2026年9月11日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その492


ろくでなしフルーツさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. イヌの前足の肉球についてです。地面につく肉球はいいんですけれども、少し足首よりにある地面に付かないタイプの小さめの肉球は何の役に立っているのでしょうか?


前脚にある、いわゆる手根球というやつですね。たしかに一見すると何のためにあるのかわからないふしぎな肉球です。

しかしそれを言ったら僕のすね毛なんか本当に、1ミリも、まったく何の役にも立っていません。とくに僕は気づいたらいつもすねに擦り傷があるちょっと不可解な体質なので、すね毛が皮膚を守るでもなくただぼーっと生えているだけであることに憤慨しています。ふさふさ生えているわけでもなく、小人がつかんで登るにはちょっと足りないくらいなので、なおさらです。そんなことなら最初っからすべすべでいいし、だいたい多くの頭頂部で毛髪不足が問題になっているのだから、組織としての管理体制は一体どうなっているのかと批判せずにはいられません。責任者不在をいいことに、すねでそよそよしている場合ではない。

ただ僕らがまだ気づいていないだけで、なんらかの重要な意味がある、もしくは不可欠である可能性もあります。仮にすね毛が頭髪とダイレクトにつながっていたら、不要だからといって抜くわけにはいきません。頭髪も1本なくなるからです。世の中にはそれ自体に意味はないけれど、それがないと他の部分で支障をきたすものもたくさんあります。半角スペースなんかそれ単独では文字どおり虚無ですからね。

あるいは電気グルーヴにおけるピエール瀧です。電気グルーヴを電気グルーヴたらしめているのはまさしくピエール瀧である、と断言してもいいとおもいますが、楽曲の制作において彼が中心的な役割を担っているわけではありません。じっさい、楽曲だけなら石野卓球ひとりでも事足ります。しかしそれで出来上がるのは石野卓球の曲であって、電気グルーヴの曲ではありません。少なくともピエール瀧は歌が上手いとか演奏が上手いというような、ミュージシャンに求められる音楽的スキルの巧拙によってそこにいるわけではない。アイデアやパフォーマンスといった、今となっては大きく寄与するところはあるにせよ、彼に求められているのは最初から、そしてただただ、ピエール瀧であることです。

イヌ(やネコ)の前脚にあって、なくてもよさそうに見える肉球は言ってみれば肉球界のピエール瀧である、と僕は考えます。なくなった途端、着地を担う肉球が精彩を欠くことになるのはまちがいありません。何かが足りないという印象が常につきまとうことにもなるでしょう。すべての肉球が明日も愛されるぷにぷにであるためには、手根球こそがどうあっても必要かつ不可欠なのです。

でなければ、そうですね、ジムニーの背面にくっついてるタイヤみたいなものかもしれません。主要な肉球のひとつがポロッと取れてしまったら速やかに交換できる、要は予備です。


A. ピエール瀧として、もしくは予備です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その493につづく!

2026年9月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その491


案ずるより産むがタカシさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 短歌や俳句のTV番組やYoutubeの動画を見ていると怒りが抑えられなくなります。ラップや歌の歌詞を見てもそう思うこともありますが、短歌や俳句は特に顕著です。限られた文字数を無駄に使い、言うべきでないことに無駄な文字数を費やしている句を見ると許せなくなります。そしてそれが他人に誉めそやされていることにも無性に腹がたってしまいます。自分でもどうかしてると思います。自分でも俳句は作りますが、文句を言えるほどのものは作れていないのに、他人の表現を見て怒りの感情が異常なほど湧き出てしまいます。もちろん口からも出てしまい、友達やパートナーに愚痴みたいに言ってしまって、しばらく後に自己嫌悪する日々です。自分がもし、自分が言っているような批判を受けたらきっと平静ではいられなくなります。なのに口にするのをやめられません。最近はSNSやTVから離れるようにして何とか心の平穏を保とうとしています。大吾さんはそうしたことは当然ないとは思いますが、日々心を乱されないために何かした方がいいように思うことがあれば教えてください。


正直なお人柄とそれゆえの懊悩がひしひしと伝わってきます。ご自身でもよくないと痛感しているだけに、これはつらいですね。

僕はというと、うーん、短歌や俳句ではないけれども、うっかり耳にしてしまった歌詞にギョッとすることは大人になってからわりとちょいちょいあります。うっかり口をついて出ることもあった気がするけど、ただ怒りでは全然ないです。どちらかというと冷や汗が流れます。

言葉がどうこうというよりも、たとえば美味しい炒飯を食べたことがない、もしくはそもそも求めていないのに「炒めればいいんでしょ」とてきとうに作ったひと皿を食わされるのにも似た、どちらかというと主に良し悪し以前の戸惑いですね。

ただ歌詞にかぎらず、なんであれ時代とか潮流というものがあるので、そういうもんなのかもな、と今はわりとソフトに受け止めるように努めています。あくまで内心でギョッとしているだけです。僕だって上の世代からギョッとされてる可能性、めちゃめちゃありますからね。

さてその上でいただいたご質問は、言葉との向き合いかた云々ではなく、むしろストレートに心のエラーである、と僕はおもいます。最大のポイントは「怒りが抑えられない」という部分です。短歌や俳句における言葉のあり方は、たまたま怒りのトリガーとして機能したにすぎません。もし言葉よりも料理に重きが置かれていたら、巷にあふれる簡単で美味しい手抜き時短レシピなんかがトリガーになっていた可能性もあります。したがってここでの問題はその対象がなんであれ、なぜ怒りが抑えられないのかです。わかっているのにやめられないところにそのヒントがあるかもしれません。

そもそも、怒りには快楽の側面があるらしいと言われています。古くはアリストテレスがすでに言及していたほどです。そしてべつにその方面の専門家でもなんでもない僕も、経験的にそう感じます。これをもうすこし科学的に解きほぐしてみましょう。

怒りにはドーパミンという、神経伝達物質の放出が伴います。このドーパミンには、放出の原因となった対象への距離を縮める傾向というか、側面があります。直接的に欲するというよりも、たとえば誰かがズルをするのを見て怒りを感じたら、以前よりも他人のズルを感知しやすくなる、ということですね。感知しやすくなれば当然、怒りの頻度も増えることになります。正のフィードバックによる悪循環の完成です。怒るたびに次の怒りを予約している、と言っても過言ではありません。

またこの悪循環は、とりわけ外に向けて発散する(ポストしたり愚痴ったりする)場合に顕著だとされています。なんとなれば一時的にスッキリはするので、以降はそのスッキリを求める回路が強化されてしまうのです。

なのでまさに「離れる」ことこそが最適解です。自覚的に距離を置かないと、過去のドーパミン作用によって無意識に近づいてしまいます。

以上を踏まえて、僕らのぷよぷよした脳みその内側で何が起きているかを、この際みっちり叩きこんでおきましょう。理性の問題というよりは、生物として不可抗力な挙動のひとつであると理解するだけで、きもちがすんげー楽になるし、世界と適切な距離を保つことの大切さが骨身に沁みるはずです。

悪循環に陥っている認識があるならばそれはもう、見るたびに怒るというより、怒るために見るフェーズに入っています。


あとは、そうですね、これはなんというか人生哲学みたいになってしまうんだけど、なるべく物ごとの良い面を抽出するようにふんわり心がけてみてください。誰であれ、そしてなんであれダメな理由を挙げるほうが圧倒的に楽で、長所を具体的に抜き出すのはめちゃめちゃ難しいです。ダメ出しのときはやたらと具体的なのに、褒めるときは良いとか素晴らしいとかヤバいとか、語彙がいきなり激減します。埋もれて見えない長所を拾い上げることのできる人はそれこそ、絶滅が危惧されるほどの希少種です。

言葉を尽くすなら、それこそここにその甲斐がある、と今の僕なんかは自戒をこめておもいます。


A. 脳みその内側で何が起きているかを、みっちり叩きこんでおきましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その492につづく!

2026年8月28日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その490


プラダを着た熊さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今までで一番「苦し紛れだったな」と思う言い訳(言い分)はなんですか


その昔、遅刻した理由を教師に問われたとき、問われることを想定しておらず、一瞬考えてから「時差通学です」と答えてものすごく怒られたことがあります。

なぜ問われることを想定していなかったかといえば、その理由がなんであれ遅刻は遅刻であってべつにその事実が撤回されるわけではないからです。じっさい、いま思い返してみてもあのとき彼が怒っていたのは僕の返答に対してであって、遅刻そのものに対してではなかったとおもう。

そんな言い訳が通用するわけないだろうと考えた当時の彼のきもちはわかります。しかしなぜそんなに怒られなくてはいけなかったのかは今もよくわからない。時差通学という返答が逆鱗に触れたとすれば、なぜそんなところに逆鱗があったのだろう?

