2026年9月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その492


ろくでなしフルーツさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. イヌの前足の肉球についてです。地面につく肉球はいいんですけれども、少し足首よりにある地面に付かないタイプの小さめの肉球は何の役に立っているのでしょうか?


前脚にある、いわゆる手根球というやつですね。たしかに一見すると何のためにあるのかわからないふしぎな肉球です。

しかしそれを言ったら僕のすね毛なんか本当に、1ミリも、まったく何の役にも立っていません。とくに僕は気づいたらいつもすねに擦り傷があるちょっと不可解な体質なので、すね毛が皮膚を守るでもなくただぼーっと生えているだけであることに憤慨しています。ふさふさ生えているわけでもなく、小人がつかんで登るにはちょっと足りないくらいなので、なおさらです。そんなことなら最初っからすべすべでいいし、だいたい多くの頭頂部で毛髪不足が問題になっているのだから、組織としての管理体制は一体どうなっているのかと批判せずにはいられません。責任者不在をいいことに、すねでそよそよしている場合ではない。

ただ僕らがまだ気づいていないだけで、なんらかの重要な意味がある、もしくは不可欠である可能性もあります。仮にすね毛が頭髪とダイレクトにつながっていたら、不要だからといって抜くわけにはいきません。頭髪も1本なくなるからです。世の中にはそれ自体に意味はないけれど、それがないと他の部分で支障をきたすものもたくさんあります。半角スペースなんかそれ単独では文字どおり虚無ですからね。

あるいは電気グルーヴにおけるピエール瀧です。電気グルーヴを電気グルーヴたらしめているのはまさしくピエール瀧である、と断言してもいいとおもいますが、楽曲の制作において彼が中心的な役割を担っているわけではありません。じっさい、楽曲だけなら石野卓球ひとりでも事足ります。しかしそれで出来上がるのは石野卓球の曲であって、電気グルーヴの曲ではありません。少なくともピエール瀧は歌が上手いとか演奏が上手いというような、ミュージシャンに求められる音楽的スキルの巧拙によってそこにいるわけではない。アイデアやパフォーマンスといった、今となっては大きく寄与するところはあるにせよ、彼に求められているのは最初から、そしてただただ、ピエール瀧であることです。

イヌ(やネコ)の前脚にあって、なくてもよさそうに見える肉球は言ってみれば肉球界のピエール瀧である、と僕は考えます。なくなった途端、着地を担う肉球が精彩を欠くことになるのはまちがいありません。何かが足りないという印象が常につきまとうことにもなるでしょう。すべての肉球が明日も愛されるぷにぷにであるためには、手根球こそがどうあっても必要かつ不可欠なのです。

でなければ、そうですね、ジムニーの背面にくっついてるタイヤみたいなものかもしれません。主要な肉球のひとつがポロッと取れてしまったら速やかに交換できる、要は予備です。


A. ピエール瀧として、もしくは予備です。




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その493につづく!

2026年9月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その491


案ずるより産むがタカシさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 短歌や俳句のTV番組やYoutubeの動画を見ていると怒りが抑えられなくなります。ラップや歌の歌詞を見てもそう思うこともありますが、短歌や俳句は特に顕著です。限られた文字数を無駄に使い、言うべきでないことに無駄な文字数を費やしている句を見ると許せなくなります。そしてそれが他人に誉めそやされていることにも無性に腹がたってしまいます。自分でもどうかしてると思います。自分でも俳句は作りますが、文句を言えるほどのものは作れていないのに、他人の表現を見て怒りの感情が異常なほど湧き出てしまいます。もちろん口からも出てしまい、友達やパートナーに愚痴みたいに言ってしまって、しばらく後に自己嫌悪する日々です。自分がもし、自分が言っているような批判を受けたらきっと平静ではいられなくなります。なのに口にするのをやめられません。最近はSNSやTVから離れるようにして何とか心の平穏を保とうとしています。大吾さんはそうしたことは当然ないとは思いますが、日々心を乱されないために何かした方がいいように思うことがあれば教えてください。


正直なお人柄とそれゆえの懊悩がひしひしと伝わってきます。ご自身でもよくないと痛感しているだけに、これはつらいですね。

僕はというと、うーん、短歌や俳句ではないけれども、うっかり耳にしてしまった歌詞にギョッとすることは大人になってからわりとちょいちょいあります。うっかり口をついて出ることもあった気がするけど、ただ怒りでは全然ないです。どちらかというと冷や汗が流れます。

言葉がどうこうというよりも、たとえば美味しい炒飯を食べたことがない、もしくはそもそも求めていないのに「炒めればいいんでしょ」とてきとうに作ったひと皿を食わされるのにも似た、どちらかというと主に良し悪し以前の戸惑いですね。

ただ歌詞にかぎらず、なんであれ時代とか潮流というものがあるので、そういうもんなのかもな、と今はわりとソフトに受け止めるように努めています。あくまで内心でギョッとしているだけです。僕だって上の世代からギョッとされてる可能性、めちゃめちゃありますからね。

さてその上でいただいたご質問は、言葉との向き合いかた云々ではなく、むしろストレートに心のエラーである、と僕はおもいます。最大のポイントは「怒りが抑えられない」という部分です。短歌や俳句における言葉のあり方は、たまたま怒りのトリガーとして機能したにすぎません。もし言葉よりも料理に重きが置かれていたら、巷にあふれる簡単で美味しい手抜き時短レシピなんかがトリガーになっていた可能性もあります。したがってここでの問題はその対象がなんであれ、なぜ怒りが抑えられないのかです。わかっているのにやめられないところにそのヒントがあるかもしれません。

そもそも、怒りには快楽の側面があるらしいと言われています。古くはアリストテレスがすでに言及していたほどです。そしてべつにその方面の専門家でもなんでもない僕も、経験的にそう感じます。これをもうすこし科学的に解きほぐしてみましょう。

怒りにはドーパミンという、神経伝達物質の放出が伴います。このドーパミンには、放出の原因となった対象への距離を縮める傾向というか、側面があります。直接的に欲するというよりも、たとえば誰かがズルをするのを見て怒りを感じたら、以前よりも他人のズルを感知しやすくなる、ということですね。感知しやすくなれば当然、怒りの頻度も増えることになります。正のフィードバックによる悪循環の完成です。怒るたびに次の怒りを予約している、と言っても過言ではありません。

またこの悪循環は、とりわけ外に向けて発散する(ポストしたり愚痴ったりする)場合に顕著だとされています。なんとなれば一時的にスッキリはするので、以降はそのスッキリを求める回路が強化されてしまうのです。

なのでまさに「離れる」ことこそが最適解です。自覚的に距離を置かないと、過去のドーパミン作用によって無意識に近づいてしまいます。

以上を踏まえて、僕らのぷよぷよした脳みその内側で何が起きているかを、この際みっちり叩きこんでおきましょう。理性の問題というよりは、生物として不可抗力な挙動のひとつであると理解するだけで、きもちがすんげー楽になるし、世界と適切な距離を保つことの大切さが骨身に沁みるはずです。

悪循環に陥っている認識があるならばそれはもう、見るたびに怒るというより、怒るために見るフェーズに入っています。


あとは、そうですね、これはなんというか人生哲学みたいになってしまうんだけど、なるべく物ごとの良い面を抽出するようにふんわり心がけてみてください。誰であれ、そしてなんであれダメな理由を挙げるほうが圧倒的に楽で、長所を具体的に抜き出すのはめちゃめちゃ難しいです。ダメ出しのときはやたらと具体的なのに、褒めるときは良いとか素晴らしいとかヤバいとか、語彙がいきなり激減します。埋もれて見えない長所を拾い上げることのできる人はそれこそ、絶滅が危惧されるほどの希少種です。

言葉を尽くすなら、それこそここにその甲斐がある、と今の僕なんかは自戒をこめておもいます。


A. 脳みその内側で何が起きているかを、みっちり叩きこんでおきましょう。




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その492につづく!

