3016年2月2日金曜日
2025年9月26日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その463
ていねいなクラッシュさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 生チョコ、生キャラメルをはじめ、生食パン、生ドーナツ、生クッキー、果ては生タピオカや菌床生しいたけなど、近年いろんなものが「生」になっている気がしています。大吾さんは、この「生」ブームに最後まで抗える(「生」化しない)のは何だと思いますか?私は今のところ「焼き芋」が強そうだなと考えています。
さりげなく生しいたけが紛れこんでいるのがいいですね。僕も以前、なぜわざわざしいたけに生とつける必要があるのか疑問におもったことがあります。柿や大根だって干すのに、干さないものを生柿とか生大根と呼ぶことはないからです。
それで知ったのだけれど、じつはしいたけに限らず、きのこが生のまま流通するようになったのはわりと最近のことで、僕が生まれたころでさえ、今ほど当たり前ではなかったらしいんですよね。しめじなんかもひょっとしたら70年代にはまだ八百屋には並んでいなかったかもしれない。
ただしいたけに関してはそれよりもはるかに昔から干して使われていたので、干してないことを強調するために生と呼んでいたのがそのまま定着したんだとおもいます。それまで干したものしかなかったのなら、じっさい僕でも「おい!しいたけだ!ちげーよ、生だぞ!」と騒ぐ気がする。
あだしことはさておきつ…
そういえばあまり聞かなくなった気もするけれど、生チョコを初めて食べたときのちょっとした感動は忘れられません。むかしむかし、一人暮らしをしていたころ、バレンタイン商戦でにぎわう駅ビルに入り、せっかくだからチョコでも買って帰ろうとガラスケースをのぞきこみ、思いのほか高価なことに驚きつつ小さめのをひとつ買って、アパートの薄暗い6畳間でひとりもぐもぐ食べました。ほんと鮮明に覚えてるから、よっぽどおいしかったんでしょうね。もしタイムマシンであのころに戻れたら、お前は人生の味わい方をよくわかってるなとじぶんを褒めてやりたい。
ともあれ、生という理由でトレンドに上がるのはやっぱりスイーツ系ですよね。生てんぷらとか生コロッケは言われても食欲をそそりません。生パスタには付加価値があるのに、生うどんにはありません。生食パンはいけるのに、生おむすびはむしろ剣呑です。生と付けられそうな条件をいろいろ考えてみたものの、ぜんぜんわかりませんでした。言葉のあり方としてもちょっと考えてみたいトピックです。
いま挙げたどれも「生」には抵抗できそうですが、お題の主旨としてはなんとなく違うことは僕もわかるので、ここはあえてスイーツ系に限ってみましょう。焼き芋なんかもギリスイーツですもんね。あれこれ考えれば考えるほど食パンの存在が邪魔くさいんだけど、こいつはもう放置するほかありません。
生チョコ、生キャラメル、生ドーナツなんかに共通するのはおそらく、本来よりも口当たりがとろけるようにやわらかい点です。
そして仮に技術革新で焼き芋がスイートポテトよりも「やわとろ」になった場合、意味に頓着しない日本人としては平気で「生焼き芋」と名付けるはずです。こういう節操のなさには正直、確信がある。したがってあくまでこの「生」に抗うとしたら、それなりの固さを保つものよりもむしろこれ以上やわらかくなりようがないスイーツを挙げます。たとえばシュークリームとかゼリーです。
とおもってググったらどっちもすでにあって横転しました。日本語における節操のなさが図らずも証明されて頭を抱えざるを得ません。フルーツが生とかクリームが生とか、初めっからだろうが!!!コレステレロールなんか初めから含まれてないサラダ油にわざわざ「コレステロールゼロ」とかさも特別みたいに表記してんの意味わかんねえなと思ってたけど、完全にそれと同じレベルじゃないか。
もういい、じゃあガムにします。やんなっちゃうな、ほんとにもう。
A. ガムです。
しかしこういう文脈における「生」、感覚的にはすごくよくわかるしいずれ辞書にも載りそうな用法という気がするんだけど、どうやって定義したらいいんだろう。
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その464につづく!
