2022年3月25日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その367


ハンマーヘッド座薬さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 感情に翻弄されることが多いです。大吾さんは、嬉しいことやいらつくことなど、どのように感情をコントロールしていますか。


これは僕もすごくよくわかります。すごくよくわかるということはつまり僕も感情に翻弄されまくる上に全然コントロールできていないからわかるのであって、話を始めたそばから終了してすみません。


A. コントロールできていません。


それはそれとして同じばつが悪い者同士、すこしお茶でもしていきましょう。

もうすこし正確に言うと、そもそも感情を制御しようとはあまり真剣に考えていないところがあります。しょっちゅう振り回されるし、しょっちゅう困ってはいるんだけど、じゃあそれをぜんぶ意のままにできたらOKかといえば、そうとも言い切れない気がするのです。うっかりできてしまったら、どうしてもできない人はどこへ行けばいいんだろう?

放置しているわけではもちろんありません。あ、いかんいかんと毎日のように反省しています。ただそうした感情の起伏を完全に調伏しようとはせず、気をつけようぜ、くらいに留めているわけですね。

これにかぎらず、今の僕は自ら短所と感じる部分を根本からどうにかすることにそれほど心を割いていません。そりゃ改善できればそれに越したことはないとも思うけど、そもそも意のままにならないからこそ短所なのであって、そこに労力を費やすだけの甲斐がじぶんで考えるほどにはないと結論づけています。なんとなればそれを克服できない限り、いつまでもじぶんを否定し続けることになるからです。また、じぶんを否定するだけならよいけれど、じぶんと同じタイプの人も同時に否定してしまっていることに注意してください。他人を否定しないためには、まずじぶんを受け入れなくてはいけないのです。

だから、そうですね、僕自身はいつも振り回されてボロ雑巾みたいになったあとで「大丈夫だ、心配するな、次はもっとうまくやれるよ」とじぶんに言い聞かせています。そしてそれを聞いた僕自身が「む、そうか、そうだよな」と頷き、また仕切り直しです。

自己嫌悪を断ち切ることはできないけど、一方でそれがまったくプラスには働かないこともよくわかっています。それさえ忘れなければいずれちょっとはマシになっていくだろうという、このへんが僕の落とし所ですね。



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その368につづく! 

2022年3月23日水曜日

人にやさしくするということ


もうかれこれ長いこと、木の枝にぶら下がるシャツの切れ端よろしくずっと心に引っかかっている、カート・ヴォネガットの言葉があります。人にやさしくしろ!(You've got to be kind!)」というシンプル極まりない、こう言ってよければちょっと当たり前すぎておもしろくもなんともないように聞こえる一言です。

これを目にしたのは「国のない男」という随想集で、ヴォネガットの生涯における最後の一冊ということになっています。その中のある一節で、「ぼくたち、大丈夫ですよね」と不安そうに問いかける若者に対して、ヴォネガットがこう答えるのです。

「わたしが知っている決まりはたったひとつだ。ジョー、人にやさしくしろ!

原文はこうです。

"There's only one rule that I know of: Goddamn it, Joe, you've got to be kind!"

翻訳の違いもあって当時はピンと来ていなかったのだけれど、だいぶ後になってこれはヴォネガットの代表作のひとつである「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」中の一節だったことに気がつきました。

小説ではこれから洗礼を受ける赤ん坊への祝福の言葉として出てきます。訳文はこうです。

「ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ。いいかいーーなんてったって、親切でなきゃいけないよ

だいぶ印象が違いますね。でも原文を見るとほぼ同じです。

“There's only one rule that I know of, babies—God damn it, you've got to be kind.

個人的には、またとりわけ皮肉家のヴォネガットにおいては「God damn it」が不可欠な要素に思われるのであえてそこを汲むと「やさしくしやがれ!」というニュアンスになるでしょうか。


いずれにしてもはっきりしているのはヴォネガットがこの星におけるただ一つのルールとして「人にやさしくあれ」を挙げていたことです。小説が60年代で随想集が2000年代だから、生涯を通じてそうだった、と考えてよい気がします。

単に小説中の一節だったら、僕も実際忘れていたし、それほど気にはなっていません。それから数十年のち、現実に不安を抱えた若者に対してもこのフレーズで応えたから引っかかり続けているのです。

