2015年6月11日木曜日

朝食のヨーグルトから豊かさについて考える


ここ数年、朝食にヨーグルトをガラスの小皿にちょこっと盛って出しているのです。取り立てて好物というわけでもないんだけれど、いつからか気がついたらそれが当たり前になっていて、今ではうっかり出し忘れると何かだいじなものが欠けているような気になります。まあ、習慣というやつですね。

選択肢はいくつかあって、基本は「明治 ブルガリアヨーグルト プレーン」です。それが月に1、2度、ちょっと贅沢な「小岩井 生乳100%ヨーグルト」に切り替わります。好きなヨーグルトをひとつ挙げろと言われたら迷わずこれです。毎日食べることができたらそれはステキなことだなあとおもう。

できないわけではありません。贅沢と言ってもたかだか数十円のちがいです。量も若干少ないけど、でも毎日ちょっとずつだし、そもそも200円くらいのものなんだからそんなに悩むようなことでもない。

にもかかわらずそうしないのは、そこに漠然とした不安があるからです。つまり、毎日のように小岩井のヨーグルトを食べて、今と同じよろこびを味わうことができるんだろうか?というような。

ふだんがスタンダードで、ときどきグレードが上がるときのプレミアム感といったらありません。うれしいし、わくわくするし、しみじみ美味しいとおもうし、幸せなことこの上なしです。ひとしきり楽しんで、明日からまたスタンダードに戻るときの一抹のさみしさも含めて、心と舌をたっぷりと満たしてくれます。さながらそれは春の空気をいっとき薄紅に染めるソメイヨシノのごとしです。

でももしこれが毎日プレミアムだったらどうだろう?もしソメイヨシノが1年中咲き誇っていたら?毎日プレミアムならそれはもはやプレミアムではなく、スタンダードです。それでも僕らは以前と変わらず、そこに心と体の隅々にまで行き渡るようなしみじみとした甘いよろこびを見出せるだろうか?むしろもう1ランク上のプレミアムを求めることになるんじゃないだろうか?

ここには「豊かさ」における大きなジレンマがあります。豊かさにはここでおしまいという上限が存在しません。満たされれば満たされるだけ、それに比例して満足へのハードルも高くなっていきます。豊かな暮らしは、幸せにかかるコストも同時に上げてしまうのです。安定した生活を確立した人々ほど「本当の豊かさ」を問いかけがちなのも、おそらくこのジレンマと無関係ではないでしょう。

家のテレビがどれだけ大きくなろうと、慣れてしまえばそれがスタンダードです。高価な宝飾品をどれだけ身につけようと、慣れてしまえばやはりそれがスタンダードです。よろこびを隅々まで100%味わうためには、その当たり前でないことが欠かせません。だとするとたとえば幸福しかないということになっている天国で、僕らは本当に幸福を感じることができるんだろうか?初めはともかく、やがてまたそうでなかったときと同じきもちで「本当の幸福」について問いかけることになるんじゃないだろうか?

とまあそんなことを考えながら、やっぱり小岩井はときどきでいいよな、と改めて思うのです。

0 件のコメント: