2023年11月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その407

ディズニー食堂


ププッピドゥー・センターさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 最近いろんなものが欲しくなってしまって、どんどん買って物が増えてまた欲しくなって、きりがなくて困っています。物欲とはどのように付き合っていけばよいのでしょうか…?


物欲はホントに厄介ですよね。喉から手が出るほど欲しかったのに、いざ手に入れたら安心しきってそのまま放置したりして、だったら何故あんなに欲しがっていたのかと自分でも首を傾げながらまた別の何かをポチる始末です。物欲のあまりない人がめちゃめちゃ大人に見えて、ちょっとコンプレックスを抱いていたところあります。

しかしそんなこんなでそれなりに歳を重ね、以前に比べると物欲も落ち着いてきた僕も今では印象がだいぶ変わりました。物欲の低下は却ってマズいかもと考えているくらいです。

これは実際に多くの先輩方を観察して得た個人的な結論ですが、何が欲しい、何をやりたい、何を食べたいといったさまざまな欲求は、度を越さないかぎりすべて心身の健康に直結します。ぶっちゃけ食べ物に気を配るよりはるかに大きく寄与しているとおもうし、その確信は年々深まるばかりです。溌剌としている人は幾つになっても何らかの欲求を常にアイドリングさせています。この違いは本当に大きい。

若くありたいとかそういう話ではもちろんありません。そりゃそのほうがいいわいなとは思うけど、歳をとること自体に抵抗は全然ない。そうではなくて、あくまで現在に視座を置いて心身のハリを保つ紳士淑女でありたいと考えたときに、もろもろの欲求が大きな意味を持ってくるのです。どちらかといえば凛としていたいという感じですね。

こうした観点からすると、物欲もまた正義であり、百薬の長であり、風船にとっての空気です。適度であれば浮きもするし弾みもしますが、抜けると萎んであっという間にしわしわになります。大事にしなくてはいけません。

ただし、日々のストレスを物欲に置き換えたり、執着しすぎている場合には注意が必要です。これも風船の空気と同じで、ふくらみすぎると当然、破裂します。大事にするというのはつまり、萎んだり割れたりしないようにという意味です。

きりがなくて困るくらいであれば、それはむしろアドバンテージだと僕は思います。ぜひそのペースで無理なく最後まで駆け抜けてください。栄光のゴールまではまだ50年以上あるかもですが、いずれにしても先は長いです。


A. 物欲は百薬の長です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その408につづく!

2023年11月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その406


先日ふと気づいて戦慄したのだけれど、今を去ること4年前、2019年はこのブログを10回しか更新していません。10回というと、ひと月に一度もなかったことになります。

思い返してみればこの年はうちの人が店をオープンした年であり、またその当人が一時的とはいえ車椅子生活に突入したこともあってわりとしっちゃかめっちゃかではありました。しかしそれを差し引いても何かしらの表現活動をしている人の更新頻度ではない。いちばん驚いたのはよりによってツアーの開催が事後報告だったことです。そんなことある…?

それでなくとも活動体温の異常に低い僕にとって考えうるかぎり最大のニュースがこんな体たらくなので、質問箱に至ってはなんと1回しか更新されていない有様です。前年末には例のキャンペーンできっちり質問を徴収していたので、つまりこの年にあった質問はほとんど手付かずである、ということになります。

とうに愛想を尽かしてすでにここには来られないみなさまも多くおられるとおもいますが、せっかくなので在りし日を偲ぶようにしんみりと、あのころいただいた質問にもお答えしていきたいとおもいます。ほんとすみません。


おしゃれドロンボーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ダイゴさんは、幼い頃の不思議な記憶はございませんか?自分は自我が芽生えた瞬間?を覚えています。PCのブルースクリーンの様な背景に親兄弟含むいろんな人の静止画がブラクラの様に流れ、一瞬のブラックアウトのあと、自宅に飾っていたクリスマスツリーを目にしたのを覚えています。その瞬間に自分が自分であると認識しました。同じ様な経験の人がいないか友人に聞いてみましたがゼロでした。


