2012年4月30日月曜日

ピス田助手の手記 14: アイスノンという名の鶏について







ひとつはっきり言えるのは、舌の上には本当に天国があった、ということだ。果てしなく広がる初夏の草原がそこにあった。その中心で見目麗しき天女がひとり、ひとときも同じ色にとどまらないオーロラみたいな衣をまとって、ゆっくりとひらめかせながら流れるように舞っていた。くるりと回れば花の香りが渦をまいてほうぼうに散り、また四方からはおだやかに温む風が控えめに吹いてくる。青々として目にも鮮やかな草がその向きに合わせてゆれた。まばたきもできない美しさだった。風にのって岩塩がきらきらとまたたくのも見えた。粘膜をやさしくなぐさめるような弾力となめらかな舌ざわり、その噛み心地とそこから湧き出す旨味の泉は、蠱惑的であり、麻薬的でもあり、まさしく極上としか言いようがなかった。この時点でわたしも、生まれ変わったら豚になりたいとねがうきもちが心から理解できるようになっていた。

旦那、と肉屋に叩き起こされて、わたしは意識を取りもどした。「危ない。危ない。初めての方にはよく言い聞かせるんですがね、ほっとくとあのまま逝っちまうところでしたよ」
気づけば冷凍室から戻ったみふゆに、わたしは介抱されていた。もちろんイゴールの姿もそばにあった。みふゆはアイスノン(という名の鶏)を小脇に抱えていた。
「目が回る」とわたしはうめいた。「イゴール、このハムはわたしが丸ごと買うよ。いやもう、じつにすごいハムなんだ」
「何があったのかわたくしにはさっぱりですが」とイゴールは不思議そうな顔をして答えた。「万事まるく収まるのでしたら、それもよかろうかと存じます」
「よかったらそっちの旦那と、嬢ちゃんもどうですね?」と肉屋は満足そうにふたたび勧めて言った。「ほんのすこし、切り分けてさしあげますよ」

ここから先はくり返すこともないだろう。興味のなさそうなイゴールも、怪訝そうな顔をしていたみふゆも、ブッチの差し出す1枚のハムを口にしたとたん、同じようにパタンと気を失った。とうぜん、尋常ならざるよろこびを体験したあとはみなほんのりと上気して、応接室も胸焼けするくらいの多幸感に満ち満ちていた。むべなるかなというものだ!わたしとしてもその先話をすすめることがひどく億劫になってきた。アンジェリカの無事なら初めからわかりきっているとコンキスタドーレス夫人も請け負ったのだし、スナークについてはのこされた些細な疑問よりむしろお礼を言いたいきもちでいっぱいだった。だとすれば夫人の言ったとおり、これ以上何を詮議すればよいのだろう?

今やわたしも、こうなればのどかな午後のひとときを心地良くすごすほかあるまい、というきわめて前向きな考えに傾きつつあった。

「そういえば」わたしはイゴールに持ってこさせたワインの栓をきりきりと抜きながら思い出したように言った。「鶏はわかるけど、何だって冷凍室に行ったんだ?」
「アイスノンはいつもそこで寝てるのです」とみふゆが口をもぐもぐさせながらイゴールの代わりに答えた。ハムは少女のいたいけな心をも虜にしたらしい。
イゴールが補足した。「他にてきとうな部屋がありませんで」
「温かいとはお世辞にも言えそうにありませんな」とブッチも口をもぐもぐさせながら言った。「というのはつまり、暖房がないとね!」
「なんでブッチまでいっしょに食べてるんだ?」
「固いことは言いっこなしです」
「ちょっと待てよ、冷凍室が部屋って、にわとりが?」
「通常の部屋では気温を一定に保つことがむずかしいのです」
「それ以前の問題だよ!」とわたしはギョッとして言った。「そりゃ鶏肉の扱いじゃないか」
「そうですね、何と申し上げたらよいか……」
「さわってください。そしたらわかります」とみふゆは言った。
わたしは手のひらでアイスノンにふれてみた。「うわッ、ひんやりしてる」
「おや!」と上ずった声をあげたのは意外にもブッチだった。「そいつは聞き捨てなりません。なんとおっしゃいましたね、今?」
「ひんやりしてるんだ。ちっとも体温を感じない。どうなってるんだ一体?」
「どういったことなのかかわたくしもくわしくは存じ上げませんが」とイゴールは答えた。「アイスノンは冷たい鶏なのです」







<ピス田助手の手記 15: アンジェリカ邸の対空ミサイル>につづく!

