2015年10月30日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その230


前回は「恋に落ちたことがない人」の質問にお答えしたので、今回は「恋に落ちすぎる人」の質問にお答えしましょう。このふたりを足したらちょうどいいじゃないかとおもいますが、ままならないものですね。


ひょっとこはつらいよさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)

Q: ずばり惚れっぽくて困っています。数ヶ月に一回くらいのペースで「あぁ、この人がきっと運命の人だ!」と思える人が現れて本気で好きになってしまうのですが、相手の立場になってみるとちょっと悪い気もして罪悪感を感じてしまい、最近ではアタックすべきなのかも迷ってしまってあまり行動を起こせません。私はこのまま突っ走ってアタックして良いのでしょうか?もしくは少し気持ちを落ち着ける方法が何かあるでしょうか?知恵をお貸しください…


これは多くの大人が同意してくれるとおもいますが、人は社会に出ると異性と接触する機会が激減します。数が減るというより、学生のときほど人間関係が流動的ではなくなるのです。極端な例を挙げると僕なんかは20代前半の数年間、周囲に還暦以下の女性が1人もいませんでした。そしてその結果、人生最初で最後のナンパに挑み、あろうことか玉砕する前に気の毒な結末を迎えています(結末だけ記すと、床を掃除するためのモップが必要な事態に陥りました)。あれはまああれでよかったのだと今ならおもえますが、このときほど強烈にバツの悪い思いをしたことはありません。多くの人にとって、惚れっぽくなれるほど異性に囲まれた環境は、それだけで得難い宝のひとつなのです。

したがって、個人的にはこのままでちっともかまわないようにおもわれます。猛烈なアタックの結果さんざんな目に遭ったとしてもせいぜい刃傷沙汰で死人が出るくらいのものだし、ヒトにかぎらず生には死がつきものです。光の速さで飛んでも一周するのに10時間かかる星があるという宇宙的観点からしたら何てことはありません。気にせずガツガツモリモリと貪っていきましょう。アタックできる機会の多いうちが華です。そして人生、たいていのことはどうにかなります。

とはいえそうしょっちゅう恋に落ちていたらそりゃ骨も折れるだろうし、あんまりポキポキ折れても困るというのであれば、すこし踏みとどまって考えてみましょう。僕がおもうのは、「本当に運命の人なら特にアタックせずとも自然に結ばれることになるのではないか?」ということです。ですよね?

彼氏彼女がいるのはステキなことだけれど、それは互いに思いやれるからであって、単純に「いるからステキ」なわけではありません。だとすれば今、胸の内の大半を占めている「いかにして手に入れるか」というきもち(アタックというのはそういうことです)を半分にして、空いた半分に「その人のために何ができるか」を割り当てるのもひとつの手です。その2つがじつは同じものであるということに気づいたとき初めて、今までとはちがう色のちいさな花が咲くと僕はおもいます。

あとはえーと、そうですね。数ヶ月に一度、好きな人が入れ替わるというのなら、数ヶ月待ちましょう。そこで入れ替わったらまた数ヶ月待てばよろしい。本当に運命の人ならその後の年数のほうがはるかに長いし、数ヶ月くらいあっという間ですよ。


A: とりあえず数ヶ月待ちましょう。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

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その231につづく!


2015年10月27日火曜日

もうこの際だから全部まるっとさらけ出しておこう


というわけで日曜はこの上なく秋らしい日和に恵まれて、数で言ったら6回目、2回ずつなので実質的には3回目、なのに数字は「04」と回を重ねるごとに混迷の度合いを深めるオントローロもぶじ終了いたしました。

「トリセツ」熱唱中

とくに今回は控えめにみてもかなり勇気のいるセットというかコースメニューだったので、以前も来てくださった方に「今まででいちばん好きでした」と言ってもらえて腰が抜けるほどホッとしております。あとは初めての方が戸惑い以上に楽しんでくれたことを願うばかりです。ホントにありがとう!一夜明けてみんなが思い出すのはどの場面だろう……?

