2024年10月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その433


新しい学校のレイダース/失われたアーク(聖櫃)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 夢は叶いますか?


いい質問です。

ただ僕は物心ついたときから「夢は叶う」というフレーズに対して、いくらなんでも大雑把すぎんかと疑義を抱いてきた男であり、人生の折り返し地点を過ぎた今でも、やっぱり大雑把すぎるしそれゆえにそう断言するのは無責任すぎると感じています。

たとえば遠い未来の宇宙空間で戦争があったとしましょう。これから宇宙船で出撃するパイロットは故郷に婚約者がいて、帰還したら結婚する予定です。実際のところ婚約者がいて帰還したら結婚式を挙げることが決まっている宇宙船のパイロットというのはその設定自体が死を意味するものですが、それはまあさておくとして、彼がぶじ帰還できるかどうかは誰にも断言できません。生きて帰るための努力を積み重ねて確率をいくらか上げることはできそうだけれども、それだけでは帰還できる保証になりません。なんとなれば帰還という結果を左右する要素がめちゃめちゃ多くあるからです。なんなら、ここがおれの死に場所だ!と自暴自棄になって突っ込んでいった死にたがりがどういうわけか巡り巡ってあっさり帰還してしまう可能性すらあります。ですよね?

どう考えても結果を左右する要素が本人の意志以外にも多くある以上、希望した結果になると断言することは誰だろうとできないはずです。単純化しすぎで大雑把な上に無責任と考える所以がここにあります。

もちろん、鼓舞することでそれが一種の暗示になり、プラスに働くこともあるでしょう。というか実際、プラスに働くんじゃないかと思う。ただですね、鼓舞というのは結果に影響する他の要素をすべて度外視しているというか、「君次第だ」と問題を極端に単純化してしまうので、仮にうまくいかなかった場合、その理由もまた「才能がなかった」とか「努力が足りなかった」と極端に単純化されてしまうことになります。でも、本当にそうなんだろうか?

その昔、バイト先の社員に大のサッカー好きがいました。たしか当時で26歳だったと思いますが、仕事の合間にちょっと手が空くとリフティングをしていた気がするし、ほぼすべての休日をフットサルに費やしていたばかりか、毎日ドリブルで通勤していたと聞けば、その熱の入れようがおわかりいただけましょう。ドリブルで通勤はさすがに今でもすげえなとおもう。

彼がプロになりたかったのは確かです。でもプロにはならなかった。ではなぜならなかったんだろう?努力が足りなかったんだろうか?才能がなかったんだろうか?少なくとも彼自身はそう考えていたようだったけれど、そんなわけねえだろと僕は声を大にして言いたい。夢を叶えるための条件が本人に帰するなら、それは一握りの天才にしか不可能と言っているのと結果的に同義ではないのか?

また「夢は叶う」というフレーズは、実際に叶えた人にしか言うことができない点にも注意が必要です。自分でも叶ったんだから、他の人だって叶うと考えるのはごく自然なことですが、一方でどれだけ強く望んでも叶わなかった人のほうが圧倒的に多い現実もまた厳然とあります。その現実に蓋をするなら、やはり無責任であると言わざるを得ません。

その上で僕には、誰にでも突出した何らかの才能が絶対にある、という強い確信があり、それはいいおっさんになった今でもまったく揺るぎないばかりか、ますます強固になっています。ただし、その才能が自分の望むものとはかぎりません。たとえば僕は今でも声を使って作品を作ったりデザインをしたりしているけれど、それで名を成したかといったら別に成してないので、なんなら別種の、僕自身ぜんぜん気づいていない才能が今もスヤスヤ眠っている可能性があります。たとえば皿洗いがあまり苦ではない体質が、何らかの才能の片鱗を示しているとか、そんなことはないだろうか?

なので僕にとって夢を叶えた人というのは、望んだ才能と実際の才能がうまく合致した上に、結果に影響する要素の多くがプラスに働いた、もしくはプラスに引き寄せた人です。言うまでもなく、結果に影響する要素の中には、不断の努力も含まれています。そして努力はそれ自体が汎用性の高い、万能な経験値である、とだけは断言されて然るべきでしょう。

そんな僕が、夢は叶うかどうかを問われて答えるとしたら当然こうです。


A. それは誰にもわかりません。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その434につづく!