それでなくとも僕は日ごろ、始業の1時間くらい前には学校にいて、まだ誰も来ていない教室でひとり、「午後の紅茶 FINE ESTATE」という当時大好きだった250ml缶のミルクティーをちびちび飲むのが習慣の愛らしい少年だったのです。

毎朝誰より早く来ていることはたぶんほとんど知られていなかったし、別に知らなくていいんだけど、稀に遅刻をすると目くじらを立てられるとすれば、少なくともそれは僕にとって不条理以外の何物でもありません。

バカな返答をするからだ、と一蹴する大人もいるでしょう。では単純に寝坊だったらどうだろう?それはそれで遅刻になる以上「たるんでるぞ」とかそういう話にならないだろうか?

でも当時の僕は5時半に起床し、駅まで30分くらいかけててくてく歩き、6時半の急行に乗り、いつも始業の1時間前には学校に着いていたのです。その上である日寝坊をしてしまったとしたら、それはたるんでることになるんだろうか?百万歩譲ってたるんでるでもいいけど、人間たるむときもあるわ、アホか、だから何だ、だから何なんだ!とハリセンで頭を引っぱたいてやりたい。

当時の僕が掛け値なくバカだったのは確かです。でも責めを負うほど悪いことをしたとは今もぜんぜん思いません。

このときの経験は、じぶんの視野だけで全体をジャッジする大人にはならないように気をつけよう、という教訓として、今も活きています。ありがたいことです。

これとは別にどう考えても苦しい、にもかかわらず口八丁手八丁で最悪の状況をかろうじてしのいだケースがひとつふたつあるんだけど、どれだけオブラートに包んでも倫理に抵触しそうなので、やめました。ご了承ください。長く生きてるといろいろあります。ほんとに。


A. 遅刻の理由に時差通学と答えたことがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その491につづく!

2026年8月21日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その489



俺の屍を越えてユッケさんからの質問です。


Q. 言葉とお餅って似てて柔らかくなるし固くなるし、最悪喉につまらせて死ぬと思うんですが他にも似てる食べ物ってあるのでしょうか。と、日の目を見れずに飲み込んだ文章を掘り返しての質問です。


身につまされます。とりわけ「飲み込んだ文章を掘り返して」の部分は涙なくして読めません。今となってはすっかり忘れ去られた、もしくは初めから誰にも知られていなかった「プルクワパ霊苑https://note.com/kbdg)」は、墓から掘り返されたテキストを改めて弔う場でもあったくらいです。コリコリと書いてるとね、埋葬しては掘り返す、墓場みたいなことがありますよね、ほんとに。

あだしことはさておきつ、言葉に似た食べものに戻りましょう。新鮮かつ刺激的な視点で、考えるのが楽しくなる質問です。

お餅が先にあったからか、真っ先に思い浮かんだのはこんにゃくゼリーです。いろんな色や形があって、ぷるぷるしている上に甘みもあって、ダイエットに良いとされていて、最悪のどに詰まらせて死にます。欧米では販売もしくは流通が全面的に禁止されているそうです。そのへんの危うさとか剣呑っぷりも言葉に似ています。

食べものというにはアレだけど、水なんかもそっくりです。固くなったりやわらかくなったり、熱くなったり冷たくなったり、形があるようでなく、泳いだり潜ったりもできるけれど、最悪溺れて死にます。というか地球上ではそもそも水がないと人であれなんであれ大概みんな死にます。途中まではめちゃめちゃ言葉と似てた気もするので、惜しいですね。

ニラはどうでしょう。野菜と呼ぶには草すぎるあのニラです。ふだんはほとんど意識しないし、大量にあっても手に余るし、何度考えてもやっぱり草なんだけど、ニラレバとかニラそばとか、ある条件下においてはこれなしではいられないほど無類の威力を発揮します。言葉だってそのすべてがクリティカルに刺さるわけではないですからね。神保町にある三幸園のニラそばは最高です。またニラと見た目がそっくりの水仙を誤って食べた場合、ニラとちがって全体が有毒なので、下手をすると死にます。

石川県にはフグの卵巣を糠漬けにした郷土料理があります。1年以上の塩漬けと、さらに1年を糠に漬けることによって解毒され、世界に類を見ない珍味となることが知られていますが、その解毒過程が未だに解明されていないため、昔ながらの製法を守り続けるほかないんだそうです。なので自作すると死にます。言葉もなぜその単語になったのか、なぜその文法になったのか、推測はできても確定できないブラックボックスが厳然とありながら、今となってはそのルールに従うほかないという点で似ていなくもありません。

さくらんぼもいいですね。丸くて、小さくて、双子みたいに連なって頬を赤らめていて、甘くてかわいいのに、最高級品ともなると貴婦人よろしく気品を漂わせるばかりか、種を数百個噛み砕いて食べると大量のシアン化水素が発生して死にます。言葉も基本まるくて小さくてコロコロしてるのに、やるときはビシッと決めるし、場合によっては死に至りますからね。

ドリアンも近いかもしれません。フルーツの王と言われるだけあって、濃厚な甘味を伴う高貴な味わいと、ありえないほど野卑な香りが同居する、言ってみれば世界で最もアンビバレントな果実です。また形状がいわゆるモーニングスターに酷似していてめちゃ硬いので、全力で振り回すとふつうに死人が出ます。清濁併せ呑むという表現がぴったりで、これはまさに言葉そのものと申せましょう。

オーソドックスに、カレーもありです。無限とも言えるバリエーション、どんな素材だろうと聖母のように大らかに包みこんでくれる懐の広さ、子どもから大人まで老若男女を問わず愛されていることなんかも重要な類似点ですが、とりわけぐつぐつ煮込んだり、ひと晩寝かせると味わいが深まるあたりが言葉っぽいですね。ただ、常温で放置するとウェルシュ菌が急速に増殖して、最悪多臓器不全で死にます。

一方で言葉には、めちゃめちゃグロテスクな側面もあります。顕著な例をひとつ挙げると、沼正三の「家畜人ヤプー」は全編にわたってグロテスクとしか言いようがありません。とてもじゃないけど最後まで平静に読み通すことはできない、という人も多いでしょう。今も語り継がれているのはグロテスク以上に隅から隅まで圧倒的な知性が横溢しているからですが、言葉のこうした側面に比肩できる食べものといったら、今のところ「カース・マルツゥ」くらいしか思い浮かびません。世界に類を見ない珍味のひとつです。僕個人の印象で言えば、見た目だけで死にます。食して死に至ったケースはなさそうですが、安全性より危険性のほうが明らかに上です。あと、そうですね、これに関してはググらないほうがいいとおもいます。人生には知らないほうがいいこともある…ということを教えてくれるのもまた、言葉ですよね。

この中でひとつ選ぶとしたら、そうだなあ、うーん、ドリアンかな、ドリアンにします。

食べたことないですけどね。


A. ドリアンです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その490につづく!

2026年8月14日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その488


ケロヨンしんちゃんさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 気持ちを悪くしてしまうかもしれませんが、小林様は、これまで生きてきて、こんな行動をしたら、連続して不幸な目にあったことはありましたか。

