2008年1月14日月曜日

それは色恋沙汰か?コーヒーか?


「好き」というきもちはしずくに似ていて、それがポツポツと溜まってまだ池くらいの大きさならいちいち愛でたりもできるけれど、すっかり満ち満ちて大海にまで広がってくると、愛でるどころか畏れに近いものさえ生まれて、ひどく語りづらくなってくるものです。有り体に言うと、好きにはちがいないんだけど、なんかもう、そういうもんでもないんだよな、ということですね。「好きですか」と聞かれて、「まあ、そりゃね」とつい返答に一拍置いてしまうのはつまり、ひとことでイエスと言えない諸々の複雑な要素を、気づけば多く含みすぎているのだ。(愛に)溺れるというのはだからじつに的を射た言い回しだとつくづくおもう。海に対して高を括ればいくら泳ぎがうまくたってあっさり溺れるのがあたりまえです。

ああ、脱線した。(案の定)

ゴメン色恋沙汰もいいんだけど、これコーヒーの話です。

すでに人生の半分をこえる年月の間、飽きもせず数日おきにせっせと生豆の自家焙煎をくりかえしてきた僕にとって、コーヒーというのはあまりにも身近すぎていまさらろくな感慨も抱けない古女房みたいなものであります。しかしキミ焙煎までせんでもええがなとおもうけど、いつの間にか何となくそういうことになっていたので、ウチではまあ、そういうものなのです。大豆用の煎り網でしゃかしゃか煎って、ふうふう冷まして、ゴリゴリ挽いて、500ccくらい入る大きなマグカップにぽとぽといれたら、がぶがぶのみます。ぞんざいな寵愛だ。

でもウチいちどに飲む量がちょっと多いから、200グラムとか買っても2、3日ですっからかんになってしまうのですよね。そんなしょっちゅう買いに行ってもいられないから自然とキロ単位で豆を買うことになるんだけど、キロ単位で豆を買ったら買ったで今度は鮮度をキープすることがむずかしくなってくるし、そんならじぶんで煎るよという、むしろ横着な性分から辿り着いた向き合いかたと言えましょう。多少は豆の良し悪しも区別がつきはするんだけど、ちぢこまった豆でもあんまり気にしないし、いいのが手に入ればワーイと素直によろこぶだけだったりして、このへんじつに大らかというか、いいかげんなものです。焙煎も15ふんくらいでさっさと済ませます。

コーヒー豆の半額セールのために学校を早退するような、いびつな少年の時分にいろいろためしてみたあげくの結論としては、「焙煎後の鮮度」さえキープできれば、だいたいどんな豆でもおいしくのめるのです。これは賭けてもいい!逆にいうと、これがキープできないのなら、どんなに高級で評判のよい豆でもぜんぜん無意味だ。真実はかわいた豆のなかにこそある。

だいたいお店で売ってる豆に「ピーベリー」とか「スプレモ」とか「No.1」とか書いてあっても、あれ味じゃなくて豆の形とかサイズのことですからね!そんなにちまちまカテゴライズして、食通の舌を何人分うならせるのか知らないけれど、コーヒーはコーヒーですよ。そうでしょう?

えーとだからなんだっけ。豆に下手なこだわりを持つくらいなら、古ぼけた安い豆でもじぶんで焙煎したほうがおいしく飲めたりするものです!という経験則にもとづいた曖昧な話。じゃなかったはずだけど、まあいいか。

あいかわらず適当だな。「好き」はどこいった?

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