ピス田助手の手記




1: 部屋に扉のない理由



結論から言うと、アンジェリカはそこにいなかった。

彼女の屋敷をたずねるのは久しぶりだった。使用人のイゴールがでてきて部屋まで案内してくれた。イゴールとはもうかれこれ5年の付き合いになる。わたしに対する応対もすっかり心得ていた。他愛のない世間話をしながらアンジェリカの部屋までくると、彼は扉をノックした。

返事はなかった。しばらく待ってみたけれど、静まり返って物音ひとつ聞こえない。三度くりかえしてみても同じだった。「留守ならまたくるよ」とわたしは言った。用があるというよりは、たまには顔を見ようと気まぐれに足を運んだだけだった。ひょっとしたら調子をくずして寝てるかもしれないじゃないか?

「そうですね」とイゴールは首をかしげた。今日はいらっしゃるはずですが、お体のぐあいが良くないとなると、それはそれでいけません。そう言ってどこからか大きなハンマーを持ち出してきた。「ノックも三度したし、ぶち破りましょう」

「ちょっと待ってくれ、カギはどうなんだ」とわたしはびっくりして彼を止めた。「もしカギが開いてたら、扉をこわす必要はないだろう」
「扉にカギはついていません」とイゴールはまたびっくりするようなことを言った。「初めからついていないんです」
「じゃなおさらこわさなくたっていいじゃないか!」
「ピス田さん、これは礼儀の問題なんです」
「そりゃこっちのせりふだよ」
「もしそっと扉を開けてお嬢さまがいらしたらどうするんです」
「むむ」とわたしは彼の神妙な面持ちに気後れしながら言い返した。「何の問題もなさそうだけど」
「大ありです」イゴールは振り上げたハンマーを足元にどすんと下ろした。「いらっしゃるのにお返事をなさらないということは、少なくともノックをお聞きになっていないということなんですよ」
「ふむ。そういうことになるね」
「つまりお嬢さまにとっては『ノックをせずに部屋に入ってきた』のと同じことなんです」
「でも、ノックはしたぜ」
「しましたとも」
「しかも三回」
「おっしゃるとおり」
「何が問題なのかさっぱりわからないよ」
「ノックをしたかどうかではなくて、『お嬢さまがノックをお聞きになったかどうか』が大事なんですよ。お聞きにならなかったとしたら、それは初めからノックをしていないのと同じなんです」
「わたしが証言しても?」
「ノックをしたという証拠にはなりますまい」
「それが扉をこわすことにどうつながってくるんだ?」
「扉をこわせば、よんどころない事情があったのだという証になります」
「なるほど」
「カギがないのに扉をこわすよんどころない事情があるとすれば、ノックに対して返事がなかったということ以外に考えられません」
「ふーむ」とわたしは絶句した。「しかしもし単なる留守だったらどうするんだい」
「お嬢さまが行き先を告げずに屋敷を空けることはありません」
「わかったよ」とついにわたしは同意した。「扉を壊そう」

イゴールはふたたびおもむろにハンマーを振り上げて、扉をたたき壊した。渾身の力をこめた彼の手慣れた一撃に、扉は景気よく砕け散った。そして初めにも言ったとおり、アンジェリカはそこにいなかった。しかしその代わりに、予想もしていなかった光景をわたしたちは見た。部屋の中央には男がひとり、倒れていた。

男の背中には短剣が垂直に突き刺さっていた。床には血だまりがあった。部屋にいるはずのアンジェリカが見当たらず、代わりに男が死んでいる。誰がどう見てもじつにわかりやすい構図で、つまりこれは名探偵の登場を必要とするたぐいの事件だった。よりにもよってこんな日に、用もなく屋敷を訪ねたことをわたしは悔やんだ。




2: 男の様子についての補足


日々においてはありとあらゆるニュースが工場の缶詰みたいに次々と無表情で送り出されていく。イナゴが大量発生する日があれば、ツングースカの上空で大爆発が起きる日もある。背中に短剣を刺した男が部屋にたおれている日もあるだろう。缶切りがほしいとわたしはおもった。いちばんいいのはクリネア社の「自動缶切り(One Touch Can Opener)」だ。ずんぐりとして缶切りらしからぬ形には目をつぶってもいい。葉を食む芋虫よろしくキリキリと缶を切りひらいていくその奇妙な動きは、誰であれ一度見たら忘れることはできない……

「お嬢さまがこんなことをなさるはずがありません」イゴールは青ざめながらも毅然として言い切った。「これには何か仔細があるはずです」
「そうおもうよ」とわたしは頭の中の缶切りを振り払うようにして言った。「しかしこれ、誰なんだろう」
「存じません」
「客ではない?」
「今日ご案内したのはピス田さまおひとりです」
「泥棒ってことかな」
「その可能性はあります」
「アンジェリカと揉み合った勢いで、こう…?」
「お嬢さまが?」と驚いてイゴールは即座にかぶりをふった。「考えられません」
「彼女らしくないね、たしかに」
「お嬢さまでしたらもっとスマートに始末なさるはずです」
「あ、そういう意味?」
「こんなベタな手口は許容できません」
「第一、アンジェリカはどこに行ったんだ?」
「わたくしとしてはそれがいちばん気がかりです」
「何にしても歓迎すべき状況じゃなさそうだ」とわたしはため息をつきながら倒れている男に目をやった。「手に何か持ってるな」
「おや」イゴールは驚いたようだった。「あれは…」
「本?いや、ノートかな」わたしはイゴールの様子に気を留めずに一歩近づいてみた。もし男がこのノートを奪おうとして殺されたのだとすると、手につかんだままなのは妙だという気がしたからだ。なぜ男を襲った人物はそれを奪い返さなかったのか?
「あのノートは?」
「あれはお嬢さまのノートです」
「アンジェリカの?」
「はい、あれは…」
イゴールが重要な事実を口にしかけたところで、わたしはふとあることに気がついてそれを遮ってしまった。「おや…」
「どうかなさいましたか」
「小指がないぞ」
このときイゴールの言葉を途中で止めてしまったのはまったく失敗だったと言うほかない。男は左手に厚いノートのようなものをつかんでいた。小指がないのは、その手だった。

イゴールは黙っていた。思い当たるふしがあるというよりは、どちらかというと混乱に拍車がかかっているように見えた。何かを知っているから混乱するのか、何も知らないから混乱するのか、わたしにはどちらとも判断できなかった。

「何から何まで、ちんぷんかんぷんだ」とわたしは匙を投げた。「おまけにこの部屋じゃ荒らされてるのかどうかもわからない」




3: アンジェリカの部屋



それは博物館と図書館とショーウィンドウと夢を鍋にぶちこんでグツグツ煮たような、混沌とした部屋だった。雑多な所有物を観客に見立てた円形劇場みたいだと言ってもいい。その中心にスポットライトが当たるようなかたちで、短剣の刺さった男が倒れている。広さはすくなくとも30畳もありそうに思えた。

四方にはゾエトロープみたいな壁紙を巡らし、壁自体に埋めこまれて本棚があった。棚からはみ出して床に積まれた古めかしい絵本や写真集の山は、堆くそびえるシロアリの巣に見えた。鹿とも牛ともつかない頭蓋骨があれば、見たことのない大きくてムクムクした鳥の剥製もある(ドードー?)。見上げると色鮮やかな蝶の標本が高い天井をタイルのように埋め尽くしている。同じく壁に埋めこまれた薬棚にはあまりふかく考えたくない薬品のビンがずらずらと並んでいた。

そうかとおもえば60年代風の(あるいは実際にその時代の)キッチュなワンピースが古い衣紋掛けにハンガーで吊るされてある。スペースエイジなテレビや時計といったこまごました雑貨たちが所狭しとあちこちに転がっている。よく見ると地球儀の主要部分がミラーボールに置き換えられているし、緯度尺のフレームから取り外された地球はそのとばっちりを受けて仕方なく天井からぶら下がっている。どこへ目をやっても常にこんな調子で、問答無用の一点張りというほかなかった。短剣の刺さった男がこれらの一部であってもおかしくないという気さえしてくる。カラフルなはらわたを持った人体標本にいたってはお洒落な帽子をかぶり、あまつさえ耳に大きなピアスをつけていた。

その他目についたもの
・ハンモック
・トルソーに防弾チョッキ
・ガンラックに水鉄砲と散弾銃
・乳鉢、ピペット、天秤、アルコールランプ、試験管
・木魚
・電話ボックス(なぜ?)
・マリオネット
・鳥籠
・黒ヒゲ危機一髪みたいな木樽もいくつか
・官能的な拘束器具

イゴールがハンマーで叩き壊したのはそんな部屋の扉であり、わたしたちが立ちすくんでいるのはつまりそんな部屋の入り口だった。わかってもらえる自信はない。書けば書くほど手に余る。ちょっとした宇宙がここにはあった。

足下に飛び散った扉の木片にまぎれて、缶切りがひとつ落ちていた。金属片をねじっただけの、原始的なタイプだ。今しがた目にしたものから比べると、だいぶ日常寄りで好感が持てる。朴訥とした佇まいとその美しさに、わたしはみとれた。拾い上げてためつすがめつしていると、何でもいいから手頃な缶詰を片っ端からこじ開けていきたいようなきもちに駆られた。

「気の毒な男のために、警察を呼ぼう」とわたしは缶切りをもてあそびながら言った。
「そうしたいのは山々ですが」とイゴールはためらいがちに答えた。「このままいくとお嬢さまに累が及んでしまいます」
「だからってうっちゃってはおかれないよ」
「しかし…」
「隠すと後がめんどくさいぜ」
「闇に葬っては?」
「イゴールと話してるとそれもありかなって気がしてくるから困るよ」
「恐れ入ります」
「しかたない、わたしが電話しよう。あと、欲しいのは…」
「何でございましょう」
「缶詰だな」

そこへ突然、尻尾を踏まれた怪獣の鳴き声みたいな気味の悪い音が、屋敷中に響きわたった。悲鳴かとおもって身構えるわたしに、呼び鈴ですとイゴールは言った。来客らしい。控えめにも好ましいとは言いがたいタイミングで誰かが訪ねてきたことよりも、形容しがたいその音にわたしは驚いて言った。「こんな音だったっけ?」

「いえ、この音色は…」とイゴールが青い顔をして立ちすくんだ。「奥さまです」
「奥さま?」
「お嬢さまのご母堂にあたる方です」
「アンジェリカのお母さん?」
「そうです。正確には…いえ、ひとまず参りましょう」
扉のない部屋を背に、玄関へと早足で向かうイゴールは、部屋に死体をみたときよりもはるかに緊張しているようだった。その後を追いながらわたしは、押す人によって音色が変わるふしぎな呼び鈴について考えていた。じぶんの音色が気になって仕方なかったのだ。




4: やってきたふたりの客人



今おもえば、ここでわたしがとることのできた行動は3つあった。

1)来客にかまわず、110番をする
2)考えなしにのこのことイゴールについていく
3)何も見なかったことにして帰る
4)筆を置く

いや、4つだ。4つあった。しかし直面したことのない事態の渦中にあって、冷静にまわりを見わたすことなどできるものだろうか?低きへと流れる水にぷかぷか浮かんで、同じように下ることのどこに問題があるというのか?わたしは傍観者であり、名探偵ではなかった。ワトソンであり、ホームズではなかった。ヘイスティングズであり、ポアロではなかった。思うにこれはワトソンしか登場しない物語なのだ。

奥さまと呼ばれた貴婦人はすでに屋敷に足を踏み入れて待っていた。まるでヴィクトリア朝に戻ったかのようなドレスをまとい、頭のてっぺんからつま先まで黒尽くめだった。凛とした立ち姿は、客というよりもむしろこの屋敷の正当な所有者であるとでも言いたげな威厳と風格に満ちていて、わたしをひるませた。

しかしそれ以上にわたしの気を引いたのは、彼女がかたわらに従えるちいさな女の子のほうだった。マイヤ・イソラみたいに艶やかな柄の、みごとなまでに和洋折衷な銘仙を着込んでいる。この思い切りのいい着物ひとつ見ても、何となくアンジェリカを連想させるものがあった。やわらかく波打つ黒髪はとてもうつくしく、手にはなぜか立派な脇差しを持っていた。

「アンジェリカはどこです?」と貴婦人は言った。よくしなる鞭のような声だった。
「お嬢さまはお出かけになりました」とイゴールはかろうじて答えた。
「死神の田村からクレームが来ていますよ」と貴婦人はふたたび声の鞭をぴしりとくれた。「アンジェリカはどこへ?」
「じきにお戻りかと…」
「イゴール」と三度目の鞭がしなった。「わたしは、どこへ、と聞いたんです」
イゴールは言い淀んだ。アンジェリカの部屋に死体がひとつ転がったままなのを忘れたわけではないにせよ、よもやこのまま押し通すつもりなのではないかとおもって、わたしはハラハラした。
「いいわ」と貴婦人は鞭を慎み深いくちびるにおさめて言った。「待たせてもらいます。みふゆがいつものクリームソーダを飲みたがってるの。いいわね?」
「かしこまりました」
大小ふたりの客人が勝手知ったる様子ですたすたと応接室へ向かうのをよそに、イゴールは硬直したまま、しばらくそこを動くことができなかった。

そういうわけで、わたしが選んだのは先の選択肢で言うと(2)だった。イゴールが飲みものをこしらえるためにキッチンへと下がったので、これにもやはりのこのことついていった。缶詰があるとおもったのだ。気づけばわたしの頭には缶詰のラベルがずらずらと並び、今や無視できないくらいの部分を占めていた。




5: キッチンにて



わたしの手記になってから、アクセスがとてもわかりやすく急減している。グラフでみるとカーブというより、きりもみをしながらの墜落に近い。おおむねそうなるだろうことはもちろん想像していた。長い上にややこしいとなればそれが当然だ。しかし何もいきなり半分になることはないじゃないか?かなり悲観的な観測をさらにやすやすと下回るなんて、それはちょっとつめたいというものだ。こうも劇的に結果で示されるとわたしもつらい。しかしまあ、話を先に進めよう。


「言いたくないけど、イゴール」とわたしはキッチンでとりあえずそのまま食べられそうな果実系の缶詰を片っ端からこじ開けながら言った。「こうしてる今もアンジェリカの部屋には誰だかわからない死体がひとつ転がったままなんだぜ」
「承知しております」落ち着きを取り戻したイゴールは力なく答えた。彼は今まさに巨大なクリームソーダをこしらえている最中だった。
「クリームソーダなんてつくってる場合じゃないんだ。もちろん飲んでる場合でもない」
「仰るとおりです」
「デカいな!」わたしはここで初めてちゃくちゃくと完成に近づくクリームソーダの巨大さに気がつき、目を丸くした。「まるで消化器だ」
「みふゆさまは以前にお出ししたこのサイズがことのほかお気に召したようで……」
「あの子はあの貴婦人の……」
「ご息女です。お嬢さまの妹君にあたります」
「妹?アンジェリカの?」
「はい」
「それは初耳だ」
「正式にはミルフィーユさまと仰います」
「ミルフィーユ……」
「みふゆさまというのは愛称といいますか、略称といいますか…」
「なるほど」わたしは缶の底に貼り付いた一切れの桃をフォークではがしながら頷いた。「あの脇差しは?」
「護身用でしょう」
「護身に脇差しを持つ女の子が世界に何人いるっていうんだ」
「みふゆさまはひとかどの剣客として知られる方ですから」
「剣客?」
「お強くていらっしゃいますよ」
「見かけによらないもんだね」
「正式な立ち会いではお嬢さまも敵いません」
「ほとんど天下無双じゃないか!」
「タイム誌の表紙を飾ったこともございます」
「天才肌なのはよくわかったよ」イゴールの話しぶりが軽やかになってきたので、わたしはそれを打ち切るように言った。「それより、問題は奥さまだ」
「奥さまが何か?」
「話さないならわたしが話す。なんとなく110番もしそびれたし、身内なら相談するのに絶好の機会じゃないか。キッチンで缶詰こじ開けてる場合じゃなかったよ」
イゴールは黙っていた。
「イゴールはいつもそばにいるからタフなアンジェリカの無事に確信を持つのもムリはないけど、可能性だけなら逆の場合だって十分あるんだ。……や、しまった」わたしは缶から取り出してボウルに山と積んだフルーツのシロップ漬に、タケノコの水煮が混ざっていることに気がついて舌打ちした。「まあいいや、わかりゃしない。つまりわたしが言いたいのは、彼女のことだから考えづらいけど、でももし連れ去られてたりしたらどうする?ってことなんだ。わたしたちにとっては第一にアンジェリカで、第二も第三もアンジェリカだ。そうだろう?小指の欠けた男の死体はこの際問題じゃない。……というのはちょっと言いすぎたようだから撤回してもいいけれど」
「いえ、仰るとおりです」
「撤回を取り消そう。それじゃ決まりだ。何ならわたしが……」
「いえ、わたくしからお話しいたします」
「うん、口がすべった。是非そうしてくれ」




6: コンキスタドーレス夫人、演繹する



長い沈黙だった。実際のところ伝えるべき事実はシンプルで、わざわざ手短にするまでもない。わたしが来たこと、アンジェリカが消えたこと、そして男が死んでいたことだ。イゴールはコンキスタドーレス夫人(というのだそうだ)にそれを話した。夫人はその間いちども言葉をはさむことなく、黙って紅茶を飲んでいた。かくべつ驚いたようにも、思案しているようにもみえなかった。むしろそわそわして落ち着きのないわたしたちのことなど歯牙にもかけず、ただお茶の時間をゆっくりと楽しんでいるようだった。彼女はたっぷり10分もかけてようやく空になったカップを置き、それからおもむろに口をひらいた。
「最初に訊いておくけど、イゴール」と夫人は言った。「おまえの仕業ではないのね?」

イゴールのしわざ!言われてみればそれはまったく、頭をよぎってしかるべき可能性のひとつだった。どうして気がつかなかったのだろう?この論理からするとわたしも負けず劣らずあやしい人物ということになる。そのとおりだ。考えてもみなかった。見目にたがわぬ視点のするどさと、身内にあって微塵もためらいのない口ぶりに、わたしはいっぺんでこの貴婦人が好きになった。
「わたくしではございません」とイゴールは答えた。それが嫌疑ではなく逆に信頼からくる確認であることを、彼も理解していたはずだ。
「ピス田さん、あなたも?」
「もちろんです」
「話はよくわかりました」と再びみじかい沈黙を置いてコンキスタドーレス夫人が言った。「道理で様子がおかしいとおもったら。いいわ、案内なさい」

今さらながら、この家はアンジェリカとイゴール、その他数人で管理するにはいささか広すぎるようにおもう。見た目以上に奥行きがあるのと、ややこしい構造のせいで何度訪ねてもいまだに全体像がよくわからずにいる。和室と洋室が混在しているのはまだしも、らせん階段や朱塗りの手すり、果ては廊下と廊下を太鼓橋でつないだりする始末で、挙げれば枚挙にいとまがない。基本的には長い年月をへた古い木造建築でありながら、あちこちに西洋風のつくりをもった国籍不明の遊郭といった趣が、屋敷にはあった。要はぜんぜん、住まいにみえないのだ。

「もうひとつ確かめておきたいことがあります」と夫人は黒光りする板張りの床に絨毯敷の廊下を歩きながら言った。「田村(死神)が言うには、あれの大鎌をアンジェリカは借りたままだそうね?」
「はい」とイゴールは答えた。
「かれこれ5年はたつと言っていたけれど」
「仰るとおりです」
「あの子のことだから」と夫人は言った。「観賞用ではないでしょうね」
イゴールは頷いた。「ステッキのように肌身はなさずお持ちです」
「決まった置き場所はあるのかしら?」
「衣紋掛けにそのまま刃をおかけになることが多いようです」
「他には?」
「そうでなければガンラックに立てかけてございます」と答えて、イゴールは息をのんだ。わたしもハッとした。夫人の言わんとしていることがわかったのだ。イゴールの表情にすこし光が射したようにみえた。
日ごろから持ち歩いているものが主不在の部屋にあるかどうかというのは、なかなかおもしろい問題だとおもうわ」と夫人は表情を変えずにつぶやいた。「あるならこの場合、少し困ったことになるかしらね」
「仰るとおりです」とわたしはイゴールを真似て言った。鎌の有無がもつ重大な意味に驚かないわけにはいかなかった。
「その代わりもし部屋にないのなら」と夫人は言った。「まず十中八九アンジェリカが持ち出している…そうね、イゴール?」
「そう考えて間違いございません」
「つまり」とわたしは黙っていることができずに口をはさんだ。「アンジェリカは自分の意志で出ていったことになる」
「少なくともあの子の身に危険が及んでいる可能性は低くなるでしょうね」と夫人はやわらかな笑みをかすかに浮かべた。「何しろ得物を持ち歩いているんですから」

コンキスタドーレス夫人万歳!問題の解決に寄与するわけではないとしても、場合によってはある保証が得られる可能性を、わたしたちはみたのだった。気を落ち着けて思い返してみたけれど、部屋にアンジェリカの付属物たる死神の鎌を見た記憶はなかった。もちろん、動転していて気がつかなかったこともありうる。わたしたちは部屋に鎌がないことを心から願いながら部屋に向かった。




7: 小指の欠けた男について



しかし事はなかなか、思いどおりには運ばないものだ。コンキスタドーレス夫人の登場によって、ひょっとしたら事態に進展が見られるかもしれないという期待をわたしは抱いた。無理からぬことじゃないか?……それまで立ちこめては濃くなるばかりだった霧を、刹那とは言えひと振りに薙ぎ払ってくれたのだから。ところが霧は今やふたたびその濃さを増した。もはや何が問題なのかもよくわからなかった。このときの驚きを、と綴りたいところだけれど、率直に言ってわたしはもう驚くのに飽きた。どのみち受け止める以外にとれる態度などないのだ。わたしたちは部屋の入り口にたち、その床にあるべきものがないのを見た。背中に短剣の刺さった男は血だまりといっしょに、部屋から消え失せていた。

こう書くと語弊があるかもしれない。正確を期そう。わたしが言いたかったのは、わたしとイゴールが見た男ではなくなっていた、という意味だ。死体ということなら依然としてそこにあると言い張ることもできる。ただあるのは人体ではなく、皿に1本のりっぱな豚モモ肉だった。

「生ハムじゃないか」とわたしは言った。「骨付きだぞ」
「そのようです」とイゴールも唖然として言った。
「床に置くなんて」とコンキスタドーレス夫人が眉をひそめた。
みふゆは特大のクリームソーダを両手に抱えて興味深そうにそれを眺めていた。
「謎がのこるのはわかる」とわたしはすこし苛立ち気味に言った。「解いてないんだから。でも解く前に増えるなら増えるでそう言っておいてくれないと困るよ」
「けっこうなことじゃありませんか」とコンキスタドーレス夫人は言った。「死体より生ハムのほうがずっといいわ」
「それはそうです。しかし……」
「ないものを詮議しても仕方がないでしょう」
「でもあったんです、たしかに」
「わたしが言うのは、今ここに一切の痕跡がないのならそれは初めからなかったのと同じ、ということです」
「わたしとイゴールが見ていますよ」
「それは根拠になりません」
「むむ」とわたしは二の句が継げなくなった。
「初めからなかったにしろ、誰かが片付けたにしろ、それがわたしたちに縁のない者ならこれ以上深入りする必要はありません」
「変わり身の術はどうですか」とみふゆがストローから口をはなして言った。
「そう、その可能性もあるわね、もちろん」
「だとしたら…」
「だとしたら、のこる問題はアンジェリカの行方のみです。そうね、イゴール?」
「いえ、奥さま」とイゴールは答えた。「痕跡はございません。しかし男と同時に消えたものがひとつございます」
「消えたもの?」
「お嬢さまのノートです」
「それだ」とわたしは言った。「男は左手にノートを持ってたんです」
「おやおや!」と夫人は呆れたように言った。「では100パーセント縁のない者、とも言い切れないわけね」
「面目ありません。先にお伝えすべきところを」
「ええ、まったくね」
「だとすると些細なことかもしれませんが、もうひとつ」とわたしは遠慮がちに付け加えた。「男には小指がありませんでした」
「小指が?」
「そうです。左手の」
「こゆび」とみふゆが特大のクリームソーダを両手に抱えたままつぶやいた。「スナークですね、お母さま」




8: 死体よりも忌々しいこと



「スナーク?」とわたしはひっくり返りそうになりながら喘いだ。
「そうなの、みふゆ?」
「スナークの小指はみふゆが斬り落としたのです」
「そう。知らなかったわ」と夫人は言った。「でもだからといって小指のない男がスナークとは限らないわね」
「それでわかりました」イゴールの顔がすこし上気していた。「あのノートにはスナークの行動パターンと対策が事細かに記されているんです」
「ああ」とわたしは扉を破壊した際のやりとりを思い出しながら、じぶんの失策を悟って唸った。「それを言おうとしてたのか!」
「なぜ死体がお嬢さまのスナーク・ノートを手にしていたのかわからずに混乱していたのですが……」
「むむ。本人なら当然だし、ということはつまり……」
イゴールが肩を落としながら後を継いだ。「死体ではなかったのですね」


驚くのに飽きたと言ったばかりでそれを翻すのは気が引けるけれど、この日わたしがいちばん絶句したのはこのときだった。初めになんとなく思い描いていた構図がここでがらがらと音を立てて崩れ落ちた。あるいはうすうす感づいてはいたけれど、そうでなければいいと無意識に願っていたのかもしれない。こうなると事件性がうすまってホッとするどころか、却って忌々しかった。結果として謀られたようにもおもえてくるじゃないか?