2025年9月19日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その462
通勤海賊さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 穴が空いた靴下を私の地元ではおはよう靴下と呼びますが、夜でもおはようでいいのでしょうか。
ほどよい塩梅の質問です。本気で知りたいとまで考えているわけではないけれど、気になると言えば昔から気になってはいる、とはいえ有識者に相談する話でもないし、仮に解決してもへーということににしかならない、そういうただ転がしたり手で弄んだりするだけの、小石みたいな「へんだねえ」をいつもポケットに数個は忍ばせておきたい、と近ごろはよくおもいます。
それにしてもいろんな慣習があるものです。たぶん肌とか指が顔を出している、ということですよね。
そしてこれはおそらくたった一人の、幼稚園とか小学校低学年の先生が言い始めたものではないだろうか、と僕なんかは想像します。ひょっとしたら穴が空いていると言わないための、ちょっとした気遣いとして始まったものかもしれません。つまり、「あれ、ガツ男くん今日はおはよう靴下だね」という具合に。
ちいさな子どもは靴下に穴が空いていようと気にしないだろうけれど、指摘されれば気にするようになります。でもおはよう靴下ならそんな心配は無用です。なんなら靴下に穴の空いていない子のほうが「ぼくのくつしたにはおはようがない」としょんぼりする可能性すらあります。価値の反転という意味で、じつに見事なネーミングです。
そしてそれ以降、靴下に穴が空くたびにおはよう靴下を思い浮かべることになるでしょう。やがて忘れて大人になっても、親になれば今度はじぶんが子にそれを言うようになります。かくしてあるエリアの子どもたちはみんなおはよう靴下を知っている、ということになるわけですね。なんなら最初に提唱した人もまだご健在なのではないだろうか。
何から何までぜんぶまちがってたらすみません。その可能性はふつうに高い。
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肝心の「おはよう」については、僕も昔からおもうところがあります。
というのも、たとえば職場とかバイト先とかイベント前とか、そういう現場入りのときは大抵、朝と昼と夜を問わず「おはようございます」なんですよね。こんにちはとこんばんははまず聞かないし、これらはどちらかというと輪の外から第三者としてお邪魔する印象のほうが大きい。「おつかれさまです」は聞く気もするけれど、ここには敬意や労いのニュアンスが含まれているので、挨拶というよりは気配りの一種と見るべきでしょう。
ではなぜ朝の挨拶が、本来ならそぐわない朝以外にも使われているのか。今の僕はむしろ、朝の挨拶という古くからの定義を見直す必要があると考えます。そして再定義するなら次のようなことになるでしょう。すなわちおはようとは、時間帯にかぎらず「(その場においてじぶんの登場が想定されている状況での)最初の挨拶」なのです。最初の挨拶なのだから当然、朝の挨拶も含まれます。少なくとも新明解国語辞典くらいはこの再定義を受け入れていいとおもいますね。
A. 夜でも問題ありません。
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その463につづく!
2025年9月12日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その461
カモ山ネギ助さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 一番男気があふれる野菜って、なんだと思いますか?個人的には、蕪です。漢字に無が入っているのにもしっかり太い実があるし、頼んでもないのに硬い皮まで装備しているので。
これはいろんなアプローチが考えられそうな良問ですね。男気だけでなく、セクシーとか繊細とか蛮勇とかアンニュイとか、いろんなテーマで野菜を見つめ直してみたくなります。男気はマチズモにも通じるものがあって人に適用すると剣呑だけれど、何しろ相手は野菜です。むしろ男気とは何かということが浮き彫りになるかもしれません。
真っ先に思い浮かんだのは、落花生の大粒品種「おおまさり」です。その名前からして必要以上の男気にあふれています。じぶんの名前がこれじゃなくてよかったとしみじみおもうくらいです。
しかもこのおおまさり、「ナカテユタカ」と「ジェンキンスジャンボ」というこれまた男気しか感じられない親品種の交配によって生まれています。アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンの交配によってドウェイン・ジョンソンが生まれたみたいなことである、と言っていいでしょう。男気どころかY染色体しかない。
名前だけではありません。おおまさりはその大きさ、甘さ、柔らかさから、炒るよりも茹でるに適した品種ですが、茹でるのにめちゃめちゃ時間がかかります。実際に美味しくいただいたことのある僕の記憶がまちがっていなければ、たしか1時間くらい茹でる必要があったはずです。1時間も釜茹でにされないとギブアップしないあたりに、いささか不毛な男気を感じます。それでカッコいいかと言えば別にそうでもないところがまた男らしい。
とはいえこれは落花生の一品種であり、野菜という大きな枠組みにおいてはやはり落花生として括られるべきであり、落花生全体に男気が感じられるかといえばそうとも言えない、ということになるでしょう。
その視点で改めて考え直してみると、僕が挙げたいのはピーマンです。何と言っても、名前に「マン」が入っています。この一点だけを見ても圧倒的なアドバンテージを有すると言わざるを得ない野菜です。そう聞かされて一番びっくりするのは他ならぬピーマン自身だと思いますが、ある視点からどう見えるかというだけの話なので、本人というか本ピーがどう認識しているかなどここでは問題になりません。
語尾にマンと付く場合、それが職業や役割でないかぎり、どこかしらヒーロー的な響きを帯びるものですが、ピーマンの場合は逆立ちしてもそうはなれないばかりか、むしろある種の哀愁が漂っています。哀愁はそれ自体が男気の一種です。酔うというか浸るというか、男気という概念にはそういう側面が確実にあります。
ただ、僕がピーマンを挙げたのはその名前のためではありません。そもそも中身が空っぽで薄っぺらいやつだから早く使わないとあっという間に朽ちてしまいそうなのに、冷蔵庫の野菜室に入れておくと思いのほか萎れずにわりと長持ちするからです。
玉ねぎ、人参、じゃがいも、南瓜など、長持ちする野菜は他にもいっぱいあるけれど、正直ピーマンがその列に並ぶようには思えません。でも実際、耐えます、ほんとに。
買ってあったことを完全に忘れていたような状況でも、そして実際、包丁を入れて種の部分が明らかに弱って朽ちかけていても、食用となる主な部分はぜんぜん大丈夫だったりします。忘れられてたんだから朽ちるだけの理由は十分あるのに、意地とかやせガマンとか根性論で持ちこたえているように見えるところに、僕なんかは男気をつよく感じずにはいられません。そうあるべきとは1ミリも思わないけど、最大限の敬意は払いたい、そう思わせる野菜です。がんばれピーマン!
