2007年10月31日水曜日

うれしい誤算のための計算法


「明日はうれしい誤算があるでしょう」と前日の夕刊にあったので、他の多くの人たちの例にもれず、わくわくしながら待ちかまえているうちに、翌日0時の鐘が鳴ってしまった(うちは振り子時計なのです)ときの一抹のさみしさはあれ、どうしたらよいのですか?シンデレラならまさにこの後にこそうれしい誤算が待っているわけだけど、もう大人だし、服をたたむようにして気持ちをそっと隅へ追いやり、歯でも磨いて寝るほかない。晴らすほどの鬱憤でもなく、出そうで出ないため息とともに、ただなんとなくがっかりして眠らなくてはいけないのは濡れた犬みたいでなんだかかなしい。何ひとつ失ったわけではないのに、どうしてこんな思いをしなくちゃいけないんだ?

そうして布団にくるまって目をとじてから、待てよと気づいてまたぱちりと開くのです。誤算というからにはとにかくあらかじめ何事かについて計算していなくてはいけなかったのではないか?計算もしていないのに誤算を期待するなんて、宝くじを買ってもいないのに3億円を期待するようなものなのではないか?

不覚であった。
計算というのは、たとえばこういうことです。

・食パンをくわえた女子高生とぶつかって恋を育むために、曲がり角にきたら全力疾走する

それに対して、誤算がこれです。

・車にひかれる

さらにそこへ「うれしい」が加わると

・打ちどころが良くてフォースに目覚める

あるいは

1. 空き巣に入る
2. 家主に見つかる
3. フォースに目覚める

まあ何にせよ、「うれしい誤算」というのはいくつかのハードルをクリアして初めて得られる、非常にめんどくさい幸運であることがわかります。すくなくとも、朝からわくわくしながら待ちかまえる類の幸運でないことは確かです。ドンと派手に車にはねられるとなると、仮にそのあとジェダイマスターへの道を確約されてもさすがにちょっと二の足をふむ。ふむでしょう?肉を斬らせて骨を断つようなものじゃないか。

深手を負ってまで断ちたい骨もべつにないし、なんか賢くなった気がするから、もういいや。

しかしあらためて「うれしい誤算てどういうこと?」と問われたときにパッと答えられる適切な例が意外と思い浮かばないですね。浮かびますか?

わかりやすい「うれしい誤算」を探してこよう。これでしばらくは有意義な時間をすごせる気がする。

2007年10月29日月曜日

新譜の7インチに空いた穴と、リトルカブのウィンカー位置


こりこり書いてるうちにおじいちゃんの話みたく長くなってしまったので、先にお茶を用意してください。やりすぎた。

 *

September Jones の7インチ2枚組(正規リイシュー)を買いました。

生涯にたった4曲しか残さなかったシンガーの、言わばこれがすべてという貴重な音源です。しかもそのうち2曲はアセテート盤でしか確認されていない未発表曲なので、絶滅危惧種(しかもIA類)の繁殖に成功したという意味ではやっぱり、手をぱちぱち叩いてよろこぶべき事件と言えましょう。ちなみにアセテート盤というのは、今でいうマスタリング前に使われるチェックディスクというか、ラベルも手書きの、要はデモテイクです。何しろ用途からして数枚しかつくられないものだし、劣化が早いので、そこにしか残されていないとなると、一歩まちがえれば高松塚古墳の極彩色壁画的惨事をまねくことになる。たいへんだ!

でも僕は若いのでそんなこと知らない。生きものにしても文化にしても、やむなく絶えることそれ自体にも僕は肯んずるものがあるし、ただすてきな録音に耳を傾けることのできるよろこび以上に必要なものなんて、考えてみたらそんなにない。針を落とせる幸運がすべてです。ありがたいことだとシンプルにおもう。ピクチャースリーヴも可愛い。




ところで、7インチには通常、LPよりもはるかに大きな穴が空いています。ドーナツと呼ばれるゆえんです。なので、レコードプレイヤーにのせるときは、専用のアダプタを用意しなくてはいけません。なんでまたわざわざ穴の大きさを変えなくちゃいけないかというと、これ本来はジュークボックスにセットするための穴だったのですよね。

でもこれ、新譜なんですよ。ふつうに暮らしていたらジュークボックスで音楽を聴く機会なんてほぼゼロなのに、今もって同じ仕様でつくられているというのは、考えようによっては奇妙なことです。ありそうな理由を挙げていくとそう奇妙でもないんだけど、そうせざるを得ないいろいろな事情があるにせよ、すくなくともそれが元々の意味や理由とはまったく別の話であることはまちがいない。だってジュークボックスないんだもの。でしょう?にわとりの羽や、リトルカブのウィンカー位置とおなじで、名残りにちかい。

スクーターにのったことのある人はわかるとおもうけれど、ウィンカーの切り替えスイッチって通常左についているでしょう?右手はアクセル、左手はウィンカー。理にかなってますね。ところがカブの場合は、それがどちらも同じ右側にあるのです。しかもご丁寧にウィンカーの切り替えがわざわざアクセルと同じ縦方向につくられている(↑↓)。左右を切り替えるんだから、横のほうが自然だし、だからもちろん、スクーターは横方向です(← →)。ということは、右への設置が不自然であることを認識しながら、切り替え方向を縦にしてまで、ふたつの動作を同時に右手でこなす必要性があったことになる。なんで?とおもってバイク屋さんにきいたら、「カブって出前に使われることが多いでしょ。片手が空いてたほうが便利だったんですよ。昔はとくに」というのです。ポン(ひざをたたく)。なるほどね!しかしべつに「出前専用」ってわけでもないのに、そうとう固定された需要にこたえてまるごと仕様を変えちゃうって、ちょっとすごいですね。粋なことをするものだ。