さて、気になる03&04のお品書きはこちらになります。

01. もちろん蚊帳は外のほうが広い
02. 七つ下がり拾遺
03. 涙ぐむ蛙の三段論法
04. fishing ghost revised (step1)
05. 二度ふれる前に消えてなくなれ
06. 火焔鳥451
07. 西野カナ「トリセツ」について
08. デッドワックス兄弟の反省会
09. 石蕗
10. 注射器とカセットテープと公魚釣り
11. 棘
12. M.J&Jの失われた原稿
13. 忘れられた処刑人
14. fishing ghost revised (step2)
15. いまはまだねむるこどもに
16. テアトルパピヨンと遅れてきた客

メニューだけでは体感の2割も伝わらない、とおもって今まで記すのを避けてきたけれど、逆に言うとなぜこのラインナップで「いちばんよかった」と言ってもらえるのか、興味を引くヒントになるかもしれないと思い直しました。

というのも、オントローロでは「どの曲をやった」というのは楽しみの一部でしかないからです。そもそも演目をひとつひとつ抜き出しては云々しづらい。たとえば「石蕗」は今回アカペラでお送りしましたが、これは「デッドワックス兄弟の反省会」に結びつけられています。何をどうするとこの2つが結びつくのかさっぱりわからないとおもいますが、とにかくつながっているのです。また、今のところオントローロオンリーである「fishing ghost revised」は今回、前口上と本編の間に境目がありません。どこからが詩なのか曖昧になっています。トラックだけでなく、サンプラーの使いどころもポイントのひとつです。

それからオントローロには毎回、というか結果的に毎回やってるだけなんだけど、歌謡曲/J-POPの歌詞について与太話を繰り広げるコーナーがあります。今回は西野カナさんの「トリセツ」です。僕を知る人にはかなり意外なチョイスに感じられるとおもうし、何より人生の折り返し地点に来つつあるおっさんが「トリセツ」を朗読する機会など、オントローロを除いて地球上のどこにもありません。

【今回の結論】西野カナの「トリセツ」はアーサー王のエクスカリバーである。

しかし何と言っても最大の博打だったのは「M・J&Jの失われた原稿」だったとおもいます。そしてどうやら、その賭けには勝てたらしい。何しろ今回「えええー!」「ちょっと待って!」という悲鳴にも似た最大瞬間風速を記録したのは、これを演り終えた直後です。次の曲のイントロが始まるとみんながさらに腹を抱えるシュールな光景は、まちがいなくこの日のハイライトであったと申せましょう。

たのしかった!……よね?(弱気)

次回の開催は12月を予定しています。オントローロではまだやっていない楽曲をここぞとばかりに詰め合わせてお送りすることになるとおもうので、雪崩れこむようにおいでませ!


いよいよ本格的に秋だなあ……としみじみ感じ入ったこの日の翌朝、冬鳥であるジョウビタキがひらりとやってきて秋の終了を知りました。

2015年10月25日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その229


日付変わって本日がオントローロであることなどおくびにも出さず、ギンギラギンに際限なくさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)


Q: 「恋の病」に罹ったことがないのでわからないのですが、どのような甘酸っぱい症状が我が身に降り注いでくるのでしょうか?


なるほど、それはある意味、幸運と言えるかもしれません。というのも恋の病は最悪の場合、死に至るからです。古い小説を読むかぎりでは、会いたくて会いたくてふるえまくったあげく本当に命を落としたりしているし、嫉妬だけでもしょっちゅうくらりと気を失っています。恋ってすてきね!と一般的には捉えられがちですが、アルコールだって覚せい剤だって浴びるようにじゃぶじゃぶやっているときは恋と同じように天にものぼるきもちであることを忘れてはいけません。そしてどちらも、終わりを迎えたあとにのこるのは抜け殻か、でなければ屍です。これらはいずれも脳内物質の放出過多による機能不全であり、ぜんぶひっくるめて中毒と呼ばれます。

甘酸っぱいのは良性の初期症状のみです。あちこちに転移して全身に恋が回るともはや手の施しようがありません。末期になると、最終的に何をどうしたいのかまったくわからなくなるほど、前後不覚に陥ります。何を訊いても「わかんない!わかんないよ!」と耳を塞ぐようになったら要注意です。破滅への坂道を転がり始めていると言ってよいでしょう。