スナークはアンジェリカの天敵であり、ある種のミステリーであり、1個の嘘であり、ほとんど観念みたいなものだった。影であり、蜃気楼であり、どちらかといえば悪いほうの夢だった。その名前はいつも現実をゆさぶる。でなければいつも非現実的な響きを伴って呼ばれる。初めからなかったのと同じ、と言ったコンキスタドーレス夫人のせりふは、そのままスナークの存在にも当てはまるのだ。その名があらわれたとたん、じぶんがフィクションであって登場人物のひとりにすぎないことを強引に自覚させられるのも腹立たしい。どうしてこのまま、わたしたちの世界をそっとしておいてくれないのか?こんなことなら缶詰の相手をしているほうが、いくらかましだった。


「気が利いてるよ」とわたしは舌打ちした。「骨折り損のお詫びが骨付きの生ハムなんだから」
「わたくしもまさか芝居とは考えもいたしませんでした」
「振り回されたこっちがいい面の皮だ。どうせならマスクメロンのひとつも足してくれりゃいいのに」
「しっかりなさい」と夫人は総立ちでブーイングを始めたわたしたちの脳細胞にふたたび鞭をくれた。「わたしがここに来た理由を思い出すべきね。わたしに言わせれば問題は初めからひとつしかありません」
「そうだ」とわたしは思い出して言った。「アンジェリカだ。そのとおりです」
「ハムもあります」とみふゆが付け加えた。
「そう、ハムもあるわね」
「このさき食卓にハムが出るたび思い出しそうで困るな」
「すぎたことはお忘れなさい。それがスナークの本分なのでしょう?アンジェリカに訊けば何もかもはっきりするとおもっていたけれど、その前にけりのつく話があるのなら、それにしくはないはずです」
「しかしノートもなくなってるんですよ」
「それはむしろアンジェリカ自身の問題です。わたしたちが気にする必要はありません。それよりもいま知るべきことは別にあります。イゴール?」
「はい、奥さま」とイゴールは答えた。「部屋には見当たりません」
「あ、鎌か!」
「たしかなの?」
「たしかです」
「なんてこと」と夫人は気落ちした様子でためいきをついた。
わたし自身としてはようやくひとつの安堵を得たところだったので、真逆とも言えそうなこの態度はちょっと意外だった。「どうされたんです?」
「どう、とは?」
「アンジェリカのことですよ」とわたしは言った。「すくなくとも安否だけはこれで確認されたも同然じゃありませんか?」
「アンジェリカの無事は初めからわかりきっています」と夫人はこともなげに応えた。「ただその根拠がはっきりしただけです。持ち帰る鎌がないなら、わたしとしては徒労というほかありません。まったく、あの子ときたら!」




9: 考慮すべきもうひとつのポイント



謎はもちろん、まだのこる。なぜアンジェリカは黙って屋敷を後にしたのか?大鎌を持って出ていった以上、彼女が無事であることにわたしも異論はない。鋼の心臓を胸にもつ世界でもっとも強い女性のひとりなのだから、その点は断言してもいいだろう。しかしそうなるとなおさら無断が気にかかる。「行ってくる」とひとこと告げていけばいいだけの話じゃないか?イゴールはアンジェリカの忠実な侍従であり、そのダイヤモンドみたいな忠誠心にはわたしも常々敬服している。わたしのムール貝博士に対するそれなど彼に比べたら石ころに等しい。どんな事態であれ共有しておくほうがむしろ万事に都合がいいはずだ。また仮に秘密裡にはこびたかったとしても、それこそ平常を装えばそれで済む。イゴールは違和感をもつかもしれないが、そのために却ってアンジェリカの意を汲もうとするにちがいない。告げて妨げになる理由がいったいどこにあるんだ?


わからなかった。説明している時間がなかった、ということくらいしか思いつかない。一刻を争う事態なんだろうか?できればその点についてもうすこしコンキスタドーレス夫人の見解を拝聴したかった。わたしはこの貴婦人にすっかり心酔していたし、実際これほど心丈夫な味方はあちこち訪ねたってそうは見つからないようにおもえた。炯眼は必要だ……とりわけ、話がとっちらかって収集がつかなくなりそうな場合には。しかし夫人はこの時点ですでに関心を失っていたらしい。


「わたしとしてはこれで詮議を打ち切りたいところね」
「でも、アンジェリカがイゴールに黙って出ていくなんて変ですよ」
「放っておきなさい。じきに帰ってくるでしょう」
「しかし……」
「あとはイゴールの仕事です。帰りますよ、みふゆ」
「みふゆはアイスノンとあそびたいのです」
「あらあら」と夫人は言った。「そうだったわね。ひとりで帰れる?」
「帰れます」
「いいわ、ではイゴール」
「はい、奥さま」
「みふゆをたのみますよ」
「かしこまりました」
「それからアンジェリカが帰ったら田村に鎌を返すよう伝えなさい」
「仰せのとおりにいたします」
「アイスノン?」とわたしはおそるおそる問いをはさんだ。
「お嬢さまの鶏です」
「ふーん」
「たいそう可愛がっていらっしゃいますよ」
「そうそう、それと」と夫人は部屋に背を向けてから振り返った。「電話もしておくことね」
「はい、奥さま」
「電話?110番ですか」
「まさか!」とコンキスタドーレス夫人はここではじめて青空のような笑顔をみせた。「肉屋ですよ」

じつはわたしたちにはもうひとつ、考慮すべき事実があった。それをここに書き加えておこう。言われるまで気づかなかったけれど、見目麗しきコンキスタドーレス夫人の指摘はさすがに如才がなかった。「もしアンジェリカの行方を追うというのなら」と去り際に夫人は言った。「考えてみる必要があるのは、なぜスナークがイゴールも知らないアンジェリカの留守を知っていたのか、という点です。わたしはもう興味がないけれど、すくなくとも先へすすむ糸口にはなるのではないかしら。幸運を祈ります。ごきげんよう、ピス田さん」




10: おいしい生ハムの話



コンキスタドーレス夫人は去った。入れ替わるようにして、肉屋がやってきた。イゴールは「冷凍室へ行ってまいります」と言って出て行った。みふゆもいっしょだ。屋敷ではアイスノンという名の鶏を飼っているらしく(わたしは知らなかった)、みふゆが遊びたがっていた。その寒そうな名前からするとたしかに冷凍室と関係がありそうな気もするけれど、よくわからない。そのあたりのことはあまり深く訊かなかった。それよりも、肉屋の押した呼び鈴がジューと焦げるような音だったことのほうにずっと気を取られていたのだ。いったいこの屋敷の呼び鈴はどういう仕組みになっているのか?

わたしは応接室で肉屋と向かい合っていた。目の前のテーブルにはアンジェリカの部屋から回収した生ハムがあった。差し当たって処理すべき懸案があるとすれば、これだからだ。その隣にはもちろん、片っ端からこじ開けた缶詰の中身が手つかずのまま残されている。せっかくだから肉屋にそれをすすめようとおもったが、おもったときには肉屋も「わかってます」とばかりに早くもひとりでパクパクやっていた。おかげで余計な気を遣わずに済んだし、話がはやくて困ることはない。わたしはこれまでの事情をかいつまんで説明した。

「つまりこの」と肉屋は口のなかをみかんとシロップでいっぱいにしてもぐもぐやりながら言った。「ハムが気に入らないってわけですね」
「だからちがうというのに!いったい何を聞いてたんだ」

肉屋は大きな男だった。堂々たる体躯の持ち主というか、大柄というにはちょっと規格外で、ほとんど熊に近かった。どう考えても屋敷の扉をくぐってこれたとはおもえない。ドアノブを回すにしても豆をつまむような格好になるだろう。一抱えもある骨付きの生ハムがフライドチキンくらいの大きさにみえた。バミューダパンツからにょきりと突き出した右のふくらはぎにはりっぱな入れ墨があって、わたしの目を釘付けにした。

「しかしこりゃ本当に上等のハムなんですよ!お気に召さないってのは正直合点がいきませんね。世間じゃじぶんの太ももを質に入れてでも食いたいってもっぱらの評判なんですから。考え直すほうが賢明ってもんです、そりゃもう絶対に」
「わかってる。わかってるよ。ハムはりっぱだ。上等なのもみればわかる。でもそういう話じゃないんだよ」
「何しろ27ヶ月って長期熟成ですからね。これ以下じゃダメ、これ以上でもダメって期間の見極めが肝心なんです。その美味さときたら、神様からの贈りものと言っても叱られたりはしますまいよ」
「うん、そうだろうとも」
「わかりますかね」
「わかるよ、もちろん。でもそうじゃなくて…‥」
「うわッ」肉屋は相変わらずみかんや黄桃や洋梨をもぐもぐやりながら、ふと眉間にしわを寄せた。「何ですかねこりゃ。甘くないし、ずいぶん歯ごたえがある」
「ああ、それは」
「味も変だ」
「たけのこの水煮だから心配ないよ」
「やあ、たけのこですか。どうも流行りすたりには弱いもんで。なるほど、言われてみればたしかにちょっとした味わいと言えないこともないですな」
「流行ってないよ。まちがえたんだ」
「誰しもまちがいってもんはあります」と肉屋は後を継いで言った(が、つながってはいなかった)。「味をみなけりゃわかりません。何だってそうです。そうじゃありませんか?ほんのちょっぴりでも味わいさえすれば、恋したみたいに虜になること請け合いなんです。いえ、ハムの話ですよ!女に見立てても一向に問題ないという気はしますがね。どうかそんな悲しいことを仰らないでください。いえ、仰っちゃいけません、断固としてね!」




11: おいしい生ハムの話 その2



「いったいどうすりゃわかってもらえるんだ?」とわたしは苛立った。「何ならまたあらためて注文したっていい。ただ今回は事情が事情だし、いったん引き取ってもらいたいだけなんだ」
「そこが謎ですよ!」と肉屋は言った。口のなかからみかんがひとつぶ、弾丸のように飛んできた。「引き取るってのはつまり、いらんってことでしょうが?そこが解せません。こういっちゃ何ですがね、注文は毎日ひっきりなしにくるんです。北は北極から、南は南極まで、それこそ地球中のありとあらゆるお客さまから熱烈なラブコールを頂戴してるってのに、うちの店ときたら数えるほどの人手しかありゃしないんですからね!追っつく道理がありませんや。予約は2年先までぴっちり埋まって、カミソリをはさむ隙間もない有様です。そこをどうしてもと仰るからあちこちに義理を欠いてまでご用意したのに、ねえ、そりゃ無慈悲ってもんじゃないですか?」
「何だかもう買い取ったほうが早いって気もしてきたな。…あれ、待てよ」
「こんなこともあろうかとね、ナイフを持ち歩いてるんです。何はさておき、この味を知るべきですよ。神さまが天国を舌の上にもおつくりになったってことを知るべきです。いやまったく、ふりつもる雪みたいにきらきらした岩塩の結晶が、眠れる肉にいったいどんな夢をみせるか、ご存知ではないでしょうね?」
「うん、いや、さっきの…えーと、あれ、何だっけな」
「何です?」
「詩的な言い回しに気を取られて訊きたかったことを忘れた」
「うちのバカ息子みたいなことを仰る!」と肉屋は笑った。弾丸みたいなみかんがまたひとつぶ飛んできた。「煮たり焼いたりできるとすりゃ、そう、詩もわるくはないでしょうな」
「息子?」
「うちには肉屋のくせに野菜しか食わない昆虫みたいな息子がいましてね」
「詩人なのかい」
「詩だか何だか知りませんが、こちょこちょしたものばかり書いてろくに働きもしないごくつぶしです。商売もあるし親でもあるしでこっちとしちゃ世間に面目が立ちません。いっそこいつも塩漬けにしてやりたいと常々おもってるくらいのもんで…おもいだした、ハムの話ですよ」
「わたしには親父のほうがよっぽど詩人らしく見えるよ。それより…」
「あっしが?」と肉屋は目を丸くした。「ご冗談を!自慢じゃないですがあっしは本を枕以外に使ったことなんてないくらいの男ですよ。読むのも書くのも肩がこってしかたありません。本を選ぶときは高さと固さで…そうそう、枕にするならこれ以上ぴったりのものはないってのが1冊あるんです、たしか象がなんたらって題名の」
「その本なら知ってるっぽいな…。でもいいんだ、その話は今度にしよう」
「そうです、ハムです。問題はね」
「いや、ハムじゃなくてさっきの…」
「ハム以外の話なんかしましたかね」
「してないけど、途中でちょっと気になることを言ってたような…」
「ハムでしょ?」
「ハムじゃない」
「こりゃハムですよ!誰がどう見たってそうです」
「ハムの話じゃないんだ」
「ハムの話しかしとらんでしょうが」
「そうだけど、ちがうんだよ」
「いいえ、ハムですよ」
「わかってる。これはハムだ」
「そうでしょう。だろうとおもってましたよ、あっしもね!」
「そうじゃなくてさっきの…」
「やれやれ」と肉屋は苦笑いをしながら肩をすくめた。「強情な御方だ!そういえばまだお名前を頂戴してませんでしたな。してましたか?」
「ピス田です」
「ピス田さん、これはハムですよ」
「わかってる!」
「まあまあ!そういきりなすってはいけません。尻尾をくわえたヘビみたいなこの堂々めぐりから抜け出したいとすればですよ、まずこのハムを味わうのがいちばん手っ取り早いと、こうあっしはおもいますね」
「わかった」とわたしは根負けして応えた。「わかったよ。いただこう」
「それが一番です。いや、何より!何より!あっしも初めからこうしてればねえ。どうも昔から気が利かんたちで」
「いや、わたしがわるかったんだ」とわたしは心から言った。張り合うだけムダだともっと早くに気づくべきだった。
「お互いさまとね!何ごとによらず、人生と人生の交点とはそういうもんです。昔うちの爺さんも…」
「その話はまたあとで聞くよ」
「そうでしたな!しかし空腹は最上のスパイスと言うじゃありませんか。腹が減るほど褒美が増えるってわけです、つまりね」
「ご機嫌のところ済まないけど、早いところたのむよブッチ」
「おや、あっしの名前をご存知で」
「胸に名札があるじゃないか」
「そうでした!いや、おかしいとお思いでしょうね。店主がわざわざ名札だなんて?」
「おもわないよ。だから…」
「こうみえてケンカっぱやいもんで、お恥ずかしい話ですが場合によっちゃこう、店先で客と取っ組み合いになることもままあるんです。名乗れと言われることがあんまりしょっちゅうなもんだから、そんなら初めから名乗っとこうとまあこういうわけです。そしたら女房が『まずケンカを減らせ』と」
「ハムをたのむよ」
「よござんす。いいですか、切り取るといっても無骨なやりかたじゃ全部が全部、台無しです。貼り付けていたものをはがすような按配、とでも言ったほうがいいかもしれませんな。言うなれば天女からシースルーの薄い羽衣をやさしく脱がすようにですよ、こんなふうにそうっと…」




12: ミケランジェロの手をもつ肉屋



おわかりいただけるとはおもうが、わたしはこのとき、この瞬間まで、まったくと言っていいほど肉屋に良い印象をもっていなかった。殺意すら抱いていたと言ってもいい。こんなことでもなければむしろ一聴の価値あるみごとな口上を斟酌してもなお、厄介なことこの上ない。よくしゃべる上に人の話を聞かないのだから、噴火する火山を相手にするようなものだ。バケツいっぱいに水を汲んだところでどうなるだろう?それでなくともわたしはじぶんの狂言回し的な役割にいささかうんざりしていた。屋敷の住人でもないのにうっかり応対を買って出たのがまずかったし、はっきり言ってしまえばもう帰りたかった。

しかしそうした苦々しいきもちは、肉屋が大きすぎる手でナイフをつまみ、その刃を生ハムの肌に当てた瞬間に吹き飛んだ。なぜもっと早く相手の言うとおりにしておかなかったのかとじぶんでも首をかしげるくらい、本当にあとかたもなく消え去ったのだ。それまでの視点はくるりと180度回転し、気づけばわたしの胸は賞賛と感動のスタンディングオベーションで満たされていた。

それはまったく、魔法のような時間だった。大人げないとわかってはいるけれど、いまこうして思い出してみても他に的確な表現が見当たらない。「天女の羽衣を脱がすように」と言った肉屋の言葉はまちがっていないどころか、大袈裟でもなんでもなかった。詩的というより事実そのとおりだったし、詩というなら肉塊から1枚のハムを切り出すその過程こそそう呼びたい。すくなくともわたしはそこに天女の羽衣をみた。そして美しくもかろやかなその所作といったら、アラビアンナイトに出てくる魔神でさえこうもうまくはやれないだろうとおもわれた。一塊のモモ肉と一本のナイフの間でいったいどんな密約が交わされたのか、職人技と紋切り型で言い表すにはあまりにも神秘的だった。

「大理石の中に天使をみたわたしは、彼を救い出すために彫りつづけた。I saw the angel in the marble and carved until I set him free.」というミケランジェロの言葉を、わたしはおもいだした。漱石の「夢十夜」にも、たしか仁王を彫る稀代の仏師運慶について同じようなことが語られていた気がする。ミケランジェロは大理石から天使を救い出した。運慶は木のなかに埋まった仁王を探り当てた。おなじようにして肉屋が天女の肩にかかった繊細な羽衣をその太い指でするするとやさしく脱がしたのだとすれば、これが魔法でなくて何だろう?

「も……」とわたしは口ごもった。「もう1回見せてくれないか」
「たいらげる前からおかわりですか!」とブッチはびっくりしたように言った。「そりゃちょっと気が早いってもんですよ」
「もう1回、いやちょっと待ってくれ。皿を借りてくる」
「いいですとも。お気に召したとすれば、あっしとしてもこれ以上の幸せはありません。しかしまあ、まずは味わってみることですな。話はそれからです。ハムが逃げるのを心配してなさるなら、ほれこのとおり、あっしが両の手でしっかり押さえておきますよ!」

わたしはじぶんのこじ開けた空き缶が大量に転がるキッチンから皿を1枚借りて戻ってきた。そうして奇跡をふたたび目撃しようとブッチを促したまさにそのとき、最悪のタイミングでわたしの携帯電話がゴリゴリと鳴った。「だれだ!」とわたしは思わず叫んだが、この耳障りな着信音はひとりしかいない。相手はムール貝博士だった。




13: ムール貝博士からの電話



わたしは借りてきた皿に切り出したハムをのせるよう身ぶりでブッチに伝えながら、しぶしぶ電話にでた。「もしもし」
「ピス田か?」
「わたしじゃないなら誰にかけたんです?」
「なんだ、ご機嫌ななめだな。アンジェリカはどうした」
「アンジェリカに直接かければいいでしょう!」とわたしはじぶんで言ってハッとした。そういえば事件のいちいちクレイジーな展開に気を取られすぎて、そのことをうっかり忘れていた。そうだ、ケータイがあったじゃないか?
「つながらんからおまえに電話しとるんだ」
つながらないなら、あろうとなかろうと結局同じことだ。わたしはがっかりした。
「今それどころじゃないんですよ」
「アンジェリカはいるのか?」
「いません。むしろこっちが訊きたいくらいです。切りますよ」
「待て。おまえスワロフスキは知ってるな?」
「甘鯛のポワレ教授の一粒種でしょう。かけ直しますから」
「そのポワレが大騒ぎしとるんだ。スワロ…」

どうも重要なことを言いかけていたような気がしないでもなかったが、わたしは気にせず通話を終えた。電源も切った。いまこの瞬間に優先順位をつけるとしたら1がハム、2がアンジェリカ、そして最後が博士だ。舞台への思わぬ闖入者は排除されて然るべきだし、どうしたってこうなるのはやむをえない。ひとまず忘れて、いそいそと話をハムに戻そう。

差し出された1枚のジューシーな羽衣は、花びらにも似て淡い桜色をしていた。吐息でやぶれてしまいそうなくらいに薄く、みずから羽ばたきそうなくらいに軽く、また今にも消え失せてしまいそうなくらい儚く、可憐な気品さえただよわせていた。そうなるまでの過程を間近に見ておきながら、いざふりかえろうとすると記憶に靄がかかってちっとも思い出せない。わたしがこれまでに食べてきたハムは加工された肉でしかなかったが、いま目にしているものはまるで初めからそのかたちで存在していたかのように、そこにあった。おまけに神の手を持つ当の本人が、肝心の手そのものにはあまり頓着していないのだから何をか言わんやだ。「息子が詩人なのだとしたら」とこのときわたしは言うべきだった。「そりゃあんたが親父だからだろう!」

「あんまりおだやかじゃありませんが」とブッチが様子を伺いながら口をひらいた。「よろしいんで?」
「問題ないよ」
「しかしなんだか、気になるじゃありませんか。あっしならお気遣いは無用ですよ」
「このくらいなら毎度のことさ」
「いやはや!恐れ入るとはこのことですな。しかしかさねて申し上げますが、まずはこの1枚を召し上がることが肝心です。眼福だけで腹がふくれるなんて、武士の高楊枝を気取ってみてもしかたありません。旦那が良くても舌が黙っちゃいますまい。味わい良しとなったら、あとはそれこそお好きなだけって段取りでいかがです?」

こうなれば固辞する理由もない。その道のプロが言うのだから案内におとなしく身をゆだねるのが本当だとおもった。さっきの魔法のような時間にくらべれば、と多寡を括っていたせいもある。わたしはブッチのごつごつとして熊みたいな太い指からしなやかな1枚の生ハムを恭しくつまんで、ひと息にポイと口にほうりこんだ。

すると突然、全身が波打つように総毛立ち、さわやかな一陣の風が体中の細胞ひとつひとつを縫うようにしてすり抜けた。と同時にかつて見たこともないバラ色の風景が峻烈な光をまとい、目の前から地平線へとまたたく間に広がっていった。まるで世界の壁紙が一瞬で貼り替えられたみたいだった。心やさしき本能が「戻れ!」と叫んだような気もするが、もうおそい。席に着いたとたんに音速の壁を突破したようなものだ。何が起きたのかもさっぱりわからない。わたしはとびきりのハムを味わった。そして気を失った。




14: アイスノンという名の鶏について



ひとつはっきり言えるのは、舌の上には本当に天国があった、ということだ。果てしなく広がる初夏の草原がそこにあった。その中心で見目麗しき天女がひとり、ひとときも同じ色にとどまらないオーロラみたいな衣をまとって、ゆっくりとひらめかせながら流れるように舞っていた。くるりと回れば花の香りが渦をまいてほうぼうに散り、また四方からはおだやかに温む風が控えめに吹いてくる。青々として目にも鮮やかな草がその向きに合わせてゆれた。まばたきもできない美しさだった。風にのって岩塩がきらきらとまたたくのも見えた。粘膜をやさしくなぐさめるような弾力となめらかな舌ざわり、その噛み心地とそこから湧き出す旨味の泉は、蠱惑的であり、麻薬的でもあり、まさしく極上としか言いようがなかった。この時点でわたしも、生まれ変わったら豚になりたいとねがうきもちが心から理解できるようになっていた。

旦那、と肉屋に叩き起こされて、わたしは意識を取りもどした。「危ない。危ない。初めての方にはよく言い聞かせるんですがね、ほっとくとあのまま逝っちまうところでしたよ」
気づけば冷凍室から戻ったみふゆに、わたしは介抱されていた。もちろんイゴールの姿もそばにあった。みふゆはアイスノン(という名の鶏)を小脇に抱えていた。
「目が回る」とわたしはうめいた。「イゴール、このハムはわたしが丸ごと買うよ。いやもう、じつにすごいハムなんだ」
「何があったのかわたくしにはさっぱりですが」とイゴールは不思議そうな顔をして答えた。「万事まるく収まるのでしたら、それもよかろうかと存じます」
「よかったらそっちの旦那と、嬢ちゃんもどうですね?」と肉屋は満足そうにふたたび勧めて言った。「ほんのすこし、切り分けてさしあげますよ」

ここから先はくり返すこともないだろう。興味のなさそうなイゴールも、怪訝そうな顔をしていたみふゆも、ブッチの差し出す1枚のハムを口にしたとたん、同じようにパタンと気を失った。とうぜん、尋常ならざるよろこびを体験したあとはみなほんのりと上気して、応接室も胸焼けするくらいの多幸感に満ち満ちていた。むべなるかなというものだ!わたしとしてもその先話をすすめることがひどく億劫になってきた。アンジェリカの無事なら初めからわかりきっているとコンキスタドーレス夫人も請け負ったのだし、スナークについてはのこされた些細な疑問よりむしろお礼を言いたいきもちでいっぱいだった。だとすれば夫人の言ったとおり、これ以上何を詮議すればよいのだろう?

