2013年7月31日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その166


このところ毎晩のように、姿をあらわすものがあるのです。昼間はいません。夜になるとドアの向こうに音もなくあらわれて、何をするでもなくうろうろと長いことそこにいます。うっちゃっておけばいいようなことだけれど、前を横切ればどうしたってつい目をやらずにはいられません。話が通じそうな相手なら、「もしお前さん、どうかしましたかえ」と声をかけているところです。人目をはばかる様子もないから、客ではなく一種の住人であるとおもわれます。あるいは知らずにいただけで、よほどの古株かもしれません。それにしては挙動がいちいちためつすがめつで、どうも胡乱なのだけど。よくよく見ると、忘れっぽいような顔をしている。


「あれ?」


「これどこから入るんだっけ?」




うれしはずかしこむら返りさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. はじめましてこんにちは。今私のお腹にはもう一人人間が入っています。お腹から出てくるのはまだまだ先なんですが、今から頭を悩ませているのは名付けの事です。そこでアンジェリカやスワロフスキ、甘鯛のポワレ教授など可愛らしくともインパクトのある名前の名付け親、大吾さんに名付けの極意を教えていただきたいです。ちなみに出産予定日は終戦記念日です。


こんにちは。あたらしい家族を迎えることになる親御さんにとって、名前を付けることは生むより先にくる最初の大事業ですよね。かく言う僕もまだ子はありませんが、これはという言葉に出会うと何となく参考に書き留めておくことがあります。とくに古くからある日本語は人の名としてもうつくしくて魅力的な響きがいっぱいあるので、そんな趣をふくめて贈ることができたらいいなあとおもう。8月生まれなら「葉月」とかね。実際そんな名前の女の子がいました。

ネーミングセンスを磨くにはどうしたらよいか」ということについては、じつは5年くらい前にも一度お答えしたことがあります。名付けにかぎらずセンスの良い人というのは「じつのところ必ずしも百発百中のヒットメーカーではない」こと、そして「とにかく数をこなしている」ことを、このときは要旨として挙げました。でもこれから生まれてくる子の名となるとそんなにぽいぽい付けられるものでもないし、重みがぜんぜんちがいます。いくら可愛くても我が子にアンジェリカとかスワロフスキ、ましてや「甘鯛のポワレ」とつけるのはさすがにちょっと憚られる気がする。仮に人ではなく甘鯛が生まれてきたとしてもです。

いや、どうでしょうね?アンジェリカくらいなら、ひょっとして受け入れられたりするだろうか?子の名に関しては今や自由というより無法な印象もある時代なので、案外アリなのかもしれません。「天使花」とかてきとうに漢字をみつくろったりしてね。そのへんの情勢はさすがにちょっと判断がつかない。僕の甥は「以蔵」というじつに四角い名を与えられていて渋いなあとおもうんだけど、キラキラネームと呼ばれて今はまださのみ一般的ではない類いのネーミングに魅力を感じる人々からは「古めかしくてあり得ない」と一蹴されるかもしれないし、どこまでがアリでどこからがナシなのかは案外と曖昧なものです。「薄雲」「桐壺」「夕顔」といった源氏物語の各帖とか、「高尾」「綾衣(あやぎぬ)」「誰袖(たがそで)」といった往時の花魁の呼び名に良きものをみる僕も、まさかこれを本気でつけるわけにもいくまいなとおもうけれど、いざ子を持ったら制止を振り切ってぺたりと名付けてしまうかもしれない。それにいまはまだ何だかんだ言って漢字が主流ですが、そのうちアルファベットも参戦するようになったら「Snow」を「ゆき」とか、「High」を「たかし」とか読ませる時代が来ないともかぎらないですよ。「KFC」と書いて「けんた」とか。

とまあ、こういうことを考えているとだんだん前後の区別もわからなくなってくるのでひとまず脇に置きましょう。気がつくとどうもこうへんな路地に足を突っ込みがちで面目ないです。

おもしろおかしく愉快なネーミングはさておき、インパクトについてはあまり考えないほうがよいようにおもわれます。一方的に名付けて知らんぷりできるキャラクターとはちがい、現実世界における人の名は店先に掲げる看板というよりむしろお守りのようなものです。肌身離さず身につけて、いずれ苦楽を共にするものです。それをふまえた上でいくらかユニークなコツがあるとすれば、そうですね、人にかぎらず好きな草花とか色とか鳥の名前や言葉、響きのよい音を拾いあつめたりするのは有効かもしれません。せせらぎのように流れゆく日々の言葉のなかには、人の名に当てはめてもしっくりくるようなものもきっと多くあるはずです。以前よくライブに足を運んでくれたご家族の子どもたちはたしか姉が「桔梗(ききょう)」ちゃんで弟が「勇魚(いさな:鯨の古語)」くんと言ったはずだけれど、これなんか日本ならではの響きに風情もあって良い名ですよね、すごく。これで答えになっていますか?


A. 呼んで呼ばれて互いに顔のほころぶような名前がみつかりますように!




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その167につづく!


