2014年10月29日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その190

動物、飼いたくなりました


ゴムのび太さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 勤め先の骨董屋の主人(70代女性)がアップル社のことを十回に一回くらいの割合で「パイナップル」と言い間違えています。忠告をすべきでしょうか。


人がアップルをパイナップルと言い間違えるかどうかというのはそれだけで検証に値するちょっとした問題だとおもいますが、ここはまあそういうこともあるという前提で話を進めましょう。結論から言うと、ゴムのび太さんがそれをアップルだと正しく認識している以上、訂正する必要はまったくありません。

言葉はそれ自体独立した何かではなく、あくまでAをAであると伝えるための手段です。言葉の正しさというのはつまるところ認識の正しさであり、言わんとしていることがきちんと伝わるのであれば、その単語が何であれすでに役割を果たしています。マップルだろうとパイナップルだろうとウィークエンドシャップルだろうとぶっちゃけぜんぜん問題ないのです。

では逆にこれが十回に九回の割合で言い間違えるとしたらどうでしょう。一見すると奇妙におもわれるかもしれませんが、この場合もまた同じです。なんとなれば言い間違いだとわかった時点で、本来そこに使われるべき単語が明らかになっている、つまり結果として正しく伝わっていることになるからです。

さらにまた圧倒的多数の人がアップルをパイナップルと言い間違えていたとしましょう。明らかに間違っているにもかかわらず、間違っていないほうが少数なのでコミュニケーションに支障はありません。場合によってはアップルと正しく呼ぶ人こそ「パイナップルだよ」と嗜められるような状況です。果たしてアップル社はこれに多大な広告宣伝費をかけて正しい社名の認知に努めるだろうか?みんながみんなパイナップルと呼び慣らす以上、社名の変更をしたほうがコストもかからず手っ取り早いのではないか?何しろもともとそう認識されていたのだから、社名を変更した事実さえ公表する必要がないのです。正確さにおいて軍配が上がるのは言うまでもなくアップルですが、だからといってパイナップルを排除することが正しいと言いきれるものだろうか?

ここからわかるのは、言葉の間違いが正誤の問題ではなく、むしろコミュニケーション、でなければせいぜい多数決の問題である、ということです。古いタイプの亭主が「おい、アレ」と言い、古いタイプの女房が応えて「はいはい耳かきですね」と手渡すように、何が何を指し示しているかがわかりさえするなら、言葉のありようなど大した意味を持ちません。それよりアップルをふつうに果実とまちがえて「りんごで電話したり音楽聴いたりができるわけないだろうが!」とキレられたりすることのほうが、よほど考えものであると僕はおもいます。


A: 現状維持でオーケーです。


僕なんかそれはもうしょっちゅう「小林大」と名前の表記を間違われますが、すこし気落ちするだけで支障があるかといったら別にないですよ。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

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その191につづく!


2014年10月26日日曜日

転落者マルヤマのしっとりお悩み相談室


【相談者】R.Kさん(36歳・主婦)
結婚14年目の主婦です。子どもはいません。夫は大手メーカーの管理職で、中学生の息子がひとりいます。わたしはパート勤めです。両親はともに健在で、年に2度飛行機で帰省するくらいの距離に住んでいます。同居の予定は今のところありません。