私の場合は、中学二年生の時、三学期末のテスト一週間前に、自己啓発の本を読みました。その三十分後に、私は塾へ行く途中で交通事故にあい、病院にいきました。私は、奇跡的に無傷だったものの、家に帰って夕食で食べた牡蠣に、当たってしまい、5日間苦しみ、その間に祖父が亡くなり、祖父の葬式を行いました。その結果、一週間私は勉強ができず、テストで赤点を取りました。


むむ、たしかにわずか1週間足らずで立て続けに起きた出来事としてはちょっとお祓いを考えたくなるくらい、タフな流れですね…。どう考えても「なんで!?!?」としか言いようがない状況です。その後は安寧な日々を送られてますでしょうか。

僕は、そうですねえ、連続して、となると以前ここにも書いたけれど、やっぱりうちにある2台の原付が2週間くらいの間に3回レッカーで運ばれたことなんかが一番わかりやすいかもしれません。

1度目はお店のオープンに向けていよいよ内装工事が始まるまさにその当日、うちの人が原付で派手に事故をぶちかまして救急車で運ばれその晩に緊急手術、そのまま入院を余儀なくされました。この現場で駆けつけた僕がレッカーを呼んでいます。その事故の後、つまりうちの人が入院してわりとすぐに、今度は僕の原付のチェーンが走行中に切れ、どうにもならずにレッカーを呼びました。バイク屋さんでチェーンを交換してもらって、心機一転と思ったその数日後に、今度は僕が事故りました。さいわいケガはほとんどなかった気がしますが、あまりよく覚えていません。相手がベンツだったことと、そういえば警官に何ごとかをねちねち言われたことだけ、なんとなく覚えています。

ここまででだいたい2週間くらいですが、さらにその2週間後、退院して松葉杖で移動していたうちの人が転倒して右手首を骨折、松葉杖での歩行が不可能になったため、一ヶ月ほど車椅子生活になりました。店のオープンが予定より半年ほどずれこんだのはそのためです。ちなみに当時買った軽くてかっこいい車椅子は、今も義実家にあります。

ただ、僕自身はこれを不幸と考えたことがありません。呪われてるなあとはおもったし、実際不幸といえば不幸だし、この時期が難儀だったのは確かなんだけど、なんだろ、不幸とラベリングした箱に仕分けたりはしていない、と言えば伝わるだろうか?というのも、人生にはとかくいろんなことがあって、良きにつけ悪しきにつけ、すべてがその後の日々につながっているからです。宝くじに当たる人もいれば、雷に打たれて落命する人もいます。

良くないことはどうあれ起きないにこしたことはないけれど、それをコントロールすることは誰にもできません。誰かに降りかかった災難は、いつだってじぶんに降りかかる可能性があります。「じぶん以外の誰かの話」ではまったくない。

何ごともない日々はそれだけで幸福であることを、僕らは忘れがちです。改めてそれを、肝に銘じましょう。この回答がぶじ投稿されるかどうかさえ、これを書いている時点の僕には断言できないのだから。

あと、僕は日ごろから姓で呼ばれることがほとんどないので、今後は気楽にダイゴと呼んでくださいね。


A. 2週間くらいの間に3回レッカーを呼んだことがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その489につづく!


2026年8月7日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その487


やどかりコーンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 東京に住むか、実家に残るか、はたまた見知らぬ土地に挑戦するか。多くの20代がぶち当たる壁に今ずっと悩み、立ち尽くしています。どの選択も、決めてしまえばなるようになるのは分かっているのですが、やりたいことも特にないためいまいち決め手に欠けています。人によって答えが異なるのは承知ですが、なにかいい決め方や指針はご存じでしょうか。


ふむふむ。僕自身はまったくぶち当たらなかった壁なので(実家に残る選択肢はなかったです)、ぜんぜん参考にならないかもしれませんが、ひとまず状況を整理してみましょう。

3つの選択肢が等価で並んでいるように見えますが、実際のところこれは、家を出るべきだろうか?という自問です。というのも、もし何も考えず、何も決断しなかった場合、自動的に実家に残ることになるからです。

そして現状、実家にいることにはとくに不都合がない、と判断できます。もし不都合があるのなら、それでも残るべき理由のほうが問題になるはずですからね。

一方で、ずーっと実家にいたい!と強く思っているわけではなさそうです。もしそうならそもそも悩む必要がないし、少なくとも家を出ることに興味を抱いているのはまちがいありません。

その上で、「見知らぬ土地に挑戦する」という3つ目の選択肢が、話をややこしくしてしまっています。東京かそれ以外の土地か、という問いは本来、家を出ると決めたあとの話です。

これを「今日の晩ごはん」に置き換えてみましょう。

1. 自炊する
2. 近所の町中華で食う

この2択はシンプルです。ですよね?

ではここに3つ目の選択肢を加えます。

1. 自炊する
2. 近所の町中華で食う
3. 初めての店に挑戦する

急にちょっとわからなくなってきませんか?

何しろまだ外出していないのに、する場合に生じる無数の分岐まで検討に含まれています。いきなりめんどくさくなる所以です。

要は「出るか出ないか」「どこに行くか」という異なる問題を同一のレイヤーに統合してしまっているわけですね。

なのでまずは試しに問題を「出るか出ないか」の2択に絞ってみましょう。

ものすごくシンプルなはずですが、仮に選択肢が3つあるときと同じくらい悩むとすれば、そこにおそらく最大の問題があります。

決めあぐねているのは本当に決め手に欠けるからだろうか?

最適解を求めると、日々はとたんに膠着します。選択時に確定している最適解などありません。それを踏まえていれば、ぶっちゃけサイコロを転がして決めてもいいのです。すっきりしなかったらどのみちまた考えることになるし、サイコロではダメだったことをイヤでも思い知らされます。ではなぜサイコロではダメなのか?

これはたぶん、ご自身の心を知る旅の途中でもあるのです。


A. 問題を適切なレイヤーに分けてみましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その488につづく!

2026年6月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その486


チャン原トリ夫さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 今年の1月に、ハンブレッダーズが『着陸』というポエトリーリーディング調の楽曲を発表しました。この曲はバンドサウンドを基調としていますが、大吾さんやtotoさんのように、ヒップホップやサンプリングをルーツに持つアーティストとは、リズムの取り方や歌詞の配置にどのような違いがあるのでしょうか。


これはすこし説明しなくてはなりますまい。totoさんというのは僕とほぼ同時期にポエトリーリーディングを始めたレーベルメイトで、もちろん今もバリバリと活動している、僕なんかよりもはるかに吟遊詩人と呼べるし実際にそういう生き方をしている、文字通り無二のアーティストです。

そしてもうひとつ大事なことを補足すると、totoさんはヒップホップやサンプリングをルーツに持つ人では全然ありません。全然というのはほぼとかそういうレベルではなくて、完全にゼロです。言葉のありようとしての日本語ラップには敬意や憧れ、愛情を山ほど抱いているはずだけれど、ヒップホップであるかどうかは今も昔もあまり気にしていないんじゃないかとおもう。実際のところ、当時たまたま足を踏み入れたフィールドにラッパーがたくさんいたことから、自然とこう、ヒップホップ濃度が高く見えるようになっていったわけですね。下戸だったのに飲み会に付き合ってたら前よりちょっとだけ呑めるようになった、みたいなことだとおもいます。ほんとに。

なので逆に、totoさんとリズムの関係性はめちゃめちゃ興味深いものがあります。というのも、昔は体の外にあったリズムが、今は彼女の内にもある印象だからです。彼女が音楽に寄り添うこともできるし、音楽が彼女に寄り添うこともできる、その双方向性がすごい。これはもう、巡り合わせによる特殊な環境が育んだ結果でもあるので、真似したくてもできません。このあたりは僕もいちどゆっくり話を聞いてみたいですね。

ハンブレッダーズの「着陸」は僕からすると、音楽とスポークンワーズの正統な系譜に置かれる楽曲です。ポエトリーリーディングにしても昔はこのタイプのほうがずっと多かったとおもう。

というのも、言葉にとって音楽はまず情感のアンプ(増幅器)としての意味合いが大きいからです。言葉を朗読やシャウト、スポークンワーズの形で音楽に乗せようとすれば当然、情感が優先されます。リズムはその後です。すくなくとも朗読が先にあってそれを音楽に乗せる場合、リズムやBPMは絶対条件ではない。

だから違いがあるとすればたぶん、リズムの取り方や詞の配置以前に、BPMを前提としているかどうかですね。そしておそらく、音楽とリーディングという組み合わせにおいて「つんのめるギリギリまでガマンしたい」とか情感とはぜんぜん別のことを考えてるのは、僕以外にあんまりいないとおもいます。


A. アプローチというより、前提に最大の違いがありそうです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その487につづく!

2026年6月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その485



ピーチジョン万次郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私も随分、長く生きてるなぁと感じた事があったら教えてください!