2013年7月27日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その165



そして誰もいらなくなったさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)なげやりな結末が予想される推理小説の金字塔ですね。


Q. ドライフラワーの完成は、どうやって見分けるんでしょうか。少し前に買った薔薇やらなにやらをドライフラワーにしようと思って、ぶら下げているのですが、「ん? いつできるんだ?」という疑問に晒され続けている毎日です。


むむ、なるほど、言われてみればたしかにドライフラワーの完成は、境目がいまいち判然としないですね。「人はいつ大人になるのか」と問うのに近いかもしれません。見分けるだけならまだしも、どの時点からそうなのかということになると、とたんにぼんやりです。僕個人の例で言うと無修正よりモザイクのほうがよほどエロいと感じたときを大人の境目として記憶しています。夢があると言い換えてもいいですが、しかしまあ、それは今どうでもよろしい。

じつはうちにもドライフラワーと呼べそうなものが3輪…というか3本あります。これもバラです。もう何年も前のことでもらってきたのか買ってきたのか、はじめは生花だったのをなんとなく干しといたら、鮮やかな色をとどめながらも腐らずきれいに乾涸びました。元からそのつもりだったわけでもないので、どちらかといえば未必の故意みたいなものです。すっかりミイラになったなあ、とおもったときにはすでに完成していたとおもわれます。こんな質問がくるとわかっていたら観察日記でもつけておいたのに、惜しいことをした。


それで気がついたけれど、いっそドライフラワーを買ってくる、というのもひとつの手です。なるべく似たような種類をえらんで隣り合わせにぶら下げておけば、いずれ遠からず瓜二つの状態になります。なんだか釈然としないようですが、何しろ手本があるわけだから、すくなくとも見誤りようがありません。それでも得心がいかないようなら、あわせてこまかな観察日記をつけましょう。これで次からは手本がなくとも完成を見極めることができるはずです。

ただ一方で、やはり根本的にとんちんかんなことをしているようなかすかな疑念が拭えないとすれば、それもまたやむを得ません。何だって煙にまくにしくはないけれど、率直に言って僕も何かおかしいとおもう。おいしい煮豆をつくるために、おいしい煮豆を買ってくるなら、そりゃ買ってきた煮豆をおいしく食べたらいいじゃないか?なぜ見比べなくてはならないのか?煮豆は食べてこそ煮豆なのではないのか?

やりかたを変えましょう。花にかぎらず、わからないことがあれば相手に直接尋ねるのがいちばんです。どうなの、と問うて、まだです、と返ってくるようであれば、これはもう疑いの余地なくまだということになります。

しかしあけすけにどうなのと問うのもちょっと不躾です。あんまりうるさくしすぎて、セクシャルだかパワーだかマタニティだかわかりませんが何らかのハラスメントになって法廷に引きずり出されても困るし、花としても乾くどころか却って毎日泣き濡れるようなことにつながりかねません。

そこで、手紙です。メールも手軽でいいですが、ここは切手を貼ってポストに出す、あの気長で古式ゆかしいやりかたに則りましょう。活字では雰囲気やニュアンス、感情といった目に見えない部分をふくませるために言葉自体をかみくだいたり(離乳食と同じです)、ときとして口語を交えたりする必要に迫られますが、書き文字には初めからそれがふくまれています。しゃっちょこばっていても親しみが損なわれずにすむとすれば、どうしたってこれが最善です。

文面はそうですね、「お変わりありませんか」とか「心待ちにしています」とか、あくまで急かさない程度に、それでいてややウェットな調子がよいようにおもわれます。何ならずっと生花のままだってかまわないんだよ、といたわるように心を砕くのがポイントです。花もまた季節のうつろいなどを織り込みながら情緒豊かな便りを送ってくるでしょう。「既読」に追われることもなし、あせらずにぽつりぽつりと文通をつづけてください。ぜんぜん関係ないけどかつては雑誌の文通コーナーに誰憚ることなく名前と住所の載っていたことがなつかしく思い出されます。

ただしこの場合、目的は愛情や友情をはぐくむことではありません。このささやかなやりとりにはいずれ終わりがきます。いきなりではなくすこしずつ、むこうの返信が短くなっていくはずです。時候の挨拶もそこそこに、事細かな近況がはしょられたりして、文通にあまり気乗りしない印象が見え隠れしはじめます。おそらく最終的には書き文字ですらなく、PCで打ったテキストをプリントアウトしてくることになるでしょう。「ツイッターの相互フォローで良くないですか」と思い切った提案をしてくる可能性もあります。

それまで負けず劣らず感傷的な返事を書いてよこしていたことにくらべたら、きわめてドライな態度と言わねばなりません。とすればつまりここが境目です。数日のラグはあるかもしれませんが、完成のタイミングとしてはかなりの精度でしぼりこめると考えてよいでしょう。読み進めるうちに何の話かわからなくなった人もあるかもしれませんが、ドライフラワーの話です。

ただひょっとすると慕う相手の心変わりをみたような、いらぬさみしさを背負いこむことになるかもしれないので、あんまり思い詰めないようにしてください。


A. とりあえず文通からはじめましょう。




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その166につづく!

2013年7月24日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その164



暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 自分は今18なんですが大吾さんが18のときはどんな本を読んでましたか?


僕はもともと気に入った一冊を何度も読み返すタイプなので、読破した数で言ったらそれほど多くはありません。そのせいかどうか、昔好きで読んでいたものはわりとすぐ頭に浮かびます。いくつか挙げてみましょう。

・ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」
・ルイス・キャロル「シルヴィーとブルーノ」
・尾崎翠「第七官界彷徨」
・アンダスン「ワインズバーグ・オハイオ」
・ロートレアモン伯爵「マルドロールの歌」
・ラブレー「パンタグリュエル物語」
・古井由吉「陽気な夜回り」
・ルイ・ポーウェル「超人の午餐」