夫婦仲は良好です。胡椒で目つぶしをしたり、ジャーマンスープレックスをかけられて頭を10針縫うくらいのケンカは人並みにありますが、それなりに仲良くやっています。夫は道場破りが趣味で、付き合うようになったのもわたしの祖父が切り盛りしていた道場に当時学生だった彼が乗りこみ、師範代だったわたしから返り討ちに遭ったのがきっかけということもあり、いまも月に一度、夫婦で道場破りをつづけています。どちらかといえば夫よりもわたしが道場破りにハマっているかんじです。わたしとしてはもっと夫にかつての覇気を見せてほしいのですが、さわるものみな傷つけるナイフのようだった夫は管理職に昇進してから驚くほど低姿勢で人と向き合うようになりました。「技を見せないのが技というものだ」「必殺技は最後でいいだろ」が最近の夫の口癖です。どうやら上司に恵まれたらしく、人間的にも一回り大きくなったように感じられます。今でも闘牛のように鼻息荒く「たのもう」と道場に乗りこむのはわたしだけです。夫はいつも柔和な顔をして、世話人のようにわたしの後をついてきます。どっちが女房なんだかわかりません。ただ、一度乗りこんだ先でわたしが道場主に「オヨネコぶーにゃん」と罵られたときは、わたしがキレるよりも先に夫がキレてくれました。人が単なる肉塊になったのを見たのはこのときが初めてです。人がロケットみたいに屋根を突き破って飛んでいくのを見たのも初めてでした。わたしはこれほどの必殺技を夫が秘めていたこと、そしてその圧倒的な破壊力に心底驚き、また感激したものです。「死ぬまで見せないつもりだったんだけどな」と言ってはにかんだ夫の顔は今でも忘れられません。たぶんわたしはこのとき初めて、愛するということを心から知ったとおもいます。あの必殺技があるから、わたしは笑顔で道場破りをつづけることができる。わたしがどれだけ道場の看板を集めても、彼の前では安心して妻でいられるのです。

中学生になったばかりの息子はわたしたちの趣味にそれほど興味を示しません。「いい年して道場破りとかwwwありえなくねwww」とことあるごとに草を生やしてきますが、かと言って真剣に止める様子もないので、まんざらでもないようです。「親子3人で天下無双が夢」のわたしに対し、夫は「あいつにはあいつの人生がある……つーか3人いたら天下無双にならないだろとの立場で、静観しています。無理に引き入れようとはしません。むしろプリキュア好きの息子を理解すべく、こっそりプリキュア新聞を買ってきてはお風呂で読んだりしています。彼はわたしの夫であると同時に息子の父でもあるので、それはそれで異存ありません。というか、そんな夫もすてきです。一方で、妻であり母であるわたしとしてはやはりどうしても口をとがらせてしまいます。プリキュアはプリキュアで最高だけれど、どっちかを選ぶ必要なんてないじゃない?とおもってしまうのです。息子が望むならコスプレで道場破りもいいとおもうし(息子は顔立ちが整っているので、すごく似合うんです)、「いっしょにスパイラルスタースプラッシュとかカッコ良くない?」と水を向けると「古い」とか「おれスパークリングバトンアタックのほうが好きだから」と言われて追い出されてしまいます。夫は「ふたりでもいいじゃないか」と言ってくれるし、わたしもそれに不満はないのですが、でもいつか天下を取ったとき、その隣に息子がいないことを想像するとさみしい気がするのです。できれば3人で頂点に立ちたい。集めに集めた道場の看板で最後に盛大なキャンプファイヤーをしたい。バーベキューをしたり、川の字に寝ころんで夜空の星を眺めながらささやかな武勇伝と思い出話に花を咲かせたいのです。

そこでご相談なのですが、ハロウィン仕様のお菓子についてくるカボチャの形をしたフェルト生地のケースというか意匠はお菓子を食べたあとどうしたらよいのでしょう?甥からのプレゼントなので捨てるのはもちろん、邪険に扱うのもためらわれるし、ペン立てに転用しようとしたらやわらかすぎて使いものになりません。ハガキ入れにしてみようとも考えましたが、重みで倒れてしまいました。また、妹(甥は妹の息子です)に、「かわいいでしょ」と言われるとわたしも妹が大好きなので「うん、ありがとう」しか返せず、完全にお手上げです。あんまり考えすぎて、最近では道場破りにも支障が出始めています。夫にも繰り出す拳にキレがないことを指摘されました。このままでは天下取りも遠ざかるばかりです。どうかよい手立てをお授けください。よろしくおねがいします。


【回答者】マルヤマ
お菓子をつくってカボチャのケースに入れ、甥御さんに贈るのはいかがでしょう。前回のお礼であることが一目瞭然だし、真心をこめつつたらい回しにできて一石二鳥です。

2014年10月23日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その189


持ってけトンポーロウさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: ご質問です。妖怪に性別の概念ってあるんでしょうか?「雪男」と「雪女」は同じ種族のオスとメスなんでしょうか。それにしては見た目が違いすぎます。P.S.素敵なペンネームを期待しております。


