孔子、老子、荘子と並ぶ中国の偉人の末席に餃子があることをこないだ初めて知りました。
ぶ厚いのがお好きさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q: 肉まんの善し悪しを判断するのは『具』でしょうか?『皮』でしょうか?(※「肉まん」のトコロは「シュークリーム」でも可)
これはもう考えるまでもありません。具です。中身です。人と同じです。人情と言っても過言ではありません。ふかりとふたつに割ったまんじゅうから立ちこめる湯気と熱くほとばしる肉汁に、体の芯から慰められて、涙のひと粒もこぼれるとしたらこれが人情でなくてなんでしょう。とかくきしきしと軋みがちな世にあって、これをすべり良くするのはただただ人情であり、したがって肉です。シュークリームにおけるクリームは人情というより劣情にちかい気がしないでもないですが、ここで話が枝分かれすると二度と帰ってはこれないので口に放り込んでしまいましょう。
(もぐもぐ)
しかしつらつら考えてみると肉まんを肉まんたらしめている、あるいはシュークリームをシュークリームたらしめているところのものは具ではありません。皮です。具と皮がべつべつに置いてあるとき、僕らが肉まんと呼ぶのはまずまちがいなく皮のほうでしょう。具のほうはせいぜい「おいしそうではあるけど、どことなく気の毒な肉の寄せ集め」くらいの認識が関の山です。してみると肉まんのアイデンティティは皮にこそあると言わねばなりません。肉まんの是非が具にあるのなら、その真偽は皮にあるというわけです。これをないがしろにしてはそもそも是非すら問えますまい。
だいいち、「やっぱ肉だよな」とすげなく言い切ってしまうのは、これまで数々の偉業を成してきたガチャピンを「やっぱ中の人だよな」と断じてしまうのといっしょです。ちがいます。すごいのはガチャピンです。ふわふわの夢にマッチで火をつけるような無粋は厳に慎まなくてはなりません。
アイデンティティたる皮に一定の配慮を示しつつ人情たる具の顔も立てる……ほとんど政治的といってもいい高度にして繊細な判断がそうカンタンにできてたまるかとおかんむりの御仁もおりましょうが、そこはそれ、目先をちょっと変えてやればだいたい丸く収まります。つまり…
A: 肉まんの良し悪しは食べた人の笑顔によって判断されるのです。
*
質問はいまも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その115につづく!
5 件のコメント:
関係ないかもしれませんが、「あんまん」は人の上顎の皮を剥がすための悪質な凶器(狂気)に思えて仕方ありません。私は「ピザまん」派です。
> 三ツ星シェフさん
わかります。わかります。
あんまんの狂気性については次回の質問箱で触れる予定です。
そして実をいうと僕もピザまん派です。
>肉まんの良し悪しは食べた人の笑顔によって判断されるのです。
素敵!
> しろさん
大団円でしょ!
大団円でありかつ肉まんという存在にとっての永遠のイシュー。
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