2025年11月28日金曜日

アグロー案内 VOL.10解説「九番目の王子と怪力の姫君/how he became a pearl diver」①


この曲の制作におけるイレギュラーな過程についてはまた改めて書き残しておこうと思いますが、ぜんぶまとめると長くなるので今回はひとまず注釈だけ記しておきましょう。

というのも、この曲のテキストもまた、これまでにない書き方をしたからです。

何しろ通常はある程度テーマを抱いて向き合うところ、この曲に関してはテーマもへったくれもなくとにかく思いつくままに書き散らしてから考えようとめちゃめちゃアバウトに書き始めています。最初に思い浮かんだのは「理由がある。」という一言のみです。

ほほう…理由がある…それはどんな?ひとつだけ?と自問しながら深く考えずに書いていったら、なぜか龍に転じました。龍か…龍といえば…とここで曲亭馬琴の南総里見八犬伝が思い浮かびます。八犬伝にはちょいちょい龍が出てくるのだけれど、そういや龍の子についてあれこれ書いてあったな…と思い出したのが、つまり「龍生九子」です。いくつかバージョンがあるようですが、ここでは八犬伝の記述(元はおそらく「懐麓堂集」)に準じています。龍になれないならどうやって龍が育つんだ、とおもいますが、元々そのあたりを度外視した伝承なので、仕方ありません。曲の途中で唐突に解説が始まるあたり、リーディングならではという気もしますね。

龍になれないということはまあ落ちこぼれだよな、とここでそのうちの一人として気の毒な小悪党が登場します。落ちこぼれなので親である龍の期待に沿うことは当然できません。どうにかしてその目から逃れ、生き延びる必要があります。空から見下ろす龍の目から逃れるとしたら、うーん、海かな…あ、海の底にあるじゃん、真珠貝亭が、とここでかの酒場に連れていくことになったわけですね。なので続編になってしまったのは、100%成り行きです。

とはいえ真珠貝亭についてはもうすでに書いているので、再度そこに焦点を当てることはできません。なので、じゃあ店にいる客でも引っ張り出すか…どんな人がいいかな…とあれこれ想像しているうちに現れたのが今昔物語集に出てくる怪力の姫君、「大井光遠の妹」です。ここでそのあらすじを記すことはしませんが、大好きな話なので気になったら読んでみてください。まじで想像を絶する怪力っぷりです。

先の小悪党にも名前がなかったので、せめて姫には名前をつけとくか…どんなのがいいかな…と考えて思い出したのが、松尾芭蕉(とその同行者である曾良)が出会ったかさねという少女です。どこにでもいるような、ごくごくありふれた農村の子なのだけれど、なんて典雅な名前だろう、と感銘を受けたことがおくのほそ道に記されています。

と、ここまで考えてふと、あれ?かさねって…と連想したのが、着物の重なりに見る日本古来の配色美、襲(かさね)です。しかも漢字に龍がいる!なんておあつらえ向きなんだ、ということで、怪力の姫君の名がつけられました。

つまりこの作品は、南総里見八犬伝今昔物語集おくのほそ道という、日本における3つの古典から生まれたとも言えるわけですね。

とはいえ元より、こういうのを書くぞ!と意気込んだわけではなく、書いてるうちにそうなってしまっただけなので、まあそんなふうに生まれるテキストもあるよ、という話です。へ〜としか言いようがないと思いますけども。

でもなんというかこう、詩というには語りすぎだし、物語というにはアクロバティックすぎるこの感じ、このフォーマットでしか活かせないテキストとして、めちゃめちゃ気に入っているのです。

2025年11月21日金曜日

九番目の王子と怪力の姫君/how he became a pearl diver


 理由がある。とってつけるほどある。方方に売りつけてその売れ残りを、きれいに掃いて捨てるほどある。浮世は汲めども尽きぬ理由に溢れて、石油のようにいずれ枯れることもない。誰かが道に落とした理由をアリたちがせっせと運ぶこともあれば、道具箱のように引っかき回してやっと見つかることもある。折り目正しい執事がていねいに畳んで、主人にさりげなく手渡すこともある。あるいは機械の部品にも似ていて、いくつか組み合わせてやっと歯車が回ることもある。盗賊にとってのダイヤモンドにも似ていて、大きすぎても手に余るし、小さすぎても足りない。これだけ溢れ返っていても、よしとはならない理由がまた、ここにある。理由にさえこれを支える理由があって、理由の理由の理由にもまた、別の理由がある。

 それはまるで数珠のように連綿とつらなり、ねじれてはひねり、もつれてわだかまり、ほぐそうとしてのたうちを繰り返すうちに、やがてくるくると螺旋を描いて上昇し、雲を突き抜け、空を駆け巡り、大雨を呼ぶ。のどの下にあって逆鱗と呼び做す、逆さまの鱗にひとたびふれれば、雷鳴とどろき、大地を震わせ、その猛威は遠くどこまでも伝わり、小さな町の片隅、路地裏をうろつく、三下もどきの小悪党を慄かせる。ごらん、ここにいるのは、ろくに奪えず、ろくに欺けず、むしろたぶらかされて、一杯食わすはずが食わされることもしばしばで、けちな悪事ひとつやりおおせない、アル・カポネを夢見るにはあまりにもちょろい、龍でなくとも豆粒に見える青二才。

 龍は九つの子を生むという。これを龍生九子という。子はみな異なる性格を受け継ぎ、それぞれ、鳴くことを好み、呑むことを好み、高いところを好み、音楽を好み、文学を好み、裁きを好み、座すことを好み、背負うことを好み、殺戮を好む。そしてかなしいかな、どの子もみな、龍にはなれないという。

 路地裏の小悪党は龍の子のひとりで、龍どころか悪党にもなりきれない男。まだ目はあるのか、それともないのか、指で弾いて宙を舞うなけなしの硬貨はつかみそこねて転がり、排水溝に消える。草葉の陰、ビルの谷間、捨て置かれた空き家とあちこちに身を潜めながら、目指すのはとにかくここではないどこか、白と黒と色を問わずただいられるどこかを、あてもなく求め歩くその道の先々で探偵、死神、鰐の小娘、蟷螂やらその他がそれとなく指し示す方角をたよりに、おぼつかないまま吹き寄せられて、いつしか流れ着いたのは海に沈んだ浮かばれない酒場「The Pale Pearl Parlor(真珠貝亭)」。

 長すぎる夜を耐えたその床に散らばるのはラムの空き瓶、目の掠れた骰子、針のない時計、鈍器としての灰皿、怪力の姫君、いびきかくピアノ弾き、火だるまの酔いどれと去りそびれた老いぼれ。

 中でも怪力の姫君は(かさね)と呼ばれ、腕相撲で無双するうるわしい豪傑。覚えのある猛者たちの丸太みたいな腕を鉞よろしく端から薙ぎ倒す。くだんの小悪党も挑んで軽くあしらわれ、懲りずに挑んでまたあしらわれる。挑んでは敗れ、敗れては挑み、そのたびに容易く椅子から転げ落ちる。耳を貸せと言っては勝手に借りていく連中が、久しくなかった余興に笑い転げる。

 そんな賑わいを遠巻きに眺めるのもいて、そういや龍はまだ見たことがねえな、ん?いやあったか?あったかもな、前もいたよな?と不意に話をふるカウンターの内側で、昔マッチ売りだった女がどうとでも受け取れる曖昧な笑みを浮かべながら、グラスを拭いている。 

2025年11月14日金曜日

「アグローと夜」にひざつき製菓の雷光(旨塩味)がついてくる話


本来であれば今週は アグロー案内 VOL.10 のトラックリストを公開してどうにかリリースまでの間を持たせようと目論んでいたわけですが、しかしこれはやはり、どうあっても書き留めておかなくてはなりますまい。

さかのぼること1週間前、ここでは昨年以来すっかりおなじみとなったひざつき製菓の「雷光」と「城壁」がリニューアルされ、ハロウィンの晩にその比較検証をしたことをお届けしたわけですが、その投稿が公開されるさらに数時間前、ポコンと1通のDMが届いたのです。


えーと……「アグローと夜」にひざつき製菓さんが……

え?

「アグローと夜」に??ひざつき製菓さんが……雷光(旨塩味)を……

え??雷光(旨塩味)を提供……提供??

してくださる???

え、待ってチケット??

チケットまで取ってくださっている……???

たしかに僕は今年の春、アルスクモノイを訪問してくださったひざつき製菓広報担当の方とお会いして、

※参考記事

そのたいへん気さくなお人柄をいいことにここぞとばかりにいろんなお話をさせていただいています。しかしそれはあくまで、たまたまその日神保町の古書組合でひざつき製菓のせんべい試食会を勝手に開催していたアルスクモノイ店主akaうちの人の代理であって、そのひざつき愛をひたすら強調することはあっても、僕自身の話など何ひとつしておらず(当たり前だ)、また知るはずもないと思っていたからです。

もちろん、Xを辿ればこのブログに行き着くこともあるでしょう。そしてアルスクモノイ店主の連れ合いである僕がなんらかの音楽的な活動をしているっぽいと把握できるところまでは、まだギリわかります。

問題はここからです。

たしかに音楽的な活動をしていることは否めないけれども、一般的なミュージシャンと大きく異なり、僕は人前でパフォーマンスをすることがとにかく不得手で、少なくともこの20年、一貫してライブに二の足を踏み続けてきた男です。実際ここ数年、「アグローと夜」以外のライブはありません。そもそも認知度が高いわけでもないし、多くのフォロワーを抱えるメジャーアーティストやインフルエンサーでも全然ないどころか、道端に横たわるバナナの皮と大差ないただのおっさんです。第一線で活躍しまくるタケウチカズタケと違って、該当するカテゴリすら砂つぶ規模であると言ってよいでしょう。

そんな、どこの馬の骨で具体的に何をしてるんだかわかりようもない不審な人物の、年に一度もあるかないかのささやかなライブイベントに……しかもオファーの時点ですでにチケットを取ってくださっている……

と当の僕自身がうろたえまくるのも、無理はありません。あるわけがない。

しかし事実です。ひざつき製菓さんも、一瞬の躊躇いもなく「まったく問題ありません」と太鼓判を押してくださっています。昨年来、地に足のついたその堅実な企業スタンスに好感を抱いていましたけれども、その印象が間違っていないばかりかそれ以上だったことを今、身にしみて実感しています。こんな道端のバナナの皮みたいなおっさんでも何がしかのお役に立てるのなら、よろこんでこの身を捧げたい。

この投稿前に完売してしまったのでこれ以上喧伝できないのが本当に残念でなりません。でも今年の「アグローと夜」には本当に、もれなく雷光(旨塩味)がついてきます。おそるおそるフライヤー画像にひざーるくんを入れてお伺いを立ててみたら、これも快諾していただけて言葉もありません。すごい……


それでなくともアグロー案内 VOL.9アポロニカ学習帳とのタイアップにキャッキャとはしゃいだばかりなので、これまたいつもの楽しいホラのひとつではないかと当の僕でさえ二度寝してしまうほどです。

ひざつき製菓さん、本当に本当にありがとうございます……!

