2012年7月25日水曜日

重圧に熱を出して2日間も寝こむ冴えない男の話



たいへんご無沙汰しております。

当ブログの管理者たる小林大吾本人の登場としては、ムール貝博士のパンドラ的質問箱の記念すべき第100回目で迂闊にもポロリと落命して以来じつに5ヶ月ぶり(!)になるのだから、部分日食よりもその頻度が低いライブを披露したときくらいとっとと更新すればよさそうなものなのに、それができなかったのは日曜にライブを終えて帰宅した途端、きゅうにガチガチと歯の根が合わなくなり、烈火のような高熱に見舞われて身動きもとれないまま、60時間ちかく延々とうなされつづけていたからです。


本当です。


月曜と火曜の記憶がほとんどなくて、いつの間にか水曜日であることにいささか愕然としております。いったいわたしに何が起こったの……?




そういうわけで何だかもう一切合切が夢だったかのような心境に包まれております。僕がライブに積極的でない理由が、この冴えない事実ひとつによく表れているのではないかとおもう。

とはいえ、ツイッターやブログにいただいたコメントからしてそれが夢でなかったことは明々白々です。すぐにお返事できなくて本当にごめんなさい。何しろ本当にぶっ倒れて虫の息だったのです。こういうときこそ打てば響くようなコミュニケーションを積み重ねておきたいとつねづねおもっているはずなのに、どうもそのへんの詰めがいつも甘くていけません。いい年こいて何熱なんか出してんだよとは誰より僕がいちばん呆れているところです。




ともあれアイララセッションズvol.6、ふたを開けてみればボンヤリ想像していたのをはるかに上回る大入りで、始まりから終わりまでまろやかな雰囲気に満たされたすばらしいイベントでした。プロデューサーである御大古川耕をして「泣けた」と言わしめたあの温かさは他の何にも代え難いものがあります。あんなによろこんでくれた古川さんを見たことはかつてありません。そのうるうるとした表情に僕ももらい泣きをしそうになったくらいです。もっとも大きな心配の種であったはずの僕がどうにか無事にやり終えたことだけでなく、イベント全体がとにかく本当によかったとしきりに申しておりました。

水のなかにどぷりと引き込まれてそのまま溺れてしまいそうになるtotoさんの頑丈にしてやわらかなあの世界観、どこまでも艶やかで時にタンと軽く跳ねるようなステップを踏むエイミちゃんのうるわしい歌声、らんちゅうのぴちぴちした演奏とその隙間を縫うようにして泳ぐタカツキ先輩……とくに彼は始終とぼけたいつもの振る舞いと裏腹の格好良さに胸を射抜かれた人も多いのではありますまいか。

ご来場いただいたみなさまもふくめて、あの場にいた全員がひとりでも欠けていたらきっとあんな素敵な夜にはならなかったはず、そう心からおもえる夜でありました。え、何?みんな友だちなの?ってくらいのあの一体感を誇らずに何を誇ろう。セッションの最後、「500マイルの未来に咲く花」にみた会場全体のボルテージの高さは忘れられません。

それから、ピス田助手の手記最終話にコメントとしてライブの感想をいただいているのですが、これがまたあまりに感涙ものだったのでこちらで再度お返事とともにご紹介させてください。



・毛だもの。さん
アイララセッションズにて。 ふだん《二ヒルなんだけど実は世話好きなしゃべる絵本》という架空のキャラクターをイメージしながらCDを聴くのですけれど、ご本人を目の当たりにしたライブではまた一味違い、舞台役者のように動き、また大道具、小道具も駆使する。『テアトルパピヨン』の蝶をミラーボールで表現したのには声をあげそうになりました。視覚にも訴えてくる表現・・・。     totoさんにも感じたのですが、この詩という枠を越えた表現をなんと呼べばいいのか、それともじぶんが無知なだけでこれらを含めて詩という表現なのか。ともかく、あんぐり口をあけて見入ってしまいました。 長くなりましたけれど、本当にライブみられてよかったです。ひとりでひっそり聴く楽しみもあるのだけれど、こんな機会でもなきゃ『手漕ぎボート』のサビをみんなで合唱することなんてないですもん。(来られなかった方には自慢するみたいで申し訳ないけれど、今度はぜひこの感動を共有しましょう・・・暑苦しかったらすみません) では次回のライブ、音源リリース、気長に待ってます。もちろん手記の続編も!

情景がありありと目に浮かぶ、心のこもりまくった感想をどうもありがとう!僕はステージからしか見ていないので、ああ、そんなふうに観えてたんだ…とおもうとすごく新鮮です。その場にいるみんなのきもちがちょっとずつ連鎖して、僕の望んでいた以上の何かが生まれていたのかもしれません。あと、『手漕ぎボート』のサビをみんなで合唱というのはちょっとにわかには信じられないのですが、こ、これは本当ですか…?そ、そんな夢みたいな話が?僕もそっちにいたかった…!

(また泣く)

またお会いできる機会が巡ってきますように!


・おーのさん
新世界でのライブとても良かったです。 もっと聴きたかったのが本音で、あの場に居たほとんどのお客さんも同じように思っていたはずです。 絵を描きながら聴いていたあの曲を生で聴けて光栄でした。 これからも聴き続け、ささやかながら応援してます。

絵を描きながら、というのはときどきいただく感想のひとつなんですよね。じわりとした実感がこもっていて、うれしいです、すごく。あの曲って、どの曲だろう…?初めての人も、そうでない人も、みんながひとつになれるあの感じは望んでも生まれるものではないので、堪能してもらえたのならこれほどうれしいことはありません。どうもありがとう!


・f.kさん
大吾くんへの思慕を遂げるために秋田から遊びにむいたのですが、えいみさんに惚れて地元へ帰ることになりました。ふたりの人を一度に想うのはとても辛いです。イベントのかえり道に何回じゃなく後ろを振り返ってしまうくらい名残惜しく楽しい夜でした。安田タイル工業にも夏休みがあったらいいなあ! なんだか後から思い返してATOMさんのコップは私の身体をさけようとして落としたんじゃないかと考えていました。もしもそうだったなら本当に申し訳ないです。また必ず遊びにいきます。

秋田からいらしてくださったなんて……!それだけで伺える思いのつよさに涙腺が破裂してあたり一面が水びたしになるばかりか、みるみる溢れて満ちたその水面にぷかりと箱船を浮かべたくなろうというものです。(何を言っているのかよくわからない)どうもありがとう!何より、エイミちゃんを好きになって帰るあたりに胸ふるえるものがありました。わかる!緩急あって撓まないあの伸びやかな歌、本当にステキでしたものね…。ATOMさんのことなら気にしないでください。あの人はいつもだいたいあんな感じです。Bygones!


・赤舌さん
ライブ観にいけなくて無念です…。超無念です。 がんばってください。

アレ……?いらしてましたよね……?気のせい?まあいいや、いつもホントにありがとう!




さて、次回のライブは例によって未定です。終われば三日も寝こむ体たらくだし、個人的にはこうなるともう次は来世じゃないかなという気がしないでもないですが、それはそれとして日曜日にご来場くださったみなさまには何とお礼を申してよいかわかりません。タカツキさん、エイミちゃん、totoさん、らんちゅう、新世界のみなさま、どうもありがとう!


