2024年10月18日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その434


ジャバザハットたかたさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q.一見幸せなようで実は不幸なんじゃないか、と思うことは何ですか。


言わんとするところはよくわかります。それはたとえば、絶世の美男/美女と結婚することと、その美しさゆえに気苦労も絶えないことがカードの表裏になっている、みたいなことですよね?みんなでワイワイと論じたらぜったい楽しいし、僕もその場にいればあーでもないこーでもないと考えるでしょう。

ただ、こうして今、僕ひとりになってみると、同じように考えることはできません。なんとなればこの問題は、「幸不幸は比較によって判断されるもの」という、こうして言葉にしてみたら絶対に誰もそれにイエスとは言わないはずの前提に立っているからです。

絶世の美男/美女と結婚した本人が幸せならそれはもう絶対に幸せであり、逆に本人が気苦労の絶えないことを不幸と言うならこれまた誰がなんと言おうと不幸と結論づけるほかありません。幸福とは徹頭徹尾、本人だけの問題です。重要なのは幸せかどうかであって、幸せに見えるかどうかではない点に注意しましょう。

実際、多くの人は幸せに見えるかどうかを幸せの基準と考えている印象があります。言ってしまえば、人が羨むかどうかです。そしてその幸せは比較によって相対的に決定されるので、ぜんぜん別の尺度を持ち出して比較した途端、不幸に転じて見えたりするわけですね。でもそれはせいぜい比較する第三者の溜飲を下げることにしかならないし、それゆえに却って羨望が日々つきまとうことになります。ですよね?

かくいう僕も、たとえば「良いものを安く買えた」といったことに喜びを感じてしまう男なので、日々反省しきりです。それはそれでまちがいなく幸せではあるんだけど、でもこの幸せはもっと安く買えたと知った途端に色褪せてしまいます。良いものであることには何ら変わりがないにもかかわらずです。こうして文字にすると本当にバカバカしくなるけど、何しろずっとバカなのでしかたがありません。

一方、うちの人なんかはむしろ「良いものを買えた」ことに喜びを見出すタイプです。そこに価格の高低はあまり関係がない。なのでそこで得た幸せはいつまでも色褪せることなく、燦然と輝いているわけですね。ああもう、ほんとにそういうことだよな、といつもおもう。

この強度のちがいがおわかりだろうか。

以上のことを総合すると、答えは自ずとこうなります。


A. 比較によって得られる幸せすべてです。




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その435につづく!

2024年10月11日金曜日

ゆで玉子の誤謬について考える


ああ、あのこと書き残しておけばよかったなあ、と思いながらこの世を去り、その未練が原因で成仏できず、怨霊となって下界をうろつくようになっても困るので、今のうちにゆで玉子のことを書き残しておきます。ゆで玉子を手にうろつく怨霊は想像するだけでめちゃめちゃ怖いです。そういう望ましくない未来を断ち切るためだけでも、今回の話にはたいへんな意義があると申せましょう。

僕がここである種の遺言として書き残しておきたいのは、「玉子の殻を剥きやすくする技」のことです。玉子のお尻に穴を開けたり、酢を入れて茹でたりといろいろありますが、技そのものや効果を否定したいわけではありません。率直に言えば、それ以前の問題です。そして僕がこのことに懸念を抱いているのは、それが必ずしも玉子にかぎった話ではないからです。

たとえばここに、殻が剥きやすくなる技を使って、きれいに剥けたゆで玉子があるとします。技のおかげできれいに剥けたと考えるのはごく自然な気もしますが、実はそうとはかぎりません。

なんとなればここには、技を使わなくても殻がきれいに剥けた可能性もあるからです。おわかりだろうか?

もちろん、技のおかげである可能性も同じくらいあります。それを否定したいわけではないと言ったのはそのためです。問題は、それを証明することは誰にもできない、という点です。

それを証明するためには、同じ1つの玉子で「技を使った場合」と「使わなかった場合」の両方を試す必要があります。まったく同じ条件下であっても、別々の玉子であればその時点で証明にならない点に注意しましょう。実際、同じパックの玉子でも剥きやすさが違うことは往々にしてあります。証明するなら、あくまで1つの玉子で2つのやり方を検証しなくてはいけません。

いや、無理じゃん、と思われましょう。そのとおりです。ではなぜその技が有効であると断言できるんだろうか?同じ玉子で技を使わなかった場合を検証していないし、したくてもできないのに?

玉子にかぎった話ではないと先に書きましたが、では玉子抜きで言い換えてみましょう。ここでは、本来であれば2つの結果を比較して初めて証明されるはずのことが、1つの結果のみで証明されたことになっています。

というのも、得られた結果が言ってみれば望んだとおりだったからです。誤謬に気づかない理由がここにある。

具体的すぎる別のケースに置き換えてみましょう。たとえば僕がアルバムのリリース前に全曲試聴を用意したい、と主張したとします。それに対して、全曲試聴はネタバレみたいなもので期待値を下げるし、売り上げを下げることに繋がりかねないから試聴は1、2曲にとどめたい、と反対されたとします。その意見を尤もだと受け止めた僕は、試聴を1、2曲にすることに合意します。アルバムはぶじリリースされ、なかなか好調な滑り出しを見せたとします。ここまではよろしい。問題はその後です。

この状況で、「試聴を1、2曲にとどめて正解だった」と結論づけることは可能だろうか?リリース後の好調な滑り出しは、全曲試聴をしていたらこれ以下の結果にしかならなかったと結論できる根拠になっているだろうか?

なっていません。ですよね?

