2015年8月29日土曜日

謎めく失恋ソング「Hot Water Pressure Washer」のこと


御大タケウチカズタケが椎名純平さんと「Hot Water Pressure Washer」をカバーするというので、おふたりの行脚公演「Solo Solo TOUR 2015」@新宿カブキラウンジにお邪魔してきたのです。


椎名純平 feat. タケウチカズタケ による世界が聴けるよろ〜こびー、つたーえらーれるーなら〜(大好きなの……)、とそのままこの日の様子を文章がモニターからはみ出す勢いで書きつらねたいのは山々なのだけれど、一介のへぼ朗読者にすぎない僕にはちょっと荷が勝ちすぎるような気もするので、ひさしぶりに聴く「Sounds Like A Lovesong」から始まってもはや円熟の域に達しつつあるタケウチカズタケの「midnight theme」や、純平さんのアイズレーAt Your Bestカバーとかチャップリン「smile」のアカペラ(!)、そしておふたりによる松田聖子天国のキッスカバー(!)あたりに目頭を熱くしつつ、ここはぐっとこらえて本題に入るといたしましょう。よくよく思い返すとえらいラインナップだな……。


先日のオントローロでも披露しましたが、小数点花手鑑に収められている「ダイヤモンド鉱/hot water pressure washer」にはタケウチカズタケによるリミックスが存在します。このリミックスのいわゆる元ネタとも言うべき原曲が、「Hot Water Pressure Washer」です。

「いや、じつはここだけの話やねんけど」とタケウチカズタケは声を潜めて打ち明けます。「70年代にアメリカの……どこやったかな、まあ活動してた無名のコーラスグループにそういう曲があんのよ
「ええー!ホントですか」
「まじでまじで」

古いソウルミュージックに同じタイトルの曲があるからそれをリミックスに使ってみた、という経緯はそれだけみればちょっと粋な話だし、実際そういう例は多くあるからとくべつ不思議もないのですが、問題はそのタイトルがHot Water Pressure Washer(温水高圧洗浄機)」であるという点です。そんな歌が実在したなんて偶然が果たしてあるものだろうか?いくらなんでもピンポイントすぎるじゃないか?ググってもそれらしい情報は出てこないし、だいたい仮にあったとしてそれはいったい何を歌った曲なんだ?と素朴な疑問を矢継ぎ早にぶつけてはみたものの、本人が頑なにそう言い張る以上は僕としても受け入れるほかありません。

「いや……でも、やっぱりなあ」
「何?」
「おかしくないですか」
「何が?」
「だって高圧洗浄機ですよ」
「そうやねん、奇遇というかね
「そういう設定なんでしょ?」
「いやいやいや、え、なんで?」
「高圧洗浄機の歌なんですか?」
「いやいや、失恋ソング」
「はあ、失恋……え?失恋?
「そうそう」
「何を言ってるのかわからない」
「なんでよ」
「歌なんですよね?」
「もちろん」
「どんな歌詞なんですか?」
「歌詞ならダイゴくんのPCに入ってるでしょ」
「え?」
「いや、入ってるんじゃないの」
「なんで?」
「そんな気がするわ」
「だって僕、知らないですよそんな歌」
「うん、まあそうなんやけども」
「入ってるわけないじゃないですか」
「入ってるから、絶対」
「入ってな……うわっ入ってた!
「あんねんなーそういうことって」

聴いたこともないはずの古い曲の歌詞がなぜ僕のPCに入っているのか僕にもさっぱりわかりませんが、わからないことに目くじらを立ててもしかたがありません。せっかくなのでその歌詞をここに載せておきましょう。たしかに高圧洗浄機をモチーフにした失恋ソングです。


<対訳>

ふたりで暮らしてたあのころ
きみは地球でぼくは月だった
ぼくはきみにすべてを捧げた
きみはぼくの金を持って逃げた

ムダなことなんて何ひとつない
人生は山と谷の連続だ
最新の高圧洗浄機を買おう
顔を洗って出直すために

何はなくとも高圧洗浄機
温水仕様の高圧洗浄機
さっぱりするぜ
温水仕様の高圧洗浄機


とまあそんなわけで椎名純平&タケウチカズタケによるこの謎めいた失恋ソングのカバー(あくまで実在すると言い張る原曲のカバーです)を歌舞伎町で聴いてきたんだけれど、むちゃくちゃカッコよかったです。今後もちょいちょいカバーするそうなので、おふたりをフォローしてたらまたどこかで聴けるかも!