おかげさまで熱下がりました。冴えないことですな、まったく。




2012年7月19日木曜日

ピス田助手の手記 最終話: 尾ひれにも似たエピローグ



ひさしぶり、というにはあまりにも長い月日がたちすぎて(たぶん1年以上)、もはや懐かしいと言っても過言ではない小林大吾の希有なライブインフォ↓


7月22日(日) @西麻布新世界
アイララセッションズ#6 -Words Canal-
アイララ、エイミアンナプルナ+ランチュウ、小林大吾、toto
開場17:00 開演18:00
料金2,000(ドリンク代別)
当日2,500(ドリンク代別)


http://shinsekai9.jp/2012/07/22/ilala6/


今さらこんなことを申し上げる身勝手は重々肝に銘じておりますれど、今となっては部分日食よりもその頻度が低いささやかな晴れ舞台でございます。みなさまどうか万障お繰り合わせの上、のしのしとご来場くださいませ。








シュガーヒルの自然的良心ともいうべき一級河川を、窮屈そうにずりずりと強引に這い進んできたのはたしかに戦艦だった。ほとんどビルみたいな規格外のサイズ感から察するに、途中にかかっていた橋という橋はすべて破壊しながらやってきたにちがいない。もちろん、こんなものの出所は聞かずともわかりきっている。まるで死の100円ショップだな、とわたしはムール貝博士を他人事のように思い浮かべた。

甲板には目を射る過剰な明るさにつつまれて、ひとつのシルエットが浮かび上がっていた。全身を甲冑でかためた中世の騎士みたいな人物が長い槍をもち、厳粛なオーラを漂わせながら仁王立ちでこちらを睨みつけている。

Sweet Stuff の正面までくると騎士は合図をして戦艦を停め、どこからか拡声器をおもむろに取り出すと、びりびりと周囲の空気をふるわすようなバリトンでこう言った。「あーあー。本日は晴天なり。本屋さんは閉店なり。わたしの美声が聞こえるかねシュガーヒル・ギャングの諸君。わるいことは言わない。娘を返してもらおう」
「パパ!」スワロフスキは口の回りをクリームだらけにしながら笑顔になって立ち上がった。「パパー!」
「ああ」とアンジェリカは思い出したように言った。「そっか。忘れてた」
「パパってまさか」わたしは転げるようにして庭に駈け戻った。「甘鯛のポワレ教授か?どうしてここが?」
「ここに来る前にあたしが話したから。話さないわけにはいかないでしょ。何も知らされてなかっただろうし、責任あるなとおもって」
「なんて間のわるい人だ」とわたしは言った。「もう話はついたのに」
「わたしの慈悲が届くようなら、シュガーヒル・ギャングの諸君」と甘鯛のポワレ教授はいまいちど拡声器で叫んだ。「すみやかにその耳をわたしに預けることをおすすめする。今すぐに娘を返すのならば、今回だけは見逃してやらないでもないと言わないこともないような気がしないとは言い切れない保証がどこにもないわけではないとも限らんぞ」
「返すも何も、とんちんかんな男だね」とシュガーヒルの大姐御はため息をついた。「腹を決めてきたんなら、そんな高みからこわごわ見物してないでさっさと降りてくりゃいいじゃないか」

右手に槍、左手に拡声器を掲げたまま、甘鯛のポワレ教授は微動だにしなかった。こちらの反応をうかがいながら次に何をどう切り出すか、思案しているようにもみえた。それからふと、言い忘れていたかのような調子であわてて付け加えるのが聞こえた。「べつに重たくて動けないわけではないぞ」

「動けないんだね」とシルヴィア女史はもういちどため息をついた。「あんな重たい甲冑を着込んでくるからだ。頭に血がのぼってるんだ。言ったって聞きゃしないよ」
「沈黙をもって答えとするというのならば、それはそれでよろしい」と教授は色気のあるバリトンでおごそかに宣言した。「主砲射撃用意」

その命令が伝わると同時に、戦艦に据え付けられた物々しい砲塔がきりきりと左に回転し、1本の太くりっぱな砲身とその丸い口が照準を Sweet Stuff に合わせて、真正面からこちらにまっすぐ向いた。攻撃すればスワロフスキもその対象にふくまれてしまうというのに、駆け引きも何もない。すべてを抜け目なく計算していたアンジェリカとはちがって、日ごろ権謀術数になじむ機会のないポワレ教授はただ引くに引けないようなところまできもちが追い詰められてしまっていたらしい。唯一説得力をもって止めることができそうなアンジェリカまで何も言わずに黙っているところをみると、シルヴィア女史と同じく聞く耳もつまいと匙を投げているのかもしれなかった。ブッチはより戦艦に近い位置で賢いハンス号といっしょにぷるぷるとふるえている。わたしは半ばやけくそみたいな面持ちでつぶやいた。「どうしたらここから帰れるんだ……?」

拡声器をかまえた甘鯛のポワレ教授の無鉄砲な「撃て!」という声より先に、飛び出したのはいつの間にかスワロフスキと同じく口の回りをクリームでべたべたにしたみふゆだった。あまりに速い所作だったので例の脇差しが一閃したかどうかも判然としなかったが、おそらくこの時点で砲弾は賽の目に刻まれていたのだろう。縦横に切り込みの入った状態でみふゆの頭上を通貨した砲弾の先には、いつの間にかアンジェリカがいた。全身をバネのようにしならせたアンジェリカは、コンキスタドーレス夫人から拝借したと思わしき扇子でこれをパァンとそのまま真正面にはじき返した。砲弾は戦艦の上方に向かって飛び散ると、花火のようにパチパチとささやかに爆ぜたのち、音もなく暗がりのなかへ溶けていった。まばたきひとつする暇も与えられない、刹那のリアクションだ。拡声器をかまえたまま身動きの取れずにいるポワレ教授から、追加の攻撃命令が出されることはもはやなかった。




今度こそ話はついた。語り尽くして、絞り出せる水はもう一滴もない。わたしはアンジェリカの運転する賢いハンス号に同乗して送ってもらうことになった。もちろんブッチもいっしょだ。ブッチはアイスノンの貴重な卵についても、めでたく独占契約をむすぶことができた。これからは週に一度、運がよければ天竺鶏の冷たい卵がひとつふたつ、ブッチの店に並ぶことになる。わたしも味わってみたいというようなことを言ったら、ブッチはこの日生んでクーラーボックスに収めておいたぶんを気前よく譲ってくれた。パンツ一丁であちこち連れ回されただけの甲斐はあったろうとわたしもおもう。

死神の鎌を手にしたコンキスタドーレス夫人とみふゆはタクシーを拾うと言って、Sweet Stuff で別れた。考えてみれば、この日いちばん多く危険を退けてくれたのはみふゆなのだ。彼女がいなかったらすくなくともわたしとブッチは2回くらい黒焦げになっていたにちがいない。たった1本の脇差しでこうなのだから、太刀を持たせたらいったいどうなってしまうのだろう?興味を示していたフォーエバー21に寄ってやれなかったことだけが、今となってはなんとなく心残りだ。

ちゃぶ台を食事が終わってからひっくり返しにきた甘鯛のポワレ教授は、あの重たい甲冑を身に着けたまま、スワロフスキと手をつないでガシャンガシャンと足をひきずりながらむりやり徒歩で帰った。なぜ脱がなかったのかと言えばそれはつまり、脱げなかったからだ。人のことを言えた義理ではないけれども、いったい何しにきたんだろうとおもう。町なかに持ち出した巨大な戦艦の派手な不始末を、結局その後どう片付けたのかわたしは知らない。個人的には撤去するよりいっそ船体をくり抜いて水を流したほうが手っ取り早いような気もする。

まろやかな宵の風を浴びて走る帰路の車中で、わたしはアンジェリカにたずねた。「もういちど訊くけど、本気で結婚するつもりだったわけ?」
「もちろん」とアンジェリカはハンドルを切りながら即答した。「何で?」
「何でってこともないけどね、それは」思いもよらず問い返されて、わたしは言葉を詰まらせた。「しかし、そういうもんかね」
「そういうもんでしょ。何だってそうだけど、なるとなったら四の五の言わずにそれでやっていかなくちゃいけないんだから。けっきょく反故になって逆にヘンな感じがするくらい」
「愛情を忘れてるとおもうんだよ。だって、結婚なんだぜ」
「あとから芽を出す愛情もあるでしょ」
「割り切るもんだな!」
「ははは」とアンジェリカは楽しそうに笑った。「ピス田さんてそんなロマンチストだったっけ?」

