2023年7月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その399

両側に幼馴染の部屋がある設定

サマージャンボ刀鍛冶さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 折れない心の保ち方を教えてください

自分が行きたい所を相手に伝えてもなかなか意見が通らない状況を繰り返していたらいつの間にか自分の意見を言わないようになってしまいました。厄介なコトに意見の衝突が浅い友達や知人レベルならいいですが「パートナー」なので縁を切るには切れずにいます。このことを話すと婿入り前に立ちはだかる父親よろしく「折れずに意見を伝えて立ち向かってこい」と言われてしまいました。


言ってもどうせ聞く耳を持たないから言わない、というのは長年連れ添った夫婦でもよくある話です。だとするとこれは心の保ち方の問題であると同時に、じつはふたりでどう生きるかという問題でもあるのかもしれません。

僕自身のことを申せば、ふたりの間に起きた問題はどうあれ常にふたりの問題であるというスタンスです。

たとえば脱いだ服は洗濯機に入れてほしいけどいつも脱ぎっぱなしのまま置いてある、という問題があったとしましょう。悪いのはもちろん、脱ぎっぱなしにする人です。多くの場合これは脱ぎっぱなしにする人の問題だと受け止められるし、何ならこの悪しき習性をどう改めさせるかみたいな話になります。

しかしこれが問題になるのは、それを問題として受け止める人がそばにいるからです。一人だったらどれだけ脱ぎ散らかそうと誰も文句は言いません。脱ぎ散らかすのをやめてほしいと願う人がいるからこそ問題になるのだとしたら、これはやはり厳然として、ふたりの問題です。

ふたりの問題ならば、当然ふたりで解決しなくてはなりません。世間のあちこちで耳にするように、相手が変わればいいとかどう変えるかとかそういう問題では全然ない。ふたりで暮らしていく以上は、たとえ片方が100%悪かったとしても、同時にもう片方もまたそれを受け止めて変わる余地をもつ必要がある、と僕は考えます。(変わる必要ではなく、変わる余地をもつ必要、であることに注意)

要は「本当にどうしても絶対に、何がなんでも譲れない部分だけは伝えてお互いそれに従い、それ以外はなるべくお互いに受け入れる」ということです。

先の例で言うと、仮に服を脱ぎ散らかさないでほしいと望む側が僕だった場合、僕にとってそれは困るは困るけど本当にどうしても絶対に譲れない部分かと言ったら全然そんなことはありません。なので受け入れて、僕が服を洗濯機に入れます。そして脱ぎ散らかすことについてはもう考えません。枯れ葉が落ちるのと同じくらいふつうのこととして受け入れます。

とはいえこれをそのままいただいた質問に当てはめると、ふたりで解決しよう!ということにしかならないので、ここはひとつ折り合いをつけて、ふたりで解決するときの片方の気の持ちようを考えてみましょう。

もし行きたいところを伝えても意見が通らないことが絶対に承服できないのだとしたら、あしらわずにきちんと耳を傾けてほしいと伝えます。これは意見が通る通らない以前の話です。そして気持ちを強く持てばいいとかそういう話でもない。お互いに敬意を払えるかどうかの話です。

一方、や、まあそこまででもないか、とおもえるなら、それはそのまま受け入れましょう。諦めるという意味ではありません。そうではなくて、どこまで踏みとどまるかの線引きを自分でする、ということですね。

戦いとして挑めば当然そこには勝敗が生じます。敗戦がつづけば心が折れることもあるでしょう。でもこれは戦いではないし、あくまで折り合いです。勝とうとさえしなければ、負けることもありません。ひいては心をぽきりと折られることもなくなる、と僕はおもいます。

もちろん、折り合いもへったくれもない、相手がまったく聞く耳を持たない専制的な人であっても、やっぱり好きで離れられないパターンも往々にしてあります。何ならそれはそれでどうにかこうにかやっていったりするので、一概にこうあるべきとは言えません。

つまりこれは、今あるちいさな幸せをこの先も保つにはどうしたらいいか、という話でもあるのです。人それぞれとは言え、お互いを思えば着地点は必ずあります。据わりのいいところを探してみてください。


A. 戦いとして挑まないことです。




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その400につづく!