「年をとった」ではなく「長く生きてる」というのがいいですね。同じっちゃ同じだけど、前者は心身の衰えとか世代間ギャップみたいなことが主体になるのに対して、後者では積み重ねた年月をしみじみ実感していて、印象がずいぶん違います。昔話でキャッキャできるのはほんと、中年以降だけですからね。

そういう視点で考えると真っ先に思い浮かぶのは、今や両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らしている年月のほうが断然長いことです。気づいたときにはとっくに追い越していて、びっくりした記憶があります。もっと言うと、ビートに乗せてリーディングをする活動期間のほうがすでに長い。何しろ1枚目のアルバムをリリースしたのが22年前です。長いな。

生まれてから実家を出るまでの日々が18年くらいで、仮にそれをひとつのサイクルとすると、今は3周目の半ばです。とりわけ最初の18年は吐き気がするほど長かった印象がつよいので、それを2周も3周も繰り返しているとなると、いいかげんうんざりしてくるレベルの長さになります。もう一度誕生からやり直すのは本当にご免こうむりたい。あの体感時間はいったいなんだったんだろうとつくづく思います。人生の後半を下り坂と表現したりするけれど、長い年月をかけてひたすら登ってきたとんでもなく長い坂をこれからはチャリで漕がずに下れるなら、むしろ爽快で最高じゃないですか?

(風を全身で浴びながら颯爽と駆け下りるイメージ)

月日の重みは、いやでも年々軽くなっていきます。今日も気づいたら夜です。そして今のこの日々は、100%庇護下にあったかつての甘やかな時期と違って、ぜんぜん当たり前ではありません。山中とか廃屋とかでのたれ死んで白骨化してもなお気づかれない結末を迎える可能性はいつでも、そして歴然とあります。そういう懸念を昔から抱き続けているので、なんならその覚悟もちょっとできているくらいです。

だからこそこの先は1日1日をじっくりと味わうように噛み締めていかないといかんなあ、といただいた質問で思いを新たにすること自体、そこそこ長く生きてる証なのかもしれないですね。


A. 気づいたら両親や妹と暮らした年月よりもうちの人と暮らす年月のほうがぜんぜん長くてびっくりしました。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その486につづく!

 

2026年6月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その484


おっちょこチョリソーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 言葉の魂の重さは、全て約21gですか?ダンカン・マクドゥーガルは、魂の重さは約21gと提唱しました。「言葉には魂が宿る」という言葉があるので、私は、言葉の魂の重さは約21gだと思いました。


言葉に魂が宿るというのはたぶん、いわゆる言霊のことですね。いい発想です。

魂=21g」は僕もその昔、知ったときはかなり胸アツだった記憶があります。とりわけ「(実体がない)魂の重さを測ろう」というむちゃな発想が白眉です。実験が失敗だったとしても魂の存在が否定されないのもいいし、対象そのものを観測するのではなく別の現象から推定するという科学的なアプローチには今でも妙な説得力を感じます。暗黒物質(ダークマター)とかブラックホールなんかもそうですからね。

ただ実験から120年後を生きる今の僕としては、21gはいくらなんでもちょっと重すぎるな、という印象です。何しろ21gといったら大さじ1と1/3であり、小皿に垂らす刺身醤油とか餃子のタレくらいの量があります。じぶんの魂で餃子がひと皿おいしく食べられるなら人生もそんなに悪いもんじゃないと思いますが、ロマンチストとリアリストが常に同居してときどき取っ組み合いの喧嘩を繰り広げるアンビバレントな僕の結論としては、もう少し軽くなりそうです。その重さについてはまたあとでふれましょう。

そして肝心の言霊です。言葉は使用者が意図するよりもはるかに大きな力を持つ、というのは僕もつねづね実感しています。言葉はそれ自体がある種の呪力を纏っていると言ってもいいし、その呪力の核を魂と呼べるかもしれません。

その上で、言霊という漢字を見てみてください。同じたまだし、同じ強力な精神性を帯びた非実体だけれども、「魂」ではなく「霊」です。大雑把に分けると、内包する個体に影響を及ぼすのが魂、不特定多数に影響を及ぼすのが霊、ということになります。閉鎖と開放の違いでしかないとも言えるので、漢字が入ってくるよりもずっと昔、和語としての「たま」では区別されていなかったのかもしれません。

先の例で言えば、対象に届いた時点で発動する呪力が「霊」、その呪力の源となる核が「魂」です。霊魂という言葉があるくらい、どちらも根っこは同じですが、その重さが問題になるとすれば後者になるわけですね。なぜ言魂ではなく言霊なのか、その理由もここらへんにあると僕は考えます。

では、なんとなく曖昧だった部分をスッキリ区別できたところで、その重さを考えてみましょう。

小皿に注いだ餃子のタレほど重いはずがないとはいえ、魂が単に生物としての実体がないだけであることを踏まえると、長年にわたる思考と経験のすべてが保存された情報量は相当なものです。裏を返せば、その膨大な情報をどこまで圧縮できるのか、ということでもあります。

そこで参考になりそうなのが、染色体です。染色体1セット(30億塩基対)には生物を形づくる上で必要な基本情報の大部分が詰めこまれています。そればかりかデジタルデータに換算すると多くとも3GBくらいしかないそうなので、その密度と効率性といったらまさに圧倒的です。なので魂の情報量もだいたいそれくらいであると考えたとしても、あながちむちゃな比較でもない、という印象があります。

染色体1セットの重量は、およそ3.1ピコグラム(3.1gの1兆分の1)です。だとすれば魂の重さもまた、3.1ピコグラムくらいである、と個人的には考えます。

一方、言葉に魂があるとすれば、その情報量はヒトの一生ほどではありません。また「首都圏連続強盗殺人事件広域重要指定事件合同捜査本部」と「バナナ」という言葉の魂が同じ重さと言われてもいまいちピンとこないので、染色体よりもむしろ分子の重さのほうが類例としてしっくりきます。分子もいろいろありますからね。なのでここでは最小の分子である水素を参考に、0.00000000000335ピコグラムとしておきましょう。染色体の重さの9260億分の1です。言葉におけるいちばん小さな魂の重さとしてはこれくらいでいいんじゃないかとおもう。

ちなみにざっくりした視点で考えると、車のタイヤなんかも単一分子です。世界最大のタイヤは直径4メートル、重さが5トン以上あります。作ったのは日本を代表するばかりか世界トップクラスのタイヤメーカー、ブリヂストンです。すごいぜ。

言葉の魂の重さが場合によっては5トンを超えるというのはさすがに逸脱しすぎな気もしますが、しかし夢があります。そしてどうあれ僕はいつでも夢があるほうを選びます。5トンの言葉、味わってみたいですね。


A. 言葉の魂の重さは同一ではなく、その最小は0.00000000000335ピコグラムである、というのが僕の見解です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その485につづく!

 

2026年5月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その483


ルイ・アームストロングゼロさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「生命科学的思考」という本を少し前に読みました。その中で生物の死について書かれており、端的に言うと、死は環境に適応した新バージョンに入れ替わる為とのことです。そこで質問です。今の我々はバージョンいくつくらいで、前の個体からどんな機能が追加されていると思いますか?