わたしはアンジェリカに奪われたスナーク・ノートのことを言わなかった。どのみち帰ればいやでも知ることになるのだから、今ここで消えかけた火に油を注いでもしかたがない。あの神秘の生ハムも屋敷に置いてきたことだし、うまくすればそれも、すでにその驚くべき味わいを経験済みのイゴールが火消しに役立てるだろう。

喧噪の Sweet Stuff から遠く離れて初めてわたしは、地の果てまでも追いかけてくるようなその強烈な甘いにおいに気がついた。あまり考えたくないことではあるが、シュガーヒル・ギャングの面々とは近いうちにまたお目にかかりそうな気がする。ふと訪れたやさしい沈黙の合間に後部座席を振り返ると、ブッチが地鳴りみたいな大いびきをかきながらアイスノンといっしょに眠りこけていた。



END





ピス田助手近影


2012年7月16日月曜日

ピス田助手の手記 39: 駆け引きのゆくえ







「ふれてはならない?」
「そうよ。何か問題ある?」
「指一本も?」
「あたりまえでしょ」
「問題なら大アリです」ジャングイデの顔はみるみる赤くなった。「そんな夫婦がありますか!」
「他にあるかどうかなんて、関係ないとおもうな」
「アタシが求める結婚とはそんなものじゃありませんよ!」
「あたしさっき確認したよね?これでいいかって?」
「しかし……」とジャングイデは目を泳がせた。「しかしそれは……」
「言うことないって言ったよね?」
「こんなことでは坊ちゃんに報告ができん!」
「ぶじ結婚と相成りましたでいいじゃない。お望みどおりでしょ。何が気に入らないわけ?」
「ただしふれることまかりならぬと言い添えてですか」
「それはしょうがないよね」とアンジェリカは肩をすくめて言った。「そんな約束、初めからしてないんだから」
「そんな屁理屈がとおるとお思いか?」
「だから好きにすればいいじゃないの?晴れて夫婦になったんだから?ただそれはあたしを怒らせることにしかならないし、その結果どうなるかは責任もちませんて言ってるだけ」
「バカバカしい」とジャングイデは絞り出すように言って呻いた。「そんな都合のいい条件をつけて話を骨抜きにできるとお考えなら、それは大きな間違いです」
「あのね」とアンジェリカは冷気をつよめて言った。「あたしはその紙切れに書いてないことを認めないって言ってるだけなの。法的に夫婦となるのはかまわないし、公言されることも厭わない。あたしはガンラオヤンの嫁になることを承諾したし、それを撤回しようともおもわない。そっちの要求はぜんぶ丸ごと受け入れたのに、後になってあれこれ条件を盛りこもうとしてるのはそっちじゃないの!」
「それにしたって不文律というものがあるじゃありませんか」
「天下のシュガーヒル・ギャングが不文律をあてにするなんて、ちょっと間が抜けてるとおもうけど」
「仕切り直しだ」ジャングイデはポタリと落ちる脂汗を前掛けで拭いた。「これについてはあらためてきちんとお話をすべきです」
「ところがあたしにはもうその必要がないの」
「なぜです」
アンジェリカは手にした封筒を目の前でひらひらと振りながら言った。「スワロフスキについての念書はもうもらったもの」

筋金入りの傍観者たるわたしたちは、ここにきてようやくすべてを理解した。アンジェリカは初めからこの念書をとるためだけに行動していたのだ。過分に自発的すぎるようにおもわれた婚姻届にしても、こうなれば必要にして不可欠な一手だったことがよくわかる。法的な効力をもつこの1枚の紙がなければ、老獪なジャングイデから念書を引き出すことはできなかっただろう。シルヴィア女史でさえ「おもしろくない」とこぼしていたくらいだ。あの状況でこれを策略と見て取るのはむずかしいし、どうしたって不可能にちかい。何から何まで計算ずくであり、またその計算にほころびは一切なかった。

しかし何と言ってもわたしが唸らずにはいられないのは、アンジェリカが一抹の曇りもなく本気で結婚を受け入れるつもりでそこに来た、という点にある。婚姻届にはきちんと捺印がされていたし、彼女自身も撤回する気はないときっぱり言い切った。であればこそ微塵のためらいもなく詰め寄ることができたのだ。実際その気持ちにわずかでも別の意図が見え隠れしていたら話はこうもまっすぐすすまなかったにちがいない。アンジェリカは不退転の覚悟で肉を切らせ、そして骨をきれいに断った。彼女の強さとやさしさを、同時に見せられた思いだ。それはまったく、みごとな駆け引きだった。

「こんなのは無効です」とジャングイデは脂汗をさらに垂らしてギリギリと歯ぎしりをした。「当然その念書もみとめるわけにはいきません」
「無効ですって、シルヴィアさん」とアンジェリカはシルヴィア女史に向かって言った。「自分の意志で書いて、血判まで押したのに」
「ははは!」とシュガーヒル・ギャングの頭目はこらえきれない様子で笑い出した。「自分の意志で書いて、血判まで押してね?そのとおりだ。もちろん見てたとも。とぼけたことを言うじゃないか、ジャングイデ。このあたしの目の前で?」
「しかしこれでは」ジャングイデは青ざめた。「坊ちゃんに顔向けができません」
「しなきゃいいのさ。肝心なのは勝ち負けよりも往生際だよ。その紙切れをおよこし」
「しかし……」
「よこせと言ったんだよ、ジャングイデ」

ジャングイデはしぶしぶ婚姻届を手渡した。シルヴィア女史はそれを受け取ると、迷いもせずぴりぴりと縦に引き裂いた。
コンキスタドーレス夫人がそれを見て感心したように言った。「きもちのいい音」
「見立て以上のもんが見られて、あたしとしちゃ言うことは特にないね。たいした筋書きだ。こうなるとますます嫁にほしくなる」
「あらシルヴィアさん」とアンジェリカは言った。「あたし結婚する気でいましたけど」
「いいのさアンジェリカ。ひとまずあんたは自由だ。その念書も好きにしていい。そんなものがなくたってこのおチビさんの安全なら」シルヴィア女史はとなりに座ってきょとんとしているスワロフスキの頭に手をのせた。「あたしが保証する。あんたを出し抜く別の手をまた考えないとね」