さもありなん、というラインナップですね。20代に突入すると、ここからさらにとっ散らかった方面へにょろにょろと触手を伸ばすことになるんだけれど、今の僕につながる根っこの部分という意味ではまずこんなところでまちがいないでしょう。いまだにすらすら出てくるくらいだから、よほど脳裏に深く刻まれてるんだとおもう。ちなみに10代前半は逆にもっとおっさんくさくて、西村京太郎斎藤栄内田康夫勝目梓笹沢左保源氏鶏太田辺聖子佐藤愛子、あたりの相当偏ったエリアを読みあさってました。そんなのしか手に入らないちょっと気の毒な事情もあったとはいえ、しかたなくというよりわりと好きで読んでましたな。どう考えても身の丈に合わないこの時期の読書体験がその後に影響を及ぼしたかどうかは何とも言えません。

他にはえーと、生物学関係の本が好きでしょっちゅう手に取っていた記憶があります。なかでもローレンツに始まる動物行動学に惹かれるものがあって、「日高敏隆」という名前にはいまだにピクリと反応してしまうくらいです。あ、そういえばNHKの「いきもの地球紀行」はぜんぶ録画したりしてた!そんなに好きだったのに、生半可な知識しか頭に入ってないんだから、ふしぎなことですね。ひょっとしたら「わー」とか「へー」とか言いたかっただけだったのかもしれません。「脳」についての話も好きでした。だんだん思い出してきたけど、日経サイエンス(雑誌)も定期購読してました。ナショナル・ジオグラフィックの日本版が創刊されたときのちょっとした興奮もおぼえてる!

それはまあともかく、生物に関連する書物で今も印象にのこっているものをいくつか挙げると、

・ロバート・トリヴァース「生物の社会進化」
・チャールズ・ダーウィン「ミミズと土」
・ハラルト・シュテュンプケ「鼻行類」

「わー」とか「へー」とか言いながら読んでいたのは「生物の社会進化」です。いまもときどきひっぱり出して読んでます。「ミミズと土」はダーウィン最晩年の著作ですが、本当にまるまる一冊ミミズと土のことしか書いてないのにめちゃおもしろくて度肝を抜かれました。生物学に革命をもたらした歴史的VIPの最後の研究がよりによってミミズですよ!僕は進化論よりもむしろこの本でダーウィン先生が大好きになりました。「鼻行類」は読んでもらえればわかりますが、いかにも僕が好きそうな本です。さいしょに持っていた単行本は女の子に貸したまま戻ってこなかったんだけど、そのあと文庫で出たのをまた買ったり、人からもらったりして今はなぜかバージョン違いが3、4冊あります。

最初に挙げたラインナップに戻ると、このなかでとくに意味があるのは古井由吉の「陽気な夜回り」です。僕にとって「文体の味わい」というものがしみじみと心に行き渡ったのはこれが最初でした。それまでも筒井康隆とか横光利一で「文のおもしろさ」に袖を引かれるような心持ちはあったけれど、極端な話そこに何が描かれていようとこの文さえあればそれで満足とさえおもったのは「陽気な夜回り」を手に取ったときを置いて他にはありません。物語がメロディだとすれば文体はリズムであり、これは僕がヒップホップにおけるいわゆるワンループを好きなことともひょっとしたらつながりを持ってくるんじゃないかとおもわれるくらいです。要はこのままずっと反芻しつづけたいとおもえるものが好きなんですよね。文体もビートも。夏目漱石より内田百閒や中勘助が好きなのも、たぶんそういうことなんだとおもう。

それから、あまりにも豊かな言葉の数々に感銘を受けた「パンタグリュエル物語」も重要です。これはもちろん奇才ラブレーの恐るべき与太話クラシックですが、何と言っても渡辺一夫の翻訳、わけてもその縦横無尽な日本語力に圧倒されます。ルブランに堀口大学がいたように、ブローティガンに藤本和子がいたように、ラブレーに渡辺一夫がいたことを心から感謝しないではいられません。この先どれだけの人が束になってかかろうと、ここまでの高みに達することはまず望めないとおもう。それくらい、この翻訳は偉業です。

10代後半から20代前半というのは、ひらかれた世界に対していちばん貪欲で、また取り込んだものがそのまま血肉になる時期だと僕はおもいます。一生連れ添うことになるような一冊との、劇的な出会いがありますように!


A. 予想外、でもないですよね、おそらく?




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その165につづく!


2013年7月21日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その163



うるめいわしのサブリナさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私事ながら、人生には三度のモテ期があると言いますが、3x年生きてきてはじめてそれっぽいものが訪れました!(といっても薄っすらとした小さな出来事たちなんですけど)わかったことは、一度に来ても意味がないということです。難しいですね。そんなわけで、大吾さんのモテ☆エピソードを伺いたいです。


こういう話、大好きです。気がつくとよく目が合うとか、旅行のおみやげがじぶんだけちょっとオシャレだったとか、わりとどうでもいいメールがぽつぽつ届くとか、「僕うるめいわし好きなんですよね…」という何気ないつぶやきとか、想像するだけでゴハンがすすみます。一度に来てもとおっしゃいますが、選択肢が与えられているという時点で十分たのしそうです。できればそのうっすらとしたちいさな出来事たちについて、事細かに根掘り葉掘り聞き出したい。何であれうれしそうに話してくれる話は僕も聞いていてうれしい。

そも、モテとは何ぞや、というのは僕がいまだに1年に1回くらい考えこむ問題のひとつです。今のところ「恋愛感情が見え隠れする好意を贈られること」、もしくは「あわよくば的な期待をほんのり抱かせる何か」、もしくはもっと単純に「ちやほやされること」、という印象でひとまず受け止めてるんだけれど、いまいち判然としません。モテたいと何となくおもうことは今もときどきあるものの、じゃあどうなったらいちばんうれしいかということを具体的に考え始めるといっこうにまとまらないのです。おしりをさわっても怒られないとか、想像以上にどうしようもないところに着地したりして、じぶんでじぶんがイヤになります。べつにおしりがさわりたいわけじゃなくて、いえ許されるものならばそりゃあえて遠慮する理由は何ひとつないですけれども、何というか、心の合鍵をもらうようなイメージですね。

