ライ麦畑でくだまいてさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士が適当につけています)
Q: 戦争を始めるのは誰ですか?
タイムリーすぎて冷や汗が背中を流れるようです。とはいえうっちゃるわけにもいかない話だとおもうのですこし考えてみましょう。
ひょっとしたら意識されていないかもしれませんが、この質問からはできればそうあってほしいというひとつの希望がにじみ出ています。なんとなればここには、「じぶんではなく『彼ら』である」というニュアンスが含まれているからです。
もちろん僕らには戦争を起こす気なんてさらさらありません。ですよね?みんな戦争なんかしたくないし、手を貸すのだってイヤだとおもっている。にもかかわらずひょっとしたら僕らもその日を迎えるかもしれないという不安が現実にあるとしたら、そこには僕らではない誰かの意志が働いているはずだ、と考えるのもムリはありません。そいつはいったい誰なんだ、という話ですね。
単純に考えればこれは国の指導者です。彼を支える政治家たちをそこに加えてもいいでしょう。
しかし忘れてはいけない点がひとつあります。すくなくとも民主主義国家においては、彼らが「僕ら」に選ばれてそこにいる、ということです。彼らが戦争を是とする判断を下すなら、その判断を下せる状況を整えたのは他ならぬ僕らであるとやはり言わねばなりません。
念のため言い添えておきますけれども、彼らに責任がないという意味ではまったくありません。国民を代表してそこにいる以上、彼らにはもちろんメガトン級の責任が伴います。
しかし僕がここで考えたいのは、戦争があくまで「僕ら」の問題である、という点です。それは「彼ら」の問題ではありません。
戦争が起きたとき、矢面に立つのは誰だろう?矢面に立つ人が決して自ら望んでいるわけではない行動に参加するのはなぜだろう?みんながみんな、拒否したらいいじゃないか?なぜ拒否できないんだろう?そして拒否するとしたら、今度はその結果どうなるんだろう?もう一度言いますが、これらはすべて、「僕ら」が直面する問題です。
愚かなのは愚かな判断を下す彼らであって僕らではない、とおもいたいきもちはすごくよくわかります。ではなぜ彼らはそれができる立場にいるのか?意図していたかどうかにかかわらず、結果として「僕ら」の選択がそのベクトルを決定している、というガッカリ極まりない事実をまず直視することから始めなくてはなりません。誰かを槍玉に挙げるより先に、まずじぶんたちの問題として向き合うこと。話はそれからです。
NOと書かれたトイレットペーパーは、彼らの尻ではなく、僕らが僕らの尻を拭くためにあります。投げつけるなら、そのあとです。
A: 「僕ら」をふくむ、全員です。
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質問はいまも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その222につづく!
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