2025年8月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その459

過剰な気遣い


アメリカン土偶さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. することもなく部屋の中でピラミッドのように正方形の物を積み重ねていたとき、レコード→焼き海苔→EP盤→シングルCD→付箋→サイコロ まではいい感じに重なったのですが、最上段にピッタリくるものがが見つかりません。僕のピラミッドのキャップストーンには何が最適なのでしょうか。


かれこれ15年以上、途切れ途切れに450回以上もやらかしてきた質問箱ですが、これほど後悔したことはありません。なんとなれば「退屈で困っている」という前々回に取り上げた質問の、まさしく最適解が別の質問として寄せられていたことに、いま気づいたからです。こんなことってあるだろうか?もし僕がマッチングアプリだったら、この奇異なる巡り合わせを見逃したことによって、2度と起動できないくらいのダメージを負っていたにちがいありません。

かつてゴルフボールを3つ重ねることに苦心していたことのある僕に言わせれば、退屈こそが人生である、みたいなことを前々回に書いたような気がしますが、ここは改めて、出し得るかぎりの大きな声で念を押しておくべきでしょう。

退屈こそが人生です。

することがないなら正方形のものをピラミッド状に積み重ねたらいいじゃないか?むしろ正方形のものをピラミッド状に積み上げることを時間の使い方として否定するだけの正当な理由が果たしてあるだろうか?

断じてありません。

とかく人は日々に意味や価値を見出そうとしがちです。そして行動にもまた、いちいち理由を求めがちです。そして意味や価値や理由がこれといってない場合、自身には関係のない不要な情報として、ばっさり切り捨てがちです。

イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「なぜエベレストに?(Why did you want to climb Mount Everest?)」と問われて「そこにあるからです(Because it's there.)」と答えた逸話は広く知られています。彼の端的な答えは、なぜ意味や理由が暗黙の前提になっているのかという根源的な問いでもあると言えるでしょう。

にもかかわらず、人は今もやはり問うのです。「なぜ正方形のものをピラミッド状に積むのか?」と。

そこに正方形のものがあるからというほかありません。

意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことは、誰にとっても豊かです。この点に異存はありません。しかしこの点に基準を置くと、意味がなくて非生産的な時間は当然、マイナスになります。

一方、意味がなくて非生産的な時間を楽しく過ごせるならば、意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことはより豊かになります。ここにはマイナスどころか、プラスしかありません。

実際のところどちらが豊かな日々であると言えるか、考えるまでもないはずです。

前々回はめんどくさくて省いてしまったけれど、退屈こそ味わう甲斐があるという、その理由がここにあります。

それはまあそれとして今回の回答ですが、僕はミックスベジタブルのにんじんを推したいとおもいます。なんとなればサイコロの大きさがどうあれ、にんじんなら削ってより小さくすることが可能だからです。もちろん、加工せずにそのままちょこんと乗せるのもよいでしょう。

より厳密に、ピラミッドのキャップストーンのように四角錐にしたいという場合でも、ミックスベジタブルのにんじんは自由にカットできる点でその要求に十分応えられる逸材です。

せっかく正方形しばりで来たのだから、個人的にはできれば加工せずにそのままちょこんと乗せたいですね。サイコロがそれを下回るサイズでないことを願うばかりです。


A. ミックスベジタブルのにんじんがオススメです。




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その460につづく!

2025年8月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その458


たけのこの佐藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 身体を起こすエネルギーはないけど、眠れもしないとき、スマホをダラダラ見るのをやめたいです。代わりにできることやオススメの考え事があれば教えてください!


僕はわりと日ごろから床に寝っ転がる男なのだけれど、そんなに多くの人が日常的にコロコロと床に寝っ転がっているともおもえないので、ここでは仮にベッドでの話としておきましょう。

気が向くとすぐ床に寝っ転がる人の割合に比べれば、寝床にスマホを持ちこむ人の割合はおそらくめちゃめちゃ多そうな印象です。したがって、同じような悩みを抱く人もまためちゃめちゃ多いだろうな、と想像できます。

そしてこれを他人事のように書かざるを得ないのは、僕が寝床にスマホを置かない男だからです。

なぜと問われると、ちょっと困ります。何しろ意識的にそうしているわけでもありません。別にいいか、くらいにしか思っていないというか、なぜだろう。しいて言えば寝ることしか考えてないんじゃないだろうか。

枕元にはいつも何かしらの本があって、寝つきのわるいときは眠たくなるまで、すでに眠たいときはもっと眠たくなるまでぺらぺらとめくっています。ただ日常的にそれほど本に対する欲求が強くない場合、あまり甲斐がないのもよくわかる。それならまだスマホのほうが、となるのも無理はありません。

おもうに、おそらくスマホは僕らが自覚する以上に、安心と結びついている印象があります。

僕なんかはたまにスマホを忘れて外出してもそれほど緊迫しないというか、別に困りもしない気の毒な生き様なので、あらまあ程度で済みますが、大多数の人はそうならないでしょう。今や連絡、支払い、指定の時間や地図なんかにしても、これなくしては立ち行かない社会です。なくてよいときなどほとんどありません。

そして手元にあるのが当たり前ということは、手元にないと当然、不安に直結します。現代人にとってスマホは、特に明確なわけでもない茫漠とした不安を抑制してくれる、お守りみたいなものでもあるのです。そもそもスマホが存在しなければ抱きようのない不安でもある、という身も蓋もない話はこの際脇に寄せておきましょう。

そうなるとたとえば、本を読むといいよ、とかこんなことを考えるといいよ、というアドバイスはたぶん役にたちません。とにかくまず至近距離にスマホがないと落ち着かないし、スマホがあったらあったでそっちに気を取られて読書も考え事もへったくれもないからです。

以上を踏まえた上で、というのはつまり、スマホを至近距離に置いた上で触れずに済む、最もシンプルな解決のひとつはラジオとかポッドキャスト、もしくはオーディオブックだと僕はおもいます。

日常のお供からアカデミックなものまで、選択肢は無数にあるし、誰かの話や朗読は聞いているうちにそのままじぶんの考えごとに発展することもあるでしょう。

とりわけ僕が強調したいのは、です。耳に心地よく感じられる声というのは聞いているだけで癒され、脳汁が溢れ出すところがあります。他では聞けないような特別な話をしているわけでもないし、何なら話の印象が残らなかったりするのに、話し方とか、声の高低とか、ペースとか、ただ耳を傾けているだけで満たされることが実際あるんですよね。

なのでここはひとつ、じぶんにしっくりくる番組やパーソナリティ、もしくは朗読を探してみましょう。有用かどうかは問題ではありません。ただただ、リラックスできるかどうかです。

もしぴったりのものに出会うことができたら、自然と寝床でスマホに触れることも減るんじゃないかとおもいます。好きなアーティストのポッドキャストなんかあったら、入り口としては最高ですね。


A. じぶんに心地よい声を探してみましょう。




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その459につづく!


2025年8月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その457


カリオストロ四郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 現在ニュージーランドで過ごしている23歳・オスです。なんとか仕事が見つかり生活が落ち着きましたが、この国は日本と比べて娯楽が少なく、日本のぬるま湯に浸りまくっていた私にとって、この環境が非常に退屈だと感じ始めています。おまけに友達も少なく、もちろん恋人もいないため、毎日ひもじい思いをするばかりです。ムール貝博士が娯楽の少ない外国で生活をするなら、余暇時間は何をして過ごしますか?


