2022年1月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その359


リトル豆移動さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 三角バミューダとより良い転落の為のロールモデルの共通点として「足のサイズ」がありますが大吾さんにとってこの言葉にはどんな意味が込められていますか?


これまたいい質問です。

2004年の「1/8,000,000」から2020年の「化野/ADASHINO of the dead」までの全作品を通じて、僕は主題とまったく関係のない共通のモチーフを詞の中にちょいちょいねじ込み、一見するとつながっていないように見える点と点を結んで作品世界を網のように広げていくところがあります。三つ足の猫カッコいい靴なんかがそうですね。

足のサイズもそのひとつです。それ自体が何かを具体的に表しているとまでは言いませんが、「すごく大事な情報として扱われるどうでもいいもの」という意味ではかなり意識的にねじ込まれています。

ではなぜそんな、具体的に何かを象徴しているわけではないどうでもいいものがねじ込まれているのかというと、これはモンティ・パイソンへのオマージュだからです。

モンティ・パイソンは1960年代のイギリスに颯爽と現れ、世界中の好事家たちにビートルズ級の影響を及ぼし、今も語り継がれる伝説のコント集団ですが(テリー・ギリアムもメンバーの一人です)、そのスケッチ(コントのことです)のひとつに足の、というか靴のサイズがほんの一瞬だけ、出てきます。

たしか主婦が助けを求めて消防署か何かに電話をして、つながらなかったり一方的に切られたりして要領を得ないやりとりをくり返しながら、現状把握のための聞き取り調査みたいな流れで「靴のサイズ?3ですけど?」的なセリフに行き着くのです。そしてこのやりとりは電話を別の人に代わっても、そのあと切り替わったぜんぜん別のコントに出てくるぜんぜん別の電話でも、同じようにくり返されます。どう考えても必要ないというかどうでもいいことこの上ない靴のサイズが、緊迫した状況における必要不可欠な情報として扱われているわけですね。


言ってみればそれだけのことです。それだけのことですが、無意味におもえるものに込められたちょっとした意図のよろこびを知る僕としては、感無量というほかありません。気に留めてもらえてよかった!ひょっとするとむしろ期待に添えなくて謝るところなのかもしれないですけど。

なので全然、意味はありません。


A. モンティ・パイソンへのオマージュです。




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その360につづく! 

2022年1月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その358


びっくり鈍器さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. SDGsの最後の小文字sって必要な存在なんでしょうか?


いい質問です。と同時にこれはおそらく、ある意味とても日本らしい質問でもあります。

もうだいぶ以前のことになりますが、ある会社のウェブサイト立ち上げに社員でもなんでもない単なる一個人である僕がなぜかお手伝いとして加わり、会議というかシステム要件定義の場にしれっと同席していたことがあります。3つ4つの会社がそれぞれ3、4人ずつ集まっていたので、話し合いが進むにつれて誰がどこの誰だかさっぱりわからなくなったものです。もちろんその中でいちばん不可解な存在だったのは僕だったとおもいますけど。

そうした場のあれこれで今も忘れられないのは、誰かが「グーグルマップの…」と言うたび、それに呼応するようにシステムを担当する側の偉い人が「グーグルマップは…」と答えていたことです。

何しろ日本では「Googleマップ」と表記されているし、グーグルマップスと入力しても予測変換で「グーグルマップ」と「す」に分かれるくらいなので、かなり多くの日本人が知らずにいるのではないかとおもわれますが、正式名称は「Google Maps」です。

なぜ複数形なのかをここで論じるつもりはもちろんありません。僕がここで言いたいのは、どういうわけか日本では複数形というものに対して言語的に大らかであるという点です。たとえば「子供」がそもそも「子」の複数形だったはずなのにそれを忘れて「子供たち」とさらに重ねてしまうあたりからもその雑っぷりがうかがえます。なんとなくここには言語学的な認識の違いみたいなものがある気もするんだけど、そこにも今は立ち入らないでおきましょう。

日本語の観点からするとSDGsも同じ印象があります。複数であることをわざわざ念押ししなくたってSDGで分かりそうなもんじゃないのと首をかしげる気持ちはよくわかるけれども、英語ではそうはいきません。英語圏におけるちっこいsの権力はロスチャイルド家のように強大であり、あるのとないのとでは玉ねぎ1個と玉ねぎ3個くらいの歴然たる違いが出てくるのです。

またSDGsというのはよく知られているように「すてきなダイゴさん」の略称なわけですが、最後のsを取り除くとそれは「すてきなダイゴ」に成り果ててしまいます。もちろんどっちでもすてきなのは変わりません。変わりませんが、違うと言えばぜんぜん違います。何がと言われても困るけど、兎にも角にもなくてはならないし、あってこそある種の平和が保たれる、それがちっこいsというものです。ゆるがせにすることはできません。


A. 必要にして不可欠な存在です。




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その359につづく!  