ヴォネガットは第二次世界大戦に兵士として従軍し、捕虜となってドイツに連れて行かれ、そこであのドレスデン爆撃を経験しています。人間の見たくない部分をぜんぶ見せられた世代です。

それもあってか根っからの皮肉家で、徹底した懐疑論者で、厭世的とまでは言わないけれど、ポッケに小さな希望を入れて持ち歩く悲観論者みたいな印象があります。

そのヴォネガットが、不安を抱える現代の若者に人にやさしくしろ(you've got to be kind)」という、これ以上ないくらい、誰でも言えそうな単純な一言をポンと手渡すから、引っかかったのです。

しかし木の枝のシャツの切れ端みたいにこの言葉が引っかかってから15年以上がたち、多くの国が慄然とせざるを得ない状況にある2022年の今、すこしだけ飲みこめたような気がしています。

「人にやさしくあること」、それは結局のところ何もかも、本当にすべてが集約されている一言なのではないか?


僕らの大多数はいつでも戦争に反対し、いつでもそれを止められない無力感に苛まれます。戦争を仕掛ける張本人ですら「戦争などしたくないしするつもりもない、ただ守るべきものは守る必要がある」と言ってまた戦争が起こります。現実はその繰り返しです。

戦地に赴き、血を流し、捕虜となり、爆撃を受け、そこで経験したすべてを礎としたヴォネガットがなぜ赤ん坊や若者に「戦争だけはいけない」と言わずに「やさしくあれ」と言ったのか、ひょっとするとこれから未来を紡ぐすべての人がそれを胸に刻めばそもそも戦争という概念すら失せるのではないか、つまり流す必要のない血を流さないために、誰にでもできて、今すぐにできて、この先もずっと続けられるシンプルなルールこそ「人にやさしくあること」に尽きるのではないか?

そう考えると、それまで心に引っかかっていたシャツの切れ端が急に重みを帯びて大きな岩に変わり、ずしんとのしかかってくるのです。

穿ちすぎかもしれません。でも実際にそうなのかもしれない。少なくとも今の僕には、これ以上はありえないほど大きな教訓として、心にガンガン響いています。しつこいようだけれど、本当にこれに尽きるんじゃないかと思う。どれだけ些細に見えても、人間の醜悪な側面を嫌というほど味わわされた上での一言である以上、ここには唯一無二の圧倒的な説得力があるし、引っかかるばかりでなかなか飲みこめずにいたじぶんが今となっては恥ずかしくも思われます。

今日も明日も明後日も、誰にでもできて、今すぐにできて、この先もずっと続けられること。胸に刻んで、機会があれば次の世代やその次の世代にもこの一言を手渡せるように努めること。

"Goddamn it, you've got to be kind!" 


2022年3月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その366


戦略的スポンジさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 火曜日と水曜日と木曜日の違いを教えて下さい。


中国の五行思想によれば、水曜日は「水剋火」と言って火曜日を剋し、また「水生木」と言って木曜日を生ぜしめ、その木曜日は「木生火」と言って火曜日を生ぜしめることになっています。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、要は

「火曜日に勝つ水曜日の推しである木曜日が火曜日を推す」

ということです。

他にも金土日月と4つの曜日があるにもかかわらず、火水木の3日間だけで円環構造を成すように見えるのは意外な気もします。ただ金土日は広義の週末ではあるし、月曜日に至っては誰でも何らかの喪に服すレベルの忌み日です。実質的なウィークデーとしてはやはり火水木の3日ということになりましょう。円環を成すのもむべなるかなというものです。

しかし五行は深奥な思想なので、これでもまだ少しわかりにくいところがあります。勝ったり推したりというのは一体どういうことなのか?それを解きほぐすためにここで今一度、火水木の関係性を、あだち充による不朽の名作「タッチ」に置き換えてみましょう。40年前のマンガを持ち出すんじゃねえよという批判は尤もですが、何しろ回答者たる僕が中年なので致し方ありません。

「タッチ」のメインキャラクターは双子の兄弟である上杉達也と上杉和也、典型的すぎるヒロイン浅倉南の3人です。これを火水木に置き換えると、

火曜日→上杉達也
水曜日→上杉和也
木曜日→浅倉南

ということになります。

火曜日=上杉達也は物語の序盤において文武両道で非の打ち所がない水曜日=上杉和也に敵う部分が何ひとつなかったボンクラ中のボンクラです(水剋火)。しかし水曜日=上杉和也が全身全霊で推す木曜日(水生木)=浅倉南は最終的に火曜日=上杉達也を推します(木生火)。