2023年7月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その398


みっちゃんインポッシブルさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
 

Q. 『人には伝わらないかもしれない何かしらのコツ』はありますか?私の場合で例えますと「飲み物や汁物を運ぶ時には、対象物を見ない」です。おそらく対象をじっと見てしまうと、こぼさない事に集中してしまってかえって動きがぎこちなくなるからだと思っています。学生時代、1階がキッチンで2階が客席の狭い喫茶店でアルバイトをしていましてこのコツを覚えてからは、最大で5杯の珈琲(トレー最大積載数4杯と反対の手に1杯)を階段を駆け上りながらこぼさず運べるようになりました。しかしこれ、今ひとつ人には伝わらない気がしています。万人にあてはまるかどうかもわかりません。(当時のバイトの先輩方ならわかってもらえるかもしれませんが、聞いた事なかったな…)こういう、役に立ちそうで立たなさそうな『コツ』があったら、教えてください。


あっこれはちょっとわかるような気がします。僕の認識ではどちらかというと、視界には入れるが焦点を合わせない、という感じなんだけど、合ってるかな?これを最初に教えといてくれたら、初めてバイトをしたうどん屋で天ぷら付き素麺をお客さんに頭からぶちまけることもなかったのにと悔やまれてなりません。でもたしかにこれは、経験がないとピンとこないかもしれないですね。

それで言うと似たような話がもうひとつあります。中型バイク(普通二輪免許)の教習に通っていたころのことです。

等間隔に置かれた赤いパイロン(カラーコーンですね)の間を縫うようにうねうねと蛇行する練習がどうしてもうまくできなくて、何度やってもパイロンを倒してしまっていたのだけれど、そのコツとして「視点を直近のパイロンではなく、数メートル先に合わせるように」と教わりました。

これがまたびっくりするほど覿面で、シンプルかつ明快な指導に目からウロコがぽろぽろ落ちた記憶があります。ついでに一本橋と言って、低い平均台みたいなところを落ちずにまっすぐ走るときも同じコツで難なくクリアできたことも付け加えておきましょう。

要はぶつかったり落ちたりしないように視線を落としてタイヤの辺りを気にしていると、その先が視界に入っていないので常にその場しのぎで進むことになってしまう、ということですね。

できるようになってみると、これがじつは意識の違いでもあることがわかります。

×パイロンを避ける
○蛇行する

×落ちないようにする
○渡りきる

そしてお気づきかもしれませんがこの向き合い方、人生におけるありとあらゆる状況にも当てはまります。「足元ではなく数メートル先に視点を置く」は今や僕にとって大切な哲学のひとつです。問題と直面したときの基準としてはかなりの効果を発揮してくれます。

冒頭の話とは別のように見えて、進むときに手元や足元に視点を置かない、という点ではやはり同じです。正直このコツは、コツ以上の意味があるとおもう。役に立ちそうで立たなそうどころの話ではないです。

なので回答としてはもうちょっと、役に立ちそうで立たなそうなコツを挙げておきましょう。

すれ違うはずの人と何度も同じ方向に避けて膠着する状況がありますが、あらかじめ視線をあさっての方向に逸らしておくと、ほぼ回避できます。どうも相手がどう動くかをお互いに探ってしまうのが良くないらしい。

役に立ちそうで立たなそうな、そして人に伝わりづらいコツとしてはぴったりだとおもいます。


A. すれ違うはずの人と何度も同じ方向に避けて膠着する状況がありますが、あらかじめ視線をあさっての方向に逸らしておくと、ほぼ回避できます。


おまけに説明もしづらい。




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その399につづく!

2023年7月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その397


黄身たちはどう焼けるかさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 自分の好きな子に熱中症をゆっくり言わせると?


