2024年3月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その420


ファイナルファンタグレープさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. これから年末年始を楽しもうという時に財布を失くしてしまいました🥲立ち直るためのアドバイスをいただきたいです🙇


これが3ヶ月前の話であることはさておき、財布の紛失は人生における重大な事故のひとつです。財布には紙幣や硬貨だけでなく身分の証明になるものが含まれていたりするので、自分が何者であるかを客観的に示すことができなくなる恐れもあります。そうなるともはや紛失というよりむしろアイデンティティの喪失に近い。取り乱すのも無理はないし、金額どころの話ではないとも申せましょう。

おまけにタンスの角に足の小指をぶつけるのにも似た精神的苦痛が2週間くらい続きます。治療法といえば近しい人の慰めと時間(流れるだけで特に何かをしてくれるわけではない)くらいであり、残念ながら現代の医学ではどれだけ手を尽くしてもどうにもなりません。運が良ければまるで初めから何ごともなかったかのようにきれいさっぱり完治するし、運が悪ければ心の奥にまたひとつブラックホールができます。そういう病です。

人もまた広大な宇宙と同じく心にいくつかのブラックホールを抱えて生きているわけですが、そのひとつに財布が、ひいてはアイデンティティが秒速1万kmで飲み込まれると考えるのはなかなか趣があります。太陽すら豆つぶ扱いするブラックホールと秒速1万kmという鬼のようなスピードの前では僕らの自己同一性など原子ほどの意味もありません。況や財布についてをやというか、なんならちょっと夢があるような気もしてくるじゃないですか?そんな気はしないと言われたら僕もそうだよねと思いますけど。

しかし一方で、財布がアイデンティティに等しいとするなら、今ここでこうしてキーを叩いている僕はなんなのだという疑問も湧いてきます。たしかに僕らはこの肥溜めみたいな世界を生き抜くために財布の機嫌を伺う必要があるし、それは確かなことだけれども、僕らが僕らであることまで財布に委ねているかといったら断じてそうではありません。どちらかといえば主人は僕らであって、財布の立場は単なる管財人です。僕らが財布を失ったのではなく、財布が職務を放棄したと言うべきでしょう。職務放棄どころか、業務上横領まで含まれます。ふつうに考えたら、財布に対する告訴まで視野に入れるべきです。腕のいい弁護士を探しましょう。そして告訴の準備が整うころには、だいぶ気が紛れていると僕は思います。


A. 財布を告訴しましょう。




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その421につづく!

2024年3月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その419


今夜は麦1パックさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. この世から豆板醤がなくなったとして、大吾さんなら代わりの調味料として何を推しますか?


先にお答えしておくと、僕はこれ、最適解を知っています。なのでいつになくスピーディにサクッと話を終わらせられるはずです。しかし実際にはキーボードに指を置いたまま、かれこれ1時間は逡巡しています。本当に答えていいんだろうかと躊躇わざるを得ません。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。

これは僕にとってあまりに都合が良すぎる質問なのではないか…?

何しろ豆板醤です。醤油や味噌ではありません。甜麺醤やコチュジャンでもなく、ましてやオイスターソースやナンプラーやスイートチリソースでもない。特に意味はないのかもしれないし、実際ないんだろうけど、しかしそれにしてはどうもこう、見えざる何者かに誘導されているような印象があります。何しろ僕は上に挙げた調味料の代用品を知らないのに、豆板醤の代用品だけは知っているのです。そんな自作自演丸出しみたいな話があるだろうか?