そういえば以前にも前世と思しき記憶のある方から質問をいただいたことがありましたけれども、そんなのも含めた「不思議な記憶」シリーズはいいですね。説明できない不可解な記憶を持っている人、じつは意外といるんじゃないだろうか。機会があれば人に尋ねてみたいことのリストにこれも加えておきましょう。

おしゃれドロンボーさんの「自我が芽生えた記憶」も相当ユニークというか、どちらかというとシェアしづらいイメージでありながら妙にリアルな質感があって、確かにこれは自我の芽生えとしか言いようがなさそうです。タグを閉じ忘れてそのまま表示されてしまったHTMLみたいなエラー感あります。こういう記憶は僕もないです。

不思議な記憶はあります。いちばん古いのは、以前にも書いたような気がしますが虹の上を滑り落ちる魔女を見た記憶です。6歳とか7歳くらいのことだったと思う。夢でのイメージが強烈に残っていたとかそういうかんじではなく、雨上がりの夕暮れに自宅の玄関を出たら大きな虹がかかっていて、その上をスイーッと魔女が滑り落ちていくのをはっきりと見た、そういう記憶です。びっくりしすぎて腰が抜けたのを今でもよく覚えています。

いくらなんでもファンシーすぎるから魔女なんかではもちろんなかったろうし、何か黒っぽいもの、たとえばカラスがちょうど虹の弧に沿って移動した可能性なんかの方がよっぽど高い。ただ当時の僕はそれを完全に魔女と認識してしまったので、どうあれ今も記憶は鮮やかに魔女のままです。そして実際のところ、魔女ではないにしろ虹を滑り落ちたやつがいた可能性を今も捨てていません。なんとなればたとえ錯覚であってもそれを証明することは誰にもできないからです。不思議、と言える所以ですね。

同じように、すごく大きな宇宙船のような楕円形の光を見た記憶もあります。これも雲と光の按配で一蹴できそうな話ですが、僕の記憶ではそうなっていません。一面に薄く敷き詰められていた雲の裏で巨大な光が鯨のようにゆっくりと移動していました。知識もへったくれもないころなので、待てよ、あれまじでなんだったんだ、と首を傾げたのはもうすこし後、物心がついてからになります。

あとこれは一人暮らしを始めたあとなのでかなり大人になってからですが、それゆえに却って上記の二つよりもはるかに不可解だと今でも考えているのは、その時間その場にいるはずのない妹の姿を見かけて追いかけた記憶です。いわゆるドッペルゲンガーですね。説明すればするほど見間違いであっさり片付けられるので詳細は省きますが、正直あれほど鮮明に、ないはずのものを見た記憶は人生でほかにありません。とにかく今に至るまでありとあらゆる確信に満ちて揺るがないので、気味が悪いとしか言いようがない。妹の身に何か起きるのではないかと長いこと心配していましたが、今では立派な3児の母です。何事もないにも程がある。本人には今も話していません。

とはいえいずれにしても心的な体験という感じではないから、厳密には記憶のレイヤーがちょっと違うかもしれません。不思議にもいろいろあるものだ。

そういえばうちの父は子どものころ、病気で死にかけたときに奇妙な川(流れているのは銀色の何かで水ではなかったらしい)を渡りかけて引き返したことがあるそうですが、そもそもオカルト的なものを1ミリも相手にしない人なので、これなんかは同じレイヤーに属する記憶と言えそうですよね。ちょっとうらやましい。


A. あるっちゃあるけど厳密にはなさそうです。




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その407につづく!

