2015年10月19日月曜日

デジカメと心霊写真を幽霊の立場から考えてみる


それで、心霊写真はどうなった?という話になったのです。

この概念がいまどのくらいの温度感で共有されているのかさっぱりわからないので念のため一言添えておくと、心霊写真というのは幽霊その他のこの世ならぬとおもわしき何かがこっそりと、もしくは堂々と写りこんだ気味のわるい写真のことを言います。

80年代後半には宜保愛子さんという心霊界のアイドルがいて夏の風物詩でもあったから若年層の認知度はほぼ100%だったとおもうし、じっさい探せばそうした望まぬ写真のためにお祓いをしてもらった人がそのへんにちらほらいたものです。

しかしデジカメが普及してからというもの、とんとその手の話を聞きません。

それにはたぶん、レタッチの一般化が大きく関係しているはずです。誰でも好きに写真を加工できる時代にあっては、仮に本当にこの世ならぬものが写りこんでいたとしてもまず真に受けてもらえません。ありとあらゆる情報をシェアできる環境がこれだけ整っているにもかかわらず、そうした技術の革新が却って共有に二の足を踏ませる、というのはなかなか考えさせられるものがあります。廃れたというよりも、表に出づらくなっているわけですね。

もちろんもっと単純に、あれらはすべてフィルム写真のエラーだったと言い切ることもできましょう。というかむしろ、この認識のほうが大勢を占めていそうです。デジカメはかつて写真に焼きつけられた妙なものの大半がエラーだったことをしょんぼりするほど劇的に証明しています。少なくともエラーの入りこむ余地がフィルムと比べて圧倒的にちいさいのはたしかです。ですよね?

肯定派はそれでもなんとかして、というのはつまりなぜデジタルだと写らないのか、その理屈をひねり出しているようだけれど、全体として心霊うんぬんが人の気を引かないレベルまで下火になっていることは否めません。

一方で、僕はこうも考えます。幽霊が写らなくなったのは、枚数を気にせず好きなだけ撮ることができるようになったからではないかと。

フィルムには撮影枚数に限度があって、1本のフィルムで撮れるのはせいぜい数十枚です。また、現像までその出来をたしかめることができないので、どうしても一球入魂というか、1枚1枚を大事にせざるを得ません。それはすなわち、出来不出来にかかわらず1枚あたりの価値が大きいということであり、ひいては幽霊としてもしれっと写りこんでアピールするだけの甲斐があった、ということです。

しかし何枚でも撮り直しがきく場合、意に沿わぬ写真はその場で削除されます。削除しない場合は似たような写真が次から次へと増えていきます。1枚あたりのコストがゼロに近づけば近づくほどそれに比例して思い入れもちいさくなっていくし、下手をすると何を撮ったかさえ忘れられがちです。アルバムに貼った思い出をあとで見返すことも今や当たり前ではありません。写真1枚あたりに対する注目がとにかく少ない。つまり、幽霊にとっても写りこむ甲斐がないのです。

僕が幽霊なら、写真に見切りをつけます。もはや写真は、アピールの道具としてほとんど用を成しません。同じような景色を100枚撮ったら、どれが保存されるかわからないからそのぜんぶに写らないといけないし、ぜんぶに写っていたら何か変でもそういうものかなという気がしてインパクトも神秘性も薄れます。幽霊のきもちに立って言いますが、やってられるかバカバカしい、というのが正直なところです。写る写らないではなく、幽霊のほうから写真を見限ったわけですね。

ではアピールの機会を失った幽霊は今どこでどうしているのかというと、今もほら、あなたのすぐそb

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