死を個体のアップデートとして考える、という視点はユニークですね。これはひょっとすると、「世代交代による適応」を大胆かつカジュアルに言い換えた、ということなのかもしれません。

世代交代による適応とは、その時々の環境に対応できる個体の集まりが結果として残る(自然選択)、という考え方のことです。

進化というとその言葉から何か新たな機能を獲得したような印象を受けますが、必ずしもそうとは言えません。

たとえば特定の害虫Aを寄せつけない穀物を開発したとしましょう。今まで食べられていた穀物が食べられなくなるので、一見するとこの害虫Aは食いっぱぐれてそのまま絶滅の一途を辿りそうですが、実際にはそう簡単にいきません。というのも、「気にせずおいしく食べてしまう個体」が存在する可能性が常にあるからです。そしてこの場合、当然の帰結として気にせずおいしく食べられる個体の子孫が増えていくことになります。食べられない個体はみんないなくなりますからね。何度も何度も世代交代を繰り返したその先は、害虫Aにおけるすべての個体が気にせずおいしく食べることになるでしょう。害虫対策は振り出しに戻ります。いたちごっこと言われる所以です。

ここで注意したいのは、適応のきっかけとみなせる先の個体が、「生き延びるために新たな能力や特性を獲得したわけではない」という点です。むしろたまたまその特性を持っていたにすぎません。遺伝子は個体ごとに常に変異(エラー)と修復を繰り返しているので、知らないうちにある個体だけがなんだかよくわからない特性を獲得していたりする可能性があります。そしてそのなんだかよくわからない特性がたまたま環境の急激な変化に対応可能だったとき、初めてその威力を発揮することになるわけですね。

遺伝子の些細な変異も数打ちゃ当たります。そして当たればそれが適応とみなされるのです。ランダムかつ日常的な遺伝子のエラーそれ自体が、じつは生物としての高度な生存戦略のひとつなんじゃないかとおもう。

個体の変異ばかりか、交配によるシャッフルも加わったとき、遺伝子にどれだけ多様なパターンが生じるか、想像してみてください。数えきれないパターンがあれば何が起きてもさすがにどれかは生き残るだろうと思いませんか?

以上を踏まえると、適応かどうか現時点では誰にもわからないけれども、結果的にのちのち有効となりうる新たな機能が知らずに追加されている可能性はたしかにあります。

バージョンは、そうですね、うーん、1.0が二足歩行だとすると、火の獲得、言語の獲得、分解能力が他の生物と比べて著しく高い特異な点からしてアルコールの獲得、産業革命(労力の圧倒的なアウトソーシング)、デジタルで6、たぶんシンギュラリティで7になりそうだから、現時点のAI(思考のアウトソーシング)で6.5くらいかなあ…。1万年くらい前からはもう、言うほど変わっていない気もするんですよね。むしろ削られた機能のほうが多そうな印象あります。

直近のマイナーアップデートで改善された機能としては、冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでの所作ですね。以前に比べて、より滑らかでエレガントになっているとおもいます。


A. バージョンは6.5、追加された機能は冷房のリモコンを手にしてスイッチを入れるまでのエレガントな所作です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その484につづく!


2026年5月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その482

途中まで塗って力尽きたらしい

このマリリン紋所が目に入らぬかさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私はユニコーンは実在すると思っていたりいなかったりしますが、”実在する”と自分が思う「現実」とChatGPTがいう「現実」ってちがうのかなと感じることがあります。だとすると『現実』ってなんでしょう。


ふむふむ。そうですね、現実に対する認識がじぶんとAIとで異なるとすれば、それはシンプルに主観と客観の違いです。客観的な現実というのは言ってみれば多数決で決まるような話なので、他者の同意が希少なものごとについてはまず現実とみなされません。かつては地動説もそうだったことを思い出してください。したがって一般的には、現時点で他者が事実と認定できるものごとの総称、ということになります。

ただしここで重要なのはそれが、主観的な事実を否定するものではまったくない、という点です。100億人に否定されたらそれは「ない」ことになるのかといったら、なりません。それはあくまで客観的に認定できないというだけの話です。

たとえば僕は10代のころ、実家にひとりでいるときに、タタタタッと階段を駆けあがる幼児(3歳くらい)の足音をはっきりと聞いたことがあります。当時のわが家には3歳児どころか12歳児すら存在しなかったので、あんまりびっくりして父親のゴルフクラブを持って確認しにいったくらいです。そしてまあ、そりゃそうかという気もするけど、おそるおそる2階に上がっても誰もいないし、何もありませんでした。

これを客観的な現実の俎上に乗せたら、現実ではなく勘違いと判断されるでしょう。そりゃそうだよな、と僕もおもう。でも僕にとっては今でもよく覚えている、100%現実の話です。それを客観的に認定してもらう必要がいったいどこにあるだろう?

つい最近のニュースだけれど、ものすごく興味深い話があります。


3週間にわたって昏睡状態だった19歳の女性が目を覚ましたとき、彼女は「三つ子を妊娠・出産して7年育てた26歳」という認識だったそうです。その7年間をあまりにも鮮明に記憶していたので、今もじぶんがまだ19歳のままであることを受け入れられずにいると言います。

これを客観的・医学的な現実としてみた場合、せん妄ということになります。それ以外に合理的な解釈ができないからです。実際、家族からしたら病院のベッドに3週間眠りつづけていたのを毎日見ていたわけですからね。彼女の記憶は現実ではない、と断じるほかありません。

でも、本当にそうだろうか?彼女が意識を失っていたのは、その意識がべつの世界にシフトしてべつの人生を歩んでいたから、という可能性はないのか?

常識的な人なら、明確にないと断言するでしょう。当然と言えば当然だし、僕もそれは心の底から理解できる。

ところがここに、ちょっとした落とし穴があります。というのも、科学者であれ誰であれ、彼女の意識が昏睡中べつの世界にシフトしなかったと立証することは絶対にできない(=悪魔の証明になる)からです。少なくともその可能性をゼロと結論づけることは誰にもできない。そしてこれは科学的思考を常とする人ですら忘れがちですが、どんな可能性であれゼロと断じるならそれは科学的思考ではない。

少なくとも彼女にとって、三つ子を産んで7年過ごしたことは現実です。それでいて科学的に100%否定できるわけではない以上、客観的な事実である可能性すらあります。もちろん、そうに違いない、と結論づけたいわけではありません。ある種のバグとして処理するほうが誰だって受け止めやすい。一方で、彼女が実際にべつの世界で7年過ごしていたとして、僕らがそれを素直に受け止めてはいけない理由があるのかと言ったら、全然ないのです。僕が次に目覚めたとき、「君が音楽的な活動をしていたことは一度もないし、結婚もしていない」と家族とか医者に言われたら、やっぱり受け入れられないとおもう。そうならない保証がいったいどこにあるだろう?

主観的な現実と、客観的な現実の境目がすこしずつ、曖昧になってきましたね。それはまあそれとして、ユニコーンの不在を証明することはできないという事実は、それだけでちょっと心強いと思いませんか。


A. 心の底から実感しているなら、どうあれそれは現実です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その483につづく!

2026年5月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その481


レッド・ホット・チリ・ペッパー警部さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子どものイヤイヤ期ってなんなんでしょうか?