いい着眼点です。たしかに「雪男」と「雪女」ではその字面に反して相当な隔たりがあるように感じられます。その理由としてひとつにはもちろん、それぞれ語られる文脈が完全に異なっていることが挙げられましょう。前者がロマン滾る「冒険譚」なら、後者は背筋の凍る「怪談」です。肉体的か心理的かではっきりと色分けできそうなこのふたつの文脈が交わり、重なり合うことはまずありません。夫がハリウッド俳優で妻が落語家みたいなものですね。活躍する分野が互いに遠く離れているのだから、印象に隔たりがあるのも当然と言えば当然というわけです。

次に見た目についてですが、上記を踏まえてつらつら考えてみるに、はたしてそれほどの相違が両者の間にあるだろうかという疑問が浮かびます。たしかにオスとメスで違うと言えばあまりに違うと言えそうですけれども、外見からひげや乳房といった性差が確認できるのはサル目ヒト科ヒト属ヒトたる僕らも同じです。

いやいや、雪女はともかく雪男はほとんどゴリラじゃないか、とおもわれるかもしれませんが、ヒト属ヒトにもゴリラみたいな男性はそこら中に存在します。多少の毛深さも余裕で誤差の範囲内です。否と言うなら僕だって、いつだったかすらりとしてすべすべのきれいなモデルさんの横に立ち、もさもさでひげもじゃでくたくたのよれよれな自分と比べて「これは本当に同じ種族なのか」と絶望に苛まれた例を挙げなくてはなりません。それでなくとも僕はどちらかといえばサル寄りのヒトであり、したがってサル、ひいてはゴリラの味方です。ゴリラの味方であるということは、当然よく似た容姿の雪男の味方です。よそとくらべて若干毛深いからといって、ぜんぜん別の種族だなんて僕にはとても言い切れません。生物的な本能が抱くこのシンパシーをいったい誰が否定できるというのか?

テーマが「雪男と僕」にスライドしてきたので話を戻しましょう。

見た目の大きな違いには、もうひとつ考えられることがあります。それは雪男の全身を覆う毛皮が自身に由来するものではない、すなわちきわめて高機能な防寒具であり、実際のところその下にはつるりとして美白のもち肌が隠されているという可能性です。雪男が今に至るまで現役の未確認生物である以上、彼らの知能や科学力をこちらで決めつけてしまうことはできません。ひょっとしたら彼らこそ僕らのことを知り抜いているばかりか、悪戯でつけたひとつふたつの足跡に熱狂する僕らの様子を、twitter的な何かに晒して腹を抱えていないともかぎらないのです。雪女がこうした防寒具を一切身につけていないことについては、体脂肪率の男女差である程度説明がつきましょう。この仮説に立ってみると、もはや両者の間に有意の差は見出せません。率直に言って、いい防寒具を着ているか着ていないかの違いでしかないからです。

しかしこうなると雪女が妖怪であるというそもそもの大前提にも、疑問符をつけなくてはならないような気がしてきます。はたして雪女は本当に妖怪なのか?すこしばかり体温が低いだけであとは何らヒトのメスと変わらないのではないか?僕らはただ、科学がまだよちよち歩きだったころの盲目的かつ差別的な視点を無批判に受け入れていただけなのではないか?だとすればむしろ今こそ、雪女と称せられた女性たちの名誉を挽回する絶好の機会なのではないか?

そしてまた、雪女がヒトのメスであるならば、同じように雪男がヒトのオスでない理由もありません。-30℃の極寒でもそこを故郷として生き抜く人々がいるのだから、雪山で分厚い防寒服をまといながらのしのしと狩りをする人種があっても何のふしぎもないのです。僕らもここらでいいかげん彼らに対する色眼鏡をはずし、未来を見据えた裸眼でのお付き合いを始めなくてはなりますまい。


A. 雪女と雪男はおなじ種族であり、そのオスとメスであり、言ってしまえば寒さに強いヒトであって、おそらく妖怪ではありません。


妖怪における性別の有無についてはまた別の機会に考えましょう。あるにはあるが無条件ではない、という気がしています。今のところ。




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その190につづく!