こうした劇的な最期を避けるためにも、甘酸っぱい初期症状の何たるかをあらかじめ知っておいて損はありません。

たとえば、好きな人にふれられるとそこからビリビリと電流が迸ります。反射的に距離を置くことになるのであまり大事にはなりませんが、長時間ふれると黒焦げになって煙が出るほどの電圧です。生命の危機を脱したことによる鼓動の高鳴りと血圧の上昇は、ときめきとして好意的に解釈されます。甘酸っぱさは常に死と隣り合わせなのです。

他にも

・頬、もしくは尻が赤くなる
・もやもやする
・ラブソングがやけにしみる
・ため息が熱くなる
・男ぶりや女ぶりが上がる
・町中で恋する相手の苗字とか漢字がいちいち目につく
・よそのカップルに対する許容度が上がる
・ラインの通知で真っ先にその人が思い浮かぶ
・今まで気にもしなかった特定の1日が警報のように点滅し始める

といった症状が見られます。なかでももっとも顕著な例として知られているのが「ストロー反応」です。ストローというのはジュースその他を飲むときに使うアレですが


恋に罹患した人が手にすると、ストローはひとりでにこうなります。


フォークや箸も同様です。


いやいやそんなん、なったことないよと笑う人は、まだ恋に落ちていないか、発症する前の潜伏期間にあるか、でなければその間ストローを手にしていなかったかのいずれかです。油断していると人前でもストローはくねくねと平気で曲がり始めます。それまでひた隠しにしてきた恋心が白日の下にさらされる危険もあるので、十分注意してください。


A: ストローが可愛くなります。




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その230につづく!


2015年10月22日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その228


アルバムを4枚も出しておきながらライブの告知がほぼゼロに近いのはまあともかくとして、詩人を名乗りながら詩の話をそういえばろくすっぽしたことがない面の皮の厚さに今さら感心しています。とおもったらそもそもここが詩人のブログだなんて一言も書いてないのであった。あらイヤだ、とするとここは一体……。


ふくらはぎさんから、前々回のコメント欄にいただいた質問です。単刀直入で、きもちのよいハンドルネームですね。

Q: 大吾さんの作った詩の中で最も削ぎ落とされた作品はなんでしょうか?もしくは最も短い作品はなんですか?


最も短いというか、文字数が少ないのはたぶんこれです。


何しろ8文字しかありません。これを詩と認めるか否かは意見が分かれそうな気もしますが、僕としてはそんなら他に何と呼べばよいのだと問いたい。

また、ぎりぎりまで削ぎ落として、これ以上足すことも引くこともできない、という一例としてはたとえば詩集に収めたこれです。



そしてそのなかでもとくに隙のない、堅牢な一遍がこれです。これも詩集に収録されています。


今でこそ露骨な性描写を甘い吐息に乗せてアハンとウフンに余念のない男ですが、というか仮にそうであっても別にいいやとおもうくらいには複雑にこんがらがったことをしていますが、リーディングに足を踏み入れる前はずっとこんなかんじでした。言うまでもなく耳にするより目にすること、文字による白と黒のコントラストや視覚的なインパクト、そして最小限の言葉から広がる無辺の世界に何がしかの夢をみていたのです。

でもまあ、あんまり相手にされなかったですよね。詩を書く人にも、そうでない人にも。


A: という具合です。


詩集、またつくろうかなあ……。



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その229につづく!


2015年10月19日月曜日

デジカメと心霊写真を幽霊の立場から考えてみる


それで、心霊写真はどうなった?という話になったのです。

この概念がいまどのくらいの温度感で共有されているのかさっぱりわからないので念のため一言添えておくと、心霊写真というのは幽霊その他のこの世ならぬとおもわしき何かがこっそりと、もしくは堂々と写りこんだ気味のわるい写真のことを言います。

80年代後半には宜保愛子さんという心霊界のアイドルがいて夏の風物詩でもあったから若年層の認知度はほぼ100%だったとおもうし、じっさい探せばそうした望まぬ写真のためにお祓いをしてもらった人がそのへんにちらほらいたものです。

しかしデジカメが普及してからというもの、とんとその手の話を聞きません。

それにはたぶん、レタッチの一般化が大きく関係しているはずです。誰でも好きに写真を加工できる時代にあっては、仮に本当にこの世ならぬものが写りこんでいたとしてもまず真に受けてもらえません。ありとあらゆる情報をシェアできる環境がこれだけ整っているにもかかわらず、そうした技術の革新が却って共有に二の足を踏ませる、というのはなかなか考えさせられるものがあります。廃れたというよりも、表に出づらくなっているわけですね。

もちろんもっと単純に、あれらはすべてフィルム写真のエラーだったと言い切ることもできましょう。というかむしろ、この認識のほうが大勢を占めていそうです。デジカメはかつて写真に焼きつけられた妙なものの大半がエラーだったことをしょんぼりするほど劇的に証明しています。少なくともエラーの入りこむ余地がフィルムと比べて圧倒的にちいさいのはたしかです。ですよね?