というかそんならせめてその前に「ダイヤモンド鉱」のリミックスを出せ!という話なんですけれども、じつは半年くらい前にそのことを議論していたら、そこからなぜかオントローロの開催に話が転がっていってしまったのです。人生なにがどこでどう転ぶかわからないもんですね。(しみじみ)

2015年8月27日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その223


24時間トロ火さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)


Q: 私事で申し訳ないのですが、ある場所に隕石を落としたいです。どうしたらよいですかね。


かくいう僕も隕石の、というかある場所に落としたいものとして思い浮かべる隕石の、もしくはあの人にならいくつ落とされてもかまわないものとして夢みる隕石の世界的権威……だったらおもしろいのになあ、とたいへん入り組んだ空想をさんざん育んできたほうなので、華麗にして美しい隕石の落としかたについてお話することはもちろん可能です。ようやくひとかどの権威として認められる日が来たことにはすこしく感慨深いものがあります。ここはひとつ、山のような研究ノートをいそいそと持ち出してきて机に積み、端からぺらぺらとめくりつつ「どれが好き?ウィラメッテ?うふふ、わかってるなあ!落とすのはどのタイプにする?」と畳みかけたいところです。

そんなわけで伝授したいのは山々だし、むしろ訊かれる前から押し付けたいくらいなのですが、残念ながらここには二の足を踏むに十分な問題がひとつ横たわっています。というのは、隕石を落としたいエリアに僕が含まれているかもしれないからです。いくらその道の権威とはいえ、意図せず黒焦げになることにはやはり若干の抵抗があります。というか、黒焦げが不可避ならせめて隕石を落とす人くらいこっちで選ばせてもらいたい。

ご承知とはおもいますが、隕石の落下による影響と被害はそのサイズ次第で半径数十キロメートル以上にまで及びます。ちょっと大きめの岩を落としてスッキリというわけにはいきません。下手をすると24時間トロ火さんご本人さえふつうに黒焦げ対象です。心中目的ならともかく、いただいた質問のトーンからしておそらくそれは本意ではありますまい。

ちょっと大きめの岩を落としてスッキリと書きましたが、察するにお望みなのはそういうことなのではないかともおもわれます。だとすれば隕石まで呼び出して食らわすには及びません。実際にちょっと大きめの岩を運んできてどすっと落とせばそれで済む話です。岩を担ぐにはやや筋力が足りないようであれば、鉄球のついたクレーン車なんかいいですね。現実的な落としどころとしてはこのあたりかもしれません。

現在では騒音規制法等の制約もあって市街地では鉄球を振り回すことができませんが、振り回したとしてもせいぜい牢屋にぶちこまれて社会的地位の一切を失い、多額の損害賠償を支払うくらいのものなので、それさえクリアできれば大丈夫です。磨き上げられた鉄球でミシミシバキバキと破壊されゆく何かの音を想像するだけで、僕もうっとりしてきます。

ただ、それを実行する前に、新潟県と長野県の県境にある光ヶ原高原を訪ねてみてもよいでしょう。ここにはかつて浅間山荘をドカンとぶちこわした本物が「難局打開の鉄球」として展示されています。日本の歴史に名を残す偉大な鉄球を見つめながら、来し方行く末に思いを馳せるのもまた一興です。決意を新たにするか、はたまた実際に手でその重みにふれてくるりと踵を返すか、ここで今一度みずからの心と向き合ってからでも遅くはないと僕はおもいます。


A: 光ヶ原高原に鉄球を見に行きましょう。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その224につづく!