これを先のゆで玉子に置き換えるなら、「技を使った場合」が「試聴を1、2曲にとどめる」で、「技を使わなかった場合」が「全曲試聴」になります。繰り返すけれど、それはどちらも、同時に検証することができません。

全曲だろうと数曲だろうと試聴が売上にさほど影響しなかった可能性もあれば、全曲試聴が思いのほか功を奏した可能性もある。しかし得られた結果が望んだとおりかそれ以上になると、検証のしようがない他の可能性に蓋をして、判断の正しかったことが証明された、と考えてしまうわけですね。

ゆで玉子くらいなら別に問題でもないけれど、この論理的誤謬が本質的にマズいのは、誤謬と気づかずに証明されたと考えてしまうことがそのまま経験値として次の判断に影響を与えることになるからです。ぶっちゃけ会社組織なんかもう、そんなんばっかなんじゃないかとおもう。

そしてこのゆで玉子の話がめちゃめちゃ教訓的なのは、件の誤謬が例外どころか、ほぼすべての人に適用される可能性を示唆しているからです。これが教訓でなくて何だろう?

そんなわけで、以前はあれこれ試してみたりもしたけれど、今の僕はゆで玉子の殻をきれいに剥くための技を使っていません。経験則としてやっているのは、茹でた直後に水で冷やすこと、あまり新しい玉子を使わないこと、の2つだけです。

うまく剥けないときもあるけど、人生だって似たようなもんですからね。

2024年10月4日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その433


新しい学校のレイダース/失われたアーク(聖櫃)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 夢は叶いますか?


いい質問です。

ただ僕は物心ついたときから「夢は叶う」というフレーズに対して、いくらなんでも大雑把すぎんかと疑義を抱いてきた男であり、人生の折り返し地点を過ぎた今でも、やっぱり大雑把すぎるしそれゆえにそう断言するのは無責任すぎると感じています。

たとえば遠い未来の宇宙空間で戦争があったとしましょう。これから宇宙船で出撃するパイロットは故郷に婚約者がいて、帰還したら結婚する予定です。実際のところ婚約者がいて帰還したら結婚式を挙げることが決まっている宇宙船のパイロットというのはその設定自体が死を意味するものですが、それはまあさておくとして、彼がぶじ帰還できるかどうかは誰にも断言できません。生きて帰るための努力を積み重ねて確率をいくらか上げることはできそうだけれども、それだけでは帰還できる保証になりません。なんとなれば帰還という結果を左右する要素がめちゃめちゃ多くあるからです。なんなら、ここがおれの死に場所だ!と自暴自棄になって突っ込んでいった死にたがりがどういうわけか巡り巡ってあっさり帰還してしまう可能性すらあります。ですよね?

どう考えても結果を左右する要素が本人の意志以外にも多くある以上、希望した結果になると断言することは誰だろうとできないはずです。単純化しすぎで大雑把な上に無責任と考える所以がここにあります。

もちろん、鼓舞することでそれが一種の暗示になり、プラスに働くこともあるでしょう。というか実際、プラスに働くんじゃないかと思う。ただですね、鼓舞というのは結果に影響する他の要素をすべて度外視しているというか、「君次第だ」と問題を極端に単純化してしまうので、仮にうまくいかなかった場合、その理由もまた「才能がなかった」とか「努力が足りなかった」と極端に単純化されてしまうことになります。でも、本当にそうなんだろうか?

その昔、バイト先の社員に大のサッカー好きがいました。たしか当時で26歳だったと思いますが、仕事の合間にちょっと手が空くとリフティングをしていた気がするし、ほぼすべての休日をフットサルに費やしていたばかりか、毎日ドリブルで通勤していたと聞けば、その熱の入れようがおわかりいただけましょう。ドリブルで通勤はさすがに今でもすげえなとおもう。

彼がプロになりたかったのは確かです。でもプロにはならなかった。ではなぜならなかったんだろう?努力が足りなかったんだろうか?才能がなかったんだろうか?少なくとも彼自身はそう考えていたようだったけれど、そんなわけねえだろと僕は声を大にして言いたい。夢を叶えるための条件が本人に帰するなら、それは一握りの天才にしか不可能と言っているのと結果的に同義ではないのか?

また「夢は叶う」というフレーズは、実際に叶えた人にしか言うことができない点にも注意が必要です。自分でも叶ったんだから、他の人だって叶うと考えるのはごく自然なことですが、一方でどれだけ強く望んでも叶わなかった人のほうが圧倒的に多い現実もまた厳然とあります。その現実に蓋をするなら、やはり無責任であると言わざるを得ません。

その上で僕には、誰にでも突出した何らかの才能が絶対にある、という強い確信があり、それはいいおっさんになった今でもまったく揺るぎないばかりか、ますます強固になっています。ただし、その才能が自分の望むものとはかぎりません。たとえば僕は今でも声を使って作品を作ったりデザインをしたりしているけれど、それで名を成したかといったら別に成してないので、なんなら別種の、僕自身ぜんぜん気づいていない才能が今もスヤスヤ眠っている可能性があります。たとえば皿洗いがあまり苦ではない体質が、何らかの才能の片鱗を示しているとか、そんなことはないだろうか?

なので僕にとって夢を叶えた人というのは、望んだ才能と実際の才能がうまく合致した上に、結果に影響する要素の多くがプラスに働いた、もしくはプラスに引き寄せた人です。言うまでもなく、結果に影響する要素の中には、不断の努力も含まれています。そして努力はそれ自体が汎用性の高い、万能な経験値である、とだけは断言されて然るべきでしょう。

そんな僕が、夢は叶うかどうかを問われて答えるとしたら当然こうです。


A. それは誰にもわかりません。




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その434につづく!