2022年1月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その357


すみっコごろしさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「褒め」と「のろけ」の違いはどこなんでしょう?私はパートナーを尊敬しているのと良いものは良いと言いたい方なのでパートナーの良いところを言いたい時があるのですがそれは「のろけ」でしかなく場合によっては人を傷つける事もありうるのか?と考えてしまうことがあります。大吾さんはパートナーさんのすばらしさをよく呟いておられそれがとても自然で素敵だなあと思っているのでこのどうでもいい逡巡にツッコミをいただけませんでしょうか。


僕は昔から、伴侶についてのいい話を聞くのが大好きです。ひとりのときは「ううむ、こうなりたいものだなあ」とおもっていたし、ふたりになった今でも「ううむ、こうありたいものだなあ」とおもいます。そしていただいた質問は、質問の時点ですごくいい話です。われわれを取り巻く世界に向けて、おまえらみんなちょっとは見習えと言いたい。

僕がこうした話を好むのはつまり、それを語る人が浜辺に打ち上げられたきれいな貝殻を拾う人だからです。ここにもゴミがある、ほらあそこにも、と言いがちな心と、こんな貝殻があった!と見せてくれる心のどちらがいいかなんて、考えるまでもない。ですよね?

したがってこの質問は、「いい貝殻を見せることは時として罪なんだろうか?」と置き換えることができます。罪なわけないじゃないですか?そんなことを気にしなくちゃいけない世界は切なすぎる。

とはいえ貝殻を見せて誰かがダメージを負う、もしくは激しく吐血することを心配されるなら、いちばん手っ取り早いのは話に伴侶を持ち出さないことです。

褒めることが人の長所に光を当てることだとすれば、のろけることには「それを語るじぶんの幸せ」が確実に含まれています。明らかな違いがあるとすればここです。ただし、じぶんの話をしているわけではなくても「それを語るあなたも幸せ」と認定されてしまえばそこに違いはなくなります。そして実際、そう受け止められがちです。

どれだけこちらが注意深くその両者をきちんと区別していても、相手がそれを区別しないなら結果は変わりません。これはもう徹頭徹尾、「受け止める側の問題でしかない」と心に刻みましょう。そしてその可能性がすこしでもありそうなら、聞き役に徹するか、踏みとどまることです。

ここだけの話、安田タイル工業の専務も「おまえは良い浜辺を見つけた」みたいなことしか言わないし、浜辺は基本的にどこも同じできれいな貝殻も同じだけあって流れ着いたゴミはふたりで片付けるように努めるしかないんだと何万回言ってもわからないので、僕もなるべく持ち出さないように心がけています。

大事なのは、じぶんにとってその浜辺がどう見えているかということであって、人が見てどう思うかということではありません。いい貝殻を拾ったら見せたくなるのが人情というものだし、少なくとも僕は見せてもらいたいし、いっしょにワー!と言いたいです。なのでそういうときは僕のところに来てください。昔も今も、きれいな貝殻はいつでも変わらずウェルカムです。

本当は誰だってそのはずだと、僕なんかはおもうんですけども。


A. 伴侶に関するかぎり、ほぼ同じと見なされます




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その358につづく! 

2022年1月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その356


あけましておめでとうございます。

それでも日々はつづく、ということを改めて実感させられる2022年です。雨が降ろうと槍が降ろうと、それでも明日はやってくるし、実際にこうして来ています。おもえば僕が子どものころから、ということはおそらくそれよりもずっとずっと前から、近ごろ世界が何だかおかしいと言われつづけてきたけれど、今ならそういうことじゃなかったんだなとわかります。いつの時代もおかしいと感じるすべては世代の交代と時代の進行に伴う変化であって、おかしいことなど何もない。天変地異は別として、パンデミックにしても社会の分断にしても、考えてみりゃそうだよな、と頷けることばかりです。

とりあえずまた来る明日のために、ごはんの支度をしよう。


ステップ輪ゴムさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんが奥様を「うちのひと」と呼ぶようになった経緯があれば教えていただきたいです。以前はまた違う呼び方をされていたのでしょうか?


多くの人に認知される有名人ならともかく、僕がそんな話をしたところで誰の関心も呼ばないとおもいますが、お答えしましょう。

経緯は特にありません。しいて言えば「妻が」とか「夫が」という言い方には立場とか性差が意図せず滲む印象があるので、なんかめんどくせえなと避けているところがあります。いちばん近くにいる大事な存在を指すだけなのに、夫とか妻とか立場によって使い分ける意味あんのかな、ない気がするな、ということですね。結婚していようといまいと、また性自認が何であろうと、共に歩んでいるならいつでも使えるのでとても楽ちんです。なので「連れ合い」もよく使います。世代もあってか「相方」はまず使わないですね。

その昔、たしか柳瀬尚紀翁だったとおもうけど、随筆か何かで「至近距離の人」という表現があったんですよね。それがスマートですごくカッコよく見えて、オシャレなこと言いやがる!とひとりでジタバタした記憶があります。実際、真似していたような気もする。そんなことまで意識して呼び方を決めたわけでもないけど、今にしておもえばそのニュートラル感からは確実に影響を受けています。ただやっぱり文語的な表現で「至近距離の人がさあ」とは日常的に言えるわけもないので、現実にはまず使いません。重要なのはあくまでそのスタンスです。

一応念を押しておくと、誰もがそうあるべきとは全然おもいません。人が夫や妻と呼ぶのを聞くのはむしろ好きなほうです(なぜだろう…?)。うちの人が僕のことを外で話すときは「夫」で、それも気になりません。なのでこれはまあ、性分みたいなものですね。これが良いともべつにおもってないし、あくまで僕自身がしっくりくるというだけのことです。そういう人もいれば、そうでない人もいる、ルマンドが好きだからと言ってホワイトロリータをわざわざ否定する人はいないのと同じように、ただそれを選択するだけの多様性が保たれるなら、やっぱりそれがベストですよね。


A. 柳瀬尚紀(のはず…)の影響を受けているようです。




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その357につづく!