あ、これだこれだ!「1人以上の人から鍵をもらったような気がして、しかもそれが心の合鍵かもしれない状態」だ!そこにあるのはただ確信がもてないまま可能性だけがふわふわと漂っているたよりない心持ちであって、あくまでも想像の余地が残されていることが肝心です。なかには酒池肉林まっしぐらの人もいそうだけれど、みんながみんなそうではないことを踏まえると、これくらいの受け止めかたがモテの塩梅として程好いのではありますまいか。ていうか、単純にうれしくてときめかないですか。こういうの。すくなくとも僕個人がのぞむモテとはこんなかんじだとおもう。

では実際にそういう経験があったかと自身を振り返ってみれば、ちっとも記憶にありません。なぜないんだ。

ガシャーン

(ちゃぶだいをひっくりかえしています)

カチャカチャ

(ちらかった食器を片しています)

関係があるかどうかわからないけれど、「ダイゴくんみたいな人を好きになればよかった」と言われたことなら何度もあります。この一言から何となく察せられるとおり、この状況における僕の立ち位置は「ただの相談相手」です。ふんふん、なるほど、うーむ…的な相づちを打ちながら切ない心情の吐露に耳をかたむけているわけですね。そしてこれはもう経験上イヤというくらいはっきりしていますが、この人がダイゴくんを好きになる可能性はまずありません。なぜと言われても困るけど、ないことだけははっきりしています。僕としてもパターンのひとつなのでしまいには「それよく言われる」とひんやり返すようになりました。好意ではあるだろうけれどむしろ信用にちかいこの距離感がモテに準ずるものなのだとすれば、もう十分なので金輪際いりませんとそっぽを向きたいくらいです。いろいろおもいだしてたらチャーリーブラウンみたいなため息が出た。

しかしモテたことありませんの一言で済ませてしまうのは僕としてもおもしろくないし、なんとかそれっぽいものを記憶から引きずり出すか、でなければどうせわかりっこないしいっそ捏造したいですよね。うーむ。忘れてるだけで何かしらあるのではないか。あってほしい。いや、あるはずだ!人生に3度あるというモテ期が、ぜんぶ晩年に集中しても困るじゃないか!


(30分経過)


ふと、大昔にあったある出来事をおもいだしました。ある夜、女の子から電話がかかってきたのです。


リンリン

カチャ

「はいこばやしです」
「……」
「もしもし」
「……」
「もしもし?」
「……」
「もしもーし」
「……」
「……?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……………い…」(小声)
「い?」
「……言えない…」(小声)

プツリ

ツー
ツー
ツー


とまあこんなことが実際にあって、当時はすごい悶々とさせられました。けっきょく電話をかけてきた相手が誰なのかわからないまま、後日談もべつにありません。ただこれだけの話です。ひょっとして告白でもするつもりで、でもいざとなったら勇気が出なくて!みたいなことかと今日まで都合よく(じつに都合よく)解釈したりしてましたが、こうして冷静に書き出してみると、告白までは合っているにしても、恋ではなくて僕の出生にまつわる重大な秘密の暴露とか、暗殺計画が水面下で進行しているとか、身に覚えのない罪をなすりつけたことへの謝罪とか、いちおう名乗りはしたつもりだけどふつうに間違い電話だったとか、可能性だけ考えたらいくらでもあって、むしろ怖い話に近いことがよくわかりました。なんだよもう!てっきり恋にちなんだできごとだとおもってたよ!

そして思い出したらまた気になってくるじゃないですか。あれはいったい誰だったのか?そしてけっきょく何が言いたかったのか?そもそも相手は僕でまちがってなかったのか?


A. でも恋だとおもえばそうおもえなくもないでしょう?


そういえばほんの一時期だけ茶髪とコンタクトにスーツ着用で「場末のホストみたい」と身もふたもない言われようだったことならありますけど。ホストって場末にもいるの?




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その164につづく!

2013年7月17日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その162



ミンキーモーモーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)夢の国からやってきた牛のことですね。


Q. 好きな人ができてもなかなか上手くいきません。魔女のリセットボタンまでとはいかないけれど、やり直したいことがちらほら。はたから見ても情けない男だなあと。大吾さんにとって格好良い男とは?


これはつまり、恋愛における、という条件の下でのご質問ですよね?

なぜわざわざ但し書きを添えたのかというと、同性からみてステキだとおもえる人が、異性にとっても同じように魅力ある相手とは必ずしもかぎらないからです。また、至近距離の相手にだけ関係してくる、限定的な属性もあります。両方をクリアする希有な例もあるにはありますが、そんな高望みは「生まれ変わりたい」という結論が遅かれ早かれ導かれるだけなので、樽に入れてふたをして漬物石でも乗せておきましょう。

僕がカッコいいなあとおもうのは、相手(恋人でも、妻でも)に対する思いが、ちょっとしたことからひょいと顔を出すような人です。ちょっとしたこと、というのは本当にちょっとしたことで、誰がみてもそのきもちが正面からどしーんと伝わってくるような大きなことではありません。うっかりすると見過ごしてしまうくらい、ちいさなことです。一例を挙げましょう。

