里は、たいやきくんがキレた時点ではまだ誕生していなかったのです。

かつてたい焼きだった僕には今さら感のある話ですが、たい焼きは未来を見通すことができます。数年後にたけのこの里が華々しくデビューすることはもちろん、数十年後に世界がパンデミックに見舞われることも、スエズ運河が超巨大タンカーに塞がれて機能不全に陥ることも、アップル社が製品の心臓部をインテル製から自社製のM1に切り替え、ユーザーがその性能に驚愕することも、HUNTER×HUNTERの連載再開が定期的にトレンドになることさえ、たい焼きには以前からとうに周知の事実だった、と今ならはっきり申し上げてよいでしょう。

しかしこの時点、というのはつまり店のおじさんがうっかり口をすべらせた昭和50年にはまだ、平成という元号の登場すら想像もできません。ましてやたけのこの里など、苦しまぎれのでっち上げとしか受け止められないのも当然のことです。それでなくともこれからやってくる未来を既定の事実として語ることなどいつの世も頭がおかしいと一笑に付されるものなのだから、たいやきくんこそ迂闊であったと断じることもできましょう。たいやきくんは未来の話など持ち出すべきではなかった、ただムッとするだけに留めておけばこうも後年まで尾を引く問題にはなっていなかったはずだ、と僕を含むたい焼き次世代の間では意見が一致しています。

しかし一度頭に血がのぼると冷静な判断ができなくなるのは人もたい焼きも変わりません。明らかにじぶんのほうが正しいと確信している場合はなおさらです。おそらくたいやきくんも失言には気づいていたとおもいますが、鼻であしらわれて歯止めがきかなくなったとしてもムリはありません。そうした歴史をよく知る僕でも、未来についてうっかり口をすべらせて、あざ笑われたらやはりムキになるでしょう。たいやきくんを責めることはできない。

とはいえ先にも申し上げたように、昭和50年にたけのこの里はありません。ないものを引き合いに出していくら強弁しようと、埒が明くはずもないのは道理です。水掛け論の果てにはやはり、きっぱりとした決別しかありませんでした。

意図せず広大な自由を知ったたいやきくんはそれほど間を置くことなく海水に溶け、後年はちくちくとした胸の痛みに苛まれつつも最後までたい焼きにすべてを捧げた店のおじさんもこの世を去り、そしてたい焼きは平成、令和と時代を変えた今もなお、愛され続けています。きのこの山VSたけのこの里論争もまた果てしない水掛け論として折にふれては物議を醸していますが、その嚆矢がたいやきくんと店のおじさんにあることは、どうか知っておいてください。彼らのためにも。


A. たいやきくんが「たけのこの里」を持ち出したからです。




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その349につづく! 

2021年10月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その347


世界でいちばん熱い風呂さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 来年4月から東京で働くことになりました。東京でおすすめの飲食店はありますか?


ここで言う来年というのは2022年のことではありません。質問をいただいた2019年の翌年なので、つまり去年ですね。気がつけば1年半たっていますが、東京での暮らしには慣れましたでしょうか。何ならもう東京にはおられないかもしれませんが、例によってそのへんのあれこれはあまり気にせずお答えしましょう。

しかし東京は広い。

何しろ東京の最南端はおよそ1800㎞南にある「沖ノ鳥島」です。東京から沖縄までの距離がだいたい1600㎞なので、それよりもはるか南ということになります。ついでに言うと最西端も沖ノ鳥島です。どれくらい西かというと、大阪くらい西ですね。

沖ノ鳥島

最東端は南鳥島です。東京から直線距離で1900㎞弱あります。上海に行くほうが近くて早い。

南鳥島

沖ノ鳥島も南鳥島も飲食店どころか人もいない絶海の孤島なので、範囲に入れなくてもいいと言えばいいようなものですが、いつ誰がそこに蕎麦屋を開くかわからないし、いかに東京が広いかの目安にはなりましょう。

本州で言うと東端に流れる江戸川から西の奥多摩までだいたい80㎞くらいですが、東京に住んでいるからといって奥多摩に出向くことはまずほとんどありません。東京と言ってもほぼ山梨であり、仮にこのあたりにおすすめのお店があったとしてもそれなら埼玉や神奈川や千葉のほうがよほど近いし、少なくとも僕なら最寄り駅から電車1本で10分もあれば県境を越える埼玉に行きます。

