2011年10月26日水曜日
何だかねばねばしたそのハンモックの上で(後編)
「そもそもこのビーフステーキということば自体が曲者なのだ」とランヴァイルプルグウィンギルゴゲリフウィルンドロブルランティシリオゴゴゴホ夫人は言うのです。
「ステーキと言ったらふつうはビーフです。ちがいますか?英語版のウィキペディアにも "usually beef" とハッキリ書いてあるじゃありませんか。ハンバーグにビーフやポークといった枕詞が付きますか?つきませんよ!ふつうはね。おわかりでしょう?ステーキの一言で済むことを考えたら、その重複表現は不自然と言うべきです!」
「それに、略語が略語として定着するには、それが広く一般的であるか、でなければ少なくともひとつのコミュニティにおける認知度が高くなくてはいけません。何しろ通じなければその時点で伝播が途切れてしまうんですから。小田急相模原というローカルな駅名がそのエリアに属する人々によって「オダサガ」と略されているのは良い例です。よく考えてみましょう。ビーフステーキという7文字の名称は一般的ですか?その名が略されるほどに?と踏み込まれたらどうです?立ち止まって考える気になりませんか?第一、なぜステーキの4文字ではいけなかったのでしょう?ビフテキと同じ4文字であるばかりか、発音もはるかに容易だというのに!」
ある種のコミュニティから一般に伝わって広く定着する例もありますね、と僕は答えるともなく返してみます。今じゃ人によっては恋人を「相方」と呼んで、そこにふくまれる特定の感情をうやむやにする始末です。
「そのとおり。わたしもビフテキに関してはそう考えています。それはある種のコミュニティから一般に伝わって広く定着したのです。ビーフステーキという言葉のほうではありませんよ!この奇妙な重複表現が定着する特定のコミュニティなんて、想像しづらくてしかたありません。そこから一般に広まるとなると、さらにむずかしい。わたしが言うのは同じステーキ(あるいはそのための肉)を意味するフランス語の "bifteck" のほうです」
フランスの言葉が日常的に使われるようなコミュニティを想像するほうがむずかしそうにおもえたのでそう反駁すると、夫人はこともなげにこう言うのです。
「料理人ですよ!それも古い、洋食のね」
そう言われるとたしかに、かつての料理人が洋食を学ぶとすればまずヨーロッパです。ひいてはフランスと言っても良さそうだし、少なくともアメリカでは絶対ない。でも、だからといって料理人がフランス語を日常に取り入れていることがすなわちビフテキ = "bifteck" を意味することにはやっぱりなりません。それが有力と映るのは、あくまでランヴァイルプルグウィンギルゴゲリフウィルンドロブルランティシリオゴゴゴホ夫人の視点から語るときだけです。となるとそれは結局のところ、ビーフステーキよりは説得力があるように見える、ということでしかありますまい。
「そうね。だからわたしの話は事実に近づけるための補強でしかない、というべきかもしれません。でもねえ、10の補強がひとつの根拠に勝らないと、いったい誰に言えましょう?お望みなら補強ついでに、フランス語で発音を聴いてみることもできますよ。ババール!ババール!ちょっとこっちに来てこの単語を音読してちょうだい。これってどう読むんだったかしら?」
※forvoで発音を聞いてみよう!→ビフテキ
うわァ!「ビフテキ」ってハッキリ言ってる!
「根拠なんてこの際どうでもいいんです。わたしはね、どちらが正しいかということよりも、どちらにムリがあるかということをハッキリさせたいだけなんですよ!」
そうランヴァイルプルグウィンギルゴゲリフウィルンドロブルランティシリオゴゴゴホ夫人は絶叫してぐうぐう眠ってしまったのだけれど、一方で僕は "beef steak" が "bifteck" の元になっている可能性についてぼんやりと思いを巡らせていたのです。ヨーロッパにおける "beef steak" という言葉のありようは日本におけるカタカナのそれよりも、何となく自然におもえるのは気のせいだろうか?
……
沈むようにして、夜はふけていきます。夫人には言い出すタイミングを逸してしまったけれど、日本を代表する堅物の権化として絶大な権威と影響力を誇る天下の広辞苑に「ビフテキ」の項目が存在すること、あまつさえそこには「ビーフ・ステーキの訛」と記されていることをいったいどう判断したものか、僕は今も考えあぐねているのです。その説明はいかなる根拠に由るものなのか?
広辞苑と言えども疑義をさしこむ余地がまったくないわけではない、ということを示すひとつの例にはなりましょう。しかしそれにしても…
「ビフテキ」を辞書に追加するや否やが編纂者の間で多少なりとも議論されたものだとしたら、またひょっとすると編纂者の思い込みがそのまま事実として認定されているかもしれないことを考えるなら、それは僕らが想像する以上になかなか楽しい仕事であるらしい、とやはり言わねばならんでしょうな!
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5 件のコメント:
フランス語にそんな言葉があるとは、しかし、まず、なにより
ビフテキよりも、夫人の名前のほうが曲者だと思います。
ステーキの意から調べてみました!
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ステーキ
> kksさん
うーん、言われてみればたしかにこれ以上曲者な名前もないですね。あんまり考えてなかったです。
> 匿名さん
ふむふむ。なるほど…ステーキひとつでもいろいろな背景と物語があるものですねえ。
はじめまして。楽しく読ませていただいてます。
本来の論点ではないけれど・・・
想像以上に"bifteck"が"ビフテキ"でびっくりしました。
なんか食べ物の名前には"諸説あり"が多い気がします。ハヤシライスとか・・・
ただ、そういうのを特定しようとする大きなムーブメントがないのは何より「美味しきゃいいじゃん」という考え方が大きいような気がします…!
> 柴田"Big-Dream"大夢 さん
こんにちは。じっさい特定したところでステーキがおいしくなるわけじゃないし、僕もそのへんはどっちだっていいのです。だいじなのはたとえば、「想像以上に "bifteck" が "ビフテキ" だった」とか、まさにそういう部分なんじゃないかとおもいます。たぶん。
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