するとそこへ、店から庭にひとりの少年が駆け寄ってきた。「アンジェリカ!」
「おやおや」とシルヴィア女史の顔がほころんだ。「もうひとりの主役がご登場だ」
「ガンラオヤン」とアンジェリカも笑った。「こんにちは」
ガンラオヤンと呼ばれた少年はまっすぐにアンジェリカのそばに向かい、彼女の袖をつかんだ。「来てたなんて知らなかった!呼んでくれないなんてどうかしてるよ、ママ!みんなで楽しそうにして!」
「そろそろ呼ぼうとおもってたとこさ」
「ガンラオヤン?」とわたしはびっくりして言った。「この子が?」
「そうとも」スピーディ・ゴンザレスが愉快そうに言った。「何をそんなに驚くんだ」
「まだ子どもじゃないか!」
「義務教育の真っ最中だからな。もっとおっさんだとでも思ったか?」
ガンラオヤン少年は言った。「どうしたの、こんなに大勢で?」
「相談してたんだよ」とシルヴィア女史はやさしく諭すように話しかけた。「どうしたらアンジェリカがおまえのお嫁にきてくれるかとおもってね」
「じつはすっかりその気で来てたんだけど」とアンジェリカは言った。
「言わなくていいんだよ、アンジェリカ。その話はチャラだと言ったろ」
「そうなの、ジャングイデ?」とガンラオヤンは責めるような目で問いつめた。「それで来てるの、アンジェリカが?」
「はい。いや、その」当然、ジャングイデの歯切れはわるかった。「そのはずだったんですが」
それを聞くとガンラオヤンはカンカンになって抗議しはじめた。「ダメだよ!どうして僕抜きで勝手に相談なんかしてるんだ」
まさか腹を立てるとは思いもよらなかったので、わたしたちはみな例外なくびっくりして彼をみつめた。
「いえ坊ちゃん、それがその、結果的には」とジャングイデはしどろもどろになって答えた。
「誰がそんなことを言い出したの」
「アタシです、坊ちゃん」
「アンジェリカには僕がプロポーズする!」ガンラオヤンは今やすっかり立つ瀬を失ったジャングイデを睨みつけて言った。「もう決めてるんだ。これ以上勝手な真似をしたらジャングイデ、おまえのケツに火を点けるぞ!」
その毅然とした態度をみたシルヴィア女史はコンキスタドーレス夫人に顔をよせて、誇らしげにささやいた。「これがあたしの息子だよ」

はりつめた青い空は夕暮れに発火して、端から赤くめらめらと燃え始めていた。夜のとばりがそれを消そうとシュガーヒル全体にゆっくりと音もなく降りてくる。急にメランコリックな気分になったのは、それまで棚上げしていた一種の孤立感みたいなものが不意にむくむくと頭をもたげてきたからだ。気がつくと、ひとりでスタスタと店に戻るスピーディ・ゴンザレスの後ろ姿が見えた。エンドロールを待たずに席を立つタイプだったらしい。わたしは彼の超然として不羈なふるまいを、すこしうらやましくおもった。

話はついた。かに見えた。実際そう見えたし、すくなくともわたしは先に言ったような心持ちから席を立つタイミングをそわそわと見計らっていた。だがそうならなかったのはこのすぐあと、それまで庭の外でひたすらちぢこまっていたブッチがアイスノンを小脇に抱えて、破廉恥な格好もかまわずに庭へ飛び込んできたからだ。

「旦那!旦那!」
「うわァブッチ」とわたしはパンツ一丁たる肉屋の痴態にあらためて目を瞠った。「こうして時間をおいて見ると紛う方なき変質者にみえるよ」
「教育上よろしくないのがきたね」とシルヴィア女史は呆れ顔で言った。コンキスタドーレス夫人もパリッと広げた扇子を口元に当てて、歓迎せざる意を控えめに示した。
「か、かかか」とブッチは言った。「川に船が」
「川に船」とわたしは確かめるようにくり返した。「ふつうだね」
「そんなのじゃありません」とブッチはぶんぶんと首をふった。アイスノンまでがつられて首をふっていた。「デカいんです」
「べつにデカくたって良さそうなもんだけど」
「だってそれが旦那、今にもはみ出しそうなんですよ」
「はみ出すって何から?」
「川からですよ!」
何を言っているのかさっぱり要領を得なかったので、わたしは物見がてら往来へ出てみることにした。場合によってはこの流れでそのまま帰ってしまえというけちな魂胆もあったのだが、ブッチの言う船を実際にこの目でみて、たしかに全然それどころではないということが腹の底からよくわかった。

船はじっさい川幅いっぱいに広がっていた。それどころか幅に劣らず見上げるような高さがあって、船というよりもはやりっぱな建造物にちかい。岸をずりずりとこすりながら匍匐前進のようにむりやり進み、浮くというよりは明らかに流れを塞き止めている。無遠慮な佇まいとその重すぎる威圧感はじっさい、怪物と呼んでちっとも遜色がなかった。おまけに無数の白い光を四方に煌煌と放ち、目を細めないことには眩しすぎて直視もできない。かんざしみたいなシルエットがあちこちから突き出していたせいか、うっかりすると派手な花魁道中のようにもおもえた。

誰かが夢だと言ってくれれば、ありがたくその意見に飛びついていただろう。暮れなずむシュガーヒルの中心地に最後の最後でその堂々たる姿をあらわしたのは、こともあろうに戦艦だった。






<ピス田助手の手記 最終話: 尾ひれにも似たエピローグ>につづく!

2012年7月13日金曜日

ピス田助手の手記 38: 番頭ジャングイデとみごとな王手







婚姻届?

そこにいた誰もが耳を疑い、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。仮にそれがタタタタタと連射式であっても、気づいてわれに返るまでにはしばらくの時間を必要としたにちがいない。選択肢としては初めからずっとそこにあったのだから意外とまでは言わないにしても、受け止めるにはいささか唐突すぎたのだ。

だが、まだ先がある。粛々と話をすすめよう。

この重大な瞬間に居合わせなかったスピーディ・ゴンザレスはジャングイデを連れて戻ると、訝しげに言ったものだ。「妙な空気だな。何かあったのか?」

スピーディ・ゴンザレスのうしろには、背丈がその半分くらいしかない小太りの男が控えていた。白いワークキャップをかぶり、真っ白なひげをたくわえ、使い古された白い前掛けを腰に巻いて、なぜかそこに派手な装飾を施した短剣、ジャンビーヤを差している。ついでに言うと手も顔も小麦粉にまみれて真っ白だった。そのうえちいさな黒ぶちの眼鏡を鼻にのせて黒いTシャツだから、菓子職人というか、ほとんどパンダみたいなものだ。コロコロと転がりそうな樽みたいな腹をしきりにさすり、人の良さそうな顔をして、どことなく愛嬌がある。これが話に聞いた番頭ジャングイデだとすれば、すくなくともアンジェリカを出し抜く奸智に長けた男にはとても見えなかった。

「よいお返事はいただけそうですか、アンジェリカさん」とジャングイデはくしゃみをこらえながら言った。「エッキシ!」
「とおもうけど」とアンジェリカは顔をしかめて言った。「ガンラオヤンはいいの?」
「お気遣いなく。坊ちゃんにはアタシが責任をもって伝えます。エッキシ!」
「フーン」
「案内にふたりばかし遣わしたんですが、お会いになりませんでしたか」
「煩わしいから置いてきちゃった」とアンジェリカは言った。「そこらの川に浮いてるとおもうけど」
「エッキシ!」
「マズかった?」
「いえいえ!」とジャングイデは前掛けで鼻を拭きながら首をふった。「かまいませんです。どこにいるのかさえわかってればね。雷も落とせないようじゃ困ると案じただけですよ」
「職務怠慢てわけ?」
「そうですな。そんなようなもので」
「それはお気の毒」
「と言いますと?」
「彼らが仕事に忠実じゃなかったとしたら、そろって仲良くここに来たはずだもの」
「これはこれは」ジャングイデは饅頭みたいに丸い体を揺さぶって笑った。「エッキシ!われらがあたらしい花嫁御寮は、げにもおやさしい。つまり恩赦というわけで。身に余ることです。結構!迎えにやったふたりには目をつぶるとしましょう。では坊ちゃんのお気持ちはまっすぐにお受け止めいただいたと考えてよろしいか?」
「よろしいわ」
「よもや反古にされることはありますまいな?」
「そうできないように仕向けておいて、それはないんじゃないの」

ハイこれ、と言ってアンジェリカは先の封筒を差し出した。ジャングイデはそれを受け取って中をあらためると、ピョンと飛び上がるようにしてよろこびを露にした。「重畳!重畳!名にし負う大人物はさすがに話がはやい。坊ちゃんもさぞおよろこびになるでしょう」