ニュージーランド、いいですね。と言っても僕が知っているのはキウイ(鳥)とオールブラックスくらいなのでほとんど何も知りませんが、とりわけカカポというずんぐりした鳥が暮らす世界で唯一の土地である、という点で個人的に心を寄せています。


カカポはオウムの仲間で、キウイと同じく夜行性の飛ばない鳥です。ただし、キウイと違ってカカポの生息域には古くから捕食者が存在しなかったため、防衛反応や警戒心というものがほとんどありません。実際、人が近づいても「?」という顔をするだけです。したがって、人間の入植に伴ってネズミなんかの捕食者が生息域に侵入してからも、彼らが捕食者であるという認識をもつことができず、完全に無防備のまま、あっという間にその数が減ってしまいました。近年の手厚い保護によってだいぶ数を増やしたものの、それでもまだ300匹に満たない、まごうかたなき絶滅危惧種です。

しかし僕が心を寄せているのは絶滅危惧種だからではありません。長年の環境によるところが大きいとはいえ、カカポが敵意の欠片も持たない鳥だからです。

徹頭徹尾弱肉強食が貫かれるこの世界において、カカポほどやさしく、平和で、尊い生物は他にありません。

敵がいなかったんだから当然といえば当然だけれど、敵意を持ち合わせないということは、極端に言い切ってしまえば愛しかないということです。そんなファンタジー丸出しの生物が現実に存在するなんて、とカカポのことを考えるたびに心がふるえます。だって愛しか知らない種族ですよ!フィクションだったら陳腐と一蹴されそうだけど、現実だからこそその事実は重い。

キウイも含めて、カカポにかぎらず総じて捕食圧が著しく低かった、ニュージーランドとは世界的にも極めて特異な土地のひとつです。


さて、そういう話ではないことを思い出したところで、質問に戻りましょう。若いうちに海外に出ることはともかく、そこで職を得る、というのは僕からするととんでもない偉業です。それはこの先、英語が通じる国ならどこでも生きていけるということでもあるし、なんなら他のどんな国でも、その胆力があれば生きていけます。誰にでもできるわけでは全然ないし、それをすでに成し遂げてなんならちょっと落ち着いているとすれば、それだけで心から尊敬の念を抱かずにはいられません。

一方、僕にとってちょっと不思議なのは、はて娯楽とはなんぞや、という点です。

僕が20代前半だったころを思い出してみると、そうですね、毎晩のようにビリヤードに通っていました。誰かと競うゲームのように思われるかもしれないけど、ボウラードというボウリングを模したプレイ方法があるので、1人でもぜんぜん問題なかったのです。バイト先の先輩と打つこともあったけど、缶コーヒーと煙草を手にひとりコツコツ打ってた記憶があります。それ以外はどうかというと、本を買いまくったり、美術館に通ったり、CDを買いまくったり、レンタルビデオ店で映画を借りまくったり、パンを焼いてみたり、ヤマハのXJRをあてもなく乗り回しては派手に事故って宙を舞ったりとか、その程度です。とくにCDはひと月に30枚以上買ってたとおもう。

しかるにマンガや音楽や映画は、現代においてネット環境があれば事足ります。また知りたいとか学びたいことがあれば、図書館や博物館に行かずともある程度まではカバーできるでしょう。

退屈ってどういうことやねん、と僕なんかは訝ります。

つまり僕からすると、これまでが娯楽に溢れすぎていた、という印象です。あまりに暇すぎてすることがなかった若かりしころの僕はゴルフボールを3個重ねることに多大な時間を費やしていたことがありますが(一度だけ成功したことがあります)、どう考えてもネット回線があればそんなことはしていません。退屈とはそういうことです。なぜゴルフをしない僕がゴルフボールを3個持っていたのかは、思い出そうとしてみてもさっぱりわからない。

したがって、今感じている退屈こそむしろ極めて貴重な経験である、と断言してよいでしょう。それはまちがいなく同世代が感じることのないもののひとつであり、僕からすると今のうちに全身で堪能しておくべき経験のひとつです。確実にこの先の大きな糧にもなるでしょう。

どうしても耐えられなくなった場合は、カカポに思いを馳せてみてください。


A. 退屈、それは現代では得難い経験のひとつです。




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その458につづく!

2025年6月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その456


いきなりステッキさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「こんなに頑張ったのに報われない」と思った時に投げ出さず正気を保つ方法を教えて下さい。


たしかに僕らの日々は、費やした労力に対して報われないことのほうが多いですよね。え、そんなことないよ以前はわたしもそう思ってたけど諦めなければ必ず報われるから!と言う人は初めから恵まれたあちら側にいることに無自覚なので、何をしようと一向に報われない僕らの徒労など知るよしもないでしょう。

しかしがんばれば報われるという期待がそもそも人間特有の感覚であって、多くの生物にとってはそうではありません。

百獣の王たるライオンを例にとってみましょう。

王とて腹は減るので日々狩りに勤しんでいるわけですが、毎回必ず獲物にありつけるわけではありません。本気を出して、全力で向き合って、なんなら普段よりはるかに粘ったにもかかわらず、収穫がゼロの日もあります。王であるにも関わらずです。なぜ王なのに空腹をこらえているのか、王であるならなおのこと、腑に落ちないものがあるでしょう。

しかしライオンにとっては、どうあれいつでも、捕食できるかできないかです。がんばりは関係ありません。こんなにがんばったんだからガゼルの1頭くらい食えたっていいじゃないか、と僕らなら愚痴りそうですが、愚痴る甲斐もないことを、ヒト以外の生物はよく知っています。それで腹が満たされるわけではないからです。

ヒト以外の生物にとって、行動と対価は結ばれていません。望んだ結果になるか、ならないかしかない。ではなぜヒトだけが行動に対価を求めるのかといえば、それは僕らが資本主義にどっぷりと浸かりきっているから、と言うほかありません。報われないという考えかたはまさにその弊害もしくは副作用と言えるでしょう。

もちろん、報われる日もあります。それはヒト以外の生物も同じです。しかしそれはがんばったからではありません。必要からくる行動にはいつだって全力でがんばっているのだから、がんばりは理由にならない。なんだかよくわからないがとにかく上手くいった、というだけです。

なので報われると期待することを、まずやめてみましょう。徹頭徹尾、僕らは報われません。報われる人もいるけれど、それは報われる星に生まれついた人であって、僕らではない。人生は不平等と不公平のオンパレードです。もし報われたと感じたなら、がんばったんだから妥当なことだと考えるのではなく、宝くじに当たったようなものとして全身全霊で喜びを表現しましょう。僕らが報われることなど今も昔も、そしてこの先もほとんどないのです。

言うまでもなくここには、悲しみがあります。しかしその悲しみを噛みしめれば噛みしめるほど、人生には味が出るものです。よろしくやってる恵まれた連中には中指を突き立てておけばよろしい。


A. そもそも僕らは報われる星に生まれついてはいないのです。




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その457につづく!

 

2025年6月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その455



洗濯機フライドチキンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 来年2月に第2子が産まれます。家族で相談した結果なのですが、半年間の育休をとることに罪悪感があり、職場での立場も悪くなりそうだという予感がしています。人事や上司に伝えるときは吐き気がしそうでした。家族との時間を大切にしたいという気持ちも強いのですが、そのような不安に駆られ、育休の間も精神不安定になりそうな気がします。このような状態をどう乗り越えればよいのでしょうか。


なるほど、これは切実な問題です。ご質問にある来年2月とは今年2月のことなので、梅雨入りを果たした今ごろ何言ってやがるとお思いでしょうが、どうあれ考えることはそれだけでとても大事なので、考えてみましょう。

本来であれば1ミリも抱く必要がないはずのこの罪悪感に、よくもわるくも日本らしさがたっぷりと詰まっています。それゆえに育休の取得に二の足を踏む人や、実際に断念する人が今も数えきれないほどいるはずです。

そう考えると勤務先が育休を制度として導入して実際に取得できること、そしていろいろと思うところはありながらも取得を選び、申請した洗濯機フライドチキンさんをまずは全力で讃えるべきだと、僕なんかはおもいます。すごい!

罪悪感については、必要ないと頭では理解していても抱いてしまうのはしかたありません。実際のところ日本人とはそういう民であり、日本とはそういう国です。

だからこそ、洗濯機フライドチキンさんの決断には、計り知れないほどの大きな意味があります。家庭にとっても、勤務先にとっても、そして社会にとってもです。

なんらかの後ろめたさが拭えないのは、それが当たり前の社会では全然ないからです。そして誰もが二の足を踏み、断念するとすれば、永遠に当たり前の社会にはなりません。わざわざ強調するのもバカバカしい気がするけれど、いつでも誰かが一歩を踏み出す必要があるのです。

初めて月面に降り立ったアームストロング船長の有名な一言を思い出してください。

“That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.”(一人としては小さな一歩ですが、人類としては偉大な飛躍です)

これは日本において育休を取得した人にも当てはまります。大袈裟でもなんでもなく、一人が一歩を踏み出すからこそ後につづくことができるのであり、やがてそれが道になるからです。

いずれ育休を取得することが義務にも近いほど当たり前すぎる社会になり、本人にその気がなくとも周囲や会社に「バカ言ってんじゃねえ、他の人が申請しづらくなるほうが迷惑なんだよ、とっとと申請してこい」と蹴り飛ばされるような時代が来る、そのための礎を今まさに築いていることに、胸を張ってください。

もちろん直接的には家族のため、ご自身のためという認識だとおもいますが、実際には数えきれない多くの後進のためになっています。今はまだ他に人がいないような薄暗い道を罪悪感とともに恐る恐る歩いているように見える、その背中はとてつもなく広くて大きい。どれほど誇らしい親御であることか、生まれて間もないお子さんに懇々と言い聞かせたいくらいです。

道を切り開いてくれてありがとう!