でも僕がのっている「水駒」は、リトルカブです。カブの長所をそのままに、娯楽性を高めてリメイクしたシリーズなのだから、かつてはそれなりの理由があったとはいえ、ウィンカー位置まで受け継ぐ必要はぜんぜんないのです。理由はあっても必要はない。

物語というのは往々にして、こういうところから生まれるのだと僕はいつもおもう。なぜだろう?という疑問を挿しこむ余地があり、かつその答えがきちんと用意されているとき、それは規模の大小にかかわらずひとつの歴史を語る種になりうるのだ。7インチの穴みたいに本来とはちがう理由がくっつくこともあれば、ニワトリの羽みたいにただ残っちゃっただけのものもあるけれど、点として今のこるものの裏に過去へとつづく1本の細い線がのびているのをみることほど、刺激的な体験もない。ないですよ!こういうのを物語と呼ばずになんと呼ぼう。これだけおもしろい話が、日常にも無造作にポロポロところがっているのだから、それらを生きている間にぜんぶ拾いきるにはまったく、どうしたらいいんだろう。長生きしたくなってくる。

あとできればいいかげんブログを簡潔にしたい。

それでなくともブログじゃないね、もう、と人に言われてヘコんでいるのです。だって「今日はどこどこで何をしたよ」なんて、知らないよそんなの、ってじぶんでも思うんだもの!

2007年10月27日土曜日

試聴しちゃうシチュエーション


いくら何でもそこまで馬鹿ではないと自負していたのにもかかわらず、とうとう、パンケーキを焼いてくれる可愛いアンドロイドの夢をみてしまった。

可愛かった…。

 *

「詩人の刻印」全曲試聴できます!
唐突ですね。
http://www.wildpinocchio.com/

ほんのちょっとずつでもうしわけないです。でもこれでアルバムの雰囲気と全体像はつかんでもらえるのではなかろうか。もともと、このブログで紹介したレコードの曲とか貼り付けられたらいいのになーと考えていただけなのだけれど、そんなことができるなら先にやることあるだろうと気づいたのが昨日で、あわててこしらえました。

imeemなので、ここにも貼っとこう。トラックリスト等は上記のURLを参考にしてください。

2007年10月24日水曜日

紙切れ的ピーターパンの十三夜


十五夜に中秋の名月を堪能してしまった以上、十三夜は考えうるかぎりすべてのものに優先し、磐石の態勢で月見に臨まなければならないというので、とるものもとりあえず大慌てでチャイをくつくつ煮出したのが、23日から24日へと移るギリギリ30ぷん前でした。どちらかひと晩しか月見をしなかった場合、それは「片月見」と言ってきらわれ、災いが向こうからテクテク歩いてくるおおきな原因のひとつになると聞かされたら、閻魔さまだって地獄の営業時間をはやめに切り上げて外に出ようというものだ。月見にそんなおそろしい謂われがあるとはまったく迂闊であった。

しかし実母の誕生日をほったらかすくらいはよいとしても(過日参照)、生き馬の目を抜く社会でサヴァイヴしつづける大人にはそれぞれ、のっぴきならない事情というものがあります。たとえ災いが真夏のスコールみたいに容赦なく降り注いでくるとわかっていても、じっさいにはすべてに優先して月見に没頭することはなかなか叶わない。現実を生きる僕らは、ピーターパンが薄っぺらい紙切れでしかないことを、頭に叩きこんでおく必要があるのだ。(さらに言うなら、それでもなお、「でももしいたらヤバいな」とどきどきするのが正しい大人のありかたです)

だからたとえば、外出していてしばらく地球に帰れない、というような場合は月見ができなくてもしかたないと僕もおもう。古来からの風習に、そこまでの拘束力はありません。しかしセリヌンティウスが待っているとかメロスみたいな言い訳はだめです。また、オークションの終了時刻が迫っていて、しかもまだ入札していない場合もしかたありません。そのきもちは痛いほどわかる。逃がす魚はいつだってじっさいより大きい。それ以外はみな死ぬ気で月見に挑んでください。

そうこうしている間にこくこくと時間はすぎていくので、チャイを大きなマグカップに注ぎ、どたどたと屋上へ向かってみれば、「十三夜に曇りなし」と言われるとおりの見事な月であった。天晴れ!夜に天晴れが似合うかどうかはともかく、満月だけが月ではないのだ。

2007年10月23日火曜日

そして 日曜日のこと


ともあれ、ひさしぶりに雲ひとつない秋晴れに恵まれた日曜日の「詩人の刻印」リリパはぶじ終了しました。足を運んでくれたひと、ほんとうにどうもありがとう!あれほどうれしい時間をすごしたのは、生まれて初めてです。これほど大きなよろこびにふれたことがないので、どう整理してよいかちっともわからなくて困っています。ばかでかい岩にゴロゴロ追っかけられて、洞窟のなかを逃げまどうインディ・ジョーンズみたいなきぶんだ。

なんて言ったらいいんだろう?感謝のきもちを伝えるのに、「ありがとう」しか言えないなんて、くそ、ずいぶん不自由なことだなあとおもいます。ウィンドウズじゃないんだから、他に選択肢はないのかね、サカナダくん。君の言葉はいつもありきたりなんだよ。もっとこう、ゴーン!ときてシュワ〜っとしてモクモクな感謝を、一言であらわすことはできんのかね。すみません。