2014年10月20日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その188

ストライキ中の自販機


みちのくひとりダービーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 好きなフォントと嫌いなフォントと、あと兵藤ゆきは好き嫌いで言えばどちらですか?


さもありなん的な答えで恐縮ですが、かつて高速道路に使われていた「公団ゴシック」と駅でよく見る「修悦体」が好きです。どちらも「必要から生まれて結果的にそうなっている」ところがいい。とくに公団ゴシックは正しさよりも瞬間的な視認性が優先されるがゆえの相当思いきったデフォルメと、そこから生まれるネジが2、3本はずれたようなゆるい味わいに惹かれます。忠実でなくても認識できるとすれば、いったい何が文字をその文字たらしめてるんだろう?

一般道の青い標識でよく見る「ナール」もいいですね。一目で認識できるインパクトをもちながら文章にすると印象がすっと後ろに引っこむ、その柔軟性はちょっと他に類をみない気がします。革新性と大衆性を兼ね備えながら今なお色褪せない、マイケル・ジャクソンのアルバム「Off The Wall」みたいな書体です。この例で言うと異常に汎用性の高いヒラギノなんかは、リチャード・クレイダーマンあたりに置き換えられるかもしれません。

キライというかちょっとカロリーが高くて胃もたれするという意味で苦手なのは勘亭流です。兵藤ゆきさんは80年代のイメージのまま固定されてしまっているので是非もないかんじですが、でも好きなほうです。明朝体のような方ですよね。


A: カムバック公団ゴシック…!




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その189につづく!


2014年10月17日金曜日

ランプの精にお願いしようと試みること


「もし魔法のランプを手に入れたら」というのは僕が昔から好んで夢想する仮定のひとつです。ここで言う魔法のランプというのはもちろん、こすると精霊がでてきて願いを叶えてくれる、千夜一夜物語のアレですね。まさか中年になっても変わらずそんなことを考えているなんて少年時代の僕は想像もしてなかったけれど、いまだにふとした拍子に「あ、これランプの精のToDoリストに入れよう」と考えることがあります。

叶えてもらえる願いごとは3つです。「アラジンと魔法のランプ」ではたしか願いごとに制限がなかったはずだから、なぜそんなルールになっているのかは僕にもよくわからない。でも僕のなかでは昔からそういうことになっていて、だからリストの項目も際限なく増えたりはせず、その都度更新されることになっています。3つのうちいちばん優先度の低いものと置き換えられるわけですね。

ちいさいころは「お金もちになる」とか「願いごとを4つにする」とか「透明人間になる」とか「宙に浮く」とか、誰でも一度は考えそうなシンプルな欲望に忠実なことばかり考えていたけれど(「空を飛ぶ」ではなく「宙に浮く」なのは僕が高所恐怖症だからです)、長いこと検討しつづけているうちに、だんだん、何というかこう、「それをしたからといって特に何かを得られるわけではない」ような願いごとが増えてきました。「電気をパチンと消すように昼を夜にしてみたい」とか、「雨雲に棒をつっこんでぐるぐるかき回したい」とか、「地球を貫通する穴をあけてみたい」とか、「新聞の1面にどうでもいいニュース(「子猫、生まれる」みたいな)をでかでかと載せたい」とか、そういうのです。心境の変化というより、一度願ったことを除外しながらリストの更新を数十年つづければそりゃまあ自然とそうもなりましょう。何しろ大抵のことはすでに願い尽くしてしまっているのです。叶ったわけでもないのに「これは前にも願ったからなあ」と打ち消し線を引くのだから妙と言えば妙だけれど、それはもう言ってもしかたがありますまい。