今やわたしも、こうなればのどかな午後のひとときを心地良くすごすほかあるまい、というきわめて前向きな考えに傾きつつあった。

「そういえば」わたしはイゴールに持ってこさせたワインの栓をきりきりと抜きながら思い出したように言った。「鶏はわかるけど、何だって冷凍室に行ったんだ?」
「アイスノンはいつもそこで寝てるのです」とみふゆが口をもぐもぐさせながらイゴールの代わりに答えた。ハムは少女のいたいけな心をも虜にしたらしい。
イゴールが補足した。「他にてきとうな部屋がありませんで」
「温かいとはお世辞にも言えそうにありませんな」とブッチも口をもぐもぐさせながら言った。「というのはつまり、暖房がないとね!」
「なんでブッチまでいっしょに食べてるんだ?」
「固いことは言いっこなしです」
「ちょっと待てよ、冷凍室が部屋って、にわとりが?」
「通常の部屋では気温を一定に保つことがむずかしいのです」
「それ以前の問題だよ!」とわたしはギョッとして言った。「そりゃ鶏肉の扱いじゃないか」
「そうですね、何と申し上げたらよいか……」
「さわってください。そしたらわかります」とみふゆは言った。
わたしは手のひらでアイスノンにふれてみた。「うわッ、ひんやりしてる」
「おや!」と上ずった声をあげたのは意外にもブッチだった。「そいつは聞き捨てなりません。なんとおっしゃいましたね、今?」
「ひんやりしてるんだ。ちっとも体温を感じない。どうなってるんだ一体?」
「どういったことなのかかわたくしもくわしくは存じ上げませんが」とイゴールは答えた。「アイスノンは冷たい鶏なのです」




14.5: 反復横跳び並みの派手な脱線、あるいはムカデみたいに多すぎる蛇足に関する補足



何かについて語るときに、どこまで語るか、というのはなかなかむずかしい問題だ。たとえば出がけに靴下の片方が見当たらなくて10分ロスしたとか、出そうで出ないくしゃみを相手にじっとしていたら2分ロスしたとか、床に貼り付いたひとすじの髪がなかなか拾えなくて5分ロスしたとか、どこまで話をすれば丁寧で、どこからが蛇足になるのかはケースバイケースでいつも悩ましい。一見どうでも良さそうに見える計17分のロスによって仮に猫1匹が命を救われたとしたら、なぜその日にかぎってくしゃみを相手に2分もじっとしていたのか、やはり説明しないわけにはいくまいという気がする。

もちろんカエサルばりに要約すれば「いない。捜した。みつけた。終わり」の4語で済む。場合によっては名言として歴史にのこる可能性もなくはないかもしれないが、しかしカエサルのそれと同じくこれでは背景がちっともわからない。誰が、何を、誰に、そしてなぜ、という4つの補足がないかぎり、そこにあるのはせいぜいきもちのよいリズムだけだ。「何だと。それのどこがいけないんだ」と息巻く向きには、とりあえず一杯きこしめしてからもう一度よく考えてみることをおすすめしたい。そのころにはどこがいけなくて、どこがいけなくないのか、そもそもどことはどこなのか、その前にまず考える必要があるのか、必要なのはもう1杯のおかわりではないのか、うむきっとそうだ、ヤッホー!という気になっているだろう。

明らかに本筋とは関係がなさそうにおもわれる極上のハムとそのおいしさについて、わたしは多くを語りすぎたんだろうか?

しかしもしハムのことがなかったら、わたしはムール貝博士との通話を拒否するなどという暴挙には出なかっただろう。すくなくともその結果は火を見るより明らかなのだから、もうすこしうまくやりすごすことができたはずだ。そしてもしわたしが電話を一方的に切らなかったら博士が火のついた癇癪玉をこの屋敷に向けて撃ちこむこともおそらくなかっただろうし、したがってアンジェリカ邸の対空ミサイルがこれをみごとに迎撃するような事態にも、当然ならなかったとおもわれる。わたしだってできることなら今すぐにでも「THE END」と書いて長い旅に出てしまいたい。何もかもがひどく遠回りに見えるのはただ、順を追って説明するのに省略できる部分がどこにもないというだけのことなのだ。

反復横跳び並みの派手な脱線とムカデみたいに多すぎる蛇足についてはこれでおわかりいただけたとおもう。うっかり書いたがまだ話していなかったことについては、これから話そう。


応接室では、肉屋が下着姿で滝のように流した冷や汗をせっせと拭いていた。なぜパンツ一丁なのかといえば、みふゆの脇差しが目にも留まらぬ早業でブッチの服をばらばらに斬ってしまったからであり、なぜみふゆが攻撃したかといえば、ブッチが我を忘れてアイスノンに飛びかかったからだった。
「いや、わっしとしたことがつい取り乱しました」
「テレビなら放送事故になってるところだ」
「何しろわっしも本物ははじめてお目にかかったもんですから、どうか勘弁してください」
「肉屋が目の色を変える鳥なんだということはよくわかったよ」
「そりゃ、見かけるだけで肉屋冥利に尽きるって鳥ですからね」とブッチはためいきをついた。「それが手の届く距離にいるんです。気もそぞろになるってもんですよ」
「いくら珍しいからってそれで死んだら元も子もなさそうだけど」
「珍しいどころか!この天竺鶏って世にも稀なる鳥はですよ、ちょっとありそうにない偶然が冗談みたいにいくつも重なったときにだけウッカリ生まれて、不幸な身の上に絶望したあげく早死にしちまうってかわいそうな突然変異なんです。たとえ話をしましょうか?」
「いや、遠慮しておくよ」
「たとえば競馬です。ゲートに並んだ馬のうち、1頭がかなしくなるくらい足ののろい馬だったとしますね。配当で言ったら地球がそこにすっぽり入るくらいの大穴です。何があろうと勝つ見込みはまずありません。勝つ日が来るとすれば、それはレースに1頭しか出馬していないときだけです。どんな馬でももう1頭いたらそれだけで2着は確実って馬ですよ。そんなあわれな馬がです、ライバルの落馬とか落鉄とか病気とか八百長とか寝坊とか、その他もろもろの信じがたいアクシデントの大バーゲンで全頭脱落、気がつけばまわりにじぶんしかいなくてそのまま奇跡的に1着となったらそれが旦那、どれだけの暴動を巻き起こすことになるか、たいてい想像もつきましょうが?」
「何を言ってるんだかさっぱりわからない」
「遺伝子の話ですよ!劣性遺伝子の話です。DNAらせんの奥の奥にある頑丈な独房に幽閉してあって、本当なら永劫釈放なんかされないはずの劣性遺伝子が、何かの手ちがいから塀の外にヒョイと出ちまったときだけ、伏し目がちにオギャアとまろびでる、それがこの天竺鶏なんです」
「なるほど」とわたしは欠伸をかみ殺しながらこたえた。「なるほど」
「しかしそれだけなら、動物園の飼育員が世界中からおいしいエサと網をもって弾丸のように飛び出していくだけの話です。なのに養鶏業者や肉屋がいっしょになって飛び出すってことはですよ、つまりその肉が…」
「待った、わかった、そういうわけか」
「生まれながらのコールドチキンてわけです……おっと!」とブッチは首をひっこめながら降参するように両手を上げた。みふゆがふたたび脇差しの切っ先を向けたのだった。「そんな物騒なものはおしまいなさい、お嬢ちゃん。わっしだって無慈悲じゃあありません。このヒンヤリした鳥さんがどれだけこのお屋敷で大事にされているかってのは、パンツ一丁になってよくよく理解したつもりです。この期に及んで売ってくれとは口が裂けても言えますまいよ。第一、これから長いお付き合いになるかもしれないってのにそんなドジをやってどうなります。それにね、切り刻まれてミンチになるならそれだって肉屋の本懐なんですから、刃物なんてどのみちムダです。とすればそいつをおしまいなさるがよろしいと、やはりわっしはおもいますよ。心配なんてこれっぽっちもいりません」




15: アンジェリカ邸の対空ミサイル



「うそはつきませんか」とみふゆは半裸の肉屋を見据えてぴしりと言った。
「あのね、お嬢ちゃん」ブッチは心外だと言わんばかりに身を乗り出した。切っ先がぷすりと肉にめりこんだ。「みくびってもらっちゃ困ります。わっしはね、でくのぼうに見えるし実際そうかもしれませんが、嘘だけは生まれてこのかたついたことがないんですよ!嘘と礼儀は仲良しだってのがウチの婆さんの持論でね、礼儀を知って嘘をおぼえるくらいなら無礼でいいから正直であれとさんざっぱら叩きこまれたんです。信じる信じないはおまかせしますがね、そりゃもう絶対なんですよ、婆さんの忌々しい面と世界中の肉に誓ってね!」
「ひっこめて平気だとおもうよ」とわたしはみふゆを諭した。「ブッチが正直なのはわたしも保証できるとおもう。どれだけ大袈裟にみえてもやっぱり本当なんだってのは身をもって体験したからね」
「その代わりと言っちゃあなんですが……」
わたしは前言を撤回した。「斬ってよし」
「痛い。早合点をしちゃいけません。急いてはことをウドンの汁と言うでしょうが?わっしが言うのは、卵のほうです」
「卵?」とわたしは言った。「卵もうむのか!」
「こいつは雌鳥ですからね」
「言われてみれば雌鳥だ。イゴール、卵は?」
「毎日ではありませんが、生む日もたしかにございますね」
「冷たい卵を?」
「もちろんです」
「とするとそれは……」
「お嬢さまの朝食にお出ししております」
「どうしたって無精卵なんですから、そりゃ食うよりほかにしようがありませんや」とブッチは言った。「そこにわっしのお邪魔する余地があるわけですな」
「なるほどね」とわたしは感心した。「たしかにそれは交渉次第だろうな」
「卵は卵でまた稀なる美味だそうで、いや残念ながらわっしはこれもまだそのご縁に恵まれてませんが、親鳥が美食家の天竺ってな具合ですから、そりゃもう推して知るべしというか、そういうもっぱらの噂です」
「どうなのイゴール?」
「わたくしも口にしたことはございませんが」とイゴールは答えた。「お嬢さまの好物であることはわたくしが保証いたします」
「そんな宝石みたいな卵をアンジェリカが知らずに食ってるのかとおもうと気が遠くなるな」
「そこでです、どうですね旦那、わっしの店にたとえば週に一度、ふたつばかり卸してもらうってわけにはいきませんか」
「言ってなかったかもしれないけど、わたしはこの屋敷の主人じゃないんだよ」
「おやそうですか!わっしはてっきり……とするとこちらの旦那が?」
「いや、彼は執事だ。主人は別にいる」
「ご主人はどちらに?」
「さあ」とわたしは言った。「それが問題なんだ」
「留守ってことですか」
「ちょっと待ってくれ、そのへんの話はもうさんざんしたはずだぞ」
「わっしは初耳ですよ」
「うん、聞いてないだろうとはおもってた。でもしたんだよ。アンジェリカはここにいない。ブッチがここに呼ばれたのも、元を正せばそこに端を発してるんだ」
「なんだかよくわかりませんが」とブッチは眉間にしわを寄せながら言った。「ではいつお帰りになられるんで?」
「さあ」とわたしは言った。「帰るとしたら用が済んだときだろうね」
「ちっとも要領を得ませんな!」
「そのとおり。要領を得ないんだ」
「埒も明かない」
「埒も明かないね」
「ようやくお鉢が回ってきたとおもったらこれだ!」とブッチは途方に暮れたような顔をして言った。「千載一遇の機会とキスする権利が目と鼻の先にあるってのに、そりゃあんまりですよ。どうすりゃいいんです、一体?」


ドゴンと何か大きなものの衝突したような音があたりに轟いたのは、ちょうどこのときだった。衝撃で屋敷中の窓がびりびりと震えた。何ごとかと顔を見合わせるわたしたちをよそに、イゴールだけがひとり涼しい顔をしていた。
「まさかとはおもうけど」とわたしは言った。「例の呼び鈴じゃないだろうね」
「迎撃システムが作動したようです」
「迎撃?迎撃って何だ」
「屋敷が攻撃されたということです」
「攻撃っていったい誰が……あ、そうかしまった」とわたしはじぶんのたいへんなあやまちに今さら気がついて身震いした。「博士を怒らせたらしい」
「問題ありません」とイゴールはあいかわらず涼しい顔のまま言った。「屋敷の対空ミサイルは世界最高水準の性能を誇ります」
「この家に当たったわけではないってこと?」
「屋敷は疑いなく無傷です」
「それを言うなら博士の手になる爆発物だって宇宙最高水準の破壊力を誇るんだぜ」とわたしは苦々しいきもちで反論した。「助手のわたしが言うんだからまちがいない」


ところで、わたしにも言及したくないことはある。都合がわるいというよりは、気が滅入るという理由でだ。しかし一方で「親切なのね、ピス田さん。好き」とご婦人方に褒めそやされたい野心では、人後に落ちない自負もある。したがってあまり気の進まないことではあるし、この段階で説明を要するかどうか甚だ疑わしいともおもうのだけれど、わたしの唯一にしてひどく残念なボスであるムール貝博士とは誰なのか、というよりもむしろ何なのか、ここであらためてしぶしぶ紹介しておこう。




16: ムール貝博士とは何か



・ムール貝博士はその昔、ホームメイドの爆弾を使って地球の1/3を派手に吹き飛ばしたことのある史上最悪の犯罪者であり、またこの大規模な破壊行為から推察されるように、何かを爆破して(クッキーみたいに)粉々にすることにかけては右に出る者のない権威中の権威でもあり、ついでにいうと水虫持ちでもあるのだが、誰よりもいけすかない人物であることをのぞけば、おおむね気さくな科学者である。

・なぜそんな危険人物が野放しになっているのかという疑問については、ゴルゴ13が暗殺依頼を断ったらしいという噂ひとつで事足りるだろう。真相がどうあれ噂が世界各国の要人に伝わった時点で博士は事実上の "Untouchable" になった。したがって、細心の注意を要する外交上デリケートな案件に関してはゴルゴ13を、細かいことはいいからパーッとやろうぜ的な案件にはムール貝博士を、というのが今では世界の不文律になっている。

・ムール貝博士は「愛」という概念を火薬にしか使わない。道ばたの花を愛でることもあるにはあるが、それは季節の変わり目に風邪を引いたときだけである。

・生物学的にひどく老いてはいるが、ある時点で細胞という細胞が一致団結してリストラを拒否したため、一時的に老化が差し止められている。争いの舞台はほどなくして法廷へと移されたものの、雇用者と被雇用者が同一人物ということもあり、裁判は遅々として進んでいない。結果としてたいへんな長生きである。

・また、善意と悪意をすだちとかぼすくらいのちがいにしかおもわない、徹底した平等主義者である。

・ちなみに感謝と憎悪も夏みかんと伊予柑くらいのちがいにしかおもっていないが、これは博士の破壊行為に対する一般的な反応として、どちらも仲良く同じように贈られてくるからである。

・ムール貝博士は孤独である。ただし本人がその意味を理解したことはかつて一度もないし、この先も金輪際ないだろう。ピス田がいるじゃないかとおもわれるかもしれないが、「いるから何だ」というのが助手たるわたしの見解である。

・博士の爆発に対する執着は信仰にとてもよく似ている。「宇宙だってきもち大きめの爆発から始まったじゃないか」というのは博士の有名なせりふのひとつである。

・ムール貝博士はただそう呼ばれているというだけのことであって、べつにムール貝の専門家ではない。「ムール貝」で検索して辿り着く人があまりに多いのでそろそろはっきりさせておかなくてはいけないとおもうが、ヨーロッパに生息する食用の二枚貝について書かれたページはここに1枚もない。ムール貝の語源を知って次の合コンに役立てたいのなら、図書館か水族館に行くべきである。

・助手をつとめるわたしもこのブログで初めて知ったが、ムール貝博士の視力は10.0である。




17: ホワイトデー・モード



ムール貝博士についての記述を読み、わかったような、わからないような、煮え切らない気持ちに見舞われたとしても心配する必要はない。それは不可知に対する正常な心理的炎症反応であって、健全な証拠だ。とっとと話を戻そう。




相手がムール貝博士であるにもかかわらず、イゴールは攻撃について問題ないと断言した。しかしわたしの知るかぎり、博士がその手で粉々に破壊できないものなどこの世には存在しない。イゴールがそのことを知らないはずはないし、かといって博士に真っ向から対抗できる人物が別に存在するともおもえない。もしいるなら、今ごろ地球は顆粒状になって跡形もなく宇宙に溶けているはずだ。とすればこの矛盾を解消する答えは自ずとひとつに絞られることになる。
「そうか、屋敷の迎撃システムを構築したのも……」
「ムール貝博士です」
「ときどきアンジェリカの器のでかさを思い知らされるよ」とわたしはため息をついた。「どんな弱みをにぎれば博士にそんなことを頼めるんだ?」
「よほど古いお付き合いでいらっしゃいますから」
「まあいいや、そういうことなら放っておこう。このままでも屋敷の上空で派手な花火が鳴ってるってだけだし、博士もそのうち飽きるだろう」
「電話して止めてもらえば良いのでは?」
「ふつうに考えればそうなんだろうけどね」とわたしは肩をすくめた。「こうなったらしばらくはおさまりもつくまいよ。火に油をそそぐだけだ。用事もありそうだからどのみち電話はするにしても、もうすこしほとぼりがさめてからじゃないとわたしの身が危うい」
「そうなりますと、しかし」とイゴールはあごに手をやって思案の表情をみせた。「ひとつ問題がございます」
「問題?」
「ではここでCMです」
「シ……え?CM?手記にCM入るの?」
「つづきはCMのあとです」




TBSラジオ

川村亜未 午前1時のシンデレラ
http://www.tbs.co.jp/radio/am1/

毎月第2日曜 25:00~25:30


昨年、TBSラジオ開局60周年を記念して行われた「ラジオパーソナリティ公募プロジェクト」で並み居る芸人やプロの喋り手、ラジオ経験者を押しのけグランプリを獲得した完全な素人、川村亜未がお送りする30分の問わず語り。シンデレラストーリーのはずなのに何だかいまいち冴えなくて、王子様と会えたのかどうかすら定かではないまま、馬車だったはずのカボチャを抱えながらタクシーで帰ります。果たして深夜料金は払えるのか?

<番組の魅力>

1. はさみで風景をチョキチョキ切り抜くような話しぶりが可愛い
2. しとやかな雰囲気とくだらない話の落差がナイアガラのように激しい
3. 舌足らずなようでなにげに滑舌がくっきりしている
4. ダメな人ほどシンパシー率が高い
5. 靴ずれが治る
6. HPが小林大吾デザイン(重要)(少なくともここでは)





次回の放送は明日、5月13日(日)の25:00です!ゆめゆめお聞き逃し召されるな!

ポッドキャスト配信の予定は今のところないそうなので、せめて録音を…!




「そうなりますと、しかし」とイゴールはあごに手をやって思案の表情をみせた。「ひとつ問題がございます」
「なんで2回言うんだ?」
「CM明けとはそういうものだと聞いております」
「そういやそうだ。それで、問題というのは?」
「迎撃システムには改良が加えられているのです」
「改良ってまさか、アンジェリカが?」
「こちらに向けられたものをバッティングセンターよろしくひとつひとつ撃ち落とす分にはよいのですが、交戦があまり長引くようですといけません」
「というと?」
「あきらめのわるさに迎撃システムが業を煮やして、ホワイトデー・モードに切り替わります」
「いやな予感しかしないモードだな。それはつまり……」
「迎撃だけでなく、ひとつの攻撃を3倍にして返すモードです」
「火に油をそそいで弾薬庫に放りこむようなものじゃないか!」
「お嬢さまとしてはちょっとしたいたずら心のおつもりだったかと……」
「言われてみればさもありなんて気もするけど、しかしそりゃマズい。当人たちにとっちゃ諍いどころか手紙のやりとりみたいなもんだろうから、なおさらだ。ちなみにそのモードを発動前に解除するとしたら……」
「暗証用のコードが必要になります」
「そりゃそうだ。そしてそれを知っているのは」
「お嬢さまおひとりです」
「頃合いだという気がするな」わたしはまたひとつため息をついた。「結局こうなるんだ。アンジェリカを捜しに行こう」
「ねえさまのところへいくのですか」
「どこにいるのかわからないけどね」
「みふゆも行きます」
「そうしてもらえると助かるよ。用心棒になるし」
「しかし、どちらへ?」とイゴールは言った。
「とりあえず屋敷を出てから考えよう。ホワイトデー・モードの発動までどれくらいの猶予がある?」
「それは迎撃システムの気分次第です」
「ぜんぜん間に合う気がしないな」
「その部分だけはお嬢さまの設計ですから」
「博士が設計したってそうなるよ、たぶん」
「アイスノンもいっしょですか」
わたしはみふゆの心配をイゴールにパスして確かめるように言った。「いっしょのほうがいいとおもうな。屋敷がこのまま無事って保証もないんだ。ただ体質が体質だし、外に出ても平気なのかどうか」
「基本的には冷気を好むだけですから、問題ございません」とイゴールは請け合った。「快適なピクニックのために特注したクーラーボックスもございます」
「じゃ決まりだ。ブッチはここでお別れかな」
「何を言うんです。わっしも行きますよ」とブッチは鼻息を荒くして言った。「せっかくのお宝をよその肉屋に横取りされちゃかないませんや。それに……」
「それに?」
「外出中に冷たいお宝をポンとひとつ、ひねり出さんともかぎらんでしょうが?」




18: 「賢いハンス」号に乗って



考えてみれば、これまで3万字ちかく筆を費やしてはきたものの、現時点ではっきりしたのはアンジェリカが自分の意志で出ていったということだけだ。わたしとしてももうすこし進展するかと他人事みたいに期待していたのだが、こうなるとぐうの音もでない。とっとと帰ってしまえばよかったのに、うっかり長居をしたせいで余計な引き金を引いてしまった。何がいけなかったのかといえばわたしが博士の電話を無視したからであり、なぜ無視したかといえばそれはこの世のものともおもえない神秘的な生ハムのせいであり、なぜ火急の事態にのんびり生ハムをつまんでいたかといえばそれはスナークが身代わりとして置いていったからだ。したがってわたしたち4人と1羽が屋敷を後にしなくてはならなくなった責任のすべては、スナークにある。ハムの殺人的なおいしさを差し引いても、ぜんぶスナークがわるい。ひょっとするとちがうかもしれないが、非難の的をひとつに絞ると団結がしやすいし考えもまとまりやすいので、そういうことにしておきたい。

コンキスタドーレス夫人が去り際にのこしていったせりふを思い出していただこう。「考えてみる必要があるのは、なぜスナークがイゴールも知らないアンジェリカの留守を知っていたのか、という点です」と夫人は言っていた。このことはたしかに、向き合い直す価値がある。留守かどうかもわからないままアンジェリカの部屋に忍び込むとしたらそれは死を覚悟する必要があるだろうし、実際ちょっと考えづらい。やはり知っていたと考えるほうが自然だとわたしもおもう。

とすれば問題はここからだ。アンジェリカにさえ手に負えないスナークをつかまえて問いただすなんてことが、果たして物理的に可能なんだろうか?