2026年8月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その490


プラダを着た熊さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今までで一番「苦し紛れだったな」と思う言い訳(言い分)はなんですか


その昔、遅刻した理由を教師に問われたとき、問われることを想定しておらず、一瞬考えてから「時差通学です」と答えてものすごく怒られたことがあります。

なぜ問われることを想定していなかったかといえば、その理由がなんであれ遅刻は遅刻であってべつにその事実が撤回されるわけではないからです。じっさい、いま思い返してみてもあのとき彼が怒っていたのは僕の返答に対してであって、遅刻そのものに対してではなかったとおもう。

そんな言い訳が通用するわけないだろうと考えた当時の彼のきもちはわかります。しかしなぜそんなに怒られなくてはいけなかったのかは今もよくわからない。時差通学という返答が逆鱗に触れたとすれば、なぜそんなところに逆鱗があったのだろう?

それでなくとも僕は日ごろ、始業の1時間くらい前には学校にいて、まだ誰も来ていない教室でひとり、「午後の紅茶 FINE ESTATE」という当時大好きだった250ml缶のミルクティーをちびちび飲むのが習慣の愛らしい少年だったのです。

毎朝誰より早く来ていることはたぶんほとんど知られていなかったし、別に知らなくていいんだけど、稀に遅刻をすると目くじらを立てられるとすれば、少なくともそれは僕にとって不条理以外の何物でもありません。

バカな返答をするからだ、と一蹴する大人もいるでしょう。では単純に寝坊だったらどうだろう?それはそれで遅刻になる以上「たるんでるぞ」とかそういう話にならないだろうか?

でも当時の僕は5時半に起床し、駅まで30分くらいかけててくてく歩き、6時半の急行に乗り、いつも始業の1時間前には学校に着いていたのです。その上である日寝坊をしてしまったとしたら、それはたるんでることになるんだろうか?百万歩譲ってたるんでるでもいいけど、人間たるむときもあるわ、アホか、だから何だ、だから何なんだ!とハリセンで頭を引っぱたいてやりたい。

当時の僕が掛け値なくバカだったのは確かです。でも責めを負うほど悪いことをしたとは今もぜんぜん思いません。

このときの経験は、じぶんの視野だけで全体をジャッジする大人にはならないように気をつけよう、という教訓として、今も活きています。ありがたいことです。

これとは別にどう考えても苦しい、にもかかわらず口八丁手八丁で最悪の状況をかろうじてしのいだケースがひとつふたつあるんだけど、どれだけオブラートに包んでも倫理に抵触しそうなので、やめました。ご了承ください。長く生きてるといろいろあります。ほんとに。


A. 遅刻の理由に時差通学と答えたことがあります。




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その491につづく!

2026年8月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その489



俺の屍を越えてユッケさんからの質問です。


Q. 言葉とお餅って似てて柔らかくなるし固くなるし、最悪喉につまらせて死ぬと思うんですが他にも似てる食べ物ってあるのでしょうか。と、日の目を見れずに飲み込んだ文章を掘り返しての質問です。


身につまされます。とりわけ「飲み込んだ文章を掘り返して」の部分は涙なくして読めません。今となってはすっかり忘れ去られた、もしくは初めから誰にも知られていなかった「プルクワパ霊苑https://note.com/kbdg)」は、墓から掘り返されたテキストを改めて弔う場でもあったくらいです。コリコリと書いてるとね、埋葬しては掘り返す、墓場みたいなことがありますよね、ほんとに。

あだしことはさておきつ、言葉に似た食べものに戻りましょう。新鮮かつ刺激的な視点で、考えるのが楽しくなる質問です。

お餅が先にあったからか、真っ先に思い浮かんだのはこんにゃくゼリーです。いろんな色や形があって、ぷるぷるしている上に甘みもあって、ダイエットに良いとされていて、最悪のどに詰まらせて死にます。欧米では販売もしくは流通が全面的に禁止されているそうです。そのへんの危うさとか剣呑っぷりも言葉に似ています。

食べものというにはアレだけど、水なんかもそっくりです。固くなったりやわらかくなったり、熱くなったり冷たくなったり、形があるようでなく、泳いだり潜ったりもできるけれど、最悪溺れて死にます。というか地球上ではそもそも水がないと人であれなんであれ大概みんな死にます。途中まではめちゃめちゃ言葉と似てた気もするので、惜しいですね。

ニラはどうでしょう。野菜と呼ぶには草すぎるあのニラです。ふだんはほとんど意識しないし、大量にあっても手に余るし、何度考えてもやっぱり草なんだけど、ニラレバとかニラそばとか、ある条件下においてはこれなしではいられないほど無類の威力を発揮します。言葉だってそのすべてがクリティカルに刺さるわけではないですからね。神保町にある三幸園のニラそばは最高です。またニラと見た目がそっくりの水仙を誤って食べた場合、ニラとちがって全体が有毒なので、下手をすると死にます。

石川県にはフグの卵巣を糠漬けにした郷土料理があります。1年以上の塩漬けと、さらに1年を糠に漬けることによって解毒され、世界に類を見ない珍味となることが知られていますが、その解毒過程が未だに解明されていないため、昔ながらの製法を守り続けるほかないんだそうです。なので自作すると死にます。言葉もなぜその単語になったのか、なぜその文法になったのか、推測はできても確定できないブラックボックスが厳然とありながら、今となってはそのルールに従うほかないという点で似ていなくもありません。

さくらんぼもいいですね。丸くて、小さくて、双子みたいに連なって頬を赤らめていて、甘くてかわいいのに、最高級品ともなると貴婦人よろしく気品を漂わせるばかりか、種を数百個噛み砕いて食べると大量のシアン化水素が発生して死にます。言葉も基本まるくて小さくてコロコロしてるのに、やるときはビシッと決めるし、場合によっては死に至りますからね。

ドリアンも近いかもしれません。フルーツの王と言われるだけあって、濃厚な甘味を伴う高貴な味わいと、ありえないほど野卑な香りが同居する、言ってみれば世界で最もアンビバレントな果実です。また形状がいわゆるモーニングスターに酷似していてめちゃ硬いので、全力で振り回すとふつうに死人が出ます。清濁併せ呑むという表現がぴったりで、これはまさに言葉そのものと申せましょう。

オーソドックスに、カレーもありです。無限とも言えるバリエーション、どんな素材だろうと聖母のように大らかに包みこんでくれる懐の広さ、子どもから大人まで老若男女を問わず愛されていることなんかも重要な類似点ですが、とりわけぐつぐつ煮込んだり、ひと晩寝かせると味わいが深まるあたりが言葉っぽいですね。ただ、常温で放置するとウェルシュ菌が急速に増殖して、最悪多臓器不全で死にます。

一方で言葉には、めちゃめちゃグロテスクな側面もあります。顕著な例をひとつ挙げると、沼正三の「家畜人ヤプー」は全編にわたってグロテスクとしか言いようがありません。とてもじゃないけど最後まで平静に読み通すことはできない、という人も多いでしょう。今も語り継がれているのはグロテスク以上に隅から隅まで圧倒的な知性が横溢しているからですが、言葉のこうした側面に比肩できる食べものといったら、今のところ「カース・マルツゥ」くらいしか思い浮かびません。世界に類を見ない珍味のひとつです。僕個人の印象で言えば、見た目だけで死にます。食して死に至ったケースはなさそうですが、安全性より危険性のほうが明らかに上です。あと、そうですね、これに関してはググらないほうがいいとおもいます。人生には知らないほうがいいこともある…ということを教えてくれるのもまた、言葉ですよね。

この中でひとつ選ぶとしたら、そうだなあ、うーん、ドリアンかな、ドリアンにします。

食べたことないですけどね。


A. ドリアンです。




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その490につづく!