すくなくとも発売より2週間以上も前なのにもかかわらず、日曜日に来てくれたひとは僕にとってとくべつな存在です。それで、えーと何かとくべつなしるしを贈りたい、と一晩考えて、ひざをポンとうちました。

このブログをみていて、日曜日も来てくれた人に、年賀状を送ります。


「1/8,000,000」から数えて、今回の「詩人の刻印」は「4」、そのブックレットが「5」と数字がふられているのだけれど、じつは「3」が、個人的な年賀状でした。上の画像が、去年とおととしのものです。こんなのでもイイ!と思ってくれる風変わりなひとだけ、メールください。

11月7日、アルバムの発売日くらいまで有効です。もうこないな、と判断できそうな時点で、アドレスは削除するとおもいます。(注:アドレスは削除しています)

いるかどうかわからないけれど、リリパに来れなかったけど欲しいというひとがいる場合は、ムール貝博士へのラブレター(僕宛じゃないですよ)をくっつけてくれれば受け付けます。だいぶ狂った感じで書いてください。

ほんとにどうもありがとう。そういうことが可能なのかどうかわからないけれど、たとえばそのうち、アルバムとか曲のこととかとは別に、「秋の空は高くていいですね」みたいなどうでもいいような話ができるくらい、距離がちぢまったらいいなあとおもいます。

明日も晴れますように。

2007年10月22日月曜日

ムール貝博士の贈りもの


ムール貝博士がオバアチャンを3個送ってきました。数え方からしてまず間違っています。何がどうなっているのかさっぱりだけれど、ずいぶん安い。レシートまで送ってくんなよともおもう。

しかしいくら知識と経験が豊富な人生の練達であり、この先を生きる上で心強い道しるべになってくれるとはいえ、3つというのはさすがに多いような気もするけれど、そうでもないんだろうか?

ちがうちがう!
こんなことよりだいじなことを書くのであった。
あとでまた更新します。

2007年10月19日金曜日

「1/8,000,000」、ふたたび


すでに発売から2年以上もの月日が流れているにもかかわらず、いまだ雨垂れのようにポツポツとオーダーが来ているというふしぎなアルバム、「1/8,000,000」ですけれど、ほんとに手元にブツがなくなってきてしまったので、再プレスすることになりました。まじで!?

ただし、特殊すぎるジャケットの枚数にじつは限りがあるので、今回がほんとうに最後のプレスになります。紙がないのでやりたくてもできないのです。だいたい再プレスなんて、つくった当人を筆頭にだれひとりとして予想してなかったし、できることじたいが驚きです。もともとプレス数が少ないというゴリッとした現実もあるけれど、レーベルが抱いていた当初の期待をちょっと上回ったという点では、それなりに意味のある話と言えましょう。出荷されたのち、水面下での動きがちっとも読めないので関係者一同、しきりに首をひねっております。ベランダにぶら下げると他のCDにくらべてカラスの撃退率が高いとかそういうことじゃないだろうな。のどかな郊外の団地でおばちゃんたちの噂になってるとしたら…「知ってる?すっごい効くわよ、アレ」…それはそれでやっぱりちょっとおもしろいのでしかたないな。

それでまあ、せっかくだから盤面の色、変えようぜ!というわりと安直な思いつきで、色を変えました。それが今日の画像です。

あっ何気にこっちのほうがかわいい。

とそういえばこないだバス停でエムズワース卿が言ってました。失言にもほどがある。

ともあれ、開けてみないとどっちだかわからないし、すでに持っている人の目にする機会がほとんどないのは残念な気もするけれど、でも見かけたらきっといいことあるよ!手に入れるひとつの方法としては、ともだちにがんがんすすめて、もし当たりが出たらうまいこと言ってだまし取るという非常につましいやりかたがありますが、そこまでするほどのものでもないよな。何にせよ、うれしいことです。

ありがとう。

ていうかあれからもう2年もたつのか…もしヒゲのばしてたら何センチくらいになってるんだろうな…三つ編みとか…

2007年10月17日水曜日

電気的乳母の必要性


花鳥風月と入力したはずなのに、画面には課長風でゲスと表示されているのです。そうでゲスかと言うほかない。課長風ってことは係長なのかもしれません。窓の外を見つめる彼の後ろ姿が思い浮かびます。薄くなった髪が風にそよいで哀しい。ゲスとはこの場合語尾であって断じて下衆ではないと断っておきたい。

 *

気がつくとわりとこまめにしょこたん☆ぶろぐをチェックしているのだけれど(何せ更新頻度が異常に高い)、ブックマークすべきか否かで毎回1分くらい悩んでやめてしまうのです。いくじなし!好きなら好きって言っちゃえばいいのに!

でも言えない!