A. ピーマンです。
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2025年9月5日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その460
キテレツ大爆破さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 無性に走りたくなる時ありますか?何かどうしようもない焦燥感に駆られて、街を駆け巡る事が増えました。もう10代が終わるというのに感情任せに行動を起こしてしまいます。大吾さんもそんな時ありましたか?今でもありますか?
質問をいただいたのが年末なので、ひょっとしたらもう20代に突入されているかもしれませんね。
焦燥感に駆られて街を駆け巡ること、感情任せに行動を起こしてしまうこと、どちらもすごく大切なことです。そうじゃないほうが大人に見えるかもしれないけれど、いざ年を重ねてみると、かつて持っていたものを永遠に失うことでもあるよな、ともしみじみ感じます。
言ってみればその衝動はライオンみたいなものであり、それをコントロールすることはライオンを手懐けるようなことです。予期せぬ事態を避ける意味では有効だとおもうし、人生を円滑に歩むためにはそうあっていい気もするけれど、それはあくまで社会的な要請に基づいた向き合い方であって、ライオンが幸せかどうかはまたぜんぜん別の話である、とも言えるでしょう。
胸の内にライオンを飼う人はそう多くありません。金魚の人もいれば、パンダの人もいます。僕は昔からとにかく人より燃費が悪いので、そうだなあ、しいていえばアボカドとかパイナップル、どちらかといえばパイナップルでしょうか。
パイナップルは生育にやたらと時間がかかる(たしか2年くらい)上に1株に1果実しか取れません。その代わり痩せた土地や害虫に強い上に収穫後の日持ちも良いので、1株では甲斐がないけれど大量に生産するだけのリターンは確実にある、そんな植物です。それを1株だけ、胸の内で育てています。これまでの活動履歴を振り返ってみても、1株のパイナップルはなかなか的を射ているとおもう。
もちろんこれはどれが良いとかそういう話ではありません。身長や髪質と同じように、ただ人それぞれである、というだけです。
ライオンはどうでしょうね。猫みたいにゴロゴロ手懐けるのもかわいいけれど、どちらかというと世間的にはそのほうが大人と見做される傾向があるので(実際、びっくりするほどみんなあっさり飼い慣らしてしまう)、個人的にはせっかくライオンがいるのだからその背にまたがっていっしょに町を疾走しつづける日々であってほしいな、と願わずにはいられません。パイナップルはいっしょに走ってくれないですからね。10代とか20代とか関係なく、ずっと大事にしてください。
そんなわけでお答えとしては、パイナップルとして走ってみたくなることはある、ということになります。実際のところこれだけ長く生きていると、走らないにしても目を離したすきにちょっとは歩いたりしてんじゃないのかと思わないでもないですけど。
A. パイナップルとして走ってみたくなることは今でもあります。
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2025年8月29日金曜日
アグローと夜(Agloe and Night) 2025のお知らせ
と
いうわけでまるまる1年ぶりに帰ってまいります。アグロー案内シリーズの実演版、「アグローと夜(Agloe and Night)2025」のお知らせです。
いまだになんというかこういう慣習に疎い僕にとって、3ヶ月前の告知は気が早いようにもおもわれて内心ハラハラしているところがあります。何しろそれだけの時間があれば人生はかなり変動するからです。「3ヶ月後はちょっとわからないな、遠い国の王女に見初められて王子になってるかもしれないし、漬けた梅酒も飲みごろだもん」というわけですね。
ところがフタを開けてみれば、というのはもちろん梅酒の瓶のことではなくて、忘却の奥底に沈澱していた去年を振り返ってみたらということですけれども、去年もやっぱりちょうど今くらいのタイミングで告知を開始していたのです。しかもとくにその点に言及することなくにこにこと手を振るようにお知らせしています。去年の僕は本当に僕だったんだろうか?それとも今の僕が去年までの僕ではないんだろうか…?