2026年8月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その488


ケロヨンしんちゃんさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 気持ちを悪くしてしまうかもしれませんが、小林様は、これまで生きてきて、こんな行動をしたら、連続して不幸な目にあったことはありましたか。

私の場合は、中学二年生の時、三学期末のテスト一週間前に、自己啓発の本を読みました。その三十分後に、私は塾へ行く途中で交通事故にあい、病院にいきました。私は、奇跡的に無傷だったものの、家に帰って夕食で食べた牡蠣に、当たってしまい、5日間苦しみ、その間に祖父が亡くなり、祖父の葬式を行いました。その結果、一週間私は勉強ができず、テストで赤点を取りました。


むむ、たしかにわずか1週間足らずで立て続けに起きた出来事としてはちょっとお祓いを考えたくなるくらい、タフな流れですね…。どう考えても「なんで!?!?」としか言いようがない状況です。その後は安寧な日々を送られてますでしょうか。

僕は、そうですねえ、連続して、となると以前ここにも書いたけれど、やっぱりうちにある2台の原付が2週間くらいの間に3回レッカーで運ばれたことなんかが一番わかりやすいかもしれません。

1度目はお店のオープンに向けていよいよ内装工事が始まるまさにその当日、うちの人が原付で派手に事故をぶちかまして救急車で運ばれその晩に緊急手術、そのまま入院を余儀なくされました。この現場で駆けつけた僕がレッカーを呼んでいます。その事故の後、つまりうちの人が入院してわりとすぐに、今度は僕の原付のチェーンが走行中に切れ、どうにもならずにレッカーを呼びました。バイク屋さんでチェーンを交換してもらって、心機一転と思ったその数日後に、今度は僕が事故りました。さいわいケガはほとんどなかった気がしますが、あまりよく覚えていません。相手がベンツだったことと、そういえば警官に何ごとかをねちねち言われたことだけ、なんとなく覚えています。

ここまででだいたい2週間くらいですが、さらにその2週間後、退院して松葉杖で移動していたうちの人が転倒して右手首を骨折、松葉杖での歩行が不可能になったため、一ヶ月ほど車椅子生活になりました。店のオープンが予定より半年ほどずれこんだのはそのためです。ちなみに当時買った軽くてかっこいい車椅子は、今も義実家にあります。

ただ、僕自身はこれを不幸と考えたことがありません。呪われてるなあとはおもったし、実際不幸といえば不幸だし、この時期が難儀だったのは確かなんだけど、なんだろ、不幸とラベリングした箱に仕分けたりはしていない、と言えば伝わるだろうか?というのも、人生にはとかくいろんなことがあって、良きにつけ悪しきにつけ、すべてがその後の日々につながっているからです。宝くじに当たる人もいれば、雷に打たれて落命する人もいます。

良くないことはどうあれ起きないにこしたことはないけれど、それをコントロールすることは誰にもできません。誰かに降りかかった災難は、いつだってじぶんに降りかかる可能性があります。「じぶん以外の誰かの話」ではまったくない。

何ごともない日々はそれだけで幸福であることを、僕らは忘れがちです。改めてそれを、肝に銘じましょう。この回答がぶじ投稿されるかどうかさえ、これを書いている時点の僕には断言できないのだから。

あと、僕は日ごろから姓で呼ばれることがほとんどないので、今後は気楽にダイゴと呼んでくださいね。


A. 2週間くらいの間に3回レッカーを呼んだことがあります。




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その489につづく!


2026年8月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その487


やどかりコーンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 東京に住むか、実家に残るか、はたまた見知らぬ土地に挑戦するか。多くの20代がぶち当たる壁に今ずっと悩み、立ち尽くしています。どの選択も、決めてしまえばなるようになるのは分かっているのですが、やりたいことも特にないためいまいち決め手に欠けています。人によって答えが異なるのは承知ですが、なにかいい決め方や指針はご存じでしょうか。


ふむふむ。僕自身はまったくぶち当たらなかった壁なので(実家に残る選択肢はなかったです)、ぜんぜん参考にならないかもしれませんが、ひとまず状況を整理してみましょう。

3つの選択肢が等価で並んでいるように見えますが、実際のところこれは、家を出るべきだろうか?という自問です。というのも、もし何も考えず、何も決断しなかった場合、自動的に実家に残ることになるからです。

そして現状、実家にいることにはとくに不都合がない、と判断できます。もし不都合があるのなら、それでも残るべき理由のほうが問題になるはずですからね。

一方で、ずーっと実家にいたい!と強く思っているわけではなさそうです。もしそうならそもそも悩む必要がないし、少なくとも家を出ることに興味を抱いているのはまちがいありません。

その上で、「見知らぬ土地に挑戦する」という3つ目の選択肢が、話をややこしくしてしまっています。東京かそれ以外の土地か、という問いは本来、家を出ると決めたあとの話です。

これを「今日の晩ごはん」に置き換えてみましょう。

1. 自炊する
2. 近所の町中華で食う

この2択はシンプルです。ですよね?

ではここに3つ目の選択肢を加えます。

1. 自炊する
2. 近所の町中華で食う
3. 初めての店に挑戦する

急にちょっとわからなくなってきませんか?

何しろまだ外出していないのに、する場合に生じる無数の分岐まで検討に含まれています。いきなりめんどくさくなる所以です。

要は「出るか出ないか」「どこに行くか」という異なる問題を同一のレイヤーに統合してしまっているわけですね。

なのでまずは試しに問題を「出るか出ないか」の2択に絞ってみましょう。

ものすごくシンプルなはずですが、仮に選択肢が3つあるときと同じくらい悩むとすれば、そこにおそらく最大の問題があります。

決めあぐねているのは本当に決め手に欠けるからだろうか?

最適解を求めると、日々はとたんに膠着します。選択時に確定している最適解などありません。それを踏まえていれば、ぶっちゃけサイコロを転がして決めてもいいのです。すっきりしなかったらどのみちまた考えることになるし、サイコロではダメだったことをイヤでも思い知らされます。ではなぜサイコロではダメなのか?

これはたぶん、ご自身の心を知る旅の途中でもあるのです。


A. 問題を適切なレイヤーに分けてみましょう。




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その488につづく!

2026年7月31日金曜日

アグローと夜(Agloe and Night) 2026のお知らせ



いうわけでほぼ1年ぶりに帰ってまいります。アグロー案内シリーズの実演版、「アグローと夜(Agloe and Night)2026」のお知らせです。

何に驚いたと言って、こんなに告知が早くていいのかしらとハラハラしながら去年の告知を見たらそっくりそのまま同じことを同じようにハラハラしながら書いていたことです。それどころかよく読み返すと一昨年の告知も同じタイミングだったと書かれています。そして当の僕はそのことを、本当にまったく覚えていないのです。

「それ前にも聞いたよ」と折にふれては言われるお年ごろではあるけれど、それにしては昔からずっとこんな調子だった気もするし、そもそもがいくらなんでも学習しなさすぎじゃなかろうかと不安になってきます。

しかしまあ不安になったところで急激に記憶力が改善するわけでなし、ともあれまた開催の運びとなったことを素直に寿ぎたい。

そして同時に当日はすごく盛況で楽しかったこと、とりわけとてもおいしいせんべいの提供(!)で大騒ぎの記憶がありありと蘇るなどして、じわじわと実感が湧きつつあります。

ご予約の受付開始は来週、8月7日(金)正午です。(先着順、予定数で完売となります)

小規模とはいえ、それでも身の丈に合わないことは重々承知しております。またさすがに今年はひざーるくんもいないと思いますが、どうかどうか、万障お繰り合わせの上、お越しくださいませ…!