2012年4月27日金曜日

ピス田助手の手記 その13: ムール貝博士からの電話








わたしは借りてきた皿に切り出したハムをのせるよう身ぶりでブッチに伝えながら、しぶしぶ電話にでた。「もしもし」
「ピス田か?」
「わたしじゃないなら誰にかけたんです?」
「なんだ、ご機嫌ななめだな。アンジェリカはどうした」
「アンジェリカに直接かければいいでしょう!」とわたしはじぶんで言ってハッとした。そういえば事件のいちいちクレイジーな展開に気を取られすぎて、そのことをうっかり忘れていた。そうだ、ケータイがあったじゃないか?
「つながらんからおまえに電話しとるんだ」
つながらないなら、あろうとなかろうと結局同じことだ。わたしはがっかりした。
「今それどころじゃないんですよ」
「アンジェリカはいるのか?」
「いません。むしろこっちが訊きたいくらいです。切りますよ」
「待て。おまえスワロフスキは知ってるな?」
「甘鯛のポワレ教授の一粒種でしょう。かけ直しますから」
「そのポワレが大騒ぎしとるんだ。スワロ…」

どうも重要なことを言いかけていたような気がしないでもなかったが、わたしは気にせず通話を終えた。電源も切った。いまこの瞬間に優先順位をつけるとしたら1がハム、2がアンジェリカ、そして最後が博士だ。舞台への思わぬ闖入者は排除されて然るべきだし、どうしたってこうなるのはやむをえない。ひとまず忘れて、いそいそと話をハムに戻そう。

差し出された1枚のジューシーな羽衣は、花びらにも似て淡い桜色をしていた。吐息でやぶれてしまいそうなくらいに薄く、みずから羽ばたきそうなくらいに軽く、また今にも消え失せてしまいそうなくらい儚く、可憐な気品さえただよわせていた。そうなるまでの過程を間近に見ておきながら、いざふりかえろうとすると記憶に靄がかかってちっとも思い出せない。わたしがこれまでに食べてきたハムは加工された肉でしかなかったが、いま目にしているものはまるで初めからそのかたちで存在していたかのように、そこにあった。おまけに神の手を持つ当の本人が、肝心の手そのものにはあまり頓着していないのだから何をか言わんやだ。「息子が詩人なのだとしたら」とこのときわたしは言うべきだった。「そりゃあんたが親父だからだろう!」

「あんまりおだやかじゃありませんが」とブッチが様子を伺いながら口をひらいた。「よろしいんで?」
「問題ないよ」
「しかしなんだか、気になるじゃありませんか。あっしならお気遣いは無用ですよ」
「このくらいなら毎度のことさ」
「いやはや!恐れ入るとはこのことですな。しかしかさねて申し上げますが、まずはこの1枚を召し上がることが肝心です。眼福だけで腹がふくれるなんて、武士の高楊枝を気取ってみてもしかたありません。旦那が良くても舌が黙っちゃいますまい。味わい良しとなったら、あとはそれこそお好きなだけって段取りでいかがです?」

こうなれば固辞する理由もない。その道のプロが言うのだから案内におとなしく身をゆだねるのが本当だとおもった。さっきの魔法のような時間にくらべれば、と多寡を括っていたせいもある。わたしはブッチのごつごつとして熊みたいな太い指からしなやかな1枚の生ハムを恭しくつまんで、ひと息にポイと口にほうりこんだ。

すると突然、全身が波打つように総毛立ち、さわやかな一陣の風が体中の細胞ひとつひとつを縫うようにしてすり抜けた。と同時にかつて見たこともないバラ色の風景が峻烈な光をまとい、目の前から地平線へとまたたく間に広がっていった。まるで世界の壁紙が一瞬で貼り替えられたみたいだった。心やさしき本能が「戻れ!」と叫んだような気もするが、もうおそい。席に着いたとたんに音速の壁を突破したようなものだ。何が起きたのかもさっぱりわからない。わたしはとびきりのハムを味わった。そして気を失った。






<ピス田助手の手記 14: アイスノンという名の鶏について>につづく!

2012年4月24日火曜日

ピス田助手の手記 その12: ミケランジェロの手をもつ肉屋







おわかりいただけるとはおもうが、わたしはこのとき、この瞬間まで、まったくと言っていいほど肉屋に良い印象をもっていなかった。殺意すら抱いていたと言ってもいい。こんなことでもなければむしろ一聴の価値あるみごとな口上を斟酌してもなお、厄介なことこの上ない。よくしゃべる上に人の話を聞かないのだから、噴火する火山を相手にするようなものだ。バケツいっぱいに水を汲んだところでどうなるだろう?それでなくともわたしはじぶんの狂言回し的な役割にいささかうんざりしていた。屋敷の住人でもないのにうっかり応対を買って出たのがまずかったし、はっきり言ってしまえばもう帰りたかった。

しかしそうした苦々しいきもちは、肉屋が大きすぎる手でナイフをつまみ、その刃を生ハムの肌に当てた瞬間に吹き飛んだ。なぜもっと早く相手の言うとおりにしておかなかったのかとじぶんでも首をかしげるくらい、本当にあとかたもなく消え去ったのだ。それまでの視点はくるりと180度回転し、気づけばわたしの胸は賞賛と感動のスタンディングオベーションで満たされていた。

それはまったく、魔法のような時間だった。大人げないとわかってはいるけれど、いまこうして思い出してみても他に的確な表現が見当たらない。「天女の羽衣を脱がすように」と言った肉屋の言葉はまちがっていないどころか、大袈裟でもなんでもなかった。詩的というより事実そのとおりだったし、詩というなら肉塊から1枚のハムを切り出すその過程こそそう呼びたい。すくなくともわたしはそこに天女の羽衣をみた。そして美しくもかろやかなその所作といったら、アラビアンナイトに出てくる魔神でさえこうもうまくはやれないだろうとおもわれた。一塊のモモ肉と一本のナイフの間でいったいどんな密約が交わされたのか、職人技と紋切り型で言い表すにはあまりにも神秘的だった。

「大理石の中に天使をみたわたしは、彼を救い出すために彫りつづけた。I saw the angel in the marble and carved until I set him free.」というミケランジェロの言葉を、わたしはおもいだした。漱石の「夢十夜」にも、たしか仁王を彫る稀代の仏師運慶について同じようなことが語られていた気がする。ミケランジェロは大理石から天使を救い出した。運慶は木のなかに埋まった仁王を探り当てた。おなじようにして肉屋が天女の肩にかかった繊細な羽衣をその太い指でするするとやさしく脱がしたのだとすれば、これが魔法でなくて何だろう?