「ボタンを押したい」とか「荷物を持ちたい」とか「ウランを90%まで濃縮したい」などと要求し、受け入れられない場合は爆発的な癇癪を起こして容赦なく暴れ回り、手も足も出ない親の心を草1本残らない焼け野原にするという、あの悪名高い反抗期のことですね。

高度な反抗になると、本当にAで良いのかと何度も確認して了承を得たにもかかわらず「そんなことは言っていない」「わたしは最初からBだと言っていた」「フェイクニュースだ」と泣きわめくケースもあるようです。世の親たちが大挙して「いいかげんにしろ」とシュプレヒコールをあげながらデモ行進をしたくなるのもむりはありません。

専門家でもなんでもない僕が幼児をヒトの一個体として考えるに、これはたぶん「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」の本能的な発現です。わたしはわたしであってあなたではない、と自他を区別するその始まりと言い換えてもよいでしょう。本能的、というのは幼児であるその個体が自身の言動とその意味を自覚しているわけではおそらく全然ないからです。どちらかというと条件反射に近いのではないかと僕なんかは思います。猫の目の前に動くものがあったら手を出さずにはいられないようなものです。

幼児にかぎらずですが、自分が自分であって他の誰でもないことがはっきりするのは、他者との間に線を引くとき、つまり拒否を表明するときです。同意(YES)も意思表示ではあるけれど、追従の側面がある以上、拒否(NO)には及びません。

なにぶんそこそこ言葉が通じてしまうので、どうしても幼児の「こうしたい」という要求に意識が向いてしまいますが、もしイヤイヤ期がヒトの健やかな成長において不可欠な過程だとするならば(どう考えても必要であると僕は確信していますが)、重要なのはじつは要求が満たされることではないと考えられます。というのも、要求だけなら乳児も本能的にしているからです。生存にかかわりますからね。

また要求を満たすことが重要なのであれば、100%満たしているにもかかわらず真逆のことを言い出してちゃぶ台をひっくり返すような事態にはまず陥らないはずです。しかし実際には、ふつうにちゃぶ台はひっくり返されます。「話がちがうじゃないか」とデモ行進でシュプレヒコールをあげたくなる所以です。

したがって、イヤイヤ期の幼児にとって重要なのはむしろ拒否することです。実際には是(YES)であっても、とにかく非(NO)が意味を持ちます。要求に対する親の拒否を受け入れない(ダメに対してダメじゃないと抗う)ことも同様です。わたしがわたしであると表明する機会を常に待ち構えている状態、と言えるかもしれません。

つまりイヤイヤ期とは、ヒトの成長過程において芽生えた自己同一性の土台を固める段階である、と申せましょう。これを哲学っぽく言い換えるなら「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」ということになります。

理不尽に思える幼児のギャン泣きはほぼすべて「我イヤ!ゆえに我あり!」に翻訳できるとここで無責任に断言しておきましょう。誰であれ僕らはみな、かつてはデカルトに匹敵する偉大な哲学者だったのです。


A. 「我イヤ、ゆえに我あり(Nego, ergo sum)」の一言に尽きます。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その482につづく!




2026年5月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その480


101回目のマヨネーズさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 文章でも料理でもなんでも、昨日作ったものが魅力的に感じられません。どうしても一気のエネルギーで作り上げるかさもなければ不出来なシチューにあれこれと手を加えてひどいことにするかのどちらかになってしまいがちです。せっかく自分で作った昨日(やそれ以前)のものを気持ちよく今日に迎え入れ一緒に生きる気持ちの持ち方を教えてください。


そうですね、つくるといっても文章と料理ではずいぶん隔たりがあるように感じられるので、なぜ同じように感じてしまうのかをしばらく考えてみたのだけれど、「一気に作り上げる」と「後から手を加える」という向き合い方を踏まえると、これはひょっとすると「かけるコストに対して求める見返りのほうが大きい」のかもしれません。

たとえば料理は、レシピに100%従って丁寧に再現すれば、不出来になることはまずありません。どれだけ正確にやっても不出来になるとすれば、それはレシピの書き方が悪いか、もしくはそもそもその料理自体がイマイチであるかのどちらかです。

念のため付言しておくと、きちんと計量せずに目分量でやったり材料を代用しているケースは含まれません。レシピ通りでは全然ないからです。そして実際、後から手を加えたくなる時点でレシピ通りではない可能性が高い。

だとすればそれは、本来必要な時間と労力を無意識に圧縮しようとしている、ということです。

コストの圧縮自体は別に何の問題もありません。むしろコストをかけた場合と同じ結果を求めることが問題になります。なんとなれば、思った結果にならなかったという失敗経験のほうが明らかに多く積み重なっていくことになるからです。昨日を引きずるのも無理はありません。

「おいしい料理」と「料理」では、かかるコストが異なります。料理をするだけなら材料も手順も厳密ではないわけだから、時間と労力もだいぶ違いますよね。「料理」のコストで「おいしい料理」を求めれば、そこには当然齟齬が生まれやすくなります。それは文章も同じです。

取りうる選択肢は2つあります。「おいしい料理」と「いい文章」に見合う時間と労力をかけるか、もしくは「料理ができた」「文章が書けた」というシンプルな成功に比重を移すか、そのどちらかです。いちばんいいのは、後者でちいさな成功体験を積み重ねつつ、ときどき普段よりも時間と労力を費やしてみることかもしれません。

どれだけ些細であっても成功は成功であって、積もれば当然、山になります。良いものとか魅力的なものというのは、その山のてっぺんに気づいたら咲いてる花みたいなもんですよ。


A. 求める見返りをちいさくしてみましょう。


ちなみに思いどおりに花を咲かせることができた人は、僕が知るかぎりコール・ポーターだけですね。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その481につづく!

2026年4月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その479


リサイクルチョップさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 好きの反対は本当に無関心でしょうか?よく言われるこの言葉は果たして本当にそうなのでしょうか。何となくそんなもんかと思いつつ、何かが奥歯に詰まったような、準備万端で出かけたはずが何か忘れたモノがあるのではないかと心のどこかに少し不安が残るような、イマイチ腹落ちしないというのが正直なところです。ムール貝博士はどう思いますか?


たしかにこれは、よく言われることのひとつですね。実際その論理でいくと、じゃあ嫌いはどこに位置してその対義語はなんなんだ、という話になるわけだから、釈然としないのもムリはありません。わかるような気はするけれど、どうも飛躍があるようで据わりがわるい。

なぜそんなことになるかといえば、「好き/嫌い」「関心/無関心」という本来異なる比較のレイヤーをそのまま強引に統合しているからです。レイヤーを跨いでいるわけだから、当然そこには飛躍が生じるわけですね。

これを避けるために、たとえば「心に刻まれる/刻まれない」という別のレイヤーを新たに用意してみましょう。このレイヤーにおいては「好き」「嫌い」「関心」が前者、「無関心」だけが後者に置かれることになります。

好きと関心はともかく、嫌いが「心に刻まれる」側に入るのは直感に反するかもしれませんが、ネガティブな印象が消えないのなら、刻まれていないとは言えません。いうまでもなく、心に刻まれるのはいいことばかりではない。ですよね?

え、待って待って、それだと嫌いの反対も無関心にならない?と疑義を呈するきもちもわかります。ただ実際、このレイヤーにおいてはまったくもってそのとおりです。塩と砂糖がどちらも白い結晶というレイヤーでは完全に同類であることを思い浮かべてください。

それこそ芸能人なんかは「嫌い/無関心」という対比が成り立ちます。わざわざ嫌いであることを表明されるほど多くの認知を獲得しているということでもあるからです。認知(=心に刻まれること)そのものがポジティブな結果をもたらす可能性がある場合、どうあれ知られていないことよりも、知られているほうが望ましい。このレイヤーにおいて好き嫌いは問題ではありません。悪名は無名に勝るとか、炎上商法が成り立つのもそのためです。

そして嫌いにはまちがいなく、好きよりもはるかに明確な理由があります。ここが最大のポイントです。裏を返せば、嫌悪はその理由さえ解消されたら好感に転じる可能性があります。一度でも心に刻まれた以上、少なくとも無関心までリセットされることはありません。加えて嫌悪から転じた好感は、無関心から転じるよりも圧倒的に印象が強いはずです。そういう意味では、好きとの距離が遠いのは嫌いよりもむしろ無関心ということになるでしょう。こちらが好意を寄せている場合はなおさらです。

言い換えるなら、件の対比が成立するのは相手の好意が問題になる場合のみ、ということになります。たとえば相手が納豆だったら、僕らも納豆側の好意まではさすがに考えたりしないので、この場合はただ好きと嫌いがあって、その間にどちらでもないが挟まるでしょう。そしてもし納豆が僕らに食べてほしいと熱烈に望んでいる場合、ハードルが高いのは嫌いよりもむしろ無関心だとおもうので、愛されたい納豆にとって好きの対義はやっぱり無関心になります。


A. それは相手の特別な好意を望んでいるときだけの話です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その480につづく!

2026年4月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その478


暮らしの手錠さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 『さいとう』『ふくだ』等など、苗字の店名が付いてる食堂は、なぜか、想像通りの良い感じの食堂が多いとおもいません?