「飲食店」という括りもまた大雑把です。はっきり言って東京は食に関しては完全にアミューズメントであり、日本全国はもちろん世界中のありとあらゆる食が網羅されている分、東京ならではと言えそうなものがそれほど目立ちません。ここでしか食べられないというより、ここに来れば何でも食える土地であって、むしろどんな希望にも無数の答えがある、と受け止めたほうがよいでしょう。考えようによっては楽園だし、また考えようによってはこれほど気が遠くなる話もありません。特にこだわりがなければ評判の店行っときゃまずだいたい美味いというのが、東京においては真理です。基本が自炊で外食することがあまりない僕が言うのもなんですけど。

とまあ、さんざん御託を並べてきたところで、わざわざそのために足を伸ばす甲斐がある、安田タイル工業の専務と主任イチオシのお店を紹介しておきましょう。

ひとつは銀糸町にある「亀戸餃子」です。メニューは餃子しかありません。たしか一皿300円くらいで、最低でもひとり2皿以上注文しなくてはいけなかったはずですが、とにかく味も雰囲気も体験としてここでしか味わえないものであることは間違いないので、一度行ってみてください。よほど慣れていないかぎり、カップルで行くことはオススメしません。ただ黙々と餃子を食って、食ったら出る店です。店のペースに飲まれると次から次へとわんこそばみたいに餃子がひたすら出てきます。ひとりで行くのがいちばん楽しめるんじゃないかとおもう。

もうひとつは駒沢大学にある「かっぱ」です。ここもメニューは煮込みとごはんしかありません。選べるのはごはんの量だけです。亀戸餃子と同じくここも主導権は完全に店側にありますが、雰囲気はよりシビアなので、やはりただ黙々と煮込みとごはんをかきこんで、食ったら出る店です。まちがってもデートで行くような店ではありません。

どちらも、よし、今日こそは行ってみるぞと鼻息荒く出かけて満喫したりしょんぼりしたりする甲斐はあります。すごく美味しいし、何なら安田タイル工業とは何かということについても、ちょっと理解が深まるかもしれません。


A. 「亀戸餃子」と「かっぱ」がオススメです。




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その348につづく! 

2021年10月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その346


ウニむさぼるスタジオジャパンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 運命の人に出会うにはどうしたらいいですか。


現在の僕はある種の運命論者です。もちろん宇宙の隅から隅まで、初めから終わりまですべてきっちり定められている、とまではさすがにちっともおもしろくないのでまったく考えていませんが、「人生にはあらかじめ決められた小さなポイントがある」とざっくり考えているところがあります。

小さなポイントというのは実際のところ、こっちの道から行こうとか、昼は何を食べようとか、それくらいのささやかなものです。要は選択なんだけど、それを「選択している」ではなく「選択することになっている」と考えるわけですね。

小さなポイントはそれ自体が分岐点になることもあれば、単に伏線のひとつでしかないこともあります。またその集合は気がつくとちょっとした川になっていて、おいそれとはその流れを変えることはできません。

これまでの道のりを振り返ったりするうちに漠然とそう考えるようになっていったのだけれど、この考え方が胸に根を下ろすようになったのは、あのときこうしていればという後悔がまったくなくなることに気がついたからです。何しろ「そう選択する」と決まっていたのだから、悔いる意味も甲斐もありません。責めるべきは自分ではなく、僕がそう選択することを決めた得体の知れない何者かです。人生が冴えないのはおれのせいじゃないという予防線にもなるので、今ではすっかりこのスタンスが気に入っています。

さて、そんな部分的運命論者である僕からすると、いただいた質問は「運命ナメんな」と一蹴せざるを得ません。なんとなればこの質問は、あらかじめ定められているはずの運命の人に出会えない可能性を示唆しているからです。八百長で勝つにはどうしたらいいかと訊ねるのに等しい奇妙さがあります。ほっといても、何があろうと、どんなあり得ない行動をとろうと出会ってしまうから運命なのであって、出会えないならそれは運命でもなんでもありません。というか、出会えないならそれこそが運命です。もしくは、「おかしい……この人じゃない……この人であるはずがない……」と感じるのに縁が切れないとしたらそれがまさしく運命の人です。

