2016年5月29日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その248


ジョーズが坊主の頭部にジョブズの絵を描いたさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: うつくしさって、なんだとおもいますか?


これはたぶん、うつくしいと感じるものが増えれば増えるほど、むくむくと頭をもたげてくる疑問ですよね。風景とか宝石とか人なんかはわりと共有しやすいのに、個人差が大きくてなかなか共有しづらいものがあるのはなぜなのか、僕もノートにひとつずつ列挙しながらフームと腕組みをして考えこんだことがあります。

ためしに僕が今パッと思いつく「うつくしいもの」を順不同でずらずらと挙げてみましょう。

・ソポクレス「オイディプス王」
・桂離宮
・ブレゲのNo.160
・水洗トイレのタンク構造
・谷崎潤一郎「春琴抄」
・コンソメ
・ハンス・シャロウン「ベルリン・フィルハーモニー」
・ブラッサイ「夜のパリ」
・牛乳パックの注ぎ口
・小村雪岱「落葉」
・映画「As You Like It」の邦題「お気に召すまま」
・ニキ・ド・サンファル「ナナ」
・E=MC2
・ニーナ・シモン「I Loves You Porgy」

それからもうひとつ、大好きなマッチ棒パズルがあります。


「マッチ棒を2本動かして四角を4つにする」というものです。これは昔、出題してくれた職場の先輩と昼飯を賭けてみごと勝ち取った思い出深いパズルなのだけれど、とにかく答えが鮮やかで、解きながらそのうつくしさにため息をついた記憶があります。わかりますか?

雑多で節操がないように見えるかもしれませんが、僕にとってこれらはすべて等しく「うつくしいもの」です。かつてノートにまとめたリストはこれとはまったく違っていたはずですが、ここから導き出せそうな結論があるとすれば、それは当時も今も「それ以上足すことも引くこともできないくらい、みごとであること」になるとおもいます。(リストに挙げたコンソメ consommé は実際、フランス語で「完成された」という意味です)

足すことも引くこともできないということは言い換えれば、比べることができない、ひいては優劣も序列もない、ということです。だからたとえば「どれがいちばんうつくしいか」といった問いは、ある種のパラドックスでもあるわけですね。

あとは、そうそう、美という字は「大きな羊」からきているらしいのだけれど、僕はこの様々なノイズを包含するシンプルかつ大らかな捉え方がとても好きなので、「大きな羊であること」も基準のひとつとして忘れずに加えておきたいとおもいます。


A: それ以上足すことも引くこともできないくらいみごとであること、もしくは大きな羊であること




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その249につづく!

2016年5月22日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その247


七転びギャン泣きさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: リズム感がよくなる方法はありますか?当方リズム感が悪くライブ会場などで人と手拍子が途中でズレたり、音楽にあわせて体を揺らしてみてもこれもまたほかの人とズレてしまいます。ビートの申し子、リズムの権化でもあらせられる大吾さんにコツのようなモノをご教授いただけたら幸いです。


はてどうお答えしたものか、腕組みをしたり、頬杖をついたり、ちょっと横になってみたり、すやすやと寝息を立てたり、翌日は井の頭で象のはな子を眺めたりして、気がつくとまた夏が訪れようとしています。なぜ腕組みをしたり、頬杖をついたり、ちょっと横になってみたり、すやすやと寝息を立てたり、井の頭で象のはな子を眺めたりすることになるのかといえば、僕も決してリズム感のよいほうではないからです。


そんな身もふたもないことを言ってしまったらじぶんの首をしめることになるのは僕もよくわかっていますが、今さら格好をつけてみてもしかたがありません。僕自身、こういう立場になるまではてっきりリズム感のあるほうだと勘違いしていたのです。

しかし実際のところ、ビートに声を乗せるようになってから十数年たった今でも、踏み抜くべきタイミングを呆れるほどみごとに踏み外しています。裏を返せばこの十数年は、「バカだな、だからこそいいんじゃないか」と開き直って嘯けるようになるまでの月日でもあったのです。

そんなたよりないリズム感の一助になるものがあったとすれば、20年以上ひたすら身にしみこませてきたヒップホップやR&B、ソウル、ファンクといったブラックミュージックであったと申せましょう。なんとなればそれは、耳だけでなく身体で聴く音楽でもあるからです。