 

2023年11月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その405

張り合う2枚

メトロノーム注意報さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 幼少期や若い頃の苦い経験や後悔を思い出す度に、反射的にこれを振り切るべく「ハッ!」と小さく声が出てしまいます。ザゼンボーイズの向井秀徳の演奏前の掛け声が最も近しいです。いつかは治るだろうと放置していましたが、歳を重ねた40歳でもなかなか治る気配がありません。人生の先輩であるムール貝博士も、この様な現象はありますでしょうか。また、この発作的な反射行動を治すにはどうしたら良いでしょうか。


ムール貝博士の、と銘打っておいてなんですが、博士は他人に対して微塵も興味がなく、また彼の辞書には苦い経験も後悔も一切存在しないので、助手である僕が代わりにお答えしましょう。

思い出したくないこと、僕も山ほどあります。いずれ減るものだとばかり思っていたのに、今では量産体制がすっかり整っていて、ベルトコンベアで等間隔にせっせと運ばれてくるイメージです。

それでいて未だに僕はこいつの対処法を知りません。人生の折り返し地点も過ぎたんだし、いいかげんどうにかできたらいいのに、全然できません。今日も先週と同じように、1年前と同じように、5年前と同じように、10年前と同じように、わああと塞ぎこむだけです。われながらかわいそうなことだとおもう。

なので反射的とはいえ、この手の心理的トラブルに対処すべく自然と身についたある種のルーティンは、むしろ効果的で何なら推奨されてもよいのではという印象があります。少なくとも僕は治す必要性をまったく感じません。それは自らの経験が培った立派な盾であり甲冑であり、財産のひとつであると言うべきでしょう。

向井秀徳の掛け声にしても、バド・パウエルの悪評高い唸り声にしても、それらはたぶん跳躍する前の助走みたいなものであって、比類ないパフォーマンスもそこから引き出されているのかもしれません。同じようにハッ!と小さく声を出すことで苦い記憶をどうにかこうにか飛び越えられているのだとしたら、それもやっぱり助走だし、明らかに有用な反応である、と後方で飛び越えられずに転倒して砂まみれの僕は考えます。

もちろん、不意に反応が出てしまって忸怩するきもちはよくわかります。でもそれはしゃっくりやくしゃみも同じです。すっかり忘れていた用事を思い出して思わず声が出ることもあります。大事なのはあくまで目の前に横たわる苦い記憶を飛び越えることであって、それに伴う望まぬ反応をなくすことではないはずです。それよりもサッと飛び越えて、またもや後方で砂まみれの僕に手を貸してください。


A. それはむしろ立派な防具です。




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その406につづく!

2023年10月27日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その404


スタンドバインミーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 遠距離恋愛をしていますが毎回自分が行ってる事に疲れてしまいました。私が実家暮らしなので泊まれないのがこうなった原因ではありますがどうしたら良いのでしょうか。


単純に考えれば家を出るなり結婚するなりしたらいいじゃないかで扉をピシャリと閉めても良さそうな話ですが、ここはひとつそうもいかない何らかの事情があるという前提で考えてみましょう。

疲れてしまった、と言えるのはパートナーの存在が日常かつ当たり前になっているからです。週一にしろ月一にしろ、そんなにしょっちゅう会わなくても絆は失われないという無意識かつ一方的な信頼がここにはあります。少なくとも良い関係を築いているからこその正直で率直な印象ではあるでしょう。

疲れてしまうのはすごくよくわかるし、そりゃそうだよなと僕もおもうんだけど、とはいえここはどうしても、パートナーさんの側に立って考えてしまいます。なんとなればこの状況では、たとえこの先いっしょに暮らすことになったとしても、やっぱり同じ理由で一方的な信頼を持ち出されかねないからです。こうなると逆にパートナーさんにとっても見つめ直すいい機会かもしれません。どうしていきたいのか早急に二人で向き合うべき話であって、こんなところに相談している場合ではない。

一方でこれがもし週末だけ通う別荘の話だったらこんなこと考えないだろうな、とも思います。そして実際のところ機能的にはほぼ別荘と同じです。何なら通うのに疲れることさえリッチマンの特権という気がしてきます。おまけに愛する人がそこで待っているとなったら幸福以外の何物でもありません。だとすれば疲れようと疲れまいと定期的に通うことになっているラグジュアリーな別荘として向き合うのが最適解ということになりましょう。