いまいち事態が飲み込めずにいるスピーディ・ゴンザレスは、封筒の中身を尋ねるような顔つきでシルヴィア女史に視線を投げた。女史はつまらなそうに首をすくめて言ったものだ。「婚姻届だとさ」

じぶんの息子の縁談が思惑どおりに運ばれたのだから、つまらない顔をするというのはいささか矛盾しているようにもおもわれるかもしれない。だがそのきもちはわたしにもわからないではなかった。オブザーバーたるシルヴィア女史は、つるんとして素っ気ない単なる了承を期待していたのではなく、むしろ無理難題を吹っかけられたアンジェリカの度量を見てみたかったのだろう。アンジェリカともあろう者が、いっさいの抵抗なく無条件に要求を丸呑みしたのだから、わたしだって落胆をおぼえないわけにはいかなかった。

「いちおう確認しておきたいんだけど」とアンジェリカは言った。「それでいいのよね?」
「ええ、ええ。もちろんです。こちらからお願いするまでもなく、届けまでお持ちいただいたんですから何も……エッキシ!えー、言うことはございません。おふたりは晴れて法的にも結ばれるというわけで。いや、めでたい」
「肝心の花婿不在でね。ま、いいけど」
「お姉さま」となりのテーブルから、みふゆが不安げに発言した。「誰かと結婚するのですか」
「そうなの」とアンジェリカは微笑んだ。「おめでとうと言ってちょうだい」
みふゆは突然の成り行きに戸惑っているようだった。
「ハッピーなことなんだから」とアンジェリカはまた笑った。「心配しないで、みふゆ」
「そうですとも!」ジャングイデはみふゆに向かってバチンとウィンクしてみせた。「これ以上ハッピーなことは他にちょっと見当たらないくらいです。お姉さんにとっても、もちろんアタシらにとってもね」
「ま、ムリもないか。急な話だものね。ところでひとつ大事なお願いがあるんだけど、ジャングイデ?」
「ハイハイ。エッキシ!何なりと」
「一筆、書いてもらってもいい?今ここで」
「一筆、と言いますと?」
「スワロフスキのこと」
「はァ……」
その生返事を耳にしたとたん、雪女のようにアンジェリカの周囲が氷点下の冷気にみちた。「ちょっと……。あたし精一杯の誠意を見せたつもりなんだけど」
「もちろんです」とジャングイデは吹きつける冷気を涼しげに受け流した。わたしはこの男の凍てつくような腹黒さを垣間見たような気がした。「ええ、それはもう、エッキシ!この上ないくらいに。仰るのはつまり、身の安全ということでしょう?彼女について今後一切の手出しをしないというような?」
「そうね。ご不満?」
「いやいや逆です。逆です。ないからオヤとおもうんですよ。考えてもごらんなさい、縁談がまとまってなお盾に取る理由がどこにあるんです?こうなればむしろ……エッキシ!アタシらの媒酌人であり、キューピッドであり、何と言っても恩人じゃありませんか。涙ながらに感謝こそすれ、それを手にかけるなんて法がありますか。それでいったい、誰が得をするんです?」
「それで何?書きたくないってこと?」
「いえいえ、どうしてもと仰るのであればそれはお断りする理由もないですよ、もちろん」
「あたしだって別に婚姻届なんか持ってこなくたってよかったの。こっちがイエスと言えばそれでも済むはずなんだから。でも世間にちゃんと顔向けできたほうがいいだろうなとおもって、こっちを選んだわけ。これが誠意。その誠意に応える心意気はある?って聞いてるの。わかる?」
「ごもっともです」ジャングイデは前掛けで鼻をこすりながら頷いた。「そういうことなら、ご用意いたしましょう」
「形式ばったのはいらないわ。ここで書いてくれれば」
「ここで?」
「ここで。その封筒でいいじゃない」
「こんなのでよろしいので?」
「言ったでしょ。だいじなのは誠意で、紙切れじゃないの」

Sweet Stuff の番頭ジャングイデは顔をしわくちゃにしながらも、婚姻届を抜いた封筒にアンジェリカがどこからか取り出したボールペンでさらさらと念書をしたためた。印鑑よりも血判がいいというアンジェリカのいささか不可解な要求にも、腰に差したジャンビーヤを使っておとなしく従った。拒否する理由はどこにもない。婚姻届がある以上、どのみちこんなものはあってもなくても問題ではないのだ。彼は上機嫌だった。わたしはその様子を複雑なきもちで見つめていた。

「さて」とジャングイデは揉み手をして言った。「これでよろしいか?」
「よろしいわ、もちろん」アンジェリカはジャングイデの血判が押された念書としての封筒を受け取って、満足そうにうなずいた。「いいかんじ」
「ではこれで万事が万事、まるくおさまったというわけです。思いがけず証人となられる方々も大勢いらして、こんなにありがたいことはありません。ご覧になりましたか、シルヴィアさま?」
「そりゃみてたよ、ずっと」
「記念すべき一日です。そうはお思いになりませんか」
「どうだかね」とシュガーヒルの頭目は気のない返事をよこした。「ガンラオヤンがよろこぶなら、それでいいけど。おもしろくないといえばおもしろくない筋書きだね、どうも」
「何を言うんです、焦がれに焦がれた女性と結ばれるのに、およろこびにならないわけがないでしょう」
「そうかね」
「跡継ぎにも期待ができましょうし、そうなればこのシュガーヒルもますます盤石にしてすこぶる安泰というわけです」
それを聞くと、アンジェリカは言った。「ちょっと待って」
「エッキシ!」とジャングイデは盛大にくしゃみをした。「これは失礼。何でしょう」
「跡継ぎってなに?」
「なにってそりゃ、つまりいずれおふたりの間にお生まれになる……」
「それはまた別の問題でしょ」
「はァ、なるほど。いやたしかに、子宝というのは神様の思し召し次第ですからね。つい気が急いたようで」
「そうじゃなくて」とアンジェリカは首をふった。「体にふれていいなんて、あたし言った?」
あたりにそろそろと立ち籠め始めた冷気を察して、ジャングイデは真顔になった。「と言いますと?」
その婚姻届のいったいどこに、あたしを好きにしていいなんてことが書いてあるわけ?

それはみごとに意表をつく、鮮やかで破壊的なひと言だった。

王手というなら、ジャングイデはたしかに王に手をかけた。だがその実、厳然たる王の一手を差したのは他ならぬアンジェリカのほうだったのだ。





<ピス田助手の手記 39: 駆け引きのゆくえ>につづく!

2012年7月10日火曜日

ピス田助手の手記 37: アンジェリカの来店







書類らしき封筒を一枚手にしていることをのぞけば、アンジェリカはいたって普段どおりの様子にしか見えなかった。細身のジーンズにゆるやかな白いシャツをまとって、てらいがなければ気取りもない。おまけにビーチサンダルだ。まるで散歩に出たついでにちょっと立ち寄ってみたとでもいうような格好だった。差し迫った状況を鑑みればあんまり落ち着きすぎている。彼女にとって年貢とは、コンビニのレジで支払う公共料金とそう違わないものらしい。それにしたってもうちょっと緊張感があってもいいとわたしはおもった。