2015年8月23日日曜日

高所恐怖症はなぜか木登りに適用されない

溌剌とした壮年のミズキに登って高まるわたくし



ちかごろはいい木に出会うと目頭が熱くなるどころか、下手をしたらポロリと落涙することまであるんだけど、何か心に問題でも抱えてるんだろうか?

そんなか弱いツリークライミング中年によるリーディングの祭典もしくはひとり相撲の極みたる「オントローロ02」は明日開催です。忘れてません。

2015年8月21日金曜日

ショウリョウが先か?それともショウジョウが先か?

ショウリョウバッタを探そう!

ちいさいころ僕はこれを、これをといってもどこにいるのかわからないかもしれませんが、「ショウジョウバッタ」と呼んでいたのです。でもだいぶ大きくなってから「ショウリョウバッタだよ。精霊って書くんだ」と人に言われて、脳内の登録データをあわてて書き換えた記憶があります。子どものころ得た知識は知るというより刷り込みにちかくて、いったん刻みこまれるとなかなか改められないから必死で上書きしたのに、これでもう大丈夫と安心したころになってやっぱりショウジョウバッタでもまちがっていなかったことをまた別の方面から知り、責任者出てこいとひとり憤慨したものです。

では「ショウジョウ」の場合はどう書くのかというと「霄壌」、これは「天と地」のことで、体長がオスとメスで天と地ほどもちがう(メスはオスの2倍も大きい)からだと言います。

ショウリョウバッタのほうは精霊流しの精霊船に形が似ていることから来ているそうですが、しかし考えてみれば長崎を中心とする限られた土地の伝統行事が、日本全国どこでもふつうに生息しているバッタの名になるというのもなんだか不思議な話です。今ではショウジョウバッタのほうが別名扱いになっているけれど、むしろ「ショウリョウ」のほうが後なんじゃないだろうか?

一方で「霄壌」という言葉の難解さを考えると、これも広まるに自然とはちょっと言いがたい。あるいはどっちも単なる後付けで、音もどっちかがどっちかに転訛しただけかもしれない。もっともらしい理屈を持ってこられると僕なんかはついそれを事実のように受け止めてしまいがちなので、あんまりそれっぽいことをそれっぽく言わないでいただきたい。

とぶつくさ言いつつも、ここはひとまず「ショウリョウバッタ」に軍配を上げておくことにいたしましょう。何しろ「ショウジョウバッタ」は変換すると「少女奪った」にされてしまい、うっかり誤変換のまま放置した場合、あらぬ誤解を招きかねないからです。奪ってない。

ショウリョウバッタ探しの答え

2015年8月18日火曜日

独創性とは勝手に生えるスネ毛みたいなものであること

いま起きている騒動とは似て非なる話だけれど、「オリジナリティ」について考えるとき、思い出す絵が1枚あります。エドゥアール・マネによる代表作のひとつにしてセンセーショナルな名画、「草上の昼食」です。


これが名画と見做される所以についてはもちろん語れる立場にないしそんなつもりもないですが、門外漢である僕らにとってはあのパブロ・ピカソがこの作品をモチーフにした油彩を30点ちかく、デッサンにいたっては150点以上描いたという事実を引き合いに出せば、その重要性もなんとなく窺えましょう。ともあれ絵画の歴史においては絶対に欠かすことのできない1枚であることだけはたしかです。いい絵だよね……。

それほど絵画に明るくない僕らのような人々にもよく知られたこの「草上の昼食」には、源泉ともいうべき他者の作品があったと言われます。マルカントニオ・ライモンディによる銅版画「パリスの審判」がそれです。16世紀だから、「草上の昼食」からちょうど300年くらい前の作品ですね。


「あれ?どこが?」とおもわれるかもしれないので、拡大してみましょう。右下の部分です。


ワーオ!とびっくりするくらいよく似ています。というか、ほぼ同じです。


ではこの絵が端緒かというと、どうやらさらに過去へ遡れるらしい。というのも物の本にはこれが、古代ローマの石棺に彫られた川の神のレリーフを元にしているかもしれない、とあるからです。

