2007年10月9日火曜日

鮭桃色のパンダイズム


パンダのことを考えています。

進化生物学におけるダーウィニズム、わけても自然選択(natural selection)という考えかたには、性選択というもうひとつのベクトルがあって、これは生物の一見すると不要とも思える身体的特徴が、メスの気を引くために時としてえらく大仰になるというものだけれど、考えようによってはどんなおかしな特徴もこれひとつで大体納得できてしまうとてもべんりな理論です。たとえば、孔雀の羽根とか、鹿の角とか、おっさんのヒゲとか、そういうものですね。じっさいには、天敵に見つかりやすくなるというじつにもっともなリスクを背負っているので(ビンラディンのヒゲもその一例です)、そんな簡単な話ではないにしても、さきいかをむしゃむしゃやりながらしゃべくるぶんには、これくらいの大雑把なとらえかたでとりあえず問題はありません。

でもパンダってオスもメスもあの模様なんだよな。何がどうひっくり返るとあんなんなっちゃうのかやっぱりよくわからない。それでいてあれだけよくできたデザインなんだから、世界とはよくよく不思議なものです。不明確なその意図と目的は脇に置いとくとしても、的を射た黒の配置と余白に関して言うなら、シマウマと並んでひとつの完成形と言えるでしょう。目のまわりを黒く塗りつぶすなんて誰が考えたんだろう。まったく大胆きわまりない。

白と黒という、考えようによってはおそろしく退屈な2色が織りなすストイックなハーモニー、という意味では書物も同じです。文字なんか読めればいいと思っているのなら、それは書物やその文章、ひいては活字の魅力をほとんど味わっていないことになります。

とこないだバス停でエムズワース卿が言ってました。矛先はあっちに向けてください。

ポール・ヴァレリーの「書物雑感」には、「読みやすく、また眺めて楽しいとき、その書物は物理的に完璧である。」というすてきな一文からはじまる、書物の視覚的美学を論じたくだりがあって、それは今も僕にとってとても大事な文章のひとつです。読みやすく、という心配りは当然と言えば当然ですね。読みにくかったらだれも手に取らない。では「眺めて楽しい」の部分は?

それが目で追うものである以上、文字は絵や写真と同じ、グラフィックです。にもかかわらずその装いについてはわりとスルーされがちなのはなぜだろう?純粋にデザイン的要素を極限まで高めたタイポグラフィの類いはあっても、文章とその文字組からその意識を色濃く感じることってあんまりありません。

とこないだバス停でエムズワース卿が言ってました。あっち!矛先はあっちね!

筋を追う小説とか随筆は読みにくくなったら本末転倒なので、文字に謙虚なふるまいが求められるのはよくわかるけれど、余白がイニシアチブをとることも多い詩歌において、文字のそうした側面に重点の置かれることが少ないのはもったいないと、僕はつねづね考えています。わりといいおっさんになるまでそんなだいじな思いをひとりでポッケにつっこんでおくほうがもったいない、という正論にはぐうの音もでないのでこの際言いっこなしだ。

文字組にフタのはずれた胡椒のごとくどっさり美意識を注ぎこんだ北園克衛みたいに、「眺めてたのしい」というきもち良さをだいじにしたい。そもそも卓越したヴィジュアル感覚の持ち主であり、今もグラフィックデザインの視点から語り継がれる希有な男とくらべるのは気が引けるけれど、まあいいや。あこがれを抱いたからって罪にはならない。視覚的なよろこびに満ちた白と黒の美学(big up)、すなわちこれパンダイズムの誕生と相成るわけでございますな。ヤッホー。うまくまとめてやった!

ともあれ、詩を「ことばとしてのみとらえる」ことを良しとしない性分は、アルバム「詩人の刻印」に同封されたブックレットにももちろん、反映されています。すくなくとも、新鮮な印象を抱いてもらえるはず。数日前に書いた、「音源だけでは意味がない」というのはそういうことなのです。



追伸:
ゴメンよく考えたらブックレット、モノクロだけど白黒じゃなかった。

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