A. アームストロング船長と同じ偉業を成したと考えてみてください。




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その456につづく! 

2025年5月30日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その454


国破れてパンダありさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 全裸っぽい人と目が合った時に言われて安心する一言を何かお願いします。


とかく人生ではいろんな事態に見舞われます。山が火を噴いたり、空から蛙が降ってきたりすることが現実にあるくらいだから、路傍で仁王立ちの全裸っぽい人と目が合うこともあるでしょう。そんなときに得体の知れない不安に駆られるのも、誰であれ無理からぬことです。

ではもしここでその全裸っぽい人が目の合った人を安心させるために「大丈夫です!心配しないで!」と言ったとしましょう。僕らは安心できるだろうか?

できない、と僕は考えます。なぜなら明らかに、というのは世間的社会的にどう考えても大丈夫な状況ではない上に、全裸っぽい人は自身の装いに他人が不安を抱くことを気遣っているという、極めてアンビバレントな状況に陥るからです。全裸っぽい理由を本人がまったくわかっていない状況よりも、圧倒的に剣呑であると言えるでしょう。安心させるための発言が却って不安を煽る皮肉な構図です。だってぜんぜん大丈夫じゃないもの。

僕らが不安を抱くのは、天災であれスマホがないといった個人的なことであれ、それが日常の想定内に含まれていないからです。規模によってはあっさり解決できることもたくさんあるけれど、解決や受け入れることを要する時点で不安の種になります。ましてや全裸っぽい人は他人です。物理的な被害をもたらさないとはいえ、通り魔と大差ありません。そんな無害な通り魔が何を言えば安心して立ち去ることができるだろう?

いろいろ考え合わせると、月並みだけれど「何見てんだオラァ!」とか「見世物じゃねえぞ!」あたりが結局いちばん効果的なんじゃないかな、と僕はおもいます。なんとなればそれは、全裸っぽい人が見られることを望んでいない(=異常であることを理解している)だけでなく、こちらが何らかのアクションを取る必要がない(=最善の行動は今すぐ立ち去ること)と端的に示してくれるからです。また恫喝的な強い口調は、この状況に抵抗を抱いている、つまり全裸っぽい人が助けを必要とするほど心を折られているわけではないことを示してもいます。総じて「たいへんですね」とか「がんばってください」くらいしか言えないところまで、こちらの印象とそれに伴う不安を一気に弱体化してくれるのです。

重要なのは、全裸っぽい人が心配する必要のない強者であり、かつこちらの日常には何ら関わりがないと認識できることです。そのためには全裸っぽい人自身がとにかく強い口調で追い払うしかありません。もし国破れてパンダありさんが全裸っぽい人になった場合は、この点を心がけてみてください。


A. 「何見てんだオラァ!」がいちばん安心できるとおもいます。




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その455につづく!

2025年5月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その453


ときめき都内一等地さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ここのところ、ろくに読めてもいないのに、新しい本を次から次へと買ってしまいます。「積読」より、もう少し響きの良い、言い訳がましくも行為を正当化できるような言い方はありませんか?


たしかに、定期的に言及されてその度に熱狂的な共感の嵐を呼ぶほど、日本の読書家は未読の本が積まれている状態に対して尋常ならざる罪悪感を抱いている印象があります。

僕が昔からずっと不思議なのは、そもそもなぜ罪悪感を抱く必要があるのか(=行為として正当化する必要があるのか)という点です。

きちんと対価を支払っている以上、煮るのも焼くのも自由です。どう考えてもそこに罪はありません。あるのはあくまで罪悪感であって、罪ではない。ではその罪悪感はどこから来るのか?

読まれるために書かれている以上、読まないのは著者に申し訳ない、という理屈は通りません。なぜなら積読は古書にも適用されるのだし、とりわけ古書の場合は著者に何ひとつ還元されるものではないからです。また、どうあれ読まれることは著者にとって光栄ではあるはずだけれども、それは読む側が言うことではないし、エゴに過ぎません。つまりその罪悪感の対象は著者ではなく、書物それ自体に向けられています。

ここでひとつ興味深い事実を指摘しておきましょう。

積読は「tsundoku」として、Cambridge English Dictionary に記載されています。つまり「kawaii」や「emoji」などと同じく日本由来の概念であることが明確に示されているわけですね。

またBBCにも、積読について書かれた海外視点の記事があります。

英語の辞書に掲載されたり、英語の記事になるということは、それが英語圏でも共有できる概念だからです。一方で、積読がtsundokuとしてそのまま英語になるということは、この概念がそれまでなかったということでもあります。

BBCの記事では積読を「本を読みたいという志向と、その結果として思いがけず生まれるコレクション」と定義しています。しかしそれならわざわざ正当化を試みる必要はありません。結果として蔵書になっただけだからです。

同じ記事では別の考え方として「散漫な彼氏」という類推を挙げています。隣に恋人がいるのにすれ違った別の誰かに気を取られる人、ということですね。正当化の必要がある点で、どちらかといえばこちらのほうがしっくりきます。

にもかかわらず英語にはその概念がなかった、というのがポイントです。「人ならともかく、書物のような無機物に罪悪感を抱くことがほとんどなかった」と言い換えることもできるでしょう。ではなぜ日本においては読書家の多くが無機物のありように心を寄せるのか?

これはまさに特有と言っていいと思うけど、日本は実体であれ観念であれ、ありとあらゆるものを擬人化する文化があります。ここ数年でいうと主にトチ狂った天候や寒暖差で言及される「令和ちゃん」なんかがそうですね。

そしてそれは、ありとあらゆるものに神が宿るという日本古来の考え方に通じている気がするのです。付喪神なんかはまさにそうだし、不可解な現象に対する解釈としての妖怪もその延長でしょう。つまり日本では形の有無に関わらず森羅万象に対する敬意、ひいてはある種の強迫観念が他の民族よりも強い、ということです。

本来であれば読まれるべきであるはずなのに読まれず積まれた書物に対する罪悪感、もしくは強迫観念がこれまで他の文化圏になかった理由がここにある、と僕は考えます。僕らは「書物の一冊一冊に宿る神さまに引け目を感じている」のであり、それは形を変えた古い信仰の発露でもあるのです。

だとすれば積読の正当化は「気にしないでいい」という点でむしろ不敬である、と言うことができるかもしれません。必要なのは読みたいという気持ちを放擲せず抱き続けることであって、読まないことの正当化ではない。書物の神さまがどちらに納得するか、考えるまでもないはずです。

したがって僕の回答としては本を読めずに積んでおくことの正当化を不要と断じた上で、こういうことになります。


A. 神棚を作ってそこに買った本を積んでいきましょう。


ちなみに僕も相当な数の本を積んでいますが、これはこれでいいのだと自分を納得させたことはありません。全身全霊で、じぶんの不甲斐なさを受け止めています。でも人生ってそういうもんじゃないですか?




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その454につづく!


2025年5月16日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その452



世界のお湯割りさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は職業柄、日本語表現がとても重要視される仕事についています。そんな職場ですら、かなりの人が辞書的な意味で誤って使用している言葉に「須く」があります。これは辞書的には必ず、「当然」「必ず」的な意味で使用されますが、「すべて」的な意味で誤用されまくっています。文脈的に理解できるため、その場であえて誤用を指摘はしませんが、誤用だと気づいてモヤモヤしつつ、他方で言語のもつ意味が使う側の理解により変化していく過程を垣間見ているようで興味深いとも感じます。言葉の持つ本来の意味から、まさに今変化している、既に変化したと感じる言葉はありますか?