率直に言って、自作自演はまだいいのです。他ならぬ僕のブログだし、訪れる人も別にいないし、仮に莫大なアクセスを誇っていても初めからそのつもりで読まれていればどのみち同じことなのだから、今さら誰に憚ることもなく、大いに自作自演を繰り広げたらよろしい。正直そのへんはもうどうでもいいというか、どっちでもいい。

それよりもはるかに剣呑なのは、僕がそう答えるように予め仕組まれている場合です。人生のあらゆる分岐点において、僕らはみな自らの意志でキッパリと選び取っているつもりでいるけれども、実は初めから選ばされている可能性がないとは言い切れないんじゃないだろうか?すべては巷でうわさのディープステートの差金であって、気がついたらドナルドT的な人物の熱烈な支持者になっていたりするのではないのか?よりによってたまたま豆板醤の代用品について尋ねる人がいると同時にたまたま僕がその最適解を知っている、その確率と比べてもそれはあり得ないと果たして断言できるだろうか?

しかしまあ、だから何だという気がしないでもないので、ここはひとつあまり考えすぎずにお答えしておきましょう。


味わってもらえればわかりますが、ほぼ豆板醤です。ほんとに。


A. 富士食品工業の「粗挽きトウガラシ」です。




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その420につづく!

2024年3月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その418


アンハッピーターンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 読みたいな。と思って買った本なのに、どうしてか本棚にしまって読まずじまいのうちに次の本を買ってしまいます。全部の本を読み切るにはどうしたらいいでしょう。


いわゆる積読というやつですね。僕も家にあって読んでない本、結構あります。それでなくとも買うときは読み終わっても売らずに蔵書にしたいかどうかを基準にしているのでかなり厳選しているはずですが、それでもやっぱり積まれます。因果なことですね。

とはいえ原因はわりとはっきりしています。本を買うときは、誰であれ読む時間のことなど考えていないからです。

まだ配信というシステムがなかったころ、僕は月に30枚前後のCDを買っていましたが(よく考えたら1日1枚のペースです)、聴かずに積み上げた記憶はまったくありません。その日のうちにというか帰宅したら即再生していたし、それこそ繰り返し聴いていました。

一方で、これは僕のことではないけれど、プラモデルなんかも本と同じように積まれていくと聞いたことがあります。老後の愉しみにしている人も、まだ多くいるんではなかろうか。

音楽はCDであれレコードであれ、アルバムを聴き終えるのに1時間あればおおむね事足りたし、たとえば料理をしながらとか、散歩しながらとか、武器の手入れをしながらとか、何なら残しておくとまずい証拠を隠滅しながらでも楽しむことができます。

しかし書物やプラモデルはそうもいきません。時間はそのためだけに費やされるし、内容が充実していればしているほど、それに比例して費やされる時間も増えていきます。べつに一度に消化する必要は全然ないのだけれど、どうしてもゴールまでの所要時間を想定して向き合ってしまうわけですね。音楽としてのアルバムが数時間単位だったら、ながら聴きできるとしてもやっぱり本と同じように積まれていたとおもう。

僕が店番を務める古書店にときどき来られるお客さんで、常に数冊の本を持ち歩いている人がいます。聞けば出勤前に必ず勤め先近くの喫茶店で読書の時間を設けているそうですが、それは通勤中の電車で読む本とは別(!)なのだそうです。

これと同じくらい、というのは例えば就寝前のストレッチと同じくらい、読書が日々のルーチンに組み込まれていれば、読める本の数は飛躍的に増えるでしょう。ただそれでもやはり、本は積まれていきます。なんとなればそのぶん書店に通う回数も増えるわけだし、それでいて「買うのは誰でもいつでも一瞬」だからです。

本を買うのに費やす時間と、本を読むのに費やす時間がイコールでないかぎり、積まれた本が減ることはありません。仮にどんな本でも30分で読み切れるスキルを身につけたとしても、購入する冊数が増えるだけでやっぱり積まれていくでしょう。当たり前といえば当たり前という気もするのに、なぜか僕らはいつも首を傾げています。へんですね。

未読の本を読み終えるまで書店に行かなければいいじゃないか、とじつに尤もな、これ以上ない正論をおっしゃる御仁もあるでしょう。しかしそれは本をあまり読まないから言えることである、と僕らは断言できます。本が好きな人はそれを読むのと同じくらい、書店に行くことが好きだからです。書店に行かないということはつまり本を読まないことと同義であり、行かないことが読まないことと同じなら行かないかぎり読まないことになるので、やっぱり本は積まれたままになります。へんですね。

したがって、部屋に積まれた本を読み切ることは未来永劫ありません。

しかしそれは裏を返せば本が部屋に積んであるかぎり書店には通いつづけるということであり、書店に通いつづけるかぎり書物に対する愛情もまた変わらずにあり続けるということでもあります。

突き詰めると何のための何なのかわからなくなってくる気もするけれど、でもそれでいいじゃないですか?よくない理由が果たしてあるだろうか?

