2012年3月12日月曜日

「毎度ご足労をおかけして申し訳がありません」




隣家の庭では柴犬が木漏れ日を浴びながら、ふかふかと苔むした地面を布団にしてまどろんでいるのです。朝日に温む色あざやかな苔ほどあくびのでる景色はありません。さんざん寝過ごしたことなどすっかり忘れて、そろそろ寝るかというきもちになります。おもいきって外に出れば、ぼんのくぼにできる日だまりが蜂蜜のようです。いちめんに春がたちこめている。

だれが決めたか知らないけれど、何であれ始めるのにうってつけの季節です。あれだけしめつけていた寒さはゆるむし、ゆかしく控えていた蕾はいっせいにほころびるし、そうすると今度は心なしか鳥のさえずりまでふだんより耳につくようにおもわれます。次のページをめくるお膳立てとしてはちょっとできすぎです。こんな具合に世界をあかるくととのえた上で「じゃあ行こうか」と春に言われたら、そりゃそうそうつれなくもできません。生返事でもやがては身支度をすることになりましょう。巡る季節に背中をおされて、そろえる歩みの軽いこと。とりわけ春にはどんなつむじ曲がりでもまるめこむ、ふところの広さがあります。

きもちをあらたに、と言うつもりはありません。去年も来たのが、また来ただけです。でも僕らに何があろうとおかまいなしで欠かさずしれっと訪れる自然のならいには、やっぱり頭がさがります。かつて形ある神をもたなかった僕らにとって、敬虔とはこういうきもちだとつくづくおもう。花には花の、道には道の、家には家の、姿なき管理人があってそれをおそれ、うやまい、また親しむ心も、なんとなくわかるような気がしてくるのです。彼らは世界の変化に何ひとつ関与しないかわりに、僕らがいなくなるまでずっとそこにいます。ひとつひとつのよろこびやかなしみにいちいちかまってくれないかわりに、明日も必ず日が昇ります。いるものといらないものを突き詰めたら、これ以上に望むものが他にあるだろうか?

拒否することはできません。こちらにその気があろうとなかろうと、どすどすやってきてはガラリと戸をあけ、「おい、よろこべ」とのたまうのだから、考えようによっては無粋な上にひどくジャイアン的なやりくちです。でも日ごろからあれこれに心囚われて暮らす僕らにとっては、これくらい強引で塩梅がいいようにもおもわれます。事前にお伺いを立てるとなったら、春なんか金輪際やってはきますまい。

来ては去り、約束をしたわけでもないのにやがてまた来ることを、僕らは知っています。来ない春はありません。昇らない日もありません。募る思いで待ち焦がれても決して反故にはされない唯一の、と言って然るべきこれは決まりごとです。

そう知るからこそなおのこと今年は、春を招くにあたっていつもより食卓におかずを1品多く並べてもいいというようなきもちがあります。たまには神妙になるのもよいし、なるとするなら今年だなというくらいのことではあるけれど、おいそれと言葉にはしづらい心が振り返れば僕にもやはりあるのです。


ガラリ

「や、いらしたぞ」

ドスドスドス

「おい、よろこべ」
「ようこそいらっしゃいました」
「うむ?」
「毎度ご足労をおかけして申し訳がありません」
「なんだ、馬鹿にしおらしいじゃねえか」
「菜の花のおひたしをたんとご用意しておきました」
「罠か?」
「めっそうもない!」
「気味がわりいな」
「あっちょっと」
「また来ることにする」
「帰っちゃイヤですよ!」


6 件のコメント:

赤舌 さんのコメント...

ウチにも顔はだしますが、門限でもあるのか、夜になると帰ってしまいます。

しろ さんのコメント...

こんにちは。

1年に4つも来るのだから、ひとつひとつの季節を丁寧に迎えて大事に過ごせていけたら素敵ですね。

私もコンビニに頼らない、季節に合った食事をするように心がけます笑

栗鼠 さんのコメント...

大吾さん!YouTubeでお見かけしてからのファンです!はじめまして
通勤電車のなかで読んでます、思わず朗読したくなるようなことばの並びです…今年の春が待ち遠しくなりました。

ピス田助手 さんのコメント...

> 赤舌さん

むむ、それはつれないことですね。酔ったふりをして「今夜は帰さない」と迫ってみるのはどうですか?


> しろさん

今は夏でも大根が手に入るくらいだから、季節に合った食事もなかなかむずかしいですよね。スープくらいなら手もかからないし、コトコト煮るのを見てるだけでも和んでよいですよ。


> 栗鼠さん

はじめまして、こんばんは。冗長と定評のある当ブログですけれども、そんなふうに言ってもらえるなら甲斐があったというものです。どうもありがとう!いつでもお立ち寄りくださいませ。

うどん粉 さんのコメント...

お久しぶりです
季節の変わり目は旬の物を食べ逃した寂しさにふと切なくなります
人生はいつも少し間に合わない
なんて映画のコピーがありましたが
この胸のスカスカは案外そういった傷心を教えているのかもしれませんね
さておき次の冬こそは食べたいです
「ぶり大根」
大吾さんはこの冬なにを食べ逃しましたか?

ピス田助手 さんのコメント...

> うどん粉さん

やあ、お帰りなさい!移り変わりがしずかだから、冬はとりわけそういうきもちになりやすいのかもしれません。僕が冬に食べ逃したものといったら、餅ですね。なぜかいつも食べそびれるんだけど、なぜだろう?