肯定派はそれでもなんとかして、というのはつまりなぜデジタルだと写らないのか、その理屈をひねり出しているようだけれど、全体として心霊うんぬんが人の気を引かないレベルまで下火になっていることは否めません。

一方で、僕はこうも考えます。幽霊が写らなくなったのは、枚数を気にせず好きなだけ撮ることができるようになったからではないかと。

フィルムには撮影枚数に限度があって、1本のフィルムで撮れるのはせいぜい数十枚です。また、現像までその出来をたしかめることができないので、どうしても一球入魂というか、1枚1枚を大事にせざるを得ません。それはすなわち、出来不出来にかかわらず1枚あたりの価値が大きいということであり、ひいては幽霊としてもしれっと写りこんでアピールするだけの甲斐があった、ということです。

しかし何枚でも撮り直しがきく場合、意に沿わぬ写真はその場で削除されます。削除しない場合は似たような写真が次から次へと増えていきます。1枚あたりのコストがゼロに近づけば近づくほどそれに比例して思い入れもちいさくなっていくし、下手をすると何を撮ったかさえ忘れられがちです。アルバムに貼った思い出をあとで見返すことも今や当たり前ではありません。写真1枚あたりに対する注目がとにかく少ない。つまり、幽霊にとっても写りこむ甲斐がないのです。

僕が幽霊なら、写真に見切りをつけます。もはや写真は、アピールの道具としてほとんど用を成しません。同じような景色を100枚撮ったら、どれが保存されるかわからないからそのぜんぶに写らないといけないし、ぜんぶに写っていたら何か変でもそういうものかなという気がしてインパクトも神秘性も薄れます。幽霊のきもちに立って言いますが、やってられるかバカバカしい、というのが正直なところです。写る写らないではなく、幽霊のほうから写真を見限ったわけですね。

ではアピールの機会を失った幽霊は今どこでどうしているのかというと、今もほら、あなたのすぐそb

2015年10月16日金曜日

いつからかポエトリーリーディングと呼ばなくなったこと


ふと気づけばもうだいぶ前から、じぶんのしていることを「ポエトリーリーディング」ではなく「リーディング」と呼ぶようになっているのです。

オントローロを始めてから、そのおもいは日に日に大きくなっています。

僕にとって詩はすべての中心にある不可欠な表現だし、当然すごくだいじなんだけれど、サンプラーを駆使したり音やリズム重視のものを詠んだり、果てはコントみたいな話を混ぜこんだりと、ポエトリーリーディングで括るには全体にいささか逸脱しすぎているからかもしれません。だいたい詩を書くと言ってその要素にストーリーテリングが当たり前のように含まれているのも、なんだか妙な話です。それは詩ではなく物語ではないのか?短歌はまだ声に出して詠んだことがないけれど、詠んでもぜんぜんおかしくない。でもそれをポエトリーリーディングと呼んでいいものだろうか?

イエス、と言うことはもちろんできます。詩はふところが広い。だとすればたぶん、じぶんのなかで詩といったらもうすこしシンプルなもの、もっと言えば「削ぎ落としたもの」という線引きがあるんだとおもう。(似て非なる短歌は「抽出」のイメージ)

その基準で言うと、小数点花手鑑に詩は3つしかありません。「なれそめ」「水蜜桃」「より良い転落のためのロール・モデル」です。「注射器とカセットテープと公魚釣り」も入りそうだけどちょっとはみ出ている気もする。削ぎ落としてはいるけれど、整えた部分も大きい。

オーディオビジュアルに収めた「椅子の下の召使い」は「ライオンを手なずける調教師みたいに、去りがたいきもちをやさしく撫でている」という最後の2行のための一編です。どこが詩なのと訊かれたらここだと僕は答えます。

500部だけ刷って今はもうない詩集(「2/8,000,000」)に収められていたのは、アルバムの詩をのぞけばそのすべてが「削ぎ落されたもの」です。だからあれは誰が何と言おうと僕にとってはまごうかたなき詩集であると言い切れます。でもアルバムのほうはどうだろう?あれは詩を声に乗せたものだろうか?

