2021年1月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その310

 


本能寺が変さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)かれこれ400年以上たつのに、未だに変ですからね。


Q. 読者や視聴者が、その詩や楽曲を我が物顔で評論することについて質問です。私はわりとコレをやりがちなのですが、解釈を考えすぎだと言われたり、ちょっと面倒臭がれることも多いです。作者からすると、作品を深読み・評論されるのはどんな気持ちなのでしょうか?されて嬉しかった評論や不快だった評論を教えてください。参考にして、せめて聞く人が不快にならないような評論を心がけたいんです。


まずお伝えしたいのは、作り手にとって論じてもらえるのはただそれだけで本当にありがたい、ということです。関心のないどうでもよいものを、人は論じたりしません。罵倒であろうと酷評であろうと、また見当違いの見立てであってもそれは作品と正面から真剣に向き合っているということのたしかな証でもあります。僕がここで作り手の代表みたいな顔をして言うのはすごく気が引けるけれど、どうもありがとう。

したがってまったく、気にする必要はありません。正面から真剣に向き合ってくれているかぎり、たとえその結論がうんこだろうとゴミムシだろうと、揺るぎないリスペクトがそこにはあります。

もちろん作り手個人としては、うれしいケースやしんどいケースがあるのもたしかです。たしかですが、率直に言ってそれはまあ、あまり問題ではありません。評論というのはそういうものです。作品とは音楽だろうと文学だろうと料理だろうと世に放たれたその瞬間から例外なく、まな板の上の鯉にすぎません。堂々と胸を張ってください。

読み手の印象がどうしても気になるようであれば、そうですね、書き終えた文章を一度声に出して読んでみる、もしくは話し言葉に置き換えてみる、というのはある程度有効かもしれません。あ、これあれだな、口にするとすげえめんどくさいこと言ってるな、とおもえばそのあたりを整えればいいし、とくに気にならないようなら、もちろんそのままで大丈夫です。

話し言葉と書き言葉とでは、じぶんで意識しているよりもはるかに印象が異なります。メールだと慇懃で生真面目そうなのに、会って話すとめちゃフランクだったりするのが良い例です。文章がその人となりを必ずしもそのまま反映しているとはかぎらない。

裏を返せば、口には絶対しないようなことを、文章として綴っている可能性も大いにある、ということです。口語は口語、文語は文語としてその役割も魅力も異なるのだから同じように揃える必要はないけれど、目安として照らし合わせてみるのはひとつの手だとおもいます。

ちなみに僕自身は周囲から、対面で喋っても文章の上でも、おおむねめんどくさい奴として認識されています。どうにかできたらいいとおもうけど、気づいたら人生の折り返し地点まで来ちゃったし、今さらしかたないよな、と肩をすくめるほかありません。


A. ありがたいです、心からしみじみと。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)



その311につづく! 

5 件のコメント:

黄色い花 さんのコメント...

思い入れたっぷりに何かを論評をしている出力高めの人を見ると、人生全力で楽しんでるなーと思います。

作り手側からすれば、作品を我が物顔にしてくれることほどありがたいことはないと思います。
発信する価値と意味そのもの、或いはそれ以上です。

黄色い花 さんのコメント...

詩人の刻印の「手漕ぎボート」
オーディオビジュアルの「いまはまだねむるこどもに」
小数点花手鏡の「石蕗」

励まされると却って「別に目的地とかないです」と素気なく扉を閉めがちなひねくれ者の私ですが、
美しい言葉で求道者の道程から見える心象風景を見せてくれるこの三編には、いつも自分を生きる勇気を頂いています。

ピス田助手 さんのコメント...

> 某Aさん

僕らも負けじと我が物顔にしていきましょう。

> 某Bさん

そう言ってもらえてしあわせです。
こちらこそいつもありがとう!

KBDG

黄色い花 さんのコメント...

最近はよく「ジョシュア」を我が物顔で聴いています(v_v)

ピス田助手 さんのコメント...

> 某さん

いいぞ!!