「あれ、ピス田さん」とアンジェリカは庭に足を踏み入れながら言った。「何してんの、こんなとこで?」
「お姉さま!」
「みふゆ?げッ、お母さまも」
「ご挨拶ね、アンジェリカ」とコンキスタドーレス夫人は和やかな調子でぴしりと鞭をくれた。「あなたのその鎌を回収しにきたんですよ。借りっぱなしだと田村がいうから」
「そのためにわざわざ?」
「シルヴィアとお茶がてらね」
「アンジェリカ!」とスワロフスキが再びケーキの刺さったフォークを振り回して歓迎した。
「スワロフスキ!」
イゴールのことを持ち出してよいものか判断がつかなかったこともあって、わたしは言葉をさがしながらうやむやに答えた。「心配してたんだよ」
「何を?」
「えー、いろいろ」
「イゴールは?」
「え、いや」こちらのためらいをパリンと叩き割る単刀直入の切り返しにわたしは言葉を詰まらせた。「いないよ、もちろん」
「アイスノンと賢いハンス号がいるのに?」
言われてみればそのとおりだ。うっかりしていた。むしろこの状況で知らんぷりをするほうがよほど不自然に違いなかった。「ハンス号はわたしが借りてきたんだ。あの変質者みたいのは肉屋の主人で……」
「肉屋?ちょっとまさか……」
「いやいや、ちがうよ。アイスノンじゃない。ないってこともないけど、そうじゃない」
「何なの、いったい?」
「あとで話そう。ひとことで説明するのはむつかしい」
「ま、いいけど。このギャラリーはそれで、いったい何ごとなわけ?」アンジェリカは眉をひそめた。「ドッキリ……ではないか、さすがに」
「よく来たね、アンジェリカ」とシュガーヒル・ギャングの頭目は穏やかに声をかけた。「ジャングイデが奥で待ってるよ」
「こんにちは、シルヴィアさん」
「奥に行くかね?」
「いいえ。べつに、ここでも」
「ここだとみんなが見物することになるけどね。あたしもふくめて」
「見物するようなことって、ありましたっけ?」
「あんたがよければそれでかまわないよ、もちろん」
「お茶会みたいで、素敵じゃありませんか」アンジェリカは心にもないようなことを言って、スピーディ・ゴンザレスのそばに腰を下ろした。「あんたまでいっしょになって、何してるわけ?」
「アイツが言ったろ」とスピーディ・ゴンザレスはわたしのほうを顎で指して言った。「ひとことで説明するのはむつかしい」
「じゃ、クリーム・ソーダひとつ」
「じゃって何だ。オレに言うなよ」
「ついでにジャングイデも呼んできてよ」
「じぶんで行け」
「あたしお客さんなんだけど」
「オレは店員じゃない」
「いいじゃないか、ゴンザレス」とシルヴィア女史は笑った。「呼んできておやり」
「アンジェリカ」とコンキスタドーレス夫人は言った。「鎌をお渡しなさい」
「今?」とアンジェリカは驚いたように言った。
「今でもあとでも、同じことでしょう。わたし、忘れっぽいの。だから、忘れないうちにね」

アンジェリカが持つ唯一の得物は、こうしてあっさりと取り上げられた。わたしからするとそれはアイデンティティのひとつにも匹敵するようなものだとばかりおもっていたが、ため息まじりとはいえ彼女はためらいもせずかんたんに引き渡してしまった。スピーディ・ゴンザレスは肩をすくめながらジャングイデを呼びにいき、ブッチはあいかわらず身を潜めるようにしておどおどとこちらを遠巻きに眺めている。わたしはアンジェリカがテーブルに置いた封筒にふと目をとめて、その何であるかを尋ねた。「これは?」

「あ、これ?」とアンジェリカは何でもないことのように答えた。「婚姻届」

当然というべきなのかどうか、その場にいた全員の呼吸が止まるのを、わたしは感じた。耳が取り外し可能な部品だったら、わたしだってふたつともポロリと地面に落としていただろう。ついでに目玉も落としていたかもしれない。まさかアンジェリカがそんなものを持参してくるとは、よもやおもってもみなかった。

大事なことだ。もういちど書き留めておこう。アンジェリカは、結婚を選んだ。言いたくはないがこのときのわたしにとって、それはとても残念なことだった。





<ピス田助手の手記 38: 番頭ジャングイデとみごとな王手>につづく!

2012年7月7日土曜日

ピス田助手の手記 36: 傍観者たち







わたしにとって、シュガーヒル・ギャングの頭目を目のあたりにするのはこれが初めてのことだった。シュガーヒルという限定された一画をその名に冠しているとは言え、極楽鳥エリア全体ににらみのきく荒くれ集団の頂点だ。それなりに年を召して幾分ふっくらとはしているものの、藍色をした大きめのキャスケットを小さな頭にふわりとのせ、同じ色のタートルニットに身を包んでその美しさには翳りもない。やわらかく波打つ漆黒の髪はうしろに束ねられている。唇よりも雄弁な眼光炯々たるそのまなざしに、わたしは身のちぢむ思いがした。佇まいはどちらかといえばまろやかで落ち着いた雰囲気を醸しているが、それはまた太く根をはって微動だにしない、強靭な胆力の裏返しでもあるのだろう。コンキスタドーレス夫人とシルヴィア女史、品格と美しさだけを抜き出せばどちらも圧巻で、このふたりが懇意というのもどこかうなずけるところがあった。

「ずいぶんと賑やかなことだね、ゴンザレス。え?」とシュガーヒル・ギャングの頭目はこの奇妙な状況を楽しむような表情をみせた。「いつから団体行動ができるようになったんだい」
スピーディ・ゴンザレスは隣に並んだもうひとつのテーブルに寄りかかりながら、肩をすくめた。「いいとばっちりですよ、こっちは」
「次郎吉は?」
「仰せのとおり、置いてきましたよ。その代償がこいつらってわけです」
「ふふふ。連れてきたって同じだわね、こんなことなら」
「意地のわるいことを言わんでくださいよ。ジャングイデはどこです」
「奥でアンジェリカを待ってるよ。しかしひどい顔だね」
「言ったでしょう。とばっちりですよ、これが」

どうやらアンジェリカはまだ来ていなかったらしい。わたしはまだ混乱していた。なぜコンキスタドーレス夫人はアンジェリカの窮地を知ってなおこれほどくつろいでいられるのか?また、シュガーヒルの支配者がこんなにも小さなスワロフスキを出しに使って、いよいよよこしまな目的を果たそうとしているというのに、それでもなお茶飲み友だちと言い切って憚らないのは、いったいどういう料簡なのだろう?

右手に威厳あれば左手に貫禄ある、婦人方の重圧に飲み込まれそうになりながらも意を決して問いただそうとすると、その気配を察してかスピーディ・ゴンザレスがわたしを遮った。「おい言ったろ。姐御は部外者とは言えないだろうが、といって当事者でもない。この件に関しちゃ単なるオブザーバーなんだ。責任があるとすりゃ、ジャングイデの奴さ」
「ジャングイデ?」
「この店の番頭みたいなもんだ」
「息子の話じゃなかったのか?」
「だからまァ、名代だな。アンジェリカにとっての次郎吉と同じさ」
「オブザーバーだろうが何だろうが、知ってて止めないなら同じことじゃないか」
コンキスタドーレス夫人がこのやりとりを聞いておかしそうにしとやかな笑みを浮かべた。「おかんむりね、ピス田さん」
「あなただってそうだ」わたしはだんだんいらいらしてきた。「どっちの味方なんです、いったい?」
「味方?誰と誰のことをおっしゃるの」
「アンジェリカとシュガーヒル・ギャングですよ、もちろん」
「なるほどね。そういうことなら、どっちでもないわ」
「どっちでもない?」とわたしはおうむ返しに言った。「だってスワロフスキは……」
「もちろんスワロフスキちゃんの味方ですよ、わたしは。だからこうしていっしょにお茶してるの」
「アンジェリカは?」
「アンジェリカがどうだと言うんです」
「どうって」とわたしはいささか狼狽えた。「その、もしアンジェリカがこの……この話を断ったら」
「アンジェリカがスワロフスキちゃんの不利益になるような答えを出すということ?」
「いえ、それは」
「ないとおもうわ、金輪際」
「そうです。しかし……」
「だからこれは、アンジェリカの問題なの。屋敷でもそんなことをお話ししたような気がするけれど。アンジェリカがどんな答えを出そうと、スワロフスキちゃんのしあわせが大前提なのであれば、心配することなんて何ひとつありません。それにシルヴィアとお茶が飲めて、ついでにあのコから大鎌を取り上げることができるのだとすれば、わたしにとっても具合がいいわ」
「アンジェリカは心配じゃないんですか」
「心配?」とコンキスタドーレス夫人は眉間にしわを寄せた。「いいえ。子供じゃないんですから。たのしみだわ、むしろ」
「たのしみ?」とわたしはまたおうむ返しに言った。「たのしみですって?」
「あたしがおもしろいとおもってるのはね」とここでシルヴィア女史が愉快そうに口をはさんだ。「あんたに言ってるんだよ、お兄さん。どのみちアンジェリカは年貢をおさめることになる、ってとこなんだ。ウチの嫁に来ようが、来なかろうがね。要は何をどう年貢としておさめるのか、それを見てやろうってことなのさ」