「アグローと夜 2026」
11/6金 @恵比寿TimeOut Café & Diner

出演:タケウチカズタケ、小林大吾

Open 17:30 Start 18:30 End 21:00
Ticket ¥3,900(入場時に1drink ¥600)

注:お取り扱いはLive Pocketのみです。

TimeOut Café & Diner
東京都渋谷区東3丁目16−6 リキッドルーム 2F

今年もやってきました「アグローと夜」恵比寿TimeOut Café & Dinerにて開催決定!詩人/ポエトリーリーディング・アーティスト/グラフィック・デザイナーである小林大吾とキーボーディスト・音楽プロデューサーのタケウチカズタケが言葉と音楽の可能性を広げ続けている作品「アグロー案内」シリーズ。その実演ライブ&トークイベント「アグローと夜」年に一度っきりのレアなイベント、お見逃しないように!
 

2026年7月24日金曜日

アグロー案内 VOL.11解説「惑星/searching for Irene」②


アグロー案内を始めてから薄々感じていたことではあるのだけれど、去年あたりからはっきりと、大袈裟でもなんでもなく、声には魔力があると確信しつつあるのです。

単に力というのではちょっと足りません。ある種の強制性が伴うという意味で、魔力です。

魅力的な声、というのともちょっと違います。どんな声であれ、ある局面、ある状況、ある環境において100%の本領を発揮した上で言葉を発するとき、そこには何らかの特異な場が生じる、みたいなことです。耳を奪われるというのは、文字どおり奪われているんだとおもう。

言霊ってたぶんそういうことなんだろうけど、もっとこう俗っぽく置き換えると、たとえばお巡りさんが逃げる泥棒に「動くな」と叫ぶとき、蚊に刺されたくらいにしか効かない場合と、本当に硬直して動けなくなってしまう場合があるんじゃないのか、という気さえします。

そしてふと思うのです。僕は本当に相手の自由を奪うほどの「動くな」を放てるだろうか?

もちろんできません。できないけれども、ただこれは本質的には、声をきちんと使えているだろうか?という問いにもつながっています。これまでも無自覚に発動していた可能性はかなりあるにせよ、意識的に用いてはいなかった、というのがその答えです。どの状態の声が100%なのか、ほとんど何もわかっていなかった、と項垂れるほかありません。

僕のリーディングは通常の朗読と比べて必要以上に面倒なブレスコントロールを要するアクロバティックなところがあるので、うっかりすると声それ自体にピントが合わせづらくなりがちです。

声にピントを合わせるなら、なるべく余計な技巧を織りこまず、ストレートな朗読に近い形が望ましい。とにかくまずは何かを書いてみよう、と思っていたら書く前に送られてきたのが、このビートです。まるで先の意図を踏まえたかのようにこれ以上ないほどうってつけで、びっくりしたことを覚えています。これがいかにリーディングとぴったり噛み合っているか、ここで強調するまでもないでしょう。

こうなるとタイミング的には今しかありません。書くだけ書き、最低限のリズムをキープしつつひたすら声に集中して読み、録るだけ録ってカズタケさんに託し、最終的な構成もお任せしています。僕としては新鮮な野菜にあまり手を加えず、そのまま生で味わってもらうようなイメージです。そして実際、そのとおりになっているとおもう。カズタケさんにはここに書いたようなことを、何ひとつ伝えていません。だからこそ感慨深いのです。ミックスにしても、「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」とはぜんっぜんちがいますからね。

前回書いたように、テキストはテキストで思いのほか味があると喧伝はしましたけれども、2周目以降は深く考えずにただただ身を委ねるような、たとえば就寝前に聴きながら自然と寝入ってしまうような、魔力とは言わないにしても、ただただ耳に心地よい作品になっていたらいいな、とおもいます。

どうかなー……!!


2026年7月17日金曜日

アグロー案内 VOL.11解説「惑星/searching for Irene」①


さて、「惑星」です。

制作に至る経緯もあるので2回に分けて、まずは内容にふれておきましょう。

大きなギミックがポンと置かれているので、どうしたってそこにピントが合ってしまうと思いますが、僕自身が手応えを感じている、つくってよかったと感じるおもしろさは、むしろその奥にあります。

最大のポイントは、書いた僕自身でさえ思い描いた情景が強制的にキャンセルされてしまう点です。

シンプルに考えれば、そこには僕らと同じ日常が投影されている、という受け止め方になるでしょう。そしてそれは実際に正しい。問題はそうではない可能性があまりにも多すぎることにあります。

語り手が最初に思い浮かべた「空」は、僕らの知る空と同じだろうか?掬い上げる「砂」は僕らが思い浮かべる砂だろうか?彼の言う「チョコレート」はカカオから作られた茶色くて甘いあの菓子なんだろうか?要はそこに並ぶありふれた言葉すべてが、実はぜんぜん別の何かを指しているかもしれない、ということです。そういう厳然たる可能性がここにはあります。

そう指摘されてもなお、思い浮かべるイメージは全面的に切り替わったりはしないはずです。やっぱり馴染みのある情景を思い浮かべるとおもう。僕もそうです。でもそれは考えうる可能性のうち、一番手前にあって最もつかみやすい世界のひとつにすぎません。

100歩譲って、僕らとほぼ同じ日常が投影されている前提で映像化したとしましょう。それでもいちばん目立つギミック自体は支障なく機能します(←ここが重要)。一方でそれは、ある点で瞬時に増殖した無数の可能性を、たったひとつに確定してしまうことになります。解釈以前に、まず前提が曖昧すぎるわけですね。

ひょっとしたらそうはならないアプローチもあるのかもしれないけど、現時点ではぜんぜんわからないし、わからないことに意義がある。言ってみればこれは、想像するしかないからこそ成り立つ物語でもあるのです。そもそも語り手がヒトどころか生物ですらない可能性すら、めちゃめちゃありますからね。

書き終えてから気づいたことではあるけれど、確定しえない情景(ある状態とそうではない状態が重なり合っている)というシュレーディンガーの猫みたいな問い、そうとわかっていてもなお最初に思い浮かべた情景を拭うことができないパラドックスやその強制性にたぶん、この一編の骨頂があります。

テキスト自体に読ませるだけの力がある、とは僕自身あまり思っていません。読んでみようかな、とおもわせるほどのフックはどこにもないし、むしろいつにも増して軽く聴き流せるよう努めたところもあるくらいです。イヤでも身を委ねてしまうタケウチカズタケの美しいビート、特に変わったことは何も言っていないように感じられる僕のリーディング、何よりテキストと異なり自動で進行する「楽曲」というフォーマット、それらすべてがある種の罠であり、であるからこそ最大の効果を発揮する、とぶじにリリースを終えてひと息ついた僕はおもいます。

何かをつくるとき、どうあれ僕はこのスタイルでしかできないことを強く意識するところがあるけれど、前回の「九番目の王子と怪力の姫君」と同様に、これもまたそんな作品のひとつです。

2026年7月10日金曜日

アグロー案内 VOL.11解説「手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」


とまあそんなわけで、アグロー案内 Vol.11 がぶじ配信と相成りました。

いつもならまず新作についてあれこれ語り散らすところです。しかし今回にかぎってはやはり「手漕ぎボート」のリメイクから触れなくてはなりますまい。


お聴きいただければおわかりのように、今回のリメイクにはオリジナルになかった女性がフィーチャーされています。曲タイトルには付記されていませんが、アグロー案内としても初めての、なんなら最初で最後かもしれない、たいへん貴重なゲストです。