日本列島の右側をぐらぐらと揺さぶられて都市機能が完全にマヒしたあの夜、出先から6時間かけてテクテク家まで徒歩で帰った友人と話していたときのことです。なにしろ妻子ある人だし、これ以上ない非常事態でもあるから、「やっぱりお子さんいたら心配ですよね」と僕が言ったら、「いや、奥さんもだよ」と何気なく(いいですか、何気なくですよ)付け加えるのです。

ごくごくふつうの愛情に見えるこれのどこがそんなに?とあるいは思われるかもしれませんが、ここで重要なのは「話の流れ上、それを付け加える必要はべつになかった」という点です。その場で話をしていたのは僕らふたりだけであり、奥さんがそばにいたわけではありません。どちらかといえば「子どもがいること」に焦点が当たっていたのだから、「そうだねえ」と返されたらそれで済んでいたはずです。それでなくとも彼が日ごろ奥さんを大事にしているのはずっと前からわかりきっています。にもかかわらず、さらっと付け加えずにはいられない、この意味の大きさ!相手のいないところで相手をおもいやるきもちが、言わなくてもいいタイミングで自然と口をついて出るのだから、普段の彼がいかに愛情を注いでいるか、他のどんなエピソードよりも却ってはっきり伝わってきます。彼らをみていると他にもそんな例はいくらもあって、気づくたび「カッコいいなあ」と思わされるのです。それに奥さんもまた同じように応えているというか、互いに響き合っているようなところがあって、そこがまたいいんですよね。(ちなみにこの話を聞いて「いいなあ!じぶんもそんな相手がほしい」と口走る人は、じぶんもそうでなくてはいけないという視点がすっぽ抜けているので、うまくいきません)

それからもうひとつ、さらにミクロな例を挙げると、「便座を持ち上げて小用を足したあと、便座を元の位置に戻す人」というのがあります。これは(至近距離にいようといまいと)女性の存在を前提とした行為です。男性にとっては必ずしも毎回下げる必要はないですが、女性にはそもそも上げる理由がありません。なので、これが自然にできる人はそれだけでちょっと印象が変わります。変わりませんか?仮に言われて後から身についたものだとしても、それはそれで相手のきもちをきちんと汲んでいるのだから同じです。

ちいさい話ですね。どうでもいいといえばどうでもいいような気もする。でもこういうミクロな部分から窺い知れる気心もあったりするのです。いくらなんでも大げさすぎるんじゃないかともおもうけど、こういう話は針小棒大でちょうどいいくらいなので、まあよろしい。いちおう念のため断っておくと、便座を下げないからと言ってそれが減点対象になるという話ではありません。どうなのと言われたらどっちだっていいよと僕も答えます。うわ、ホントにちっちゃいな!とのけぞってもらえればそれでいいのであって、あんまり深く考えてはいけない。

たまたまどちらも男女が同じ屋根の下に暮らしている場合を例に挙げましたが、でもこういう心持ちは相手の有無にかかわらず、たぶんどんな状況にも当てはまります。一見なんでもないような所作や言葉から人に対する豊かなおもいやりが垣間見える人というのは、男女問わずそれだけですごくカッコいいです。

それから、言うまでもなく恋愛というのはうまくいかないことのほうが圧倒的に多いです。僕もやり直したいことはいっぱいあります。情けなくなったことなんて、多すぎて正直思い出したくもありません。情報公開を求められたらそのほとんどが黒塗りになるでしょう。誰にどんな正論を言われようと、「うるさい!」の一言ではねのけて、その黒塗りを死守するだろうとおもう。

僕にできたのは、なるべく同じあやまちを繰り返さない、ということだけです。それでもやっぱり繰り返したりするんだけど、でもそれがわかっていなかった前よりはずっといいはずだし、そう信じたい。何であれ、より良くなるためにはうまくいかないことこそが必要不可欠だと僕にはおもえてなりません。それに僕が女性なら、失敗をあまりしたことのない人より、失敗を多くしてきた人のほうをえらびます。ぜったい、大事にしてくれるとおもうから。

かけがえのない伴侶と巡り会えますように!


A. 便座を持ち上げて小用を足したあと、便座を元の位置に戻す男です。




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その163につづく!


2013年7月14日日曜日

シャンデルゴナールとアレクサンドロブナ


前回の「せかいのふしぎシリーズ」に「これはカゲロウの卵、akaうどんげの花ではありませんか、というご指摘をコメントに、またメールでもいただきました。ほほう、そうなんですね!「うどんげ(優曇華)」というのは3000年に一度しか咲かないと言われる伝説の花のことだそうですが(ホントにみつかったというニュースもある)、だとすればますます謎がふかまる、これこそまさしく「せかいのふしぎ」です。どうもありがとう!しかしまあ、カゲロウの卵ですよね、たぶん。何にしても名前があるのはよいことだ。

さて、ついこないだ長年仕えた忠義者の掃除機を手討ちにしてしまったという話をしたばかりで何ですが、今度は洗濯機が回らなくなったのです。おいマジかふざけんなよはっ倒すぞこの野郎とおもうけど、しかたがありません。なにか小規模な陰謀に巻き込まれている気がしてならないので、いまのうちに遺書をしたためておこうかとおもう。