巣から転げ落ちた雛鳥のように、わたしはすっかりわからなくなってしまった。こちらの了見が狭すぎるのか、それとも向こうの度量が広すぎるのか、話の理を求めているだけなのに、どういうわけか途方に暮れる。割り切れないことこの上もない。わたしはじぶんがオブザーバーどころか単なる野次馬にすぎず、またそれ以上にはどうしたってなりようがないということをつくづく思い知らされた。

「ひょっとしてダシにされてるのは」わたしは再びくらくらと目眩をおぼえながら言った。「スワロフスキじゃなくてアンジェリカだったのか?」
「そうかもなァ」とスピーディ・ゴンザレスは安穏とした調子でうなずいた。「ダシの出ない女相手なら初めっからこんな話にゃなってないさ」

押しつぶされるような虚脱感に放心していると、往来からやわらかな風に乗って声がきこえてきた。そしてふと、わたしはブッチが庭にいないことに気がついた。それからまた、彼が今もってパンツ一丁のままであること、さらにその格好ではさすがにコンキスタドーレス夫人とシュガーヒル・ギャングの頭目という、恐るべきふたりの婦人の御前にまかり出てその肌をさらすことなど、当然できようはずもなかったことに思い至った。ブッチは賢いハンス号の影にかくれて、遠目からこちらの様子をうかがっていたのだ。

通行人にでも見咎められたのだろうとおもい、またひとつにはぐるぐると脳裏に渦巻く混乱をすこし脇に置きたかったこともあって、わたしは「ブッチ!」と声をかけながら往来に歩み寄った。身ぶりと手ぶりをおろおろと駆使して必死に弁解するブッチのそばでは、刃渡りのやたら長い大きな鎌を幟みたいに立てたひとりの女性が、呆れた表情でこちらに状況の説明を求めている。「ねえ、ちょっと」と彼女は言った。「なんか変質者みたいのがアイスノン抱いてるんだけど」

わたしはおもわずその名を呼ばずにはいられなかった。「アンジェリカ!」





<ピス田助手の手記 37: アンジェリカの来店>につづく!

2012年7月4日水曜日

ピス田助手の手記 35: @Sweet Stuff







シュガーヒルには苺坂という可愛らしい名前の急な坂がある。坂のとちゅうには水神を祀る苔むした社が古くからあって、ここに一匹の大きな蛙が住みついている。いつのころからか、この蛙に完熟したイチゴを食わせると恋が叶うという埒もない噂がひろまり、イチゴのパックを持ったうら若き少女が蛙を探してうろうろする姿をときどき見かけるようになったことから、苺坂の名がついた。蛙のことは近所の年寄り連中も知っているが、どういうわけか「あれは酒飲みだからイチゴなんか食わない」と言ってにべもない。彼らは苺坂と呼ばずに、千鳥坂と呼んでいる。蛙はあまり姿を見せないのか、坂にチョークで描いた蛙の絵の口のあたりに、イチゴがひと粒置いてあることもある。けなげなことだとおもう。

もちろん、Sweet Stuff とは何の関係もない。そういえば近くにそんな坂があったと思い出しただけだ。

スピーディ・ゴンザレスの運転による道中は、まったく大騒ぎだった。平気で信号を無視しようとするのにはとりわけ閉口させられた。「人も車もないんだからいいだろ、別に」とまるで気にしないものだから、いちいち悶着になって面倒なことこの上ない。前にも書いたように賢いハンス号は空気を読む自動車だから、どうも様子がおかしいと気づいた時点でそれとなく減速を試みてくれるのだが、どうしても急ブレーキが多くなってしまい、そのたびに車ごとつんのめるような格好になった。賢いハンス号でなかったら、今ごろサイレンを鳴らす白いバイクに首尾よくナンパされていたはずだ。

もっとも、上機嫌のブッチとみふゆは後部座席でキャッキャとおもしろがっていたから、わたしが神経質なだけかもしれない。でなければ彼らが無神経であるかのどちらかだ。

Sweet Stuff は先の苺坂からすこしばかり東へ行ったところの、川沿いにあった。背の高い緑に囲まれて、いつでもそよそよと木々がさざめく、のどかな環境だ。とてもギャングの本拠地とはおもえない。店自体は瀟洒な一軒家なのだが、垣根で仕切られた敷地には道に面してちょっとした庭があり、ここでお茶をたのしめるようにテーブルとそれに合わせて椅子がしつらえてある。

川に架かる橋の上からななめ前方に店をみとめたとき、まず視界に飛びこんできたのはこの庭で和やかに談笑するふたりの婦人の姿だった。ここにくるまで倫理なきスピーディ・ゴンザレスと間断なく丁々発止のやりとりをくり返していたわたしはすでにくらくらしていたが、「あ」とみふゆが声を上げるのを耳にしてさすがにパチリと目がさめた。おもわず目をこらしたのもムリはない。わたしにも見覚えがあるシルエットをそこに認めたからだ。気疲れのためにぐったりとした賢いハンス号がへたりこむようにして店の前に止まると、みふゆはまっさきに車から飛び降りた。「お母さま!

優雅にくつろぐふたりの婦人のうち、片方はまさしくコンキスタドーレス夫人だった。ハンス号からは見えなかったが、ふたりにはさまれてスワロフスキが幸せそうにケーキをほおばっている。もうひとりの婦人については最後に降りたスピーディ・ゴンザレスが後ろから耳打ちしてくれた。「あれが姐御だ。気の長いかただが、粗相はするなよ」

つまり、ある意味この物語全体の主賓とも言うべきスワロフスキに加えて、どういうわけかアンジェリカのご母堂、おまけにシュガーヒル・ギャングの頭目までが揃ってひとつのテーブルを囲んでいたというわけだ。成り行きから同乗してきたわたしたちだって相当に食い合わせのわるそうな面子だったはずだが、それすら霞む顔ぶれと言っていい。さすがにわたしも呆れ果てた。

「あら、みふゆ」とコンキスタドーレス夫人は微塵も驚きを見せずに言った。「連れてきてもらったの?」
「お姉さまを迎えにきたのです」とみふゆはうれしそうに言った。「スワロフスキ!」
「みふゆちゃんだ!」とスワロフスキがケーキの刺さったフォークを振り回して歓迎した。「みふゆちゃんもケーキ食べる?」
「まさかいらしてるなんて」とわたしはやや咎めるような口調で言った。「なぜここに?」
「ピス田さんが連れてきてくださったのね。ここでお会いできて何よりだわ」
「ご存知だったんですか、何もかも?」
「まさか。知りませんでしたよ。それこそ全然。ここに来るまでは、何もね」
「でももう、ご存知なんでしょう?」
「アンジェリカのこと?ええ、もちろん。シルヴィアに聞きました」
「だったらどうして……」
「どうして、とは?」
「おふたりは」とわたしは遠慮がちに尋ねた。「その、仇みたいなものじゃありませんか」
コンキスタドーレス夫人はそれを聞くとおかしそうに口元を押さえて答えた。「とんでもない!良き茶飲み友だちですよ、わたしたちは。昔からね」





<ピス田助手の手記 36: 傍観者たち>につづく!