ふむふむ。言われてみると僕も「すべからく」には不特定多数を示す主語がつく印象が強いですね。「君はすべからく〜」よりも「人はすべからく〜」のほうが自然に感じています。この不特定多数の印象が、「みんな=すべて」につながっているのかもしれません。

興味深いのは、いただいた質問にも「とても」という、語法の転じた言葉が含まれていることです。これはもともと「どうあってもムリ」というニュアンスで否定を伴う副詞だったはずですが、今では程度が大きいことを表すためにも使われています。すくなくとも明治以降に定着したとおもわれる語法です。

そしておそらく、正しい日本語という観念が定着したのも、国語辞典が国家事業として編纂された明治以降です。万人が納得する基準としての文献がなければ、そもそも正誤もないですからね。

一方で言葉は、発音も昔とはもうびっくりするくらい違います。「い」と「ゐ」は別の音だったし、「か」と「くゎ」の違いもありました。たしか「火事」は「くゎじ」だったはずです。現在のハ行はファ行として発音されていたとも言います。そして発音はそのために記録されることがまずないので、本来のそれと異なっていても問題になりません。昔はそうだった、というだけです。

そんなこんなで今の僕は言葉の変化とその差異に頓着しなくなっているのだけれど、ひとつ挙げられそうなのは「煮詰まる」でしょうか。豆とかジャムなんかをぐつぐつ煮ているといつも思い出します。本来の意味が大詰めだとすれば、今はどちらかというと膠着といった負の意味合いで使われている印象です。

ただこれはたぶん、自動詞のせいだと僕は感じています。料理をしているときの意識としては「煮詰める」という他動詞です。料理における「煮詰まる」は人の行為ではなく鍋の状態なので、作る人が意図しない状況も含まれます。意図せず煮詰まる可能性があるなら当然、焦げる可能性もあるということです。

その上で「行き詰まる」という瓜二つの言葉がそばにあったらそりゃ混線もするだろうし、鍋も焦げるよな、とおもいます。むしろ初めから転化の可能性を孕んでいたとさえ言えるかもしれません。

それとは別にもうひとつ、言葉の変化でおもしろいと感じているのは、「延々と」を「永遠と」と認識している人が方々にぽつぽつといるらしいことです。最初に目にしたときは打ち間違いかと思っていたのだけれど、それからちょいちょい見かけるようになったので、ひょっとするとこれも変化の芽生えかもしれません。よくよく考えるといつまでも続くことが直感的に伝わる点で、ハッとするものがあります。たしかに音だけだったらほとんど区別がつかなそうだもんな〜!


A. 意味の変化なら「煮詰まる」、文字と音の変化なら「永遠と」です。




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その453につづく!



2025年5月9日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その451


天空の二郎本店全マシさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. タンスの角に小指をぶつけてしまった様な、明らかに自分が悪い時の苛立ちをどこかにぶつけていますか?また、その時に周囲に痛いと悟られないようにどう振る舞っていたりしますか?


僕もかれこれだいぶ長いこと生きている気がするけれど、そういえばタンスの角がすっかり丸くなりましたとか、ぷよぷよにやわらかくなりましたとかそういう話、ぜんぜん聞きませんね。今も昔もこれだけ多くの死傷者を出しているのだからとっくに対策が取られていてもいいはずなのに、不可解なことです。超強力な磁石で床から5センチくらい浮かすとかできないもんだろうか?

僕もちょうど、最近小指を角にぶつけなくなったな、大人になったのかな、とか鼻唄まじりで考えていた矢先にバキャッとぶつけて危うく「バルス」と滅びの呪文を唱えかけたところです。

すっかり痛みも治まってのどかにお茶を啜っている今では別に唱えてもよかったなと思わないでもないですが、あまりの怒りに世界を破壊しようとするくらいには、じぶんが悪いとはぜんぜん思いません。悪いのはどう考えてもタンスです。この広い宇宙で最もか弱い存在のひとつである足の小指に対して、配慮がなさすぎます。正面から受け止め、ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でながら、「愛してる」くらいの一言をかけたって別にバチは当たらないはずです。人も社会も時代に合わせて変わっているのに、タンスの角だけが鋭利なまま一向に変わらないのは平仄が合いません。

逆に、こうした場合の苛立ちのぶつけ方、周囲に痛みを悟られないための振る舞い、つまり自己完結型の対処法を考えるということは、むしろタンスの角に配慮している、と見ることもできるでしょう。僕としてはなぜタンスの角に配慮せねばならんのだと言いたい。苛立ちはタンスの角にぶつけたいし、痛いのはもう本当に痛いのだからさんざん喚き散らかしたい。周囲からは何をそんなに暴れ回ってるんだと訝しがられるでしょうが、理由を知れば誰だって同情せざるを得ません。釈迦だってキリストだってタンスの角に足の小指をぶつけたらぶちギレるだろうし、ぶちギレるべきだし、逆にそれくらいの人間味がないと困ります。人に対して大らかであるためには、タンスの角くらい破壊させてほしい。

ひとつ思うのは、こういうときたとえば”Fuck”に該当するような、瞬発的に罵る言葉が日本語にはないのではないか、ということです。shitと文字どおり同じ「くそッ」とか「ちくしょう」なんかはあるけれど、正直これらにはなんの効果も感じません。英語でもShitはちょっと弱い気がする。ファック、ファック、ファーーーーーーーーーーッック!!!!!!!!!!!!!!!!!というかんじで、ひたすら地団駄をドスドス踏みまくるように使える日本語があったらいいのに、ないんですよね。

そこで「バルス」です。

地団駄を踏むように使いたいと言いましたが、実際のところ日本人は感情を外に向けて全力で発することに不向きです。その点「バルス」は祈るように静かに唱えることができます。そしてその意味するところは破滅なのだから、罵倒としても十分です。日本語じゃなくてラピュタ語じゃないかと思うかもしれませんが、日本人が考えた言語なのだから堂々と胸を張ってよろしい。

うずくまって痛みに耐え、目と口を閉じながら心のうちでひたすら「バルス」と唱えるとすれば、それはなんというか実に日本人らしい、と僕はおもいます。

他者と共有する状況での冗談やスラングとしては今も一部界隈では使われていますが、その概念を文化としてもう一歩押し進めて、自分のために、何なら日本語として使っていこう、ということです。


A. 全身全霊をこめてバルスと唱えます。




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その452につづく!

2025年5月2日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その450


はじまりはいつも亀さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もしも大吾さんが神様のミスで異世界転生したとしたら、どんな能力が欲しいですか?


これまた夢のあるトピックです。

考えてみればバトル系漫画のキャラクターが身につける「能力」はほんと、多様化しましたよね。必殺技(例外的に超能力)しかなかった時代をおもうと、しみじみ隔世の感があります。

個人的には、必ずしも戦闘に特化している能力ではないけれども使い方次第で有用になるという考え方がジョジョの第三部、さらに能力の発現に条件と制約が伴うという考え方が幽⭐︎遊⭐︎白書で加わったことで、技から能力への移行が完了した印象です。

ただこれはあくまで個別の作品世界の話です。悪魔の実を食べるなら、とか斬魄刀を持つなら、といった作品世界を前提に考えることはできても、能力全般で括ることはできません。

異能そのものを一般化したのがつまり、「異世界への転生」という革新的なフォーマットだったわけですね。このフォーマットにおいてはむしろ陳腐化した能力をどう活かすかが重要なので、作品世界にしかない独創的な能力は必要ありません。なんならファミレス化とも言えそうな気がする。


僕もかつては「肉を計ることなく手の感覚だけで100gずつ小分けにする」能力(能力名:目を閉じる肉屋デリカテッセン)を身につけていて、正直これはめちゃめちゃ有用だったんだけど、ふつうに秤を使うようになったら失われてしまいました。

転生するのが秤のない世界だったらちょっといいかなと思いつつ、秤のない世界は肉を100gずつ小分けにする機会もなさそうな気がするので、たぶん甲斐がありません。この能力で無双できる世界があるならちょっと行ってみたい。

空間移動とか時間移動みたいな、フィクションではオーソドックスな能力もそそられるけど、正直いま僕がいちばんほしい能力は視認したゴキブリを瞬時に転移する能力です。

実際のところ1匹や2匹、対処できないほどではないし、部屋で見かけたら見かけたでどうにかすることは普通にできるんだけど、21世紀の今になってもまだ一撃必殺でないことに多大なストレスを感じます。なんといってもあの素早さと、忙しなく動く触覚と異常な生命力がイヤです。せめてカブトムシくらいのんびりしてくれていればそれだけでだいぶ印象が違うのに、といつも思います。

問題は転生先の異世界でもその能力が役立つのか、というかそもそもゴキブリが存在するのか、という点ですが、1億年以上前からいるあいつらのふてぶてしさを考えればどの世界であってもたぶん普通にいるでしょう。

一方でうっかりめちゃめちゃ役立ってしまった場合、ゴキブリが出現するたびに呼び出されてしまう可能性もあります。見たくないからこそ助かる能力のはずが、場合によっては能力がなかったときよりもゴキブリと対峙する機会が増えるという、究極のジレンマです。

なので対象を特定せずにすこし条件を変えて、心の底から忌避感を抱く、半径3センチ以内の視認対象を瞬時に他所へと転移する能力にしましょう。

「半径3センチ」は制約として妥当な気がするし、しかもひょっとするとこれなら異能バトルに巻き込まれてもうまく活かすやり方があるかもしれません。

基本的にはゴキブリのためですけど。


A. 心の底から忌避感を抱く、半径3センチ以内の視認対象を瞬時に他所へと転移する能力です。


ちなみにどこへ転移されるのかは、僕もわかりません。




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その451につづく!