「も……」とわたしは口ごもった。「もう1回見せてくれないか」
「たいらげる前からおかわりですか!」とブッチはびっくりしたように言った。「そりゃちょっと気が早いってもんですよ」
「もう1回、いやちょっと待ってくれ。皿を借りてくる」
「いいですとも。お気に召したとすれば、あっしとしてもこれ以上の幸せはありません。しかしまあ、まずは味わってみることですな。話はそれからです。ハムが逃げるのを心配してなさるなら、ほれこのとおり、あっしが両の手でしっかり押さえておきますよ!」

わたしはじぶんのこじ開けた空き缶が大量に転がるキッチンから皿を1枚借りて戻ってきた。そうして奇跡をふたたび目撃しようとブッチを促したまさにそのとき、最悪のタイミングでわたしの携帯電話がゴリゴリと鳴った。「だれだ!」とわたしは思わず叫んだが、この耳障りな着信音はひとりしかいない。相手はムール貝博士だった。





<ピス田助手の手記 13: ムール貝博士からの電話>につづく!

2012年4月21日土曜日

ピス田助手の手記 11: おいしい生ハムの話 その2







「いったいどうすりゃわかってもらえるんだ?」とわたしは苛立った。「何ならまたあらためて注文したっていい。ただ今回は事情が事情だし、いったん引き取ってもらいたいだけなんだ」
「そこが謎ですよ!」と肉屋は言った。口のなかからみかんがひとつぶ、弾丸のように飛んできた。「引き取るってのはつまり、いらんってことでしょうが?そこが解せません。こういっちゃ何ですがね、注文は毎日ひっきりなしにくるんです。北は北極から、南は南極まで、それこそ地球中のありとあらゆるお客さまから熱烈なラブコールを頂戴してるってのに、うちの店ときたら数えるほどの人手しかありゃしないんですからね!追っつく道理がありませんや。予約は2年先までぴっちり埋まって、カミソリをはさむ隙間もない有様です。そこをどうしてもと仰るからあちこちに義理を欠いてまでご用意したのに、ねえ、そりゃ無慈悲ってもんじゃないですか?」
「何だかもう買い取ったほうが早いって気もしてきたな。…あれ、待てよ」
「こんなこともあろうかとね、ナイフを持ち歩いてるんです。何はさておき、この味を知るべきですよ。神さまが天国を舌の上にもおつくりになったってことを知るべきです。いやまったく、ふりつもる雪みたいにきらきらした岩塩の結晶が、眠れる肉にいったいどんな夢をみせるか、ご存知ではないでしょうね?」
「うん、いや、さっきの…えーと、あれ、何だっけな」
「何です?」
「詩的な言い回しに気を取られて訊きたかったことを忘れた」
「うちのバカ息子みたいなことを仰る!」と肉屋は笑った。弾丸みたいなみかんがまたひとつぶ飛んできた。「煮たり焼いたりできるとすりゃ、そう、詩もわるくはないでしょうな」
「息子?」
「うちには肉屋のくせに野菜しか食わない昆虫みたいな息子がいましてね」
「詩人なのかい」
「詩だか何だか知りませんが、こちょこちょしたものばかり書いてろくに働きもしないごくつぶしです。商売もあるし親でもあるしでこっちとしちゃ世間に面目が立ちません。いっそこいつも塩漬けにしてやりたいと常々おもってるくらいのもんで…おもいだした、ハムの話ですよ」
「わたしには親父のほうがよっぽど詩人らしく見えるよ。それより…」
「あっしが?」と肉屋は目を丸くした。「ご冗談を!自慢じゃないですがあっしは本を枕以外に使ったことなんてないくらいの男ですよ。読むのも書くのも肩がこってしかたありません。本を選ぶときは高さと固さで…そうそう、枕にするならこれ以上ぴったりのものはないってのが1冊あるんです、たしか象がなんたらって題名の」
「その本なら知ってるっぽいな…。でもいいんだ、その話は今度にしよう」
「そうです、ハムです。問題はね」
「いや、ハムじゃなくてさっきの…」
「ハム以外の話なんかしましたかね」
「してないけど、途中でちょっと気になることを言ってたような…」
「ハムでしょ?」
「ハムじゃない」
「こりゃハムですよ!誰がどう見たってそうです」
「ハムの話じゃないんだ」
「ハムの話しかしとらんでしょうが」
「そうだけど、ちがうんだよ」
「いいえ、ハムですよ」
「わかってる。これはハムだ」
「そうでしょう。だろうとおもってましたよ、あっしもね!」
「そうじゃなくてさっきの…」
「やれやれ」と肉屋は苦笑いをしながら肩をすくめた。「強情な御方だ!そういえばまだお名前を頂戴してませんでしたな。してましたか?」
「ピス田です」
「ピス田さん、これはハムですよ」
「わかってる!」
「まあまあ!そういきりなすってはいけません。尻尾をくわえたヘビみたいなこの堂々めぐりから抜け出したいとすればですよ、まずこのハムを味わうのがいちばん手っ取り早いと、こうあっしはおもいますね」
「わかった」とわたしは根負けして応えた。「わかったよ。いただこう」
「それが一番です。いや、何より!何より!あっしも初めからこうしてればねえ。どうも昔から気が利かんたちで」
「いや、わたしがわるかったんだ」とわたしは心から言った。張り合うだけムダだともっと早くに気づくべきだった。
「お互いさまとね!何ごとによらず、人生と人生の交点とはそういうもんです。昔うちの爺さんも…」
「その話はまたあとで聞くよ」
「そうでしたな!しかし空腹は最上のスパイスと言うじゃありませんか。腹が減るほど褒美が増えるってわけです、つまりね」
「ご機嫌のところ済まないけど、早いところたのむよブッチ」
「おや、あっしの名前をご存知で」
「胸に名札があるじゃないか」
「そうでした!いや、おかしいとお思いでしょうね。店主がわざわざ名札だなんて?」
「おもわないよ。だから…」
「こうみえてケンカっぱやいもんで、お恥ずかしい話ですが場合によっちゃこう、店先で客と取っ組み合いになることもままあるんです。名乗れと言われることがあんまりしょっちゅうなもんだから、そんなら初めから名乗っとこうとまあこういうわけです。そしたら女房が『まずケンカを減らせ』と」
「ハムをたのむよ」
「よござんす。いいですか、切り取るといっても無骨なやりかたじゃ全部が全部、台無しです。貼り付けていたものをはがすような按配、とでも言ったほうがいいかもしれませんな。言うなれば天女からシースルーの薄い羽衣をやさしく脱がすようにですよ、こんなふうにそうっと…」





