2015年7月5日日曜日

耳たぶはいかにして指先の信頼を勝ち得たか

ミス・スパンコールから鉛筆削りをもらいました


台所で何か熱いものにふれて指先がアチッとなったとき、人類史上初めて耳たぶをつまんだ人物のことを考えているのです。

台所で、というのは指を火傷するような状況が他に思い当たらないからですが、これはおそらく今よりもはるかに火を扱う機会の多かった昔でも頻度で言ったら同じことでしょう。竃や囲炉裏、システムキッチンなんかのちがいはあっても、指先がアチッとなるのは大抵調理場です。

ウチには使い込まれた古い文化鍋があって、米は昔からずっとこれで炊いています。昔というのはそれこそ小さいころからで、一人暮らしを始めるときにも実家からアパートに持ち込んで毎日せっせと使っていたから、ざっと数えても40年ちかく経っている計算です。(前もここで書いたような話なのでこのあと10行くらいカット)

何しろ40年経っているものだから、把っ手とかフタのつまみを保護していたプラスチック部品が跡形もありません。残っているのは金属だけなので、熱の回った鍋を火から下ろすときやフタを開けるときが難儀です。いちいち鍋掴みを引っぱり出すのもめんどくさいし、熱いとわかりつつも毎回素手ですばやく持ち上げることになります。

指先がアチッとなるのはこのときです。おもえばほぼ1年365日、こりずにこのアチッを繰り返しています。そしてそのたびに、ふたつの耳たぶをつまんでいるのです。

しかし考えてみれば耳たぶだってべつにキンキンに冷えているわけではありません。他の部位とくらべて若干温度が低いというだけです。すぐそばに流しがあるんだから水で冷やしたらいいのに、なぜそうしないのか我ながらちっともわからない。だいたい耳たぶには指先を癒すに足るだけの効果なんかありゃしないんじゃないのか?つまんだからどうだっていうんだ?たいした効き目があるわけでもないのになぜだかある種の文化として定着している奇妙な現実もさることながら、指先を冷やすために耳たぶをつまもうとした最初の理由、それがまず解せません。耳たぶをつまめと言い出したのはいったいどこのどいつなんだ?

気を紛らすために身体のあちこちをさわったのだとしたら、それはまあわかります。しかしそれにしたって顔や頭に指を持ってくるのは妙です。そんな熱々の指を持ってこられたって顔のほうも困ります。それなら手をぶんぶん振るほうがよっぽど早く冷えそうです。それともそのイヤなかんじを無理に押していちいち試していったんだろうか?「鼻は……つまみやすいけどダメだな、まぶたは……まあまあか」とかそういうふうに?

あるいは100歩ゆずって仮に「あっ耳たぶ!耳たぶいける!つまみやすいし、ひんやりしてる!ユリイカ!とアルキメデスばりに風呂場から素っ裸で飛び出したとして、周りがそれを白い目で見ずに受け入れてくれるものだろうか?

もちろん、受け入れたんだろうとおもう。いえ、もちろん往来における素っ裸ではなく、発見のほうですけども、でなければこれほどまでに広まるわけはありません。しかしどうもこう、腑に落ちない。じぶんでも毎日のように耳たぶをつまんでおきながら他人事のように異を唱えることのほうがよほど腑に落ちない気もするけれど、落ちないものは落ちないんだからしかたがありません。じぶんがこの動作をいつから日常的に取り入れるようになったのかをまったく思い出せないのも据わりが悪いし、これがたとえば生物としてごくごく自然な動作であることを科学的に証明してもらえたりすると明日からゆっくり眠れてすごく助かるんだけど、そんな話も聞きません。証明できずとも研究だけでイグノーベル賞クラスの栄誉はまちがいないのに、まったく惜しい。


とまあそんなわけで週明け月曜はオントローロ 01 の受付開始日です。お昼ごろに更新する予定ですので、どうぞお忘れなく!


ちなみにウチにはもうひとつ、未使用の文化鍋があります。祖母が亡くなったときに遺品を整理していたら真新しいのが出てきたのです。親戚のうちで今もこんな鍋を使っているのは僕だけだし、自動的にもらい受けることになったんだけど、そもそも壊れるようなものでは全然ないから交換する機会もありません。けっきょくこれも未使用のまま、僕の遺品になりそうな気がする今日このごろです。

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