「しかし馬なし馬車とは恐れ入る」わたしは屋敷の上空でつづくドンパチを遠目に振り返りながら言った。「Googleの無人自動車にナンバープレートが発行される時代だぞ」
「『賢いハンス』号です」とイゴールはかろやかな手つきでハンドルを捌きながら言った。「慣れればそれなりに快適でございますよ」
「ブッチが乗るには小さすぎるんじゃないかな」
「2人乗りを改良したものですが、うまく乗りこめたのは幸いでした」
「屋根を取っぱらって後部座席にねじこむのが精一杯だ」
「みふゆさまには却って安全なのでは?」
わたしはみふゆに顔を向けた。「ブッチの膝の乗り心地はどう?」
「たのしいです」
「そりゃ何よりだ。頑丈な車でよかったよ」
「わっしとしては服を所望したいところですな」とブッチがおそるおそる申告した。「何しろ世間体ってものがありますからね」
「たしかにパンツ一丁の男が少女をひざに乗せている構図は、問答無用で法的にアウトな気がするな」
「いや、べつにわっしはかまわないんですよ」とブッチは言った。「さむくもないしね。ただ、嬢ちゃんが何だか気の毒におもわれるじゃありませんか」
「むむ。そりゃたしかにそうだ。お巡りさんに咎められてもつまらないし、服か。困ったな」
そこでふと、みふゆが思いついたように提案した。「フォーエバー21はどうですか」
「フォーエバー21?」
「テレビでみたのです。安くてかわいいのがいっぱいあります」
「呉服屋なの?」
「アメリカのファストファッションチェーンです」とイゴールが助け舟をだしてくれたが、日本語が助詞と助動詞だけだったのであまり助けにはならなかった。
「みふゆの服もそれってこと?」
「これはちがいます。みふゆも行ったことはないのです」
「ふむ。行ってみてもいいけど、サイズがあるかな」
「アメリカってのはいちいちスケールのデカい国だと、わっしも聞いたことがありますよ」
するとイゴールが戸惑いの表情で進言した。「サイズ以前の問題かもしれません」
「ブッチの家に寄ればそれで済むような気もするけど……あ、そうだ」
「それがまァ、いちばん手っ取り早いかもしれませんな」
「おもいだした。ブッチに訊こうとおもってたんだ」




19: 肉屋の息子からの奇妙な伝言



「何をです」
「あの生ハムを注文したのは誰なんだ?」
「誰って」とブッチは意外そうな顔をして答えた。「旦那でしょうが?わっしがお屋敷に伺ったのはそれでですよ」
「いや、言い方がわるかった。屋敷でわたしがハムを買うって言ったのをおぼえてるだろう?」
「はァ」とブッチは釈然としないような顔をした。「仰いましたな、たしかに。しかしあれはすでにお支払いが済んでるもんですから、実際のところそれ以上いただくわけにはまいりませんですよ」
「それを訊きたかったんだ。支払ったのは誰なのか?」
「だから旦那が、いやちがった、こちらのお屋敷ですよ」
「それが屋敷じゃないんだよ。誰か別の人物なんだ」
「何だか判然としませんな」ブッチは相変わらず要領を得ない様子だった。「注文を受けるのはせがれの仕事ですから、その点わっしには何とも言えません。それをお尋ねってことなら、聞いてみてもようがすがね」
「詩人の息子か!」
「なるほど」とイゴールは納得したようにうなずいた。「スナークの居所がわかるかもしれないということですね」
「スナークってのはどちらさんです?」
「そうか、ブッチは知らないんだな。ハムを注文したのは十中八九そいつなんだ。居所がわかれば、アンジェリカのことが何かわかるかもしれない」
「アンジェリカというのは?」
「屋敷の主人だよ!アイスノンのことで交渉したがってたのはどこの誰だ」
「やァ、そうでしたな!わっしにとっちゃそれが大事です。すっかり失念してました」と言ってブッチはどこからか携帯電話を取り出した。「そういうことなら今電話してみましょう」
「パンツ一丁なのにどこから出したんだ?」とわたしはびっくりして言った。
「図体がデカいと収納に融通がきくもんです」とブッチは事も無げに言った。「もしもし」
「わたしも博士に連絡しないとマズいだろうな」
「スナークですが」とイゴールは言った。「本当に捕獲できるとお考えですか」
「捕獲どころか」とわたしはためいきまじりに答えた。「会えるかどうかもあやしいとおもうよ。でも今のところ手がかりといったらそれくらいしかないし、それにコンキスタドーレス夫人の言ったことを考えてて、ちょっと気がついたこともある」
「と言いますと?」
「もしスナークがアンジェリカの留守を知っていたのだとしたら、それを教えたやつがいるはずなんだ。新聞の三行広告に載ってたりネットに晒されたりしてたわけじゃないとすればね」
「なるほど」
「ブッチの息子がそこまで訳知りとはおもわないけど、次につながる糸口はもってるかもしれない。たとえ糸くずだとしても今はそれを手繰ってみる他ないさ」
「仰るとおりです」
「そしてもし教えたやつがいるのだとしたら」と言ってわたしはここで言葉を切った。「うーん」
「何でございましょう?」
「少なくともアンジェリカの向こうに誰かがいる」
「誰か……」
「おまけにそれはロマンチックな夜を過ごすのにぴったりの相手とは、お世辞にも言えない人物だとおもう」
「なぜです?」
「デートに鎌は必要ないもの」
「これは失礼」
「それにイゴール以上にアンジェリカの行動を把握する誰かがいるとしたら、それはもうそれだけで十分に詮議ものじゃないか」
「お嬢さまに危害が及ぶかもしれないと?」
「いや、さっきも話したけど武器を手にしたアンジェリカにかぎって、それは絶対ない……」ここまで考えて、わたしは絶句した。すでにわかっていた事実をただ並べ直していただけなのに、急にそれまでとはちがった景色が見えたようにおもえたからだった。
「どうかなさいましたか」
「いや、何でもない。これ以上はやめとこう」とわたしは言った。「ただ、やっぱり博士には早いとこ電話をしたほうがよさそうな気がするな」
「これからどちらへ向かわれますか」
「せがれの話がどうあれ、どのみちブッチの服は取りに帰らないといけないんだ。肉屋に行こう」
「承知いたしました」
「場所は?」
「存じております。たしか極楽町駅にほど近い商店街にあったかと」

ブッチはみっちりと詰め込まれた後部座席で首をかしげたり眉間にしわを寄せたりしながら、電話の向こうにいるらしい息子と話をつづけていた。みふゆがその膝にちょこんと乗って、アイスノンをやさしく撫でている。不可解にして違法スレスレの光景ではあったが、ふしぎとそれなりに絵になるようなところもあった。わたしは通話の切れ目を見計らってブッチに声をかけた。

「どうだって?」
「帰って来ないほうがよさそうだって言ってますがね」ブッチは電話を切ると言った。「どうします」
「じぶんの家なのに、ぞんざいだな。注文のほうは?」
「いや、それも訊きましたがね、どうも……」
「親子の情はあんまりこじらせないほうがいいぜ」
「ごにょごにょ言っててわっしにもよくわからんのです。何だか客人が待ってるそうで」
わたしはブッチがときどき客と諍いを起こす話を思い出した。「気の合わない客が来てるってこと?」
「いや、わっしじゃありません」とブッチは首を振った。「用があるのはどうも旦那方のようですよ」




20: 誰が誰を待っているのか?



ついさっきまで行き先も決めていなかったのに、決めたそばからもう向こうでお待ちかねとはまた、ずいぶん気の回るお友達だ。誰だか知らないがろくな用件じゃないことくらい、わたしにもわかる。知り合いならこんなやりかたをしなくても直接訪ねてくればいい。よく晴れたうららかな午後のドライブを決めこんだ悠長な一行にはもちろん突拍子もない話で、「やァ、それはそれは!」と手放しでよろこべるはずもない。とっぷり暮れた夜の帳みたいな沈黙の後で、しかたなくわたしが口火を切った。

「えーと」とわたしは言った。「約束なんかしてたかな、イゴール?」
「おそれながら」とイゴールはハンドルを握りながら答えた。「わたくしも記憶にございません」
「約束はしてないそうです」とブッチは説明した。「そりゃまァそうだろうとわっしもおもいますがね。そいつは確かです。ただ、これこれこういう御仁が来るようだったら知らせるようにとせがれに伝言したそうで」
「誰が?」
「さァ、そこがわっしにも胡乱です」
「誰を?」
それには答えず、ブッチは目線を該当する人物に向けた。
「イゴール?」
「はっきり聞いたわけじゃありませんが、察するにどうもそうらしいですな」
「イゴールって言ってるけど」
「はて……」とイゴールは心当たりの引き出しをあちこち探るような顔で言った。「わたくしにも見当がつきかねます」
「胡乱だとおもうなら知らせなきゃいいじゃないか」
「せがれにとっちゃ顔見知りのようで」
「店の常連てわけではない?」
「それならわっしの領分です。お買い上げがラスコー壁画に描かれたオーロックスのステーキ肉だろうとポークビッツを1個っきりだろうと、お客となったらせいぜい忘れないように脳みそができてます」
「そりゃそうか。で、何て伝えたんだ?」
「そういうことなら、くれぐれもよろしくと」
「のんきな奴だな!」
「何がです?」
「全体的に風向きがおもわしくないような口ぶりだったじゃないか」
「そうは仰いますがね、せがれの友だちとなったらそりゃ無碍にもできませんや」
「じゃあその謎めいた人物にはイゴールの来訪が伝わったと考えたほうがいいわけだ」
「そうでしょうな」とブッチは頷いた。「元来気の利かない奴ですから」
「気が利かないのは親父だよ、どう考えても」
「おっと。こいつは手厳しい」とブッチが大きな体をぐらぐら揺すりながら腹を抱えると、骨董的自動車もガタガタと上下に揺さぶられた。
「いずれにせよ息子にも帰ってこないほうがよさそうに見えたってことは、ものすごく楽しい話というわけじゃなさそうだ」とわたしは言った。「とちゅうでこの車、分解したりしないだろうな」
「心配ございません」とイゴールは言った。「賢いハンス号の頑丈さは折り紙つきです」
「いっそリボンはどうですね?」とブッチがすてきな思いつきを披露してみせた。「折り紙よりはぐっと魅力が引き立つってもんですよ」
「リボン!」とみふゆがまた顔を上げた。
「面倒を避けるだけなら話は簡単だ」わたしはぐるぐると考えを巡らせながら話をつづけた。「行かなければいいんだから。でもこのタイミングでイゴールに用があるってのはさすがにちょっと気になる」
ふと考えこむような様子をみせてから、イゴールが口をひらいた。「用向きはわかりませんが、わたくしがひとりで参るというのはいかがでしょう」
「用向きならはっきりしてるさ」とわたしは言った。「このタイミングなんだ。アンジェリカに関係してるとおもってまずまちがいないとおもう」
「でしたらなおさらそうすべきなのでは?」
「どうだろうな……。ただ、何が何だかこっちにはいまだにちっともわかってない以上、向こうだっていろいろ曖昧なことがあるはずなんだ」
「そうでしょうか」
「『来たら知らせを』ってことは、来るかどうか確信がなかったってことじゃないか」
「たしかに、仰るとおりです」
「それに、そうだ肉屋を張ってたってことは、確信とまではいかないまでもある程度可能性を読んでたってことになる」
「と言いますと?」
「スナークにアンジェリカの留守を教えたのはそいつかもしれない」
「冴えてますな!」とブッチは感心するように言った。「まるで捕り物じゃありませんか」
実際のとこ何も起きてないんだけどね
「その待ち人がスナークなのではありませんか?」
「さっきまで屋敷にいたんだぜ」
「なにか事情があるとか……」
「ハムを返せとかね。それならそれで話が早くて助かるけど、でもどうかな。息子のくれた忠告からしても考えづらい気がする」
「では、いかがいたしましょう?」
「むむ」
「やはりわたくしが参りましょうか」
「いや」とわたしは腹を決めた。「みんなで行こう。こっちには剣客もいるんだ。何があろうと、心丈夫さ」
「かしこまりました。ではまっすぐに」

4人と1羽の奇妙な道連れを乗せた賢いハンス号は肉屋に向けて、唸りを上げながら猛スピードで駆け出した。




21: スピーディ・ゴンザレス登場



イゴールのハンドル捌きはちょっとした見物だった。どこで身につけたのか、その華麗なドライビングテクニックのおかげでわたしたちは、ブレーキが単なるアクセサリーにしか見えなくなるくらいぶっとばして道を急ぎながら、それでいて至極快適なピクニックを心から満喫することができたと言っていいだろう。ブッチとみふゆにいたっては後部座席で「オブラディ・オブラダ」を気持ちよさそうに合唱していたほどだ。ランチボックスを用意せずに来たのは失敗だった。

そして賢いハンス号だ。あとでイゴールから聞いたところによれば、この名前は19世紀に実在した馬にあやかったものらしい。言語を解するばかりか、あまつさえ簡単な数の計算までこなすことでかつて世間の耳目をあつめたこの馬は、実際には周囲の空気を敏感に察知することに長けていただけだったという解釈で、今では決着がついている。

「数の計算ができること」と「空気を読むこと」、現代社会においてどちらがより賢いかは推して知るべしという感じがするが、いずれにしても特筆すべき能力をもっていたことはまちがいない。1頭の馬が飲み会で空いたグラスをみつけてさりげなくビールを注いだり、何となく全員賛成っぽいという理由で反対を差し控えたりすることができるのだとしたら、それはやはり驚くべきことだとわたしもおもう。

利口な馬ハンスは空気を読むことができた。この車がその名を冠しているのは、つまりハンスとまったく同じ能力を有しているからだ。

具体的に言うと、たとえば賢いハンス号はみずからウィンカーを出すことができた。必ずしも自動というわけではない。ちょっと出すのが遅いなと感じられたときだけ、素知らぬふりで点滅を始めるのだ。オートマチックというよりは気配りにちかい。

ついでに言うと、バナナの皮や犬のフンを避けて走ることもできた。歩道ならともかくなぜ車道にバナナの皮や犬のフンが落ちているのかという点については議論の余地がありそうな気もするが、しかしまあこれは純粋に気分的なものだろう。踏むとわかりきっているものをみすみす踏むのはわたしだって馬鹿馬鹿しい。

とはいえまさか、その特性がここで存分に発揮されるとはわたしも予想していなかった。というのも15分ばかりの愉快なピクニックもそろそろ終わりというあたりで、お目当ての肉屋が見えたとおもうが早いか、矢のような飛行物体がこちらに向けて迷いなくまっすぐ飛んできたからだ。

当然、賢いハンス号はその危険を敏感に嗅ぎ取って、あわや射抜かれるとおもわれた直前に車体の鼻先を如才なく逸らした。イゴールもそれに合わせてハンドルを切り、片輪走行でバランスをとりながらもすぐに体勢を立て直してくるりと方向転換した。
「おいおいおい」
「旦那、嬢ちゃんが!」
振り返ると、みふゆが脇差しをもってブッチの膝から往来に飛び出し、放たれた矢を軌道上でまっぷたつにしていた。
「まるで石川五ェ門だ」
「さすがにみふゆさまです」
「しかしあれじゃまた嬢ちゃんが標的にされちまいますよ!」
イゴールと賢いハンス号のコンビはふたたび進行方向を元に戻した。肉屋からはすでに2本目が放たれて、こちらに向かっているのが見える。ブッチは手を伸ばしてみふゆの襟首をつかむと、あっという間に座席へと引き上げた。

ぴゅんぴゅん飛んでくる何だかよくわからないものをかいくぐりながら、それでもなお肉屋へ突進するか、それともとっとと予定を変更してフォーエバー21に向かうか、ここでの選択肢は2つに1つしかない。しかしそもそもなぜわたしたちは命を賭してまで肉屋の門戸を叩かなくてはならないのか、そのあたりがどうも全体的にボンヤリしていた。行く理由はある。ただ服を着替えるのに遺書を用意しなくてはいけない理由が全然ないのだ。

たとえばこのまま家に帰ってパックの刺身をつつきつつ、楽しみにしていたドラマの思わぬ展開にがっかりする一日の終わりを想像してみよう。どこにも問題はなさそうじゃないか?それどころか、ハードな日々をストレスなく送るためにはむしろ積極的にそうすべきだという気さえしてくる。これまでの流れをぜんぶチャラにしたところで、自分を中心とした半径15メートルくらいの範囲なら、世界はおおむね平和なままなのだ。という論理的な思考の流れを一言で要約すると、わたしはもう帰りたかった。

したがって言葉は交わさずとも、めんどくさいのはどう考えてもご免だという点において、わたしたち4人と1羽は意見の一致をみた。賢いハンス号はさらにもう一度くるりと方向を変えてゴール(だったはずの肉屋)から背を向けた。話の通じそうにない直情的な飛行物体については、ブッチに抱えられながら後ろ向きに立ったみふゆが今度も難なく縦ふたつに割って退けた。

「おみごとすぎて言葉もない」尻尾を巻いて逃げる賢いハンス号の上で、わたしは背もたれにしがみつきながらイゴールに言った。「お友だちは待ちくたびれて早くもご立腹らしいぞ」
「わたくしにもすこし状況がのみこめてきました」とイゴールはハンドルを握る手に力をこめて言った。「あれはスピーディ・ゴンザレスです」
「スピーディ・ゴンザレス?」
「たしかにせっかちそうな名前ではありますな」
「ちらっと見たところじゃセーラー服を着たアヒルって感じだったけどね」
「関わり合いにならずにすむならそれにこしたことはないのですが……」
「挨拶代わりに攻撃してくるような奴とは誰だって関わり合いになりたくないだろうな」とわたしはムール貝博士のことを棚に上げながら言った。「誰なんだ一体?」
「スピーディ・ゴンザレスは」とイゴールはためらいがちにつづけた。「シュガーヒル・ギャングの用心棒です」




22: 甘く乱暴なシュガーヒル・ギャング



極楽鳥の名で呼ばれるこのあたりの土地から東に向かってなだらかに傾斜していくエリアを、わたしたちはシュガーヒルと呼んでいる。シュガーヒル・ギャングというのはだから、文字どおりシュガーヒルの一帯を根城にする荒くれ集団の通り名だ。

犯罪と甘いものが同じくらい大好きなことで全国に名を知られるこの連中は、表向きは構成員総出で行列のできる洋菓子店「Sweet Stuff」をせっせと切り盛りしているが、その一方で一旦しょっぱい目に遭うと途端に手がつけられなくなることでもよく知られている。数年前、となり町であるサレの住民が逆上した彼らの手によってことごとく深爪の憂き目にあったニュースは記憶に新しい。

どこから命令が下されているのか誰の目にも明らかでありながら未だ組織ごと一網打尽にされる気配がないのは、構成員が多すぎる上にファミリーとしての結束が固く、末端の三下連中が狼藉をはたらいてもなかなかその指示系統を辿ることができないからだ。またいかに身勝手な荒くれであろうと、目に見えないムニャムニャした脅威に対する実質的な抑止力として機能していないとは必ずしも言い切れないかもしれないし、単なる犯罪集団よりは甘い分だけまだマシだという非常にざっくりした政治的な思惑も透けて見える。

それに「Sweet Stuff」のケーキはとてもおいしく、食べれば舌鼓がドラムロールを叩くともっぱらの評判なので、たたきつぶすにはちょっぴり惜しいと治安当局者たちが考えていてもまったくおかしくはない。ケーキ屋をたたきつぶして子供に泣かれるくらいなら、うまいこと折り合いをつけながらいたちごっこをつづけるのが大人のやりかたというものだ。恋と同じように。

「その用心棒が何で出てくるんだ?」
「わかりません」とイゴールは猛スピードのためにがたがた揺れる賢いハンス号をなだめながら言った。「ただお嬢さまがシュガーヒルの連中と何らかのトラブルを抱えていることはまちがいないでしょう」
「旦那!追ってきますよ!」
「まさかのカーチェイスだ」わたしはジャイアン・リサイタルよりひどい排気音をまきちらしながら距離をちぢめてくる後方の追っ手に目をやった。「しかしあれは車というより……」
「自転車ですな」
「うん……いやちがうな、あれはピープルだ」
「ペイパル?」
「ピープルだよ。ホンダの古い原付だ。昔どこかの畑の脇に乗り捨ててあったのを失敬したことがあるからまちがいない」
「わっしには自転車に見えますがね」
「自転車にエンジンが付いてるんだよ」
「ははァ、あの暴走族みたいな音がそれですか」
「あれがチャームポイントなんだ」
「あッまた何か飛んできましたよ!」
それを見てみふゆがまた矢面に立とうとするのを、わたしは制した。「立たなくていいよ、みふゆ。それよりアイスノンを抱いてたほうがいい」
「しかしこのまんまだとお陀仏ですよ、旦那」
「矢くらいなら避ければそれで済みそうじゃないか」
「あれは矢ではありません」とイゴールが訂正した。「あれはSIMONです」
「サイモン?」
「ドア破壊専門のライフルグレネードです」




「兵器じゃないか!」
「そういえば嬢ちゃんがまっぷたつにしたあと、ボンと火を噴いてましたな」
「しかし何でドア専用なんだ」
「籠城した場合に使用するつもりだったのでしょう」
「ああ、なるほど……」
「しかしこのまんまだとお陀仏ですよ、旦那」
「さっきも聞いたよ!賢いハンス号だって賢いんだからみふゆと同じくらい頼りになるさ。よろしく、イゴール」
「かしこまりました。では少々猛ります」と答えたそばから、イゴールはハンドルを左に目いっぱい回し、同時にブレーキを思いきり踏みつけた。あまりに急だったので、さしもの賢いハンス号も車体を軋ませながらヒヒンと一声いなないたような気がしたくらいだ。くるりと水平に一回転したハンス号は目の前に迫ってきたグレネード弾を鼻先でかわし、今度はスピーディ・ゴンザレスに向かってまっすぐ突進していった。
「おいおい、べつにやり合わなくたっていいよ!」
「ピス田さま、座席の真下に工具箱がございます」
「工具箱?あ、あった」
「ちいさな玄能が入っておりますから、それを」
「玄能ってこのハンマーのこと?」
「そうです」
「ははあ、これを……じゃあブッチに渡そう」
「なるほど、じゃわっしはこれをポイと」そう言うとブッチは同じようにこちらへ直進してくる追っ手に向かって玄能を放り投げた。




23: ムール貝博士との交渉



こちらの飛び道具は当たらなかった。というより向こうの飛び道具によって撃ち落とされた。しかしイゴールの目論見はちいさなハンマーをぶつけることではなく、その一瞬だけ相手の注意を逸らすことにあったらしい。イゴールはそのわずかな隙を見て取ると、ふたたび賢いハンス号のハンドルをきりきりと捌いてブレーキを踏み、怯んだスピーディ・ゴンザレスに車体の側面を遠慮なくぶち当てた。向こうは当然、エンジンを積んだ自転車ごと派手に転倒した。わたしたちは改めて体勢を整え直すと、猛スピードでその場をはなれた。

「やるなあ!」
「おそれいります」
「派手にすっ転ばしたけど大丈夫かしら」
「ご心配には及びません」とイゴールは涼しい顔をして言った。「頑丈さだけが取り柄のような輩ですから」
「友だちみたいな口ぶりだけど、友だちなわけ?」
いえ、とイゴールは短く否定すると、それ以上はつづけようとしなかった。深く考えずにたずねたものだから、気のないそぶりが却って意外なようにもおもわれた。
「用心棒だか唐変木だか知りませんが」とブッチはみふゆをアイスノンごと抱きかかえながら悲鳴をあげた。「何だかもう、気が気じゃありませんよ、わっしは」

賢いハンス号の賢い立ち回り(とイゴールの巧みな手綱さばき)のおかげでひとまず足止めはしたものの、これでめでたしめでたしとはいかないことくらい、わたしもよくわかっていた。理由がどうあれ、シュガーヒル・ギャングに売られたケンカを安く買いたたいたようなものだ。売れるとなったらまた売りにくる。

このままスタコラ逃げるのもいいが、肝心のアンジェリカからはまちがいなく遠ざかるのにこのまま追われつづけるのは、どう考えても平仄が合わない。圧倒的な不人気を理由にここで手記を打ち切り、ピス田先生の次回作にご期待くださいという手もあるにはあるが、それではわたしの立つ瀬がない。一銭ももらっていないのに打ち切りだなんてあるものか。

一方で、スピーディ・ゴンザレスは何かを知っている。いいかげんちょっとはスッキリしたいわたしたちにとってこれは、ものすごく大きな手がかりだ。みすみす手放す法はない。欲を言えばとっつかまえてけちょんけちょんにしてあんなことやこんなことでねちねち苛んだりしながら最終的にはサービス料10%をとられるようなりっぱな店で晩ごはんをおごらせてみんなで乾杯的なところまで持っていけるのがベストだろうが、個人的にはピザでもいい。

要するに、迎え討つより他にない、ということだ。

ただ、いくらべらぼうな強さとはいえ、みふゆひとりにそれを背負わせるのはいささか荷が重い。大人としての立場もない。やはりどうにかして手を打つ必要があった。幸いにして、というかむしろ不幸にしてわたしは史上最強の戦力にツテがある。想定外のタイミングではあるけれど、こうなってしまえば四の五の言ってもいられまい。わたしは携帯電話を取り出して、しぶしぶ博士の番号を押した。

「もしもし」
「ピス田か。生きてて何よりだ」
「あれ」とわたしは博士の物腰に意外なやわらかさを感じて驚いた。「ご機嫌ですね、博士」
「ぴかぴかのミサイルを9本ばかり手に入れたからな」
「手に入れたって、どこでです」
「知らん。飛んできたんだ」
「飛んできたって……」
「詫びのしるしに贈ってきたんじゃないのか」
「誰がです?」
「お前の他に誰が詫びるんだ!」
「そうです、そうでした。面目ありません」わたしは通話口を押さえてイゴールに残念な事実を通達した。「ホワイトデー・モードはとっくに発動してたらしいぞ」
「何の用だ、それで?」
「何の用って…博士がかけてきたんじゃありませんか」
「む?ああ、そうだった。あのな……」
「あ、そうだスミマセン、その前にちょっと」
「何なんだお前は!」
「助けてほしいんです」
「やなこった」
「助けてほしいんです」
「2回言うな」
「一刻を争う事態なんです、後生ですから」
「後生も金曜ロードショーもあるか」
「お土産に博士の好きな赤い実をどっさり買って帰りますから」
「赤い実?」
「クコですよ」
「あのな」とムール貝博士の呆れるようなため息が電波を伝ってわたしの耳に吹きかけられた。「そうやってそれを持ち出しさえすればいつでも話が楽に済むとおもってるんだろうがな、そりゃ大きな間違いだってことを、ここではっきりさせておくぞ。人をハムスターか何かだとおもってるのかお前は?何kgだ
「何です?」
「何kg持って帰るかと聞いとるんだ」
「あ、じゃあ、そうですね、3kgくらい」
「5kgだ」とムール貝博士はおごそかに宣言した。「それで手を打ってやる。そっちの要求は何だ」