<ピス田助手の手記 12: ミケランジェロの手をもつ肉屋>につづく!

2012年4月18日水曜日

ピス田助手の手記 10: おいしい生ハムの話


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人
ピス田助手の手記 5: キッチンにて
ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する
ピス田助手の手記 7: 小指の欠けた男について
ピス田助手の手記 8: 死体よりも忌々しいこと
ピス田助手の手記 9: 考慮すべきもうひとつのポイント



コンキスタドーレス夫人は去った。入れ替わるようにして、肉屋がやってきた。イゴールは「冷凍室へ行ってまいります」と言って出て行った。みふゆもいっしょだ。屋敷ではアイスノンという名の鶏を飼っているらしく(わたしは知らなかった)、みふゆが遊びたがっていた。その寒そうな名前からするとたしかに冷凍室と関係がありそうな気もするけれど、よくわからない。そのあたりのことはあまり深く訊かなかった。それよりも、肉屋の押した呼び鈴がジューと焦げるような音だったことのほうにずっと気を取られていたのだ。いったいこの屋敷の呼び鈴はどういう仕組みになっているのか?

わたしは応接室で肉屋と向かい合っていた。目の前のテーブルにはアンジェリカの部屋から回収した生ハムがあった。差し当たって処理すべき懸案があるとすれば、これだからだ。その隣にはもちろん、片っ端からこじ開けた缶詰の中身が手つかずのまま残されている。せっかくだから肉屋にそれをすすめようとおもったが、おもったときには肉屋も「わかってます」とばかりに早くもひとりでパクパクやっていた。おかげで余計な気を遣わずに済んだし、話がはやくて困ることはない。わたしはこれまでの事情をかいつまんで説明した。

「つまりこの」と肉屋は口のなかをみかんとシロップでいっぱいにしてもぐもぐやりながら言った。「ハムが気に入らないってわけですね」
「だからちがうというのに!いったい何を聞いてたんだ」

肉屋は大きな男だった。堂々たる体躯の持ち主というか、大柄というにはちょっと規格外で、ほとんど熊に近かった。どう考えても屋敷の扉をくぐってこれたとはおもえない。ドアノブを回すにしても豆をつまむような格好になるだろう。一抱えもある骨付きの生ハムがフライドチキンくらいの大きさにみえた。バミューダパンツからにょきりと突き出した右のふくらはぎにはりっぱな入れ墨があって、わたしの目を釘付けにした。