古くからお付き合いいただいている向きには一聴してお気づきかもしれません。

手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」に力添えいただいたのは、ポエトリーと音楽、という組み合わせでは今も昔も比肩できる人が大袈裟でもなんでもなくまじでひとりもいない、唯一無二の声とスキルを併せ持つ文字どおり空前絶後のアーティスト、totoさん(@totonote)です。

そういえばつい先日の投稿でもすこし触れましたけれども、改めてご紹介しておきましょう。

詠むことを音楽にするという意味で、僕とtotoさんはその昔、完全に同じタイミングで始めた盟友です。僕は単独で、totoさんはタケウチカズタケをリーダーとするバンド(!)で、という違いはあるものの、交流は今に至るまでずっと、途切れることなく続いています。

音源で交わったのはたぶん僕の1枚目のアルバム「1/8,000,000」に収録された「砂金/gold dust」と「おとづれ/a letter to him」が最初です。どっちが先だったかはすっかり忘れてしまったけれど、とりわけ「おとづれ/a letter to him」は僕の組んだビートにtotoさんがリーディングを乗せた(=じぶんのアルバムなのに僕はビートだけでリーディングしていない)一編で、考えてみたらそんな作品はいまだにこれしかありません。

その次がたぶん、totoさんのソロアルバム「◯と◯」に収録された「雲の上のお話」という作品で、これは僕が珍しく(ほんとに珍しい)ゲストとして参加しています。これが2011年です。なのでちょいちょい会ってはごはんを一緒に食べたりなどしてはいるものの、音源での共演はかれこれ15年ぶり、ということになります。

totoさんは現在、Cut SUIKAというユニットで僕なんかよりもはるかに精力的に活動しているので、この声に胸を射抜かれたみなさまはぜひチェックしてみてください。実際、今回のリメイクでは、最後の最後にぜんぶもってかれるくらいの威力があります。

totoさん、ほんとにありがとう!!!


手漕ぎボート 2026/helmsman says carefully」について、改めて付け加えることは何もありません。ただ御大タケウチカズタケ曰くミックスがめちゃムズだったそうなので、オリジナルとは比較にならない超絶技巧が施された一編に仕上がっていることだけは確かです。僕はリーディングに集中すればいいだけだったので、そのせいか初めて、おれ良い曲つくってたんだなとしみじみ思いました。もしシェアしてくれることがあるなら、オリジナルよりも圧倒的に完成度が高いこちらをチョイスしてください。ひらにひらに。


2026年7月3日金曜日

リリースを目前に控えてふと思い出すよしなしごと


アグロー案内シリーズの新作をいよいよ来週に迎える金曜ですが(発表が先週だったのでいよいよというほどでもない)、リリースとなると今でもふと、2枚目のアルバムである「詩人の刻印」リリースライブのことを思い出すことがあるのです。

1枚目から3年くらい経ってのアルバムで、別にメジャーでもなんでもないから、当時は本当にひっそりとしたリリースです。もちろんレーベルとしては考えうるかぎりの告知をしてくれていたけれど、今とちがってSNSもありません。リリースされること自体の情報としてはともかく、考えうるかぎり最小限の規模で行われるささやかなリリースライブの情報をどうすれば取得できたのかさっぱりわからない。仮にタイミングよく情報を手に入れたとして、行くかとなったらそれはまた別の話です。だいたい、詩人の刻印リリースに先がけてこのブログを開設したはずなのに、さっき20年ぶりくらいに確認したらどこにもリリースライブの告知がない。いったい何のために開設したんだとわれながら驚かずにはいられません。

総じて、来てくれる人は本当にいるんだろうか…と何もしてないくせに身勝手な不安を抱いていたことを今でもよく覚えています。百歩譲ってめちゃめちゃ行きたいと思ってくれる人がいたとしても、その情報に触れる確率がSNSやこのブログの存在がちょっぴり認知されていなくもない今よりも圧倒的に低かったのです。

案に相違して、リリースライブは思いのほかたくさんの人が来てくれました。といっても40人くらいの規模だけれど、そもそも着席できるのが30人以下のスペースなので、むしろ限度ギリギリだったわけですね。

もちろん、近しい人が友人を誘ってくれたりもしていたはずだし、なにぶん古い話なので僕自身の記憶が都合よく改ざんされている可能性もあります。でもそうとばかりも言えない印象は、たしかにありました。今もつづく毎年恒例の年賀状キャンペーンは、この夜の感謝から始まったくらいです。

最終的にこの「詩人の刻印」は最も多くプレスを重ねたアルバムになりました。プレスのたびにデザインを全面的に改訂しまくったので、パッケージも5種類くらいあることになります。レーベルにも、僕の手元にも、たぶん全種類はないとおもう。

いうまでもなく、あのころとは何もかもちがいます。最初から低すぎた活動頻度にしたって、さらに比べものにならないほど低い。でも活動しないと決めたことはないし、今も新たに出会ってくれる人がいて、リリースとなれば限られたごく少数でも、楽しみにしてくれる人がいる。そう確信できているのは、あの夜があったからこそです。

アグロー案内に、かつてのもどかしさは1ミリもありません。10年後に聴いて、できればこうしたかったと悔やむこともないでしょう。御大、と僕からしたらそう呼ぶほかないタケウチカズタケのおかげで、現時点で到達できる最高水準が更新され続けています。

Vol.11を最後にうっかり落命しても、悔いは何ひとつありません。楽しんでもらえますように!

2026年6月26日金曜日

アグロー案内 VOL.11 リリースのお知らせ


さて、アグロー案内にまた、甘い果実が生りました。VOL.11です。

リリースは2週間後、7月10日(金)0:00になります。

いつもであればどうにかして情報を小出しにしながらリリースまでの間を持たせようと不毛な苦心を重ねるところですが、実際のところその甲斐があるかといったら別にないことをさすがにもう学んだ気もするので、出し惜しみせずにトラックリストも公開しておきましょう。そもそもリストといったって3曲しかないのです。


恒例のリメイクは「手漕ぎボート」です。僕自身、夢にも思わなかった、カズタケさんのアイデアによるちょっとしたサプライズがあり、たいへんリッチな仕上がりになっております。リーディングにしても当時はいっぱいいっぱいで気に留める余裕もなかった細部に気を配れて感無量です。

恒例の山本和男シリーズは、原作者であるタケウチカズタケのホットな原稿を、僕が大胆にアレンジしています。あ、おれこんな声出るんだ……とじぶんで感心しながらレコーディングした声も含まれているので、それも合わせて楽しんでもらえたらうれしいです。

聴く分にはほとんど感じないことかもしれないけれど、今作の個人的なテーマはです。去年あたりから声について考える機会がたまたま重なったこともあって、改めて、というかたぶん初めて、意識的に声と向き合っています。アプローチではなく、むしろ基礎となる土台の部分ですね。

詩の内容やリーディングのステップ(ラップで言うフロウ)とは別に、声の味わいとその比重を高めてみたいな、とぼんやり考えていたら、新作のビートがまさにうってつけだったので、ここぞとばかりに取り組んでいます。

奇をてらったことは特にしていない、でも気づいたらまた再生してしまう、そういう声の磁力とか魔力があるならせめてその一端を見てみたいと試みた、その最初が今回の新作です。

その意図が功を奏しているかどうかはさておき、結果として詩の内容とビートの相性が過去イチと言えるマッチングになっているのはまちがいありません。僕らもお互いに自画自賛しまくりです。

そしてこれは言うまでもないことですが、アグロー案内は日々研鑽を重ねてとどまるところを知らないタケウチカズタケの進化を曲単位で定点観測できる稀有なプロジェクトでもあります。これまでの作品と併せて聴けば聴くほど味わいが変わると言っても過言ではありません。今回も自信を持ってお届けする、糖度高めのジューシーな果実です。どうぞご賞味あそばせ!