24: 博士の出したもうひとつの条件



極楽鳥の町にはムール貝博士が科学的好奇心と気まぐれで手をつけたのち、そのままほったらかしにされている場所が何箇所かある。手をつけたというのはつまり、マンホールにガトリング砲を格納したり、防火水槽を武器庫にしたり、横断歩道の白線部分にべたべたしたものをまんべんなく塗りつけておいたりしたという意味だ。あることは知っていてもそれが正確にどこなのかは、わたしも知らない。だからこそ確認する必要があった。あまり繁華なエリアでも困るが、博士が好んでそういう場所に仕掛けるのは百も承知だから贅沢は言えない。博士とのけんもほろろのやりとりからわたしは目抜き通りのはずれにある1つのマンホールを選び、賢いハンス号をそこへ向かわせた。

「そこにM61バルカンが格納してある。使い方はわかるな?」
「ガトリング式でしたっけ?」
「リズミカルに連射できるすてきなやつだ」
「使えるんですか?」
「誰にものを言っとる」
「古くて錆びたりしてませんかって意味です」
「わたしが情に厚いことはお前もよく知っとるだろうが」
「火器に対してだけでしょ」
「手入れは抜かりない。砲弾もたっぷりだ」
「まあ、博士にとっちゃ盆栽みたいなものですからね」
「そういうことだ」そうそう、と博士はここで思い出したように付け加えた。「サービスでいいことを教えておいてやる。相手はスピーディ・ゴンザレスだと言ったな?」
「そうです。ご存知ですか」
「あいつにも同じマンホールを教えておいた」
わたしは呆気にとられて思わず叫んだ。「冗談でしょう?」
「お得意様なんだ。助手のお前が知らないほうがおかしい」
「ちょっと待ってくださいよ!」
「まァ仲良く分け合うんだな」
「敵同士で?」
「そうだよ」
「ひとつの武器を?」
「そうだよ」
「どうやって?」
「そんなことわたしが知るか」
「その歪んだ平等主義はどうにかならないんですか?」
「サービスしてやったのにご挨拶だな、ピス田」
「火に油を注ぐことをサービスとは言いません」
「薪が減ったらくべるのはサービスだとおもうがね」と博士は言い放った。「だいたい、知らなかったら余計混乱してたはずだぞ」
「それはそうですけど……」
「何をそうカリカリしてるのかさっぱりわからん」
「話が根底からひっくり返ればカリカリもしますよ」
「ついでだからもうひとつ条件がある」
助けるどころか危険が増えたのに何を言うんです!
「助かるかどうかはお前次第だ。要求は満たしたろうが」
「満たしたぶんだけ差し引かれるような話になってますけど」
「ここらでオススメの武器スポットはないかと先に向こうが問い合わせてきたんだ。それに答えて何がわるい」
「まるでレストランガイドだ」
「だから武器庫と兵器の設置場所をいくつか教えておいた」
「差し引くどころかマイナスになってるじゃないですか!」
「向こうは金を払ってるんだぞ!」
「わたしは博士の助手ですよ!」
「つべこべ言うな。元はといえばお前がわるい」
「わかりましたよ」釈然としないが、筋は通っている。抵抗しても勝ち目はない。わたしは観念した。「何です、条件というのは?」
「スワロフスキを探せ。ポワレのやつがパニクって手に負えん」

それだけ言うと、博士はプツリと通話を切った。




25: 影のようについて回る1本のカギの話



スピーディ・ゴンザレスの登場によって、この一件にどうやらシュガーヒル・ギャングが関係しているらしいということが何となく見えてきたような気もするが、一方でわたしには腑に落ちないことがひとつあった。

たしかにシュガーヒル・ギャングとアンジェリカは、どちらも決して品行方正とは言えないという点でよく似ている。場合によっては手がつけられないという点でも同じだ。しかし前者が基本、逃げることに長けた後ろ暗い連中のあつまりだとするならば、後者は何をするにもおおっぴらであるばかりか、そもそも逃げるという概念さえ持っていない。仮に同じようなことをしでかすにしても、アンジェリカは罪を承知で堂々とやるか、でなければ何も考えずに堂々とやるだろう。アウトプットが同じでも根幹となる部分が正反対なのだ。

したがって、アンジェリカがシュガーヒルの連中を厭うことはあっても、積極的に接点を持とうとするとは、とてもおもえなかった。すくなくとも彼女がわたしのおもうような人物でありつづけるかぎり、それは保証できる。用があるとすればまずまちがいなくシュガーヒルの側だ。スピーディ・ゴンザレスがわたしたちの進路を妨害しようとしたことでも、それは伺い知れる。邪魔をされたくないということは、つまりそういうことだろう。

わからないのは、だとすればなぜアンジェリカがわざわざ出向かなくてはいけないのか、ということだ。彼女なら相手が誰であろうとへつらうようなことは絶対にしないし、呼ばれてのこのこ出向くほどお人よしでもない。たとえ一国の王だろうが必要とあれば平気で呼びつける。アンジェリカのアンジェリカたるゆえんはまさしくそういうところにあった。

ではたとえば何か、弱みをにぎられているという可能性はどうだろう?

残念ながら、アンジェリカに弱みはない。これもまた、彼女が彼女たるゆえんのひとつだ。もし弱みを秘密と置き換えてよければ、一度こんな話をしたことがある。

「たとえば隠しておきたい宝物があるとするでしょ」と彼女は言った。「じゃあ、それを宝箱に入れます。カギをしめるわね、もちろん?」
「まあ、そうだね。手を触れるべからずなんだから」
「そうすると手元にはカギがのこるわけ」
「そりゃそうだ」
「ピス田さんならこのカギどうする?そのへんに置いとく?」
「置いとかないよ!失くしたらどうする」
「じゃこれもどこかにしまっておかなくちゃいけない。よね?」
「ふむ」
「貸金庫とかどう?」
「どうって、別にいいとおもうよ。それで?」
「じゃ貸金庫に預けました。そこでまたカギが出てくるわけ」
「貸金庫のカギってこと?」
「そう。また手元にカギがのこるの。ピス田さんならこのカギどうする?」
「むむ」
「わたしならゴメンだわ。1本のカギがいつまでも影みたいについて回る人生なんて」

この話は秘密というものに対するアンジェリカの考え方をよく表しているとわたしはおもう。もし秘密を身につけるようなことになったら、そのためにこそ手放してしまうだろう。彼女に秘密は似合わない。わたしたちにとってアンジェリカがひどくミステリアスな存在として映るのは、伺い知れない秘密のためではなく、何もかもオープンに開け放してあるにもかかわらず、そのあまりの広さに呆然と立ち尽くすしかないからなのだ。アンジェリカは宇宙に似ている。

もう一度言おう。アンジェリカに弱みはない。「あるとおもうなら握ってみたら?それがぐちゃっとしてて変な色しててイヤなにおいのする何かでなければいいけど」と軽やかにあしらう彼女が目に浮かぶ。あるとおもって握れば実際それは、すべからくぐちゃっとしてて変な色をしていてイヤなにおいのする何かだろうとわたしもおもう。彼女はそんなもの意に介さない。

だとすればアンジェリカはいったい何のために行動しているのか?




26: 予定変更



アンジェリカなら大丈夫、というようなことをわたしたちは何度も言ってきた。コンキスタドーレス夫人も太鼓判を押していたし、それに対する異論も出なかった。この点に関しては疑いないと誰もが確信しながらそれでもなおくり返していたのは、だとすると何なんだ、という落ち着かない思いをいつまでも拭えずにいたからだ。だが2度目か3度目に同じことをくりかえしたとき、わたしはそれまでずっと睨んできた1枚のカードをふとめくってみたような気持ちになった。

めくったカードの裏に何か書いてあったとすれば、こういうことだ。「アンジェリカが必ずしもアンジェリカ自身のために行動しているとは限らない」。

渦中にまぎれてかかってきたムール貝博士の電話がなければ、この閃きは得られなかっただろう。スワロフスキの名前をきいたときわたしは、そういえばアンジェリカとスワロフスキは仲が良かったな、ということを何となく思い出していた。博士だって開口一番、アンジェリカはどこだと訊いてきたじゃないか?神秘の生ハムに心奪われていたこともあってこの時点ではあまり気に留めていなかったが、思い返せばここですでにべつの視点と可能性が提示されていたのだ。

だが、ひとまず話に戻ろう。ムール貝博士からの電話がぷつりと切れたところからだ。賢いハンス号はガタガタと震えながら猛スピードで目当てのマンホールに向かっていた。

フーム、とわたしは電話を閉じながら唸った。
「どうかなさいましたか」とイゴールは賢いハンス号の手綱をゆるめずに尋ねた。
「スワロフスキが迷子になったらしい」
するとみふゆが後部座席から身を乗り出してきた。「スワロフスキが?」
「そうか。君も仲良しなんだな」
「博士がそう仰ったのですか」
「探せと言われた」とわたしは博士の言ったことを思い出しながら応えた。「いろんなことがいっぺんに押し寄せるから、頭が混乱してきたよ。甘鯛のポワレ教授がパニクってるらしい。わたしたちが向き合ってるのはどれも同じひとつの問題のような気がするんだけど、如何せん絡まりすぎててよくわからない。率直に言ってほどくのもめんどくさい」
「と仰いますと」とイゴールは言った。「スワロフスキさまもこの一件に関係しているとお考えなのですか」
「最初に博士からかかってきた電話のあと、一瞬だけそんな気がしたんだ。そのときはアンジェリカとスワロフスキの仲をふっと思い浮かべただけだったけど、探せとハッキリ言われた今はその思いがもっと強くなってる。だってこのタイミングだぜ」
「関連性を疑う理由はたしかにございますね」
「そのソワソワスルというのはどちらさんです?」とブッチが口をはさんだ。
「スワロフスキは……1文字も合ってないな。【詩人の刻印】の3曲目に出てくるちっちゃい女の子だよ。初出は4年前の<ここ>だ。アンジェリカと仲良しで、みふゆとも……」
「仲良しです!」とみふゆが大きく頷いた。
「というわけ」
「そんな舞台裏をべりべり剥がすようなお話をしてしまってよろしいのですか」
「初めて訪れた人が1秒で踵を返すようなブログになってしまってるんだ。今さらとりつくろっても仕方がないよ」
「ふむ!そりゃご心配もごもっともですな。してポチョムキンというのは?」
「ポワレ教授は……ポしか合ってないじゃないか。教授はスワロフスキの父親だよ」
イゴールが現実(という名のフィクション)にわたしたちを引き戻すようにして訊いた。「ではいかがいたしましょう?」
「そこで混乱してるんだ」とわたしは頭を掻いた。「アンジェリカを追ってるとこだし、スピーディ・ゴンザレスに追われてるとこだし、どうしたらいいんだ一体?」
「お嬢さまの追跡についてでしたら」とイゴールは言った。「優先順位としては今やそれほど火急ではございません」
「なんで?」
「ホワイトデー・モードはすでに発動済みとピス田さまが先ほど仰いました」
「そうだった!」
「スワロフスキさまのことはわたくしも多少は存じておりますし、心が痛みます」
「じゃひとまずアンジェリカは追わなくていいってことだ」
「お嬢さまがわたくしにどちらの行動をお望みになるかということでしたら」イゴールはきっぱり言った。「考えるまでもございません」
「予定変更だ!スワロフスキを探そう」とわたしは宣言した。「しかしどこへ行けばいいんだ?
「旦那!」背後から忍びよる爆音に振り返ったブッチが声を上げた。「追いつかれそうですよ!」




27: 水色をした予期せぬ決着



ここからの数分間は、あまり大したことが起きていない。相変わらずどういう仕組みでフルスロットルの自動車を追い抜くようなスピードが出るのかちっともわからない例の頑丈なピープルにまたがりながら、追いかけてきたスピーディ・ゴンザレスがバカのひとつ覚えみたいにライフルグレネード、でなければ大体そんなようなものをこちらに向けてぶっ放し、ぶっ放された薬筒をみふゆがまっぷたつにするという、投手と打者にも似たシンプルなやりとりを3回ほどくり返したのち、ライフルグレネードの使用をあきらめ、お互い車体が分解するような猛スピードで駆け抜けているにもかかわらずその状態から接近戦に持ちこんで、スピーディ・ゴンザレスはサバイバルナイフ、みふゆは脇差しでちゃんちゃんばらばらと車上で火花を散らし、アイスノンを抱きながら首をすくめてちぢこまるブッチの隣で激しいつばぜり合いをつづけるなか、わたしはといえば助手席で、M61バルカンが格納してあるマンホールへの道順をイゴールに指示しつつ、ときおりその方角をていねいに指でさしたりしながら、全体としてはおおむね順調に目的地への距離をちぢめていたのだが、先にやってみせたのと同じようにイゴールの急ブレーキによる時間差でふたたびピープルに体当たりを食らわせることをしなかったのは、前とちがって一瞬たりとも気の抜けないやりとりの中にみふゆが身を置いていたからであり、そうなるとわたしたちとしても道をまちがえないようにする以外できそうなことが他になく、したがってすぐ後ろでキンキンとはねかえる金属音を耳にしながらもうっかり談笑に興じるくらい泰然自若というか手持ち無沙汰にしていて、ありがたいことに気づけばゴールはもう目前だった。

そんなわけでいざ辿り着いたらその先どうするという肝心な部分については、あまり考えていなかった。人生には前向きと後ろ向きのほかに、どうせとりかえしがつかなくなるならいっそギリギリまで人生を楽しんでおいたほうがやがてわき上がる後悔も場合によってはちょっぴりで済む気がする、という横向きの選択肢もあるのだ。だいたい、考えたところでなるようにしかならないことをこねくり回してどうなるだろう?

意外なことに、わたしたちの対決を決着へとみちびくきっかけをつくったのは、アイスノンだった。そして語るには気の引けるちょっとした悲劇がここにはある。時間の経過を極力スローにして、ひとつひとつの瞬間を順に見ていこう。

わたしたちの視界にマンホールが入ってきたとき、まずイゴールがブレーキをかける旨を大声で告げた。これはもちろんみふゆに注意を促すための一声だったが、それを聞くとスピーディ・ゴンザレスはすかさず伸ばした足のつま先でトンとみふゆの胸を突いてブッチのほうへと押しやった。おそらく賢いハンス号の車体に足をかけて乗り移り、ブレーキと同時に前方へと飛び出してマンホールを確保するつもりだったのだろう。だがここで予期せぬ事態が起きた。驚いたブッチは「わァ!」と声を上げた。実際、このとき一番大騒ぎをしてもよい権利を誰かが持っていたとしたら、ブッチをおいて他にはいない。何しろアイスノンが卵を産んだのだ

淡い水色をしてどこか透明感のある、アクアマリンの原石にも似たちいさな卵はじつに美しかった。わたしもあんなに美しい卵はかつて目にしたことがない。だがその感動もほんのわずかな間だけだった。未来ある明るい世界に初めての一歩を踏み出した卵は、抱えていたアイスノンの向きがわるかったことも手伝って、あろうことかスピーディ・ゴンザレスへとくるくると弧を描きながら向かっていった。

ブッチの衝撃は察するに余りある。スピーディ・ゴンザレスにとってはほとんど無意識だったにちがいない。奴はじぶんに向かって飛んできた丸いものを軽く払いのけるようにして、あっさり砕いた。数多の危険をくぐり抜けてきた身体の、自動的にして精確な反応だ。

忘れようとおもっても、この瞬間だけは忘れることができない。それまで事の成り行きにうろたえるばかりだった温厚で気のいい肉屋ブッチは、長年追い求めてきた夢のひとつが文字通り粉々になったことを悟ると、暗く冷たい深海の水圧でぺちゃんこになったかのような絶望の色を目に浮かべた。ひょっとすると気のせいだったかもしれないが、すくなくともわたしにはそう見えた。

というのも同時にブッチは鬼のような形相で「何をしやがる!」と空気をびりびり震わすような野太い咆哮を上げ、熊のように太く力強い二の腕でスピーディ・ゴンザレスの首根っこをがしりとつかむと、後方の地面にパン生地よろしくバシンと思いきり叩きつけたからだ。あっという間だった。

勝負はついた。マンホールは開けられもしなかった。




28: シュガーヒルの用心棒



わたしたちの対決は思いもよらない形でこうして決着をみた。失ったものの大きさについては計り知れない(でなければ計りづらい)ものがあるとおもうが、ともあれこれ以上なく重要なカードを手にしたことはまちがいない。

スピーディ・ゴンザレスは座席下の工具箱にあったロープでぐるぐる縛られて、今や力なく地面に胡座をかいていた。顔が3倍くらいに腫れ上がっているのは、ハンス号を降りたブッチにこっぴどく殴られたせいだ。初めて目にしたときはセーラー服を着たアヒルのようだとおもったが、こうして改めて向き合うとやはりセーラー服を着たアヒルに見える。正気を取り戻した立役者ブッチは膝を抱えてうずくまり、涙をはらはらこぼしていた。

「まいるね」とスピーディ・ゴンザレスはコブだらけの顔を息で冷やそうとフーフー吹きかけながら言った。「さすがにこうなるとは思ってなかった。死ぬぜ、ふつう」
「気の毒にね」とわたしは言った。「同情するよ。口先だけで良ければだけど」
「タバコをくれ」
「ないよ」
「ないはずないさ。オレのポケットにあるんだから。まァゆっくり話そうぜ。オレとしても用は済んだんだ」
「失敗を成功みたいに言うんだな」
「いや、顔がボコボコになったこと以外は、おおむね予定通りだよ」
「つかまって縛られることが?」
「お前らとここにいることがさ。オレは別に果たし状を突きつけたかったわけじゃないんだ」
「ひと言もなくいきなりドンパチ始めたくせに何を言うんだ」
「挨拶だよ。クラッカーみたいなもんだ。みんなやるだろ?」
「やらないよ!どこの国の風習だ」
「そう?そりゃわるいことしたな」とスピーディ・ゴンザレスは肩をすくめた。「クラッカーのひとつも鳴らないなんて、そんなさみしい人生を送ってるとはおもわなかったから」
「大きなお世話だ」
「命を狙われてるとでもおもったわけ?」
「おもったよ!当たり前じゃないか!」
「おいおい何だよ、呆れたな。ちょっとはユーモアのセンスを磨いたほうがいいぜ」
「軍事訓練の必要なユーモアなんてご免だよ」
「まどろっこしいとはおもわなかったのか?」
「何が?」
「命を狙うってのはそもそも、わりと積極的な行為だぜ。だろ?」
「積極的に仕掛けてきたじゃないか!」
「あんなのはただのコールアンドレスポンスだ。そうじゃなくて、本気で仕留めるつもりなら肉屋で待ち合わせなんかしないってことさ」
「待ち合わせなんてしたおぼえはないけど」
「片思いか。まあそれでもいいさ。考えてもみろよ、来るかどうかわからない相手が本当に来た時のきもちの昂りを!」
「ロマンチックにまとめられても困る」
「アイツならわかってるとおもうけどな」
「アイツ?」
「タバコをくれって言ったろ。手も足も出ないんだ。取ってくれてもいいじゃないか」

どうも相手のペースに持ち込まれているようにおもわれて気に入らなかったが、かといってここで張り合ってもしかたがない。わたしはスピーディ・ゴンザレスのポケットからタバコの箱を取り出してやった。

「ありがとう」と言いながらシュガーヒルの用心棒はさらに注文をつけた。「いや、2本だ。それでいい」
「2本いっぺんに吸うのか?」
「2回吸う手間が省けるだろ。火は?」
「ああ」とわたしは面倒になってため息をついた。「火ね。もうちょっと暑くて乾燥するようになったら自然発火することもあるんじゃないかな」
「おい、殺生なこと言うなよ。つれないぜ」
「待つのは得意なんだろ」
スピーディ・ゴンザレスは目を細めた。「ふむ。じゃあしかたがないな。先に言っとくけど、イヤな顔するなよ」
「イヤな顔?」

認めたくはないがそれはじつに、そしてあまりにも鮮やかな手際だった。すこし離れたところでうなだれるブッチを慰めていたみふゆまでがそれを見て「わ!」と驚いたくらいだ。スピーディ・ゴンザレスの体をキツく締め上げていたロープは、ぱらりとほどけて地面に落ちた。いくらかでももがく様子をみせるならともかく、首にかけていたチョーカーを外すような軽い動作であっさり縄を抜けるなんて、想定外にもほどがある。呆気にとられたわたしたちは、我に返って身構えた。

「待て待て!イヤな顔するなって言ったろ。頼みを断ったのはそっちじゃないか。これくらいなら何でもないんだ。挨拶は済んだし、今すぐ帰ろうってつもりもない。ゆっくり話そうぜって言ったのは誰だ?オレだろ?どうも調子が狂うな。聞いてなかったのか?」
「調子が狂うのはこっちだよ」とわたしはかろうじて言った。「手品もつかうんだな」
「まあね。ところでお前は誰なんだ?」
「何だって?」
「まさか4人もいるとは思ってなかった」スピーディ・ゴンザレスは自由になった手で2本のタバコに火をつけるともくもく煙を吐き出した。「オレはそっちでそっぽを向いてる奴に会いにきたんだ。なァ次郎吉」




29: シュガーヒルの用心棒 その2



一瞬わたしはドキリとした。聞き違えたかともおもったが、考えてみればわたしはスピーディ・ゴンザレスの顔を知らないのだ。勝手にそう思いこんでいただけで、目の前にいる相手は全然関係のない別の誰かなのかもしれない。ひょっとすると互いに何かとんでもないまちがいをしでかしているのではないかという思いがよぎったのもムリはなかった。

「えーと」とわたしは戸惑いながら確認した。「スピーディ・ゴンザレス?」
シュガーヒルの用心棒はあっさり認めた。「そうだけど?」
「ジロキチというのは?」
「というのはと言われてもね」とスピーディ・ゴンザレスは訝しむように眉間にしわを寄せた。「何なんだお前ら?どういうつながりなんだ?」
「彼の名前はイゴールだよ。アンジェリカの執事で、次郎吉じゃない」
「イゴールね。どっちでもいいけど、オレにはあまりピンとこない名前だな。なぜ黙ってる?」
「べつに黙ってないよ」
「お前じゃない。アイツに言ってるんだ」
わたしは振り返って問題の人物に目をやった。「イゴール?」
「何でございましょう?」
「友だちなわけ?」
「いえ」とイゴールはきっぱり否定した。「たしかに古い顔馴染みでないとは言えないかもしれませんが」
「知り合いではあるわけだ」とわたしはまとめた。「そのへんすごく気になるけど、スワロフスキを探さなくちゃいけないんだ。掘り下げるのはやめておこう。アンジェリカはどこで何してる?」
「さァ。オレに聞いてるわけ?」
「さァってことはないとおもうよ、さすがに」
「知るわけないよ。さっきも言ったろ?オレはアイツに会いにきたんだ」
「今さら温め直せる旧交があったようにはみえないけど」
「こうギャラリーが多くちゃ照れくさくもなるさ」
「しらを切ってもしかたがないぜ」
「いやいやいや」とスピーディ・ゴンザレスは驚いたように言った。「そんなつもりはまったくないよ。ぜんぶ正直に話してる。オレはアイツと腹を割って話をしにきた。それだけさ」
「話というのは?」
「もうちょっと具体的に言うと、まァちょっとは落ち着けよって感じかな」
「ぜんぜん具体的じゃないぞ」
「あのな」とスピーディ・ゴンザレスはもくもく煙を吐き出しながら苛立たしげに言った。「オレからしちゃ、ここにぞろぞろと4人もいることのほうがよっぽど謎なんだ。そろいもそろって、アンジェリカに何の用がある?」
「アンジェリカを知ってる?」
「知ってるよ、もちろん」
「さっき知らないって言ったじゃないか」
「アンジェリカを知らないとは言ってない。どこで何をしてるかは知らないと言ったんだ。何しろオレは今ここで顔をボコボコに腫らしながらのんびりタバコをふかしてるんだからな。知りようがないだろ」
「わたしたちがこんな目に遭わなくちゃならない理由を知りたいんだよ」
「おいよく見ろ。こんな目って言えるような目に遭ってるのはむしろオレのほうだろ」
「自業自得だね」
「アンジェリカが心配だってんなら、そいつは保証できるよ。その心配はぜんぜん無用だ」
「いや、心配はしてない」
「じゃなぜ後を追う?家で待ってりゃいいじゃないか?」
「行きがかりってものがあるんだよ。何度帰ろうとおもったかわからないけど、途中でハードな鬼ごっこが始まったんだ。帰りたくても追われてたんじゃおちおちお茶も飲んでられない」
「帰るってんなら、止めないよ。オレも追わない。こっちとしても歓迎できる決着だね」
「あとはアンジェリカを家で待てばいい?」
「そういうこと」
「じゃ帰ってくるんだな?」
「知るかよ。子どもじゃないんだから、そんなことはじぶんで決めるだろうさ。これはオレがここにいることとも関係がないわけじゃないんだ。つまり……」
「つまり?」
「ほっとけよってこと。付け加えて良ければ、オレとここでつもる話に花を咲かせようぜってとこだ」
「つもる話なんか別にないよ」
「お前じゃないって言ってるだろ。何度も言わせるな」
「スワロフスキさまについては?」とここで初めてイゴールが口をひらいた。もちろんスピーディ・ゴンザレスに対してだ。ふだんからは想像できないような冷たい物言いに、わたしも少なからず驚きながらイゴールをみた。
「よう、やっと口をきいてくれたな!その声、なつかしすぎるぜ」
「どうかと訊いてるんだ」
「そんなよそよそしい顔すんなよ」
「ゴンザレス」
「お前にそう呼ばれるとギョッとするな。さっきからちょいちょい出てくるそのスワ何とかってのは誰なんだ?」
「甘鯛のポワレ教授のひとり娘だよ」と代わりにわたしが答えた。「ちっちゃな女の子だ。探してほしいとたのまれてる」
「あ」スピーディ・ゴンザレスはしまったというような顔をした。「あのチビか」