そしてそのやり取りの数時間後、もともと予定していた城壁と雷光の比較検証記事が投稿されたという……ぜんぶ偶然なのになんだろうこのステマ感は……。

 

2025年11月7日金曜日

ひざつき製菓「城壁」と「雷光」のあまり知られていないリニューアル前後を比較検証した話


閃光に貫かれたかのような、ひざつき製菓との衝撃の出会いからかれこれ1年が過ぎようとしていたある日、主力商品の一つである雷光(旨塩味)を愛する会の会長として今も日々精力的な活動をつづけるアルスクモノイ店主akaうちの人の元に、古書店仲間である浅草橋のかみふく書房さん(@kamifukubooks)から緊急の連絡が入ったのです。「たったいへんです!城壁と雷光が……!」

ここで今一度、説明しておかなくてはなりますまい。栃木を本拠とする至高のおせんべいメーカー、ひざつき製菓の看板商品に「城壁」「雷光」があります。城壁はひざつき製菓のアイデンティティと言っても過言ではない、今も昔も不撓のフラッグシップモデルです。そして他に類を見ないその生地を「揚げる」ことによって生まれたのが雷光であり、こちらはむしろ弟分にあたる、と言ってよいでしょう。

城壁には「金色のたまり味(しょうゆ)」「白銀の京味(塩)」があり、同じく雷光にも「はちみつ醤油味」「旨塩味」がありました。(あったと過去形で書いた理由は最後に触れます)

これは完全に好みの問題ですが、わが家が推し、布教しているのは雷光(旨塩味)、次いで城壁(白銀の京味)です。つまりどちらも塩味ということですね。

冒頭に登場したかみふく書房さんは以前から古書業界におけるおせんべいマイスターとして知られており、ここぞとばかりにうちの人が城壁と雷光を勧めたところ、同じく底なし沼に溺れて沈み、あれよあれよと城壁(白銀の京味)を愛する会の会長へと登りつめた人です。半径10km圏内に城壁と雷光を置いてある店がないうちと違って、彼の場合はたまたま日々の行動範囲内で手に入る環境だったこともあり、止めないと主食になりかねない勢いで今も城壁を摂取しつづけています。すくなくとも城壁に関して23区内で彼以上に愛情を注ぐ人は存在しないと言い切ってしまってよいでしょう。

わが家は今年の正月に栃木のひざつき製菓本社工場を電車と徒歩で参詣していますが

※ここまでの経緯は以下の投稿をご覧ください

かみふく書房さんもその後まったく同じ轍を踏んでことをしています。栃木駅から徒歩30分ですよ。

ここまでが前提です。

改めて言い直すと、雷光(旨塩味)を愛する会の会長(であるうちの人)が、城壁(白銀の京味)を愛する会の会長(であるかみふく書房さん)から、城壁と雷光に重大な異変が起きた旨の急報を受けたわけですね。

送られてきた画像を確認したところ、たしかにパッケージが新しくなっています。しかし全体としての異変はそれどころの話ではなく、とても静観できる状況ではないっぽいことから、急遽お互いにストックしてある旧バージョンと新バージョンを持ち寄って、比較検証の場を設けることになりました。それがハロウィンの晩です。




外観から確認できる違いは、以下のとおりです。

・パッケージデザイン
・内容量
・原材料
・栄養成分表示
・パッケージ裏の文言

これだけでも、かなり大幅なリニューアルであることがわかります。とりわけ、原材料に違いがある点は見逃せません。かみふく書房さんはこの時点ですでに味わいの違いを独自に検証しており、以前のほうが美味しかった可能性を懸念していたことも、ここで強調しておきましょう。

ただ目隠しで検証していたわけではなかったので、今回は公平を期すためにバージョンの新旧を伏せて食べました。果たして目隠しでも違いがわかるのかどうか、全員で食べ比べた結果が以下です。

・城壁→わからない
・雷光→わかる

そしてこれはいくら強調してもいいとおもうのだけれど、どうあれ「やっぱ美味いな……」という結論になりました。

その上で、検証した全員が当てることのできた雷光のリニューアル前後について記しておきましょう。

これはあくまで比較したから認識できたことなので、もとより良し悪しの話ではないことを前提にお伝えすると、リニューアル後の雷光は、以前よりも塩気と旨みが控えめになっている、という印象です。塩分については栄養成分表示からもわかるように城壁と雷光のどちらも明確に抑えられているものの、どちらかといえば雷光のほうがそれを感知しやすかった気がします。実際、以前の雷光を食した人のなかには、ちょっと塩気が強いかも…、という感想を抱いた人もいるようなので、その点ではよりやさしく、フレンドリーになったと言えそうです。

以前の強烈な旨みに重きを置く場合は若干物足りなく感じる可能性もありますが、裏を返せばこれは生地のおいしさがより前面に打ち出された、ということでもあります。せんべいである以上、生地の魅力を強調するのはごくごく自然なことであり、より多くの人に訴求できるポテンシャルを高めたと言うこともできるでしょう。ここには間違いなく、せんべいに対するひざつき製菓の愛と矜持がはっきりと感じられます。

したがって、以前との違いはたしかにあるものの、珠玉のせんべいであることに何ら変わりはなく、やはり全力で推さずにはいられないというのがわれわれの結論です。どうにか手に入れてぜひ一度、食べてみてください。

ちなみにこのリニューアルに伴ってかどうか、公式サイトのラインナップから雷光(はちみつ醤油味)が消えています。ただ、うちにしてもかみふく書房さんにしても推しは塩味なので、その行く末を追い求める予定は今のところありません。

2025年10月31日金曜日

アグロー案内 VOL.10 リリースのお知らせ

どこからきてどこへ行くのか、今もってさっぱりわからない暗中模索のアグロー案内、今回もぶじ新作がリリースの運びと相成りました。おかげさまでなんとVOL.10です。すごい!


しみじみと感無量です。何と言っても今回は配信までまだゆったりと間があります。前回の慌てっぷりを踏まえて、今回も告知から配信まで何と3日しかありませんとかやれたらよかったのかもしれないけど、何も狙ってそうしていたわけでもないし、そもそもそんなことでおもしろがる年でもありません。ここはむしろ大人としての余裕を見せつけておくべきでしょう。

VOL.10の配信日は11月19日(水)です。

それだってめちゃめちゃ短いというか、わりとすぐな印象ですが、何しろ前回が前回だったので、ものすごく余裕があるように感じられます。人生、いつでもこれくらいの大らかさでありたいものですね。

今回もまた新作、リメイク、そしてもちろん、山本和男も健在です。とりわけ山本和男の名曲感と脱力感のギャップは過去イチかもしれません。こういうのを真剣に作れるよろこびはほんと、何物にも代えがたいものがあります。助手である加藤くんの叫び声を聞くだけで腹を抱えてしまう。

リメイクについては、元々自作のトラックではあったので実際そうなのだけれど、僕としてはむしろ正規リリースという印象の一編です。むしろこうして仕上げてもらえる日を待ち続けていたと言っても過言ではありません。カズタケさんもすごく楽しんでくれたので、その甲斐はまちがいなくあります。いい曲です。ご存じない方もふつうにおられるという気がするので、ここはもう、あえて新曲として推していきたい。

新作はSNSでもすこしふれたけれど、これまでにない工程だったので、お話ししたいことがたくさんあります。僕としても思い入れの強い、大好きな一編です。毎回こんなかんじでできたらいいのにな、と思うのだけれど、なかなかそうもいかないのがもどかしくもあります。でもこれはもう本当に心の底から、できてよかったと噛みしめずにはいられません。

かつてリリースした4枚のアルバムのプロデューサーでもある古川耕さん(今これを言うと驚かれるほどすっかり著名な方になってしまいました)が、「最高」と太鼓判を押してくださったことも、しれっとここでアピールしておきましょう。僕のことを知り尽くした古川さんが太鼓判を押してくれるということは、過去と同じではなく今に至っても尚アップデートできていることの証でもあるので、胸を張ってお届けできるものになっている、と断言していいはずです。

そして最後にこのVOL.10、これがあるのとないのとでは、配信の10日後に控えた「アグローと夜」の印象がおそらくかなり変わります。どうかどうか、楽しんでもらえますように!!

2025年10月24日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その467


トリックオアトリートメントさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)キューティクルを整えてくれないならいたずらするぞという、西洋の風習のひとつですね。


Q. 子供の頃に学習塾の問題文で読んだ短篇小説が忘れられません。少年2人が夜の海岸で話していて、1人がクラゲを漢字で書くと海月だと言います。もう1人が水母だと言います。主人公はそれを聞いていて、後日両方正しいと知るというだけの話です。誰の何という短篇かは調べても全くわかりません。なんとなく印象的で、忘れられない短篇小説は何ですか?


質問そのものより前段のほうが圧倒的に気になるやつですね。ひょっとして今ならAIが探してくれるのでは…と3種くらいのAIに尋ねてみましたが、やっぱり全然わかりませんでした。なんとも言えない静謐な味わいがあってめちゃ良さそうな短篇ぽいので、ご存知の方がいらしたらぜひご一報ください。

どういう話で何が起きてどんな教訓があるのか、みたいなのよりもこういう、なんだかわからないけどいつまでも忘れられない話は、いいですよね。ぐいぐい引きつけられる超絶ストーリーテリングも大好きなんだけど、しずかに沈殿して血肉になるのはむしろこういう作品なのかもしれないな、としみじみおもいます。

そうだなあ、今パッと思い浮かんだのは、芥川龍之介の「煙草と悪魔」です。先に書いたような静謐な味わいとか余韻は別にありません。共通点を挙げるとすれば、これといって特に教訓はないところです。

ストーリーはシンプルです。キリスト教の伝来に伴って、悪魔が日本にやってきます。もちろん、神を信じる人を誘惑したり唆したりするためです。

ところがまだキリスト教の伝来間もないので、信者がほとんどいません。信者がいないということは、悪魔としても誘惑したり唆す相手がいないということです。

することもなくて暇を持て余した悪魔は、園芸でもするかと畑を耕し、渡来の際に持ち込んだタバコを栽培し始めます。そういう話です。神とか悪魔とか信仰の話ではなくて、タバコの伝来についての話なんですね。悪魔がせっせと畑耕してんじゃないよ。

何がいいって、めちゃポップなところです。上に書いたあらすじだけでもわかるとおもうけど、内容的にはぜんぜん古さを感じません。感じるとすれば文体だけです。加えて、狡猾なつもりでいる悪魔がちょっとこう、バカなのがいいんですよね。

さらに言うと個人的にものすごく印象深い一文があります。「西洋の善が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されると云う事は、至極、当然な事だからである。」という部分です。これを初めて読んだ当時は善悪に西洋も東洋もないと思いこんでいたので、困惑した記憶があります。

話としてはどうでもいっちゃどうでもいい感じなのに、結果としてじぶんの人生哲学に大きく寄与したという点で、忘れられない一遍です。

こうしてみると全然、なんとなくの印象じゃないな。面目ないです。


A. 芥川龍之介の「煙草と悪魔」です。




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その468につづく!