スーザン・ウッドフォード著「絵画の見方

「まあまあ大目に見ようぜ」とか「これ以上はアウト」というモラルや線引きの話でもなければ、もちろん権利と侵害の話でもありません(どのみち上の例には当てはまらない)。そうではなくて、人の手によるものは何であれ模倣と借用から始まるし、その後も多かれ少なかれずっとついて回るものだと言いたいのです。でもどういうわけだか創作物とは「ゼロから生み出されるべき」と考える人が意外なほど多い。(←異議を唱えたいのはここです)へたをすると誰の真似でもないものこそ至上という、信仰にちかいような印象さえおぼえることがあります。

僕にとってオリジナリティとは模倣を避けることではなく、むしろ「模倣からはみ出したわずかな部分のこと」、もしくは成長すれば追々勝手に生えてくるスネ毛みたいなものです。個性とか解釈の付加をそこに含めてもいいけれど、逆に言うとその程度のことでしかありません。他の何にも似ていないとすればそれはあくまでそのわずかな部分をせっせと積み重ねた結果であり、すくなくとも全体がある日いきなり突然変異みたいにポンと現れるものではないのです。したがって誰の追随でもないことに過剰な価値を置くべきではないし、先例があったからといって「なんだそこまですごいものってわけでもなかったんだな」と受け止めたり、何から何までその人のオリジナルであると頭から鵜呑みにするのはまったくもって馬鹿げていると僕はおもいます。

さすがに二次性徴が始まる前から「もう大人です」という顔をするのはどうかとおもうけど(と騒動への皮肉をむりやりねじこんでみる)、きちんと続けてさえいればスネ毛くらい、誰でも生えてきますから。

2015年8月15日土曜日

「わからない」と言った彼のきもちが今になってわかったこと


僕がまだかろうじて十代だったころ、一回りほども年の離れた男性と親しくしていたことがあります。寡黙ではないけれど、丁寧に言葉をえらびながら話す人で、脚本家になる夢をあきらめたと言っていました。きっと心をぎりぎりと絞られるような苦渋があったろうことも今ならなんとなくわかるし、むしろそれを打ち明けてくれたことのほうこそ真摯に受け止めるべきだったとおもうけど、そういうことが当時はぜんぜん理解できずにいた気がします。「あきらめる必要なんてない」と無責任に焚き付ける僕に対して、彼はいつも「いや、もうやめたんだ」とだけ返しました。そう言わせてしまうことの罪深さを考えると、身が竦みます。でも彼の口からあきらめたと聞くのはやっぱりかなしかった。

フェデリコ・フェリーニの「道」という映画を観るよう僕に勧めたのも彼です。なぜ彼はこれを僕に勧めたんだろう?今もこれを観るといろいろな感情がないまぜになって胸が締めつけられます。レンタル屋でタイトルを見かけるたびにどきっとするくらいです。でもあのとき、なんだかよくわからないままにビデオで借りて(ビデオでしたね)観ておいてよかったとしみじみおもう。言葉にするのはちょっと難しいけれど、何かすごくだいじなものを受け取ったのはまちがいありません。

そんな彼とのやりとりで、いちばん忘れられないのは「『責任』の意味がわからないんだ」という一言です。それを聞いたとき、「ええ!?」と耳を疑いましたが、もちろん考えなしにそんなことを口走るような人ではありません。ないんだけど、それにしてはあまりにわかりきったことのようにおもえたので、唖然としたのです。

「責任て……たとえばどういう状況ですか?」
「全部だよ、もちろん。どんな状況でも」
「???何がわからないんですか?」
「責任を持つってどういうことだろう」
「えーと……何かあったら責めを負うってことですよね?」
「具体的には?」
「仕事でミスしたら降格するとか……」
「ふむ」
「恋愛のもつれで結婚するとか……」
「まあ、責任を取るってそういうことだよね」
「ちがうんですか?」
「いや、だからこそわからないんだ
「代償を払うって考えたらどうですか?」
「そういう感じなんだろうな、とはおもってるよ」
「???え、すごいはっきりしてません?」
「うーん……」