2012年7月1日日曜日

ピス田助手の手記 34: 手品師の気まぐれと意外な成り行き







その意外な申し出に、わたしはいささか拍子抜けした。「行かないって?」
「行けばアンジェリカを困らせるからだろ」とスピーディ・ゴンザレスが代わりに口をはさんだ。「もともとオレらの利害はそれほどズレちゃいないんだ。オレとここで昔話に紫陽花でも咲かせるのがいちばんいいってことさ」
「行かなくていいの?」
「かまいません。ただ賢いハンス号が…」
「ハンス号?」
「ここから Sweet Stuff まではいささか距離がございます」
「あ、そうか」
「免許はお持ちでいらっしゃいますか」
「持ってない」とわたしは首をふった。「そうか。誰かに運転してもらわないといけないんだ。ブッチはどうかな。ブッチ?」

パンツ一丁の肉屋は相変わらず心ここにあらずといった様子で、ふわふわと視線を宙に泳がせていた。

「何だってあのおっさんはあんなに惚けてるんだ?」とスピーディ・ゴンザレスが訝しげに言った。
「あんたが卵を割ったからだよ!」
「卵?卵って何のことだ」
「アイスノンがさっき産んだじゃないか。まさかじぶんがボコボコに殴られた理由もわかってなかったって言うんじゃないだろうな」
「アイスノン……ああ、あの鶏か。そういやアレも久しぶりに見たな。卵を産んだって?いつ?」
「あんたがぶん殴られる直前だよ」
「ふーん。そりゃ気がつかなかったな。しかしだから何だって言うんだ?どのみち無精卵だろ」
「肉業界じゃちょっとした騒ぎになるくらい貴重な鶏なんだそうだ。もちろんその卵も」
「へえ!何だ、そうなのか。そうと知ってりゃ手放さなかったのにな。どれ」と言いながらスピーディ・ゴンザレスはおもむろに立ち上がり、ブッチのほうへ近づいていった。
「手放す?」とわたしもブッチに目をやりながら、誰にともなくつぶやいた。

わたしたちが仰天して目を瞠ったのはこのあとだ。スピーディ・ゴンザレスは2本のタバコを口にくわえたまま、うなだれるブッチの前にかがんだ。アイスノンは格別それを気にするでもなく、ブッチの胡座の中心にすっぽりおさまってとろとろと微睡んでいた。わたしの視界にあった風景と言ったらこれだけだ。アイスノンが背を撫でられていたような気もするが、よく見ていなかった。気がつくと、スピーディ・ゴンザレスの右手のひらにはあの淡い水色の卵がひとつ乗っていた。縛っていたはずのロープがぱらりとほどけたときと同じだった。それに気づいたブッチも埴輪みたいに目と口を丸くしながら、二の句の継げない様子が見て取れた。

「卵だ」とわたしはおもわず声を上げた。「何で?」
「何でってこともないだろ」とスピーディ・ゴンザレスは事も無げに言った。「鶏は卵を産むもんだ」
「まるで飼ったことがあるみたいに手慣れてるじゃないか」
「こんなキテレツな鶏、飼ってたまるか」
「それにしちゃ扱いが……」
「こいつはもともとオレが旅先で拾ってきた鶏なんだ。それをアンジェリカに譲ったんだよ」
わたしが無言でイゴールを見やると、イゴールも同じ戸惑いの表情で首をふった。知らなかったらしい。
「あれ?でもそれとこれとは」とわたしは言った。「別なんじゃないの」
「知るかよ。お前が聞いたから答えただけだ」
「何をしたんだ、いったい?」
「さっきも言ったろ」スピーディ・ゴンザレスは卵をブッチの手に乗せながら、飄々と言ってのけた。「これくらいなら何でもないんだ。ホラおっさん、しゃきっとしろよ、いい加減」
「うーむ」とわたしは呆れた。「だんだん憎めなくなってきた」
「憎まれる筋合いなんかないって言ってるだろ、初めっから」
「ブッチ、車は運転できる?」
「運転?」ブッチも頭の中にたちこめていた霧が徐々に晴れつつあるようだったが、それでもまだ事態についていけないらしくどこかボンヤリとしていた。「いや、わっしは……うむ……?」
「ブッチもダメか。やっぱりイゴールに運転してもらったほうがいいんじゃないかしら」
イゴールはすこし思案すると、思いもよらない相手に向けて口をひらいた。「ゴンザレス」
「何だ?」とシュガーヒルの用心棒は反射的に返事をしてから、ハッとしたように身構えた。「何だ?おい、冗談じゃないぞ。まさか……」
「たのむ」とイゴールは穏やかに懇願した。「お前しかいないんだ」
「オレを数に入れるなよ!」
「なるほど」わたしはイゴールの機転に感心した。「わたしとしては連れてってくれるなら誰だろうと文句はないよ。あんたも見物したいって言ってたじゃないか」
「それとこれとは話が別だ。いい度胸だな、おい」
「貸しをつくっておいて損はないはずだよ」
「貸しだと?誰にだ」
「ムール貝博士の助手たるこのわたしにさ!」
「ご免だね。博士とだったら直談判のほうが話が早い」
「たのむ」とイゴールはもう一度言った。それはじつに真摯で誠実な、紳士の態度だった。
「おい、本気なのか、ひょっとして?」
「本気だとも」
「こんなことに本気を使うなよ」
「たのむ」
「やれやれ、何の冗談だ」スピーディ・ゴンザレスは忌々しそうに舌打ちした。「オレにはお前の貸しのほうがよっぽど腹にひびくよ、次郎吉」
「恩に着る」
「それからついでにお前も」と言ってスピーディ・ゴンザレスはわたしを指さした。「ひとつ貸しだ。博士の武器庫がひとつ空っぽになっても取り繕える、うまい言い訳を考えとくんだな」
「ゴンザレス」
「次郎吉は黙ってろ」
「べらぼうだな」とわたしは笑った。「クコの実が何トン必要になるか想像もつかないよ」
「クコの実?」
「こっちの話さ」

そういうわけでまったく思いもかけなかったことに、賢いハンス号のドライバーはシュガーヒルの用心棒スピーディ・ゴンザレスに交代と相成った。おかしな取り合わせだとはわたしもおもうが、もとより混沌としたガンボ・スープみたいな話の流れだ。今さらあれこれ考えてみてもしかたがない。

イゴールはスピーディ・ゴンザレスの乗ってきたパワフルすぎるピープル(文字通り原動機付きの自転車)を使って屋敷に戻ることになった。また、いまいち判然としないひとつの奇跡によってふたたびこの世にまろび出た宝石のような卵は、アイスノンがくたびれたときのために積んであったクーラーボックスへと、今度こそしっかり納められた。正気を取り戻したブッチがそのクーラーボックスを愛おしげに抱えている。

空回りをつづけてきたわたしたちはいよいよ最後の空回りに向けて、賢いハンス号を走らせた。


タクシーを拾えば良かったのではないか?と気づいたのは、残念ながらもっとずっとあとになってからのことだ。そわそわした状況にあるとそれだけで視界がぎりぎりまでせばまってしまうという、これはじつによい例だとおもう。





<ピス田助手の手記 35: @Sweet Stuff>につづく!