なんというかこう、いろいろと考えさせられる質問です。「お巡りさんをグーで殴ると?」と同じくらい、どうなるもくそもない感があります。

もちろんこれは「ね、チューしよう」に聞こえるよ!という話なわけですが、髪だけでなく体毛も白くなり始めたしおしおの中年男性としては地蔵のように石化して無にならざるを得ません。悩みでもあるのか、よかったら相談に乗るぞ、と赤い前掛けをつけた地蔵のまま耳を傾けたい。

たとえば好きな子に熱中症をゆっくり発音してもらうことに成功し、言わせた側が興奮し、好きな子に「これが何なの」と怪訝な顔をされてもお茶を濁してそそくさと退散し、物陰に隠れて乱れた呼吸を整える、もしくはそれを最初から最後まで妄想する話としてはよくわかります。おそらく誰でも一度は通りそうな道です。わかるけれども、この話をおっさん相手にするのは明らかに、かつ大いに問題があります。地蔵として相談に乗る所以です。

意図するところを紐解く必要があったのでやむを得ずちょっとここに来てお座りなさい的なことになりましたが、とはいえ実のところ、チューよりも先に思い浮かんだ情景があるにはあります。

文字で表すとこうです。

「熱……中…!症っ……!」

ざわ…ざわ…

「ククク…」


A. 好きな子が賭博黙示録カイジになります。




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その398につづく!

2023年7月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その396


ハッピーバス停さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 北陸のサービスエリアのトイレの手洗い場には「冬期はお湯がでます」と書いてあることがあります。これを見る度に、私が夏目漱石だったら「I love you」を「冬期はお湯がでます」と訳しただろうなと思います。ムール貝博士にも、自分が夏目漱石だったら「I love you」をこう訳すというものはありますか?


これはいい話です。夏目漱石になる必要は全然ないと思いますが、「I love you」を「冬期はお湯がでます」と訳すセンスはかなりシビれるものがあります。たしかに冬期のお湯には、それまで好きでもなんでもなかった人に不意打ちでトクン…とときめいてしまうようなよろこびがあるし、言い得て妙です。

そもそも「愛する」が訳語として作られた日本語だから当たり前と言えば当たり前なんだけど、普段つかわないから気恥ずかしいとか以前に、食べると言わずに食すると言うような違和感があります。間違ってはいないにしても、親しみが薄いというか、あまり言わない。お互いの立場と距離がかなり限定されたフレーズという点では「さようなら」にも近いかもしれません。

もちろん、「さようなら」は響きも美しい最高の日本語のひとつです。ただこれも実際のところ日常では言うほど使いません。使うのはむしろ「じゃあね」「それでは」「バイバイ」といった原型を留めないバリエーションのほうが圧倒的に多い。親しければなおさらです。

だとすれば「I love you」も「愛してる」だけに限らず、さようならに対するじゃあねと同じくらい原型を留めない多くのバリエーションが必要なのではないだろうか。

そういう意味では「月が綺麗ですね」にも一定の理があります。原型、留めてないですからね。

しかるに「冬期はお湯がでます」は原型を1ミリも留めていないばかりか、愛とは何かを改めて考えさせられるほどの奥行きがあります。なんとなれば「月が綺麗ですね」が相手の察してくれることを前提とした身勝手な一言であるのに対し、こちらは相手がどうあれ変わらず温もりを注いでくれる無償の印象があるからです。

そしてこの視点に立った途端、世の中のありとあらゆるフレーズがそれまで気づかなかった愛情を示しているような気がしてきます。

たとえば僕の手元には今たまたま乾燥剤の小袋があって「たべられません」と書いてあるのだけれど、じっと見つめているうちにこれもまた「あなたにたべてほしくない…なぜってそれは…」と移ろって、扇情的かつ官能的な「I love you」の訳に思われてくるのです。なんという詩情だろう!思わぬ愛の直撃にノックアウト必至です。

見渡せば他にもいろいろあるのは疑いないけれど、こうなると僕はもう乾燥剤以外のことは考えられないので、これにします。たまたま手元に乾燥剤があってよかったです。


A. 「たべられません」


ちなみにムール貝博士は「木っ端微塵さ」とか「草も生えない」とかになるとおもいます。すべてを灼き尽くして焦土と化すほど燃え上がるとかたぶん、そういうことでしょうね。




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その397につづく!