とまあこんな具合で、当時は彼を説得できないまま、話が終わっています。そもそも彼がいったいどこに疑問を抱いているのかもさっぱりわからなかった。なぜ20年ちかくたった今になってこんなことを思い出しているのかというと、今の僕が当時の彼とまったく同じ疑問を抱いているからです。

当時の彼が今の僕と同じきもちでいたかどうかはたしかめようがないけれど、すくなくとも上の説明ではとても納得できないという点では同じです。彼が言葉を濁していたのは、おもったよりシンプルな疑問ではないこと、そして何より誰にも答えようがないことをわかっていたからかもしれません。

「仕事の芳しくない結果のために降格」というわりとわかりやすいケースを例にとってみましょう。これは責任を取った場合の話ですね。ここで考えたいのは、なぜこれで責任を取ったことになるのか、という点です。

たとえば大きなプロジェクトを任せてもらえなくなるとか、もっとダイレクトに減棒とかでもいいけれど、決して望ましくない状況を受け入れることがある種の代償になっていることはわかります。でも「誰かが痛い目に遭うことが全体にとって何になるのか」という部分がいまいちピンとこないのです。しいて言えばそれは、誰かの気が済むだけなのではないのか。だとすると責任というのは、誰かの溜飲を下げるためのものでしかないんだろうか?

「他の人が不利益を被らないようにする」という考え方もあるでしょう。ひょっとするとこれが責任という言葉が持つ本来のありかたかもしれません。しかしだとすると必ずしも代償は必要ないことになります。周りに不利益が及ばなければいいわけだから、すくなくとも条件としては含まれないはずです。有形無形を問わず、失われたものがあって何らかの手打ちが必要なときのみ、代償という側面が表れます。

では代償とはなんだろう?単純に考えればそれは、「埋め合わせ」です。しかしまったく同じものをそっくりそのまま返した場合を除き、それが本当に埋め合わせになっているのかどうかは誰にも証明できません。なぜ埋め合わせになるのか、説明されることもほとんどない。

それが顕著に表れるのは、「社会的立場の高い人が責任を取ってある役職を辞任する場合」です。ある役職を下りることが、果たして代償になっているだろうか?それはせいぜい、「これ以上みんなが不利益を被ることを防ぐために、誰かと交代します」ということでしかないのではないか?周りが不利益を被ったからこそそういう話になっているのに、すでに被った不利益についてはうやむやのままです。その代償は誰が払うんだろう?辞任した彼だろうか?「責任を取って辞任」したはずの彼が、どうやって?

あるいはもう責任を取ったんだからそれ以上は必要ないのかもしれない。でもだとしたら、僕がある日とつぜん社長とか大臣の椅子に座って、考えうるかぎり最悪の判断を下したとしても、辞表を出せばそれでいいってことになるんじゃないのか?むしろ重荷を解かれてありがたい気もするけど、それで責任を取ったことになるわけ?

「責任」の意味がわからない、というのはそういうことです。

たとえば先頭に立って国を率いる人物が「わたしが責任を持つ」と断言するとき、それがいったい何を意味しているのか、僕らは本当に理解しているだろうか?彼が取り返しのつかないあやまちを犯したとき、何をどうすると彼は責任を取ったことになるんだろう?すでに多くのものを手にした者がある立場を交代したからといって、それが失ったものの埋め合わせになるだろうか?

なるわけない、というのが現時点における僕の結論です。結果として取る行動が埋め合わせになるかどうかも定かではないまま責任を口にすることほど無責任なことはない、とさえおもいます。

けっきょく責任を持つとか取るって、どういうことなんだろう?