「しかしこりゃ本当に上等のハムなんですよ!お気に召さないってのは正直合点がいきませんね。世間じゃじぶんの太ももを質に入れてでも食いたいってもっぱらの評判なんですから。考え直すほうが賢明ってもんです、そりゃもう絶対に」
「わかってる。わかってるよ。ハムはりっぱだ。上等なのもみればわかる。でもそういう話じゃないんだよ」
「何しろ27ヶ月って長期熟成ですからね。これ以下じゃダメ、これ以上でもダメって期間の見極めが肝心なんです。その美味さときたら、神様からの贈りものと言っても叱られたりはしますまいよ」
「うん、そうだろうとも」
「わかりますかね」
「わかるよ、もちろん。でもそうじゃなくて…‥」
「うわッ」肉屋は相変わらずみかんや黄桃や洋梨をもぐもぐやりながら、ふと眉間にしわを寄せた。「何ですかねこりゃ。甘くないし、ずいぶん歯ごたえがある」
「ああ、それは」
「味も変だ」
「たけのこの水煮だから心配ないよ」
「やあ、たけのこですか。どうも流行りすたりには弱いもんで。なるほど、言われてみればたしかにちょっとした味わいと言えないこともないですな」
「流行ってないよ。まちがえたんだ」
「誰しもまちがいってもんはあります」と肉屋は後を継いで言った(が、つながってはいなかった)。「味をみなけりゃわかりません。何だってそうです。そうじゃありませんか?ほんのちょっぴりでも味わいさえすれば、恋したみたいに虜になること請け合いなんです。いえ、ハムの話ですよ!女に見立てても一向に問題ないという気はしますがね。どうかそんな悲しいことを仰らないでください。いえ、仰っちゃいけません、断固としてね!」





<ピス田助手の手記 11: おいしい生ハムの話 その2>につづく!

2012年4月15日日曜日

ピス田助手の手記 9: 考慮すべきもうひとつのポイント


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人
ピス田助手の手記 5: キッチンにて
ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する
ピス田助手の手記 7: 小指の欠けた男について
ピス田助手の手記 8: 死体よりも忌々しいこと



謎はもちろん、まだのこる。なぜアンジェリカは黙って屋敷を後にしたのか?大鎌を持って出ていった以上、彼女が無事であることにわたしも異論はない。鋼の心臓を胸にもつ世界でもっとも強い女性のひとりなのだから、その点は断言してもいいだろう。しかしそうなるとなおさら無断が気にかかる。「行ってくる」とひとこと告げていけばいいだけの話じゃないか?イゴールはアンジェリカの忠実な侍従であり、そのダイヤモンドみたいな忠誠心にはわたしも常々敬服している。わたしのムール貝博士に対するそれなど彼に比べたら石ころに等しい。どんな事態であれ共有しておくほうがむしろ万事に都合がいいはずだ。また仮に秘密裡にはこびたかったとしても、それこそ平常を装えばそれで済む。イゴールは違和感をもつかもしれないが、そのために却ってアンジェリカの意を汲もうとするにちがいない。告げて妨げになる理由がいったいどこにあるんだ?


わからなかった。説明している時間がなかった、ということくらいしか思いつかない。一刻を争う事態なんだろうか?できればその点についてもうすこしコンキスタドーレス夫人の見解を拝聴したかった。わたしはこの貴婦人にすっかり心酔していたし、実際これほど心丈夫な味方はあちこち訪ねたってそうは見つからないようにおもえた。炯眼は必要だ……とりわけ、話がとっちらかって収集がつかなくなりそうな場合には。しかし夫人はこの時点ですでに関心を失っていたらしい。


「わたしとしてはこれで詮議を打ち切りたいところね」
「でも、アンジェリカがイゴールに黙って出ていくなんて変ですよ」
「放っておきなさい。じきに帰ってくるでしょう」
「しかし……」
「あとはイゴールの仕事です。帰りますよ、みふゆ」
「みふゆはアイスノンとあそびたいのです」
「あらあら」と夫人は言った。「そうだったわね。ひとりで帰れる?」
「帰れます」
「いいわ、ではイゴール」
「はい、奥さま」
「みふゆをたのみますよ」
「かしこまりました」
「それからアンジェリカが帰ったら田村に鎌を返すよう伝えなさい」
「仰せのとおりにいたします」
「アイスノン?」とわたしはおそるおそる問いをはさんだ。
「お嬢さまの鶏です」
「ふーん」
「たいそう可愛がっていらっしゃいますよ」
「そうそう、それと」と夫人は部屋に背を向けてから振り返った。「電話もしておくことね」
「はい、奥さま」
「電話?110番ですか」
「まさか!」とコンキスタドーレス夫人はここではじめて青空のような笑顔をみせた。「肉屋ですよ」

じつはわたしたちにはもうひとつ、考慮すべき事実があった。それをここに書き加えておこう。言われるまで気づかなかったけれど、見目麗しきコンキスタドーレス夫人の指摘はさすがに如才がなかった。「もしアンジェリカの行方を追うというのなら」と去り際に夫人は言った。「考えてみる必要があるのは、なぜスナークがイゴールも知らないアンジェリカの留守を知っていたのか、という点です。わたしはもう興味がないけれど、すくなくとも先へすすむ糸口にはなるのではないかしら。幸運を祈ります。ごきげんよう、ピス田さん」




<ピス田助手の手記 10: おいしい生ハムの話>につづく!