 *

人生という名のサバイバルゲームから負傷により戦線を離脱することとなった電子レンジ三等兵(性格温厚)。何度コンセントをさしてもそのたびブレーカーがばちんと落ちるため、こりゃ漏電ですよと診断されたわけですが、何しろこいつときたら、僕が17のころから毎日のようにせっせと食べものを温めてくれていた、ある意味乳母ともいうべき存在だったので、そのかなしみは言葉に尽くせないものがあるのです。足かけ13年という時間はいかにも長い。赤ん坊なら万引きを覚える年頃だし、蝿なら260回もの世代交代を重ねる年月です。

たしかに晩年は皿を入れるとばちばち火花がとぶこともあったけれど、それだって愛嬌だとおもえばなんてことはなく、むしろ何事もなくあたためが終わると「どうした?元気ないな」と心配になるくらいのものでした。来るべくして来た別れのときには、かける言葉もありはしません。

それはそれとしてしかし問題は、保存用としてかちんこちんに凍らされたもろもろの食物であって、主にこれらを解凍するのがレンジの役目であったことを考えれば、早急に対策を練る必要があるのは明々白々です。おなかをすかした緊急対策本部が無人の記者会見で発表した対応策は以下のとおり。

ごはん→せいろで蒸す
肉→基本自然解凍、ただし水につけると30分くらいで使える(挽き肉はもっと早い)
ハッシュドポテト(好物)→魚用グリルの直火で炙る

ハッシュドポテトにいたっては、グリルのほうが全然早いし、しかもよっぽどかりかりでおいしくなることがわかって心もイモもほくほくです。やったね!

あれ?

とするとなぜ電子レンジをあそこまで重宝して、かつその死を悲しまなければならなかったのか?たしかに1分で済んでいたことが今は10分かかったりするけれど、そのくらいの時間を惜しむようなせっかちな暮らしはしたくないし、かえってちょうどいいような気もする。電磁調理器しかない部屋に住んでいたときは、お湯ひとつ沸かすのにもひどく時間がかかるから、フンフン歌いながら気長に待ってたじゃないか。

そもそも僕はひとり暮らしをはじめてから、数年間はごはんを炊飯器ではなくて、文化鍋を火にかけてコトコト炊いていたのです。人にもらって炊飯器がウチにきたとき、タイマー機能に軽いカルチャーショックを受けたこともまだ記憶に新しい(朝起きたら炊けてるなんてずるい!とさえ思った)。あればそりゃ便利ですけども、なければないでなんとかなる、それはたしか僕の座右の銘ではなかったか。不足とはこれすなわちクリエイティビティの母であります。となれば…

もうレンジいらない。

と縁切りを心に決めたそのとたん、それまでついぞ目立たなかったホーローの保存容器が、あいつあんなに美人だったっけ?みたいな展開で俄然そのかがやきを増してくることになるのです!冷凍したまま火にかけられるたァ驚きじゃねェか!次週!「白くて冷たい粋なヤツ!レンジ離れは加速する!」の巻!刮目して待て!パッパパパラ〜

2007年10月15日月曜日

空焚き、あるいは裁判における石川五エ門 VS こんにゃく


まいにち気圧が低くて困ります。空腹と低気圧は、僕の機嫌を劇的に悪化させる二大要因らしいのだけれど(自覚がないのです)、後者はそれに加えて伸びきったゴムみたいにやる気までなくなるから始末におえません。こうなるともうしかたがないからひたすらじっとして、ぶ厚い雨雲に長い棒をつっこんでぐるぐるかき回したら晴れるだろうかとか、がんばるガンバリ事務総長特別顧問のこととか、まあだいたいそんなことばっかり考えています。伸びきったゴムしかない世界だったらイチロー的な立ち位置でスター街道まっしぐらだろうに、そう考えるとなんだかもったいない。あるいは太陽発電みたいにこのやる気のなさをエネルギーに変換できたら、ずいぶん環境に貢献できるのにともおもう。そうしてありもしない敵に歯ぎしりするような、不毛にして非生産的な行為をこりずくり返すうちに、ふかぶかと日は暮れてゆくのです。僕の辞書ではこれを「空焚き」と呼びます。暮れるも何も、日なんか出てない!といってまた腹を立てたりね。

しかしひとびとが輝ける未来を見据えてせっせと汗水たらしているなか、あほみたいに空焚きばかりしているのもさすがに気が引けるので、よしここはひとつアルバム発売に向けて何かしら実のあることをしようと立ち上がってふと足元をみると、あらすてきな装丁の本がある。ちょっとこれいい風合いじゃないの、貸してちょうだい。(拾う)おや昭和26年初版?この時代の装丁ってほんとたまらないものがあるのよねぇ(ためいき)。物思う秋、深まるアンニュイなムードに包まれながら、知の泉に素足をひたす乙女はひとりこう、ページをめくる…。するとそこへ通りがかった精悍な顔つきの青年が思わず声をかけて…「奇遇だな、その本なら僕もちょうど今…」キャー!やーねぇ。あらあら、ふむふむ(読む)。おせんべいまだあったかしらね?

(ばりばり)
(もぐもぐ)

チャタレイ夫人の恋人 公判ノート

小説のくせに一部が伏せ字になって発売されるというある意味ミもフタもない結末を招いたチャタレイ裁判、その公判の全容を余すところなく収めた速記録ですね。非常に高度な知性の応酬でもって縦横無尽に語り尽くしながら、けっきょくのところその論点は「これちょっとエッチすぎるんじゃないの」というところに落ち着く、そのおそるべき落差に慄然とする一冊です。石川五エ門 VS こんにゃくの対決を見ているようで、いたたまれない。何が五エ門で何がこんにゃくか、視点によって切り替わるあたり、しみじみ奥の深い話だとおもう。体裁とか形式だけ見たらほんとうに無味乾燥な公判記録でしかないはずなのに、もっとも重要な部分イコールもっとも口に出すのがはばかられる部分、というジレンマに彩られた意見陳述と証言が、スリル満点でひきこまれます。おもしろい!下された判決も今からするとやっぱり意外だし、シニカルです。