昔から疑問におもうことだけれど、運命の人という言い回しにはどういうわけかポジティブな響きがあります。運命である以上そもそも100%ニュートラルでそこにはポジティブもネガティブも同じだけ含まれるはずなのに、なぜ都合よくポジティブにだけ受け止められるのか不思議でなりません。前回、暗殺よりも不幸と言われた結婚に身を投じたリンカーンの話をしましたが、運命というならそうして娶った妻もやはり運命の人です。

まったくもってポジティブではない超ネガティブな可能性もポジティブと同じくらい厳然と存在する以上、運命の人のことなど考えないほうが賢明であると僕は断じます。夢をみるほどの甲斐ははっきり言って全然ありません。忘れるほうが無難です。考えうるかぎり最も相性の合わない誰かを運命ですと押しつけられることほどの絶望が他にあるだろうか?

なので改めて、自身に問いかけましょう。本当に出会ってしまっていいものだろうか?出会わないほうがよほど幸せだった運命を受け入れる準備はできているだろうか?運命である以上、出会いは確定事項でまず不可避です。でもせめてそれが運命であることを知らずにいることができたら、まだ出会っていない、もしくはきっとこの人がそうだと最後まで信じ続けることができるんじゃないだろうか?

部分的運命論者である僕にとって、運命とはどろどろ流れる溶岩のようなものです。触れるのはいつでもそれが通りすぎたあと、冷えて固まってからのほうが焼け爛れなくていいとおもいます。


A. 忘れるほうが無難です。




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その347につづく! 

2021年10月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その345


チューインガム宮殿さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もうダメだと思ったとき、自分はもうどうしようもないと思ったとき、気持ちを切り替えるような発想、もしくは言葉などありますか?


こう言ってしまっては身もふたもないですが、僕は基本的にどうしようもないが服を着て歩いているような男であり、もうどうしようもないと言われちゃうと確かにそのとおりだけどそれは「鼻がひとつしかない」と同じでそれこそ他にどうしようもないじゃないかというスタンスをかれこれ数十年貫きつづけてきた男です。

なぜかわからないけど見た目はわりとしっかりしているように見えるらしくて、それがまた生きにくさに拍車をかけつづけています。どう考えてもしっかりしていたらこんな一寸先は闇の日々を送っていないし、なんだかよくわからない書類が何年もしつこく送られてきたりしないし、だいぶいい年になってから国民健康保険に加入して安堵の涙を流したりしません。僕がしっかりして見えるとしたらそれは、ふつうなら絶望して梁に結ぶロープを探しかねない状況がそもそもデフォルトで、今やずらりとぶら下がった色とりどりのロープを暖簾のように手でかき分けながら暮らすくらいには慣れたからです。

したがって、人が日ごろから人であることを意識しないのと同じく、僕がもうダメだを意識することはほとんどありません。むしろ雨のそぼ降る晩なんかは屋根のある部屋で布団にくるまって朝まで誰にも邪魔されずに眠れることを今でも当たり前に思えず、心からありがたいと感謝しているところがあります。ダメじゃないときがどんな感じなのか、言われてみれば僕もすごく興味があるし、知りたい気がする。

それはまあそれとして、せっかくなのでひとつおすそわけしましょう。目にしたのが10代の半ばだったこともあって、今も変わらず心に残る一編です。たしか一度オントローロ(という独演会をかつて開いていたことがあるのです)でも読んだことがあります。どちらかというとそれによって立ち直るというより、心理的な痛みを和らげてくれるような印象ですね。

「This will make you feel better」というタイトルで、詩の形をとってはいますが、ユナイテッド・テクノロジー社が1970年代の後半から1980年代前半にかけてウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載し、多くの反響を呼んだ広告のひとつです。



これですこしは気が楽になるだろう


落ちこんだときは
この人のことを考えよう
彼は小学校を
中退した
雑貨屋を営み
破産した
借金を返すのに
15年かかった
妻を娶った
不幸な結婚だった
下院議員に立候補した
2回落選した
上院議員に立候補した
2回落選した
のちに語り継がれる
スピーチは当時
誰も聞いていなかった
新聞や雑誌では
毎日のように叩かれ
国民の半分に嫌われた
にもかかわらず
想像してみよう
この不器用で
よれよれの
冴えない男に
世界中でいったいどれだけ多くの人が
目を開かされたことか
彼はじぶんのサインを
シンプルにこう書いた
"A. リンカーン"