2012年4月12日木曜日

ピス田助手の手記 8: 死体よりも忌々しいこと


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人
ピス田助手の手記 5: キッチンにて
ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する
ピス田助手の手記 7: 小指の欠けた男について



「スナーク?」とわたしはひっくり返りそうになりながら喘いだ。
「そうなの、みふゆ?」
「スナークの小指はみふゆが斬り落としたのです」
「そう。知らなかったわ」と夫人は言った。「でもだからといって小指のない男がスナークとは限らないわね」
「それでわかりました」イゴールの顔がすこし上気していた。「あのノートにはスナークの行動パターンと対策が事細かに記されているんです」
「ああ」とわたしは扉を破壊した際のやりとりを思い出しながら、じぶんの失策を悟って唸った。「それを言おうとしてたのか!」
「なぜ死体がお嬢さまのスナーク・ノートを手にしていたのかわからずに混乱していたのですが……」
「むむ。本人なら当然だし、ということはつまり……」
イゴールが肩を落としながら後を継いだ。「死体ではなかったのですね」


驚くのに飽きたと言ったばかりでそれを翻すのは気が引けるけれど、この日わたしがいちばん絶句したのはこのときだった。初めになんとなく思い描いていた構図がここでがらがらと音を立てて崩れ落ちた。あるいはうすうす感づいてはいたけれど、そうでなければいいと無意識に願っていたのかもしれない。こうなると事件性がうすまってホッとするどころか、却って忌々しかった。結果として謀られたようにもおもえてくるじゃないか?


スナークはアンジェリカの天敵であり、ある種のミステリーであり、1個の嘘であり、ほとんど観念みたいなものだった。影であり、蜃気楼であり、どちらかといえば悪いほうの夢だった。その名前はいつも現実をゆさぶる。でなければいつも非現実的な響きを伴って呼ばれる。初めからなかったのと同じ、と言ったコンキスタドーレス夫人のせりふは、そのままスナークの存在にも当てはまるのだ。その名があらわれたとたん、じぶんがフィクションであって登場人物のひとりにすぎないことを強引に自覚させられるのも腹立たしい。どうしてこのまま、わたしたちの世界をそっとしておいてくれないのか?こんなことなら缶詰の相手をしているほうが、いくらかましだった。


「気が利いてるよ」とわたしは舌打ちした。「骨折り損のお詫びが骨付きの生ハムなんだから」
「わたくしもまさか芝居とは考えもいたしませんでした」
「振り回されたこっちがいい面の皮だ。どうせならマスクメロンのひとつも足してくれりゃいいのに」
「しっかりなさい」と夫人は総立ちでブーイングを始めたわたしたちの脳細胞にふたたび鞭をくれた。「わたしがここに来た理由を思い出すべきね。わたしに言わせれば問題は初めからひとつしかありません」
「そうだ」とわたしは思い出して言った。「アンジェリカだ。そのとおりです」
「ハムもあります」とみふゆが付け加えた。
「そう、ハムもあるわね」
「このさき食卓にハムが出るたび思い出しそうで困るな」
「すぎたことはお忘れなさい。それがスナークの本分なのでしょう?アンジェリカに訊けば何もかもはっきりするとおもっていたけれど、その前にけりのつく話があるのなら、それにしくはないはずです」
「しかしノートもなくなってるんですよ」
「それはむしろアンジェリカ自身の問題です。わたしたちが気にする必要はありません。それよりもいま知るべきことは別にあります。イゴール?」
「はい、奥さま」とイゴールは答えた。「部屋には見当たりません」
「あ、鎌か!」
「たしかなの?」
「たしかです」
「なんてこと」と夫人は気落ちした様子でためいきをついた。
わたし自身としてはようやくひとつの安堵を得たところだったので、真逆とも言えそうなこの態度はちょっと意外だった。「どうされたんです?」
「どう、とは?」
「アンジェリカのことですよ」とわたしは言った。「すくなくとも安否だけはこれで確認されたも同然じゃありませんか?」
「アンジェリカの無事は初めからわかりきっています」と夫人はこともなげに応えた。「ただその根拠がはっきりしただけです。持ち帰る鎌がないなら、わたしとしては徒労というほかありません。まったく、あの子ときたら!」




<ピス田助手の手記 9: 考慮すべきもうひとつのポイント>につづく!

2012年4月9日月曜日

ピス田助手の手記 7: 小指の欠けた男について


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人
ピス田助手の手記 5: キッチンにて
ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する



しかし事はなかなか、思いどおりには運ばないものだ。コンキスタドーレス夫人の登場によって、ひょっとしたら事態に進展が見られるかもしれないという期待をわたしは抱いた。無理からぬことじゃないか?……それまで立ちこめては濃くなるばかりだった霧を、刹那とは言えひと振りに薙ぎ払ってくれたのだから。ところが霧は今やふたたびその濃さを増した。もはや何が問題なのかもよくわからなかった。このときの驚きを、と綴りたいところだけれど、率直に言ってわたしはもう驚くのに飽きた。どのみち受け止める以外にとれる態度などないのだ。わたしたちは部屋の入り口にたち、その床にあるべきものがないのを見た。背中に短剣の刺さった男は血だまりといっしょに、部屋から消え失せていた。

こう書くと語弊があるかもしれない。正確を期そう。わたしが言いたかったのは、わたしとイゴールが見た男ではなくなっていた、という意味だ。死体ということなら依然としてそこにあると言い張ることもできる。ただあるのは人体ではなく、皿に1本のりっぱな豚モモ肉だった。

