2026年3月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その474


ダンシング疲労さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 居酒屋で出してもらったおしぼりはどんな形に変形させますか?


何を隠そう、僕は世界おしぼり変形選手権に彗星のごとく現れていきなり優勝を果たし、地球代表として宇宙大会への切符をみごと獲得、開催地であるプロキシマ・ケンタウリbに向けて出発するロケットの打ち上げ当日に寝過ごした夢を見たことがあるくらいの男です。

「この世のすべてはおしぼりで再現できる」が座右の銘で、その名が知られるきっかけはおしぼりで再現した葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」がSNSでバズり散らかしたことだったとされています。

生物の造形が得意で、とりわけアノマロカリスといった先カンブリア紀のバージェス動物群を得意としましたが、世界おしぼり変形選手権の日本予選ではよりによって河鍋暁斎バージョンの九相図を再現し、そのあまりの生々しさに失神者が続出、他を寄せつけない圧倒的かつ唯一無二の才能に異論は一切なかったものの、果たしてこれを日本代表として選出してよいのか、激しい賛否の渦を巻き起こしたのも記憶に新しいところです。

世界選手権を制した作品はエジプトはギザのいわゆる三大ピラミッドで、これは単に四角錐が3つ並んだだけのように見えて、基部に残された化粧石や積み上げた石材1段あたりの高さがまちまちである点まで正確であったばかりか、完全には解明されていないはずの大ピラミッドの複雑な内部構造まで再現されていたことから、エジプト考古省から抗議を受け、保存をせず速やかにおしぼりに戻すよう強く要請されたという逸話が今も都市伝説として語り継がれています。

また宇宙大会では四次元超立方体である正八胞体を出品するというスクープ報道が拡散され、前代未聞の再現可能性に多くの数学者たちが否定的な見解を示したものの、ロケットの打ち上げ当日に寝過ごして棄権となったことが世界規模で炎上し、事実上の引退へと追い込まれてしまったため、実際に正八胞体を再現できたのかどうかは今も謎のままです。

少なくとも当人である僕としては、なんだかよくわからないけどすごくいい夢をみた、と申せましょう。


A. 正八胞体です。




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その475につづく!

2026年3月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その473


友達以上ルイヴィトン未満さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは日々の生活の中で、良い知らせが来るといった予兆があった事はありますか?(茶柱が立つ以外で)


そうですね、日々の期待値を上げてくれるちょっと珍しい光景でいえば、あります。僕はそもそも茶柱みたいな日常のちょっとしたイレギュラーに目がないので、なんならわりとしょっちゅうあります。

たとえば玉子を割ったら黄身がふたつあった、みたいなことです。それだけで確率の低い何かに当選したような気がするというか、実質そのとおりだし、それが朝ならなおさらです。少なくとも、こりゃ良い1日になっちゃうぜと気が大きくなってしまうのは否めません。

そしてその方向性を延長すると、道に落ちているバナナの皮なんかもその例に含まれます。バナナの皮が道に落ちてるわけないし見たことないとおもわれるかもしれませんが、僕は過去に3度ほど目撃しているので、実際あるのです。歩きながらバナナを食べるだけならともかく、それを路上でポイ捨てするという子どもでも理解できる倫理観の欠如が必要になるため、まず確実にSSRであり、得られる期待値は茶柱よりもはるかに上であると言えましょう。一度だけバナナをもぐもぐする人とすれ違ったことがあって、それだけで血圧が爆上がりだったのだけれど、その皮をどう処理するかまで見届けるべきか迷ったことがあります。今おもえば後をつけるべきだったとおもう。

そういえば今週は、バッグから取り出したうまい棒を食べながら歩き去る壮年の女性を見かけて、すれ違いざまに思わず振り返ってしまったのだけれど、これなんかも僕には吉兆のひとつです。滅多に姿を現さない神様に遭遇したような印象なんでしょうね。彼女はどこであのうまい棒を買ったんだろう?買ったのは1本だけだったんだろうか?そして何味だったんだろう?

他にも町なかで全力疾走する人(スーツ姿だとポイントが高い)、信号がずっと青、空をひらひらと舞うビニール袋なんかも吉兆です。一定の確率で存在することが明らかな四つ葉のクローバーよりもずっと縁起がいい気がしています。

ただ、実際に予兆だったためしはかつて一度もありません。

わかります。わかります。ご質問の主旨としては、「良い知らせの予兆を茶柱以外で経験したことはあるか」ということですよね?

今の僕はこう考えます。たとえば茶柱が立つことは、そもそもそれ自体が希少で、かつ幸運です。その上でさらに何か良いことがあると受け止めるのはいったいどういうことなのか?ひょっとして僕らは、何らかの抽選に当選したのなら、当然その景品があるはずだと考えているだけではないのか?

福引で特等の大当たりが出た、その景品が1本の茶柱だったとして、それを大よろこびできる人はそう多くないでしょう。僕も別にいりません。だからこそ皆これを結果ではなく、もっといいことがある前触れとして解釈しているのです。認知的不協和の回避と言い換えてもよろしい。

だとすれば、こう問い返すこともできます。茶柱の立つこと自体が幸運なのだとすれば、むしろ茶柱の立たないほうが人生におけるなけなしの幸運を消費せずに済み、日常の期待値が上がるのではないか?

ただそうなるとそれはそれで日々が味気ないし、茶柱やバナナの皮や空飛ぶビニール袋に遭遇すればやっぱりうれしいものです。なので実際にはこの先にいい知らせがあるかどうかよりも、いいことありそうと思えるだけで薄暗い日々に光が差す、その心持ちがまた新たな福を招いてくれるのかもしれないな、と近ごろはおもいます、しみじみと。


A. 道端のバナナの皮とか、全力疾走する人なんかが吉兆ということになっています。


ちなみに毎日のように緑茶を飲んではいるけれど、最近の茶漉しは昔の急須とちがって網目が細かいので、茶柱が湯呑みにまぎれこむ余地、じつはゼロなんですよね…。




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その474につづく!