もし水曜日=上杉和也が生きていたら話が変わるように思われないでもないですが、こと恋愛に関して木曜日=浅倉南は初めから火曜日=上杉達也を推していたという印象なので、どのみち同じことだったろうと断言してよいでしょう。

僕が思うに「タッチ」における特異な点は、それまで完全にトリックスターであると読者に思われていたキャラクター(達也)が物語の中盤でまごうかたなき主人公へと置き換わることです。だとすればここで改めて注目したいというかむしろすべきは、圧倒的な敵意を向けられる月曜日に比べてこれまでわりとどうでもいい立ち位置に甘んじてきた火曜日なのではないだろうか?

何しろこの視点からすると火曜日=上杉達也なくして物語全体=一週間は成立しないことになります。どうでもいい立ち位置どころの話ではありません。それは一週間を大団円へと導く要というべき曜日であり、何なら週を活かすも殺すもすべては火曜次第と言っても過言ではないのです。

とはいえどの曜日が偉いかとかそういう話ではそもそも全然ないので、質問に戻りましょう。五行思想と「タッチ」に基づく火水木の違いは、こう結論づけられます。


A. 火曜日が主人公、水曜日がライバル、木曜日がヒロインです。


火曜日、大事にしてください。




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その367につづく! 

2022年3月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その365

百貨店が進化したスーパー百貨店

レオナルド大ピンチさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は2年ほど前に結婚したのですが、その際苗字が「石崎」から「中﨑」になりました。仕事上でも苗字変更したので、暫くは周囲にこのマイナーチェンジ?を説明したものの、未だにしょっちゅう「崎」と「﨑」を間違えられます。(「石」から「中」の変化に気をとられて、些細な違いまで覚えてもらえないんですかね?)まあ間違えられたからと言ってほとんど支障はないのですが、この「一部の違いかと思ったら全部微妙に違った」みたいなややこしい話を1発で相手に記憶してもらえるような素敵な言い回しがあれば教えてください。


ふむふむなるほど、お気持ち、お察しします。名前の間違い、切ないですよね。しかし生まれてこのかた何ひとつ変更などしていないにもかかわらず判で押したように「大悟」と表記を間違えられる僕からすると、こんなのは片腹痛いと一蹴するほかありません。なんとなれば僕のほうには「変更したから仕方ない」とじぶんを慰める理由すら持ち合わせていないからです。改名したほうが早いなこれ、と思ったのも一度や二度ではありません。世間的には「だいご」といえば「大悟」だろうという認識でほぼ一致しており、別の表記があるとはまったく、想定もされていないのです。

しかしそんな僕も気づけばそこそこいい年になり、どちらかといえば過去に属する世代となりつつある今では、わりとどうでもいいような気持ちになっています。身元を証明する書類関係なら格別、日常における致命的なロスがあるわけでなし、向こうもこっちが誰であるかを認識した上で間違っているだけなのだから、とくに支障がないならそれでよしと今ではすっかりそう考えます。

アイデンティティの問題と言えばそれは確かにそのとおりだけれども、一方でそれは他人を変える考え方です。そして今の僕はこのことに限らず、他人を変えるよりまずじぶんが変わるように努めています。これは是非がどうあれ相手に合わせるとか間違いを指摘しないという意味ではもちろんなく、「じぶんが正しいのだから相手が変わるべき」という認識にブレーキをかける、という意味です。

なんであれそこに間違いがあれば、是正は必要です。必要ですけれども、「間違ってはいけない」と「正しくはこうである」は似て非なる認識であり、そこには地味ではあっても深い溝があります。少なくとも前者は非難につながりやすい認識です。そしてその認識に立つと、相手も好きで間違えてるわけではないという当たり前の事実すら忘れがちになります。そうまでしてノーと言い張る甲斐がいったいどれほどあるのか、気づけば過去に追いやられるお年頃になっていろんなことがどうでもよくなってきた僕としてはいささか疑問です。

相手を変えることよりもまず相手に寄り添うこと、これはおそらく対一般だけでなく夫婦間や国家間を含むありとあらゆるケースにおいて少なくともある程度は確実に有効な姿勢だと僕はおもいます。

とまあ、そんな大それた話を求めていたわけでは全然ないとおもいますが、要はいいじゃないか別にということです。確かに名前の表記はアイデンティティの一部ではあるけど、アイデンティティそのものでは全然ありません。「吾」と「悟」、「崎」と「﨑」、「高」と「髙」、「斎」と「齋」、「邊」と「邉」あたりにはなかんずくそうおもわれます。わかる人にわかってもらえていることが却って嬉しく感じられたりもするじゃないですか?