30: スワロフスキの行方



「むむ」とスピーディ・ゴンザレスは初めて言い淀んだ。「そこを突かれるとオレも弱い。しかしまァ、楽しくやってんじゃないかな、今ごろ」
「知ってるんだな?」
「知ってるというかまァ……ことの次第はね」

どうやら話が核心に近づいてきたらしい。わたしは心の中で大きく伸びをしながら、ここでようやく腹をドシンと据えることができた。これまで控えめにみても長すぎる回り道をさせられてきたが、正念場があるとすればまちがいなくここだ。これ以上はぐらかされるわけにはいかなかった。

「ブッチ」とわたしは相変わらず膝を抱えてうなだれる肉屋を呼んだ。「ショックを受けてるとこわるいけど、たのみがあるんだ」
ブッチは顔を上げた。「なんですね?」
「コイツをもう1回ふんじばれ」
「待て待て待て!あちッ」とスピーディ・ゴンザレスは足に落ちたタバコの灰をパタパタはたきながら言った。「そう慌てなさんなよ」
「慌ててるのはそっちじゃないか」
「くそ、火傷した。あのチビが無事かってことなら、めちゃめちゃ無事だよ。心配ない」
「どうして言い切れる?」
「でないと意味がないからさ」
「シュガーヒルにいるってこと?」
「たぶん【Sweet Stuff】だ。危害どころか、ケーキ三昧だとおもうね。オレもこの件の中心にいるわけじゃないんだ。シルヴィアの姐御に、もし次郎吉が出張ってくるようなら足止めしといておくれ、と頼まれただけだからな。親心ってやつさ」
「シルヴィア?」
「シュガーヒル・ギャングの元締めです」とイゴールが言った。
「その元締めがどうしてスワロフスキを連れ去るんだ?」
「連れ去るというか、ほとんど接待みたいなもんだよ」
「どっちでもいい。それがアンジェリカとどう関係してくるんだ」
「姐御は気を揉んでるだけで、率先して動いてるわけじゃない。姐御にはバカ息子がひとりいるのさ」
「それで?」
「それで……つまり、オレが次郎吉を足止めする理由がここにあるんだよ。アンジェリカは何か言ってたか?」
「いや」とわたしは言った。「何も言わずに出て行ったから、首をかしげてるんだ」
「だろ?話せば黙っちゃいないとわかってたからさ。お前は主人の帰りを愚直に待ってるべきだったんだ、次郎吉」
「屋敷を出たのはイゴールの責任じゃないよ。どちらかといえばわたしの責任で、突き詰めていくとスナークがわるい」
「スナークか!」とスピーディ・ゴンザレスは忌々しげに言った。「アイツが余計なことをしなけりゃオレも肉屋を張るなんて仕事はしなくて済んだんだ。昔のよしみでアンジェリカの留守を教えてやったのに、恩を仇で返すような真似をするから困る」
「スワロフスキを連れ去ったのは誰なんだ?」
「さっきも言ったろ。バカ息子さ。というか実際にはまァ、三下だな」
「何のために?」
「そうでもしないと出てこないだろ、アンジェリカは」
「人質にしたんだな」
「その言い方が適切かどうかは議論の余地があるとおもうね。誰にも気づかれないようにそっとチビを招待して、下にも置かないもてなしぶりをアンジェリカに伝えただけとも言えるだろ?ことを大袈裟にしようとすんなよ。言葉遣いひとつで印象がくるっと反転することもあるんだぜ」
「用があるならじぶんで出向きゃいいじゃないか」
「奥手なんだろ」
「むしろ不遜に見えるよ」
「そうかもな。ただまァ、出向いたってどうにもならないことを知ってるのさ」
「だからって呼びつければそれで話がつくとはおもえないな」
「そのとおり。そこであのチビのお出ましってわけだ」
「どういう意味だ?」
「興味津々だな、おい」シュガーヒルの用心棒はこらえきれない様子で笑い出した。「こっから先は有料にしてもよさそうだ」
「いいとも。ムール貝博士につけといてくれるならね」
「ムール貝博士?仲が良いんだな」
「べつに良くはないとおもうけど」
「オレはわりと良いほうだぜ」
「ただ、わたしは博士の助手なんだ」
「おっと。そりゃ正気じゃないな」
「残念ながらね」
「お前の顔を博士のとこで見かけた記憶はないぜ」
「わたしもあんたがお得意様だってことをさっき電話で初めて知ったんだ」
「なるほど。そりゃたしかに分がわるい。博士に金を貸してもロードローラーで念入りに踏み倒されるのがオチだろうからな」
「わたしもなるべくならあんまり笠に着たくはないね」
「冗談だよ。気にするな。チビをもてなしてるのは呼びつけるためじゃない。イエスと言わせるためなんだ」
「誰に?」
「アンジェリカに決まってるだろ。他に誰がいる?」
「何を?」
「そろそろ察しても良さそうなもんなのに、お前もたいがい鈍いな。話してもいいけど、次郎吉の神経に障るのはまちがいないぜ。アンジェリカが黙って出て行ったってんならそりゃ、心配ないってメッセージの裏返しでもあるんだ。だろ?オレがこうしてここにいるのもそうだ。オレの忠告を聞き入れる余地はまだ全然あるとおもうね」
「忠告というのはつまり……」
「ほっとけってこと。付け加えて良ければ……」
「それはさっき聞いたよ」
「そう?聞いてなさそうにみえたけどな」
「どうする、イゴール?」
「構いません」とイゴールは即答した。「お嬢さまの意に沿うことがわたくしの仕事なら、同じようにお嬢さまにたかるハエを追い払うのもわたくしの仕事です」
「ハエか」とスピーディ・ゴンザレスは笑った。「言い得て妙だな。だがその忠誠心が却ってことをややこしくする場合もあるんだぜ。わかってるのか?」
「構わないって言ってるだろ」とわたしは言った。「そんなにややこしい話なのか?」
「いやいや、話はいたってシンプルだ。実際のとこ、もったいぶるような話でもない。アンジェリカは求婚されてるのさ」




31: アンジェリカの結婚



これまでさんざん驚かされつづけてきたわたしにとって、それはちっとも驚くに値しない話だった。むしろようやくまともな話がでてきた、と肩の荷が下りたようなきもちになったくらいだ。アンジェリカが結婚だって?結構なことじゃないか!こんがらがった話の帰結がこんなにシンプルなことなら、スピーディ・ゴンザレスの言うとおり屋敷でハムをつまみながらアンジェリカの帰りを待っていたって全然問題なかったとさえおもえてくる。どうやらわたしたちは向き合うべき事実の大きさとくらべて、すこしばかり大立ち回りを演じすぎたらしい。話の流れからいつの間にか何となくアンジェリカを救い出すような使命感に火がつき始めていたが、その火も慌ててパタパタと消さざるを得なくなった。手に汗にぎるあの決死のカーチェイスはいったい何だったのか?それから半ばプロファイリングを気取ったわたしの必死な推理は?

だがもちろんよくよく考えればスワロフスキの身柄がシュガーヒル・ギャングの手にある以上、話はそう単純ではなかった。イゴールは表情を変えずに黙って話をきいていた。

「じつを言うとこれまでもこんなやりとりは何度かあった」とスピーディ・ゴンザレスは2本のタバコをくわえた口の右と左からプーと煙を吐いた。「だがまァ、それじゃあんまり捗がいかないってんで勝負に出たんだろうな、今回は」
「それで誘拐?」とわたしは言った。「人質の解放と引き換えとはまた、ユニークな求婚だな」
「なんだってそういちいち意地がわるいんだ?オレにはむしろ、話のついた暁にあのチビが親しみをこめてお辞儀をする絵が目に浮かぶね。こっちとしても『どういたしまして』で万事まるくおさまって、めでたしめでたしだ。だろ?」
「甘鯛のポワレ教授が素直にそう受け取ればね」
「教授だってチビの笑顔をみれば矛を収めるさ」
「要はシュガーヒル・ギャングのぼんぼんがアンジェリカに一方的に懸想してるってことか」
「そういうこと。オレとしちゃべつにバカ息子に義理はないが、あれでもいちおう次代のボスだからな。シルヴィアの姐御によろしくと言われりゃ無碍にもできない」

事情はすっかりわかった。わかってしまえば、どうということもない。スワロフスキのことは心配だが、その安否がアンジェリカの肩にかかっているのだとすれば、すでに解決は保証されているようなものだ。まずまちがいなく安全に帰されるだろう。何より愛すべきスワロフスキにとってわずかでも不利益になるような選択を、アンジェリカは絶対にしない。

ただ、だからといってアンジェリカが取引に応じるかというと、それもまったく想像できない。二兎を追って二兎を得る、三兎を追うなら三兎を得るが信条と言っても良い彼女をおもえば、相手の要求(求婚)をのまずに、かつスワロフスキを奪還するという結論がいちばんしっくりくるようにおもえる。彼女にとって選択とは「取捨」ではなくつねに「取取」であり、理想とは現実の同義語でしかないのだ。

そしてもちろん、これは成功するだろう。それくらいのことはアンジェリカにとって何でもない。彼女はいつだって勝者の側に立つことを運命づけられているような人物だ。場合によってはシュガーヒル・ギャングの連中が全面的に調伏されて幕を閉じる可能性すらある。問題はどこにも見当たらない。わたしたちにできることといったらもはや、すべてが終わった後にせいぜいおつかれさまと労ってやるくらいしかなさそうにおもえた。

しかし…だからこそわたしはどこか棘のようなちいさな引っかかりをおぼえた。どうも釈然としない。いくら何でもそれでは話があまりに簡単すぎる。シンプルというよりはイージーだし、問題がないというよりはむしろなさすぎるのだ。部外者たるわたしでさえ容易に結末の想像がつくような筋書きなのに、よりにもよってアンジェリカ相手に求愛を試みるような輩がそのあたりのことを何も考えていないなんてことがあり得るんだろうか?

勝負に出たんだろう、とスピーディ・ゴンザレスは言った。しかし初めから挑んだ相手の完全勝利しか用意されていないような負け戦の、いったいどこが勝負だと言うのか?

「よくわからないな」とわたしは真意を尋ねた。「本当の目的は何なんだ?」
「本当の目的?」スピーディ・ゴンザレスは眉間にしわを寄せた。「何のことだ?」
「そんな場当たり的な計画がうまくいくわけないってことだよ」
「そうかね?」
「相手はアンジェリカなんだぞ」
「知ってるよ。そう言ったのはオレだ」
「スワロフスキの解放と引き換えにアンジェリカがプロポーズを受けるだなんて、まさか本気で思ってるわけじゃないだろう?」
「ん?……ああ、引き換えって、そうか。交換条件だと思ってるんだな」
「別の目的があるんじゃないのか?」
「いやいや、目的は同じだよ。しかしまァ、おめでたいやつだ」
「何だって?」
「目的は最初に言ったとおり、アンジェリカにイエスと頷かせることだ。シンプルだって言ったろ?そこに嘘はない。ただあのチビの持っている意味が、ちょっとばかり違うのさ」




32: 正しい人質の使いかた



「意味がちがう?」とわたしは言った。
「チビの解放に条件があるように見えてるってことだろ、要するに?」
「話を聞けばそういう構図にしかならないね」
「そこがズレてんのさ。答えがイエスかノーかにかかわらず、アンジェリカが来た時点でチビは返される。それはもう初めっから決まってることだ。アンジェリカはだから、ただ迎えにいくようなもんだな」
「イエスとノーにかかわらず?」
「そうとも」
「アンジェリカがノーと言っても、スワロフスキは家に帰れる?」
「もちろん」
「イエスと言わせるためだと言ったじゃないか」
「言ったね、たしかに」
「意味がさっぱりわからない」わたしは眉間にしわを寄せた。「いったい何を言ってるんだ?」
「それはお前の視点がズレてるからだよ。誘拐だの何だのって物騒なことを勝手に思い描いてたのはそっちなんだぜ。オレはひとこともそんなこと言ってない。だろ?言葉に気をつけろってのはそういうわけだ。そもそも、交換条件なんかじゃないんだよ、別に」

スピーディ・ゴンザレスが何を言っているのか、わたしには理解できなかった。本当にわからなかったのだ。イエスと言わせるための計画なのに、ノーと言ってもスワロフスキが無事なのだとすれば、それはもうどう考えたって矛盾している。ただアンジェリカを苛立たせるだけで、何にもならないじゃないか?そんなボロ切れみたいな計画のどこにイエスと言わせる要素があるのだろう?

「やれやれ」とスピーディ・ゴンザレスは呆れたように肩をすくめた。「ユーモアのセンスもそうだけどな、もうちっと想像力ってものを養ったほうがいいぜ。あのアンジェリカが交換条件になんか応じるわけがないだろ。2羽のウサギを追って、3羽のウサギを持ち帰るようなやつだぞ」
「だから訊いてるんだ。何か他にべつの目的がないとすれば筋道が立たないじゃないか」
「いやァ、立つとも。これ以上ないくらいまっすぐな筋道だ。考えてもみろ、交換条件てことはつまり、断るならチビの安全は保証しないと宣言することになるんだぜ」
「そうしてるんだと思ってたよ、わたしは」
「その時点でアンジェリカの怒りを買っちまうじゃないか」
「当たり前だ」
「こっちとしてもチビに手をかけるのは本意じゃない。金とちがって、愛情はそれをすると二度と手に入らなくなるからな。相手が格下ならともかく、アンジェリカ相手にそんな交渉は事態を悪化させるだけだ。メリットどころか意味すらないね。だろ?」
「だからそう言ってるじゃないか」
「じゃあとっとと視点を切り替えるんだな。よく考えろ、アンジェリカの怒りは買いたくない。だから交換条件にはしない。チビは初めから安全が保証されている。だが……」
「何だ?」
「あのチビをアンジェリカの目の届かないところでそっと招待した、という事実がちょっとしたメッセージになる」
「メッセージ?」
「おいおい、手にかけようと思えばいつでもできるってことだよ」
わたしは頭に血が上るのを感じた。「何だと?」
「お前の察しがわるいせいで、こっちはジョークのおもしろさを解説するようなバカバカしさでいっぱいだってのに、めんどくさいやつだな!」
「聞き捨てならないことを言うからだ」
「ちゃんと理解しろよ。手にかけるとは言ってない。いいか?そうは言ってないんだ。それじゃ交換条件といっしょだろ。そう受け取れるってだけのことだ。そもそもそんなこと望んじゃいないってさっき言ったろ?アンジェリカだってそのへんのことはよくわかってるだろうさ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「一度きりの交換条件とちがってこの場合は『いつ心変わりするかわからない』って不確定要素がつねにつきまとうんだ。ノーと断ってもチビがすんなり帰される以上、アンジェリカとしてはそれ以上どうにもできない。一方、帰ったら帰ったで一件落着かといえば、むしろ逆だ。わかるか?このやりとりの肝は、チビを安全に帰すことそれ自体が不安の種になるってところにあるんだよ」
「それはつまり……」わたしは絶句しながらゆっくりと言葉をしぼりだした。「いつかスワロフスキがイヤな思いをするかもしれない可能性だけをいつまでも残しておくってことか?」
「断定するなよ。そう解釈できる状態でフリーズドライにしとくのさ」
「もしそのへんのことをアンジェリカが理解してるとしたら、すでに交換条件と同じかそれ以上に怒りを買ってるんじゃないのか?」
「理解してんじゃないかな。でないとそれこそ意味がない。ただ交換条件とちがってこれは、ハッキリとした意志を表明したわけじゃない。だろ?『言ってはいないが、そう解釈することもできる』というくらいのことでしかないんだ。そんなふわふわしたものに対してあからさまに腹を立てるほど、アンジェリカは愚かじゃないとおもうね」
「何か起きる前にシュガーヒル・ギャングの殲滅を決意するかもしれない、とは考えないのか?」
「あのな、さっきも言ったがチビは今、丁重にもてなされてるんだぜ。チビからしたら悪い印象なんか持ちっこないんだ。不安だってだけで殲滅するなら、それをどう説明するんだ?」
「スワロフスキには黙っていればいい」
「秘密ってわけだ」とスピーディ・ゴンザレスは愉快そうに笑った。「あのアンジェリカがね!ま、それができるんならそれもいいだろうさ」


わたしは呆然とした。イエスとうなずく要素どころか、イエスとしか言えない謀(はかりごと)がそこにはあった。




33: わたしたちにできること



さて、語るべきことはもうさほど多くない。わたしは筆を割きすぎた。

結局これは、どこまでいってもアンジェリカ一人の問題でしかなかったのだ。仮にわたしたちがスワロフスキの奪還を目論んだところで、もとより帰される予定なのだからちっとも意味がない。かといってアンジェリカに加勢しようにも、建前上は何ひとつ起きていないのだからそもそも加勢のしようがない。これをもうちょっと突き詰めると、じぶんたちの奮闘が何から何まで全部まるごと一切合切ムダだったという、正面から受け止めるにはわりとショッキングな事実にぶち当たるのだが、その点についてはあまり触れないでおこう。ブログとしての体裁をかなぐり捨ててまで費やしてきたこの3ヶ月を「おおむね無意味でした」のひと言で片づけてしまうのは、わたしとしてもさすがに忍びない。

手記のはじめのほうでわたしは「缶切りがほしい」と言った。だがこれまで向き合ってきたのはどうも缶詰ではなく、瓶詰めだったらしい。スピーディ・ゴンザレスの登場によってようやく手にしたかにおもえた缶切りも、こうなると単なる鉄クズでしかない。さんざんな遠回りと全身全霊の空回りをこうして延々したためてきたのはつまり、気持ちのやり場がどこをどう探してもまったく見当たらないという、その腹いせのためだったことがこれでわかってもらえただろう。

わたしたちの出番は終わった。というか実際には出る幕など初めから1秒たりともなかったのだが、それでもすごすごとこのまま屋敷に戻り、あの阿片にも似た神秘の生ハムにふたたび耽溺することを選ばなかったのは、ひとつにはいつの間にかそばに来て話をきいていたみふゆが「ねえさまを迎えにいきたい」と言ったからだ。

できることは何もない。ことによると邪魔になるだけだ。ブッチが望む商いの交渉にしたって何も今このタイミングでなくてもかまわないだろうし、わたしにいたってはみふゆの引率という役目以外、もはやこれといった用向きも格別ないのだから、誰よりもお呼びでないことはわかりきっている。

だが、わたしとしてもアンジェリカが最終的にどんな判断を下すのか知りたいというきもちがやはりあった。誰だって隣り合わせで並んだ2つの部屋に、同時に入ることはできない。それを知ってもなお、アンジェリカはブルドーザー的な手腕で強引に入ろうとするんだろうか?

だからというわけでもないが、迎えにいく、というのはなかなか良いとおもった。役に立とうと立つまいと、アンジェリカとスワロフスキがそこにいるのなら、みふゆを連れていく意味はある。ブッチはついでだ。

「ふーん。ま、いいんじゃないの別に」とスピーディ・ゴンザレスは案外あっさり頷いた。「行ったところでどうにもならんてことを、承知の上で行くんだからな。要は野次馬だろ。見物だけならオレだってしたいとこなんだ。好きにすりゃいい」
「べつに許可は求めてないよ」
「次郎吉は置いていくんだろうな?」
「イゴール?いや、いっしょに行くよ、もちろん」
「おいおいおい。そりゃないぜ。オレが何のためにここに来たのか、忘れたわけじゃないだろ?コイツを足止めするためなんだぞ。お前らはもともと勘定に入ってないからどうしようと知ったこっちゃないが、次郎吉だけはダメだ。オレの立つ瀬がなくなっちまう」
「あんたの立つ瀬なんかそれこそ知ったこっちゃないよ」
「あのな、オレは感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはこれっぽっちもないんだ。その態度はいただけないね。ボコボコに殴られたのは誰だ?ことの次第を話してやったのは誰だ?オレはべつに脅かされたから話したわけじゃない。いい時間つぶしになるとおもったから話したんだ。あんまり図に乗ってほしくないね。ロープを断ってもこうして平和的に向き合ってやってるだろうが?もらうもんだけもらってとっととずらかるってんなら、そりゃ追いはぎと大差ないぜ」
「シュガーヒル・ギャングの一員がどの面下げてって感じだな、わたしからしたら」
「お前らにどう見えてるのか知らんが、オレはわりかし融通のきく立ち位置なんだ。シルヴィアの姐御に恩義はあっても、シュガーヒル・ギャングに義理はない。どっちにつくかと言われればそりゃ決まってるが、それも相対的な話さ。べつに忠誠を誓ってるわけじゃない。でなきゃこうしてぺらぺら喋るはずがないだろ?」
「単におしゃべりが大好きって感じにみえるけど」
「好きだとも。口と尻とフットワークが軽いって三点セットがオレの身上だ」
「どちらかというと迷惑な本領だな」
「その恩恵に与っといてよく言うね」
「けっきょく何もできないことがわかっただけじゃないか。聞かなくたって同じことさ」
「だいたい、何でお前が仕切ってるんだ?見たとこ、いちばん出しゃばってるお前が最大の部外者なんだぜ。ちっとはわきまえろと言いたいね、オレは」
「むむ」とわたしは言葉に詰まった。「それはわたしもうすうす感づいていたけども」
「ピス田さま」とここでイゴールが口をひらいた。「お気持ちはもう十分に頂戴いたしております」
「こんなやつの言い分を真に受ける必要はないよ、イゴール」
「いえ、もとより他にないと臍を固めておりました。わたくしは屋敷に戻ります」




34: 手品師の気まぐれと意外な成り行き



その意外な申し出に、わたしはいささか拍子抜けした。「行かないって?」
「行けばアンジェリカを困らせるからだろ」とスピーディ・ゴンザレスが代わりに口をはさんだ。「もともとオレらの利害はそれほどズレちゃいないんだ。オレとここで昔話に紫陽花でも咲かせるのがいちばんいいってことさ」
「行かなくていいの?」
「かまいません。ただ賢いハンス号が…」
「ハンス号?」
「ここから Sweet Stuff まではいささか距離がございます」
「あ、そうか」
「免許はお持ちでいらっしゃいますか」
「持ってない」とわたしは首をふった。「そうか。誰かに運転してもらわないといけないんだ。ブッチはどうかな。ブッチ?」

パンツ一丁の肉屋は相変わらず心ここにあらずといった様子で、ふわふわと視線を宙に泳がせていた。

「何だってあのおっさんはあんなに惚けてるんだ?」とスピーディ・ゴンザレスが訝しげに言った。
「あんたが卵を割ったからだよ!」
「卵?卵って何のことだ」
「アイスノンがさっき産んだじゃないか。まさかじぶんがボコボコに殴られた理由もわかってなかったって言うんじゃないだろうな」
「アイスノン……ああ、あの鶏か。そういやアレも久しぶりに見たな。卵を産んだって?いつ?」
「あんたがぶん殴られる直前だよ」
「ふーん。そりゃ気がつかなかったな。しかしだから何だって言うんだ?どのみち無精卵だろ」
「肉業界じゃちょっとした騒ぎになるくらい貴重な鶏なんだそうだ。もちろんその卵も」
「へえ!何だ、そうなのか。そうと知ってりゃ手放さなかったのにな。どれ」と言いながらスピーディ・ゴンザレスはおもむろに立ち上がり、ブッチのほうへ近づいていった。
「手放す?」とわたしもブッチに目をやりながら、誰にともなくつぶやいた。