こんなの問題にならないよ、と言い切れる今の感覚を当たり前と感じているのなら、腹を抱えて笑ってもおかしくはない。じっさい記録のなかにも(場内失笑)みたいな但し書きがあったりするくらいなので、鹿爪らしい顔をして読むのもへんな話です。でもいっぽうで笑えるその根拠ってなんだろう、ともふと思うのです。考えかたが古いと言ってしまえばそれまでだけれど、新しいというのは今までになかったというただそれだけのことでしかないし、50年後には僕らが笑われる番なのかもしれないのだ。

 *

ちなみにこの本を手に取ったのは例によってフライングブックスですが、手に取るそばでなぜかテレビカメラが回っておりました。というか、撮りながら「なんか手に取ってください」って言われて取ったのがこの本だったのです。たまたまとはいえ、いい本と出会えてよかった。

流派Rに出るらしいぜ!

だいじょうぶ、たしかにここは、笑うところです。
それこそいたたまれなくて、僕ァとてもじゃないが観られません。

2007年10月13日土曜日

Bygones!


電子レンジが漏電で逝去されました。

ウチの人が車にはねられました。

水駒(バイク)が全快しました。そしたら自賠責が切れてました。

ポイントカードが6点たまったので、いそいそと府中まで違反者講習をうけてきました。社会におけるクリーンな生きかたを学ぶというのは、いくつになってもすがすがしいことです。キスマイアス。

すぎたことはしかたないのだ。そうじぶんに言い聞かせて池袋に帰ってきたら、今度は駅前に停めた自転車がない。一応こう、さりげなく何度も往復してみても、ない。もしや色も形もちがうこのマウンテンバイクがかつてウチのママチャリだった子なのでは…といったウルトラC的可能性も考えるだけむなしいと知りながらあえて考えて、やっぱりない。うすっぺらい不運というのはことほどさように、ミルフィーユのごとく幾重にもかさなるものなのであります。ぜんぶ金がかかることばっかりじゃないか!明日は知らない子に「お父さん」とか呼ばれて養育費せびられたりするんじゃないだろうな。そういえばそれとは別にちょうど今、不運というか口には出せないわりと大きな不幸もひとつ、子泣きジジイみたいにどっかりとのしかかってきているのだった。こういうタイミングって何なのかよくわからないけど、フォークで刺して丸呑みしてやりたい。

それにしても社会の正義ってどうしてときどき悪意に満ちた顔で迫ってくるように見えるんだろう。じっさいにはどの角度から見てもそこに悪意はないし、僕はそれに異論をはさむものではないけれど、でも正しいからってそれがぜんぶ善であるとは限らない。すくなくとも僕のなかでそれはぜんぜん別の問題なんだ。

まあいいや(←偉大な一言)。"Bygones!" ってリチャード・フィッシュならたぶん言うだろう。

2007年10月11日木曜日

シルヴィア・スミスのはひれ狩り


尾ひれはわかるけど、はひれって何だ、と言ってともだちがはひれを探しに行ってしまったので、しかたなくひとりでせっせとおちゃらかホイに励んでいます。秋はさみしさが募るばかりです。

まったく、はひれなんかどこにもありゃしないんだ。

 *

おいそれとは解くことのできない深遠な謎とは、たいていの場合、町を歩くサラリーマンみたいに風景と溶け込んで目立たないものです。いったん気づくとその違和感が気になって仕方ないのに、他の人にとってはただのサラリーマンにしかみえないので、ねえ、ちょっとホラ!みてアレ!ねえ、といくら注意を促してもまじめに受け取ってもらえないことがままあります。ちっちゃいことでいちいち騒ぐな、という向きもありましょうが、あいにくこっちはいちいち騒ぎたいのだ。

これは子どもがヘンな虫を見つけたからといってわざわざその死骸を持ってくる行為にすごく似ている気がするし、だとすれば「ハイハイ」とかるくあしらいたくなる気持ちもわからなくはない。しかし森羅万象をなんでもかんでも当たり前ととらえることほどつまらないことってないと僕はつよくおもう。どれだけまわりに肩をすくめられようと、そこに行く理由があると思うのなら、はひれを探して旅に出るのもいいじゃないか。

なあワトソン君。

(まったくです)

そうだ、(パチン)
ワトソン君、あれを。

Sylvia Smith / Woman Of The World

今日の画像が、つまりこれです。可愛いですね…(ためいき)。シンプルだけれどツボを押さえて華やかなファッション、自信にあふれてキュートなポーズ、セクシーでいて愛嬌のある表情、それをくっきりと浮かび上がらせるための単色背景。ばちん!と貼り付けたような堂々たるロゴが爽快です。こんなのCDサイズで眺めたってちっともキュンキュンこない!力づよく見開いて揺るがないまなざしは、計算高さというよりも理知的な精神を感じさせるし、男性に対してと同じように女性にもアピールするものがあるはずです。だってこんなに可愛いんだ!

そんなこまごまとしたあれこれを全部ひっくるめた、得も言われぬ愛くるしさを演出するとてもだいじな一要素でありながら、正体のまったくわからないカラフルな「はひれ的」物体が、これだ。


…なんだこれ?