いま現在リストに載っている3つの願いごとのうち、ひとつはここ数年ずっと不動の座を占めています。「交差点の名前を好きなときに好きに変えたい」というのがそれです。信号に表示された交差点のプレートを目にするといつも思い出します。土地そのものとちがって交差点はどちらかといえば車とバイクのための目印になればよいのだから、もっと自由につけたらいいじゃないかと個人的には思われてなりません。「銀木犀」とか「からたち」みたいに植物の名前もいいし、「ツグミ」とか「丹頂鶴」とか鳥の名前なんかもいいし、なんなら「リンパ球」とか「艦これ」とか「皐月賞」とか「魚の目」とか「今川焼」とか「3年B組」とか「猪口才な」とか「西高東低」とか「キャトル・ミューティレーション」とか「ちがうの!誤解なの!」とか「Wi-Fi」とか「2000円ポッキリ」とか「(*゚∀゚)=3」とか「鈴懸の木の道で『君の微笑みを夢に見る』と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わっ てしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」とかそんな交差点があったっていいじゃないですか?誰も困らないし、インパクトは絶大だし、味の素スタジアムみたいにネーミングライツ(施設命名権)をやりとりするくらいなら交差点こそその対象にしたほうがよっぽど費用対効果が大きそうじゃないか、いいことばっかりだ、なぜやらないんだ、ええい融通の利かないやつらめ、もういい、こうなったら魔法のランプで目に物見せてくれるわ、あとで吠え面かくなよこのすっとこどっこい、お願い出てきてランプの精!

ごしごし(ランプをこする)

ボワン

「出てきてやったぞ、のこる願いはあと2つだ」

ボワン


 ( ゚д゚) エ?


どうでもいいけど前回この話をするのになぜ住所表記の話から始めたのか、そこからここにどうつなげるつもりだったのか、ぜんぜん思い出せない。

2014年10月13日月曜日

シュリーマンと住所表記の変更、そのどちらでもなく

ミス・スパンコール秘蔵の1枚から


先月だったか先々月だったか、取り立ててどうということもない話をしているさなかに母親がポロリと「そういえば住所が変わったよ」と言い出したのです。へー、そうなんだ、誰の?と聞けば「ウチの」と答えます。ウチの、というのは母親にとってのウチだからつまりえーと、実家だな。僕の実家だ。住所が変わったのは僕の実家ですか。「そう、ウチの」

はあなるほど、ちょっと無沙汰をしている隙にそんなことになっていたとはつゆ知らず、しかし一般的に言ってそういうのは引っ越す前に伝えたりするものではないのですか、とハミング仕上げのバスタオルよろしくふんわり抗議をしてみたところ、「引越って何?」と眉間にしわをお寄せになります。「あ、ちがうちがう、住所ってあれ、何丁目とかそういうの」
「住所表記?」
「そうそれ」
「文字だけ?」
「文字だけだね」
「町田市全体が?」
「さあ、ウチの周りだけじゃないの」
「あっ」
「何」
「町田でおもいだした。シュリーマンているじゃん」
「知らないよ。誰」
「トロイの遺跡を発見したドイツ人だよ」
「?」
「トロイの木馬ってあるじゃない」
「なんか聞いたことある気がするね」
「めちゃ有名な考古学者だよ」
「へー。それがどうしたの」
「あの人、日本にも来てるんだよね」
「今?」
「いやいや150年前だよ。江戸時代、江戸時代」
「それで?」
「町田にも来てたんだって」
「だれが?」
「シュリーマンだよ!」
「ああ、そう」
「シュリーマンの旅行記に原町田って書いてあった」
「150年前って、幕末よ、あんた」
「そう言いましたけど」
「町田ってそんな昔からある地名なの?」
「そうなんだよ、びっくりした!」

というローカルな小ネタをはさんだ四方山話はさておき、もう若くもない年になって住所表記が変わるというのは、いささか困ります。言うまでもなく、覚えられないからです。実家の住所を思い出す機会がしょっちゅうあれば別だけれど、1年に1度も思い出さない情報を今さら頭に叩きこめと言われてもそううまくいくわけがありません。かつてはスポンジのように何から何まで吸収していたフレッシュな脳みそも、今では冷蔵庫の奥で30年放置されたウニのように気の毒な臓器へと変貌を遂げつつあります。実際このとき教えられた住所はメモをとらなかったせいもあって、まったく記憶にありません。西……西という字がついていたような気もするけれど、ひょっとしたら全然ついてなかったかもしれない。前は番地だけだったのが何丁目になった、とはたしか言っていた。でも数字はみごとに思い出せない。もちろん初めから覚える気がなかった可能性も大いにありましょう。それも僕にというより、知能を司っていたはずのぶよぶよした何かに覚える気がないのです。頭蓋骨の内側でこのぶよぶよが煙草をぷかりとふかしながら「もういいだろ、さんざん働いてきたよ、おれは」とぼやくばかりか、あまつさえ尻をかく様子まで目に浮かびます。脳みそのくせに尻なんかかくんじゃないとおもうけど、奴の出す電気的な指令に従って現実にぽりぽりと尻をかいているのはおそらく僕自身です。そうしただらしのない振る舞いに誰よりも断固たる姿勢で反対の声を上げる僕自身の体を使ってそうしただらしない振る舞いに及ぶなんて、遠隔……ここにあるんだから遠隔じゃないな、何て言えばいいんだ?まあいいや、いずれにしてもそれじゃまるで僕がだらしないみたいじゃありませんか。こんな理不尽な話があっていいのか?いや、断じてあってはならないはずだ、だから今ごろになって住所表記をそれっぽくイイかんじに変更するとかもうそういうのは本当に勘弁していただきたい。

