2010年12月1日水曜日

6粒の豆がどうしたというんだ



キッチンに立つ足元のちょうど指先あたりに、コーヒー豆が6粒ころがっているのです。まるで誰かがそこに並べて置いたかのように、2cmから3cmくらいの間隔を空けて、豆がつぶつぶと点線を描いている。

いちおう言い添えておくと、じぶんで並べたわけではありません。いくら僕でもコーヒー豆を足元につぶつぶ並べて愛でるほど酔狂ではない。気づいたらそこにあったのです。



なんだか妙なことではあるけれど、それはいい。豆だってつぶつぶころがることはある。人間だっておいしいお店にはすすんで行列をつくるんだから、床におちた豆がまっすぐ列をなしたからといって何を意に介することがあるだろう?空から見れば人も豆も区別なんてつかないし、そう考えるとまァそんなこともあるかな、という気がしてくる。おかしくはない。じっさい、現実は時として空想をひょいと飛び越えることがあるものです。

問題は、数日前までこれが4粒しかなかった、という点にあります。なぜ気づいた時点で拾わずにころがったままにしておいたのかという問題もあるにはあるけれど、ずぼらの一言で片がつく話でもあるし、然るべきときには一掃されるとわかっているのだから、とりあえずここでは棚に上げておきましょう。床に豆が4粒ころがっていても、日々の営みには何の影響もない。豆には豆の事情もある。

ところがそれから2日ほどたってふと足元に目をやると、4粒が5粒に増えているのです。何度見てもたしかに、4粒目の右隣に同じような間隔を空けて、ちょこんと1粒が仲間に加わっている。アッハッハ!ふえてる!

とはいえさいしょの時点で数えまちがえていた可能性も否定できないので、ここでもやっぱりそのままにしておきました。隔たりのある別の世界に憶断で口をはさんではいけない、というのは大人としてたしなむべきマナーのひとつです。うたがいなく、豆には豆の事情がある。

しかし冒頭にも記したように、いまここには6粒の豆が並んでいます。豆には豆の事情があるといっても限度があるし、これはいささか奇妙な事態です。一度は気のせいにできても二度目はさすがにできません。いくら科学に疎いといってもウナギが泥から自然発生すると真剣に考えたアリストテレスの時代から、二千年以上の月日が経っているのです。無から有は生まれないということくらい、僕にもわかる。どうして床におちた豆がひと粒ずつ増えていくのか?それもきれいに直列をなして?

古代の人ならここに何がしかの吉兆を読み取ることもできるんだろうけれど、いかんせん現代人はそのへんの感受性が鈍くていけません。これがある種のメッセージなのだとしたら、僕はこの直線につらなって増えゆく数粒の豆から何を読み取ったらいいのだろう?

とりあえず、左端の豆からひと粒ずつ名前をつけることからはじめました。
1粒目:傲慢
2粒目:嫉妬
3粒目:憤怒
4粒目:怠惰
5粒目:強欲
6粒目:暴食

7粒目がころがり出たら、「色欲」と名付けるつもりです。

5 件のコメント:

とく さんのコメント...

色欲の豆でつくった珈琲が飲んでみたいですね。

ソノピー さんのコメント...

宇宙を感じます。
こういう偶然で地球もできたのかもしれません。
キッチンで私たちは生まれた。のかも?

つちいさわ さんのコメント...

鋼の錬金術師だ!

D4 さんのコメント...

次に豆が減っていたり、2列に並びなおしていたらどうしよう・・・。

ピス田助手 さんのコメント...

> とくさん
その発想はなかった!そういえばいちどラオスのコーヒーをもらって飲んだことがありますが、濃密な花の香りがしてあれは色欲っぽかったです、なんとなく。

> ソノピーさん
たしかに必然というのは偶然の上に貼られたシールみたいなものですからねえ。豆も地球も変わりゃしないです、ホントに。

> つちいさわさん
ハハハ!言われてみればそうですね。キリスト教世界では罪にみちびく代表的な負の感情を「七つの大罪」と呼んでとくに戒めているのです。(ちしき)

> D4さん
僕がいちばん心配していたのはまさにそのことです。L字を描いたり十字になったりしたらどうしようとハラハラしていましたが、今のところその気配はないようです。フーム。