なのでもう、あまり深く考えずにどんどん積んでいきましょう。積めば積むほど、というか何ならそれゆえにこそ、書物への愛は深まると僕はおもいます。そしてどうあれ最後まで守り抜くべきものが愛であることに、誰も異論はないはずです。


A. むしろ読みきれない状態を維持することこそが愛です。




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その419につづく!

2024年2月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その417


パーリーピーポくんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは宇宙旅行したいですか?私はいつか宇宙へいきっぱなしの旅行をしたいのですが、現代の技術では行けるところが限られています。世界一周もいいけれど、私はこの星より掴めないものや届かないものを知りたいです。


不世出の天才、手塚治虫のライフワークの一つに「火の鳥」があります。僕はこれを小学生の時に月刊マンガ少年の別冊で読んでいて(「ブッダ」もたしか同じ時期に別冊少年ワールドで読んでる)、いいおっさんになってしまった今でも折にふれては思い出すシーンがいくつもあるくらいには脳みそに刻みこまれているのだけれど、「ヤマト編」「鳳凰編」とテーマごとに分かれたシリーズのうち「宇宙編」はもう、とにかく冒頭から結末まで圧倒的に怖くていまだに忘れられません。

とりわけ脳裏に刻みこまれているのは、宇宙船が航行不能になり、数人の乗組員がそれぞれ一人用の脱出ポッドで宇宙を漂流する場面です。

このポッドには人が一人寝そべるだけのスペースしかありません。また航行機能はついていないので、本当にただ漂流するだけです。通信によって他の乗組員たちと会話することはできますが、ポッド同士がお互いに遠ざかるとこれも不可能になります。ポッド内における生命の維持は1年くらいが限度です。つまりこの状況から助かるためには、ポッドの生命維持が機能している間に、居住可能な惑星に辿り着くか、別の誰かに救出してもらうしかありません。そして物語中では、一つ、また一つとポッドが離れていき、それまで交わされていた会話ができなくなっていくのです。

怖すぎる。

四方に島影のない大海原のど真ん中を漂うのだってめちゃめちゃ怖いのに、宇宙ですよ!

おかげで僕は身動きの取れない閉鎖空間がめちゃめちゃ苦手になりました。まだやったことないけど、MRIとかパニックにならずにいられる自信がありません。


宇宙に対する憧れはもちろんあります。ただその憧れは、宇宙の無慈悲に対する恐怖と比べたらささやかなものです。この恐怖を克服するためには、いつでも楽に死ねるという安楽死的選択肢を常に身につけていなくてはなりません。

また、僕らの多くは地球で学んだ知識や物理法則が宇宙でもある程度までは普通に通じると思っているところがありますが、僕自身は地球における何から何までが宇宙においてはむしろ例外中の例外だと考えています。

生命という僕らにとって根源的な概念はもちろん、知能や五感、意識や感情といった感覚も全部ひっくるめて地球用にカスタマイズされているはずだし、そう考えるほうが自然です。宇宙は地球の延長では絶対にない。

さらに宇宙全体に対する地球のサイズ感は、おそらく知識や想像力にも当てはまります

試しにじぶんの身長を100万分の1に縮小してみましょう。これでもまだめちゃめちゃ大きすぎますが、想像する分にはこれくらいでよろしい。その小さな自分を、部屋の真ん中にぽちっと置いてみます。100万分の1なので、10cmが現実世界の100kmに当たります。たとえワンルームであっても、100万分の1の世界では何もない荒野が果てしなく広がるわけですね。そして現実世界の僕らにとっては屁でもない極小サイズのものすべてが脅威です。