何しろ、回らない洗濯機など、ただの水槽です。天水桶みたいなかんじで金魚を飼ってもいいけれど、上からのぞきこむしかないからあまりおもしろくありません。仮におもしろかったとしても、服が洗えないのは困ります。朝から気温がクジラの潮吹きみたいに勢いよく上がっても、洗濯機がばりばりと働いてくれればこそ、好きなだけ汗をかけたのだし、また好きなだけ水を浴びることもできたのです。掃除機のときとくらべると、洗濯機と手洗いではさすがに労力の差がありすぎます。僕だってべつに好んであれこれ手間をかけているわけではないし、基本的には楽なのがいい。したがって洗濯機は是が非でもなくてはなりません。いずれ無一文で路上にポイとつまみ出されるようなことになったらいやでも手洗いになるだろうから、せめて今くらいは存分に洗濯をたのしんでおきたい。

修理になるのかそれとも買い替えになるのか、サービスセンターに電話するにしても「こわれた!わーん!」と結果だけ伝えるのも気が引けるし、ひとまず状態を見ておこうと洗濯機をさわったり揉んだり執拗になで回したりしてみます。反応がないからひどく背徳的なことをしているようにおもわれるけれど、背に腹は代えられません。ひとしきりいじくり倒した結果、どうも部品のひとつが摩耗しているようです。回転するためのギヤがすり減りすぎてツルツルになっています。ひょっとしてこれかな?これだな。たぶんこれだろう!

それをふまえて、翌朝さっそくサービスセンターに電話です。

リンリン

「ハイこちら修理相談センター、担当のシャンデルゴナールでございます」
「洗濯機が回らなくなったのです」
「洗濯機ですね」
「脱水槽は回ります」
「さようでございますか」
「なので部品だけ調達できるとうれしいのです」
「そうですね、くわしくはお伺いして拝見しませんと…」
「部品だけ買えたりはしませんか」
「弊社では部品だけの販売はいたしておりませんので…」
「むむ。なるほど」
「やはり修理にお伺いするかたちになります」
「わかりました。おねがいします」
「ハイ、では明日のご予約で担当シャンデルゴナールが承りました」
「かたじけのうござる」

ガチャリ

とぶじ予約を済ませて安堵のため息をつきながらふと取扱説明書に目をやると、「部品購入のご相談は地区別窓口にても承っております」と書いてあるのです。

あれ?

へんだな、とおもいつつも今度はそこに記された地区別窓口に電話してみます。

「ハイこちらテクニカルセンター、担当のアレクサンドロブナでございます」
「じつはかくかくしかじかで部品がほしいのです」
「直接のご購入ですと万一の場合に保証いたしかねますがよろしいですか?」
のぞむところです
「かしこまりました。受け取りのほうはいかがなさいますか」
「近いので直接伺います!」
「では納品され次第ご連絡いたします。こちらの番号でよろしいですか?」
「よろしいです。それであの…」
「そうですね、明日か明後日には入るとおもいます」
「早い!」
「代金は2180円です」
「安い!」
「では担当アレクサンドロブナが承りました」
「かたじけのうござる」


買えた…


さらに翌朝

「納品されました」
「早い!」

そうして手に入れたのがコレだ!

※左下に足が写りこんでいますが、品質には問題ありません

伝説の武器を手に入れたかのようなこのよろこび!すり減ってつるつるだったギヤがギザギザになって帰ってきた!おそるおそるセットしてみるとガッチリ固定されてじつにたのもしい!そのまま勢いでタオルやら何やらをほうりこめば、ブンブンと力強く回ります。直った!直ったよ!ウディ・アレンが往年のブルース・ウィリスと入れ替わったようなこの安心感!

というわけで今日も遠慮なく水をばしゃばしゃ浴びているのです。生きてるってすばらしい!


※うれしくて屋外でも記念撮影

2013年7月11日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その161、もしくはキュウリの塩揉み的な


せかいのふしぎシリーズ







なんか生えてる!




ここ最近、本文のカロリーが高すぎたような気がして、すこし反省しているのです。殺人的な暑さでもあるし、たまにはキュウリの塩揉みのようにさっぱりとお送りしましょう。



あの鐘を鳴らすのはアナキンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 最近歳をとりすぎてしまったと感じます。どう思いますか?


A. 大丈夫です。そう遠くない将来、「そうでもなかったな」とおもうようになります。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

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その162につづく!

2013年7月8日月曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その160



ジャン黒糖さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: ふと時計を見ると、どうも一秒以上秒針が動いていない気がすることがあるのですが、あれはどういうことですか。


僕は科学に絶大なる信頼を寄せる者ですが、何でもかんでも科学的説明で片付けられるときゅうに鼻白む者でもあります。それは21世紀に至る今になってもなお、「現時点でいちばん確かだと思われることの集まり」にすぎません。何しろ飛行機が空を飛ぶ究極の理由は実のところよくわかっていない(!)というし、ほうれん草には鉄分がたっぷり含まれていると同時に、その吸収を妨げる物質も含まれている(!)というじゃありませんか。その是非はともかく、科学において確かなのはそれが鵜呑みにするほど揺るぎないものではない、ということだけです。

だからというか何というか、進化論に対して相当の敬意と関心を払う僕でも、アメリカ人のじつに半数近くが今も信じて疑わないと言われるキリスト教的創造論を、頭ごなしに否定する気には全然なれません。どう考えても太刀打ちなんか到底できそうもないのに、インテリジェント・デザイン(腕時計よりもずっと複雑なたとえば眼球のような構造が、何者かの意図と操作なくして自然に生まれると考えるのは馬鹿げている、とする考え方)というパワフルな論理をもちだして堂々と渡り合っていることにむしろ感動をおぼえるくらいです。できれば進化論と創造論、それに付け加えてよければ空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の3つは三竦みの状態でいつまでもにらみ合っていてほしいとおもう。