ユゼくん、おれも20年たって意味がぜんぜん、わからなくなったよ。

2015年8月12日水曜日

いたずらに長けた妖怪が性懲りもなくやらかす話


のっけからこう申し上げては何ですが、僕は何ひとつトラブることなくライブに臨めた試しがほとんどない、という点で他の誰にも引けを取らない男です。ほとんどというのは大げさにしても、平穏無事に終えられたことのほうが圧倒的に少ないのはまちがいありません。きちんとリハーサルをしているにもかかわらず、いざそのときを迎えると「ごめんごめんお待たせ!」とばかりに原因不明のアクシデントが発生する仕組みになっています。いったい誰がどこで何のためにそんな仕組みを整えているのか知りませんが、その手際ときたらじつに鮮やかです。

ちょうど1年前のタマフル出演時における冒頭のちょっとしたつまずきをご記憶の方もありましょう。次のライブは年末の渋谷FAMILYでしたが、ここでも途中でトラックが曲の半ばで唐突に沈黙する不可解なつまずきがありました。その次はもちろん、オントローロ「-01」「00」です。「-01」には前のふたつとちがってわりと冷や汗ものの機材トラブルがあり、どうにかこうにか乗り切って「00」の前にはすっかり解消できていたものの、今度は「00」のリハーサルでしっかり詰めておいたセッティングがなぜか当日になったらきれいさっぱりリセットされていて、さすがにくらくらした記憶があります。何なら「-01」の開演10分前に屋上ですっ転んでしたたかに脛を打ち、人知れず負傷していたばかりかパンツまで裂けていたことをここに付け加えてもよろしい。とにかく一事が万事この調子なのです。人をイラッとさせるいたずらに長けた妖怪が常に僕のまわりをうろちょろしているとしかおもえない。

しかし日曜のオントローロ「01」では様子がちがいました。何しろ前回は開場時間になってもどたばたと泡を食っていたのに、今回はすべての準備が滞りなく済み、あろうことか30分前にはカウンターでのんびりお茶を飲んでいたのです。「え、なんで?おかしくない?」とおもわず訴えてしまいましたが、トラブるほうを通常とみなしているあたり、よくよく無事に慣れていないと申せましょう。われながら気の毒な話です。

とおもったら案の定、今回は途中で熱々のコーヒーをサンプラーの上にザブリとぶちまけました。それも、ちょっとかかっちゃった、というレベルでは全然なく、盛大にぶちまけています。上に挙げた数々のトラブルとはちがって今回のは僕本人による完全な人災ですが、最悪の場合回路がショートして音が出せなくなり、その時点ですべてが強制終了となりかねなかったぶん、危険度はこれまでと比較になりません。だいたいなぜライブ中に熱々のコーヒーを飲んでいるのだと言われると僕も弱りますが、その後ふたたび僕自身のしょうもないつまずきがあったことを除けばとくに支障もなく終えられたのはまったく幸運だったと言うほかありません。

そんな夜でした。

あとはおいでくださったみなさまが軽やかなきもちでお帰りになられたことを心から祈るばかりです。願わくばリーディングの面白さと新鮮な驚きをお持ち帰りいただいていますように。来てくれて本当にありがとう!前回以上にTRINCHグッズをお持ちの方が多かったのもすごくうれしかった!

次回は2週間後の「02」です。何ごともなくみんな満面の笑みで「たのしかったね!」となれるよう、今からでもお祓いにいっといたほうがいいのではないかと腕組みしながら黙考しております。

そしてさらにその次のために手ぐすねを引かれているみなさまには、暑さも和らぐ秋口にご用意できるはずですので、今しばらくお待ちくださいませ……!