わたしたちが仰天して目を瞠ったのはこのあとだ。スピーディ・ゴンザレスは2本のタバコを口にくわえたまま、うなだれるブッチの前にかがんだ。アイスノンは格別それを気にするでもなく、ブッチの胡座の中心にすっぽりおさまってとろとろと微睡んでいた。わたしの視界にあった風景と言ったらこれだけだ。アイスノンが背を撫でられていたような気もするが、よく見ていなかった。気がつくと、スピーディ・ゴンザレスの右手のひらにはあの淡い水色の卵がひとつ乗っていた。縛っていたはずのロープがぱらりとほどけたときと同じだった。それに気づいたブッチも埴輪みたいに目と口を丸くしながら、二の句の継げない様子が見て取れた。

「卵だ」とわたしはおもわず声を上げた。「何で?」
「何でってこともないだろ」とスピーディ・ゴンザレスは事も無げに言った。「鶏は卵を産むもんだ」
「まるで飼ったことがあるみたいに手慣れてるじゃないか」
「こんなキテレツな鶏、飼ってたまるか」
「それにしちゃ扱いが……」
「こいつはもともとオレが旅先で拾ってきた鶏なんだ。それをアンジェリカに譲ったんだよ」
わたしが無言でイゴールを見やると、イゴールも同じ戸惑いの表情で首をふった。知らなかったらしい。
「あれ?でもそれとこれとは」とわたしは言った。「別なんじゃないの」
「知るかよ。お前が聞いたから答えただけだ」
「何をしたんだ、いったい?」
「さっきも言ったろ」スピーディ・ゴンザレスは卵をブッチの手に乗せながら、飄々と言ってのけた。「これくらいなら何でもないんだ。ホラおっさん、しゃきっとしろよ、いい加減」
「うーむ」とわたしは呆れた。「だんだん憎めなくなってきた」
「憎まれる筋合いなんかないって言ってるだろ、初めっから」
「ブッチ、車は運転できる?」
「運転?」ブッチも頭の中にたちこめていた霧が徐々に晴れつつあるようだったが、それでもまだ事態についていけないらしくどこかボンヤリとしていた。「いや、わっしは……うむ……?」
「ブッチもダメか。やっぱりイゴールに運転してもらったほうがいいんじゃないかしら」
イゴールはすこし思案すると、思いもよらない相手に向けて口をひらいた。「ゴンザレス」
「何だ?」とシュガーヒルの用心棒は反射的に返事をしてから、ハッとしたように身構えた。「何だ?おい、冗談じゃないぞ。まさか……」
「たのむ」とイゴールは穏やかに懇願した。「お前しかいないんだ」
「オレを数に入れるなよ!」
「なるほど」わたしはイゴールの機転に感心した。「わたしとしては連れてってくれるなら誰だろうと文句はないよ。あんたも見物したいって言ってたじゃないか」
「それとこれとは話が別だ。いい度胸だな、おい」
「貸しをつくっておいて損はないはずだよ」
「貸しだと?誰にだ」
「ムール貝博士の助手たるこのわたしにさ!」
「ご免だね。博士とだったら直談判のほうが話が早い」
「たのむ」とイゴールはもう一度言った。それはじつに真摯で誠実な、紳士の態度だった。
「おい、本気なのか、ひょっとして?」
「本気だとも」
「こんなことに本気を使うなよ」
「たのむ」
「やれやれ、何の冗談だ」スピーディ・ゴンザレスは忌々しそうに舌打ちした。「オレにはお前の貸しのほうがよっぽど腹にひびくよ、次郎吉」
「恩に着る」
「それからついでにお前も」と言ってスピーディ・ゴンザレスはわたしを指さした。「ひとつ貸しだ。博士の武器庫がひとつ空っぽになっても取り繕える、うまい言い訳を考えとくんだな」
「ゴンザレス」
「次郎吉は黙ってろ」
「べらぼうだな」とわたしは笑った。「クコの実が何トン必要になるか想像もつかないよ」
「クコの実?」
「こっちの話さ」

そういうわけでまったく思いもかけなかったことに、賢いハンス号のドライバーはシュガーヒルの用心棒スピーディ・ゴンザレスに交代と相成った。おかしな取り合わせだとはわたしもおもうが、もとより混沌としたガンボ・スープみたいな話の流れだ。今さらあれこれ考えてみてもしかたがない。

イゴールはスピーディ・ゴンザレスの乗ってきたパワフルすぎるピープル(文字通り原動機付きの自転車)を使って屋敷に戻ることになった。また、いまいち判然としないひとつの奇跡によってふたたびこの世にまろび出た宝石のような卵は、アイスノンがくたびれたときのために積んであったクーラーボックスへと、今度こそしっかり納められた。正気を取り戻したブッチがそのクーラーボックスを愛おしげに抱えている。

空回りをつづけてきたわたしたちはいよいよ最後の空回りに向けて、賢いハンス号を走らせた。


タクシーを拾えば良かったのではないか?と気づいたのは、残念ながらもっとずっとあとになってからのことだ。そわそわした状況にあるとそれだけで視界がぎりぎりまでせばまってしまうという、これはじつによい例だとおもう。




35: @Sweet Stuff



シュガーヒルには苺坂という可愛らしい名前の急な坂がある。坂のとちゅうには水神を祀る苔むした社が古くからあって、ここに一匹の大きな蛙が住みついている。いつのころからか、この蛙に完熟したイチゴを食わせると恋が叶うという埒もない噂がひろまり、イチゴのパックを持ったうら若き少女が蛙を探してうろうろする姿をときどき見かけるようになったことから、苺坂の名がついた。蛙のことは近所の年寄り連中も知っているが、どういうわけか「あれは酒飲みだからイチゴなんか食わない」と言ってにべもない。彼らは苺坂と呼ばずに、千鳥坂と呼んでいる。蛙はあまり姿を見せないのか、坂にチョークで描いた蛙の絵の口のあたりに、イチゴがひと粒置いてあることもある。けなげなことだとおもう。

もちろん、Sweet Stuff とは何の関係もない。そういえば近くにそんな坂があったと思い出しただけだ。

スピーディ・ゴンザレスの運転による道中は、まったく大騒ぎだった。平気で信号を無視しようとするのにはとりわけ閉口させられた。「人も車もないんだからいいだろ、別に」とまるで気にしないものだから、いちいち悶着になって面倒なことこの上ない。前にも書いたように賢いハンス号は空気を読む自動車だから、どうも様子がおかしいと気づいた時点でそれとなく減速を試みてくれるのだが、どうしても急ブレーキが多くなってしまい、そのたびに車ごとつんのめるような格好になった。賢いハンス号でなかったら、今ごろサイレンを鳴らす白いバイクに首尾よくナンパされていたはずだ。

もっとも、上機嫌のブッチとみふゆは後部座席でキャッキャとおもしろがっていたから、わたしが神経質なだけかもしれない。でなければ彼らが無神経であるかのどちらかだ。

Sweet Stuff は先の苺坂からすこしばかり東へ行ったところの、川沿いにあった。背の高い緑に囲まれて、いつでもそよそよと木々がさざめく、のどかな環境だ。とてもギャングの本拠地とはおもえない。店自体は瀟洒な一軒家なのだが、垣根で仕切られた敷地には道に面してちょっとした庭があり、ここでお茶をたのしめるようにテーブルとそれに合わせて椅子がしつらえてある。

川に架かる橋の上からななめ前方に店をみとめたとき、まず視界に飛びこんできたのはこの庭で和やかに談笑するふたりの婦人の姿だった。ここにくるまで倫理なきスピーディ・ゴンザレスと間断なく丁々発止のやりとりをくり返していたわたしはすでにくらくらしていたが、「あ」とみふゆが声を上げるのを耳にしてさすがにパチリと目がさめた。おもわず目をこらしたのもムリはない。わたしにも見覚えがあるシルエットをそこに認めたからだ。気疲れのためにぐったりとした賢いハンス号がへたりこむようにして店の前に止まると、みふゆはまっさきに車から飛び降りた。「お母さま!

優雅にくつろぐふたりの婦人のうち、片方はまさしくコンキスタドーレス夫人だった。ハンス号からは見えなかったが、ふたりにはさまれてスワロフスキが幸せそうにケーキをほおばっている。もうひとりの婦人については最後に降りたスピーディ・ゴンザレスが後ろから耳打ちしてくれた。「あれが姐御だ。気の長いかただが、粗相はするなよ」

つまり、ある意味この物語全体の主賓とも言うべきスワロフスキに加えて、どういうわけかアンジェリカのご母堂、おまけにシュガーヒル・ギャングの頭目までが揃ってひとつのテーブルを囲んでいたというわけだ。成り行きから同乗してきたわたしたちだって相当に食い合わせのわるそうな面子だったはずだが、それすら霞む顔ぶれと言っていい。さすがにわたしも呆れ果てた。

「あら、みふゆ」とコンキスタドーレス夫人は微塵も驚きを見せずに言った。「連れてきてもらったの?」
「お姉さまを迎えにきたのです」とみふゆはうれしそうに言った。「スワロフスキ!」
「みふゆちゃんだ!」とスワロフスキがケーキの刺さったフォークを振り回して歓迎した。「みふゆちゃんもケーキ食べる?」
「まさかいらしてるなんて」とわたしはやや咎めるような口調で言った。「なぜここに?」
「ピス田さんが連れてきてくださったのね。ここでお会いできて何よりだわ」
「ご存知だったんですか、何もかも?」
「まさか。知りませんでしたよ。それこそ全然。ここに来るまでは、何もね」
「でももう、ご存知なんでしょう?」
「アンジェリカのこと?ええ、もちろん。シルヴィアに聞きました」
「だったらどうして……」
「どうして、とは?」
「おふたりは」とわたしは遠慮がちに尋ねた。「その、仇みたいなものじゃありませんか」
コンキスタドーレス夫人はそれを聞くとおかしそうに口元を押さえて答えた。「とんでもない!良き茶飲み友だちですよ、わたしたちは。昔からね」




36: 傍観者たち



わたしにとって、シュガーヒル・ギャングの頭目を目のあたりにするのはこれが初めてのことだった。シュガーヒルという限定された一画をその名に冠しているとは言え、極楽鳥エリア全体ににらみのきく荒くれ集団の頂点だ。それなりに年を召して幾分ふっくらとはしているものの、藍色をした大きめのキャスケットを小さな頭にふわりとのせ、同じ色のタートルニットに身を包んでその美しさには翳りもない。やわらかく波打つ漆黒の髪はうしろに束ねられている。唇よりも雄弁な眼光炯々たるそのまなざしに、わたしは身のちぢむ思いがした。佇まいはどちらかといえばまろやかで落ち着いた雰囲気を醸しているが、それはまた太く根をはって微動だにしない、強靭な胆力の裏返しでもあるのだろう。コンキスタドーレス夫人とシルヴィア女史、品格と美しさだけを抜き出せばどちらも圧巻で、このふたりが懇意というのもどこかうなずけるところがあった。

「ずいぶんと賑やかなことだね、ゴンザレス。え?」とシュガーヒル・ギャングの頭目はこの奇妙な状況を楽しむような表情をみせた。「いつから団体行動ができるようになったんだい」
スピーディ・ゴンザレスは隣に並んだもうひとつのテーブルに寄りかかりながら、肩をすくめた。「いいとばっちりですよ、こっちは」
「次郎吉は?」
「仰せのとおり、置いてきましたよ。その代償がこいつらってわけです」
「ふふふ。連れてきたって同じだわね、こんなことなら」
「意地のわるいことを言わんでくださいよ。ジャングイデはどこです」
「奥でアンジェリカを待ってるよ。しかしひどい顔だね」
「言ったでしょう。とばっちりですよ、これが」

どうやらアンジェリカはまだ来ていなかったらしい。わたしはまだ混乱していた。なぜコンキスタドーレス夫人はアンジェリカの窮地を知ってなおこれほどくつろいでいられるのか?また、シュガーヒルの支配者がこんなにも小さなスワロフスキを出しに使って、いよいよよこしまな目的を果たそうとしているというのに、それでもなお茶飲み友だちと言い切って憚らないのは、いったいどういう料簡なのだろう?

右手に威厳あれば左手に貫禄ある、婦人方の重圧に飲み込まれそうになりながらも意を決して問いただそうとすると、その気配を察してかスピーディ・ゴンザレスがわたしを遮った。「おい言ったろ。姐御は部外者とは言えないだろうが、といって当事者でもない。この件に関しちゃ単なるオブザーバーなんだ。責任があるとすりゃ、ジャングイデの奴さ」
「ジャングイデ?」
「この店の番頭みたいなもんだ」
「息子の話じゃなかったのか?」
「だからまァ、名代だな。アンジェリカにとっての次郎吉と同じさ」
「オブザーバーだろうが何だろうが、知ってて止めないなら同じことじゃないか」
コンキスタドーレス夫人がこのやりとりを聞いておかしそうにしとやかな笑みを浮かべた。「おかんむりね、ピス田さん」
「あなただってそうだ」わたしはだんだんいらいらしてきた。「どっちの味方なんです、いったい?」
「味方?誰と誰のことをおっしゃるの」
「アンジェリカとシュガーヒル・ギャングですよ、もちろん」
「なるほどね。そういうことなら、どっちでもないわ」
「どっちでもない?」とわたしはおうむ返しに言った。「だってスワロフスキは……」
「もちろんスワロフスキちゃんの味方ですよ、わたしは。だからこうしていっしょにお茶してるの」
「アンジェリカは?」
「アンジェリカがどうだと言うんです」
「どうって」とわたしはいささか狼狽えた。「その、もしアンジェリカがこの……この話を断ったら」
「アンジェリカがスワロフスキちゃんの不利益になるような答えを出すということ?」
「いえ、それは」
「ないとおもうわ、金輪際」
「そうです。しかし……」
「だからこれは、アンジェリカの問題なの。屋敷でもそんなことをお話ししたような気がするけれど。アンジェリカがどんな答えを出そうと、スワロフスキちゃんのしあわせが大前提なのであれば、心配することなんて何ひとつありません。それにシルヴィアとお茶が飲めて、ついでにあのコから大鎌を取り上げることができるのだとすれば、わたしにとっても具合がいいわ」
「アンジェリカは心配じゃないんですか」
「心配?」とコンキスタドーレス夫人は眉間にしわを寄せた。「いいえ。子供じゃないんですから。たのしみだわ、むしろ」
「たのしみ?」とわたしはまたおうむ返しに言った。「たのしみですって?」
「あたしがおもしろいとおもってるのはね」とここでシルヴィア女史が愉快そうに口をはさんだ。「あんたに言ってるんだよ、お兄さん。どのみちアンジェリカは年貢をおさめることになる、ってとこなんだ。ウチの嫁に来ようが、来なかろうがね。要は何をどう年貢としておさめるのか、それを見てやろうってことなのさ」

巣から転げ落ちた雛鳥のように、わたしはすっかりわからなくなってしまった。こちらの了見が狭すぎるのか、それとも向こうの度量が広すぎるのか、話の理を求めているだけなのに、どういうわけか途方に暮れる。割り切れないことこの上もない。わたしはじぶんがオブザーバーどころか単なる野次馬にすぎず、またそれ以上にはどうしたってなりようがないということをつくづく思い知らされた。

「ひょっとしてダシにされてるのは」わたしは再びくらくらと目眩をおぼえながら言った。「スワロフスキじゃなくてアンジェリカだったのか?」
「そうかもなァ」とスピーディ・ゴンザレスは安穏とした調子でうなずいた。「ダシの出ない女相手なら初めっからこんな話にゃなってないさ」

押しつぶされるような虚脱感に放心していると、往来からやわらかな風に乗って声がきこえてきた。そしてふと、わたしはブッチが庭にいないことに気がついた。それからまた、彼が今もってパンツ一丁のままであること、さらにその格好ではさすがにコンキスタドーレス夫人とシュガーヒル・ギャングの頭目という、恐るべきふたりの婦人の御前にまかり出てその肌をさらすことなど、当然できようはずもなかったことに思い至った。ブッチは賢いハンス号の影にかくれて、遠目からこちらの様子をうかがっていたのだ。

通行人にでも見咎められたのだろうとおもい、またひとつにはぐるぐると脳裏に渦巻く混乱をすこし脇に置きたかったこともあって、わたしは「ブッチ!」と声をかけながら往来に歩み寄った。身ぶりと手ぶりをおろおろと駆使して必死に弁解するブッチのそばでは、刃渡りのやたら長い大きな鎌を幟みたいに立てたひとりの女性が、呆れた表情でこちらに状況の説明を求めている。「ねえ、ちょっと」と彼女は言った。「なんか変質者みたいのがアイスノン抱いてるんだけど」

わたしはおもわずその名を呼ばずにはいられなかった。「アンジェリカ!」




37: アンジェリカの来店



書類らしき封筒を一枚手にしていることをのぞけば、アンジェリカはいたって普段どおりの様子にしか見えなかった。細身のジーンズにゆるやかな白いシャツをまとって、てらいがなければ気取りもない。おまけにビーチサンダルだ。まるで散歩に出たついでにちょっと立ち寄ってみたとでもいうような格好だった。差し迫った状況を鑑みればあんまり落ち着きすぎている。彼女にとって年貢とは、コンビニのレジで支払う公共料金とそう違わないものらしい。それにしたってもうちょっと緊張感があってもいいとわたしはおもった。

「あれ、ピス田さん」とアンジェリカは庭に足を踏み入れながら言った。「何してんの、こんなとこで?」
「お姉さま!」
「みふゆ?げッ、お母さまも」
「ご挨拶ね、アンジェリカ」とコンキスタドーレス夫人は和やかな調子でぴしりと鞭をくれた。「あなたのその鎌を回収しにきたんですよ。借りっぱなしだと田村がいうから」
「そのためにわざわざ?」
「シルヴィアとお茶がてらね」
「アンジェリカ!」とスワロフスキが再びケーキの刺さったフォークを振り回して歓迎した。
「スワロフスキ!」
イゴールのことを持ち出してよいものか判断がつかなかったこともあって、わたしは言葉をさがしながらうやむやに答えた。「心配してたんだよ」
「何を?」
「えー、いろいろ」
「イゴールは?」
「え、いや」こちらのためらいをパリンと叩き割る単刀直入の切り返しにわたしは言葉を詰まらせた。「いないよ、もちろん」
「アイスノンと賢いハンス号がいるのに?」
言われてみればそのとおりだ。うっかりしていた。むしろこの状況で知らんぷりをするほうがよほど不自然に違いなかった。「ハンス号はわたしが借りてきたんだ。あの変質者みたいのは肉屋の主人で……」
「肉屋?ちょっとまさか……」
「いやいや、ちがうよ。アイスノンじゃない。ないってこともないけど、そうじゃない」
「何なの、いったい?」
「あとで話そう。ひとことで説明するのはむつかしい」
「ま、いいけど。このギャラリーはそれで、いったい何ごとなわけ?」アンジェリカは眉をひそめた。「ドッキリ……ではないか、さすがに」
「よく来たね、アンジェリカ」とシュガーヒル・ギャングの頭目は穏やかに声をかけた。「ジャングイデが奥で待ってるよ」
「こんにちは、シルヴィアさん」
「奥に行くかね?」
「いいえ。べつに、ここでも」
「ここだとみんなが見物することになるけどね。あたしもふくめて」
「見物するようなことって、ありましたっけ?」
「あんたがよければそれでかまわないよ、もちろん」
「お茶会みたいで、素敵じゃありませんか」アンジェリカは心にもないようなことを言って、スピーディ・ゴンザレスのそばに腰を下ろした。「あんたまでいっしょになって、何してるわけ?」
「アイツが言ったろ」とスピーディ・ゴンザレスはわたしのほうを顎で指して言った。「ひとことで説明するのはむつかしい」
「じゃ、クリーム・ソーダひとつ」
「じゃって何だ。オレに言うなよ」
「ついでにジャングイデも呼んできてよ」
「じぶんで行け」
「あたしお客さんなんだけど」
「オレは店員じゃない」
「いいじゃないか、ゴンザレス」とシルヴィア女史は笑った。「呼んできておやり」
「アンジェリカ」とコンキスタドーレス夫人は言った。「鎌をお渡しなさい」
「今?」とアンジェリカは驚いたように言った。
「今でもあとでも、同じことでしょう。わたし、忘れっぽいの。だから、忘れないうちにね」

アンジェリカが持つ唯一の得物は、こうしてあっさりと取り上げられた。わたしからするとそれはアイデンティティのひとつにも匹敵するようなものだとばかりおもっていたが、ため息まじりとはいえ彼女はためらいもせずかんたんに引き渡してしまった。スピーディ・ゴンザレスは肩をすくめながらジャングイデを呼びにいき、ブッチはあいかわらず身を潜めるようにしておどおどとこちらを遠巻きに眺めている。わたしはアンジェリカがテーブルに置いた封筒にふと目をとめて、その何であるかを尋ねた。「これは?」

「あ、これ?」とアンジェリカは何でもないことのように答えた。「婚姻届」

当然というべきなのかどうか、その場にいた全員の呼吸が止まるのを、わたしは感じた。耳が取り外し可能な部品だったら、わたしだってふたつともポロリと地面に落としていただろう。ついでに目玉も落としていたかもしれない。まさかアンジェリカがそんなものを持参してくるとは、よもやおもってもみなかった。

大事なことだ。もういちど書き留めておこう。アンジェリカは、結婚を選んだ。言いたくはないがこのときのわたしにとって、それはとても残念なことだった。




38: 番頭ジャングイデとみごとな王手



婚姻届?