それから、たとえば宵の口に赤くて巨大な月をみることがあります。ことによるとそれはもう、夕日とまちがえるくらいデカい。ふだんの月がうずらの卵なら、空の低い位置に出た赤い月はにわとりの卵です。

でもそれを人に言うと、「ああ、それね、錯覚なんだよ」と訳知り顔で返されたりします。ここでもし彼が「だっておれ定規当ててみたもん」とつづけてくれたら全面的に受け入れる準備もあるんだけど、えてしてそういうことにはなりません。大抵はどこかで仕入れた「リーズナブルな知識」をそのまま鵜呑みにしているだけです。もちろん、錯覚なのかもしれない。その説明はたしかによくわかります。しかしじぶんで検証もしていない話が事実として通るなら、「まじでデカい」という言い分にも同じくらいの確かさが認められてしかるべきなのではないか?だって明らかにデカいもの。

とまあ、まるで関係のなさそうな話を長々としてきましたが、ここで質問に戻り(というか我に返り)ましょう。ときどき秒針が一秒以上動かずにいるように見えるあれはいったいどういうことなのか。

愛すべき科学に対する向き合いかたと、赤く巨大な月について述べた僕としてはやはりこう言わねばなりません。そのとき、時計はたしかに止まっていたのだと。

ではなぜ止まっていたのか。ここで注意したいのは、ふと目が合ったように感じる秒針と目撃者の間には、ある種の緊張感が漂っている、ということです。「マズいところを見られた」、あるいは「マズいところを見てしまった」気まずさがここにはあります。より具体的に言うなればそれは、子どもが内緒でつまみ食いをしているところに母親がひょいと顔を出すようなばつの悪さです。

でも相手は秒針だぜ、とおもわれるかもしれません。つまみ食いったって何を食うのか?おっしゃるとおりです。でも考えてみてください。もし秒針が時間をつまみ食いしていたとしたら?というのはつまり、これから来るはずの時間を待ちきれずに先取りしていたとしたら?本当ならまだ12秒のはずなのについ出来心で13秒目にまで手を出していたとしたら?

仮に14秒目まで手を伸ばしたところで、ジャン黒糖さんに見つかったとしましょう。秒針としてはそれ以上下手な動きをすることができません。そればかりか、見とがめられた以上は先取りしてしまった2秒を返す必要があります。時間を前借りしたぶん、同じだけの時間を稼いでいると言い換えてもいいけれど、いずれにしても秒針の、硬直してわずかに動きを止めた理由とそのきもちがこれでわかろうというものじゃないですか!


A: 秒針が時間のつまみ食いをしている場面に出くわしたのです。




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その161につづく!


2013年7月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その159b



愛という名のモツ煮さんからの質問のつづきです。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 聞き方が失礼かも知れませんが、ダイゴさんは褒められて伸びるタイプですか?ぼくは褒められると、これでいいんだ、と手を抜いてしまいます。


いかにも、僕はほめられて伸びるたちです。でも手を抜く云々というのはまたちょっとべつの話ですね。手を抜いている自覚があるのだとすれば、それはまだ先があるとわかっているにもかかわらず手を止めるということだし、はっきり言ってしまえばそこには主体性がないようにも見受けられます。与えられた課題を望まれるかたちで事務的にこなすような印象です。厳しく叱咤されたほうが伸びる、とは書いてありませんがもしそういうことなのだとしたらそれも、ひょっとしたらただ相手が納得しないから手を止めないだけのことなのかもしれません。そうなるとこれはもうほめられたらとか叩かれたらという話ではなくて、100%じぶんの問題になってきますよね。「彼は絶賛した。で、君自身はどうなんだ?ということです。

くりかえしになりますが、僕はほめられて伸びるたちです。またそれゆえに、ほめられて伸びない人なんてどこにもいない、と固く信じる男でもあります。

でもおだてられてのぼせることはあんまりありません。おだてるというのはこの場合「高純度の肯定」を意味していますが、これは実際のところ本心とは切り離して使うことのできるジョーカーみたいなカードだからです。ほめることが不得手な人はここをごっちゃにしていることが多くて、しかも本人はほめてるつもりだから、時として妙なすれちがいを生むことがあります。「いいね」とか「すごいね」というのは対象を問わない点からして、むしろ「承認」に近い。好意的な、と付け加えてもいいけれど、いずれにせよ似て非なるものです。

また、ほめる、というのはそれ自体が報酬ではありません。たとえて言うならそれは、マラソンにおける給水所のドリンクみたいなものです。さらに先へ進むためのブースター的な意味を持っている必要があります。したがって、もし相手のモチベーションがぴくりとも反応しなかったり、「これでいいのか」とペースダウンするような結果を招くとしたら、それはそもそもほめたことにはならないのです。

そしてそうならないためにはまず大前提として、どちらも信頼に応えようとする姿勢がなくてはいけません。あるいは面識のない人同士なら、信頼されていると仮定してそれに応える姿勢です。それは「応える」ものであって、「与える」ものではない。「承認」と大きく異なる点があるとすればここです。与えられたらそれで終わってしまうかもしれないけれど、応えてもらえたらまたそれに応えたくなるでしょう?なりませんか?ほめられて伸びない人なんてどこにもいない、と僕が信じる所以もここにあります。剃れば濃くなる体毛みたいな例も否定できないですけど。

要は応えたいとおもえるかどうかだとおもうんですよね。見返してやりたい、とかではなくて。ネガティブよりはポジティブのほうが、どうしたってよい結果を生むとおもうし、すくなくとも前を向いて歩く以上はそうおもいたい、というのが僕のスタンスです。自戒もこめて。


A: とはいえ実際のところ僕が伸びてるかどうかは僕も自信がありません。




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その160につづく!