2025年10月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その466


みつばち婆やさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ワンルームなのですが、部屋のレイアウトがしっくりきません。模様替えをしては元に戻しの繰り返しです。これで良いと自分を納得させる考え方はないでしょうか。


模様替え、いいですね。僕も初めて一人暮らしをしたアパートがワンルームでしたが、ベッドとテレビとローテーブルを一度置いたらその先はもう何ひとつ移動のしようがない狭さだったので、言われてみれば模様替えという発想すらありませんでした。物もろくに増やせないし、いま考えると出入り自由の刑務所みたいなもんだったな、としみじみおもいます。模様替えができるということはそれだけで服役囚ではないことの証でもある、と言っても過言ではないのです。

過言な気もしますけど。

一方でオヤと目を留めたのは「元に戻し」という一言です。その「元」がしっくりきていないからこそ模様替えをするのだと思いますが、それがしっくりこない場合、選択肢は2つあります。そこから(1)さらに新たなレイアウトを模索するか、(2)元に戻すかです。そしてそこで元に戻すことを選択しているのだとすれば、元のレイアウトが相対的にまだましである、ということになるでしょう。

少なくとも、元に比べたら新しいレイアウトのほうがましだけどまだしっくりこないな、とはなっていないところがポイントです。

それはまた結果的に、「元」がその部屋で最も長い時間を過ごしているレイアウトである、ということになります。

とすればこれはただ自覚していないだけで、実は他のどれよりも満足度が高いレイアウトなのだ、と考えることもできるでしょう。

そんなことない!満足してたら模様替えなんかしない!と仰るきもちはよくわかります。ただ人が模様替えを望むとき、その理由は「しっくりこない」だけではありません。「飽きた」もあります。つまりときどき窓を開けて空気を入れ替えるように、日々に新鮮な印象を取り入れたいと感じている可能性もまた、大いにあるのです。

したがって、しっくりくるレイアウトよりも、むしろ模様替えそれ自体こそ重要で、かつ大きな意味があるのではあるまいか、と僕なんかは考えます。

そうなのだと決めつけるわけではもちろんありません。

どのみち正解があるかどうかなんて知る由もないのだし、それなら時たまの模様替えそれ自体を一時的に楽しんでもよさそうだな、とは言える気がするのです。ひょっとしたらいつの日か、めちゃめちゃしっくりくるレイアウトに巡り合ってワー!と狂喜乱舞する日が来ないともかぎらないですからね。


A. 模様替えそれ自体を心から楽しむのが吉です。




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その467につづく!

2025年10月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その465


めぞんいっこく堂さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 尊敬する道具はなんですか?私は圧力鍋と食洗機です!圧力鍋なんて四桁の安物なのに、いつもすばらしい仕事ぶりにどれだけ助けられていることか…。


そういえば僕、圧力鍋って使ったことないですね…。煮豆とかあっという間にできるんだろうな、と夢想しつつ、いまだに2時間くらいかけてコトコト煮ています。食洗機もいずれは迎えることになるんだろうか…?

ひとり暮らしを始めた30年前から、今も現役のものがいくつかあって、それはもう、ただそれだけで畏敬の念を抱かないわけにはいきません。具体的には、えーとアイロン、フライパン、煎り網、文化鍋です。

アイロンはデザインが統一された一人暮らし用の家電セットで、たしか洗濯機、冷蔵庫、掃除機なんかが一緒になってました。いまも残っているのはアイロンだけです。たぶん今はもっと軽かったり、予熱が早かったり、いろんな機能がついてたりするんだろうけど、ちょいちょい使うわりにぜんぜん壊れる気配がないので、今もふつうに使ってます。毎回通電するしいつ使えなくなってもおかしくないので、労いの気持ちがいちばん大きいのはこいつです。

家電ほどではないけれど、木と金属の組み合わせなのでそれなりに老朽するはずだったのが、煎り網です。本来は大豆を煎るためのものだけれど、昔からもっぱらコーヒー豆を焙煎するのに使い続けています。使用頻度もかなり高いのに、思いのほか頑丈で、もう真っ黒です。構造としてはシンプルなので、いずれ朽ちても自分で補修しながら一生使い続ける気がしないでもありません。

一方、放置するか意図的に破壊しようとしないかぎり半永久的に朽ちないのがフライパンと文化鍋です。前者が鉄、後者がアルミ合金なので、朽ちようがありません。たしか一度だけフッ素加工のフライパンを誰かにもらって、わ〜くっつかない〜!とよろこんで使っていたものの、強火力に向かないばかりかだんだん傷がついたり食材がくっつくようになったりして、また鉄のフライパンに戻りました。シンプルな道具には、人生における教訓とか哲学にも通じるものがあります。

そしてとりわけ、これまでもくりかえし話してきた気がするけれど、文化鍋にはほんとうに頭が上がりません。炊飯のために生まれた鍋でありながら、野菜やパスタを茹でるにも重宝するし、煮たり炒めたりの常備菜も大抵これひとつで済みます。そしてアルミ合金なので、鉄のフライパンよりも圧倒的に長寿です。実際、手元にあるのはもともと実家で使っていたものなので、おそらく50年以上使われていることになるでしょう。うちにはもうひとつ、亡き祖母の家にあって引き取った未使用の文化鍋があるのだけれど、よく考えたら交換する機会もこの先ありそうにないので、ついこないだ妹に譲ると伝えたくらいです。

便利という視点でいえば、はるかに便利な道具はもちろん数えきれないほどあります。しかし尊敬という視点からすると、長い長い年月をへても変わらずここにあって微動だにしない強度と一貫性は、80代90代の大先輩に学ぶのにも似た、すごく大事なことを教えてくれている気がするのです。

ただ人に勧めるとしたら、文化鍋よりも鉄のフライパンを選びます。保温ができない、もしくは専用の保温機を必要とする直火の炊飯に比べると、フライパンのほうが圧倒的にハードルは低いし、持ち手があるぶん、フルスイングで侵入者を撃退する鈍器としても有用だからです。


A. 鉄のフライパンです。




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その466につづく!

2025年10月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その464


レターパックで「ペンギン送れ」はすべて鷺ですさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は最近唐突に英単語の意味を調べたくなり、まるで金斗雲を呼ぶ様に辞書を手元に召還したくなる事があるのですが、大吾さんの呼んだら飛んできて欲しいものはなんですか?


うーむ、ググってもいいのにそうしないところに気概を感じますね。

たまには単刀直入にお答えすると、「やる気」です。すべきことがあって、そのための環境もばっちり整っていて、時間もしっかり確保していて、やる気だけがないという、致命的な状況がちょいちょいあります。それほど頭を使うことがなく、とにかく手を動かしさえすればそれなりに進捗することであっても、やる気がないというただそれだけで岩のように硬直して動けません。

やろうとやるまいと、砂時計の砂は無慈悲に流れて、みるみる減っていきます。完全に浪費です。なんなら時間が足りなくなることまで含めて、じぶんでもぜんぶよーくわかっているのに、肝心のやる気だけがなくて、どうにもならない。

きもちの問題じゃん!とお思いでしょうが、違います。ぜんぜん違います。それは便秘時の便意みたいなものであって、うまいことやれば引き出せるときもあるけれど、引き出せないときはどうやっても引き出せないものなのです。

そんなときに便意が、じゃなかったやる気が、いやまあ便意もそうなんだけど、ピューンと筋斗雲のように飛んできてくれたら、こんなに助かることはありません。やる気がほしいときに便意が駆けつけたり、便意がほしいときにやる気だけ大群でこられてもそれはそれで困るんだけど。

もしくはレシピです。本にしてもじぶんのメモにしても、えーとあれどこに書いてあったっけ…と探すのがものすごくめんどくさい。なるべく1箇所にまとめるようにはしてるんだけど、数が多いとやっぱりえーとどこだっけ…ってなります。

そこにピューンと必要なレシピだけが飛んできてくれたらいいですね。コリアンダー小さじ1/2みたいなこともあるので、いっそのこと調味料とかスパイスごと飛んできてほしい。よし、あとはまかせろ!とかそんなかんじで調理に向き合いたい。

しかしまあ、実際のところ、いちばん飛んできてほしいのは…ムール貝博士かな…何と言ってもぜんぶなかったことにしてくれそうだし…。


A. レシピです。




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その465につづく!

2025年9月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その463


ていねいなクラッシュさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 生チョコ、生キャラメルをはじめ、生食パン、生ドーナツ、生クッキー、果ては生タピオカや菌床生しいたけなど、近年いろんなものが「生」になっている気がしています。大吾さんは、この「生」ブームに最後まで抗える(「生」化しない)のは何だと思いますか?私は今のところ「焼き芋」が強そうだなと考えています。


さりげなく生しいたけが紛れこんでいるのがいいですね。僕も以前、なぜわざわざしいたけに生とつける必要があるのか疑問におもったことがあります。柿や大根だって干すのに、干さないものを生柿とか生大根と呼ぶことはないからです。

それで知ったのだけれど、じつはしいたけに限らず、きのこが生のまま流通するようになったのはわりと最近のことで、僕が生まれたころでさえ、今ほど当たり前ではなかったらしいんですよね。しめじなんかもひょっとしたら70年代にはまだ八百屋には並んでいなかったかもしれない。

ただしいたけに関してはそれよりもはるかに昔から干して使われていたので、干してないことを強調するために生と呼んでいたのがそのまま定着したんだとおもいます。それまで干したものしかなかったのなら、じっさい僕でも「おい!しいたけだ!ちげーよ、生だぞ!」と騒ぐ気がする。

あだしことはさておきつ…

そういえばあまり聞かなくなった気もするけれど、生チョコを初めて食べたときのちょっとした感動は忘れられません。むかしむかし、一人暮らしをしていたころ、バレンタイン商戦でにぎわう駅ビルに入り、せっかくだからチョコでも買って帰ろうとガラスケースをのぞきこみ、思いのほか高価なことに驚きつつ小さめのをひとつ買って、アパートの薄暗い6畳間でひとりもぐもぐ食べました。ほんと鮮明に覚えてるから、よっぽどおいしかったんでしょうね。もしタイムマシンであのころに戻れたら、お前は人生の味わい方をよくわかってるなとじぶんを褒めてやりたい。