2026年6月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その486


チャン原トリ夫さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今年の1月に、ハンブレッダーズが『着陸』というポエトリーリーディング調の楽曲を発表しました。この曲はバンドサウンドを基調としていますが、大吾さんやtotoさんのように、ヒップホップやサンプリングをルーツに持つアーティストとは、リズムの取り方や歌詞の配置にどのような違いがあるのでしょうか。


これはすこし説明しなくてはなりますまい。totoさんというのは僕とほぼ同時期にポエトリーリーディングを始めたレーベルメイトで、もちろん今もバリバリと活動している、僕なんかよりもはるかに吟遊詩人と呼べるし実際にそういう生き方をしている、文字通り無二のアーティストです。

そしてもうひとつ大事なことを補足すると、totoさんはヒップホップやサンプリングをルーツに持つ人では全然ありません。全然というのはほぼとかそういうレベルではなくて、完全にゼロです。言葉のありようとしての日本語ラップには敬意や憧れ、愛情を山ほど抱いているはずだけれど、ヒップホップであるかどうかは今も昔もあまり気にしていないんじゃないかとおもう。実際のところ、当時たまたま足を踏み入れたフィールドにラッパーがたくさんいたことから、自然とこう、ヒップホップ濃度が高く見えるようになっていったわけですね。下戸だったのに飲み会に付き合ってたら前よりちょっとだけ呑めるようになった、みたいなことだとおもいます。ほんとに。

なので逆に、totoさんとリズムの関係性はめちゃめちゃ興味深いものがあります。というのも、昔は体の外にあったリズムが、今は彼女の内にもある印象だからです。彼女が音楽に寄り添うこともできるし、音楽が彼女に寄り添うこともできる、その双方向性がすごい。これはもう、巡り合わせによる特殊な環境が育んだ結果でもあるので、真似したくてもできません。このあたりは僕もいちどゆっくり話を聞いてみたいですね。

ハンブレッダーズの「着陸」は僕からすると、音楽とスポークンワーズの正統な系譜に置かれる楽曲です。ポエトリーリーディングにしても昔はこのタイプのほうがずっと多かったとおもう。

というのも、言葉にとって音楽はまず情感のアンプ(増幅器)としての意味合いが大きいからです。言葉を朗読やシャウト、スポークンワーズの形で音楽に乗せようとすれば当然、情感が優先されます。リズムはその後です。すくなくとも朗読が先にあってそれを音楽に乗せる場合、リズムやBPMは絶対条件ではない。

だから違いがあるとすればたぶん、リズムの取り方や詞の配置以前に、BPMを前提としているかどうかですね。そしておそらく、音楽とリーディングという組み合わせにおいて「つんのめるギリギリまでガマンしたい」とか情感とはぜんぜん別のことを考えてるのは、僕以外にあんまりいないとおもいます。


A. アプローチというより、前提に最大の違いがありそうです。




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その487につづく!

2026年6月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その485



ピーチジョン万次郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私も随分、長く生きてるなぁと感じた事があったら教えてください!


「年をとった」ではなく「長く生きてる」というのがいいですね。同じっちゃ同じだけど、前者は心身の衰えとか世代間ギャップみたいなことが主体になるのに対して、後者では積み重ねた年月をしみじみ実感していて、印象がずいぶん違います。昔話でキャッキャできるのはほんと、中年以降だけですからね。

そういう視点で考えると真っ先に思い浮かぶのは、今や両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らしている年月のほうが断然長いことです。気づいたときにはとっくに追い越していて、びっくりした記憶があります。もっと言うと、ビートに乗せてリーディングをする活動期間のほうがすでに長い。何しろ1枚目のアルバムをリリースしたのが22年前です。長いな。

生まれてから実家を出るまでの日々が18年くらいで、仮にそれをひとつのサイクルとすると、今は3周目の半ばです。とりわけ最初の18年は吐き気がするほど長かった印象がつよいので、それを2周も3周も繰り返しているとなると、いいかげんうんざりしてくるレベルの長さになります。もう一度誕生からやり直すのは本当にご免こうむりたい。あの体感時間はいったいなんだったんだろうとつくづく思います。人生の後半を下り坂と表現したりするけれど、長い年月をかけてひたすら登ってきたとんでもなく長い坂をこれからはチャリで漕がずに下れるなら、むしろ爽快で最高じゃないですか?

(風を全身で浴びながら颯爽と駆け下りるイメージ)

月日の重みは、いやでも年々軽くなっていきます。今日も気づいたら夜です。そして今のこの日々は、100%庇護下にあったかつての甘やかな時期と違って、ぜんぜん当たり前ではありません。山中とか廃屋とかでのたれ死んで白骨化してもなお気づかれない結末を迎える可能性はいつでも、そして歴然とあります。そういう懸念を昔から抱き続けているので、なんならその覚悟もちょっとできているくらいです。

だからこそこの先は1日1日をじっくりと味わうように噛み締めていかないといかんなあ、といただいた質問で思いを新たにすること自体、そこそこ長く生きてる証なのかもしれないですね。


A. 気づいたら両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らす年月のほうがぜんぜん長くてびっくりしました。




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その486につづく!

 

2026年6月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その484


おっちょこチョリソーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 言葉の魂の重さは、全て約21gですか?ダンカン・マクドゥーガルは、魂の重さは約21gと提唱しました。「言葉には魂が宿る」という言葉があるので、私は、言葉の魂の重さは約21gだと思いました。


言葉に魂が宿るというのはたぶん、いわゆる言霊のことですね。いい発想です。

魂=21g」は僕もその昔、知ったときはかなり胸アツだった記憶があります。とりわけ「(実体がない)魂の重さを測ろう」というむちゃな発想が白眉です。実験が失敗だったとしても魂の存在が否定されないのもいいし、対象そのものを観測するのではなく別の現象から推定するという科学的なアプローチには今でも妙な説得力を感じます。暗黒物質(ダークマター)とかブラックホールなんかもそうですからね。

ただ実験から120年後を生きる今の僕としては、21gはいくらなんでもちょっと重すぎるな、という印象です。何しろ21gといったら大さじ1と1/3であり、小皿に垂らす刺身醤油とか餃子のタレくらいの量があります。じぶんの魂で餃子がひと皿おいしく食べられるなら人生もそんなに悪いもんじゃないと思いますが、ロマンチストとリアリストが常に同居してときどき取っ組み合いの喧嘩を繰り広げるアンビバレントな僕の結論としては、もう少し軽くなりそうです。その重さについてはまたあとでふれましょう。

そして肝心の言霊です。言葉は使用者が意図するよりもはるかに大きな力を持つ、というのは僕もつねづね実感しています。言葉はそれ自体がある種の呪力を纏っていると言ってもいいし、その呪力の核を魂と呼べるかもしれません。

その上で、言霊という漢字を見てみてください。同じたまだし、同じ強力な精神性を帯びた非実体だけれども、「魂」ではなく「霊」です。大雑把に分けると、内包する個体に影響を及ぼすのが魂、不特定多数に影響を及ぼすのが霊、ということになります。閉鎖と開放の違いでしかないとも言えるので、漢字が入ってくるよりもずっと昔、和語としての「たま」では区別されていなかったのかもしれません。

先の例で言えば、対象に届いた時点で発動する呪力が「霊」、その呪力の源となる核が「魂」です。霊魂という言葉があるくらい、どちらも根っこは同じですが、その重さが問題になるとすれば後者になるわけですね。なぜ言魂ではなく言霊なのか、その理由もここらへんにあると僕は考えます。

では、なんとなく曖昧だった部分をスッキリ区別できたところで、その重さを考えてみましょう。

小皿に注いだ餃子のタレほど重いはずがないとはいえ、魂が単に生物としての実体がないだけであることを踏まえると、長年にわたる思考と経験のすべてが保存された情報量は相当なものです。裏を返せば、その膨大な情報をどこまで圧縮できるのか、ということでもあります。