2025年4月25日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その449


マクドナラナイドさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)マクドナルドの対義語ですね。


Q. 仕事を探すための「要素」がわかりません。

就職先が見つからないまま四年制大学を卒業してしまった私には、現在もやりたい仕事がなく、就きたい職業もありません。「川のほとりにある建物の3階くらいで、猫と一緒に暮らす」という理想の生活のビジョンは掲げているものの、それを成立させるためのベストな仕事が思い浮かんでいない現状です。高い社会的地位は望んでおらず、ストレスなく仕事と私生活のバランスが保てていれば、あまり高望みはしていません。この場合、私にはどのような職業が向いているでしょうか。また、ムール貝博士にとって仕事を探す上での重要な要素は何ですか?


考えてみるとこれは、婚活にも通じそうな話ですね。

芥川龍之介の「羅生門」で老婆に髪を引っこ抜かれるような死に方しかしないことがほぼ決定している僕に尋ねるのはどう考えてもまちがっていると思いますが、僕の存在を認識してしまった時点で早くもこちら側に足を踏み入れていると解釈してお答えしましょう。

僕はその昔、せっせと肉体労働に勤しんでいた時期がありますが、これは別に肉体労働がしたかったからではありません。やれそうだなと思ってやってみたら実際できたのでやっていただけです。

いざやってみると、「体はしんどいけど、土を掘ったり削ったりするの好きだな」と感じるようになりました。それでなくとも僕は日ごろからあれこれと考えがちなので、無心になってひたすら穴を掘ったり、それを埋めたり、土を運んだりして、しかもその成果がわかりやすく目に見えるのがすごく心地よかったのです。僕を知る人には想像しづらいだろうし、向いているとも言わないだろうけど、今でも好きだし、どちらかといえば向いていると思います。

しかし自分が土を掘るのに向いているかどうかなんて、やったことのない段階でわかるはずもありません。

つまり、何であれ自分に向いているかどうか、あるいはその選択がベストかどうかは常に結果論であって、あらかじめ想定できるものではない、ということです。

道を決める上で最も大きな障壁となるのはそれこそ、好きなこと、やりたいことを仕事にすべきという、自由かつ大らかに見えて誰も責任を負わない、いかにも現代らしい観念なんじゃないのか、と世界の底辺をアリのようにうろちょろする僕なんかは考えます。

世の中に仕事は数多あっても、やりたいと望む人の多い仕事ばかりではありません。逆に強く望んで高い倍率を勝ち抜きながら、事前のイメージと違って一気にモチベーションを失うケースもままあります。

そう考えると、むしろやれそうなことから着手するほうが早いし、期待も落胆も小さくて済むかもしれません。その上で大事なのはたぶん、好きになれるかどうかでしょう。なるかもしれないし、ならないかもしれない。好きとまでは言わないけど嫌いではない、みたいなこともあるかもしれない。何度考えてもやっぱり無理なら去る。それだけです。

この際、職に就くことが人生におけるものすごく大きな決断である、という観念も捨てていいと思います。僕の知るかぎり、びっくりするほどひょいひょいと身軽に転職ができる人は、この観念が強くありません。の前にある選択がこの先を不可逆的に決定づけるとは微塵も考えていないからです。

考えてみれば僕自身、ビートにリーディングを乗せるスタイルは、音楽をやりたくて始めたものでは全然ありません。いろんな成り行きがあって、気づいたらそうなっていて、せっかくやるなら長く続けられるように向き合おうと考えて、今に至ります。そういう意味では僕も好きだからというより好きになる感覚に近かったと言えるでしょう。

とはいえまともにフェアウェイを歩んだことのない僕が昔から胸に刻んでいるのは、選択したその先に何があろうと、こうすれば良かったとは考えずに100%受け入れる、ということだけです。後になってごちゃごちゃ言いたくないな、くらいの気持ちだったけど、意外にもこの姿勢が今の僕を支えてくれています。その結果、羅生門の老婆に髪を引っこ抜かれるような死に方をすることになるわけですけど。

あとですね、小林大吾の作品に巡り逢ってしまった時点で、すでに一般的な人とは明らかに異なる道を歩んでいます。そして他の多くの人がピンとこないものに対して少しでも魅力を感じることができるなら、その感性はまちがいなく大きな長所であり、武器のひとつです。何しろ他の人と違う視点を持てているわけだから、うまく活かせばアピールにもなります。どんと胸を張ってください。

そういえば昔、うどん屋でバイトをしていたとき、天ぷら付きそうめんを客に頭からぶちまけて以来、接客には向いてないなとずっと思い込んでいたけれど、それから数十年経って気づいたらうちの人の店でふつうに接客をしているのだから、ほんとにね、人生何がどこでどうなるかわかったもんじゃないですよ。

常識の圧力をいったん傍に置いて、川のほとりにある建物の3階と猫のためにがんばってください。

ちなみにムール貝博士は、世界の要人の方が勝手に追いかけてくるので、仕事を探す必要がありません。


A. 正しい答えを探そうとしないこと、違うと感じたら断ち切って次に向かう覚悟を持つことです。




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その450につづく!

2025年4月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その448


カラマーゾフの従兄弟さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 規則正しい生活は大切だと思いますか?もし規則正しい生活のために心がけていることなどがあれば知りたいです。


そうですね、大丈夫!ぜんぜん大切じゃないです!と言う人はたぶんほとんどいないと思いますが、「規則正しい生活」という言葉にはどうもこう、学級委員とか生徒会役員とか清く正しく美しくみたいな優等生の響きがあって、なんとなくいけすかない印象が付きまといます。人に言われたらうるさいなとしか返しようがありません。規則正しくあろうとなかろうと、そうありたいと自身が願うならそれだけで立派なもんだと僕なんかは思います。

ただ一方で、好きなときに食べて好きなときに寝て、好きなときに働いて好きなときに遊べたらいいかというと、それは全然おもいません。なんとなれば、心はそれを望んでいても、身体はそれを望んでいないからです。忌々しいことこの上ないけれども、僕らが規則正しい生活を必要とする最大の理由が、ここにあります。

僕らの肉体を構成する細胞ひとつひとつを、労働者だと想像してみてください。ある労働者たちは、たとえば胃で働いています。彼らにとって主人の食べたものがいつ胃に落ちてくるかは知りようもないですが、でもだいたい、たとえば12時から13時の間には昼食が胃に落ちてくることになっています。つまり、「働く時間が決まっている」ということです。逆に昼食が10時だったり14時だったりと安定しない場合、それは「業務が直前でしょっちゅう変更になって安定しない」ということでもあります。

もちろん、働いているのは胃の労働者だけではありません。胃での仕事は、腸にも引き継がれます。胃が想定外の時間に仕事を引き受けたなら、腸もまた想定外の時間に仕事を引き受けることになるのです。その結果、うんことして排出する時間も帰宅後だったり就寝前だったり起床してすぐだったりと、一定しないことになります。

脳で働く労働者たちも同じです。主人がいつ眠るのかわからないということは、労働者たちがいつ休めるのかもわからない、ということです。原則として就業時間が決まっていればそれを超えた時点で残業になりますが、そもそも就業時間が決まっていないなら、どこからが残業なのかも判然としません。

体内環境がとんでもないブラック企業になり果てていることがよくわかります。そしてブラック環境で酷使され続けるばかりか物理的に退職もできない労働者たちaka細胞が数十年後にどう成り果てているか、これももちろん想像できるはずです。具体的に言えば、もはや取り戻せない不可逆な形で、まちがいなく身体のあちこちに支障が生じてきます。

つまり規則正しい生活とは、体内の労働環境をホワイト企業として保つこと、と言い換えることができます。そう考えるとだいぶ受け入れやすくなるはずです。通勤ラッシュのタイミングで抑えきれない便意とか、ほんと御免被りたいですからね。

その上で何か心がけていることはあるかと訊かれたら、うーん、食事くらいですかねえ。うちは一日における栄養の大半を朝食で摂っている、と言っても過言ではないくらい朝食に出す皿の数がやたらと多いので、そのための支度もふくめてある程度の生活リズムを維持することにつながっている気はします。

ただ、歳をとればとるほど勝手に規則正しい生活になっていくというか、日々のルーチンから外れることにストレスを感じやすくなるのはたぶんまちがいないので、体内の労働者たちが悲鳴をあげるような無茶を長く続けないかぎりはそんなに気にしないでいい、というのが僕の結論です。睡眠、食事、仕事の時間がどれだけきっちり決まっていても、食事が毎回ポテチとか二郎系のラーメンとかだったら何の意味もないしね。

規則正しい生活なんてすでに規則正しい生活を送っている人しか言わないし、規則正しい連中の言うことを聞いて幸せになれるのは初めからおおむね規則正しい人だけですよ。


A. 体内における福利厚生の充実を心がけています。




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その449につづく!