と同時に当日はすごく盛況で楽しかったこと、バースをまるまる忘れてやり直したこと、とてもおいしいせんべいで大騒ぎの記憶がありありと蘇ってきて、じわじわと実感が湧きつつあります。
何より今年はせんべいの代わりにアップデートされた「饗宴/eureka」があり、新しい一編も追加されています。どう考えても、ますます楽しい一夜です。どうかどうか、万障お繰り合わせの上、お越しくださいませ…!
*
「アグローと夜(Agloe and Night) 2025」
11月29日(土) @恵比寿TimeOut Café & Diner
出演:小林大吾、タケウチカズタケ
Open 17:30 Start 18:30
Charge ¥3,900(入場時に1ドリンク ¥600)
チケット URL
TimeOut Café & Diner
東京都渋谷区東3丁目16−6 リキッドルーム 2F
詩人/ポエトリーリーディング・アーティスト/グラフィック・デザイナーである小林大吾とキーボーディスト・音楽プロデューサーのタケウチカズタケが言葉と音楽の可能性を広げ続けている作品「アグロー案内」シリーズ。その実演ライブ&トークイベント「アグローと夜」、今年も恵比寿TimeOut Café & Dinerで開催です!
2025年8月22日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その459
過剰な気遣い
アメリカン土偶さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. することもなく部屋の中でピラミッドのように正方形の物を積み重ねていたとき、レコード→焼き海苔→EP盤→シングルCD→付箋→サイコロ まではいい感じに重なったのですが、最上段にピッタリくるものがが見つかりません。僕のピラミッドのキャップストーンには何が最適なのでしょうか。
かれこれ15年以上、途切れ途切れに450回以上もやらかしてきた質問箱ですが、これほど後悔したことはありません。なんとなれば「退屈で困っている」という前々回に取り上げた質問の、まさしく最適解が別の質問として寄せられていたことに、いま気づいたからです。こんなことってあるだろうか?もし僕がマッチングアプリだったら、この奇異なる巡り合わせを見逃したことによって、2度と起動できないくらいのダメージを負っていたにちがいありません。
かつてゴルフボールを3つ重ねることに苦心していたことのある僕に言わせれば、退屈こそが人生である、みたいなことを前々回に書いたような気がしますが、ここは改めて、出し得るかぎりの大きな声で念を押しておくべきでしょう。
退屈こそが人生です。
することがないなら正方形のものをピラミッド状に積み重ねたらいいじゃないか?むしろ正方形のものをピラミッド状に積み上げることを時間の使い方として否定するだけの正当な理由が果たしてあるだろうか?
断じてありません。
とかく人は日々に意味や価値を見出そうとしがちです。そして行動にもまた、いちいち理由を求めがちです。そして意味や価値や理由がこれといってない場合、自身には関係のない不要な情報として、ばっさり切り捨てがちです。
イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「なぜエベレストに?(Why did you want to climb Mount Everest?)」と問われて「そこにあるからです(Because it's there.)」と答えた逸話は広く知られています。彼の端的な答えは、なぜ意味や理由が暗黙の前提になっているのかという根源的な問いでもあると言えるでしょう。
にもかかわらず、人は今もやはり問うのです。「なぜ正方形のものをピラミッド状に積むのか?」と。
そこに正方形のものがあるからというほかありません。
意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことは、誰にとっても豊かです。この点に異存はありません。しかしこの点に基準を置くと、意味がなくて非生産的な時間は当然、マイナスになります。
一方、意味がなくて非生産的な時間を楽しく過ごせるならば、意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことはより豊かになります。ここにはマイナスどころか、プラスしかありません。
実際のところどちらが豊かな日々であると言えるか、考えるまでもないはずです。
前々回はめんどくさくて省いてしまったけれど、退屈こそ味わう甲斐があるという、その理由がここにあります。
それはまあそれとして今回の回答ですが、僕はミックスベジタブルのにんじんを推したいとおもいます。なんとなればサイコロの大きさがどうあれ、にんじんなら削ってより小さくすることが可能だからです。もちろん、加工せずにそのままちょこんと乗せるのもよいでしょう。
より厳密に、ピラミッドのキャップストーンのように四角錐にしたいという場合でも、ミックスベジタブルのにんじんは自由にカットできる点でその要求に十分応えられる逸材です。
せっかく正方形しばりで来たのだから、個人的にはできれば加工せずにそのままちょこんと乗せたいですね。サイコロがそれを下回るサイズでないことを願うばかりです。
A. ミックスベジタブルのにんじんがオススメです。
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その460につづく!
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