2013年7月2日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その159b、ではなくて


そういえば、と思い出したように言うのはこれがひと月くらい前の話だからですが、うっかり掃除機で靴下をズコーと吸いこんでしまったのです。

靴下はウチにあるなかでもいちばんの古株で、ちり紙交換で言うところの「ボロ切れ」に相当するようなくたびれようだったから、そこに未練はありません。実際よれよれだししょぼしょぼだし、来るべきときが意外なかたちで唐突に来たというだけの話です。もし掃除機に口があったら「てっきりゴミだとおもいました」と悪びれずに言うでしょう。たしかにその見解には同意せざるを得ないだけの説得力がある。僕自身、「いいよいいよ気にすんなよ」くらいのきもちでおりました。あとはただその、かつて靴下と呼ばれていた袋状の布をひっぱり出してねんごろに弔うだけです。

そうおもいながら鼻歌まじりで掃除機の吸込口をはずし、延長管をはずし、ホースを本体からはずしたのだけれど、くだんの(元)靴下がどこにもない。すくなくとも本体まではまだ辿り着いていなかったらしい。はずした延長管を望遠鏡のようにのぞいてみれば向こうの景色が丸く見えます。となるとこの伸縮自在のホース部分のどこかに丸まっているわけだな、と見当をつけて再度本体につないで手元のスイッチを入れると、ホースが喉を詰まらせたように苦しそうな音を立ててギュウと縮むのです。このままスイッチを入れっぱなしにしておけばいずれ耐えきれずにスポンと本体へ引きずりこまれそうにおもわれます。よし、それを待とう。

ところが一向にそうなる気配がありません。ホースがますます縮むばかりで、事態(というか詰まった異物)が動いているようにはぜんぜん感じられない。空気の通り道がふさがれたことによる聞き慣れない稼働音が、だんだん断末魔の叫びにおもえてきます。ちょうど押すことも引くこともできないような絶妙の位置で、よほど頑固に丸まっているらしい。

こうなったら直接押し出してみようとスイッチを切り、長い棒を持ち出してホースにつっこんだそのとき、たいへんなことに気がつきました。手元に当たるホースの先には短いパイプが取り付けてあって、ここにスイッチがあります。そしてもともとこの部分は、くの字に成形してあるのです。


くの字に曲がっているということはつまり棒が貫通できないということであり、棒が貫通できないということはつまり異物を押し出すことができないということであり、異物を押し出せないということはつまりそれを取り出せないということであり、取り出せないということはつまり、のびきった靴下のためにこの掃除機まで粗大ゴミになるということです。

わーそれは困る!ときゅうに半ベソになって棒をホースにむやみやたらと突っ込みます。ちょうどビンに入れた玄米を棒で搗いて精白するような塩梅です(わかりにくいたとえだな)。待てよ、これもし棒の先が靴下に当たってるとしたらそれが刺激になってすこしは動きやすくなっているのではないか。というのはつまりこれで電源を入れれば案外スポンと本体に吸いこまれるのではないか。ありうるありうる。まちがいない!そうひとりで合点してさっそく本体につなぎ、スイッチを入れてみたところ

とてもしずかです。もういちどスイッチを切って、ふたたび入れてみても変わりません。しんとして、夜のしじまがひときわ染み入るようにおもわれます。なにかのまちがいだろうとおもって30分おきに何度かスイッチを入れたり切ったりしてみたけれど、動くものといったら風にそよそよとゆれる窓際のカーテンくらいで、あとは柱時計の振り子がコチコチと無機質にひびくばかりです。

米を搗くように棒を出し入れしたせいで、どうやら内部の配線を断ち切ってしまったらしい。


(ショックのあまり床に寝そべっています)


20年ちかく一度も故障せずにもくもくとゴミを吸いつづけた我が家における家電の最長老を、まさか「棒の出し入れ」という字面からして不適切なやりかたで手討ちにしてしまうとは、あまりの無念に言葉もありません。こんなの拷問で死に至らしめたようなものじゃないか!掃除機なしにこれからどうやって掃除をしたらいいんだ!あのパワフルな吸引力あってこそ掃除のしがいもあったのに、もう部屋を片づける気になんてならない!このままじゃ積もりに積もったふわふわのほこりでピッグペンみたいになってしまう!


(寝そべった床から立ち直れずにいます)


それでまあ、しばらく絶望してたんだけれど、いい機会だからためしに掃除機なしで暮らしてみようと思い立って、クイックルワイパーと雑巾(とバケツ!)で掃除をすることにしたら、別段なんの支障もないのです。前よりすこし手間がかかってるはずなのに、どういうわけかあんまり気にならない。あと、雑巾がけしたあとの達成感がすごい。

そうか、べつに困りはしないのか…じゃあ買い替えなくてもいいか。掃除機を替えるくらいならいっそ棕櫚の箒にしてしまうか。という結論にさいきんようやく至りました。なくても困らない家電を当たり前のように使いつづけて、それなしではいられないような暮らしになっていたというのも、おもえば奇妙なことです。ふーむ。さすがに冷蔵庫とか洗濯機はあるとすごい助かるけど、まさか掃除機まで暮らしに不要とは思いもよらなんだ。

なくても困らないものって思っていた以上にいろいろとあるものだなあ…とこれが質問箱の前置きのつもりで書き始めた話だったことなどすっかり忘れてうっちゃったまま、文化鍋でコトコト米を炊くすずしい夜であった。


(今度こそ)159bにつづく!