実用品なのかどうかもよくわからない。すくなくとも食べものではないように見えるけど、それさえそう見えるというだけで断言できないありさまです。台所と居間を仕切る暖簾?てこんなのがいっぱい並んでたりしますね。よくみるとかすかにブレている気もするので、ブンブン振り回してたのかもしれない。でもそうなるとよけいに何だかわからない。仮にブンブン振り回すことがたしかだと判明したとして、それが何なのだ。

まあ、いいや。もう。

こないだ紹介したAnn Peeblesみたいに名盤と謳われるものではないけれど、これはほんとうに、声もクールな良質のレディソウルです。日本人ならみんな大好き、David T. Walker も参加しています。と言うとオッと振り向く人もいるかもしれないですね。でもたぶん、いなくてもこのアルバムの魅力はちっとも減りません。えらいのはシルヴィアなの!

シルヴィアといえばシュガーヒルの大姉御、シルヴィア・ロビンソンだし、そっちはそっちで大好きなのだけれど、いっぽうでシルヴィアと言われて僕の頭にパッとイメージが浮かぶのは、シルヴィア・スミスなのです。なんかもんくあるか。

裏面も可愛い。


 *

そういえば電話をかけようとおもっていたのだ。
「もしもし、ムール貝博士ですか。はひれって何ですか」

「さよう、はひれは、たしかに、ブージャムだったのだ」

2007年10月9日火曜日

鮭桃色のパンダイズム


パンダのことを考えています。

進化生物学におけるダーウィニズム、わけても自然選択(natural selection)という考えかたには、性選択というもうひとつのベクトルがあって、これは生物の一見すると不要とも思える身体的特徴が、メスの気を引くために時としてえらく大仰になるというものだけれど、考えようによってはどんなおかしな特徴もこれひとつで大体納得できてしまうとてもべんりな理論です。たとえば、孔雀の羽根とか、鹿の角とか、おっさんのヒゲとか、そういうものですね。じっさいには、天敵に見つかりやすくなるというじつにもっともなリスクを背負っているので(ビンラディンのヒゲもその一例です)、そんな簡単な話ではないにしても、さきいかをむしゃむしゃやりながらしゃべくるぶんには、これくらいの大雑把なとらえかたでとりあえず問題はありません。

でもパンダってオスもメスもあの模様なんだよな。何がどうひっくり返るとあんなんなっちゃうのかやっぱりよくわからない。それでいてあれだけよくできたデザインなんだから、世界とはよくよく不思議なものです。不明確なその意図と目的は脇に置いとくとしても、的を射た黒の配置と余白に関して言うなら、シマウマと並んでひとつの完成形と言えるでしょう。目のまわりを黒く塗りつぶすなんて誰が考えたんだろう。まったく大胆きわまりない。

白と黒という、考えようによってはおそろしく退屈な2色が織りなすストイックなハーモニー、という意味では書物も同じです。文字なんか読めればいいと思っているのなら、それは書物やその文章、ひいては活字の魅力をほとんど味わっていないことになります。

とこないだバス停でエムズワース卿が言ってました。矛先はあっちに向けてください。

ポール・ヴァレリーの「書物雑感」には、「読みやすく、また眺めて楽しいとき、その書物は物理的に完璧である。」というすてきな一文からはじまる、書物の視覚的美学を論じたくだりがあって、それは今も僕にとってとても大事な文章のひとつです。読みやすく、という心配りは当然と言えば当然ですね。読みにくかったらだれも手に取らない。では「眺めて楽しい」の部分は?

それが目で追うものである以上、文字は絵や写真と同じ、グラフィックです。にもかかわらずその装いについてはわりとスルーされがちなのはなぜだろう?純粋にデザイン的要素を極限まで高めたタイポグラフィの類いはあっても、文章とその文字組からその意識を色濃く感じることってあんまりありません。

とこないだバス停でエムズワース卿が言ってました。あっち!矛先はあっちね!

筋を追う小説とか随筆は読みにくくなったら本末転倒なので、文字に謙虚なふるまいが求められるのはよくわかるけれど、余白がイニシアチブをとることも多い詩歌において、文字のそうした側面に重点の置かれることが少ないのはもったいないと、僕はつねづね考えています。わりといいおっさんになるまでそんなだいじな思いをひとりでポッケにつっこんでおくほうがもったいない、という正論にはぐうの音もでないのでこの際言いっこなしだ。

文字組にフタのはずれた胡椒のごとくどっさり美意識を注ぎこんだ北園克衛みたいに、「眺めてたのしい」というきもち良さをだいじにしたい。そもそも卓越したヴィジュアル感覚の持ち主であり、今もグラフィックデザインの視点から語り継がれる希有な男とくらべるのは気が引けるけれど、まあいいや。あこがれを抱いたからって罪にはならない。視覚的なよろこびに満ちた白と黒の美学(big up)、すなわちこれパンダイズムの誕生と相成るわけでございますな。ヤッホー。うまくまとめてやった!

ともあれ、詩を「ことばとしてのみとらえる」ことを良しとしない性分は、アルバム「詩人の刻印」に同封されたブックレットにももちろん、反映されています。すくなくとも、新鮮な印象を抱いてもらえるはず。数日前に書いた、「音源だけでは意味がない」というのはそういうことなのです。



追伸:
ゴメンよく考えたらブックレット、モノクロだけど白黒じゃなかった。

2007年10月8日月曜日

ちっぽけなもののしかるべき潮時


指に吸いつくようなこのしっとりとした肌ざわり…。しなやかで、いつまでもさわっていたいこのやわらかさったらありません。まるでなめした皮のような質感に、ぞくりときたらあなたもりっぱな紙フェチです。いびつな世界のいりぐちへようこそ。

ブックレットが届いた!
パッケージも届いた!
ゆうしゃはレベルが1あがった!