※毎回同じようなことを書くのも気が引けるし、オントローロについての「脱いだらすごいんです」的なセルフボースティンは前回終了後のここここにだいたい書いてあるのでそちらをご参照ください。(手抜き)

2015年8月9日日曜日

足の内側から2番目と4番目の指について考える


いいかげんそろそろ決着をつけるべきではないのか、それともそんな決着はとうの昔についているのか、昔からふとした折に思い出しては「まったく謎だ」と考えこみ、しかし考えてわかるようなことではないから当然わかるはずもなく、わからないなら考えてもしかたがないと結局引っぱり出すだけ引っぱり出して何もしないまま元の位置にしまいこむ問題がひとつあるのです。

僕らの指には、というのはもちろん手足の先についていて物をつまんだり突いたりつねったり掴んだりする部位のことですが、それぞれいくつかの名称があります。内側から順に並べてみましょう。

1. 親指
2. 人差指、食指
3. 中指、高々指
4. 薬指、紅差指
5. 小指

薬指というのはむかし薬を溶くのに使っていたからで、同じように紅差指も紅を差すときに使う指を意味しています。今となってはあまり耳にする機会もないけれど、艶っぽくて粋な大和言葉です。「たかたかゆび」もわかりやすくてかわいいとおもう。

しかしこれらは主に手の指についてであって、足のそれには当てはまりません。親指と中指と小指は兼用でいいとしても、人差指と薬指では意味がちがってしまいます。その名称を使っていいのは、足の内側から2番目の指で人をゆびさす人、もしくは足の内側から4番目の指で薬を溶く人だけです。

では足の内側から2番目と4番目の指は何と呼べばよいのか?

戦隊ヒーローで言うとこれはおそらく、ブルーとグリーンあたりになりましょう。親指がレッド、中指がイエロー、小指がピンクです。そうするとイエローである中指は「カレーが大好き」ということになりそうですが、それにしても指を戦隊ヒーローに置き換えても2番目と4番目は立ち位置とか存在感がそれほど変わらない、というのはなかなか興味深いことのようにおもわれます。言われてみれば2番目の指はブルーっぽいし、4番目の指はすごくグリーンっぽい。敵にやられて犠牲が出るとしたら、2人のうちのどちらかになりそうです。

あるいはウルトラマンにおける科学特捜隊になぞらえてもよいでしょう。親指がムラマツキャップ、2番目がハヤタ、中指がアラシ、4番目がイデ、小指がフジです。一見すると「主人公ならいいじゃん!」となりそうですが、よくよく考えると活躍するのはウルトラマンであって、ハヤタ個人はそうでもありません。イケメンである点を除けば、わりと地味な存在です。いっぽうイデ隊員は愛すべきキャラクターと印象にのこる強烈なエピソードを持っていますが、大失敗をやらかしたりもしているので、やはりみんながみんな憧れるような立ち位置ではありません。そこがまたいかにも4番目の指らしい。

要は5つのセットにおける2番目と4番目は、何に置き換えても概ね2番目と4番目っぽくなる、ということです。足の指でこの2本だけ名前がないのもなんとなくわかるような気がしてきます。じっさい名前がなくて困った試しはかつてないし、仮にあっても使う機会はおそらくほとんどありません。あるいはひょっとしたら正式名称がちゃんとあって、ただ忘れ去られているだけという可能性もあるけれど、誰も思い出さないのだとしたらそれは結局ないのと同じです。

しかしまあ、指にも指なりの面目というものがあるだろうから、ここはひとつ彼らの顔を立てるために、もしくは指を立てるためにいちおう代案を出しておきましょう。さもありなんな僕のチョイスはこれです。

2番目→兄指、もしくは姉指
4番目→弟指、もしくは妹指

お好きなシチュエーションを想定して使い分けたらよいとおもいます。足の指が昨日よりずっと愛おしく見えることまちがいなしです。くれぐれも可愛がりすぎには注意してください。




ちなみに言い忘れましたがオントローロ01、今日です。

2015年8月6日木曜日

未開封のまま13年が経過した炭酸飲料のミステリー


僕は炭酸飲料があまり得意でないのでほとんど飲まないのだけれど、それでも年に1回くらいは無性にコーラとかそういうシュワシュワしたのをなんだか飲みたくなる日があります。

それでまあ、なんとなくそんな気になって1缶買って帰り、グラスに移してごくごくシュワーぷへーとはじける刺激で顔をしわくちゃにしながらふと、そういえばウチには未開封のまま10年以上放置している炭酸飲料の缶があったことを思い出したのです。