身体で聴くというのは、要は自然に身体が揺れる状態のことですが、この反応が病的に進行すると、いわゆるドラムブレイクひとつで血圧が上がるようになります。ヒップホップにいまいちピンとこない人がいるのは、もっぱら耳でメロディを追って、身体で聴くことに慣れていないからです。

たとえば1968年にリリースされたマーヴィン・ゲイ(Marvine Gaye)最大のヒット曲「I Heard It Through The Grapevine」はその13年後、ロジャー(Roger)のカバーによって再び脚光を浴びましたが、これなんかは身体的な聴覚なくしては絶対にありえないカバーだと個人的にはおもいます。





あるいは逆に、ジャクソン5(The Jackson 5)の「I Want You Back」から身体的な聴感を抜くと、フィンガー5による日本語カバー「帰ってほしいの」になる……と言ったらわかるだろうか……?




リズムとは、身体的な聴覚に訴えるものです。その感覚を強化したいとおもったら、その身をどっぷりとフィジカルな音楽に浸けこむのが何と言っても手っ取り早いとおもいます。なのでまずはじぶんにとって身体が自然に揺れ動く音楽を探してみましょう。それでたしかに身につくかといったら僕みたいな例もあるのでまったく当てにはならないとおもいますが、すくなくとも顔はほころびます。

またもしどうしてもリズムだけを抜き出したいというのであれば、そうですね、大道芸人に弟子入りしてジャグリングを極めるとか、公園で子どもたちが興じる大縄跳びに文字どおり飛び入りで参加させてもらうのもひとつの手かもしれません。うまくいけばリズムの体得はもちろん、ダブルダッチで世界も狙えて言うことなしです。


A: 縄の回転に合わせて身体を揺らすのがコツです。




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その248につづく!


2016年5月17日火曜日

時計の玉座にふんぞり返るふてぶてしい12のこと


ラジオの録音を午前0時にセットしようとしたら、タイマー表記が「AM/PM」「1〜12」しかないのです。

そうすると設定は必然的に「AM12:00」になるとおもうんだけど、よくよく考えたら午前の始まりに12という数字はいかにも平仄が合いません。ふつうに考えたら「PM11:59」の1分後は「AM0:00」で、百歩譲っても「PM12:00」になるはずです。AMとPMが切り替わっているのに、数字だけが連続したままで、1時間後に遅れてリセットされるのはどう考えてもおかしい。

混乱の原因は1から12という数字の範囲にあります。それだと数え年と同じ理屈で午前も午後も1時から始まることになってしまうじゃないですか?

だからこれはきっとプログラムミスにちがいない、12時間表記なら「0~11」にすべきだったんだ、まったくしようがねえな、とひとまず納得しかけたところでふと壁にかかった振り子時計に目をやると、時計の玉座とも言うべき「0」の位置に堂々と「12」がふんぞり返っていやがるのです。


あ、そうか時計がもともとこうなんだから、このアナログ表示をデジタルに置き換えたらそりゃ「1〜12」になるよな、なんだプログラムミスじゃなかったてへぺろ!と目からウロコがぽろぽろこぼれかけたところで、緩んだ表情がまた能面に戻ります。

待てよ……。

そういえば今までちっとも疑問におもわずに生きてきたけれど、先の理屈からするとこの表示は明らかに妙です。なぜ末尾の数字である12が悪びれもせずしれっと王様みたいな顔をしてそこにいるんだ……?その位置はたしかに終わりを意味してもいるけれど、それはあくまで一瞬にすぎません。そこからの1時間はむしろ始まりであるはずです。

だとすると本来あるべき時計の表記はこうか、


こうでなくてはなりません。


もちろん歴史的に見て、時計の文字盤に「0」がない理由ははっきりしています。なんとなればゼロという概念の発見と伝播は時計の発明よりもずっと後のことだからです。それは今も多くの文字盤でローマ数字が使われていることからもわかります。ゼロ表記の可能なアラビア数字がヨーロッパに伝わるころには、すでに文字盤が「Ⅰ〜Ⅻ」で定着していたわけですね。

だとしてもやはり、なぜ文字盤の頂点に鎮座して高らかに始まりを告げる数字が「12」なのかという疑問はとけません。ゼロがないなら順序はどうしたって「1」が最初にくるはずです。

いちばん最初にここに12を置いたのは誰だ?