そこにいた誰もが耳を疑い、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。仮にそれがタタタタタと連射式であっても、気づいてわれに返るまでにはしばらくの時間を必要としたにちがいない。選択肢としては初めからずっとそこにあったのだから意外とまでは言わないにしても、受け止めるにはいささか唐突すぎたのだ。

だが、まだ先がある。粛々と話をすすめよう。

この重大な瞬間に居合わせなかったスピーディ・ゴンザレスはジャングイデを連れて戻ると、訝しげに言ったものだ。「妙な空気だな。何かあったのか?」

スピーディ・ゴンザレスのうしろには、背丈がその半分くらいしかない小太りの男が控えていた。白いワークキャップをかぶり、真っ白なひげをたくわえ、使い古された白い前掛けを腰に巻いて、なぜかそこに派手な装飾を施した短剣、ジャンビーヤを差している。ついでに言うと手も顔も小麦粉にまみれて真っ白だった。そのうえちいさな黒ぶちの眼鏡を鼻にのせて黒いTシャツだから、菓子職人というか、ほとんどパンダみたいなものだ。コロコロと転がりそうな樽みたいな腹をしきりにさすり、人の良さそうな顔をして、どことなく愛嬌がある。これが話に聞いた番頭ジャングイデだとすれば、すくなくともアンジェリカを出し抜く奸智に長けた男にはとても見えなかった。

「よいお返事はいただけそうですか、アンジェリカさん」とジャングイデはくしゃみをこらえながら言った。「エッキシ!」
「とおもうけど」とアンジェリカは顔をしかめて言った。「ガンラオヤンはいいの?」
「お気遣いなく。坊ちゃんにはアタシが責任をもって伝えます。エッキシ!」
「フーン」
「案内にふたりばかし遣わしたんですが、お会いになりませんでしたか」
「煩わしいから置いてきちゃった」とアンジェリカは言った。「そこらの川に浮いてるとおもうけど」
「エッキシ!」
「マズかった?」
「いえいえ!」とジャングイデは前掛けで鼻を拭きながら首をふった。「かまいませんです。どこにいるのかさえわかってればね。雷も落とせないようじゃ困ると案じただけですよ」
「職務怠慢てわけ?」
「そうですな。そんなようなもので」
「それはお気の毒」
「と言いますと?」
「彼らが仕事に忠実じゃなかったとしたら、そろって仲良くここに来たはずだもの」
「これはこれは」ジャングイデは饅頭みたいに丸い体を揺さぶって笑った。「エッキシ!われらがあたらしい花嫁御寮は、げにもおやさしい。つまり恩赦というわけで。身に余ることです。結構!迎えにやったふたりには目をつぶるとしましょう。では坊ちゃんのお気持ちはまっすぐにお受け止めいただいたと考えてよろしいか?」
「よろしいわ」
「よもや反古にされることはありますまいな?」
「そうできないように仕向けておいて、それはないんじゃないの」

ハイこれ、と言ってアンジェリカは先の封筒を差し出した。ジャングイデはそれを受け取って中をあらためると、ピョンと飛び上がるようにしてよろこびを露にした。「重畳!重畳!名にし負う大人物はさすがに話がはやい。坊ちゃんもさぞおよろこびになるでしょう」

いまいち事態が飲み込めずにいるスピーディ・ゴンザレスは、封筒の中身を尋ねるような顔つきでシルヴィア女史に視線を投げた。女史はつまらなそうに首をすくめて言ったものだ。「婚姻届だとさ」

じぶんの息子の縁談が思惑どおりに運ばれたのだから、つまらない顔をするというのはいささか矛盾しているようにもおもわれるかもしれない。だがそのきもちはわたしにもわからないではなかった。オブザーバーたるシルヴィア女史は、つるんとして素っ気ない単なる了承を期待していたのではなく、むしろ無理難題を吹っかけられたアンジェリカの度量を見てみたかったのだろう。アンジェリカともあろう者が、いっさいの抵抗なく無条件に要求を丸呑みしたのだから、わたしだって落胆をおぼえないわけにはいかなかった。

「いちおう確認しておきたいんだけど」とアンジェリカは言った。「それでいいのよね?」
「ええ、ええ。もちろんです。こちらからお願いするまでもなく、届けまでお持ちいただいたんですから何も……エッキシ!えー、言うことはございません。おふたりは晴れて法的にも結ばれるというわけで。いや、めでたい」
「肝心の花婿不在でね。ま、いいけど」
「お姉さま」となりのテーブルから、みふゆが不安げに発言した。「誰かと結婚するのですか」
「そうなの」とアンジェリカは微笑んだ。「おめでとうと言ってちょうだい」
みふゆは突然の成り行きに戸惑っているようだった。
「ハッピーなことなんだから」とアンジェリカはまた笑った。「心配しないで、みふゆ」
「そうですとも!」ジャングイデはみふゆに向かってバチンとウィンクしてみせた。「これ以上ハッピーなことは他にちょっと見当たらないくらいです。お姉さんにとっても、もちろんアタシらにとってもね」
「ま、ムリもないか。急な話だものね。ところでひとつ大事なお願いがあるんだけど、ジャングイデ?」
「ハイハイ。エッキシ!何なりと」
「一筆、書いてもらってもいい?今ここで」
「一筆、と言いますと?」
「スワロフスキのこと」
「はァ……」
その生返事を耳にしたとたん、雪女のようにアンジェリカの周囲が氷点下の冷気にみちた。「ちょっと……。あたし精一杯の誠意を見せたつもりなんだけど」
「もちろんです」とジャングイデは吹きつける冷気を涼しげに受け流した。わたしはこの男の凍てつくような腹黒さを垣間見たような気がした。「ええ、それはもう、エッキシ!この上ないくらいに。仰るのはつまり、身の安全ということでしょう?彼女について今後一切の手出しをしないというような?」
「そうね。ご不満?」
「いやいや逆です。逆です。ないからオヤとおもうんですよ。考えてもごらんなさい、縁談がまとまってなお盾に取る理由がどこにあるんです?こうなればむしろ……エッキシ!アタシらの媒酌人であり、キューピッドであり、何と言っても恩人じゃありませんか。涙ながらに感謝こそすれ、それを手にかけるなんて法がありますか。それでいったい、誰が得をするんです?」
「それで何?書きたくないってこと?」
「いえいえ、どうしてもと仰るのであればそれはお断りする理由もないですよ、もちろん」
「あたしだって別に婚姻届なんか持ってこなくたってよかったの。こっちがイエスと言えばそれでも済むはずなんだから。でも世間にちゃんと顔向けできたほうがいいだろうなとおもって、こっちを選んだわけ。これが誠意。その誠意に応える心意気はある?って聞いてるの。わかる?」
「ごもっともです」ジャングイデは前掛けで鼻をこすりながら頷いた。「そういうことなら、ご用意いたしましょう」
「形式ばったのはいらないわ。ここで書いてくれれば」
「ここで?」
「ここで。その封筒でいいじゃない」
「こんなのでよろしいので?」
「言ったでしょ。だいじなのは誠意で、紙切れじゃないの」

Sweet Stuff の番頭ジャングイデは顔をしわくちゃにしながらも、婚姻届を抜いた封筒にアンジェリカがどこからか取り出したボールペンでさらさらと念書をしたためた。印鑑よりも血判がいいというアンジェリカのいささか不可解な要求にも、腰に差したジャンビーヤを使っておとなしく従った。拒否する理由はどこにもない。婚姻届がある以上、どのみちこんなものはあってもなくても問題ではないのだ。彼は上機嫌だった。わたしはその様子を複雑なきもちで見つめていた。

「さて」とジャングイデは揉み手をして言った。「これでよろしいか?」
「よろしいわ、もちろん」アンジェリカはジャングイデの血判が押された念書としての封筒を受け取って、満足そうにうなずいた。「いいかんじ」
「ではこれで万事が万事、まるくおさまったというわけです。思いがけず証人となられる方々も大勢いらして、こんなにありがたいことはありません。ご覧になりましたか、シルヴィアさま?」
「そりゃみてたよ、ずっと」
「記念すべき一日です。そうはお思いになりませんか」
「どうだかね」とシュガーヒルの頭目は気のない返事をよこした。「ガンラオヤンがよろこぶなら、それでいいけど。おもしろくないといえばおもしろくない筋書きだね、どうも」
「何を言うんです、焦がれに焦がれた女性と結ばれるのに、およろこびにならないわけがないでしょう」
「そうかね」
「跡継ぎにも期待ができましょうし、そうなればこのシュガーヒルもますます盤石にしてすこぶる安泰というわけです」
それを聞くと、アンジェリカは言った。「ちょっと待って」
「エッキシ!」とジャングイデは盛大にくしゃみをした。「これは失礼。何でしょう」
「跡継ぎってなに?」
「なにってそりゃ、つまりいずれおふたりの間にお生まれになる……」
「それはまた別の問題でしょ」
「はァ、なるほど。いやたしかに、子宝というのは神様の思し召し次第ですからね。つい気が急いたようで」
「そうじゃなくて」とアンジェリカは首をふった。「体にふれていいなんて、あたし言った?」
あたりにそろそろと立ち籠め始めた冷気を察して、ジャングイデは真顔になった。「と言いますと?」
その婚姻届のいったいどこに、あたしを好きにしていいなんてことが書いてあるわけ?

それはみごとに意表をつく、鮮やかで破壊的なひと言だった。

王手というなら、ジャングイデはたしかに王に手をかけた。だがその実、厳然たる王の一手を差したのは他ならぬアンジェリカのほうだったのだ。




39: 駆け引きのゆくえ



「ふれてはならない?」
「そうよ。何か問題ある?」
「指一本も?」
「あたりまえでしょ」
「問題なら大アリです」ジャングイデの顔はみるみる赤くなった。「そんな夫婦がありますか!」
「他にあるかどうかなんて、関係ないとおもうな」
「アタシが求める結婚とはそんなものじゃありませんよ!」
「あたしさっき確認したよね?これでいいかって?」
「しかし……」とジャングイデは目を泳がせた。「しかしそれは……」
「言うことないって言ったよね?」
「こんなことでは坊ちゃんに報告ができん!」
「ぶじ結婚と相成りましたでいいじゃない。お望みどおりでしょ。何が気に入らないわけ?」
「ただしふれることまかりならぬと言い添えてですか」
「それはしょうがないよね」とアンジェリカは肩をすくめて言った。「そんな約束、初めからしてないんだから」
「そんな屁理屈がとおるとお思いか?」
「だから好きにすればいいじゃないの?晴れて夫婦になったんだから?ただそれはあたしを怒らせることにしかならないし、その結果どうなるかは責任もちませんて言ってるだけ」
「バカバカしい」とジャングイデは絞り出すように言って呻いた。「そんな都合のいい条件をつけて話を骨抜きにできるとお考えなら、それは大きな間違いです」
「あのね」とアンジェリカは冷気をつよめて言った。「あたしはその紙切れに書いてないことを認めないって言ってるだけなの。法的に夫婦となるのはかまわないし、公言されることも厭わない。あたしはガンラオヤンの嫁になることを承諾したし、それを撤回しようともおもわない。そっちの要求はぜんぶ丸ごと受け入れたのに、後になってあれこれ条件を盛りこもうとしてるのはそっちじゃないの!」
「それにしたって不文律というものがあるじゃありませんか」
「天下のシュガーヒル・ギャングが不文律をあてにするなんて、ちょっと間が抜けてるとおもうけど」
「仕切り直しだ」ジャングイデはポタリと落ちる脂汗を前掛けで拭いた。「これについてはあらためてきちんとお話をすべきです」
「ところがあたしにはもうその必要がないの」
「なぜです」
アンジェリカは手にした封筒を目の前でひらひらと振りながら言った。「スワロフスキについての念書はもうもらったもの」

筋金入りの傍観者たるわたしたちは、ここにきてようやくすべてを理解した。アンジェリカは初めからこの念書をとるためだけに行動していたのだ。過分に自発的すぎるようにおもわれた婚姻届にしても、こうなれば必要にして不可欠な一手だったことがよくわかる。法的な効力をもつこの1枚の紙がなければ、老獪なジャングイデから念書を引き出すことはできなかっただろう。シルヴィア女史でさえ「おもしろくない」とこぼしていたくらいだ。あの状況でこれを策略と見て取るのはむずかしいし、どうしたって不可能にちかい。何から何まで計算ずくであり、またその計算にほころびは一切なかった。

しかし何と言ってもわたしが唸らずにはいられないのは、アンジェリカが一抹の曇りもなく本気で結婚を受け入れるつもりでそこに来た、という点にある。婚姻届にはきちんと捺印がされていたし、彼女自身も撤回する気はないときっぱり言い切った。であればこそ微塵のためらいもなく詰め寄ることができたのだ。実際その気持ちにわずかでも別の意図が見え隠れしていたら話はこうもまっすぐすすまなかったにちがいない。アンジェリカは不退転の覚悟で肉を切らせ、そして骨をきれいに断った。彼女の強さとやさしさを、同時に見せられた思いだ。それはまったく、みごとな駆け引きだった。

「こんなのは無効です」とジャングイデは脂汗をさらに垂らしてギリギリと歯ぎしりをした。「当然その念書もみとめるわけにはいきません」
「無効ですって、シルヴィアさん」とアンジェリカはシルヴィア女史に向かって言った。「自分の意志で書いて、血判まで押したのに」
「ははは!」とシュガーヒル・ギャングの頭目はこらえきれない様子で笑い出した。「自分の意志で書いて、血判まで押してね?そのとおりだ。もちろん見てたとも。とぼけたことを言うじゃないか、ジャングイデ。このあたしの目の前で?」
「しかしこれでは」ジャングイデは青ざめた。「坊ちゃんに顔向けができません」
「しなきゃいいのさ。肝心なのは勝ち負けよりも往生際だよ。その紙切れをおよこし」
「しかし……」
「よこせと言ったんだよ、ジャングイデ」

ジャングイデはしぶしぶ婚姻届を手渡した。シルヴィア女史はそれを受け取ると、迷いもせずぴりぴりと縦に引き裂いた。
コンキスタドーレス夫人がそれを見て感心したように言った。「きもちのいい音」
「見立て以上のもんが見られて、あたしとしちゃ言うことは特にないね。たいした筋書きだ。こうなるとますます嫁にほしくなる」
「あらシルヴィアさん」とアンジェリカは言った。「あたし結婚する気でいましたけど」
「いいのさアンジェリカ。ひとまずあんたは自由だ。その念書も好きにしていい。そんなものがなくたってこのおチビさんの安全なら」シルヴィア女史はとなりに座ってきょとんとしているスワロフスキの頭に手をのせた。「あたしが保証する。あんたを出し抜く別の手をまた考えないとね」

するとそこへ、店から庭にひとりの少年が駆け寄ってきた。「アンジェリカ!」
「おやおや」とシルヴィア女史の顔がほころんだ。「もうひとりの主役がご登場だ」
「ガンラオヤン」とアンジェリカも笑った。「こんにちは」
ガンラオヤンと呼ばれた少年はまっすぐにアンジェリカのそばに向かい、彼女の袖をつかんだ。「来てたなんて知らなかった!呼んでくれないなんてどうかしてるよ、ママ!みんなで楽しそうにして!」
「そろそろ呼ぼうとおもってたとこさ」
「ガンラオヤン?」とわたしはびっくりして言った。「この子が?」
「そうとも」スピーディ・ゴンザレスが愉快そうに言った。「何をそんなに驚くんだ」
「まだ子どもじゃないか!」
「義務教育の真っ最中だからな。もっとおっさんだとでも思ったか?」
ガンラオヤン少年は言った。「どうしたの、こんなに大勢で?」
「相談してたんだよ」とシルヴィア女史はやさしく諭すように話しかけた。「どうしたらアンジェリカがおまえのお嫁にきてくれるかとおもってね」
「じつはすっかりその気で来てたんだけど」とアンジェリカは言った。
「言わなくていいんだよ、アンジェリカ。その話はチャラだと言ったろ」
「そうなの、ジャングイデ?」とガンラオヤンは責めるような目で問いつめた。「それで来てるの、アンジェリカが?」
「はい。いや、その」当然、ジャングイデの歯切れはわるかった。「そのはずだったんですが」
それを聞くとガンラオヤンはカンカンになって抗議しはじめた。「ダメだよ!どうして僕抜きで勝手に相談なんかしてるんだ」
まさか腹を立てるとは思いもよらなかったので、わたしたちはみな例外なくびっくりして彼をみつめた。
「いえ坊ちゃん、それがその、結果的には」とジャングイデはしどろもどろになって答えた。
「誰がそんなことを言い出したの」
「アタシです、坊ちゃん」
「アンジェリカには僕がプロポーズする!」ガンラオヤンは今やすっかり立つ瀬を失ったジャングイデを睨みつけて言った。「もう決めてるんだ。これ以上勝手な真似をしたらジャングイデ、おまえのケツに火を点けるぞ!」
その毅然とした態度をみたシルヴィア女史はコンキスタドーレス夫人に顔をよせて、誇らしげにささやいた。「これがあたしの息子だよ」

はりつめた青い空は夕暮れに発火して、端から赤くめらめらと燃え始めていた。夜のとばりがそれを消そうとシュガーヒル全体にゆっくりと音もなく降りてくる。急にメランコリックな気分になったのは、それまで棚上げしていた一種の孤立感みたいなものが不意にむくむくと頭をもたげてきたからだ。気がつくと、ひとりでスタスタと店に戻るスピーディ・ゴンザレスの後ろ姿が見えた。エンドロールを待たずに席を立つタイプだったらしい。わたしは彼の超然として不羈なふるまいを、すこしうらやましくおもった。

話はついた。かに見えた。実際そう見えたし、すくなくともわたしは先に言ったような心持ちから席を立つタイミングをそわそわと見計らっていた。だがそうならなかったのはこのすぐあと、それまで庭の外でひたすらちぢこまっていたブッチがアイスノンを小脇に抱えて、破廉恥な格好もかまわずに庭へ飛び込んできたからだ。

「旦那!旦那!」
「うわァブッチ」とわたしはパンツ一丁たる肉屋の痴態にあらためて目を瞠った。「こうして時間をおいて見ると紛う方なき変質者にみえるよ」
「教育上よろしくないのがきたね」とシルヴィア女史は呆れ顔で言った。コンキスタドーレス夫人もパリッと広げた扇子を口元に当てて、歓迎せざる意を控えめに示した。
「か、かかか」とブッチは言った。「川に船が」
「川に船」とわたしは確かめるようにくり返した。「ふつうだね」
「そんなのじゃありません」とブッチはぶんぶんと首をふった。アイスノンまでがつられて首をふっていた。「デカいんです」
「べつにデカくたって良さそうなもんだけど」
「だってそれが旦那、今にもはみ出しそうなんですよ」
「はみ出すって何から?」
「川からですよ!」
何を言っているのかさっぱり要領を得なかったので、わたしは物見がてら往来へ出てみることにした。場合によってはこの流れでそのまま帰ってしまえというけちな魂胆もあったのだが、ブッチの言う船を実際にこの目でみて、たしかに全然それどころではないということが腹の底からよくわかった。

船はじっさい川幅いっぱいに広がっていた。それどころか幅に劣らず見上げるような高さがあって、船というよりもはやりっぱな建造物にちかい。岸をずりずりとこすりながら匍匐前進のようにむりやり進み、浮くというよりは明らかに流れを塞き止めている。無遠慮な佇まいとその重すぎる威圧感はじっさい、怪物と呼んでちっとも遜色がなかった。おまけに無数の白い光を四方に煌煌と放ち、目を細めないことには眩しすぎて直視もできない。かんざしみたいなシルエットがあちこちから突き出していたせいか、うっかりすると派手な花魁道中のようにもおもえた。

誰かが夢だと言ってくれれば、ありがたくその意見に飛びついていただろう。暮れなずむシュガーヒルの中心地に最後の最後でその堂々たる姿をあらわしたのは、こともあろうに戦艦だった。




40: 尾ひれにも似たエピローグ



シュガーヒルの自然的良心ともいうべき一級河川を、窮屈そうにずりずりと強引に這い進んできたのはたしかに戦艦だった。ほとんどビルみたいな規格外のサイズ感から察するに、途中にかかっていた橋という橋はすべて破壊しながらやってきたにちがいない。もちろん、こんなものの出所は聞かずともわかりきっている。まるで死の100円ショップだな、とわたしはムール貝博士を他人事のように思い浮かべた。


甲板には目を射る過剰な明るさにつつまれて、ひとつのシルエットが浮かび上がっていた。全身を甲冑でかためた中世の騎士みたいな人物が長い槍をもち、厳粛なオーラを漂わせながら仁王立ちでこちらを睨みつけている。

Sweet Stuff の正面までくると騎士は合図をして戦艦を停め、どこからか拡声器をおもむろに取り出すと、びりびりと周囲の空気をふるわすようなバリトンでこう言った。「あーあー。本日は晴天なり。本屋さんは閉店なり。わたしの美声が聞こえるかねシュガーヒル・ギャングの諸君。わるいことは言わない。娘を返してもらおう」
「パパ!」スワロフスキは口の回りをクリームだらけにしながら笑顔になって立ち上がった。「パパー!」
「ああ」とアンジェリカは思い出したように言った。「そっか。忘れてた」
「パパってまさか」わたしは転げるようにして庭に駈け戻った。「甘鯛のポワレ教授か?どうしてここが?」
「ここに来る前にあたしが話したから。話さないわけにはいかないでしょ。何も知らされてなかっただろうし、責任あるなとおもって」
「なんて間のわるい人だ」とわたしは言った。「もう話はついたのに」
「わたしの慈悲が届くようなら、シュガーヒル・ギャングの諸君」と甘鯛のポワレ教授はいまいちど拡声器で叫んだ。「すみやかにその耳をわたしに預けることをおすすめする。今すぐに娘を返すのならば、今回だけは見逃してやらないでもないと言わないこともないような気がしないとは言い切れない保証がどこにもないわけではないとも限らんぞ」
「返すも何も、とんちんかんな男だね」とシュガーヒルの大姐御はため息をついた。「腹を決めてきたんなら、そんな高みからこわごわ見物してないでさっさと降りてくりゃいいじゃないか」

右手に槍、左手に拡声器を掲げたまま、甘鯛のポワレ教授は微動だにしなかった。こちらの反応をうかがいながら次に何をどう切り出すか、思案しているようにもみえた。それからふと、言い忘れていたかのような調子であわてて付け加えるのが聞こえた。「べつに重たくて動けないわけではないぞ」

「動けないんだね」とシルヴィア女史はもういちどため息をついた。「あんな重たい甲冑を着込んでくるからだ。頭に血がのぼってるんだ。言ったって聞きゃしないよ」
「沈黙をもって答えとするというのならば、それはそれでよろしい」と教授は色気のあるバリトンでおごそかに宣言した。「主砲射撃用意」

その命令が伝わると同時に、戦艦に据え付けられた物々しい砲塔がきりきりと左に回転し、1本の太くりっぱな砲身とその丸い口が照準を Sweet Stuff に合わせて、真正面からこちらにまっすぐ向いた。攻撃すればスワロフスキもその対象にふくまれてしまうというのに、駆け引きも何もない。すべてを抜け目なく計算していたアンジェリカとはちがって、日ごろ権謀術数になじむ機会のないポワレ教授はただ引くに引けないようなところまできもちが追い詰められてしまっていたらしい。唯一説得力をもって止めることができそうなアンジェリカまで何も言わずに黙っているところをみると、シルヴィア女史と同じく聞く耳もつまいと匙を投げているのかもしれなかった。ブッチはより戦艦に近い位置で賢いハンス号といっしょにぷるぷるとふるえている。わたしは半ばやけくそみたいな面持ちでつぶやいた。「どうしたらここから帰れるんだ……?」

拡声器をかまえた甘鯛のポワレ教授の無鉄砲な「撃て!」という声より先に、飛び出したのはいつの間にかスワロフスキと同じく口の回りをクリームでべたべたにしたみふゆだった。あまりに速い所作だったので例の脇差しが一閃したかどうかも判然としなかったが、おそらくこの時点で砲弾は賽の目に刻まれていたのだろう。縦横に切り込みの入った状態でみふゆの頭上を通貨した砲弾の先には、いつの間にかアンジェリカがいた。全身をバネのようにしならせたアンジェリカは、コンキスタドーレス夫人から拝借したと思わしき扇子でこれをパァンとそのまま真正面にはじき返した。砲弾は戦艦の上方に向かって飛び散ると、花火のようにパチパチとささやかに爆ぜたのち、音もなく暗がりのなかへ溶けていった。まばたきひとつする暇も与えられない、刹那のリアクションだ。拡声器をかまえたまま身動きの取れずにいるポワレ教授から、追加の攻撃命令が出されることはもはやなかった。




今度こそ話はついた。語り尽くして、絞り出せる水はもう一滴もない。わたしはアンジェリカの運転する賢いハンス号に同乗して送ってもらうことになった。もちろんブッチもいっしょだ。ブッチはアイスノンの貴重な卵についても、めでたく独占契約をむすぶことができた。これからは週に一度、運がよければ天竺鶏の冷たい卵がひとつふたつ、ブッチの店に並ぶことになる。わたしも味わってみたいというようなことを言ったら、ブッチはこの日生んでクーラーボックスに収めておいたぶんを気前よく譲ってくれた。パンツ一丁であちこち連れ回されただけの甲斐はあったろうとわたしもおもう。

死神の鎌を手にしたコンキスタドーレス夫人とみふゆはタクシーを拾うと言って、Sweet Stuff で別れた。考えてみれば、この日いちばん多く危険を退けてくれたのはみふゆなのだ。彼女がいなかったらすくなくともわたしとブッチは2回くらい黒焦げになっていたにちがいない。たった1本の脇差しでこうなのだから、太刀を持たせたらいったいどうなってしまうのだろう?興味を示していたフォーエバー21に寄ってやれなかったことだけが、今となってはなんとなく心残りだ。

ちゃぶ台を食事が終わってからひっくり返しにきた甘鯛のポワレ教授は、あの重たい甲冑を身に着けたまま、スワロフスキと手をつないでガシャンガシャンと足をひきずりながらむりやり徒歩で帰った。なぜ脱がなかったのかと言えばそれはつまり、脱げなかったからだ。人のことを言えた義理ではないけれども、いったい何しにきたんだろうとおもう。町なかに持ち出した巨大な戦艦の派手な不始末を、結局その後どう片付けたのかわたしは知らない。個人的には撤去するよりいっそ船体をくり抜いて水を流したほうが手っ取り早いような気もする。

まろやかな宵の風を浴びて走る帰路の車中で、わたしはアンジェリカにたずねた。「もういちど訊くけど、本気で結婚するつもりだったわけ?」
「もちろん」とアンジェリカはハンドルを切りながら即答した。「何で?」
「何でってこともないけどね、それは」思いもよらず問い返されて、わたしは言葉を詰まらせた。「しかし、そういうもんかね」
「そういうもんでしょ。何だってそうだけど、なるとなったら四の五の言わずにそれでやっていかなくちゃいけないんだから。けっきょく反故になって逆にヘンな感じがするくらい」
「愛情を忘れてるとおもうんだよ。だって、結婚なんだぜ」
「あとから芽を出す愛情もあるでしょ」
「割り切るもんだな!」
「ははは」とアンジェリカは楽しそうに笑った。「ピス田さんてそんなロマンチストだったっけ?」

わたしはアンジェリカに奪われたスナーク・ノートのことを言わなかった。どのみち帰ればいやでも知ることになるのだから、今ここで消えかけた火に油を注いでもしかたがない。あの神秘の生ハムも屋敷に置いてきたことだし、うまくすればそれも、すでにその驚くべき味わいを経験済みのイゴールが火消しに役立てるだろう。

喧噪の Sweet Stuff から遠く離れて初めてわたしは、地の果てまでも追いかけてくるようなその強烈な甘いにおいに気がついた。あまり考えたくないことではあるが、シュガーヒル・ギャングの面々とは近いうちにまたお目にかかりそうな気がする。ふと訪れたやさしい沈黙の合間に後部座席を振り返ると、ブッチが地鳴りみたいな大いびきをかきながらアイスノンといっしょに眠りこけていた。



END




ピス田助手近影

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

仕事中に思わず全篇読んでしまいました
是非ともまた別のアンジェリカとピス田助手の活躍を拝見したいものです

うわー さんのコメント...

ページを開いて3分後あまりの長さに絶望しましたが昼寝を二回挟んで楽しく最後まで読ませて頂きました。

ピス田助手 さんのコメント...

> うわーさん

どうもありがとう!当時は3日に一度、
半年くらいかけてちまちま更新してたのですが
結果的にものすごく長くなりました。
僕も長いとおもいます。