それでまあ案の定ここからが本題であって別に実家の住所表記がどうなろうと知ったこっちゃないと言えば知ったこっちゃなかったのですが、ともあれつづきは次回に繰り越すことにいたしましょう。ところで僕にはささやかな夢があるのです、という話をするはずだったのに、じつにふしぎだ。まったく解せない。


2014年10月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その187


このときちょうど豆を煮ていたので、ずっと観察してました。




悪魔が来りて笛をパクッさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)好きな女の子のたて笛によこしまなきもちを抱くようなときに使う、横溝正史的な慣用句ですね。


Q: これまでに読んだなかで最も衝撃を受けた本は何ですか?


衝撃にもいろいろありますが、とにかく驚いたの一言に尽きるという点で真っ先に思い浮かぶのは江戸川乱歩の「恐怖王」です。本というより、作品ですね。でも読み終えてこれほど唖然とさせられた小説は他にありません。こうして書いている今も、脱力のあまりおもわず「えええー……」と声を発してしまったあのときのショックがまざまざとよみがえります。

成功とか失敗とか、良いとか悪いとか、どこがどうと言うことはできません。実際のところ、これを作品と呼んでいいのかどうかすら躊躇われるものがあります。乱歩自身の(・ω<)てへぺろ☆的なエクスキューズ付きとはいえ、全集にそのまま収録されていることがにわかには信じられないくらいです。花札で賭けでもして負けたか、そうでないならいくらなんでも懐が広すぎるとおもう。

この例を持ち出しても江戸川乱歩の偉大な功績は微塵も損なわれない、と確信した上で思い起こされるのは、かつて日本中のアニメファンを震撼させた伝説の劇場作品「ガンドレス」です。封切時の「ガンドレス」は、言ってみれば走り幅跳びの選手が助走の半ばで派手にすっ転んでそのまま「マイナス3m27cm」と記録されてしまったかのような、それはそれで奇跡と見なせなくもない驚異の作品ですが、じっさい「恐怖王」の衝撃はこれと肩を並べてもぜんぜん遜色がありません。信頼からくる安心感との落差で言ったらむしろ凌駕していると見ることさえできましょう。何しろ、どこがどうと聞かれたらどうもポーもないと答えるほかないのです。とりわけギアが一段上がる、中盤以降からのアウト・オブ・コントロールぶりといったら、読む人みな目を見張らずにはいられますまい。

恐怖王とはいったい何だったのか、というかそもそも何しに現れたのか、そしてなぜゴリラばかりがおいしいところを持っていくのか、おいしいといっても僕らにとってのおいしいところまでいっしょに持っていくから最終的にはゴリラ以外誰もおいしくないのですが、ともあれ懐疑の方こそ、おためしあそばせ。これでも相当、控えめな書きぶりだということがきっとおわかりになるはずです。

ただし、乱歩の名作群にまだふれたことがない、したがってその大家たるゆえんをご存知でない方は、逆に決して読んではいけません。


A: 江戸川乱歩の「恐怖王」です。


謎めいていて、かつ謎のまま解かれずに終わった謎のシーン




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その188につづく!

2014年10月7日火曜日

売れ残ったデパ地下の惣菜は毎日どこへ消えていくのか?