「生ハムじゃないか」とわたしは言った。「骨付きだぞ」
「そのようです」とイゴールも唖然として言った。
「床に置くなんて」とコンキスタドーレス夫人が眉をひそめた。
みふゆは特大のクリームソーダを両手に抱えて興味深そうにそれを眺めていた。
「謎がのこるのはわかる」とわたしはすこし苛立ち気味に言った。「解いてないんだから。でも解く前に増えるなら増えるでそう言っておいてくれないと困るよ」
「けっこうなことじゃありませんか」とコンキスタドーレス夫人は言った。「死体より生ハムのほうがずっといいわ」
「それはそうです。しかし……」
「ないものを詮議しても仕方がないでしょう」
「でもあったんです、たしかに」
「わたしが言うのは、今ここに一切の痕跡がないのならそれは初めからなかったのと同じ、ということです」
「わたしとイゴールが見ていますよ」
「それは根拠になりません」
「むむ」とわたしは二の句が継げなくなった。
「初めからなかったにしろ、誰かが片付けたにしろ、それがわたしたちに縁のない者ならこれ以上深入りする必要はありません」
「変わり身の術はどうですか」とみふゆがストローから口をはなして言った。
「そう、その可能性もあるわね、もちろん」
「だとしたら…」
「だとしたら、のこる問題はアンジェリカの行方のみです。そうね、イゴール?」
「いえ、奥さま」とイゴールは答えた。「痕跡はございません。しかし男と同時に消えたものがひとつございます」
「消えたもの?」
「お嬢さまのノートです」
「それだ」とわたしは言った。「男は左手にノートを持ってたんです」
「おやおや!」と夫人は呆れたように言った。「では100パーセント縁のない者、とも言い切れないわけね」
「面目ありません。先にお伝えすべきところを」
「ええ、まったくね」
「だとすると些細なことかもしれませんが、もうひとつ」とわたしは遠慮がちに付け加えた。「男には小指がありませんでした」
「小指が?」
「そうです。左手の」
「こゆび」とみふゆが特大のクリームソーダを両手に抱えたままつぶやいた。「スナークですね、お母さま」




<ピス田助手の手記 8: 死体よりも忌々しいこと>につづく!

2012年4月6日金曜日

ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人
ピス田助手の手記 5: キッチンにて



長い沈黙だった。実際のところ伝えるべき事実はシンプルで、わざわざ手短にするまでもない。わたしが来たこと、アンジェリカが消えたこと、そして男が死んでいたことだ。イゴールはコンキスタドーレス夫人(というのだそうだ)にそれを話した。夫人はその間いちども言葉をはさむことなく、黙って紅茶を飲んでいた。かくべつ驚いたようにも、思案しているようにもみえなかった。むしろそわそわして落ち着きのないわたしたちのことなど歯牙にもかけず、ただお茶の時間をゆっくりと楽しんでいるようだった。彼女はたっぷり10分もかけてようやく空になったカップを置き、それからおもむろに口をひらいた。
「最初に訊いておくけど、イゴール」と夫人は言った。「おまえの仕業ではないのね?」

イゴールのしわざ!言われてみればそれはまったく、頭をよぎってしかるべき可能性のひとつだった。どうして気がつかなかったのだろう?この論理からするとわたしも負けず劣らずあやしい人物ということになる。そのとおりだ。考えてもみなかった。見目にたがわぬ視点のするどさと、身内にあって微塵もためらいのない口ぶりに、わたしはいっぺんでこの貴婦人が好きになった。
「わたくしではございません」とイゴールは答えた。それが嫌疑ではなく逆に信頼からくる確認であることを、彼も理解していたはずだ。
「ピス田さん、あなたも?」
「もちろんです」
「話はよくわかりました」と再びみじかい沈黙を置いてコンキスタドーレス夫人が言った。「道理で様子がおかしいとおもったら。いいわ、案内なさい」

今さらながら、この家はアンジェリカとイゴール、その他数人で管理するにはいささか広すぎるようにおもう。見た目以上に奥行きがあるのと、ややこしい構造のせいで何度訪ねてもいまだに全体像がよくわからずにいる。和室と洋室が混在しているのはまだしも、らせん階段や朱塗りの手すり、果ては廊下と廊下を太鼓橋でつないだりする始末で、挙げれば枚挙にいとまがない。基本的には長い年月をへた古い木造建築でありながら、あちこちに西洋風のつくりをもった国籍不明の遊郭といった趣が、屋敷にはあった。要はぜんぜん、住まいにみえないのだ。

「もうひとつ確かめておきたいことがあります」と夫人は黒光りする板張りの床に絨毯敷の廊下を歩きながら言った。「田村(死神)が言うには、あれの大鎌をアンジェリカは借りたままだそうね?」
「はい」とイゴールは答えた。
「かれこれ5年はたつと言っていたけれど」
「仰るとおりです」
「あの子のことだから」と夫人は言った。「観賞用ではないでしょうね」
イゴールは頷いた。「ステッキのように肌身はなさずお持ちです」
「決まった置き場所はあるのかしら?」
「衣紋掛けにそのまま刃をおかけになることが多いようです」
「他には?」
「そうでなければガンラックに立てかけてございます」と答えて、イゴールは息をのんだ。わたしもハッとした。夫人の言わんとしていることがわかったのだ。イゴールの表情にすこし光が射したようにみえた。
日ごろから持ち歩いているものが主不在の部屋にあるかどうかというのは、なかなかおもしろい問題だとおもうわ」と夫人は表情を変えずにつぶやいた。「あるならこの場合、少し困ったことになるかしらね」
「仰るとおりです」とわたしはイゴールを真似て言った。鎌の有無がもつ重大な意味に驚かないわけにはいかなかった。
「その代わりもし部屋にないのなら」と夫人は言った。「まず十中八九アンジェリカが持ち出している…そうね、イゴール?」
「そう考えて間違いございません」
「つまり」とわたしは黙っていることができずに口をはさんだ。「アンジェリカは自分の意志で出ていったことになる」
「少なくともあの子の身に危険が及んでいる可能性は低くなるでしょうね」と夫人はやわらかな笑みをかすかに浮かべた。「何しろ得物を持ち歩いているんですから」