A. 水に流すためのせせらぎを心に備えましょう。




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その366につづく! 

2022年3月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その364


腐乱したラジオさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 出来事を鵜呑みにしないで立ち止まるために、どんな考え方をしてますか?


よい質問です。立ち止まることを意識している時点でまず問題はなさそうですが、いかに立ち止まるかというのは人生の、とりわけ後半においてはより大きな意味を持ってくることのひとつだと僕もおもいます。

かく言う僕も今に至るまでありとあらゆる事柄に対して、たぶんこれは本当だろうな、というフワッとした認識のまま歩み続けています。と言ってもすべてを疑ってかかっているわけではもちろんなくて、例えばいま僕は多くの人と同じように「地球は丸い」と認識しているけれども、仮に実は皿みたいに平らだったという新事実が目の前で叩きつけられたとしても、そこに説得力があればそれを受け入れられるくらいの心持ちでいたい、ということですね。

僕は昔から科学に対して好感を持ち、常に一定の信頼を置いています。と同時にそれはいつでも説得力の問題でしかない、という認識も抱いています。

ひとつ具体的な例を挙げるなら、既視感(デジャヴ)は実際に予知しているのではなく、数多の経験が脳内で無意識に組み合わさってたまたまそう感じるだけということになっていますが、実際にそうであることを誰かが証明したわけではありません。予知など不可能なはずだから、おそらくそういうことだろうと科学的な観点で解釈しているだけです。他に説明がつかないからと言って、実際に予知であった可能性がゼロになるわけではまったくない。ですよね?

科学的である、というのは少なくとも現時点でほぼほぼ説明がつくということにすぎません。実際、どうしても説明がつかない事象もまだ現実世界には山ほどあります。

何もかもすべてが明らかになってほしいとは微塵もおもっていないし、何なら不可知や不思議はそのままそっとしておいてほしいし、不思議だ!といつでも驚き続けたい僕にとって、それは大きな希望のひとつです。個人的には「それはこういうことで、不思議なことなんて何もないさ」とあしらわれることほど忌々しいことはありません。たかだか数十年生きたくらいでこの広い宇宙をわかった気になってんじゃねえよといつもおもう。

多くの人に現時点で事実と認定されている科学的な結論においてさえ、そうではないかもしれないと留保の余地を残している以上、日々報道されるニュースなんかは当然、はるかに浮動的です。これもまた一部の人々のようにマスコミなんか信用に値しないと単純に断じたいわけではなく、どれだけ客観的であろうと努めても、そこには視点が確実に存在すると受け止めています。ドキュメンタリーが100%客観的ではあり得ないこととも通じてきますね。

自戒を込めて言いますが、人はそうあってほしいことを現実として易々と受け入れがちです。多くの人が当然と受け止めるような状況にこそ、あるいはそうではないかもしれないという視点を忘れないように、僕自身は心がけています。マスゲームのようにみんなが揃って同じ方向を向くことを、是とはできれば言いたくない。その姿勢を天邪鬼と謗る人もいるでしょうが、絶対的に正しいものがあると考えるその姿勢だけ抜き出すなら陰謀論に染まる人々と何ら違いはありません。ではその差はどこにあるかと言ったら説得力の質と量くらいしかないのです。

したがって僕の結論としては、どれだけ確かにおもえる話であっても、認識としては7割くらいでとどめておく、ということになります。常にそうではない余地を残しておくというか、何なら幽霊とか、未知の怪物とか、予言とかテレポーテーションとか、現時点では非現実的と退けられてしまうあれこれのための余地を3割残しておく、ということです。


A. そうではないことのための余地を常に3割くらい残しています。




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その365につづく!