わざわざ手を挙げて発言するようなことでもないけれど、デパ地下の惣菜売り場をうろつくのが趣味です。そこで買い物をするのではなく、じぶんでは絶対につくらないようなよそ行きのおかずがグラム売りで山のように積まれている様子に心躍らされるのです。

だいたい閉店1時間前あたりから、あちこちのお店で値下げがはじまります。3割引、4割引、2パックで5割引……とくればやがては値引率が10割を超えてマイナスに突入、最終的には「100円あげるから誰かもらってください」というようなことになるはずですが、もちろん閉店まで待機してもそうはなりません。これ以上は下がらないというデッドラインの存在あってこそ、どの時点で手に取るのがいちばんお得かというチキンレースにも似た緊張感が生まれるのです。万物の霊長がその高度な知性を遺憾なく発揮するのはまさしく、というかおおむねこういうときであると言ってよいでしょう。

しかしそれはまた同時に、売れ残る可能性が常にあるということでもあります。じっさい、相当な量の惣菜が毎日のように残されると言わねばなりません。ふしぎなのはここです。

売れずに残った大量の惣菜は毎日どこへ消えていくのか?

もちろんスタッフがおいしく、たらふくいただくこともあるでしょう。キロ単位でおかずばかり食って何ともないスタッフが果たしてどれくらいいるのかという疑問はさておき、仮に全員がそうした特別な胃袋を備えたスペシャリストだったとしても、それで落着というわけにはいきません。何となれば、そこに並ぶすべての惣菜が毎日がらりと入れ替わるわけではないからです。

揚げ物の専門店を例にみてみましょう。今日はすごくおいしい極上のロースカツが2枚のこったとします。もしもらって帰れるなら、よろこんで持ち帰るのは僕だって同じです。ただロースカツは定番なので、おそらく翌日も並びます。この日は1枚のこりました。きのうも食べたけど、でもおいしいからやっぱりいただきましょう。そしてもちろん、その翌日も並びます。今度は3枚のこりました。その次は1枚。その次が2枚。いえ、もう結構ですと言いたいところですが、実際のところ結構かどうかはカツが売れ残ることとまったく関係がないので、カツはやっぱり目の前に置かれるでしょう。

極上のロースカツだろうと老舗料亭の筑前煮だろうと海老とアボカドのサラダであろうと何であれ、そして誰であれ、まったく同じものを365日食べつづけることが心理的、五臓六腑的に果たして可能なものだろうか?

ほかの惣菜でもあれば、そしてそれがカキフライのように季節限定だったりしたら、多少の変化にはなるでしょう。揚げ物に揚げ物では変化と言っても違反切符の内容が変わるだけのような印象がなくもないですが、しかし問題は変化があるかどうかではありません。アジフライだろうと椎茸のはさみ揚げだろうと、その隣にはいつでも昨日食ったロースカツがあるということなのです。煮えたぎる油にくるくるザブンと身を投げたくなったとしても無理はありますまい。

スタッフだけでは手に負えないことがこうまではっきりと示された以上、考えられる他の可能性としては、というかそうだったらいいなと僕がおもうのは、惣菜売り場のスタッフ全員による盛大なシェアです。閉店後、さながら立食パーティーのように和気藹々と歓談しながら「このマリネ、うちの新作なんけど、どう?」「じゃあうちの蒲焼きと交換しよう」「うわーこの角煮うまい!」「牡蠣グラタンあるよー」「好きな栗おこわが残っててうれしい!」「ここだけの話、これモッツァレラじゃないんだ(ひそひそ)」「バゲット切ったのでよかったらー」「ビールほしいな」「向こうにあったよ」「今日もおつかれ!」「明日もたのしみ!