ふむふむ、たしかにそんな印象ありますね。たとえば「スサノオ」とか「wabi-sabi」とか「魯山人」とかと並んで「さいとう」という食堂があったら僕も「さいとう」を選びます。仮に4店とも食べ比べてどれも美味しかったとしても、気楽に再訪するのは「さいとう」なんじゃないかという気さえする。ふしぎですね。

それでまあ、つらつら考えてみたんだけど、これはひょっとすると一見素朴におもえて、なかなか奥の深い視点かもしれません。

まず、食堂であることが重要です。そもそも大衆食堂は、ジャンルを問わずいろんなメニューが雑多に混在するイメージがあります。焼き魚の定食もあれば、カレーとかラーメンとかカツ丼があったりもするでしょう。実際にはそのどれもないかもしれないけれど、少なくとも「作れそうなもんは作る」くらいの大らかさがある。つまり食堂である時点で、とにかく腹を満たしたい勢にはすでに感じがよいのです。

そして店名が姓だとすれば、それが考えうるかぎり最もシンプルな名付けである以上、食事処として何も含むところがないことを端的に示しています。「たけし」とか「ともこ」といった下の名よりもさらにアノニマスである点に注意してください。姓ほど、ただ必要だからつけただけであってそれ以上の意味がないことを示す愚直な店名はありません。

業態が大らかで店名が愚直なら、店の雰囲気も自然とそうなるだろうし、料理もそうでしょう。感じのよい確率は総じて高くなります。

大らかと愚直のどちらが欠けてもいけません。「魯山人食堂」だったら水にもこだわりがありそうだし、「和食さいとう」ならたぶん旬の野菜を使った繊細な料理が出てきます。どっちもまちがいなく美味しそうではあるけれど、大多数の僕らは毎度の食事に明確な目的意識を持っているわけではないので、「ご賞味あれ」よりは「食ってけ」くらいのカジュアルな態様のほうが、実際のところ圧倒的に助かるのです。あとたぶん、というか絶対、リーズナブルですよね。

そしてつい忘れてしまいがちですが、僕らは日々の食事に求めているのはボルテージではなくむしろある種の癒しと安らぎです。それを自然と満たすひとつの目安として、「苗字の店名が付いてる食堂」は確実に有効だと僕もおもいます。


A. そこにはたぶん、人の良さが意図せずにじみ出ているのです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その479につづく!

2026年4月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その477


勝手口にシンドバッドさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. どうしても目が行ってしまう機械(マシーン)を教えて下さい。年甲斐のない話なのですが、私は回転するドリルに目がありません。


僕もドリルは大好きです。回転する棒を押し付けても穴は空かないのに、螺旋状の刃がついただけでかくもエレガントに穴が空くものかと見惚れずにはいられません。フィギュアスケートの回転みたいな美しさがあるし、むしろ逆になぜフィギュアの選手は足に刃がついているのに氷に吸いこまれていかないのかと首を傾げるくらいです。

というかそう考えると基本、機械全般大好きですね。ある目的のためにせっせと動いている機械はそれだけで目を奪われます。ミシンなんか針の連打でなぜ縫えるのかいまだによくわからないのでつい見入ってしまう。

ロボットが好きかというと、そうでもありません。あくまで「決まった動作を繰り返す機械」が好きです。お祭りの屋台後方に置いてあるキャベツの業務用スライサーとかはもう、お好み焼きより断然気になります。道路の白線とか文字を描く機械も思いのほか原始的でとてもよろしい。

そしてもちろん、そうしたシンプルな動作を組み合わせた結果ゴツくなった機械も大好物です。とりわけ餃子の全自動成形機なんかは、人類の叡智と言っても過言ではありません。


最高ですね。家にあったら休日は稼働する様子をずっと眺めていたい。ひょっとするとスチームパンクの世界に違和感なく溶けこむ機械が好きなのかもしれません。とにかくこう、それしかできない愚直さが大事です。

それよりも僕が気になるのはご質問にあった「年甲斐もなく」というエクスキューズです。年齢に応じて嗜好が変化するのはわかりますが、そうあるのが普通は単なる圧力であって、従う必然性は何ひとつありません。好きなものは好きというただそれだけのことに異議を唱える連中はつまり上の世代の圧力に屈しただけでしかないこと、それに寄り添うこともまた次世代への圧力に加担していること、マンガやアニメだって40年くらい前はそれこそ年甲斐のないものとして扱われていたことを思い出してください。

もうちょっとしたら指先だけドリルに改造できる日がくるかもしれません。僕は正直、若造より爺さんの方が、指ドリルは似合うと思いますね。


A. 全自動餃子成形機です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その478につづく!


2026年4月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その476


チョコモナカチャンピオンさんから、8年前の質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 自分の作品の中での、パンチラインオブパンチライン…一番のパンチラインを教えてください。


パンチラインかどうかはともかく、気に入っているラインはいろいろあります。いちばん最近ので言うと「九番目の王子と怪力の姫君」にある「耳を貸せと言っては勝手に借りていく連中」なんかかなり好きです。好きとかそういう話ではないのかもしれないですけども。

一方、書いてから20年近くたった今でも、しみじみ思い返してみて、結局これに尽きる気がするよな、と思わずにいられないのは、「手漕ぎボート」での神さまとの対話です。

「もうちょっとましな舵の取り方はないの?」
「あんたが用意した船にはついてなかったよ舵なんか」

という部分ですね。20年前には想像もしてなかった日々を送っていて、かついまだに順風満帆でも別に前途洋々でもなさそうなあたり、やっぱりここに立ち戻るみたいなところがあります。いずれ順風満帆になるなんてかつて一度も考えたことないけど、昔のじぶんの肩をポンと叩いて、あのひと言、まじで真理っぽいぜとか言ってあげたいです。実際、長い年月を経ないと実感できないこともありますからね。それでいいのかどうかはさておき、個人的にはエバーグリーンなラインです。ほんとずっとこんな感じなんだな、どうなってんだ一体、という気もする。

そんなことをつらつら考えていたら、これはもうこれだけで独立した格言としてアリかもしれんな、とすら思えてきたので、いい機会だしデザインに移し替えておきました。


いい機会というのはたまたま今日からTRINCHのセールが始まったこと、そしてここだけの話、アグロー案内新作の予告みたいなことでもあるからです。


TRINCHは気づいたらこう、つくれるアイテムがびっくりするほど増えているので、もしこのデザインでこれがほしいみたいなリクエストがあればお応えできるとおもいますので、いつでもお寄せくださいませ。


A. 「手漕ぎボート」における神さまとの対話です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その477につづく!

2026年3月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その475


背負い投げキッスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もっとふてぶてしくなりたいので、コツがあればおしえてください!