その点「リーディング」はそのへんのあれこれをぱくりと丸呑みしてくれます。オントローロでやっていることは楽曲であれコントであれ「リーディング」です。「朗読」でもいいけど、それなら「吟詠」もほしいよなとおもうし、じゃあいいややっぱ曖昧に「リーディング」で、というかんじ。

ちなみにオントローロは「音吐朗々」からきています。という話は前にしましたっけ?

2015年10月13日火曜日

翌日は褒美に好きなだけ登ってもよろしいとの由

ぼーっとしすぎて2日すぎてしまいましたが、オントローロ翌日はさわやかな秋風そよぐ樹上でその疲れをとろとろと癒すわたくし。連休はみなさま、堪能されましたか?


NARUTOっぽい視点




とまあそんなわけで、くしゃみひとつで吹き飛ぶ綿毛のようにささやかな催しのため、ひとたび受付を終えるとそれきりしーんと静まり返ってしまい、本当に開催されるのか、忘れられてはいないだろうか、というかそもそもすべてが今際の際にみたうたかたの夢だったのではないか、と毎回はらはらしながら当日を迎える泡沫独演会オントローロ、「03」と銘打たれた今回も来るはずのお客さんが全員欠席という最悪の事態をみごとに回避、安堵のうちにぶじ終了いたしました。おいでくださったみなさま、本当にありがとう!


どんなライブするんだろうとおもって来てくれた人の目がみな点になる、という意味ではひょっとすると今回がいちばんオントローロらしい回だったと言えるかもしれません。もうひとつあるのでくわしくは控えますが、個人的にはやらかした感が大きくて、思い返すたびに冷や汗がでます。2日がすぎてもまだ抜け殻のようです。

2週間後の「04」においでの方は、僕が何をどうやらかすのか、その目で、もしくはその耳でしかとおたしかめあそばせ。

そしてまだおいでになったことのないみなさまには今年中にもういちど、お目にかかる機会を設けることになるとおもいますので、ぜひ一度このしっちゃかめっちゃかな狼藉ぶりを味わいにきてください。どんな曲をやったとか、それだけでは到底言い表せない視聴覚言語アミューズメントの極みがここにあ

ったらいいですわねえ……。(急ブレーキをかけています)

※毎回同じようなことを書くのも気が引けるし、オントローロについての「脱いだらすごいんです」的なセルフボースティンは前回終了後のここここにだいたい書いてあるのでそちらをご参照ください。(手抜き)

2015年10月10日土曜日

いま最もその創造性に嫉妬せずにはいられない相手とは

そういえばすっかり忘れていたけれど、ひと月くらい前、企画、演出、デザインと毎回どれひとつとっても絶対に期待をうらぎらないサンシャイン水族館の大好きな特別展に足を運んでいたのです。

前回→「ぴちょぴちょカワイイ展
前々回→「毒毒毒毒毒毒毒毒毒展

この超絶カッコよすぎるビジュアルに胸を射抜かれないなんてことがありうるものだろうか?


これだけカッコいいんだからポスターがあるはず!というかサンシャインエリアのあちこちに貼ってあるんだから売ってるはず!とおもって鼻息荒くたずねたら販売はないとの由、目に見えないちゃぶ台をひっくり返しそうになりました。

なんでよ!ぬいぐるみとかよりよっぽど手間要らずなのになんで販売しないの!してよ!といい年こいてジタバタと悲嘆にくれつつ、エスカレーターでしょんぼり帰るその途中、無人のフロアにもA0版の大きなポスターが貼ってあることに気づき、他に手段がないからしかたがないよな、と壁からぺりぺり剥がすところまでやりかけたのですが、すんでのところで天使が悪魔を制圧、よくガマンしたなと天使に肩を抱かれながら家路についたのでした。



世界最大の両生類(そのへんの小学生よりでかい)

とまあこのへんまではもちろん想定内です。つねに常識の垣根をひらりとかろやかに飛び越えてくれるサンシャイン水族館のことだから、水族館なのにジュラシックな密林が広がっていたり、水族館なのに魚以外の生きものが幅を利かせていたりしても、驚くにはあたりません。

むしろ驚きは密林を抜けたエリアにあったのです。


何 こ の 未 来 感 !