歯ぎしりするほど楽しげな、まさにこの世の天国です。デパ地下の野郎……!(ギリギリギリ)

考えてみればその場で調理しているわけでもないのに、あれだけの量の惣菜があれだけの面積いっぱいにずらずらと山積みで、毎日リセットされるのもふしぎなことです。バックヤードがあると言ったってまさか店ごとに調理場が用意されているわけでもないだろうし、あれこれ想像するだけでもごはんが進みます。真実なんてべつに知らなくていいとおもう。

2014年10月4日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その186


あ‐うん【阿吽】    
1 梵字の12字母の、初めにある阿と終わりにある吽。
2 狛犬などにみられる、口を開いた阿形と、口を閉じた吽形の一対の姿。

死んだようにねむる猫(阿形)

死んだようにねむる猫(吽形)

狛猫

狛犬もルーツをたどればライオンらしいし、これこそ正しい姿であると言えなくもないような気がしないでもありません。

起きた




各駅Tシャツさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)駅ごとにプリントが異なるご当地Tシャツのことですね。


Q: 女性と接する上で心がけていることは何ですか?


きもちはわからないでもないですが、僕の場合はとくにありません。じぶんが男らしさに欠けているとか、慣れているとかそういうことではもちろんなくて、男性か女性かで一概に線を引けない場合が往々にしてあるからです。

もし質問が「女性を前にすると緊張したり戸惑う」という意味を含むのだとしたら、「その人が本当に女性かどうかなんて直接尋ねないかぎりわかりっこない」ことを思い出してください。

また仮に相手が女性であるとはっきりしている場合であっても同じです。女性に対して心がけることがあるとすれば、男性に対してもやはり同じように心がけて然るべきだと僕はおもいます。極端な話、礼を失することさえなければ性別なんて問題になりません。

それをふまえてもなお強いて何か挙げるとすれば、むやみに服を脱がないとかそれくらいのことはあってもよさそうですが、どうあれ服はむやみに脱がないほうが後難を避ける上でもよいでしょう。

まあいずれにしても基本的には性別によらず、同じように接するのがいちばん無難です。


A: なるべく女性だと思いこまないように心がけています。




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その187につづく!

2014年10月1日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その185


原宿は東郷神社の超合金的狛犬



謎解きはウィンナーのタコでさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 好きな国の好きな時代にタイムトラベルできるとしたら、どうしますか?


「どうしますか(What you gonna do?)」とあるからには「行く」のほかに「よろこぶ」「ひとっ風呂浴びる」「結婚する」「次の角を左に曲がる」「部長に楯突く」等々、無数の選択肢がありそうですが、ここはひとまず「行く」の一択として、そうですね、ひとつあげるなら、うーん、1000年くらい前の日本にします。できれば人の多くいる都の中心がいいです。

というのもかつて日本語は「」と「」、「」と「」、「」と「」が字だけではなく音として明確に区別されていて、ハ行も「ha」ではなくて「fa」だったり、またいくつかの文字については2種類の音に分けられていたりと全体に今とはまるでちがった発音だったそうなんですよね(※)。今も数十年前は当たり前にあった鼻濁音が失われつつあるといってときどき話題に上るけれど、古代の日本語における発音の多様さはその比ではなかったというのです。古語でさえ現代の僕らには手に余るところがあるのに、発音までちがっていたらそれはもうほとんど別の言語じゃないですか?

なのでそのころの日本に遡って日本語を聴いてみたいです。あんまり遡りすぎると今度は「日本」という概念もあやふやになってくるから、やっぱり平安時代くらいにしておきましょう。下手をすると単語ひとつさえ聞き取れないんじゃないかとおもう。

それとは別に、エジプトはギザの大スフィンクスがいったいいつ建造されたのかを突き止めにいくのもいいですね。定説では文明の初期につくられたことになっているけれど、いつだったか「スフィンクスの周りには雨による浸食の跡がある」という話をきいて、がぜん興味が湧いてきたのです。エジプトに雨が降っていた時代となると紀元前5000年よりさらに遡ります。つまりピラミッドとかほかの建造物とちがって、スフィンクスだけは王朝の成立するよりもはるか以前に完成していたことになるのです。ではいったい誰が、何のために?真偽はさておき、こういう話ってわくわくしませんか。

しかしそうすると邪馬台国とかアトランティスだって確かめないではいられなくなるからこれ以上はよしましょう。


A: 平安時代の日本ですね。


 国語学者である橋本進吉の講演記録「古代国語の音韻に就いて」では、本来形に残らないはずの「大昔の発音」がなぜわかるのかを平易に説明されています。解きほぐしていくその過程がまたむちゃくちゃスリリングなので、みんな読むといいよ!


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その186につづく!