ともあれ、生という理由でトレンドに上がるのはやっぱりスイーツ系ですよね。生てんぷらとか生コロッケは言われても食欲をそそりません。生パスタには付加価値があるのに、生うどんにはありません。生食パンはいけるのに、生おむすびはむしろ剣呑です。生と付けられそうな条件をいろいろ考えてみたものの、ぜんぜんわかりませんでした。言葉のあり方としてもちょっと考えてみたいトピックです。

いま挙げたどれも「生」には抵抗できそうですが、お題の主旨としてはなんとなく違うことは僕もわかるので、ここはあえてスイーツ系に限ってみましょう。焼き芋なんかもギリスイーツですもんね。あれこれ考えれば考えるほど食パンの存在が邪魔くさいんだけど、こいつはもう放置するほかありません。

生チョコ、生キャラメル、生ドーナツなんかに共通するのはおそらく、本来よりも口当たりがとろけるようにやわらかい点です。

そして仮に技術革新で焼き芋がスイートポテトよりも「やわとろ」になった場合、意味に頓着しない日本人としては平気で「生焼き芋」と名付けるはずです。こういう節操のなさには正直、確信がある。したがってあくまでこの「生」に抗うとしたら、それなりの固さを保つものよりもむしろこれ以上やわらかくなりようがないスイーツを挙げます。たとえばシュークリームとかゼリーです。

とおもってググったらどっちもすでにあって横転しました。日本語における節操のなさが図らずも証明されて頭を抱えざるを得ません。フルーツが生とかクリームが生とか、初めっからだろうが!!!コレステレロールなんか初めから含まれてないサラダ油にわざわざ「コレステロールゼロ」とかさも特別みたいに表記してんの意味わかんねえなと思ってたけど、完全にそれと同じレベルじゃないか。

もういい、じゃあガムにします。やんなっちゃうな、ほんとにもう。


A. ガムです。


しかしこういう文脈における「生」、感覚的にはすごくよくわかるしいずれ辞書にも載りそうな用法という気がするんだけど、どうやって定義したらいいんだろう。



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その464につづく!

2025年9月19日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その462


通勤海賊さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 穴が空いた靴下を私の地元ではおはよう靴下と呼びますが、夜でもおはようでいいのでしょうか。


ほどよい塩梅の質問です。本気で知りたいとまで考えているわけではないけれど、気になると言えば昔から気になってはいる、とはいえ有識者に相談する話でもないし、仮に解決してもへーということににしかならない、そういうただ転がしたり手で弄んだりするだけの、小石みたいな「へんだねえ」をいつもポケットに数個は忍ばせておきたい、と近ごろはよくおもいます。

それにしてもいろんな慣習があるものです。たぶん肌とか指が顔を出している、ということですよね。

そしてこれはおそらくたった一人の、幼稚園とか小学校低学年の先生が言い始めたものではないだろうか、と僕なんかは想像します。ひょっとしたら穴が空いていると言わないための、ちょっとした気遣いとして始まったものかもしれません。つまり、「あれ、ガツ男くん今日はおはよう靴下だね」という具合に。

ちいさな子どもは靴下に穴が空いていようと気にしないだろうけれど、指摘されれば気にするようになります。でもおはよう靴下ならそんな心配は無用です。なんなら靴下に穴の空いていない子のほうが「ぼくのくつしたにはおはようがない」としょんぼりする可能性すらあります。価値の反転という意味で、じつに見事なネーミングです。

そしてそれ以降、靴下に穴が空くたびにおはよう靴下を思い浮かべることになるでしょう。やがて忘れて大人になっても、親になれば今度はじぶんが子にそれを言うようになります。かくしてあるエリアの子どもたちはみんなおはよう靴下を知っている、ということになるわけですね。なんなら最初に提唱した人もまだご健在なのではないだろうか。

何から何までぜんぶまちがってたらすみません。その可能性はふつうに高い。


肝心の「おはよう」については、僕も昔からおもうところがあります。

というのも、たとえば職場とかバイト先とかイベント前とか、そういう現場入りのときは大抵、朝と昼と夜を問わず「おはようございます」なんですよね。こんにちはとこんばんははまず聞かないし、これらはどちらかというと輪の外から第三者としてお邪魔する印象のほうが大きい。「おつかれさまです」は聞く気もするけれど、ここには敬意や労いのニュアンスが含まれているので、挨拶というよりは気配りの一種と見るべきでしょう。

ではなぜ朝の挨拶が、本来ならそぐわない朝以外にも使われているのか。今の僕はむしろ、朝の挨拶という古くからの定義を見直す必要があると考えます。そして再定義するなら次のようなことになるでしょう。すなわちおはようとは、時間帯にかぎらず「(その場においてじぶんの登場が想定されている状況での)最初の挨拶」なのです。最初の挨拶なのだから当然、朝の挨拶も含まれます。少なくとも新明解国語辞典くらいはこの再定義を受け入れていいとおもいますね。


A. 夜でも問題ありません。




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その463につづく!

2025年9月12日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その461


カモ山ネギ助さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 一番男気があふれる野菜って、なんだと思いますか?個人的には、蕪です。漢字に無が入っているのにもしっかり太い実があるし、頼んでもないのに硬い皮まで装備しているので。


これはいろんなアプローチが考えられそうな良問ですね。男気だけでなく、セクシーとか繊細とか蛮勇とかアンニュイとか、いろんなテーマで野菜を見つめ直してみたくなります。男気はマチズモにも通じるものがあって人に適用すると剣呑だけれど、何しろ相手は野菜です。むしろ男気とは何かということが浮き彫りになるかもしれません。

真っ先に思い浮かんだのは、落花生の大粒品種「おおまさり」です。その名前からして必要以上の男気にあふれています。じぶんの名前がこれじゃなくてよかったとしみじみおもうくらいです。

しかもこのおおまさり、「ナカテユタカ」「ジェンキンスジャンボ」というこれまた男気しか感じられない親品種の交配によって生まれています。アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンの交配によってドウェイン・ジョンソンが生まれたみたいなことである、と言っていいでしょう。男気どころかY染色体しかない。

名前だけではありません。おおまさりはその大きさ、甘さ、柔らかさから、炒るよりも茹でるに適した品種ですが、茹でるのにめちゃめちゃ時間がかかります。実際に美味しくいただいたことのある僕の記憶がまちがっていなければ、たしか1時間くらい茹でる必要があったはずです。1時間も釜茹でにされないとギブアップしないあたりに、いささか不毛な男気を感じます。それでカッコいいかと言えば別にそうでもないところがまた男らしい。

とはいえこれは落花生の一品種であり、野菜という大きな枠組みにおいてはやはり落花生として括られるべきであり、落花生全体に男気が感じられるかといえばそうとも言えない、ということになるでしょう。

その視点で改めて考え直してみると、僕が挙げたいのはピーマンです。何と言っても、名前に「マン」が入っています。この一点だけを見ても圧倒的なアドバンテージを有すると言わざるを得ない野菜です。そう聞かされて一番びっくりするのは他ならぬピーマン自身だと思いますが、ある視点からどう見えるかというだけの話なので、本人というか本ピーがどう認識しているかなどここでは問題になりません。

語尾にマンと付く場合、それが職業や役割でないかぎり、どこかしらヒーロー的な響きを帯びるものですが、ピーマンの場合は逆立ちしてもそうはなれないばかりか、むしろある種の哀愁が漂っています。哀愁はそれ自体が男気の一種です。酔うというか浸るというか、男気という概念にはそういう側面が確実にあります。

ただ、僕がピーマンを挙げたのはその名前のためではありません。そもそも中身が空っぽで薄っぺらいやつだから早く使わないとあっという間に朽ちてしまいそうなのに、冷蔵庫の野菜室に入れておくと思いのほか萎れずにわりと長持ちするからです。

玉ねぎ、人参、じゃがいも、南瓜など、長持ちする野菜は他にもいっぱいあるけれど、正直ピーマンがその列に並ぶようには思えません。でも実際、耐えます、ほんとに。

買ってあったことを完全に忘れていたような状況でも、そして実際、包丁を入れて種の部分が明らかに弱って朽ちかけていても、食用となる主な部分はぜんぜん大丈夫だったりします。忘れられてたんだから朽ちるだけの理由は十分あるのに、意地とかやせガマンとか根性論で持ちこたえているように見えるところに、僕なんかは男気をつよく感じずにはいられません。そうあるべきとは1ミリも思わないけど、最大限の敬意は払いたい、そう思わせる野菜です。がんばれピーマン!


A. ピーマンです。




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その462につづく!

2025年9月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その460


キテレツ大爆破さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 無性に走りたくなる時ありますか?何かどうしようもない焦燥感に駆られて、街を駆け巡る事が増えました。もう10代が終わるというのに感情任せに行動を起こしてしまいます。大吾さんもそんな時ありましたか?今でもありますか?


質問をいただいたのが年末なので、ひょっとしたらもう20代に突入されているかもしれませんね。

焦燥感に駆られて街を駆け巡ること、感情任せに行動を起こしてしまうこと、どちらもすごく大切なことです。そうじゃないほうが大人に見えるかもしれないけれど、いざ年を重ねてみると、かつて持っていたものを永遠に失うことでもあるよな、ともしみじみ感じます。

言ってみればその衝動はライオンみたいなものであり、それをコントロールすることはライオンを手懐けるようなことです。予期せぬ事態を避ける意味では有効だとおもうし、人生を円滑に歩むためにはそうあっていい気もするけれど、それはあくまで社会的な要請に基づいた向き合い方であって、ライオンが幸せかどうかはまたぜんぜん別の話である、とも言えるでしょう。

胸の内にライオンを飼う人はそう多くありません。金魚の人もいれば、パンダの人もいます。僕は昔からとにかく人より燃費が悪いので、そうだなあ、しいていえばアボカドとかパイナップル、どちらかといえばパイナップルでしょうか。

パイナップルは生育にやたらと時間がかかる(たしか2年くらい)上に1株に1果実しか取れません。その代わり痩せた土地や害虫に強い上に収穫後の日持ちも良いので、1株では甲斐がないけれど大量に生産するだけのリターンは確実にある、そんな植物です。それを1株だけ、胸の内で育てています。これまでの活動履歴を振り返ってみても、1株のパイナップルはなかなか的を射ているとおもう。

もちろんこれはどれが良いとかそういう話ではありません。身長や髪質と同じように、ただ人それぞれである、というだけです。

ライオンはどうでしょうね。猫みたいにゴロゴロ手懐けるのもかわいいけれど、どちらかというと世間的にはそのほうが大人と見做される傾向があるので(実際、びっくりするほどみんなあっさり飼い慣らしてしまう)、個人的にはせっかくライオンがいるのだからその背にまたがっていっしょに町を疾走しつづける日々であってほしいな、と願わずにはいられません。パイナップルはいっしょに走ってくれないですからね。10代とか20代とか関係なく、ずっと大事にしてください。

そんなわけでお答えとしては、パイナップルとして走ってみたくなることはある、ということになります。実際のところこれだけ長く生きていると、走らないにしても目を離したすきにちょっとは歩いたりしてんじゃないのかと思わないでもないですけど。


A. パイナップルとして走ってみたくなることは今でもあります。




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その461につづく!