CDとブックレットを収納するパッケージ?紙ケース?にかんしてはとくに、見た目それほど特別って感じでもないのに展開図からじぶんでつくるという100%カスタムメイドの誂え品なので、仕上がりがまったく予想できなくて、寝ても覚めても考えるのはその成否ばかりで、ふぅ…とアンニュイなため息をつきながら、あの人どうしてるかしら、と遠くの空を見つめる日々がつづいておりました。感無量です。しくしく。ヤーヤー。要望に合わせて紙をチョイスしてくれたのは、わがレーベルオーナー(電話好き)ですが、古書店が音楽レーベルを兼ねていることのもっとも大きな利点は、まさしくこういうところにあるわけですね。そう考えると僕がここに所属しているのは必然以外の何ものでもないなあとほんとうにおもいます。さすがだ。

小出しにしてカードを切ると蝦蟇の油みたいな汗がじりじりとにじむたちなので、なんか体にもわるそうだし、たぶん脳みそにもわるいし、いっそぜんぶ丸出しにしてしまいたいのだけれど、なかなかそういうわけにもいかなくて、難儀なことです。フツーに見せたらいいじゃないの、と無気力な悪魔のやつが鼻に指を第1関節までつっこんでほじくりながら誘惑するから腹立たしい。大事なものはちっぽけなものほど、しかるべき潮時がくるまでとっておかなくてはいけないのだ。しかし…あなたはよろこんでくれるだろうか?

 *

そんなことをつらつら考えながら上機嫌で山手通りを走っていたら、上落合で水駒(みずこま:原チャリの源氏名)の後輪がパンクして立ち尽くすわたくし。

バイク屋さんに引き取られていく愛車の後ろ姿を見送ったあと、散歩には長すぎる家路をてくてくと歩きながら、人生の落とし穴とはかくもあちこちに口を開けているものなのだなと知る、秋冷のみぎりです。捨てられた子どもみたいなきもちになるのはなぜだ?

2007年10月7日日曜日

美女としての栗



すっかり秋だし、前々からこれはひとつ声を大にして言っておかなければいけないとおもっていることがあるんだけれど、あのですね、あらかじめ剥いてある甘栗なんてホントに何の意味もないんだよ!

甘栗の話です。

あれは指先をまっくろにしながら爪でこつこつぱきぱきと、ときどきうまく割れないもどかしさに苛立ちつつ、コロンと完品状態で取り出すまでの長く遠い道のりとその歩みまでをふくめてようやく、「甘栗」なのです。ラップだけを取り出してヒップホップを語ることはできないのと同じだ。それはキミ、文化なのだと僕は主張するものであります。

ともかく、栗屋さんで買ってきた甘栗すべてがおいしくいただけるわけではありません。だからこそ、極上のひと粒に巡り会ったときの感動は筆舌につくしがたいものがあるのです。ここには哲学がある。教訓もある。それを「むいちゃいました(ふふふ)」の一言であっさり片づけられてしまった日には、そりゃバーのカウンターでマスターに「もうおよしなさい。飲みすぎですよ」と止められるほど酩酊しながら、えずいたり毒づいたりしたくなるっていうものです。くそったれ!

考えてもごらんなさい、目の前で寝そべる一糸まとわぬ女性に耳元で「召し上がれ」なんて甘くささやかれたところで、いやこれはこれですてきな話だけど(もぐもぐ)、でもなんていうか、そんな泡銭みたいな快楽に身を投げ出したところで、その先にいったい何があるっていうのか?もちろん僕にだって気持ちよければまあいいや、エヘヘってときがあるけれど(それはまあフツーにある)、それ以上に出会い、口説き、場合によっては土下座とかして、服を脱がすまでの苦闘がなんといっても恋における肝なのであって、その結果が吉とでようが凶とでようが、それはかくじつに経験として蓄積されていくのだし、また人はそうやって世間を知り、道理を知り、大人になってゆくのです。

栗や恋にかぎらず、ものごとと向き合うというのは、こういうことだと僕はおもう。目に見えるその奥に隠されているものを推し量りながら、ゆっくりとその距離をちぢめていくこと。小説のあらすじだけを集めた本を手に取るのと同じく、きれいに剥かれた甘栗をたんじゅんに「へー」と受け止めてしまうのは、やっぱり健全な心構えではないとおもうのです。ゆゆしき事態とまでは言わないにしても、首をかしげるくらいの思慮深さはほしい。差し出されたものを指でつまんでパクッとやるだけなら、赤ん坊とそんなに大差ないじゃないか。

考えすぎ?

みんなが考えなさすぎなんだ!

甘栗を2キロ買ってきて内職みたいにひとりもくもくと剥きつづける男の、指の黒さと哀しみを知れ!