This Will Make You Feel Better


If you sometimes
get discouraged,
consider this fellow:
He dropped out
of grade school.
Ran a country store.
Went broke.
Took 15 years
to pay off his bills.
Took a wife.
Unhappy marriage.
Ran for House.
Lost twice.
Ran for Senate.
Lost twice.
Delivered speech
that became a classic.
Audience indifferent.
Attacked daily
by the press
and despised
by half the country.
Despite all this,
imagine
how many people
all over the world
have been inspired
by this awkward,
rumpled,
brooding man
who signed his name
simply,
A. Lincoln.


A. リンカーンのことを考えたりします。


ちなみに彼の結婚がどれほど不幸だったかというと、暗殺されるほうがまだマシと言われたほどだそうです。リンカーン…。



質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その346につづく! 

2021年9月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その344


ヴァイオレット・エヴァー寒天さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 旅行の前も興奮して目を閉じつつ、朝を迎えてしまうのですが、どうしたらイベントの前にぐっすり寝れるでしょうか?


それなりに長い年月をドブに捨ててきた今の僕がおもうに、人生を豊かにする、とても大切な心の持ちようがあるとすれば、まちがいなくこれがそのひとつです。

言ってみればぐっすり熟睡できるイベント前夜とは、着色料や保存料といった食品添加物ゼロの自然食品のようなものです。えっ最高やんと感じる向きもあるとおもいますが、そんな満場一致で学級委員に選ばれるような清廉極まりない人生のいったいどこが最高なのか、もう一度よく考えていただきたい。何が入っているのかよくわからないし知りたいともおもわないジャンクな駄菓子よりも、体にやさしいヘルシーなおやつのほうがはるかに幸福度が高いと、果たしてわれわれ人類は言い切れるだろうか?

何を言っているのかちょっと混乱してきましたが、要はわくわくして抑えきれない高揚感を調伏して得られるきわめて理性的な幸福などたかが知れている、ということです。たしたしと地面を踏み鳴らしながら、そうじゃないだろ、人生ってのはもっとこうさあ!と投げやりに言い換えてもよろしい。

できればイベントには最高のコンディションで臨みたい、そう考えるお気持ちはよくわかります。しかしこうした場合、僕らはそもそも「最高のコンディションで臨んだがゆえに得られる結果」を知りません。百歩ゆずって何かよい結果を得られたとしても、それが本当に最高のコンディションのためだったのかも、確かめようがありません。

自戒をこめて言うけれど、人は未来を左右する選択に対して「こっちのほうが絶対いい結果を生む」とか「これは最悪の結果を招く」とか考えてしまいがちです。そして実際そのとおりになったときだけ「ほら、言ったとおりだろ」とドヤ顔をすることになります。

しかしそれはあくまで「結果としてそうなった」だけのことであり、そうでなかった未来と比較検証することは誰にもできません。別の選択をしていたらもっと良くなっていたかもしれないし、もっと悪くなっていたかもしれない。よいですか、大事なことなので太字にアンダーラインを重ねてもう一度言いますが、別の選択をした未来と比較検証することは誰にもできないのです。

確かに、寝不足でないほうがイベントをより楽しめるような気がします。それは僕も同じです。ただし、仮に熟睡してめちゃめちゃ楽しんだとしても、上に挙げた理由によって「熟睡のおかげで楽しめた」と言うことはできません。寝不足でも同じくらい楽しめた可能性はやはり厳然としてあるからです。こうすればこうなるという単純な因果の主張に、僕は強く異議を唱えます。

もちろん熟睡できるならそれにそれにこしたことはないでしょう。というか、ここまで書いておいてなんですが僕はわりとぐうぐう寝るタイプです。でもだからと言って寝たほうが絶対いいよ!とは言えません。少なくとも僕は最高の結果を得るために寝ているのではなく、眠たいから寝ているだけです。

それよりも楽しみでなかなか寝つけない心持ちのほうが、年を経れば経るほどはるかに大きな意味と価値をもつ、と今の僕はおもいます。ぐっすり眠ることも大事だけれど、それと引き換えにしてもなお、人生にはあったほうが断然いい彩りのひとつです。明度で言ったら100%の明るさがそこにはあるし、すくなくとも明度を弱めるような要素は皆無です。それを多少なりとも削るほうがよりよい結果をもたらすなんて、いったい誰に保証できるだろう?