2025年8月29日金曜日

アグローと夜(Agloe and Night) 2025のお知らせ



いうわけでまるまる1年ぶりに帰ってまいります。アグロー案内シリーズの実演版、「アグローと夜(Agloe and Night)2025」のお知らせです。

いまだになんというかこういう慣習に疎い僕にとって、3ヶ月前の告知は気が早いようにもおもわれて内心ハラハラしているところがあります。何しろそれだけの時間があれば人生はかなり変動するからです。「3ヶ月後はちょっとわからないな、遠い国の王女に見初められて王子になってるかもしれないし、漬けた梅酒も飲みごろだもん」というわけですね。

ところがフタを開けてみれば、というのはもちろん梅酒の瓶のことではなくて、忘却の奥底に沈澱していた去年を振り返ってみたらということですけれども、去年もやっぱりちょうど今くらいのタイミングで告知を開始していたのです。しかもとくにその点に言及することなくにこにこと手を振るようにお知らせしています。去年の僕は本当に僕だったんだろうか?それとも今の僕が去年までの僕ではないんだろうか…?

と同時に当日はすごく盛況で楽しかったこと、バースをまるまる忘れてやり直したこと、とてもおいしいせんべいで大騒ぎの記憶がありありと蘇ってきて、じわじわと実感が湧きつつあります。

何より今年はせんべいの代わりにアップデートされた「饗宴/eureka」があり、新しい一編も追加されています。どう考えても、ますます楽しい一夜です。どうかどうか、万障お繰り合わせの上、お越しくださいませ…!


「アグローと夜(Agloe and Night) 2025」
11月29日(土) @恵比寿TimeOut Café & Diner

出演:小林大吾、タケウチカズタケ
Open 17:30  Start 18:30
Charge ¥3,900(入場時に1ドリンク ¥600)

チケット URL

TimeOut Café & Diner
東京都渋谷区東3丁目16−6 リキッドルーム 2F

詩人/ポエトリーリーディング・アーティスト/グラフィック・デザイナーである小林大吾とキーボーディスト・音楽プロデューサーのタケウチカズタケが言葉と音楽の可能性を広げ続けている作品「アグロー案内」シリーズ。その実演ライブ&トークイベント「アグローと夜」、今年も恵比寿TimeOut Café & Dinerで開催です!


2025年8月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その459

過剰な気遣い


アメリカン土偶さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. することもなく部屋の中でピラミッドのように正方形の物を積み重ねていたとき、レコード→焼き海苔→EP盤→シングルCD→付箋→サイコロ まではいい感じに重なったのですが、最上段にピッタリくるものがが見つかりません。僕のピラミッドのキャップストーンには何が最適なのでしょうか。


かれこれ15年以上、途切れ途切れに450回以上もやらかしてきた質問箱ですが、これほど後悔したことはありません。なんとなれば「退屈で困っている」という前々回に取り上げた質問の、まさしく最適解が別の質問として寄せられていたことに、いま気づいたからです。こんなことってあるだろうか?もし僕がマッチングアプリだったら、この奇異なる巡り合わせを見逃したことによって、2度と起動できないくらいのダメージを負っていたにちがいありません。

かつてゴルフボールを3つ重ねることに苦心していたことのある僕に言わせれば、退屈こそが人生である、みたいなことを前々回に書いたような気がしますが、ここは改めて、出し得るかぎりの大きな声で念を押しておくべきでしょう。

退屈こそが人生です。

することがないなら正方形のものをピラミッド状に積み重ねたらいいじゃないか?むしろ正方形のものをピラミッド状に積み上げることを時間の使い方として否定するだけの正当な理由が果たしてあるだろうか?

断じてありません。

とかく人は日々に意味や価値を見出そうとしがちです。そして行動にもまた、いちいち理由を求めがちです。そして意味や価値や理由がこれといってない場合、自身には関係のない不要な情報として、ばっさり切り捨てがちです。

イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「なぜエベレストに?(Why did you want to climb Mount Everest?)」と問われて「そこにあるからです(Because it's there.)」と答えた逸話は広く知られています。彼の端的な答えは、なぜ意味や理由が暗黙の前提になっているのかという根源的な問いでもあると言えるでしょう。

にもかかわらず、人は今もやはり問うのです。「なぜ正方形のものをピラミッド状に積むのか?」と。

そこに正方形のものがあるからというほかありません。

意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことは、誰にとっても豊かです。この点に異存はありません。しかしこの点に基準を置くと、意味がなくて非生産的な時間は当然、マイナスになります。

一方、意味がなくて非生産的な時間を楽しく過ごせるならば、意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことはより豊かになります。ここにはマイナスどころか、プラスしかありません。

実際のところどちらが豊かな日々であると言えるか、考えるまでもないはずです。

前々回はめんどくさくて省いてしまったけれど、退屈こそ味わう甲斐があるという、その理由がここにあります。

それはまあそれとして今回の回答ですが、僕はミックスベジタブルのにんじんを推したいとおもいます。なんとなればサイコロの大きさがどうあれ、にんじんなら削ってより小さくすることが可能だからです。もちろん、加工せずにそのままちょこんと乗せるのもよいでしょう。

より厳密に、ピラミッドのキャップストーンのように四角錐にしたいという場合でも、ミックスベジタブルのにんじんは自由にカットできる点でその要求に十分応えられる逸材です。

せっかく正方形しばりで来たのだから、個人的にはできれば加工せずにそのままちょこんと乗せたいですね。サイコロがそれを下回るサイズでないことを願うばかりです。


A. ミックスベジタブルのにんじんがオススメです。




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その460につづく!

2025年8月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その458


たけのこの佐藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 身体を起こすエネルギーはないけど、眠れもしないとき、スマホをダラダラ見るのをやめたいです。代わりにできることやオススメの考え事があれば教えてください!


僕はわりと日ごろから床に寝っ転がる男なのだけれど、そんなに多くの人が日常的にコロコロと床に寝っ転がっているともおもえないので、ここでは仮にベッドでの話としておきましょう。

気が向くとすぐ床に寝っ転がる人の割合に比べれば、寝床にスマホを持ちこむ人の割合はおそらくめちゃめちゃ多そうな印象です。したがって、同じような悩みを抱く人もまためちゃめちゃ多いだろうな、と想像できます。

そしてこれを他人事のように書かざるを得ないのは、僕が寝床にスマホを置かない男だからです。

なぜと問われると、ちょっと困ります。何しろ意識的にそうしているわけでもありません。別にいいか、くらいにしか思っていないというか、なぜだろう。しいて言えば寝ることしか考えてないんじゃないだろうか。

枕元にはいつも何かしらの本があって、寝つきのわるいときは眠たくなるまで、すでに眠たいときはもっと眠たくなるまでぺらぺらとめくっています。ただ日常的にそれほど本に対する欲求が強くない場合、あまり甲斐がないのもよくわかる。それならまだスマホのほうが、となるのも無理はありません。

おもうに、おそらくスマホは僕らが自覚する以上に、安心と結びついている印象があります。

僕なんかはたまにスマホを忘れて外出してもそれほど緊迫しないというか、別に困りもしない気の毒な生き様なので、あらまあ程度で済みますが、大多数の人はそうならないでしょう。今や連絡、支払い、指定の時間や地図なんかにしても、これなくしては立ち行かない社会です。なくてよいときなどほとんどありません。

そして手元にあるのが当たり前ということは、手元にないと当然、不安に直結します。現代人にとってスマホは、特に明確なわけでもない茫漠とした不安を抑制してくれる、お守りみたいなものでもあるのです。そもそもスマホが存在しなければ抱きようのない不安でもある、という身も蓋もない話はこの際脇に寄せておきましょう。

そうなるとたとえば、本を読むといいよ、とかこんなことを考えるといいよ、というアドバイスはたぶん役にたちません。とにかくまず至近距離にスマホがないと落ち着かないし、スマホがあったらあったでそっちに気を取られて読書も考え事もへったくれもないからです。

以上を踏まえた上で、というのはつまり、スマホを至近距離に置いた上で触れずに済む、最もシンプルな解決のひとつはラジオとかポッドキャスト、もしくはオーディオブックだと僕はおもいます。

日常のお供からアカデミックなものまで、選択肢は無数にあるし、誰かの話や朗読は聞いているうちにそのままじぶんの考えごとに発展することもあるでしょう。

とりわけ僕が強調したいのは、です。耳に心地よく感じられる声というのは聞いているだけで癒され、脳汁が溢れ出すところがあります。他では聞けないような特別な話をしているわけでもないし、何なら話の印象が残らなかったりするのに、話し方とか、声の高低とか、ペースとか、ただ耳を傾けているだけで満たされることが実際あるんですよね。

なのでここはひとつ、じぶんにしっくりくる番組やパーソナリティ、もしくは朗読を探してみましょう。有用かどうかは問題ではありません。ただただ、リラックスできるかどうかです。

もしぴったりのものに出会うことができたら、自然と寝床でスマホに触れることも減るんじゃないかとおもいます。好きなアーティストのポッドキャストなんかあったら、入り口としては最高ですね。


A. じぶんに心地よい声を探してみましょう。




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その459につづく!


2025年8月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その457


カリオストロ四郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 現在ニュージーランドで過ごしている23歳・オスです。なんとか仕事が見つかり生活が落ち着きましたが、この国は日本と比べて娯楽が少なく、日本のぬるま湯に浸りまくっていた私にとって、この環境が非常に退屈だと感じ始めています。おまけに友達も少なく、もちろん恋人もいないため、毎日ひもじい思いをするばかりです。ムール貝博士が娯楽の少ない外国で生活をするなら、余暇時間は何をして過ごしますか?