2025年4月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その447


フランシスフォードかっぽれさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 各街に1つは必ず在る良い街中華屋さんが「良い街中華屋」であり続けるために必要な事って何なんでしょうか。


いいですね。これは100人に問えば100通りの回答が得られそうな質問です。味はもちろん、ありがたい価格設定だったり、豊富なメニューだったり、店の雰囲気だったり、概ねワンプレートで済む気楽さだったり、すこし呑むにはちょうどよかったり、あるいはその全部だったりするでしょう。それでしか得られない栄養がある、という言い回しは、町中華にこそふさわしい。

良い町中華にはだいたい当てはまる印象なのでどちらかというと帰納的な結論ですが、僕が感じるのは、朴訥であまり細かいことを気にしないことですね。

一例を挙げましょう。今はもうないけれど、僕が若いころ好きだった店に「ブラザー軒」という古い町中華がありました。もうこの店名からして細かいことを気にしない感じがひしひしと伝わってきます。

このブラザー軒で僕がよく食べていたのは、チキンライスです。中華どころか和食や洋食ですらないけれど、昭和の町中華にはどういうわけか、往々にしてチキンライスがメニューにあります。ブラザー軒にはたしかオムライスもあったはずです。そしてとりわけ、ブラザー軒のチキンライスには、鶏肉だけでなくときどき豚肉が紛れこんでいました。なんで?

店名にしてもメニューにしてもその具にしても、美味ければあとは別にいいじゃないかとしか言いようがない、このひたすら頑丈で強靭な重心の低さがおわかりいただけるだろうか。

もちろんこれは極端な例です。店名やメニューかくあるべしとは思わないし、ちがう肉が紛れこんでいるべきとも思わない。でもこの揺るぎない大らかさは、良い町中華に概ね共通するものという気がするのです。そもそもメニューのすべてが中華と呼べるかどうかすら怪しい時点で、定食屋にはないバーリトゥード感が町中華にはある。

もう一例を挙げましょう。


これは今もある店の、えーと、伝票兼レシートです。「いります?」と訊かれたのでもらってきましたが、特にどうすることもできないので何となく家の壁に貼ってあります。もはや多くを語る必要はないでしょう。またしても懲りずにチキンライスを食っている点はさておき、この店で大きな中華鍋を振るっているのが僕の老母よりも明らかに年長の女性なのだから、小さなことなど気にするはずもありません。

強靭な活力と大らかさ、それは言い換えるとこういうことになります。


A. 生命力です。




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その448につづく!

2025年4月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その446


鋼のレンチン術師さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一年程前から小林大吾さんを聴くようになり、質問箱もピス田助手の手記も全て読むほどハマってしまった兄からの質問です。仕事に行きたくない時のよい対処法はありますか?仕事自体はさほど辛くないのですが、出勤から退勤まで室内にこもりきりなので息が詰まります。 また夜勤もあるので生活リズムの切り替えが大変な時もあります。いっそのことズル休みしてしまえば良いのですが、それだとお金が稼げずご飯が食べれません。


質問箱どころか、限られたごく一部の人だけが強烈な反応を示す類の読みものである「ピス田助手の手記」まで読破するとは相当な猛者です。お兄さんありがとうございます!

なぜ仕事に行かなくてはならないのか、もしくはなぜサボってはいけないのか。それは古来より人類が折にふれては直面してきた問題のひとつです。この問いが21世紀の今も絶えないのは、いかにしてサボるかをほとんど誰も心の底から真剣に検討してこなかったからではないか、と僕は考えます。

ここでいうサボるとは、「有給を使わず、誰にも迷惑をかけず、評価や収入に影響がなく、何ごともなかったかのように翌日からまた鼻歌まじりで仕事に行ける状態で、仕事に行かないこと」であるとしましょう。多くの人はこの定義の時点ですごすごと退却してしまいます。どう考えてもそんなことは不可能のように思えるからです。でも、果たして本当にそうだろうか?

脱獄不可能と言われたアルカトラズ刑務所から脱獄を果たした伝説の囚人、フランク・モリスを思い出してください。

ちょっと話はそれますが、僕はこの脱獄不可能という言葉が大好きです。なんといっても「あ、刑務所って基本的には脱獄可能なんだ」「いや、ぜんぶ脱獄不可能にしとけよ」と思わせてくれるのがいい。縁があるわけじゃないけど、夢があります。

しかしそんな部分をいつまでもスルメみたいに味わっていても仕方ないので、一般的な刑務所は「人は脱獄できないが怪物なら脱獄できる」、アルカトラズは「怪物でさえ脱獄できない」とひとまずここでは考えましょう。フランク・モリスはその怪物でさえ脱獄できないレベルの刑務所を人として脱獄してしまったわけですね。

できるかと問われたら100人が100人、絶対にムリだと断言するような行為を、彼は成し遂げています。生死不明と言われていたので、ひょっとしたらどこかで溺れたかもしれませんが、少なくともそこはアルカトラズではない。そしてこの事実は、不可能が単に「まだ可能になっていないだけ」であることを示唆してもいます。不可能だったはずなのに、できちゃってますからね。

そう考えると、「有給を使わず、誰にも迷惑をかけず、評価や収入に影響がなく、何ごともなかったかのように翌日からまた鼻歌まじりで仕事に行ける状態で、仕事に行かないこと」が果たして本当に不可能なのか、疑わしく思えてきます。ひょっとしてまだ誰も気づいていない、目からウロコのとんでもない解がどこかに眠っているのではないのか…?

もちろん僕はその回答を持っていません。持っていたらこんな底辺をうろうろするような生き方はしていないし、フランク・モリスだってアルカトラズを脱獄するのにYahoo!知恵袋でどうにかしようとは思わなかったでしょう。われわれの求める答えはもっと深遠なところにあって容易に見つかるものではない、例えば聖杯とかワンピースみたいなものだけれども、大事なのはそれが「存在する」ということです。

ないと思われている答えを探すべく、二度寝する布団の中で綿密な計画を練りましょう。全然なさそうな気がするのは、これまでずっとないと思いこまされてきたからです。本当にあると信じないかぎり、あるものもないことになってしまいます。

1日や2日で見つかるとは思いません。5年でも10年でも、あきらめずに何度でもトライしましょう。続けることが肝心です。やがて「有給を使わず、誰にも迷惑をかけず、評価や収入に影響がなく、何ごともなかったかのように翌日からまた鼻歌まじりで仕事に行ける状態で、仕事に行かない方法」を見つけたとき……言うまでもなく、人生が変わります。


A. 日々の仕事は、どこにも影響を及ぼすことなくスマートかつエレガントにサボるための計画を立てる、その隠れ蓑だと考えればよいのです。




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その447につづく!

2025年3月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その445

うまく描けた

ドンキー昆布さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. グーフィーとプルートの差って何でしょうか?


その気持ちはよくわかります。昔は僕もどっちがどっちだっけ?と首を傾げていたものです。そしてそれゆえに、明確な答えも知っています。さらにその答えは、下手にひねった回答よりも圧倒的におもしろいと断言してよいでしょう。何しろここには、ひょっとすると今もあまり多くの人には気づかれていないかもしれない、ディズニーキャラクター史上最大のミステリーがあるからです。

おそらく多くの人はグーフィーとプルートを似たような犬キャラの色違いと認識していると思われます。黒いのがグーフィー、黄色いのがプルートなので、色が違うのは実際そのとおりです。

しかしぶっちゃけ、それどころではありません。この2体には、完全かつ根本からして決定的に異なる点があります。具体的に言うと、グーフィーが「擬人化された犬」であるのに対し、そもそもプルートは100%「犬」です。言い換えるならグーフィーは二足歩行で喋る一方、プルートは四足歩行で喋りません。プルートは徹頭徹尾、愛玩動物であり、飼われる側であり、初期の設定ではミッキーマウスのペットです。それに対してグーフィーは人と同じく飼う側であり、実際、グーフィーがプルートを散歩させるシーンもあります。


ミッキーマウスが擬人化されたネズミである以上、登場するキャラとして自然なのはむしろグーフィーです。そしてその世界観からすると、なぜか擬人化されずに犬のままであるプルートこそ、特異にして尋常ならざる不可解な存在であると言わざるを得ません。心から深く愛されているとはいえ、突き詰めるとそれは「家畜人ヤプー」みたいなことではないのか…?