したがって僕の結論としてはこうなります。


A. むしろ寝不足をものともしない健康を心がけましょう。




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その345につづく! 

2021年9月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その343


二本チョキさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)奈良時代に成立した、日本に伝存する最古のチョキですね。


Q. ずっと仲が悪かった人と友好的な関係を築く方法はありますか?


これはなかなか、考えさせられる質問です。仲が悪いということは一方だけでなく、互いに忌々しいと感じているわけだから、ある意味では緊密な関係とも言えましょう。少なくとも僕自身は、苦手な印象を抱くことはあっても仲が悪いとまで言える人は思い浮かびません。その関係をキープしつづけるのはなかなかタフなことだとおもう。

そう考えると「仲が悪い」というのは、気が合わないと互いに自覚しているにもかかわらず接触が断たれずにぶつかり続けてどっちも引かない点で、かなり興味深い関係である気もしてきます。仕事上とか同好の会とか、一方的に断つことが難しい関係はままありそうだし、おそらくそういうことなんだろうな、と勝手に想像していますが、そうであろうとなかろうと、いちばん手っ取り早いのはじぶんにとって適切な距離をとることと、相手を受け入れることです。

相手を受け入れるというのは必ずしも同意と共感を意味しません。正面から受け止めるのではなく、それはもうそういうものとして受け流す、という意味です。いけすかないとか忌々しいという感情はじぶんがおもうよりも人に伝わっている可能性があるし、それを表に出せば相手も同じ印象を抱くことになるので、当然関係は悪化の一途を辿ります。

こちらが適切な距離をとって悪印象を与えさえしなければ、仲が悪いことにはなりません。ただこちらが苦手だなとおもうだけだし、向こうもしいて悪印象を抱くことはないでしょう。向こうが変わるわけではないのでひょっとするといけすかないのはそのままかもしれませんが、すくなくとも仲が悪いという呪縛からは逃れることができます。

譲れそうなら譲っておく、というのは僕がおもうにゆるがせにできない人生訓のひとつです。意見だけでなく、車の運転時や電車の座席にしてもそうだけれど、譲るときに敗北感を抱くと人は衝突しがちです。

でも実際のところ、その敗北は人生において大した意味をもちません。譲ったからといってそれは何かを失ったわけではなく、ただ手に入ったかもしれないものを手に入れることができなかった、というだけです。もちろん譲れないときもあるけど、本当に譲れないものってそんなに多くないんじゃないだろうか?

物事を大らかに受け止めることに対して、峻烈な敵意を抱かれることはまずありません。そう簡単に大らかにはなれないからこそ人生はハードなんだけど、そう心がけるだけでも世界はすこし変わります。もし大らかに譲ることができたらそれはもう確実に相手にはない「徳」と言っていいし、徳を得たなら堂々と胸を張ってお天道さまに誇れるし、そうおもうと気分もすこし和らぎます。

僕もつねづね心がけていることだけれど、何か状況を変えたいとおもうときは、まずじぶんが変わることです。たとえ相手が変わらなかったとしても、こちらが変わることで状況は目に見えて変わります。

そしてそれはまた、結果として人との関係も友好的に変えてくれるでしょう。なんとなれば相手にはもう、こちらを忌々しく感じる要素がなくなってしまうからです。

こう話す僕自身にそれができているかといえば、今も全然できていません。できてないけど、そう心がけることでときどきうまくできることもあって、それは僕の誇りや自信、よろこびにつながっています。ヒュー!やるじゃないか!よく踏みとどまった!ともう1人の自分が僕を肘でつつくようなイメージです。うまくできたじぶんを労う、というのもだいじなことのひとつかもしれないですね。

人生とはこういう本当に小さなことの積み重ねです。うまくやれるときが100%では全然なく、がんばっても10%だったとしても、その10%にはものすごく大きな意味があると僕はおもいます。


A. 適切な距離をとること、相手を受け入れること、何より自ら変わろうとすることです。




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その344につづく!