オウムガイのこの宇宙的造形……

太古の生き物をテーマにした展示で、まさか未来のイメージに針を振り切るなんて、目からウロコの逆転的発想にひれ伏さないわけにはいきません。流石すぎます。念を押すようですけどここ、博物館じゃないですからね。水族館ですからね。

というわけで、珍しい生きものを鑑賞できるのみならず、世界観をまるごと楽しめるごく小規模のテーマパークとして問答無用で毎回オススメしたい、そして僕がいまいちばんその創造性に嫉妬するサンシャイン水族館の特別展「ジュラシック水族館」は12日(月)までですよ!

ちなみにもう次の特別展も決定しているらしいのだけど、そのキャッチコピーがまた見事すぎてグウの音も出ないわたくし。


ついでに言うと日曜はオントローロ03です。忘れてません。


2015年10月7日水曜日

1967年のライナーノーツにみる意外な時代背景

古い印刷物には、古今東西のありとあらゆる情報をもれなく網羅しているように見えるネットや図書館でもカバーされていないような、つまりわざわざ記録として残すほどのことでもない、往時のちょっとした背景にふれていることがあって、ときどきハッとさせられます。

その典型的な例のひとつがレコード(LP)のライナーノーツです。

ここにテナーサックスの巨人、ジョン・コルトレーンがブルーノートに残した唯一のリーダー作にして千年クラシックな「Blue Train」のLPがあります。リリースされたのは1957年ですが、僕の手元にあるのは1967年の再発盤です。


同封されたLPサイズの大きなライナーノーツにはこの「Blue Train」が、当時すでにモダンジャズの傑作として評価が定着していたにもかかわらず、60年代半ばを過ぎてもなお日本では手に入りにくいLPだったことが書かれています。だからこうして改めて日本で発売されることは多くのファンにとって朗報である、というわけですね。


ここから浮かび上がるのは

・高い認知度に反してリリースから10年たっても国内ではほとんど流通していなかった
・したがってジャズファンがみなリアルタイムでこのLPを持っていたわけではなかった

という、やや意外な時代背景です。もちろん音楽史的にはまったく重要ではありません。だからどうしたと言われればそれまでの話です。でもこれほど有名なレコードが当時どこでも手に入るものではなかった事実には、単純に「へー!」と驚かされます。

書物ほどの重みを持たないがゆえに、ともすると見過ごされがちなこうした印刷物には、今やどこからもアクセスできない忘れられた情報の断片がさりげなく含まれていたりするのです。

あと当たり前だけどあのころはジャケットの印刷も活版なんだよね……。


紙に押し付けられた活字のかすかな凹凸を、ためいきまじりに指先でなぞって気もそぞろな秋の夜更けです。

2015年10月4日日曜日

10年以上放置してやっと日の目を見たカードの話

本文とは一切関係ない井戸端会議

ある日の帰り際、原付を停めた公営のバイク駐輪場で精算をしようとしてふと、精算機がSuica対応であることに気づいたのです。ふだんから電子マネーに慣れ親しんでいれば格別、僕は日ごろそれをまったくといっていいほど使わないので、カードリーダーが設置されていても単なる機械の出っ張りとしてしか認識していないことがよくあります。

なぜ利用しないのかというと、そもそもSuicaやPASMOを持っていないからです。東京のど真ん中に生息していて1枚も持たずにいることにはさすがにちょっと引け目をおぼえなくもないけれど、降水確率が70%でもエンジンをかけようとする徹底した原付至上主義者(ゲンチャリスト)なので、とくにカードレスによる不便を感じたことはありません。というか、ここまでくると「Suicaってどこで買うの?」とか今さら人に訊きづらい。

そんなこんなでなんとなくそのままでいたら、このところちょこちょこと電車移動せざるを得ない日が重なって、「やっぱり持ってたほうがいいよな」とおもうようになりました。年をとって物ごとにあまり頓着しなくなったせいもあります。いつまでも無用な意地を張りつづけて何になりましょう。何しろみんな持ってるんだからふかく考えずに持てばよいのです。