ニュージーランド、いいですね。と言っても僕が知っているのはキウイ(鳥)とオールブラックスくらいなのでほとんど何も知りませんが、とりわけカカポというずんぐりした鳥が暮らす世界で唯一の土地である、という点で個人的に心を寄せています。


カカポはオウムの仲間で、キウイと同じく夜行性の飛ばない鳥です。ただし、キウイと違ってカカポの生息域には古くから捕食者が存在しなかったため、防衛反応や警戒心というものがほとんどありません。実際、人が近づいても「?」という顔をするだけです。したがって、人間の入植に伴ってネズミなんかの捕食者が生息域に侵入してからも、彼らが捕食者であるという認識をもつことができず、完全に無防備のまま、あっという間にその数が減ってしまいました。近年の手厚い保護によってだいぶ数を増やしたものの、それでもまだ300匹に満たない、まごうかたなき絶滅危惧種です。

しかし僕が心を寄せているのは絶滅危惧種だからではありません。長年の環境によるところが大きいとはいえ、カカポが敵意の欠片も持たない鳥だからです。

徹頭徹尾弱肉強食が貫かれるこの世界において、カカポほどやさしく、平和で、尊い生物は他にありません。

敵がいなかったんだから当然といえば当然だけれど、敵意を持ち合わせないということは、極端に言い切ってしまえば愛しかないということです。そんなファンタジー丸出しの生物が現実に存在するなんて、とカカポのことを考えるたびに心がふるえます。だって愛しか知らない種族ですよ!フィクションだったら陳腐と一蹴されそうだけど、現実だからこそその事実は重い。

キウイも含めて、カカポにかぎらず総じて捕食圧が著しく低かった、ニュージーランドとは世界的にも極めて特異な土地のひとつです。


さて、そういう話ではないことを思い出したところで、質問に戻りましょう。若いうちに海外に出ることはともかく、そこで職を得る、というのは僕からするととんでもない偉業です。それはこの先、英語が通じる国ならどこでも生きていけるということでもあるし、なんなら他のどんな国でも、その胆力があれば生きていけます。誰にでもできるわけでは全然ないし、それをすでに成し遂げてなんならちょっと落ち着いているとすれば、それだけで心から尊敬の念を抱かずにはいられません。

一方、僕にとってちょっと不思議なのは、はて娯楽とはなんぞや、という点です。

僕が20代前半だったころを思い出してみると、そうですね、毎晩のようにビリヤードに通っていました。誰かと競うゲームのように思われるかもしれないけど、ボウラードというボウリングを模したプレイ方法があるので、1人でもぜんぜん問題なかったのです。バイト先の先輩と打つこともあったけど、缶コーヒーと煙草を手にひとりコツコツ打ってた記憶があります。それ以外はどうかというと、本を買いまくったり、美術館に通ったり、CDを買いまくったり、レンタルビデオ店で映画を借りまくったり、パンを焼いてみたり、ヤマハのXJRをあてもなく乗り回しては派手に事故って宙を舞ったりとか、その程度です。とくにCDはひと月に30枚以上買ってたとおもう。

しかるにマンガや音楽や映画は、現代においてネット環境があれば事足ります。また知りたいとか学びたいことがあれば、図書館や博物館に行かずともある程度まではカバーできるでしょう。

退屈ってどういうことやねん、と僕なんかは訝ります。

つまり僕からすると、これまでが娯楽に溢れすぎていた、という印象です。あまりに暇すぎてすることがなかった若かりしころの僕はゴルフボールを3個重ねることに多大な時間を費やしていたことがありますが(一度だけ成功したことがあります)、どう考えてもネット回線があればそんなことはしていません。退屈とはそういうことです。なぜゴルフをしない僕がゴルフボールを3個持っていたのかは、思い出そうとしてみてもさっぱりわからない。

したがって、今感じている退屈こそむしろ極めて貴重な経験である、と断言してよいでしょう。それはまちがいなく同世代が感じることのないもののひとつであり、僕からすると今のうちに全身で堪能しておくべき経験のひとつです。確実にこの先の大きな糧にもなるでしょう。

どうしても耐えられなくなった場合は、カカポに思いを馳せてみてください。


A. 退屈、それは現代では得難い経験のひとつです。




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その458につづく!

2025年8月1日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説 その他の不毛かつ不可欠なギミックについて


さて、VOL.9についてはお話しできることもだいぶ少なくなってまいりました。(だだっ広い講堂で2、3人がポツンポツンと離れて席についているイメージ)

あってもなくても楽曲には何の影響もないというか、なくても別に困らないけれども、これまでのシリーズにはなくて今回にだけあるもの、それがジャケット画像に含まれたタイアップステッカーです。


今となっては見かけることもない過去の遺物みたいなツールなので、念のためご説明しましょう。タイアップステッカーとはその昔、CDのケースとかフィルムの外側に貼られていた販促ツールです。アルバムに収録された曲がドラマとかアニメの主題歌や挿入歌、CMソングなどに採用されていることを、このステッカーでアピールしていたわけですね。

極端な例では全曲タイアップ(!)を掲げたアルバムなんかもあって、ステッカーの面積がジャケットの1/3を占めていたほどです。あの曲入ってますというアピールのためのステッカーなのに、ジャケットの全体像がわからないばかりかお目当ての曲が入っているかどうかもパッと見ではわからないという本末転倒ぶりに、なんともいえない趣がありました。それもこれも、このステッカーが文化として定着していたからこそです。

VOL.9のジャケット右下にあるステッカーは、こうした文化へのオマージュとして描かれています。

こう書くとこのためにタイアップが企画されたように思われるかもしれませんが、そうではありません。実際には世間一般の流れと同じく、タイアップの企画がまず先にあり、驚異的なクオリティで世間を震撼させた例のCMが放流されたのち、ふとステッカーが貼れることに気づいたという次第です。ジャケットも自前のアグロー案内だからこそできた、画期的なアプローチだったと申せましょう。


ただ、ステッカーを含めたジャケットが配信の審査に通るかどうかもちょっとした賭けでした。というのも、配信にはフィジカルの時代にはなかったいろいろと細かなルールがあって、そのルールに抵触する場合は受理してもらえないからです。「紙芝居を安全に楽しむために」もそうだけど、考えてみたらアグロー案内にはそういう、ちょっと待ちなさいと言われかねない異物的な何かがあちこちにあります。異物どころかこちらとしてはむしろその正当性を主張するスタンスです。言ってみれば始まりから今に至るまで常に道を切り開いているのだ、と改めて強調してもよいでしょう。

一方、こうした水面下のハードルゆえに、できなかったこともあります。アポロニカ学習帳のCMには山本和男がしれっと出演しているので、できれば「feat.山本和男」と表記したかったのだけれど、これは叶いませんでした。

というのも、フィーチャリングを表記する場合、その人物を楽曲とは別にアーティストとして登録する必要があるからです。探偵としてならともかく、アーティストとして登録することにはさすがに僕らもちょっと抵抗があります。山本和男自身は諸手を挙げて歓迎する気もしますが、どちらかというとだからこそイヤです。ない謎を解く本分に集中してほしい。


とまあ、ひと月に渡って語り散らしてきましたが、ともあれ肝心の音楽的側面がすっぽ抜けていることを除けば、これがアグロー案内 VOL.9の全貌である、ということになります。辛抱づよくお付き合いいただいたみなさまには本当に感謝しかありません。

(だだっ広い講堂で2、3人がポツンポツンと離れて席についているイメージ)

(まばらな拍手)

ではまた、アグロー案内 VOL.10でお会いしましょう!


2025年7月25日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「名探偵、都会へ行く/the adventure of a wandering man」


リリースから3週間が経過した今でもトレンドの上位を独占し続け、一向に話題の尽きる気配がないほどの一大ムーブメントを巻き起こしているとアポロニカ学習帳に書いてあるアグロー案内 VOL.9、今回は当プロジェクトのメインコンテンツにいよいよ昇格した感のある山本和男シリーズの新たな局面についてです。

前回のVOL.8では、足を滑らせて滝壺に落下したはずの山本和男が、どういうわけかセスナの機体外側に仁王立ちで颯爽と現れ、奇跡の大復活を果たしています。そしてこれは、新たに幕を開けたシーズン2のスケールアップを暗示していた、と言ってよいでしょう。アグローという町がホームだとすれば、次の舞台は世界である、そんな壮大なビジョンがあるように思われます。

ニューヨークのハーレムを舞台にしていた映画「黒いジャガー(Shaft)」が3作目の「黒いジャガー/アフリカ作戦(Shaft in Africa)」でエチオピアに行ってしまうようなことですね。

基本的な活動範囲が自転車で回れるところに限られている山本和男からすれば、大都市を闊歩するだけでなんだか国際的な名声を得たような気になるのも無理はありません。そして実際、彼はそう考えているでしょう。彼が海外の名だたる都市にいるのか、あるいは関東なら大宮とか町田あたりにいるのか、それはさすがに僕もわかりませんが、個人的にはなんとなく後者の印象です。

ちなみに副題の「the adventure of a wandering man」は、「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」に収録されている「踊る人形(The Adventure of the Dancing Men)」を元にしています。ホームズが滝壺に落ちたあとの短編集であるあたり、じつに抜かりありません。

あと、そうだこの曲における会話の通話先、つまり加藤くん視点がリリース前にSNSで示されていたので、これも参考にしてみてください。


それにしても山本和男は大宮、じゃなかった大都会で何をしているのか、そしてこれまでに提示されたような気がしなくもない謎には一体どんな関連があるのか、それとも全然ないのか、すべてはアグロー案内シリーズの再生回数にかかっていると言ってもそれこそ過言ではありません。積極的にどんどん再生していきましょう。

なんかこう、展開の仕方が昭和のゲーセンにあった脱衣マージャンみたいな気がしないでもないですが、脱ぐ必要性と需要が1ミリもないぶん、はるかに健全で好ましいと僕なんかはおもいます。


2025年7月18日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish」


まずは前提として、先週に引き続き「饗宴2025/eureka (revisited)」の話をもうすこしだけしておきましょう。

饗宴2025/eureka (revisited)」は僕としても胸を張れる作品のひとつですが、書き手の視点からするとこれは基本的というかごくごくオーソドックスな手順で書かれています。

書かれたテキストは最初から最後まで一貫して、1小節につき1行が目安です。小節の最後に句点「。」がつくイメージですね。

それはもう本当にシンプルで、人にも伝授できます。基本的とはそういう意味です。基本も何も当時の僕にはそれしかやりようがなかったという身も蓋もない事情はひとまず投げ捨てておきましょう。

対して「魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish」は、この目安がないというか、小節をほとんど意識していません。きっちり収めようとして書いたのは脚韻を踏むフックだけです。

とはいえ段落としての区切りはほしいので、だいたい8小節くらいに収まるテキスト量をなんとなく意識してはいましたが、それが実際に収まるかどうかは書いている段階ではぜんぜんわかりませんでした。とにかく描きたい情景を書きたいように書くことを優先しています。句点が小節の最後に置かれず、あちこちに散らばっているのはそのためです。

