2012年6月22日金曜日

ピス田助手の手記 31: アンジェリカの結婚







これまでさんざん驚かされつづけてきたわたしにとって、それはちっとも驚くに値しない話だった。むしろようやくまともな話がでてきた、と肩の荷が下りたようなきもちになったくらいだ。アンジェリカが結婚だって?結構なことじゃないか!こんがらがった話の帰結がこんなにシンプルなことなら、スピーディ・ゴンザレスの言うとおり屋敷でハムをつまみながらアンジェリカの帰りを待っていたって全然問題なかったとさえおもえてくる。どうやらわたしたちは向き合うべき事実の大きさとくらべて、すこしばかり大立ち回りを演じすぎたらしい。話の流れからいつの間にか何となくアンジェリカを救い出すような使命感に火がつき始めていたが、その火も慌ててパタパタと消さざるを得なくなった。手に汗にぎるあの決死のカーチェイスはいったい何だったのか?それから半ばプロファイリングを気取ったわたしの必死な推理は?

だがもちろんよくよく考えればスワロフスキの身柄がシュガーヒル・ギャングの手にある以上、話はそう単純ではなかった。イゴールは表情を変えずに黙って話をきいていた。

「じつを言うとこれまでもこんなやりとりは何度かあった」とスピーディ・ゴンザレスは2本のタバコをくわえた口の右と左からプーと煙を吐いた。「だがまァ、それじゃあんまり捗がいかないってんで勝負に出たんだろうな、今回は」
「それで誘拐?」とわたしは言った。「人質の解放と引き換えとはまた、ユニークな求婚だな」
「なんだってそういちいち意地がわるいんだ?オレにはむしろ、話のついた暁にあのチビが親しみをこめてお辞儀をする絵が目に浮かぶね。こっちとしても『どういたしまして』で万事まるくおさまって、めでたしめでたしだ。だろ?」
「甘鯛のポワレ教授が素直にそう受け取ればね」
「教授だってチビの笑顔をみれば矛を収めるさ」
「要はシュガーヒル・ギャングのぼんぼんがアンジェリカに一方的に懸想してるってことか」
「そういうこと。オレとしちゃべつにバカ息子に義理はないが、あれでもいちおう次代のボスだからな。シルヴィアの姐御によろしくと言われりゃ無碍にもできない」

事情はすっかりわかった。わかってしまえば、どうということもない。スワロフスキのことは心配だが、その安否がアンジェリカの肩にかかっているのだとすれば、すでに解決は保証されているようなものだ。まずまちがいなく安全に帰されるだろう。何より愛すべきスワロフスキにとってわずかでも不利益になるような選択を、アンジェリカは絶対にしない。

ただ、だからといってアンジェリカが取引に応じるかというと、それもまったく想像できない。二兎を追って二兎を得る、三兎を追うなら三兎を得るが信条と言っても良い彼女をおもえば、相手の要求(求婚)をのまずに、かつスワロフスキを奪還するという結論がいちばんしっくりくるようにおもえる。彼女にとって選択とは「取捨」ではなくつねに「取取」であり、理想とは現実の同義語でしかないのだ。

そしてもちろん、これは成功するだろう。それくらいのことはアンジェリカにとって何でもない。彼女はいつだって勝者の側に立つことを運命づけられているような人物だ。場合によってはシュガーヒル・ギャングの連中が全面的に調伏されて幕を閉じる可能性すらある。問題はどこにも見当たらない。わたしたちにできることといったらもはや、すべてが終わった後にせいぜいおつかれさまと労ってやるくらいしかなさそうにおもえた。

しかし…だからこそわたしはどこか棘のようなちいさな引っかかりをおぼえた。どうも釈然としない。いくら何でもそれでは話があまりに簡単すぎる。シンプルというよりはイージーだし、問題がないというよりはむしろなさすぎるのだ。部外者たるわたしでさえ容易に結末の想像がつくような筋書きなのに、よりにもよってアンジェリカ相手に求愛を試みるような輩がそのあたりのことを何も考えていないなんてことがあり得るんだろうか?

勝負に出たんだろう、とスピーディ・ゴンザレスは言った。しかし初めから挑んだ相手の完全勝利しか用意されていないような負け戦の、いったいどこが勝負だと言うのか?

「よくわからないな」とわたしは真意を尋ねた。「本当の目的は何なんだ?」
「本当の目的?」スピーディ・ゴンザレスは眉間にしわを寄せた。「何のことだ?」
「そんな場当たり的な計画がうまくいくわけないってことだよ」
「そうかね?」
「相手はアンジェリカなんだぞ」
「知ってるよ。そう言ったのはオレだ」
「スワロフスキの解放と引き換えにアンジェリカがプロポーズを受けるだなんて、まさか本気で思ってるわけじゃないだろう?」
「ん?……ああ、引き換えって、そうか。交換条件だと思ってるんだな」
「別の目的があるんじゃないのか?」
「いやいや、目的は同じだよ。しかしまァ、おめでたいやつだ」
「何だって?」
「目的は最初に言ったとおり、アンジェリカにイエスと頷かせることだ。シンプルだって言ったろ?そこに嘘はない。ただあのチビの持っている意味が、ちょっとばかり違うのさ」





<ピス田助手の手記 32: 正しい人質の使いかた>につづく!

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