「ある昼行灯の問題/still on the table」と「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」のテキストをプルクワパ霊苑に埋葬してあります。よかったら読んでみてください。
僕は昔から「それ以外の選択肢」に心を寄せる傾向があります。それ以外というのはつまり、多くの人が選ぶわけではないし目立たないけれども、確かにあって手を伸ばすことができる選択肢のことです。
どちらかといえば僕自身が「それ以外の選択肢」に属している自覚もあって、それを選択することはそのまま自分自身を肯定することにつながっているのかもしれません。
思えばリーディングというスタイルからしてそうだったし、それによって生まれたアルバム群もまた当然そこに連なります。
また、アルバムとしてだけでなく、収録された作品にも「それ以外の選択肢」はあるわけだから、これはもうある種のフラクタルと言っていいでしょう。
「フィボナッチは鳳梨を食べたか?/pineapple as a depreciable asset」は、おそらく「紙芝居を安全に楽しむために /you may be the last to carry on」と並んでその極北、でなければ辺縁ギリギリに位置する一編です。何を言ってるのかわからないかもしれないけど、これ以上の「それ以外」にはなかなかお目にかかれないんじゃないかとおもう。深海魚みたいですね。
タケウチカズタケの才能をこんな得体の知れない深海魚の調理に浪費させてしまっていいのかという後ろめたさや自責の念はもちろんあります。もちろんあるけど、アグロー案内なので仕方がありません。びっくりするほど美味しいスペシャリテに仕上げてもらった以上、僕としては次の深海魚を狩るべくしれっとまた海に潜るだけです。
テキストはもともと、朗読の練習のために書いた記憶があります。ただ、なぜパイナップルなのかは全然おぼえていない。最初はむしろフィボナッチに焦点を当てていたような気もするから、たぶん書いているうちにピントがずれていったんじゃないかと思う。出口に辿り着ける迷宮よりも、一向に辿り着かない迷宮で快適に過ごそうとする性分なので、これも仕方がありません。
この性分はまた、わかることよりもわからないことのほうに重きを置いている、と言い換えることができます。わからないほうがいい、ではなく、わからなくてもいいに近いニュアンスです。
何であれ大切なのは考えつづけることであって、答えではない、と僕はつねづね胸に刻んでいるところがあります。イージーな答えはそこで思考が止まってしまうという点で、いつも危うい。わからないものは無理にわかろうとせずに、わからないまま置いておけばいい。必要ならまた考えるときが来る。
そうした向き合い方を知るひとつの端緒として、最初から最後まで何ひとつわからないゴリッとした異物がさも意味ありげに存在していることはそれだけでたしかな意味があると、僕は思うのです。それこそモノリスのように。