生まれも育ちも大いに異なる赤の他人と同じ道を歩き続けるというのは、どうあれ生半可なことではありません。僕はうちの人と20年以上連れ添った今でもそれを肝に銘じています。最後まで常にアップデートし続けていく必要があるのです。まだいっしょになってもいないのだから長い目で見たら片腹痛いにもほどがある、と言うほかありません。

この先の道をいっしょに歩いていきたいと思える人がいることと、それがいかに幸運で当たり前では全然ないことか、もう一度よく考えてみてください。いっしょにいたいけど疲れるのもなあ、と考える先に待つ未来など自明すぎます。今ならまだ間に合うはずです。たぶん。


A. ラグジュアリーな別荘に通っていることにしましょう。




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その445につづく!

2023年10月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その403


エルム街のアコムさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私にとって「詩を書く」という行為は、自分の核を表現することです。それゆえ、自分が消費されてしまうかもしれないのが怖く、書いた詩を人に見せることにまだかなり抵抗があります。でもこのまま自分のなかだけで抱え込んで死んでいくのも、なんだかなあという感じです。やはり作品を世に送り出すのは、消費される覚悟ができてからのほうがよいのでしょうか?


ふむふむ。これはいつの時代にもあって尽きない悩みのひとつかもしれないですね。詩にかぎらず絵を描いたり歌ったりコスプレをしたりといった多くの表現でも当てはまるんじゃないだろうか?

ただ昔からあれこれ発信しているわりにこれといって甲斐がない点では人後に落ちない僕からすると、消費されることを発信前に考えるのはやや勇み足、という印象です。なんとなれば消費されるためにはまず①人に届く必要があります。そしてよほどの天才でないかぎり、②そう簡単には人に届きません。さらに届いたとしても、③是非なく素通りされることのほうが圧倒的に多い。仮に何かしらの結果を得ようとするならその行程はヒッチハイクそのものです。運よく乗せてもらってもわりとすぐ降ろされてしまうこともあるだろうし、なんなら思いもよらない目に遭う可能性だってあります。そう考えるとハードルは高い…というか、絶対に目的地に辿り着くという強い意志がないかぎりむりだし、及び腰になるのは当然です。

しかし一方で、段ボールの切れ端に詩を書いて路傍で掲げ、千差万別なドライバーたちの気を引くことだけが作品を世に送り出す唯一の方法なわけでもありません。道端に花を植えたり種を蒔いたりするようなやり方もあります。

かくいう僕もnoteに物語をインスタに詩を載せているけれども、これはまさしく花を植えるような感覚です。何とも思わない人もいれば、気づかずに踏んづけていく人もいるし、目に留めて愛でてくれる人もいるでしょう。それが花というものだし、一輪の花に過剰な期待をすることもありません。元気に咲いて、誰かの目を楽しませておくれと願うばかりです。ですよね?

結局のところ消費される不安というのは、見返り(たとえば共感です)を求めることの裏返しでもあります。それ自体はぜんぜん悪いことではないし、なんなら多くの場合がそうかもしれないけれども、望んだだけの見返りが得られることなどまずないので、それが心をすり減らす原因のひとつになり得ることは確かです。

なので僕としてはここで改めてなぜ作品を公開するのか、その理由を見つめ直してもよいとおもいます。もちろん自分のためでもあるし、見知らぬ誰かのためでもあってほしいけど、そのどこに重きを置くのか、ということですね。たとえば100人中1人が好意を持って受け入れてくれたとき、99人に否定されたと感じるだろうか、それとも1人に届いたと感じるだろうか?

少なくとも僕は、まだ踏み出していない今この時点なら、考え方というか視点をそのまま反転させてもいいのではないかな、と考えます。つまり消費されてしまうかもしれないではなく誰かの糧になるかもしれないというふうに。


A. 花を植えることから始めましょう。




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その444につづく!