宇宙ステーションから眺める地球は写真で見ても美しいですが、これは地上から400km上空の景色なので、これを100万分の1の世界に置き換えると40cmになります。40cmですよ!僕の身長だと膝にも届かない。ちなみに6畳一間のワンルームを横断するとしたら、少なくとも3000km以上は移動することになります。

さて、地球の直径に置き換えても1/4に満たないこのワンルーム宇宙で僕らが得られる驚異と感動は、果たして脅威と退屈の総量を上回るだろうか?

僕個人はむしろ地球のほうがはるかに脅威が少なく、それでいて無数の驚異に今も満ち満ちている気がします。宇宙は僕らが思うよりもずっと広大で、どう考えても虚無のほうが多いと言わざるを得ません。それでなくとも僕らは自分が実際に知る以上に、知っていると思いこみすぎなのです。

核シェルターとしても機能する(!)と言われる古代カッパドキアの不可解すぎる地下都市がいったい何のために作られたのか(礼拝のためと言われているけれど、実際のところ必要性とぜんぜん連動していない)、その全貌もいまだ定かではないというのに宇宙だなんて片腹痛いし、足元のアスファルトに咲く小さな花の名を知るほうがよほど甲斐がある、と僕はおもいます。ほんとに。


A. 500年くらい寿命があったら気晴らしにちょっと行ってみたいですね。




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その418につづく!

2024年2月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その416


てぶくろを解任さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. めんどうな用事はもちろんのこと楽しいであろう用事さえも行くまでが憂鬱で億劫なことが多いです。人間はなぜそのようにできているのでしょうか?


これはですね、まずヒトがいかに特殊で不遜な生物であるかということから始めなくてはなりません。

僕ら人間をのぞいて、およそすべての生物は常に死と隣合わせの日々を送ります。なんとなれば自身を食料とする上位の生物がいるからです。ライオンくらい上位になると捕食される危険性はあまりないですが、その代わりに食料調達のハードルがやたらと高く、ふつうに餓死と隣り合わせです。したがって、生物が生きるためにかかるコストは例外なく死を遠ざけるために費やされます。

このヒリついた環境では、いつもと違うちょっとした行動が命取りになりかねません。ヒトにとっては美点ともされる好奇心も、多くの生物にとってはハイリスクかつ場合によってはリターンどころか即死です。好奇心がないとは言わないし、ものすごく低い確率で莫大なリターンを得ることもあるんだけど、いずれにしてもギャンブルに近い衝動であることは間違いありません。生存に不可欠でない行為はしないに越したことはない、が生物としての不文律であると断言してもよいでしょう。今まさに死に瀕していないかぎり、生物においては事なかれ主義こそが生き延びる上で最上の戦略です。

ではこの視点から「楽しいお出かけ」について考えてみましょう。ヒト以外の生物が予定を組むことはまずないのでこれだけでも十分に異常きわまりないわけですが、これをダンゴムシにもわかる共通の意味に置き換えると「不可欠ではないイレギュラーな行動」になります。先にも述べたように生存戦略的には当然ハイリスクであって、全生物から総スカンを食らう愚行ということになるでしょう。この死にたがりめ!と罵られること請け合いです。

もちろん楽しいお出かけくらいでヒトが死の危険に晒されることはありません。ダンゴムシからどれだけブーイングを浴びようと、楽しく遊んでハッピーに帰ることが高確率で保証されています。それでなくとも本来なら全生物でシェアするはずの資源も浪費し放題だし、特権階級ここに極まれりと言うほかない。

とはいえ何から何まで異端尽くしでわがまますぎる存在であるヒトもまた、元を辿れば原材料はダンゴムシと同じです。ごはんは食べるし、うんこもするし、生殖もします。であれば今もその辺をころころ転がる多くのダンゴムシたちと同じように、先に挙げた生物としての不文律を本能的に保っていても不思議ではありません。生存に直結しない行動に躊躇いを感じるのは至極まっとうなことであると申せましょう。