そこで参考になりそうなのが、染色体です。染色体1セット(30億塩基対)には生物を形づくる上で必要な基本情報の大部分が詰めこまれています。そればかりかデジタルデータに換算すると多くとも3GBくらいしかないそうなので、その密度と効率性といったらまさに圧倒的です。なので魂の情報量もだいたいそれくらいであると考えたとしても、あながちむちゃな比較でもない、という印象があります。

染色体1セットの重量は、およそ3.1ピコグラム(3.1gの1兆分の1)です。だとすれば魂の重さもまた、3.1ピコグラムくらいである、と個人的には考えます。

一方、言葉に魂があるとすれば、その情報量はヒトの一生ほどではありません。また「首都圏連続強盗殺人事件広域重要指定事件合同捜査本部」と「バナナ」という言葉の魂が同じ重さと言われてもいまいちピンとこないので、染色体よりもむしろ分子の重さのほうが類例としてしっくりきます。分子もいろいろありますからね。なのでここでは最小の分子である水素を参考に、0.00000000000335ピコグラムとしておきましょう。染色体の重さの9260億分の1です。言葉におけるいちばん小さな魂の重さとしてはこれくらいでいいんじゃないかとおもう。

ちなみにざっくりした視点で考えると、車のタイヤなんかも単一分子です。世界最大のタイヤは直径4メートル、重さが5トン以上あります。作ったのは日本を代表するばかりか世界トップクラスのタイヤメーカー、ブリヂストンです。すごいぜ。

言葉の魂の重さが場合によっては5トンを超えるというのはさすがに逸脱しすぎな気もしますが、しかし夢があります。そしてどうあれ僕はいつでも夢があるほうを選びます。5トンの言葉、味わってみたいですね。


A. 言葉の魂の重さは同一ではなく、その最小は0.00000000000335ピコグラムである、というのが僕の見解です。




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その485につづく!

 

2026年5月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その483


ルイ・アームストロングゼロさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「生命科学的思考」という本を少し前に読みました。その中で生物の死について書かれており、端的に言うと、死は環境に適応した新バージョンに入れ替わる為とのことです。そこで質問です。今の我々はバージョンいくつくらいで、前の個体からどんな機能が追加されていると思いますか?


死を個体のアップデートとして考える、という視点はユニークですね。これはひょっとすると、「世代交代による適応」を大胆かつカジュアルに言い換えた、ということなのかもしれません。

世代交代による適応とは、その時々の環境に対応できる個体の集まりが結果として残る(自然選択)、という考え方のことです。

進化というとその言葉から何か新たな機能を獲得したような印象を受けますが、必ずしもそうとは言えません。

たとえば特定の害虫Aを寄せつけない穀物を開発したとしましょう。今まで食べられていた穀物が食べられなくなるので、一見するとこの害虫Aは食いっぱぐれてそのまま絶滅の一途を辿りそうですが、実際にはそう簡単にいきません。というのも、「気にせずおいしく食べてしまう個体」が存在する可能性が常にあるからです。そしてこの場合、当然の帰結として気にせずおいしく食べられる個体の子孫が増えていくことになります。食べられない個体はみんないなくなりますからね。何度も何度も世代交代を繰り返したその先は、害虫Aにおけるすべての個体が気にせずおいしく食べることになるでしょう。害虫対策は振り出しに戻ります。いたちごっこと言われる所以です。

ここで注意したいのは、適応のきっかけとみなせる先の個体が、「生き延びるために新たな能力や特性を獲得したわけではない」という点です。むしろたまたまその特性を持っていたにすぎません。遺伝子は個体ごとに常に変異(エラー)と修復を繰り返しているので、知らないうちにある個体だけがなんだかよくわからない特性を獲得していたりする可能性があります。そしてそのなんだかよくわからない特性がたまたま環境の急激な変化に対応可能だったとき、初めてその威力を発揮することになるわけですね。

遺伝子の些細な変異も数打ちゃ当たります。そして当たればそれが適応とみなされるのです。ランダムかつ日常的な遺伝子のエラーそれ自体が、じつは生物としての高度な生存戦略のひとつなんじゃないかとおもう。

個体の変異ばかりか、交配によるシャッフルも加わったとき、遺伝子にどれだけ多様なパターンが生じるか、想像してみてください。数えきれないパターンがあれば何が起きてもさすがにどれかは生き残るだろうと思いませんか?

以上を踏まえると、適応かどうか現時点では誰にもわからないけれども、結果的にのちのち有効となりうる新たな機能が知らずに追加されている可能性はたしかにあります。

バージョンは、そうですね、うーん、1.0が二足歩行だとすると、火の獲得、言語の獲得、分解能力が他の生物と比べて著しく高い特異な点からしてアルコールの獲得、産業革命(労力の圧倒的なアウトソーシング)、デジタルで6、たぶんシンギュラリティで7になりそうだから、現時点のAI(思考のアウトソーシング)で6.5くらいかなあ…。1万年くらい前からはもう、言うほど変わっていない気もするんですよね。むしろ削られた機能のほうが多そうな印象あります。

直近のマイナーアップデートで改善された機能としては、冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでの所作ですね。以前に比べて、より滑らかでエレガントになっているとおもいます。


A. バージョンは6.5、追加された機能は冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでのエレガントな所作です。




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その484につづく!


2026年5月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その482

途中まで塗って力尽きたらしい

このマリリン紋所が目に入らぬかさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私はユニコーンは実在すると思っていたりいなかったりしますが、”実在する”と自分が思う「現実」とChatGPTがいう「現実」ってちがうのかなと感じることがあります。だとすると『現実』ってなんでしょう。


ふむふむ。そうですね、現実に対する認識がじぶんとAIとで異なるとすれば、それはシンプルに主観と客観の違いです。客観的な現実というのは言ってみれば多数決で決まるような話なので、他者の同意が希少なものごとについてはまず現実とみなされません。かつては地動説もそうだったことを思い出してください。したがって一般的には、現時点で他者が事実と認定できるものごとの総称、ということになります。

ただしここで重要なのはそれが、主観的な事実を否定するものではまったくない、という点です。100億人に否定されたらそれは「ない」ことになるのかといったら、なりません。それはあくまで客観的に認定できないというだけの話です。

たとえば僕は10代のころ、実家にひとりでいるときに、タタタタッと階段を駆けあがる幼児(3歳くらい)の足音をはっきりと聞いたことがあります。当時のわが家には3歳児どころか12歳児すら存在しなかったので、あんまりびっくりして父親のゴルフクラブを持って確認しにいったくらいです。そしてまあ、そりゃそうかという気もするけど、おそるおそる2階に上がっても誰もいないし、何もありませんでした。

これを客観的な現実の俎上に乗せたら、現実ではなく勘違いと判断されるでしょう。そりゃそうだよな、と僕もおもう。でも僕にとっては今でもよく覚えている、100%現実の話です。それを客観的に認定してもらう必要がいったいどこにあるだろう?

つい最近のニュースだけれど、ものすごく興味深い話があります。


3週間にわたって昏睡状態だった19歳の女性が目を覚ましたとき、彼女は「三つ子を妊娠・出産して7年育てた26歳」という認識だったそうです。その7年間をあまりにも鮮明に記憶していたので、今もじぶんがまだ19歳のままであることを受け入れられずにいると言います。

これを客観的・医学的な現実としてみた場合、せん妄ということになります。それ以外に合理的な解釈ができないからです。実際、家族からしたら病院のベッドに3週間眠りつづけていたのを毎日見ていたわけですからね。彼女の記憶は現実ではない、と断じるほかありません。

でも、本当にそうだろうか?彼女が意識を失っていたのは、その意識がべつの世界にシフトしてべつの人生を歩んでいたから、という可能性はないのか?