2023年10月13日金曜日

アグローと夜(Agloe and Night) 2023のお知らせ、再び

そんなこんなで何やかんやあってどうにかこうにかツアーを終えてすっかりほとぼりも冷めた今もまだ屍のまま新たにお知らせするのはいささか憚られるものがありますけれども、「アグローと夜(Agloe and Night) 2023」最後にもう一度だけ開催いたします。場所は東京、代官山です。


タケウチカズタケ小林大吾
「アグローと夜(Agloe and Night) 2023」

12/7(木) 代官山 晴れたら空に豆まいて
OPEN 17:30 START 18:30
前売3,000 / 当日3,500(別途ドリンク)

お問合せとご予約:晴れたら空に豆まいて http://haremame.com/howto/


元から予定していたわけではありません。決めたのはツアーを終えたその帰路です。圧倒的多数の需要があったわけでもありません。ありませんが、やるとなったらやるのです。正直、数ヶ月とか数年のブランクがあるのに比べて3日連続でライブを終えた直後では僕としても決意のハードルが著しく下がっていたという身もふたもない理由もないではないですが、やろうという話になるうちが華です。平日ど真ん中の木曜、しかも18:30スタートの時点で相当な高さのハードルであることは本当に重々承知しております。心から笑顔になってもらえるように精一杯がんばるのでどうかどうか、万象お繰り合わせの上、御御足をお運びくださいませ……!

ツアー限定アイテムも増産されるらしい

2023年10月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その402


カントリー道路さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. タコさんウィンナーに敬称をつけるならタコさんウィンナーさんでしょうか?それともすでにタコさんが付いているので不要でしょうか?または、タコさんは間違いでタコウィンナーさんが正解なのでしょうか?


これは考え出すとなかなか奥の深い問題です。

そもそもがウィンナーであってタコではないことを考えると、主体となるのはウィンナーです。敬意を払われるべきはウィンナーなのだから、本来はタコウィンナーさんが正しいように思われます。

一方で弁当にこれが入っているとき、わたしたちは「ウィンナーさんだ!」とは言いません。おそらくそれを見た全員が「タコさんだ!」と言うはずです。そうなるとウィンナーが主体であるという大前提からして疑わしくなってきます。仮にタコのほうが主体なのだとすれば、こちらに敬称がつくのは当然のことです。おかしいのは敬称の位置ではなく対象の語順であって、この場合の正しい呼び方はウィンナータコさんになる、と僕は考えます。

これはタコさんウィンナーの「さん」が敬称だった場合の話ですが、そうではなく、これが固有名詞の一部だとした場合、話はまた変わってきます。さかなクンサンプラザ中野くんでもお馴染みの問題であり、ご両人とも敬称が追加されることを望んではいないようですが、とはいえこれは明らかに僕らの名前と同じ固有名です。本人の意志がどうあれ、客観的に考えれば敬称をつけなくていいことにはなりません。この視点に立つとタコさんウィンナーもまた固有名であって、呼び方はタコさんウィンナーさんということになります。

ところがこれで終わりではありません。固有名であればその終わりに敬称をつける、それはそのとおりですが、敬称としての「さん」がつくのは原則として固有名をもつ生き物として認識されている場合だけです(フィクションを含む)。親しみをこめてブタさん、ペンギンさんといった一般名詞につくケースはむしろ例外と言っていいでしょう。

タコさんウィンナーはタコですらありません。生前はブタさんであったと強弁することもできますが、ウィンナーが転がっていたら誰だってこれをウィンナーと言うはずだし元ブタさんとは認識しないはずなので、ウィンナーと呼ぶならその時点でそれは食品です。

食品にかぎらず生き物として認識されていないものに対して敬意を払う場合に相応しいのは、むしろ接頭語の「御」です。ごはんとかお風呂とか、少なくとも接尾語の「さん」ではない。ですよね?

したがって、タコさんウィンナーが固有名であり、かつ加工食品であることを踏まえて敬意を払うとするならば、最も理にかなっているのはおタコさんウィンナーである、ということになります。


A. おタコさんウィンナーです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

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その403につづく!