さらにこの複雑な設定を混濁せしめるのが、ディズニーランドです。

ディズニーランドでは当然、キャラクターたちがまるで現実に存在するかのようにふるまってくれるわけですが、そこにはレギュラーメンバーとして当然、プルートが含まれています。

当たり前というか何というかこれはもうどうしたって仕方のないことだけれど、ランドにおける実体化されたプルートは二足歩行です。またその他のキャラも現実世界ではまず喋らないので、先に挙げたグーフィーとプルートの決定的な違い(二足歩行/四足歩行、喋る/喋らない)が、ここでは見事に雲散霧消することになります。別にいいじゃんと思うでしょうが、この状況を反転すると、犬の群れに四つん這いで歩く人間が混じっているのと同じであることに注意していただきたい。

犬が犬をペットとして連れ歩くシュールな世界観もさることながら、その世界観をディズニー自らぶち壊し、それでいて多くの人が疑問に感じずウェルカムと受け入れるこの奇妙な状況を、ミステリーと言わずに何と言おう。

そんなわけでもうお気づきとは思いますが、僕がディズニーキャラの中で最も好きなのは、プルートです。その世界ではどう考えても理外の存在であるプルートが当たり前にいる、それだけでなんだか心丈夫なところがあります。


A. グーフィーはほぼ人ですが、プルートは100%犬です。




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その446につづく!

2025年3月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その444


カピバラ課長さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 300年後の日本語は今と変化ないと思いますか?


いいですね。僕はこういうことを考えるのが大好きです。

まず大前提として、言葉は日々刻々と変化し続けています。変化が激しいのは主に俗語だけれど、たとえば僕が子どものころは「とりま」という言葉はありませんでした。初めて聞いたときは「『って何?」と困惑したし、ぶっちゃけ今も気になっています。でもこれはたぶん、遠からず辞書に載ることになるとおもう。あるいはもう載ってるんだろうか?

それから僕の手元にある30年以上前の、酷使しすぎて「アスパラギン」よりも前のページが失われている古い広辞苑に、「うざい」という言葉は載っていません。たしかその元の形だった「うざったい」もありません。しかしそれだけ古くても「ださい」と「サボる」は載っているので、たぶん「うざい」もとっくに辞書に載っているでしょう。

では現代でもそれなりに使われているこれらの言葉をむりやりつなぎ合わせて「だせえしうぜえし、とりまさぼりで」というせりふを作ってみます。中二病を患った思春期で体育祭なんかやってられるかみたいなことだとおもえば、まあまああり得なくもありません。僕も書いていてヒエッとなるけれども、どうあれ意味が伝わればそれでよろしい。

その上でこの一言を、300年前の江戸中期に持っていってみましょう。何ひとつ伝わらないのは100%明らかです。語感からして外国語というよりも方言かなと感じる可能性は高いですが、いずれにしても通じません。現代の僕らがたとえば「ふめえしなでえし、ほいなかもりで」と言われて感じるような困惑がおそらくあります。なんとなく日本語っぽいなという気はするものの、さっぱりわからないですからね。

もちろんこれは極端すぎる例です。意思の疎通自体はたぶんどうにかはかれるとおもいます。たぶん、と留保して断言できないのは、単語だけでなく発音の問題もあるからです。現代よりも発音のバリエーションがはるかに多かった1000年前の日本語(や行の「い」もわ行の「ゐ」もあ行の「い」と明確に異なっていたようです)は方言どころか完全に外国語に聞こえるだろうと個人的には考えているので、300年後も音の影響がないとは言い切れません。

以上を踏まえると、お互いにしょっちゅう擦り合わせが必要になるものの、意思の疎通は可能である程度には変化してるんではなかろうか、というのが僕の結論です。「ありがとう」ですら、300年前は使われてなかったはずですからね。

ただ言葉の誤用とか美しさに対して現代は300年前に比べれば社会として圧倒的に意識的だし、こうあるべきという圧力も強いので、過去300年よりもその変化はゆるやかかもしれないなという気もします。


A. 変化の有無で言ったら絶句するほど変化しているはずです。




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その445につづく!

2025年2月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その443


キャプテン・クックパッドさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 家族でけんかというほどでもない、意見や気持ちの相違があった時の解決策を教えてください。


きのこの山かたけのこの里かというだけで常にキューバ危機みたいな一触即発状態にあることを考えると、「けんかというほどでもない」が実際のところどれくらいの衝突を指しているのか、具体的な例がほしい気もしますが、それがなくとも考えられそうなことだけ考えてみましょう。

まず、「意見や気持ちの相違」は家族であっても初めから互いに別人格である以上、当たり前のことです。むしろ一致することのほうが例外であり、望外の喜びであると胸に刻むほうが圧倒的によろしいと僕なんかはおもいます。

家庭内にかぎらず同意や共感は誰にとってもうれしいものですが、それに執着すると異論に対する抵抗感はいずれ忌避感に転じます。その先に待つのはどう考えても軟着陸ではありません。ですよね?お互いに歩み寄らないかぎり、着陸は絶対にあり得ない。

それはつまり、こちらだけが歩み寄ってもやっぱり着陸とは言えない、ということです。他者のアドバイスが実際のところほとんど意味をなさない理由がまさしくこの点にあります。どうあれ徹頭徹尾、当事者同士ががっぷり四つで向き合うほかないのです。夫婦間のことならそれができることこそ結婚の最低条件にすればいいのに、といい年ぶっこいたおっさんになった今ではしみじみおもいますが、僕もべつに当時そんなことは1ミリも考えていなかったので、えらそうなことは言えません。

では打つ手がないかというと、そんなこともありません。一番手っ取り早いのは、自分の認識を変えることです。相手の立場を採用してもいいし、押しも引きもせず「なるほど」とそのままどしんと受け止めてもいい。なんとなれば相手に譲歩する気配がないかぎり、できることといったらそれくらいしかないからです。

白旗を挙げるわけではありません。言葉を尽くした上で受け止めて「まあいいか」とおもえるならそれでよし、おもえないならそのままにしておけばいい。自分とまったく同じではない誰かと日々を共にするというのはそういうことです。相手に同意できない自身の認識にブレーキをかけることができないなら、それはつまり自身に都合のよい結果しか受け入れられないわけだから、そもそも解決など望むべくもありません。不倫とかクソめんどくさい話ならまた話は変わってくるけど、「けんかというほどでもない」ならそれほど難しいことではないはずです。

そして経験上、受け入れられないと感じていたことを一度でも受け入れると、びっくりするくらい気持ちが楽になります。自身の認識を堅持することにいったいどれだけの意味があったのか、首を傾げるほどです。

また受け入れる姿勢を見せることの相乗効果として、相手が軟化することもあります。もちろん全然しないことも余裕でありますが、それはもうそういうものとして受け止めるほかありません。何しろ家族ですからね。


A. 自身の認識を改めることから始めましょう。




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その444につづく!

2025年2月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その442

カメラロールにときどき紛れこむやつ


かいわれ界隈さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「そういうものだ」と飲み込んではいるけれど正直納得いっていないことはなんですか


これまたひとりで考えるのが本当にもったいない質問です。やーもうこんなんみんなめっちゃあるでしょ〜。ひとりで考えるにしてもできれば1週間くらいほしいし、ポッドキャストとかやってたら絶対に募集してみたいテーマのひとつです。

真っ先に思い浮かぶのは昔からずっと釈然としない「戦争」ですね。先進国の連中は「戦争にもルールがある」みたいなことをさも当たり前のように言うけど、いい年ぶっこいた今でも「は!?」と思います。しかしこれはまさしくパンドラの箱という気もするので、これ以上は開かずにそっと脇によけておきましょう。

ごくごく小規模な個人的なところでいうと、交通違反によって付与された点数には正直納得いってません。付与される、ではなく、付与され、がポイントです。

具体的な話をすると、その昔、一時停止をすべきところでしなかった、という理由で切符を切られたことがあるのです。僕としては完璧に一時停止をしたと思っていたので、承服できるはずもありません。しかし警官は警官で絶対に一時停止をしていないという認識なので、これは当然、水掛け論になります。

ここで違反切符が違反者に求めるのは反則金です。多くの人はこれを罰金と捉えている印象ですが、じつはそうではありません。これは実際にはこの金額を収めれば刑事手続きをスキップできるという意味合いの請求であり、裁判にのぞむ気概があるのなら堂々と拒否できるものでもあります。

僕はその後、根気よく送られてくる督促状を一通一通ていねいにスルーしつづけ、最終的に裁判所から呼び出しをくらい、実際に裁判所に赴いてことの次第を滔々と語った上で、違反と言われるようなことは何もしていないので略式ではなく(←ここが重要です)正式な裁判で主張したいと訴えました。つまり、あくまで違反したと言い張るなら受けて立つから起訴してくれと裁判所で伝えたわけですね。

実際に確認したわけではないけれど、あれから5年どころではない月日が流れ去っているので、まずまちがいなく不起訴でこの話は終了しています。このときの反則金を、僕は支払っていません。起訴されていたらたぶん警官の主張のほうが警官というだけの理由で支持されていただろうとは思いますが、今となっては客観的にどちらが正しかったのか、誰にも判断のしようがありません。

問題はここからです。

不起訴になったということは、少なくとも違反があったことにはなっていないはずですが、にもかかわらず交通違反によって付与された点数はふつうに累積になっていて、なぜか撤回されないまま、僕は免許の更新時に違反者講習を受けています。

なんでやねん。

違反として明確に認定されたのならわかります。違反が認定されていないのに点数が付与されるのは、刑事事件で不起訴になったのに前科がつくのと同じくらい意味がわからない。これが違反の可否=点数付与の可否を問う話でないなら、なぜ僕は裁判所に呼び出されたのか?