2007年10月5日金曜日

アン・ピーブルスとカルティエ=ブレッソンの共通点


すくなくとも僕にとっては、レコードもまた印刷物のひとつです。30センチ四方のジャケットって、よく考えたらこれほとんどポスターじゃないか。洗濯物みたいに、青空の下でずらずら並べて干せたらどんなに見映えがするだろうとおもう。ごらん、あのひときわ目立つむさくるしいおっさんがアレン・トゥーサンだよ、とか指さしたりしてね。べつに干さなくたっていいけど。

そんなにいっぱい持っているわけではないし、嗜好もそうとう偏っているのだけれど、それでもその美を誰かと共有したくなる、印刷物として眺めてたのしいじつにキュートなLPが、ウチにもいくつかあります。写真がいいとかそういうことにかぎらず、ビジュアルとしてしみじみすてきなデザイン性に優れたジャケット、たとえば、これです。

Ann Peebles / Straight From The Heart

いい写真ですね…(ためいき)。ロゴも可愛い!でもこのLPの真骨頂はそこではなくて、じつはジャケットの紙質にあるのです。写真そのものならCDでも見ることができるけれど、LPは光を吸いこむ上品なマット感があって、写真のおだやかでやわらかな階調がより映えるよう、じつに丁寧につくられています。このアルバムはそもそも名盤としてよく知られているのだけれど、それもうなずける熱の入れようが、ジャケットからも女王様のムチのようにぴしぴしと伝わってきます。

20世紀を代表する偉大な写真家のひとりカルティエ=ブレッソンは、写真の軟調な仕上がりに大きなこだわりを抱いていたそうです。だから当時焼かれたヴィンテージプリントと、現代の専門家が焼いたモダンプリントでは、グレーの階調におどろくほどの落差があって、実際見るとかなり驚かされるのだけれど、それはホントに手漉き和紙とコピー用紙くらいちがうし、この際思いきって長嶋茂雄とプリティ長嶋くらいちがうと言い換えてもいい。それと似たようなことをこのジャケットにも言える気がするのです。階調までコントロールしていたかどうかはともかくとして(それはあやしい)、すくなくともカルティエ=ブレッソンの写真にも言えるまろやかな質感と視覚的な余韻がここにはたっぷりと含まれていると言い切ってしまいたい。眺めてなんだかうっとりしてしまう。

でもここでだいじなのは、これが「写真作品として有名なのではない」ということ。多くのアノニマスな仕事にうもれながら、いろんな理由で結果として残る美が、好きです。そういうものにはたいてい詩情が、ラストノートみたくほのかに漂っている。

 *

関係ないけどアンジー・ストーン(Angie Stone)、新譜でるんですね。あやうく乗りおくれるところだった!ゆったりとして切れることのない、こういう息の長さはすてきだ。彼女がアイドルグループの一員として30年くらい前のレコードではつらつとラップしているのを聴いたときはさすがにびっくりしたものだけれど(Vertical Holdが最初だとおもってた)、彼女いったい、今いくつなんだろう。円熟した味わいがあるのもむべなるかなというか、ディアンジェロはどうした。

2007年10月4日木曜日

ことばの奥に広がる風景


家路の半ばで、「今日という日は今日しかないんだ」と言って歩きながら女性に話しかける青年とすれちがいました。彼は首尾よくやれたんだろうか?

なんだか語弊のある言い方をした気がするな。

冷静に考えてみましょう。可能性はいくつかある。

1. ふたりは赤の他人で、男が女にスワヒリ語の重要性を語り、会話が90分収録されたこのカセットテープを買って今からでも学ぶべきだと勧めている
2. ふたりは夫婦で、67年製のライカM-4が20万で売りに出されているのを見た夫が妻を必死で説得している
3. ふたりは恋人で、男が女に「今日」と「明日」のちがいを説明している
4. ふたりは親子で、賭け事におぼれて家族に捨てられた父が、たまにしか会えない娘との時間をギリギリまで楽しもうとがんばっている
5. ふたりは双子だが、じつは三つ子だったと知り、三人目の兄弟を探しに旅に出る
6. 「"強敵"と書いて"とも"と読むんだ」の聞きまちがい

どれだっていいような気もするけれど、3はちょっとおもしろいですね。生真面目なカップルだ。

彼は首尾よくヤれたんだろうか?

2007年10月3日水曜日

なぜかっていうと私有地だからです


今日はCD(盤面)のテストプレスが届きました。これは、えーと色校みたいなもので、デザインを実際に印刷した状態でのチェックがここで行われるわけですね。入稿が終わっても、ここで思ったとおりの仕上がりにならないと、アマテラスみたいに岩戸に閉じこもって嗚咽をこらえることになります。音源のマスタリングが終わっているのにいまだ心臓にわるい日々がつづいているのは、そのためです。何せ手がけているのが自分自身なので、他の誰より信用ならない。

でも、よかった!いい感じです。気に入った!土に埋まった心配の種のうち、ひとつはこれでぶじ芽が出ました。次の種はブックレットだ!

 *

きのうのできごと(抜粋)

そんなに念を押さなくてもだいじょうぶです、とお巡りさんにそう言うべきだったのかもしれないけれど、目白警察署の3階にあるせまくるしい一室で、たかだか数分の間に同じ短いセリフを5回も6回もくり返したあげく、ここだけの話ですけど…とまるで伏せておきたい事実をやむなく披露するかのように声をひそめたかと思いきや、口をつくのが20秒くらい前に聞いた同じセリフだとさすがにこっちもびっくりするし、かけた眼鏡だってずれ落ちないほうがおかしい。

「なぜかっていうと…」(ひと呼吸置く)「私有地だからです」

7度目だ!

牛の反芻みたいですね。
とも言えず、神妙な顔をしながら頷くほかないわたくしたちは小雨ふる夜に、笑いをこらえながら家路についたのでした。警察の厄介になる夜もある。

それはそれとしてわりと使い勝手のよいこのフレーズが、げんざい我が家では流行語になっています。

「なぜかっていうと…」(ひと呼吸置く)「私有地だからです!」

警察って、へんなところだ。