つまり、ビートが前提のリリックではなく、テキストを書いたあとでそれをどうビートに乗せるか、という手順になっているわけですね。

小節単位の基本的な手順であれば、書いてすぐ録音することができます。何しろ書く段階ですでにどう乗せるかのイメージが概ね確定しているのだから当然です。

しかしビートを踏まえず好きに書き散らかしたものを乗せるとなると、さらに一手間増えることになります。そもそも一文の区切りがどこにくるのかさえ、この段階ではわかっていません。フレーズごとに配置を決めながら、文意を損なうことなく、盆栽のように細部をちょきちょき整えていく工程が必要になります。

そんなに面倒ならやらなきゃいいのにと僕も思いますが、それでもやるのはこれがラップと違って明確にリーディングでしかできないことだからです。

それを端的に象徴するというか、僕自身ビートに乗せる段になって驚いた部分が、5段落目にあります。

「夢を見ていた。1匹の魚として、気の向くままに泳ぐ……はずが、どこかに囚われている。水槽?にしてはすこし狭すぎる。浴槽?にしては熱すぎる。むしろご馳走……つまりスープらしいと気づいた。誰かの投げた匙で今まさに食われようとしているところ。」という部分です。

ここでは「水槽」「浴槽」「ご馳走」で語尾を揃えています。もし初めからビートと押韻を意識していたなら、小節の最後=脚韻として書いたはずですが、実際には小節の頭に跨って、音的にはむしろ頭韻になっているのです。なんなら水槽という2文字すら前後で小節に跨っている

どう考えても、小節を意識していたら踏めない韻がここにあります。そして僕がラップと言わずにリーディングと言い張り続ける理由のひとつもまた、ここにある。

結果論なので毎回これを意識するとまた話が変わってくるけど、少なくともリーディングならこんなこともできるという一例に、この作品はなっているのです。


それからフックにある「パパラッチもどさくさに紛れてスクープ」というラインについても、せっかくなので注釈を加えておきましょう。スクープはもちろん英語で “scoop” なわけですが、じつはこれ元来は掬うという意味があります。

音も意味も「掬う」とほぼ同じです。

ただ日本語の「掬う」は小さじであっても「掬う」である一方、英語の "scoop" は塊というか、ある程度のまとまりに限定されます。アイスとか土とか、ごそっとラフに抉るようなイメージです。コンソメスープには適さないけど、具沢山の豚汁とかならscoopでもOKというかんじ。たぶんオランダ由来の「スコップ」と同根じゃないかとおもう。

ここから僕らもよく知る「スクープ=特ダネ」に転じたわけですね。

つまりここでは、パパラッチが晩餐会の様子を激写していると同時に、じつは一緒になってスープを食っているというダブルミーニングになっているのです。

突拍子もないように見えて、どいつもこいつもスープに手を伸ばすような状況においてはむしろ彼こそ必要な存在だったと申せましょう。そしてscoopというからにはかなりがっつり食っているはずです。


そして最後にどうでもいいと言えばどうでもいいことこの上ない話ですが、この作品、「手漕ぎボート/helmsman says」、「象を一撃でたおす文章の書きかた/giant leap method」、「ダイヤモンド鉱/hot water pressure washer」からなるカッコいい靴三部作」第四部です。

そもそもそんなシリーズが存在したことすらご存知ないほうが当然なので、えっどういうこと…?という人はよーく聴くと同じキーワードが含まれているので、この機会に聴き返してみてね。

基本スキルによる最高峰のひとつと20年を経た応用スキルがひとつにパッケージングされているばかりか、過去ともつながる VOL.9 は個人的にも胸に染み入るものがあります。じーん。

2025年7月11日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「饗宴2025/eureka (revisited)」


さて、アグロー案内シリーズでは恒例とも言える過去作品のリメイクですが、今回の「饗宴2025/eureka (revisited)」はすこし意外な形に仕上がりました。

何しろオリジナルにはなかった詞が追加されています。20年近い年月の経過を表していると言えなくもない、いつになく美しいリメイクです。

ただ詞の追加については、初めから意図していたわけでは全然ありません。どちらかといえば、そうせざるを得なかった、というかんじです。

御大タケウチカズタケの手になるリメイクビートはオリジナルにかなり忠実でありながら隅から隅まで超絶アップデートが施されてとんでもないことになっているわけですが、カズタケさんのソロとは別に、オリジナルと異なる構成がありました。

それが後半のフックです。

具体的には「どうぞよりも先に『どうも!』ってあら?イントロでもう負け?まあいいや、あれもこれももらう前にふるまえ!宝箱とまちがえてパンドラの箱を山分け……?マズい、そいつだけはヤバい!ふたを閉めて逃げろ、来るぞ!」の決め台詞みたいな部分ですね。

この部分、オリジナルではバースにつき1度しか出てきません。

というのも、「ヤバい逃げろ来るぞ」というフレーズは、その時点でみんながパーッと散り去るイメージであり、繰り返すものではないと考えていたからです。そういうイメージでなければむしろ僕もフックは繰り返したかった。でもこれはちょっとリフレインには不向きだなと感じたので、やむを得ずというかなんというか、オリジナルでは繰り返さずに1度で止めていたのです。

カズタケさんから送られてくるビートは、あくまで目安であってその尺、構成に従わないといけないわけでは全然ありません。実際、好きに受け止めてもらっていいと僕も言われています。詞に合わせて尺を縮めたり伸ばしたり、カットしたりしても別に怒られたりはしない。

ただ僕としても2人でやっている以上、こう来るならそれに応えたいという思いがあります。オリジナルと構成が異なっていても「むりです!」ではなく「むむ、繰り返すならどう応えようか」とできれば受け止めたいのです。

この曲に関してはとにかく「逃げろ、くるぞ!」を最後にすることが最優先だったので、その前に新たな4小節を足す選択肢もありました。ただやっぱり導入は同じほうがいいよなあと思い直し、元の4小節を2つに分けて、新たな4小節を挟みこんでいます。

その結果、かつてと同じ宴の再現に見えて、実は過去にもこんな宴があった(=以前と同じ宴ではない)と終盤で全体の時間軸がシフトする着地になったのです。オリジナルを知らなくても問題ないけど、知っていれば別の意味合いを持つというテクニカルな帰結には、ほんとにもう、続けててよかった…としか言いようがありません。個人的に作り直したとしても、絶対にこの着地にはなっていなかったはずなので、このリメイクを気に入ってもらえるとしたらそれは100%、カズタケさんのおかげです。

全編を貫くギターのカッティング、バース後のカズタケソロも失禁レベルで超ステキだし、総じて非の打ちどころのない、完璧な一編である、と改めて断言できます。

また、タイアップとなったアポロニカ学習帳はそもそも神々の育成を謳うチート級のノートであり、神々について語られる「饗宴」ほどうってつけの楽曲はない、と言ってよいでしょう。むしろこの曲のために商品が企画開発されたと考えるほうが妥当なのではないか……?と勘繰ってしまうくらいです。

作品としての強度、恒久性もある……気がするんだけど、ずっと下の世代の誰かに届くことはあるだろうか……?


2025年7月4日金曜日

魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish


夢を見ていた。
さしこむ朝日、小鳥の囀り、花の香りが鼻をくすぐり、熱々のコーヒーとトーストを傍らに新聞をめくる。たったそれだけの、続きも何も、本当にそれだけの、単なる予告編ですらないティーザーだ。クランクアップは永遠にこない。

夢を見ていた。
かっこいい靴を置いていた角の店がもうないのに気づいた途端、どこもかしこも知らない町に見えて、立ち尽くす。たったそれだけの、続きも何も、本当にそれだけの、紙の切れ端みたいな断片……(あるいは立ち去れと促すための)

手は尽くしたと藪医者がスプーンをほうり投げる前に、取り上げて掬う。冷めたスープに死神が口を拭う。そんな連中が頭の片隅に巣食う。目を離したすきに藪医者も食う。パパラッチもどさくさに紛れてスクープ、晩餐会を開いたつもりもないのにこいつらが苦い胸の内を救う……。

夢を見ていた。
どこまでも深く青い海のどこかで、光る魚の巨大な群れが一糸乱れずに舞い踊りながら、壮大な白銀のカーテンを織りなしてひらめく。それを外から取り巻くように、何者でもなくただ傍観者として眺めている。

夢を見ていた。
1匹の魚として、気の向くままに泳ぐ……はずが、どこかに囚われている。水槽?にしてはすこし狭すぎる。浴槽?にしては熱すぎる。むしろご馳走……つまりスープらしいと気づいた。誰かの投げた匙で今まさに食われようとしているところ。

振り払おうとすればするほど、それは亡霊のようにつきまとう。今もまだましな選択がありそうな気がするだろう……だとしても向かう先に待つのはいつだって忌々しいほど悪いか、でなければどうしようもなく悪いかだ。目の前に鏡を置いてよく見ろ(そしてせいぜい笑えるほうを選べ)。

手は尽くしたと藪医者がスプーンをほうり投げる前に、取り上げて掬う。冷めたスープに死神が口を拭う。そんな連中が頭の片隅に巣食う。目を離したすきに藪医者も食う。パパラッチもどさくさに紛れてスクープ、晩餐会を開いたつもりもないのにこいつらが苦い胸の内を救う……。

夢を見ていた。
暮れゆく茜色の空から、通り雨のようにばらばらと魚が降りそそぐ。そのうちの名もなき一匹として、果てしない空の底に沈んで、悠長に流れる時を数えて、やがて干上がる水たまりで遠い海に想いを馳せている。

そこへ誰かが近づいてきて、足を止める。逆光で姿の判然としないその彼に、大きくて力強い手を差し伸べられる。バッジを渡され、陸の上の魚という名の騎士団に迎え入れられ、その末端に名を連ねるよう告げられる。
 
振り払おうとすればするほど、それは亡霊のようにつきまとう。今もまだましな選択がありそうな気がするだろう……だとしても向かう先に待つのはいつだって忌々しいほど悪いか、でなければどうしようもなく悪いかだ。目の前に鏡を置いてよく見ろ(そしてせいぜい笑えるほうを選べ)。

そこで目がさめた。
見覚えのあるシルエット、聞き覚えのある声に首をかしげながら、顔を洗い、シャワーを浴び、まだ着られそうなシャツに着替えて、買っておいたサンドイッチを口に放りこみ、リュックを掴んで部屋を出る。テーブルにはバッジが転がっている

手は尽くしたと藪医者がスプーンをほうり投げる前に取り上げて掬う。冷めたスープに死神が口を拭う。そんな連中が頭の片隅に巣食う。目を離したすきに藪医者も食う。パパラッチもどさくさに紛れてスクープ、晩餐会を開いたつもりもないのにこいつらが苦い胸の内を救う……。


2025年6月27日金曜日

アグロー案内 VOL.9 リリースのお知らせ


さて、十数年ここにいてどこにも行く気配のない僕としては最後の細い命綱と言っても過言ではないアグロー案内ですが、おかげさまでまたひとつ、リリースの運びと相成りました。なんと気付けば VOL.9 です。