常識的な人なら、明確にないと断言するでしょう。当然と言えば当然だし、僕もそれは心の底から理解できる。

ところがここに、ちょっとした落とし穴があります。というのも、科学者であれ誰であれ、彼女の意識が昏睡中べつの世界にシフトしなかったと立証することは絶対にできない(=悪魔の証明になる)からです。少なくともその可能性をゼロと結論づけることは誰にもできない。そしてこれは科学的思考を常とする人ですら忘れがちですが、どんな可能性であれゼロと断じるならそれは科学的思考ではない。

少なくとも彼女にとって、三つ子を産んで7年過ごしたことは現実です。それでいて科学的に100%否定できるわけではない以上、客観的な事実である可能性すらあります。もちろん、そうに違いない、と結論づけたいわけではありません。ある種のバグとして処理するほうが誰だって受け止めやすい。一方で、彼女が実際にべつの世界で7年過ごしていたとして、僕らがそれを素直に受け止めてはいけない理由があるのかと言ったら、全然ないのです。僕が次に目覚めたとき、「君が音楽的な活動をしていたことは一度もないし、結婚もしていない」と家族とか医者に言われたら、やっぱり受け入れられないとおもう。そうならない保証がいったいどこにあるだろう?

主観的な現実と、客観的な現実の境目がすこしずつ、曖昧になってきましたね。それはまあそれとして、ユニコーンの不在を証明することはできないという事実は、それだけでちょっと心強いと思いませんか。


A. 心の底から実感しているなら、どうあれそれは現実です。




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その483につづく!

2026年5月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その481


レッド・ホット・チリ・ペッパー警部さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子どものイヤイヤ期ってなんなんでしょうか?


「ボタンを押したい」とか「荷物を持ちたい」とか「ウランを90%まで濃縮したい」などと要求し、受け入れられない場合は爆発的な癇癪を起こして容赦なく暴れ回り、手も足も出ない親の心を草1本残らない焼け野原にするという、あの悪名高い反抗期のことですね。

高度な反抗になると、本当にAで良いのかと何度も確認して了承を得たにもかかわらず「そんなことは言っていない」「わたしは最初からBだと言っていた」「フェイクニュースだ」と泣きわめくケースもあるようです。世の親たちが大挙して「いいかげんにしろ」とシュプレヒコールをあげながらデモ行進をしたくなるのもむりはありません。

専門家でもなんでもない僕が幼児をヒトの一個体として考えるに、これはたぶん「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」の本能的な発現です。わたしはわたしであってあなたではない、と自他を区別するその始まりと言い換えてもよいでしょう。本能的、というのは幼児であるその個体が自身の言動とその意味を自覚しているわけではおそらく全然ないからです。どちらかというと条件反射に近いのではないかと僕なんかは思います。猫の目の前に動くものがあったら手を出さずにはいられないようなものです。

幼児にかぎらずですが、自分が自分であって他の誰でもないことがはっきりするのは、他者との間に線を引くとき、つまり拒否を表明するときです。同意(YES)も意思表示ではあるけれど、追従の側面がある以上、拒否(NO)には及びません。

なにぶんそこそこ言葉が通じてしまうので、どうしても幼児の「こうしたい」という要求に意識が向いてしまいますが、もしイヤイヤ期がヒトの健やかな成長において不可欠な過程だとするならば(どう考えても必要であると僕は確信していますが)、重要なのはじつは要求が満たされることではないと考えられます。というのも、要求だけなら乳児も本能的にしているからです。生存にかかわりますからね。

また要求を満たすことが重要なのであれば、100%満たしているにもかかわらず真逆のことを言い出してちゃぶ台をひっくり返すような事態にはまず陥らないはずです。しかし実際には、ふつうにちゃぶ台はひっくり返されます。「話がちがうじゃないか」とデモ行進でシュプレヒコールをあげたくなる所以です。

したがって、イヤイヤ期の幼児にとって重要なのはむしろ拒否することです。実際には是(YES)であっても、とにかく非(NO)が意味を持ちます。要求に対する親の拒否を受け入れない(ダメに対してダメじゃないと抗う)ことも同様です。わたしがわたしであると表明する機会を常に待ち構えている状態、と言えるかもしれません。

つまりイヤイヤ期とは、ヒトの成長過程において芽生えた自己同一性の土台を固める段階である、と申せましょう。これを哲学っぽく言い換えるなら「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」ということになります。

理不尽に思える幼児のギャン泣きはほぼすべて「我イヤ!ゆえに我あり!」に翻訳できるとここで無責任に断言しておきましょう。誰であれ僕らはみな、かつてはデカルトに匹敵する偉大な哲学者だったのです。


A. 「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」の一言に尽きます。




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その482につづく!




2026年5月8日金曜日

ペガサス、もしくは野生の富豪についてときどき考える話


日々の合間を見つけつつ、アグロー案内の新作をちまちま書き進めています。


表題のままっちゃそのままなんだけど、どうにかこうにか生き延びてだいぶいい年になってくると、そういうことをふと、考えたりするのです。

字義どおりの富豪では、もちろん全然ありません。際立つのはむしろ真逆に稼ぎを心配されるくらいのケースでしょう。要は人が好きで、人に愛されている人のことです。

顔が広いってことでしょ、とおもうかもしれませんが、ちょっとちがいます。というかそれを言ったら富豪になればなるほど顔は広くなります。何しろありとあらゆる局面で、できることが人よりも明らかに多い立場だからです。したがって資産の多寡が関係に影響しないことが条件である、とも言えましょう。

多かれ少なかれ、顔の広さにはメリットが付随します。特定の好ましい人とつながる可能性があるなら、媒介となる人と面識があることはそれ自体がすでにメリットです。社会における人間関係とはその一言に尽きるとさえおもう。

ただ世の中には、つながることで得られるメリットがあるかどうかを問わず、好かれているというだけで結果としてめちゃめちゃ顔の広い人が存在します。それが野生の富豪です。

それをなぜ富豪と呼べるかといえば、やはり同じようにありとあらゆる局面で、やろうと思えばできることが人よりも明らかに多いからです。すくなくとも、困窮極まったときに誰を頼っていいかわからない事態に陥ることはありません。助けて!と必要ならいつでも率直に言えるし、力になりたいと考える人々がいつでも待ち構えています。富豪と同じことができるのならそれはもうまちがいなく豊かだし、それでいて裸一貫みたいなものだとすればこれを野生と言わずに何と言おう。

言うまでもなく当人がそうありたいと望んでいるわけではなくて、ただただ、結果としてそうなっているのがポイントです。柔和であるとか、活力があるとか、隙があるとか、裏表がないとか、欲がないとか、声とか表情とか、要素を一つひとつ挙げることはできるんだけれど、どう考えてもそれだけではないし、何ならそのどれも当てはまらないケースもあります。そうなるともう、磁場とか引力とかフェロモンに近い。

物理的な資産の獲得による富豪とちがって、野生の富豪は望んでなれるものではありません。その自覚がないことこそ大前提、と言ってもいいでしょう。意図して得られる好感もあるだろうけど、そのためには死ぬまで意図を維持しつづけることが求められるからです。

人生を再現なくやり直せば富豪になる未来なんかも余裕であるでしょう。一方で野生の富豪はそうなりたいと望む時点でまず無理です。そういう意味で本当に得難い希少な、馬に翼が生えたような存在だと、感嘆せずにはいられません。

まじで実在するペガサスみたいな人を遠目に眺めながら、せめて今あるささやかな縁を大切にしよう、と胸に刻む今日このごろです。