そして誰もそれを疑問におもわなかったのか?

「これはこういうものだ」という無自覚の刷り込みがいかに強固で覆しづらいかは僕自身、これまでやってきたことでもイヤというほど痛感してきたはずなのだけれど、これほど至近距離にある不自然に数十年たってから気づくなんてなあ、ズズー、とすする新茶の美味さに目をみはる初夏です。

でもアラビア数字ならここは「0」にすべきだとおもいます、やっぱり。

2016年5月11日水曜日

新卒採用を夢見る安田タイル工業の面接風景


「一大事だぞ、主任」
「どうしました、専務」
「就職希望者が殺到して窓口がパンクした」
「なんですって!安田タイル工業に?」
「そうなんだ」
「窓口どころか実態もないのに?」
「大わらわだよ」
「大笑いじゃなくて?」
「何を言うんだ、みろこの汗を」
「うわっびっしょりじゃないですか!」
起きたらすごい寝汗だった
「ひどい夢でしたね」
「完全に想定外の事態だったよ」
「想定する必要がないですから」
「しかしこの際、準備しておくにこしたことはないだろう」
「何のですか?」
「面接のだよ」


「何から訊きます?」
「好きなトラックメイカーは誰ですか」
「トラックメイカー!?」
「なんだ、いけないのか」
「それ、たとえば誰を挙げると好印象なんですか」
「サラームレミとか……」
「昔からほんとブレませんね、専務」

注:サラーム・レミ(Salaam Remi)……専務が心酔するヒップホッププロデューサー。風呂上がりのヤクザみたいなドラムの音色に熱狂的なファン多数。

いちばん有名なのはたぶんこれ


「tofubeatsとかPumpeeって言われたらどうするんですか」
「なるほどって言うよ」
「内定出しても蹴られそうですね」
「ミス・スパンコールはマッドリブを挙げていたぞ」
「あの人も何気にいい年ですから」
「じゃあ何を訊けばいいんだ」
「好きなタイルとか……」
「あっおもいだした」
「タイルの会社ですからね、一応」
「風呂場のタイルが剥がれてたんだ、そういえば」
「専務の家の風呂はどうでもいいんですよ」
「修繕しないと」
「試したらいいじゃないですか」
「何を?」
「食用タイル」

注:「安田タイル工業のかなり重要な会議」(小林大吾「小数点花手鑑」収録)を参照のこと。

「食用か……」
「なにかマズいんですか」
「マズいと言えばすごくマズい」
「味の話じゃないですよ」
「剥がれた箇所が排水溝のそばなんだ」
「排水溝か……」
「できれば今際の際まで目を背けていたい」
「ふつうはそんなところ食べるとか考えないですからね……」

せっかくなので願掛けして帰りました。



水に溶けると龍神さまに願いが届くらしい

2016年5月8日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その246


おお牧場はよりどりみどりさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)


Q: 僕は自称「サメ文学研究」のパイオニアとして、日々精進してます。主な研究の内容は「サメの出てくる小説の傾向の調査と、未来の可能性の追求」です。ですが、サメの出てくる作品をなかなか見つけることができていません。今まで見つけたものとしては
『古事記』
『白鯨』著・メルヴィル
『老人と海』著・ヘミングウェイ
『石の幻影 短編集』著・プッツァーティ
『もうひとつの街』著・ミハル・アイヴァス
『ロールシャッハの鮫』著・スティーヴン・ホール
です。
※ちなみにスティーヴンスンの『宝島』に登場するジョン・シルバーの片足に関しては、戦争で失った旨の供述が作中に書かれているので、サメに喰われたとは換算しておりません。
※今現在、「鮫島」などの固有名詞として出てくるサメは追いかけたらキリがないので無視しています。
以上のように、僕ひとりで探しているため、なかなかサメの出てくる小説を見つけることができていません。ムール貝博士に思い当たる作品か何かあれば、ぜひ教えていただきたい次第です。
よろしくお願いします。


すてきな研究をお持ちです。メルヴィルやヘミングウェイはともかく、その他はぜんぜん知らなかったので気になります。古事記は謎めく生きもの「わに」のことですよね、おそらく。

