2025年2月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その441


どんぐり勘定さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 音楽で溢れかえった近未来。音が地球の許容量を超えることを危惧した地球省は「聴ける音楽は生涯ひとりひとつまで」という法令を発しました。死ぬまでこの曲しか聴けないとなったら、何を選びますか。


「音が地球の許容量を超える」という発想がいいですね。斬新でありながら詩的だし、このアイデアだけで壮大な物語が作れるんじゃないだろうか?

この法令の施行後に生まれた人はそもそも音楽を一切聴けなくなってしまうので、現実的にはおそらくある年齢、例えば30歳までに生涯の1曲を決めなくてはいけない、というようなことになりそうです。当然それ以降に生まれた曲を聴くことはできません。音楽家も一律で30歳が定年ということになるだろうし、考え始めるといろいろ妄想がふくらみます。

とはいえ質問の主旨としては「生涯にただ1曲を選ぶ」だけなのでシンプルといえばシンプルですが、そうは言ってもこれがまたとんでもない難問です。

自分がいちばん好きな曲ということであればまだ選びようがありそうな気もしますが、それしか聴けないとなると話がちょっと変わってきます。

たとえば僕の人生において欠かすことのできない重要な1曲として、Dred Scott“Check The Vibe” を例に挙げましょう。17のときにCDショップの試聴機で聴いてぶっ飛んだので、いま聴いてもテンションが一瞬で沸点に達する曲ですが、今後死ぬまでこれしか聴けないとなったらたぶんこれを選ぶことはできません。どう考えても絶対に飽きるからです。

音楽経験としてはこのあたりからさらに深化していったので、自分の棺桶に入れてほしい曲となったらまた別の曲を選びますが、めちゃめちゃ好きな曲、もしくはめちゃめちゃ思い入れのある曲というのは、むしろそれゆえに「飽きたくない曲」でもあります。ですよね?本当に思い入れのある曲というのは、忘れたころに聴き返してグワーーーーと打ちのめされるのが良い。

したがって、今後それしか聴けないとなったら、そこまで思い入れが強くなく、かつ何度聴いても飽きないと思われるような曲をチョイスする必要があります。好きな曲は何万回聴いても飽きないという人もいると思うけど、少なくとも僕はそうではないので、別のアプローチを試みる必要があるのです。

となると僕はたぶん、ジャズを選ぶとおもいます。パッと思いつくのは John Wright“Strut” です。

この1曲のためにLPを探しまくった記憶があるくらい好きなんだけど、音数が少なくてシンプルなのにリフがキャッチーで「飽きにくい」気がします。後になって、あの曲にすればよかった!とか後悔しないくらいには条件を満たしているとおもう。

そういう視点で言うと、Bud Powell“The Amazing Bud Powell (Volume 1)” に収録されている “Un Poco Loco” 2nd Take もいいですね。ジャズファンにはすげー怒られそうな気もするけど、門外漢すぎる僕にとって重要なのはむしろマックス・ローチで、1st Take に比べてカウベルのパターンが劇的に変わってるのがめちゃめちゃいい。何度聴き返しても「よくもまあ、こんなアプローチでやる気になったなあ!」と驚かされるし、 2nd Take を踏まえて完成度が格段に上がった 3rd Take よりも、まだ試行錯誤で不安定な 2nd Take のほうが飽きないんじゃないだろうか。

うーん、どっちがいいかなあ。Un Poco Loco、うるさいかなあ。そもそも「ちょっと変」って意味だしなあ。死ぬまで「ちょっと変」しか聴けないのもアレか…。

じゃ John Wright の “Strut” にします。明日にはまた気が変わってそうな気もしますけども。


A. John Wright の “Strut” です。




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その442につづく!

2025年2月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その440


ござるござるもニンのうちさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 気づけば学生時代に仲の良かった友人とはすっかり疎遠になりました。人間関係もちゃんとメンテナンスしないと縁って切れていってしまうものですね。恋人をつくるにはマッチングアプリ、知人の紹介などアイデアはありますが、友人をつくるにはどうしたら良いのでしょうか…。友人の作り方 と検索したりして虚しくなっています。


これはなかなか剣呑な問題です。質問のすべてがクリティカルにぶっ刺さります。そもそも疎遠になるような学生時代の友人が存在していたかどうかすら疑わしい僕のほうがよっぽど剣呑と言わざるを得ません。

しかし老境の先輩方の行く末を知る機会がじわじわ増えゆくのっぴきならないお年ごろでもあり、僕としても避けて通ることはできない問題という自覚はあります。ひっそりとまとめてひとり胸のうちに収めていた秘蔵のメモをここに開陳しましょう。

まず、人生において友人の多い人と少ない人では、対人距離が明確に異なります。前者が友人と認識している距離感は、後者にとって知人の距離感です。そして後者が友人と認識する距離感は、前者にとって親友の距離感です。友人が少ないと自認する人は友人判定の距離が比較的もしくは著しく狭い、と言い換えてもよいでしょう。僕なんかはまさにこのタイプなので、友人の多い人の友人の話を聞いていると「それは…友だちなの…?」と困惑することがちょいちょいあります。

したがって、知人をすべて友人という認識に置き換えること、これがステップ1です。べつに友だちじゃないけど…と深く考える必要はありません。むしろ固定観念による無意識の線引きを取っ払うことに意味があるのです。いや、上司とか同僚とか部下とかご近所さんとか取引先とかお客さんとかあるじゃん…と思うかもしれませんが、こうしたカテゴリーのひとつとして並列に友人があると考えるところに落とし穴があります。というか何なら僕らはすでにその穴の底にいます。友人とはあくまで、そして常に結果論であって一方的に認定するものではないという、人によっては当たり前すぎることを友人の少ない僕らは改めて自らの認識に上書きする必要があるのです。

ステップ2は「好奇心」です。外界の事象に対する「わ〜おもしろそう!」という気持ちを、観葉植物のように育てましょう。興味をもったら深く考えずに足を運びます。ただし、友人をつくるためではありません。ただただ、自分がたのしむためです。どうもその繰り返しが結果的に人生における肝となるらしい、と先輩方から学んだ今の僕は感じています。そして機会があれば自ら積極的に話しかけていきましょう。ひと昔前の僕なら「むり」と即答していたと思いますが、ここだけの話、歳を重ねるとそうも言ってらんねえわとならざるを得ません。友人の少ない僕らはこの問題について「一本釣り」みたいな印象を抱きがちですが、実際にはそれは「引網」なのです。こうして語る何もかもがぜんぶ自分にぶっ刺さって瀕死の僕が言うんだから間違いありません。


A. 好奇心という引網を担いで、ところかまわず出歩きましょう。




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その441につづく!