極論すれば億劫とは、ヒトにかぎらずすべての生物において生存戦略的にきわめて妥当な感覚でもあるのです。だって別に、それをしないからと言って死にはしないんだもの。

七面倒くさい回り道をしながらごちゃごちゃと申してきましたが、ここではっきりと明確に結論づけておきましょう。

億劫とはひとつの真実であり、またある種の正義でもあると。

なので僕も貴重なエネルギーを温存するためにもうすこし寝ます。


A. 生存に不可欠な用事ではないからです。




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その417につづく!

2024年2月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その415


瓢箪からトマホークさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一人暮らしなのに、つい勢いであまりにも巨大な三浦大根を買ってしまったので、その使い方を教えてください。


何しろ一人暮らしでは誰も止めてくれないので、勢いで巨大な三浦大根を買ってしまうことがよくあります。どうせなら巨大な三浦大知がよかったと枕を濡らす夜もしばしばです。しかしいつまでもめそめそと大知くんを想っていても仕方がないので、ここはやはり目の前にある大根と向き合うことに集中しましょう。

圧倒的かつ順当な用途としては、やはり食べることです。生でもいいし、漬けてもいいし、蒸しても煮ても焼いても美味しくいただけます。食べ切るには大きすぎてちょっと多い場合は、大根を削って箸にしたり、くり抜いて茶碗にするのもよいでしょう。彫刻ができるのも、ほうれん草のような軟弱な連中には真似のできない、大根の大きな強みのひとつです。

大根は半分に切ると、スマートスピーカーによく似ています。テーブルに置いて、ときどき話しかけてみましょう。もちろん大根なので反応はしないはずですが、そうとも言い切れないのが人生のおもしろいところです。当たり前のように話しかけていると、そのうち大根も答えるのが当たり前のような気になるかもしれないし、ならなかったら食べてください。

大根には桂むきという切り方があります。くるくると回転させながら切れないように1本の帯をつくる手法ですが、これを道路の白線として使用するのも一興です。2車線を4車線にしたり、何もないところに停止線を引いたりして遊びましょう。自分が渡りたいときにだけ使うマイ横断歩道なんかも夢があっていいですね。

積もる雪にさわりたいけどちょっと冷たいしな、という時は大根をすりおろすとその代用になります。もちろん雪だるまも作れるし、温めても融けません。これは雪にない最大の長所であり、代用でありながらむしろ雪を凌駕している点でもあります。大量にすりおろせば、ゲレンデとして真夏にスキーやスノーボードを楽しむことも夢ではありません。

もちろん鈍器としても有効です。いけすかないやつの脳天めがけて垂直に振り下ろしましょう。大根が勝つか脳天が勝つか、目にもの見せてやりたいところです。

身長と同じくらいのサイズなら、身代わりの術にも使えます。ここぞというときに素早く入れ替わりましょう。問題があるとすればどうやって持ち歩くかですが、それは持ち歩く人間の問題であって大根の問題ではありません。

もちろん、危機に直面して瞬時に身代わりの術を繰り出せるほど忍術に長けていない人もいます。僕もその一人です。その場合には、夜のお供として抱き枕に転用しましょう。食べてしまいたいという口説き文句がぴったりの素敵なパートナーです。いい夢が見られるのは間違いありません。

大根は水に浮きます。難破時の救命ブイとして使うこともできるでしょう。この場合、大きければ大きいほど功を奏します。あるいはぜんぜん役に立たないかもしれませんが、それはつかまる人間の問題であって、大根の問題ではありません。

この中で一つ選ぶとなったら、僕は鈍器にします。首尾よくぶちのめした後は美味しく食べることもできるし、栄養にもなるし、なおかつ証拠が隠滅できて一石四鳥です。言うことありません。


A. 鈍器として使えます。




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その416につづく!