コンキスタドーレス夫人万歳!問題の解決に寄与するわけではないとしても、場合によってはある保証が得られる可能性を、わたしたちはみたのだった。気を落ち着けて思い返してみたけれど、部屋にアンジェリカの付属物たる死神の鎌を見た記憶はなかった。もちろん、動転していて気がつかなかったこともありうる。わたしたちは部屋に鎌がないことを心から願いながら部屋に向かった。



<ピス田助手の手記 7: 小指の欠けた男について>につづく!

2012年4月3日火曜日

ピス田助手の手記 5: キッチンにて


ピス田助手の手記 1: 部屋に扉のない理由
ピス田助手の手記 2: 男の様子についての補足
ピス田助手の手記 3: アンジェリカの部屋
ピス田助手の手記 4: やってきたふたりの客人



わたしの手記になってから、アクセスがとてもわかりやすく急減している。グラフでみるとカーブというより、きりもみをしながらの墜落に近い。おおむねそうなるだろうことはもちろん想像していた。長い上にややこしいとなればそれが当然だ。しかし何もいきなり半分になることはないじゃないか?かなり悲観的な観測をさらにやすやすと下回るなんて、それはちょっとつめたいというものだ。こうも劇的に結果で示されるとわたしもつらい。しかしまあ、話を先に進めよう。


「言いたくないけど、イゴール」とわたしはキッチンでとりあえずそのまま食べられそうな果実系の缶詰を片っ端からこじ開けながら言った。「こうしてる今もアンジェリカの部屋には誰だかわからない死体がひとつ転がったままなんだぜ」
「承知しております」落ち着きを取り戻したイゴールは力なく答えた。彼は今まさに巨大なクリームソーダをこしらえている最中だった。
「クリームソーダなんてつくってる場合じゃないんだ。もちろん飲んでる場合でもない」
「仰るとおりです」
「デカいな!」わたしはここで初めてちゃくちゃくと完成に近づくクリームソーダの巨大さに気がつき、目を丸くした。「まるで消化器だ」
「みふゆさまは以前にお出ししたこのサイズがことのほかお気に召したようで……」
「あの子はあの貴婦人の……」
「ご息女です。お嬢さまの妹君にあたります」
「妹?アンジェリカの?」
「はい」
「それは初耳だ」
「正式にはミルフィーユさまと仰います」
「ミルフィーユ……」
「みふゆさまというのは愛称といいますか、略称といいますか…」
「なるほど」わたしは缶の底に貼り付いた一切れの桃をフォークではがしながら頷いた。「あの脇差しは?」
「護身用でしょう」
「護身に脇差しを持つ女の子が世界に何人いるっていうんだ」
「みふゆさまはひとかどの剣客として知られる方ですから」
「剣客?」
「お強くていらっしゃいますよ」
「見かけによらないもんだね」
「正式な立ち会いではお嬢さまも敵いません」
「ほとんど天下無双じゃないか!」
「タイム誌の表紙を飾ったこともございます」
「天才肌なのはよくわかったよ」イゴールの話しぶりが軽やかになってきたので、わたしはそれを打ち切るように言った。「それより、問題は奥さまだ」
「奥さまが何か?」
「話さないならわたしが話す。なんとなく110番もしそびれたし、身内なら相談するのに絶好の機会じゃないか。キッチンで缶詰こじ開けてる場合じゃなかったよ」
イゴールは黙っていた。
「イゴールはいつもそばにいるからタフなアンジェリカの無事に確信を持つのもムリはないけど、可能性だけなら逆の場合だって十分あるんだ。……や、しまった」わたしは缶から取り出してボウルに山と積んだフルーツのシロップ漬に、タケノコの水煮が混ざっていることに気がついて舌打ちした。「まあいいや、わかりゃしない。つまりわたしが言いたいのは、彼女のことだから考えづらいけど、でももし連れ去られてたりしたらどうする?ってことなんだ。わたしたちにとっては第一にアンジェリカで、第二も第三もアンジェリカだ。そうだろう?小指の欠けた男の死体はこの際問題じゃない。……というのはちょっと言いすぎたようだから撤回してもいいけれど」
「いえ、仰るとおりです」
「撤回を取り消そう。それじゃ決まりだ。何ならわたしが……」
「いえ、わたくしからお話しいたします」
「うん、口がすべった。是非そうしてくれ」



<ピス田助手の手記 6: コンキスタドーレス夫人、演繹する>につづく!