炭酸で十数年もたっていたら缶がパンパンに膨張しててもおかしくない気がするけれど、手に取ってみればそんな様子はどこにもありません。往時と変わらず、しんと静まり返っています。その代わり振るとチャプチャプ音がして、異様に軽い。ああ、気が抜けたんだな、気が抜けると体積も減るのか、なるほどなあ、とひとり合点して缶を元あった棚に戻します。理屈がどうあれ本人的には落着してるんだからそれでよいのです。おかげでそんなわけねえだろうと気づいて再び引っぱり出すまでしばらく時間がかかりました。

なぜ未開封の缶から炭酸が抜けるんだ。百歩ゆずって抜けたとしてもちゃぽちゃぽ大きな音がするほど中身が減るわけないじゃないか。

そうおもってキッチンスケールを取り出し、一般にそう呼ばれるところのドリスマ缶を乗せてみます。


180グラムしかない。

350ml缶なんだから、ふつうに考えたらほぼ半分の重さです。いくらなんでも半分というのは軽くなりすぎなのではないか。しかし待てよ、考えてみればコーラの重さをいちいち計ったことはないし、ひょっとしてすべての炭酸飲料が何らかの神秘的な理由によって水より軽いということも考えられなくはないのではないか。そんなわけねえだろうと一蹴するのは簡単ですが、論より証拠です。もう一度コーラを買ってきてスケールに乗せてみましょう。


390グラム。うむ、やはりそんなわけねえのであった。

というかそもそも密閉されているはずの缶からなぜ炭酸が抜けるんだ。抜けるということは密閉されていなかったということなのではないのか。百歩ゆずって抜けたとして、いや百歩はさっきゆずったな、じゃ二百歩だ、二百歩ゆずって抜けたとして、何が抜けるんだっけ?炭酸だ!炭酸がいったいどこから抜けるんだ?

よく考えろ、炭酸が抜けるということはつまり、水が蒸発できるということでもあるんじゃないのか?中身が半分になっている理由もそれで説明できる……しかしだとするとそれはつまり、あと10年くらいこのまま放置していたら中身が空になるということだ。おかしいじゃないか。密閉されている缶ジュースがなぜ空っぽになるんだ。誰も飲んでいないし穴も空いてないのに開ける前から空っぽで缶しかないなんて、そんなバカな話があるだろうか?というかだいたいいつまでこの黄色くてオロナミンCみたいな味がするはずのけったいな飲料を未開封のまま保管しつづけるつもりなんだ。

………

とまあ、こんな具合に脳内で、それぞれ異なる言い分を持つ似たようなバカが喧々諤々やりながら、真夏の夜は更けていくのです。専用の自販機が設置してあった新宿のヴァージンメガストア(今はフォーエバー21になっているところです)がなつかしく思い出されます。


【結論】たまにのむコーラはとてもおいしい。


2015年8月3日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その222


【おわび】あまりの暑さにいただいた質問が溶けてひとつに固まってしまい、もはや原形をとどめていませんが品質には問題ありません。安心してお召し上がりください。


フランケンシュタ夫さんほか十数名の方々からの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)


Q: マヤの予言の日が何事もなく過ぎ、この歳での転職の難しさを身をもって実感するなか、好きな人に面と向かって「好き」と言ったことがほとんどなく、触れていないリモコンが片っ端から移動したり、本についてる帯とかに「テンションあげて」だの「23時59分」だの言われて白い煙を吐きながら年を越しそうなんですけど、最近源流のわらびもちミュージックをひな人形で辿り始めようと考えてます。冬を越すにあたって乗ラクダ派の方々に「あれはめでたい」とハムスターされたちっちゃなオッサンとのデートが三ヶ月前くらいから「これでバッチリd(ゝ∀・*)」じゃなくなるとしたら、インフルエンザは缶詰ですか?ちなみに私は初期のガイ・リッチー監督おすすめプリンとキンキンに冷えたポカリがお気に入りです。勿論、内容は問いません。


A: インフルエンザは缶詰ではないとおもいます。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その223につづく!