ともするとググりたくなるような話ですが、それでは説得力がないし、だいじな研究にケチがついてしまうようだし、第一おもしろくありません。ただ、僕も手に入れた本を読んで「うーんおもしろかった!」と満足した数日後に部屋でまったく同じ本をもう1冊見つけて驚愕するくらい記憶がいいかげんなので、ろくすっぽお役に立てないことを先にお詫び申し上げつつ、パッと思いついた作品を2つばかりご紹介しましょう。

「小数点花手鑑」ココで注文するともれなくおまけでついてくる取扱説明書にも書きましたが、アルバム中の一編「100匹数えろ/jonah the insomnia」はもともとカルロ・コッローディによる不朽の児童文学「ピノッキオの冒険」から着想を得ています。具体的に言うと物語のクライマックス、ピノキオが飲み込まれた魚のお腹のなかで育ての親であるジェペット爺さんと再会する有名な場面です。こうして冷静に要約してみると「何言ってんだ?」という気がしなくもないですね。

ディズニーの映画ではジェペット爺さんとピノキオを飲みこんだのはクジラになっていますが、原作ではこれがサメです。

ちなみに「ピノッキオの冒険」については以前のパンドラ的質問箱でもオススメの一冊として紹介しています。そういや前にここで……と見返してみたらもう7年も前の話で開いた口がふさがりませんでした。

そしてもうひとつ、僕にとってもこれはとくにだいじな一冊ですが、レオポール・ショヴォの「年を歴た鰐の話」があります。


十数年前の復刻で初めてその存在を知って以来、いつかそのオリジナルを見てみたいと願いつづけた一冊です。今年の1月、思いがけず手に入ったときは本気で目を疑いました。僕の手元にあるのは昭和22年の再版ですが、再版でさえ70年ちかく前の話だから、探してもなかなか見つからないんですよね。旧仮名遣いの味わいがまたいいんだ……。

それはさておきここに、「のこぎり鮫とトンカチざめ」という短い一編が収められているのです。のこぎり鮫はもちろんそのままノコギリザメ(鋸鮫)、トンカチざめはシュモクザメ(撞木鮫/ハンマーヘッドシャーク)のことですね。

そのあらすじはというと、のこぎりとトンカチで船を沈めては腹を抱えて笑い転げるのが趣味のどうしようもない2匹が最終的に恨みを買ったクジラの尾ひれで叩き潰されて終わる、そんなお話です。根っからの小悪党による最初から最後まで1ミリも共感できないある種のノワールと言っていいような気もしますが、種まで特定できるサメの物語は珍しいし、研究対象としてもかなりポイントが高いのではありますまいか。

しかしこの書物の白眉はなんといっても表題作である「年を歴た鰐の話」でしょう。これほどまでにネジのぶっ飛んだ愛の物語を、僕は他に知りません。これを読んだことがあるのとないのとでは、愛というものに対する考え方がおそらく天と地ほども変わってきます。奥が深すぎて簡単には教訓が導き出せない、おそるべき物語のひとつです。


気づけば復刻も絶版になって久しいですが、まだわりと手に入れやすいとおもうのでぜひ探してみてください。先の2つと合わせて、3つの短編が収められています。著者自身による挿絵も最高だし、こんなのが昭和初期に翻訳されていたなんて未だに信じられない。そしてどのお話も、端的に言ってクレイジーです。この一冊で人生観がひっくり返りましたと言われても、僕はぜんぜん驚かないです。ホントに。


A: カルロ・コッローディ「ピノッキオの冒険」と、レオポール・ショヴォ「年を歴た鰐の話」




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その247につづく!

2016年5月6日金曜日

toto - 水茎と徒花と球根/black and white pt.2


日本が世界に誇るリドル・ストーリーを翻案したクレイジーなラブソング「水茎と徒花/black and white」から3ヶ月……。偶蹄類の周囲にふたたび激震が走ること請け合いの続編が、とうとうお目見えです。この星でうつくしい声を持つ女神と言ったら、僕にとってその筆頭はこの人しかいません。totoさん(@totonote)ありがとう!


いまおもえばわかりにくかったかもしれませんが、タカツキによる「徒花と水茎/white and black」はリーディングをラップに置き換えたものなので、立場的には僕と同じです。「なんてこった」と頭を抱える側ですね。したがって今回のこれが正式な続編ということになります。個人的にはあの不毛なやりとりがさらに何度か繰り返されたのちのエピソードという気がするんだけど、どうでしょうね?