僕はせいぜいふてぶて幼稚園をギリ卒園できたくらいのレベルなので、どれくらいお役に立てるかわかりませんが、それでもよければ伝授しましょう。もしもっと高度なふてぶてスキルを身につけたい場合は、ふてぶて大学を首席で卒業したエリート中のエリートである某国大統領の言動をニュースで具に追ってみてください。

またふてぶてしさには解釈によって異なる宗派のようなものがあり、図々しさ無神経まで教義に含むケースも見受けられますが、ここではあくまで原理主義に従います。それによれば、ふてぶてしさとはむしろ「火中の栗をおいしく食べる」ようなことです。

実際、火中の栗ほど危険なものはありません。さるかに合戦を読んでもわかるように、それは歴史が証明しています。

なんとなれば高温で熱せられた栗は大爆発を引き起こし、周囲に深刻な被害をもたらすからです。さるかに合戦においてサルが尻や顔の火傷で済んだのはほとんど奇跡であると言ってよいでしょう。

しかしもし、最大出力で爆ぜた敵意の栗を片手でキャッチし、目にも止まらぬ速さでポイと口に放り込んでおいしくいただいたあげく、もうひとつ別の栗を同じ目的で火中に投じることができるなら、それはかなり純度の高いふてぶてしさです。まずはこのレベルを目指しましょう。

そのためのステップ1は、反復横跳びです。

ふてぶて幼稚園では毎朝、園児全員で反復横跳びに励みます。これはもちろん、火中から高速で飛んでくる栗を躱すためです。躱さないほうがふてぶてしいのでは、と思うかもしれませんが、健全なふてぶてしさには適度な運動による健康の維持が欠かせません。

ステップ2で、実際に火中から弾丸のように放たれる熱々の栗を躱します。躱せるということは栗の軌道を捕捉できているということです。鍛えられた動体視力は当然、スムーズな栗キャッチにつながります。

紙一重で躱せるようになったらステップ3で栗のキャッチに進みましょう。すでに栗の軌道は見切っているので、両手を用いる必要はありません。片手で十分です。ただ熱々なので分厚い手袋を着用し、徐々にその厚さを薄くしていきます。気づけば素手でも熱さを感じなくなっているはずです。

ステップ4で口にポイと放りこみます。素早く皮を剥いてもいいですが、剥かずにそのままバリバリいくほうがよりエレガントです。死ぬほど熱くても何事もなかったかのように咀嚼してごくりと飲み下し、次のひと粒に備えましょう。ふて道ではこれを残心と言います。

敵意を持って弾丸のように向かってくる熱々の栗を軽くあしらい、あまつさえおいしいとまで感じる域に達するのはもちろん、簡単なことではありません。しかし鍛錬を重ねるうちに、自然とおいしくいただけるようになり、自然と次のひと粒に手が伸びます。ふてぶてしさにおいては無自覚こそが基本であり、かつ極意でもあるのです。がんばってください。


A. 火中の栗をおいしくいただくことから始めましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その476につづく!

2026年3月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その474


ダンシング疲労さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 居酒屋で出してもらったおしぼりはどんな形に変形させますか?


何を隠そう、僕は世界おしぼり変形選手権に彗星のごとく現れていきなり優勝を果たし、地球代表として宇宙大会への切符をみごと獲得、開催地であるプロキシマ・ケンタウリbに向けて出発するロケットの打ち上げ当日に寝過ごした夢を見たことがあるくらいの男です。

「この世のすべてはおしぼりで再現できる」が座右の銘で、その名が知られるきっかけはおしぼりで再現した葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」がSNSでバズり散らかしたことだったとされています。

生物の造形が得意で、とりわけアノマロカリスといった先カンブリア紀のバージェス動物群を得意としましたが、世界おしぼり変形選手権の日本予選ではよりによって河鍋暁斎バージョンの九相図を再現し、そのあまりの生々しさに失神者が続出、他を寄せつけない圧倒的かつ唯一無二の才能に異論は一切なかったものの、果たしてこれを日本代表として選出してよいのか、激しい賛否の渦を巻き起こしたのも記憶に新しいところです。

世界選手権を制した作品はエジプトはギザのいわゆる三大ピラミッドで、これは単に四角錐が3つ並んだだけのように見えて、基部に残された化粧石や積み上げた石材1段あたりの高さがまちまちである点まで正確であったばかりか、完全には解明されていないはずの大ピラミッドの複雑な内部構造まで再現されていたことから、エジプト考古省から抗議を受け、保存をせず速やかにおしぼりに戻すよう強く要請されたという逸話が今も都市伝説として語り継がれています。

また宇宙大会では四次元超立方体である正八胞体を出品するというスクープ報道が拡散され、前代未聞の再現可能性に多くの数学者たちが否定的な見解を示したものの、ロケットの打ち上げ当日に寝過ごして棄権となったことが世界規模で炎上し、事実上の引退へと追い込まれてしまったため、実際に正八胞体を再現できたのかどうかは今も謎のままです。

少なくとも当人である僕としては、なんだかよくわからないけどすごくいい夢をみた、と申せましょう。


A. 正八胞体です。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その475につづく!

2026年3月6日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その473


友達以上ルイヴィトン未満さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 大吾さんは日々の生活の中で、良い知らせが来るといった予兆があった事はありますか?(茶柱が立つ以外で)


そうですね、日々の期待値を上げてくれるちょっと珍しい光景でいえば、あります。僕はそもそも茶柱みたいな日常のちょっとしたイレギュラーに目がないので、なんならわりとしょっちゅうあります。

たとえば玉子を割ったら黄身がふたつあった、みたいなことです。それだけで確率の低い何かに当選したような気がするというか、実質そのとおりだし、それが朝ならなおさらです。少なくとも、こりゃ良い1日になっちゃうぜと気が大きくなってしまうのは否めません。

そしてその方向性を延長すると、道に落ちているバナナの皮なんかもその例に含まれます。バナナの皮が道に落ちてるわけないし見たことないとおもわれるかもしれませんが、僕は過去に3度ほど目撃しているので、実際あるのです。歩きながらバナナを食べるだけならともかく、それを路上でポイ捨てするという子どもでも理解できる倫理観の欠如が必要になるため、まず確実にSSRであり、得られる期待値は茶柱よりもはるかに上であると言えましょう。一度だけバナナをもぐもぐする人とすれ違ったことがあって、それだけで血圧が爆上がりだったのだけれど、その皮をどう処理するかまで見届けるべきか迷ったことがあります。今おもえば後をつけるべきだったとおもう。

そういえば今週は、バッグから取り出したうまい棒を食べながら歩き去る壮年の女性を見かけて、すれ違いざまに思わず振り返ってしまったのだけれど、これなんかも僕には吉兆のひとつです。滅多に姿を現さない神様に遭遇したような印象なんでしょうね。彼女はどこであのうまい棒を買ったんだろう?買ったのは1本だけだったんだろうか?そして何味だったんだろう?

他にも町なかで全力疾走する人(スーツ姿だとポイントが高い)、信号がずっと青、空をひらひらと舞うビニール袋なんかも吉兆です。一定の確率で存在することが明らかな四つ葉のクローバーよりもずっと縁起がいい気がしています。

ただ、実際に予兆だったためしはかつて一度もありません。

わかります。わかります。ご質問の主旨としては、「良い知らせの予兆を茶柱以外で経験したことはあるか」ということですよね?

今の僕はこう考えます。たとえば茶柱が立つことは、そもそもそれ自体が希少で、かつ幸運です。その上でさらに何か良いことがあると受け止めるのはいったいどういうことなのか?ひょっとして僕らは、何らかの抽選に当選したのなら、当然その景品があるはずだと考えているだけではないのか?

福引で特等の大当たりが出た、その景品が1本の茶柱だったとして、それを大よろこびできる人はそう多くないでしょう。僕も別にいりません。だからこそ皆これを結果ではなく、もっといいことがある前触れとして解釈しているのです。認知的不協和の回避と言い換えてもよろしい。

だとすれば、こう問い返すこともできます。茶柱の立つこと自体が幸運なのだとすれば、むしろ茶柱の立たないほうが人生におけるなけなしの幸運を消費せずに済み、日常の期待値が上がるのではないか?

ただそうなるとそれはそれで日々が味気ないし、茶柱やバナナの皮や空飛ぶビニール袋に遭遇すればやっぱりうれしいものです。なので実際にはこの先にいい知らせがあるかどうかよりも、いいことありそうと思えるだけで薄暗い日々に光が差す、その心持ちがまた新たな福を招いてくれるのかもしれないな、と近ごろはおもいます、しみじみと。


A. 道端のバナナの皮とか、全力疾走する人なんかが吉兆ということになっています。


ちなみに毎日のように緑茶を飲んではいるけれど、最近の茶漉しは昔の急須とちがって網目が細かいので、茶柱が湯呑みにまぎれこむ余地、じつはゼロなんですよね…。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その474につづく!