ふと、VOL.6 が5ヶ月ぶりのリリースで告知から配信まで2週間しかなかったことを思い出します。別に気にもしてなかったけど、今回はほとんど8ヶ月ぶりです。いったい何をあんなにあたふたしていたのか、しみじみ大らかになったものだとおもう。

VOL.7 のときは告知から配信までがさらに短くなり、10日しかなかったのだからわれながら驚かされます。

それどころか VOL.8 のときはさらに短くなり、気付けば配信まで7日しかありませんでした。改めて告知を読み返すと「VOL.7の比ではない」みたいなことが書いてあります。さすがにこれ以上短くなることはないだろうとぼんやり考えていましたが、いま思えばまだまだ青かったと反省せざるを得ません。

何しろ VOL.9 の配信日は7月2日(水)です。

5日後。

念のためお断りしておくと、どこまで短縮できるかチャレンジみたいなことは、VOL.6からまったくしていません。気づいた後で毎回のように「あれ!?」と目ん玉が飛び出しています。どうしてこんなことになっているのか、本人たちにもさっぱりわからない。しかしここまでくるとさすがに事実であっても全然そう見えないので、次回は逆に意識するようになるはずです。ただ、ふつうに忘れるからなあ…。

ともあれ VOL.9 です。

もとより告知のない人生なので、本来であればトラックリストの1文字目から公開していきます!最初の文字は「魚」です!とかそんな感じでだらだらと小刻みにいつまでも更新しつづけていたはずですが、そんな猶予もありません。もう一度にぜんぶ出してしまうしかない。

しかしとりわけ今回はリリース前からタイアップの件があったりして目まぐるしかったので(これも計算ではなく結果としてそうなっています)、そのあたりから話し始めるとキリがありません。リリースまでの日数への言及だけですでに投稿の大半を占めています。

なのでそれらはまたのちのち釈明のようにお話しするとして、今日はジャケット、配信開始日、そしてトラックリストでシンプルにまとめておきましょう。


総じて VOL.9 はいつになくアグロー案内的である、と僕はすごく感じています。楽曲以外のもろもろを含めた、すべてがです。ここまでやってきたからこそ成立することのオンパレードであり、誰かと誰かをくっつけてもここまで多くを賄うことはできません。どうかどうか、楽しんでもらえますように!

2025年6月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その456


いきなりステッキさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 「こんなに頑張ったのに報われない」と思った時に投げ出さず正気を保つ方法を教えて下さい。


たしかに僕らの日々は、費やした労力に対して報われないことのほうが多いですよね。え、そんなことないよ以前はわたしもそう思ってたけど諦めなければ必ず報われるから!と言う人は初めから恵まれたあちら側にいることに無自覚なので、何をしようと一向に報われない僕らの徒労など知るよしもないでしょう。

しかしがんばれば報われるという期待がそもそも人間特有の感覚であって、多くの生物にとってはそうではありません。

百獣の王たるライオンを例にとってみましょう。

王とて腹は減るので日々狩りに勤しんでいるわけですが、毎回必ず獲物にありつけるわけではありません。本気を出して、全力で向き合って、なんなら普段よりはるかに粘ったにもかかわらず、収穫がゼロの日もあります。王であるにも関わらずです。なぜ王なのに空腹をこらえているのか、王であるならなおのこと、腑に落ちないものがあるでしょう。

しかしライオンにとっては、どうあれいつでも、捕食できるかできないかです。がんばりは関係ありません。こんなにがんばったんだからガゼルの1頭くらい食えたっていいじゃないか、と僕らなら愚痴りそうですが、愚痴る甲斐もないことを、ヒト以外の生物はよく知っています。それで腹が満たされるわけではないからです。

ヒト以外の生物にとって、行動と対価は結ばれていません。望んだ結果になるか、ならないかしかない。ではなぜヒトだけが行動に対価を求めるのかといえば、それは僕らが資本主義にどっぷりと浸かりきっているから、と言うほかありません。報われないという考えかたはまさにその弊害もしくは副作用と言えるでしょう。

もちろん、報われる日もあります。それはヒト以外の生物も同じです。しかしそれはがんばったからではありません。必要からくる行動にはいつだって全力でがんばっているのだから、がんばりは理由にならない。なんだかよくわからないがとにかく上手くいった、というだけです。

なので報われると期待することを、まずやめてみましょう。徹頭徹尾、僕らは報われません。報われる人もいるけれど、それは報われる星に生まれついた人であって、僕らではない。人生は不平等と不公平のオンパレードです。もし報われたと感じたなら、がんばったんだから妥当なことだと考えるのではなく、宝くじに当たったようなものとして全身全霊で喜びを表現しましょう。僕らが報われることなど今も昔も、そしてこの先もほとんどないのです。

言うまでもなくここには、悲しみがあります。しかしその悲しみを噛みしめれば噛みしめるほど、人生には味が出るものです。よろしくやってる恵まれた連中には中指を突き立てておけばよろしい。


A. そもそも僕らは報われる星に生まれついてはいないのです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その457につづく!

 

2025年6月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その455



洗濯機フライドチキンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 来年2月に第2子が産まれます。家族で相談した結果なのですが、半年間の育休をとることに罪悪感があり、職場での立場も悪くなりそうだという予感がしています。人事や上司に伝えるときは吐き気がしそうでした。家族との時間を大切にしたいという気持ちも強いのですが、そのような不安に駆られ、育休の間も精神不安定になりそうな気がします。このような状態をどう乗り越えればよいのでしょうか。


なるほど、これは切実な問題です。ご質問にある来年2月とは今年2月のことなので、梅雨入りを果たした今ごろ何言ってやがるとお思いでしょうが、どうあれ考えることはそれだけでとても大事なので、考えてみましょう。

本来であれば1ミリも抱く必要がないはずのこの罪悪感に、よくもわるくも日本らしさがたっぷりと詰まっています。それゆえに育休の取得に二の足を踏む人や、実際に断念する人が今も数えきれないほどいるはずです。

そう考えると勤務先が育休を制度として導入して実際に取得できること、そしていろいろと思うところはありながらも取得を選び、申請した洗濯機フライドチキンさんをまずは全力で讃えるべきだと、僕なんかはおもいます。すごい!

罪悪感については、必要ないと頭では理解していても抱いてしまうのはしかたありません。実際のところ日本人とはそういう民であり、日本とはそういう国です。

だからこそ、洗濯機フライドチキンさんの決断には、計り知れないほどの大きな意味があります。家庭にとっても、勤務先にとっても、そして社会にとってもです。

なんらかの後ろめたさが拭えないのは、それが当たり前の社会では全然ないからです。そして誰もが二の足を踏み、断念するとすれば、永遠に当たり前の社会にはなりません。わざわざ強調するのもバカバカしい気がするけれど、いつでも誰かが一歩を踏み出す必要があるのです。

初めて月面に降り立ったアームストロング船長の有名な一言を思い出してください。

“That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.”(一人としては小さな一歩ですが、人類としては偉大な飛躍です)

これは日本において育休を取得した人にも当てはまります。大袈裟でもなんでもなく、一人が一歩を踏み出すからこそ後につづくことができるのであり、やがてそれが道になるからです。

いずれ育休を取得することが義務にも近いほど当たり前すぎる社会になり、本人にその気がなくとも周囲や会社に「バカ言ってんじゃねえ、他の人が申請しづらくなるほうが迷惑なんだよ、とっとと申請してこい」と蹴り飛ばされるような時代が来る、そのための礎を今まさに築いていることに、胸を張ってください。

もちろん直接的には家族のため、ご自身のためという認識だとおもいますが、実際には数えきれない多くの後進のためになっています。今はまだ他に人がいないような薄暗い道を罪悪感とともに恐る恐る歩いているように見える、その背中はとてつもなく広くて大きい。どれほど誇らしい親御であることか、生まれて間もないお子さんに懇々と言い聞かせたいくらいです。

道を切り開いてくれてありがとう!


A. アームストロング船長と同じ偉業を成したと考えてみてください。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その456につづく! 

2025年6月6日金曜日

天下周知の文具メーカーとアグロー案内のタイアップが実現した話


速報です。

なんと、これと言って音沙汰のない今も局所を集中的に席巻してやまないわれらがアグロー案内と、天に遍く知れ渡るいにしえの文具メーカーDAPHNEさんとのタイアップが実現いたしました。長らく箝口令が敷かれていたので、やっとお知らせできて感無量です。

光栄すぎて卒倒しかけた僕らが今回、全力で応援するのは満を持して世に放たれる神々育成ノート「アポロニカ学習帳」です。


なんでもDAPHNEさんはここ数年、この先の神話を担う世代がSNSや動画サイトの影響で幅広い教養と深慮を身につけにくくなっていることに危機感を抱いており、神々の教育的劣化を食い止めるべく学習ノートの開発に着手したんだそうです。

こうした涙ぐましい理念をとことんまで追求した結果、アポロニカ学習帳は気乗りしない神々の学習意欲を強制的に高めるノートとしてはかつてないほどハイエンドな、そしてまちがいなく古代をリードする学習帳のフラッグシップモデルとなっています。書いたことが片っ端から現実になるとか、シュレッダーにかけて海に投げ捨てても自動で復元するばかりか翌朝には手元に戻ってくるとか、とにかく最新かつ解析不能のオーバーテクノロジーがこれでもかとばかりに詰めこまれていて、単なるホモサピエンスでしかない僕らでさえ、ワンチャン神になれるのではないかと錯覚せずにはいられません。

また一部界隈ではSwitch 2と同じかそれ以上に話題が沸騰しているので、ひょっとしたらすでにご覧になった方々もおられるかもしれませんが、これまでに誰も見たことのないような驚異のグラフィックを実現したテレビCMが天界でも放映されています。映像作品としても息を呑むほどすばらしい、圧倒的なクオリティで天の度肝を抜いたCMをご覧あれ!もちろんアグロー案内の面目躍如たるBGMも 聴 き 流 さ ず に 注 意 深 く 耳を傾けてほしい!


さらにこのアポロニカ学習帳、本来であれば神々仕様なので僕ら人類には縁がないはずの商品なのだけれど、アグロー案内をタイアップに選んでくださったこともあり、今回は特別に下界でも販売されることになりました。何から何まで、至れり尽くせりすぎる!


しかも神々仕様のノートなのに税込2,442円と、米5キロ(2025年現在、備蓄米を除く)よりも圧倒的に安い。僕なら迷わず米5キロを選びますが、米にあまり重きを置かない人にはめちゃオススメ!

もはやいつお迎えが来ても悔いはない、そんな気持ちでいっぱいです。アグロー案内、続けててよかった…。DAPHNEさん、ありがとうございます!