ちなみに僕が反則金を支払わなかったのはこのときだけです。切符を切られてから裁判所に呼び出されるまで、たしか2年くらいかかっています。定期的に送られてくる反則金の督促状は目にするだけで忌々しいし、あるとき不意に届く裁判所からの出頭命令をうっかり見逃すとさらに厄介なことになるので、とっとと払ったほうがどう考えても手っ取り早いよな、と今ではしみじみおもいます。

あと納得いってないのは、毎日生えてくるヒゲですね。何のために生え、何のために剃るのか、ここには人生における何らかの、しかしなくても別に困らないハイレベルの哲学が潜んでいるような気がします。


A. ヒゲです。




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その443につづく!

2025年2月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その441


どんぐり勘定さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 音楽で溢れかえった近未来。音が地球の許容量を超えることを危惧した地球省は「聴ける音楽は生涯ひとりひとつまで」という法令を発しました。死ぬまでこの曲しか聴けないとなったら、何を選びますか。


「音が地球の許容量を超える」という発想がいいですね。斬新でありながら詩的だし、このアイデアだけで壮大な物語が作れるんじゃないだろうか?

この法令の施行後に生まれた人はそもそも音楽を一切聴けなくなってしまうので、現実的にはおそらくある年齢、例えば30歳までに生涯の1曲を決めなくてはいけない、というようなことになりそうです。当然それ以降に生まれた曲を聴くことはできません。音楽家も一律で30歳が定年ということになるだろうし、考え始めるといろいろ妄想がふくらみます。

とはいえ質問の主旨としては「生涯にただ1曲を選ぶ」だけなのでシンプルといえばシンプルですが、そうは言ってもこれがまたとんでもない難問です。

自分がいちばん好きな曲ということであればまだ選びようがありそうな気もしますが、それしか聴けないとなると話がちょっと変わってきます。

たとえば僕の人生において欠かすことのできない重要な1曲として、Dred Scott“Check The Vibe” を例に挙げましょう。17のときにCDショップの試聴機で聴いてぶっ飛んだので、いま聴いてもテンションが一瞬で沸点に達する曲ですが、今後死ぬまでこれしか聴けないとなったらたぶんこれを選ぶことはできません。どう考えても絶対に飽きるからです。

音楽経験としてはこのあたりからさらに深化していったので、自分の棺桶に入れてほしい曲となったらまた別の曲を選びますが、めちゃめちゃ好きな曲、もしくはめちゃめちゃ思い入れのある曲というのは、むしろそれゆえに「飽きたくない曲」でもあります。ですよね?本当に思い入れのある曲というのは、忘れたころに聴き返してグワーーーーと打ちのめされるのが良い。

したがって、今後それしか聴けないとなったら、そこまで思い入れが強くなく、かつ何度聴いても飽きないと思われるような曲をチョイスする必要があります。好きな曲は何万回聴いても飽きないという人もいると思うけど、少なくとも僕はそうではないので、別のアプローチを試みる必要があるのです。

となると僕はたぶん、ジャズを選ぶとおもいます。パッと思いつくのは John Wright“Strut” です。

この1曲のためにLPを探しまくった記憶があるくらい好きなんだけど、音数が少なくてシンプルなのにリフがキャッチーで「飽きにくい」気がします。後になって、あの曲にすればよかった!とか後悔しないくらいには条件を満たしているとおもう。

そういう視点で言うと、Bud Powell“The Amazing Bud Powell (Volume 1)” に収録されている “Un Poco Loco” 2nd Take もいいですね。ジャズファンにはすげー怒られそうな気もするけど、門外漢すぎる僕にとって重要なのはむしろマックス・ローチで、1st Take に比べてカウベルのパターンが劇的に変わってるのがめちゃめちゃいい。何度聴き返しても「よくもまあ、こんなアプローチでやる気になったなあ!」と驚かされるし、 2nd Take を踏まえて完成度が格段に上がった 3rd Take よりも、まだ試行錯誤で不安定な 2nd Take のほうが飽きないんじゃないだろうか。

うーん、どっちがいいかなあ。Un Poco Loco、うるさいかなあ。そもそも「ちょっと変」って意味だしなあ。死ぬまで「ちょっと変」しか聴けないのもアレか…。

じゃ John Wright の “Strut” にします。明日にはまた気が変わってそうな気もしますけども。


A. John Wright の “Strut” です。




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その442につづく!

2025年2月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その440


ござるござるもニンのうちさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 気づけば学生時代に仲の良かった友人とはすっかり疎遠になりました。人間関係もちゃんとメンテナンスしないと縁って切れていってしまうものですね。恋人をつくるにはマッチングアプリ、知人の紹介などアイデアはありますが、友人をつくるにはどうしたら良いのでしょうか…。友人の作り方 と検索したりして虚しくなっています。


これはなかなか剣呑な問題です。質問のすべてがクリティカルにぶっ刺さります。そもそも疎遠になるような学生時代の友人が存在していたかどうかすら疑わしい僕のほうがよっぽど剣呑と言わざるを得ません。

しかし老境の先輩方の行く末を知る機会がじわじわ増えゆくのっぴきならないお年ごろでもあり、僕としても避けて通ることはできない問題という自覚はあります。ひっそりとまとめてひとり胸のうちに収めていた秘蔵のメモをここに開陳しましょう。

まず、人生において友人の多い人と少ない人では、対人距離が明確に異なります。前者が友人と認識している距離感は、後者にとって知人の距離感です。そして後者が友人と認識する距離感は、前者にとって親友の距離感です。友人が少ないと自認する人は友人判定の距離が比較的もしくは著しく狭い、と言い換えてもよいでしょう。僕なんかはまさにこのタイプなので、友人の多い人の友人の話を聞いていると「それは…友だちなの…?」と困惑することがちょいちょいあります。

したがって、知人をすべて友人という認識に置き換えること、これがステップ1です。べつに友だちじゃないけど…と深く考える必要はありません。むしろ固定観念による無意識の線引きを取っ払うことに意味があるのです。いや、上司とか同僚とか部下とかご近所さんとか取引先とかお客さんとかあるじゃん…と思うかもしれませんが、こうしたカテゴリーのひとつとして並列に友人があると考えるところに落とし穴があります。というか何なら僕らはすでにその穴の底にいます。友人とはあくまで、そして常に結果論であって一方的に認定するものではないという、人によっては当たり前すぎることを友人の少ない僕らは改めて自らの認識に上書きする必要があるのです。

ステップ2は「好奇心」です。外界の事象に対する「わ〜おもしろそう!」という気持ちを、観葉植物のように育てましょう。興味をもったら深く考えずに足を運びます。ただし、友人をつくるためではありません。ただただ、自分がたのしむためです。どうもその繰り返しが結果的に人生における肝となるらしい、と先輩方から学んだ今の僕は感じています。そして機会があれば自ら積極的に話しかけていきましょう。ひと昔前の僕なら「むり」と即答していたと思いますが、ここだけの話、歳を重ねるとそうも言ってらんねえわとならざるを得ません。友人の少ない僕らはこの問題について「一本釣り」みたいな印象を抱きがちですが、実際にはそれは「引網」なのです。こうして語る何もかもがぜんぶ自分にぶっ刺さって瀕死の僕が言うんだから間違いありません。


A. 好奇心という引網を担いで、ところかまわず出歩きましょう。




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その441につづく!