2012年4月30日月曜日

ピス田助手の手記 14: アイスノンという名の鶏について







ひとつはっきり言えるのは、舌の上には本当に天国があった、ということだ。果てしなく広がる初夏の草原がそこにあった。その中心で見目麗しき天女がひとり、ひとときも同じ色にとどまらないオーロラみたいな衣をまとって、ゆっくりとひらめかせながら流れるように舞っていた。くるりと回れば花の香りが渦をまいてほうぼうに散り、また四方からはおだやかに温む風が控えめに吹いてくる。青々として目にも鮮やかな草がその向きに合わせてゆれた。まばたきもできない美しさだった。風にのって岩塩がきらきらとまたたくのも見えた。粘膜をやさしくなぐさめるような弾力となめらかな舌ざわり、その噛み心地とそこから湧き出す旨味の泉は、蠱惑的であり、麻薬的でもあり、まさしく極上としか言いようがなかった。この時点でわたしも、生まれ変わったら豚になりたいとねがうきもちが心から理解できるようになっていた。

旦那、と肉屋に叩き起こされて、わたしは意識を取りもどした。「危ない。危ない。初めての方にはよく言い聞かせるんですがね、ほっとくとあのまま逝っちまうところでしたよ」
気づけば冷凍室から戻ったみふゆに、わたしは介抱されていた。もちろんイゴールの姿もそばにあった。みふゆはアイスノン(という名の鶏)を小脇に抱えていた。
「目が回る」とわたしはうめいた。「イゴール、このハムはわたしが丸ごと買うよ。いやもう、じつにすごいハムなんだ」
「何があったのかわたくしにはさっぱりですが」とイゴールは不思議そうな顔をして答えた。「万事まるく収まるのでしたら、それもよかろうかと存じます」
「よかったらそっちの旦那と、嬢ちゃんもどうですね?」と肉屋は満足そうにふたたび勧めて言った。「ほんのすこし、切り分けてさしあげますよ」

ここから先はくり返すこともないだろう。興味のなさそうなイゴールも、怪訝そうな顔をしていたみふゆも、ブッチの差し出す1枚のハムを口にしたとたん、同じようにパタンと気を失った。とうぜん、尋常ならざるよろこびを体験したあとはみなほんのりと上気して、応接室も胸焼けするくらいの多幸感に満ち満ちていた。むべなるかなというものだ!わたしとしてもその先話をすすめることがひどく億劫になってきた。アンジェリカの無事なら初めからわかりきっているとコンキスタドーレス夫人も請け負ったのだし、スナークについてはのこされた些細な疑問よりむしろお礼を言いたいきもちでいっぱいだった。だとすれば夫人の言ったとおり、これ以上何を詮議すればよいのだろう?

今やわたしも、こうなればのどかな午後のひとときを心地良くすごすほかあるまい、というきわめて前向きな考えに傾きつつあった。

「そういえば」わたしはイゴールに持ってこさせたワインの栓をきりきりと抜きながら思い出したように言った。「鶏はわかるけど、何だって冷凍室に行ったんだ?」
「アイスノンはいつもそこで寝てるのです」とみふゆが口をもぐもぐさせながらイゴールの代わりに答えた。ハムは少女のいたいけな心をも虜にしたらしい。
イゴールが補足した。「他にてきとうな部屋がありませんで」
「温かいとはお世辞にも言えそうにありませんな」とブッチも口をもぐもぐさせながら言った。「というのはつまり、暖房がないとね!」
「なんでブッチまでいっしょに食べてるんだ?」
「固いことは言いっこなしです」
「ちょっと待てよ、冷凍室が部屋って、にわとりが?」
「通常の部屋では気温を一定に保つことがむずかしいのです」
「それ以前の問題だよ!」とわたしはギョッとして言った。「そりゃ鶏肉の扱いじゃないか」
「そうですね、何と申し上げたらよいか……」
「さわってください。そしたらわかります」とみふゆは言った。
わたしは手のひらでアイスノンにふれてみた。「うわッ、ひんやりしてる」
「おや!」と上ずった声をあげたのは意外にもブッチだった。「そいつは聞き捨てなりません。なんとおっしゃいましたね、今?」
「ひんやりしてるんだ。ちっとも体温を感じない。どうなってるんだ一体?」
「どういったことなのかかわたくしもくわしくは存じ上げませんが」とイゴールは答えた。「アイスノンは冷たい鶏なのです」







<ピス田助手の手記 15: アンジェリカ邸の対空ミサイル>につづく!

2 件のコメント:

ゆっち さんのコメント...

僕の所にもアイスノンがいます。
普段は冷凍庫で飼っていますが夏の暑い日になると一緒に寝てくれる(主に足元で)カワイイ奴です。

ピス田助手 さんのコメント...

> ゆっちさん

足元!枕の代わりじゃないんですね?しかし時代は今や全身クールな「冷んやりジェルマット」らしいですよ。