ぜんぶ聴き終えてからもう一度タイトルを見返すと、その意味にポンと膝を打ってもらえるはず!

ていうかなにこの愛らしさ!そりゃ手紙を出すほうも虜になるわあああー!

ガシャーン!

(言葉に表せない胸のときめきをちゃぶ台にぶつけることで埋め合わせています)



2016年5月3日火曜日

椎名純平さんと「…and the SOUL remains」のこと


わざわざあらためて言うようなことでもないけれど、音楽にとってCDはいまや最優先のフォーマットではありません。その必然性がほとんどなくなっている以上、リリースにはかつてとちがってそれなりの理由が必要になってきます。

椎名純平さん(@junpeishiina)から届いたアルバムジャケットの依頼メールに目玉が2つすぽんと飛び出し、床にころころ転がったあげくそれを踏んづけて派手に転倒、脳天をしたたかに打って前後不覚に陥った僕のよろこびと狼狽ぶりはさておき、だからお話をいただいた際に訊いてみたかったのはまさしくこの点でした。どう考えても配信の方が手軽でコストもかからないし、より多くの人にシェアしてもらうならこれ以上のフォーマットはないのに、「なぜCDなのですか」

純平さんの答えはハッとするほど明快でした。

「ライブの現場に持っていきたいんです。何なら手に取ってくれたお客さんのことを全員知っているくらいの、そんなアルバムにしたくて」

すとんと腑に落ちたばかりか、ついでにこのときストレートに胸を射抜かれてしまいましたと、告白しなくてはなりません。実際、CDであることのこれ以上に端的で明快な理由があるだろうか?言われてみればたしかにデジタルでは、手渡しもサインもできないのです。何よりこの短い一言から、純平さんの人柄があふれんばかりに伝わってきます。うっかり「好きです」と口をすべらせそうになってぎりぎりで踏みとどまったくらいです。不倫はよくない。


アルバムのアートワークについて、当初は「写真は使わず、タイトルだけでシンプルに」というお話だったようにおもいます。「…and the SOUL remains」というタイトルからも察せられるように、裸一貫ではないけれど、最後に残ったのは音楽への衝動だった、とそんなふうに仰っていたのです。なるほど、それならたしかにロゴのみでばしっとストイックなほうがある種の意志を表明するかんじでカッコいいかも。

ところがお会いして直接お話を伺い、まだデモ段階だった音源を聴かせてもらったことで印象ががらりと変わりました。何しろアルバム全編がただただ温かく、おだやかな自信と希望に満ちあふれているのです。先にもふれた純平さんの気取らない人柄が、そっくりそのまま、やわらかに表現されています。

ひょっとしてこのアルバムタイトルは「最後に残ったもの」ではなく、むしろ「それだけあればこと足りる、必要にして十分な何か」を意味しているんじゃないだろうか……?

だとすればタイトルの裏にひそむこの控えめだけれどポジティブなニュアンスを、イメージとしてきちんと落とし込みたい。できれば全体のカラーリングも、行く先を照らす灯台のような明るいトーンにしたい。写真は使わない予定だったにもかかわらず盤面に歌う姿を配置させてもらったのも、お話からシンガーとしての矜持をひしひしと感じたからです。


そんな次第でこうしたアートワークになったわけですが、しかし当初の方向性からはいささか離れてしまったような気もするし、とくに色については本当にこれでいいのか自信がなかったので、山のようなエクスキューズとともにおそるおそるお伺いを立てたところ、メールを送信した数分後にりーんと電話が鳴って飛び上がりました。そして話を聞く前から「すみません」と謝りそうになる僕に対して、純平さんがこう仰るのです。

「アルバムの色って僕お話ししましたっけ?」
「いえ、あの、聞いてないです」
「ですよね……なんとなく黄色を思い浮かべてたんです、じつは」

安堵しすぎて腰が抜けたと、今さらここに記すまでもありますまい。


そんなこんなで完成した極上のアルバム「…and the SOUL remains」は、ライブ会場のみで手に入ります。ブラックミュージックへの愛情がたっぷり詰まった豊潤な音楽性はもちろん、酸いも甘いも噛み分けた大人にしか紡ぐことのできない言葉の数々に胸打たれる、そんな1枚です。どうか現場に足をお運びのうえ、その耳でしかとおたしかめになって!