しかしいざ手にしようとすると気後れがします。ドキドキもします。いい大人が2015年にもなって「Suicaはどこで買えますか」と人に尋ねれば「YOUは何しに日本へ?」と聞き返されてもしかたがありません。したがって、できれば今までも持ってたんだけどうっかり失くしちゃったかのようなそぶりで、初心者であることを悟られることなくスマートに手に入れたい。

とここで、そういえば10年以上前にこれと似たようなカードを友だちから譲り受けていたことを思い出したのです。ちがうと言えばちがうけど、同じといえば同じだし、ダメもとでメトロの券売機(JRとちがって10円単位でチャージができるから)(なぜかこういう知識だけはある)におそるおそる突っ込んでみたところ

ふつうにチャージできる!

というわけで、以来これで電車を乗り降りしています。

当然もう発売していない旧タイプ

ちなみに駐輪場の精算も、この古いICOCAでできました。大阪の友だちにもらった10年前は電子マネーどころかたしかJRしか使えなかったはずなのに、気づいたらア然とするほど便利なツールに進化していて何かもうコールドスリープから目覚めたばかりの人のようです。じぶんが。

2015年10月1日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その227

こないだのスーパームーン


阿闍梨じゃないのよ阿弥陀はさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)


Q: 飼い猫にちょっかい出したくてたまりません。猫の腹毛に顔を埋めたい衝動を抑えるいい案ありませんか?


猫の腹毛はふわふわした凶器です。一度そのおそろしさを体験してしまったら最後、何人たりとも抗うことはできません。わかっているのにやめられないという点では、薬物にちかいものがあると言ってよいでしょう。近所をうろつくノラ猫にすら気をそそられるのだから、至近距離にいて注ぐ愛情が大きければ大きいほど、禁断症状が比例して激しくなるのも道理です。つらいですね。

ではすこし視点を変えて、質問の一部をべつの言葉に置き換えてみましょう。

Q: 好きな人にちょっかい出したくてたまりません。厚い胸板(もしくはふくよかなおっぱい)に顔を埋めたい衝動を抑えるいい案ありませんか?

思っていても口に出すのは憚られるような印象に変わりましたね。やや極端ではあるけれど、しかしまあ、仰っているのはだいたいこういうことです。荒ぶる衝動もしおしおと萎えて「すみませんでした」とおとなしく引き下がるくらいのインパクトがここにはあります。すくなくともそんな赤裸々すぎる衝動を抱えたまま、通常の社会生活を送るわけにはいきません。

いや、そのたとえはまちがっている、と反論される向きもありましょう。何となれば飼い猫は家族であって、一線を画すべき他者ではないとの解釈も成り立つからです。亭主、もしくは女房の胸に顔を埋めて何がわるい、というわけですね。たしかにそれも一理あります。じっさい、生涯寄り添うパートナーとして敬意を払いつつの同居であれば、一向に憚ることはありません。腹毛に顔を埋めるくらい存分にしたらいいじゃないのとおもいます。そういう状況なら僕だってときどきはおしりくらいさわらせていただきたい。

一方で世の亭主や女房と同じく、猫にも自由意志というものがあります。生涯を誓い合った伴侶でさえ、四六時中ぺたぺたとナイーブな部分をさわりまくっていたらそりゃ三行半を結びつけたナイフが頬をかすめて壁にカッと突き刺さろうというものです。共通言語を持たないからといって、拒否反応を「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に解釈するわけにはいきません。

そして共通言語をもたないことが、この愛猫ハラスメント問題を全体的に暈していると僕はおもいます。同じ「NO」でもひょっとしたら「生ぬるい手でさわるんじゃねえよこのゲス野郎( ゚д゚)、ペッ」くらい峻烈かもしれないのに、言葉が通じないだけで「やーだ、んもう!」程度の印象として受け止めてしまっている可能性があるのです。

僕らが人であるかぎり窺い知ることのできないこの温度差をカバーする手立ては、2つしかありません。生ぬるい手でさわるんじゃねえよこのゲス野郎( ゚д゚)、ペッ」と吐き捨てられるイメージを脳裏にぺたっと貼付けておくか、もしくは……


A: 何かふわふわしたものをじぶんの顔に巻きつけて暮らしましょう。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その228につづく!