フランシスフォードかっぽれさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 各街に1つは必ず在る良い街中華屋さんが「良い街中華屋」であり続けるために必要な事って何なんでしょうか。
いいですね。これは100人に問えば100通りの回答が得られそうな質問です。味はもちろん、ありがたい価格設定だったり、豊富なメニューだったり、店の雰囲気だったり、概ねワンプレートで済む気楽さだったり、すこし呑むにはちょうどよかったり、あるいはその全部だったりするでしょう。それでしか得られない栄養がある、という言い回しは、町中華にこそふさわしい。
良い町中華にはだいたい当てはまる印象なのでどちらかというと帰納的な結論ですが、僕が感じるのは、朴訥であまり細かいことを気にしないことですね。
一例を挙げましょう。今はもうないけれど、僕が若いころ好きだった店に「ブラザー軒」という古い町中華がありました。もうこの店名からして細かいことを気にしない感じがひしひしと伝わってきます。
このブラザー軒で僕がよく食べていたのは、チキンライスです。中華どころか和食や洋食ですらないけれど、昭和の町中華にはどういうわけか、往々にしてチキンライスがメニューにあります。ブラザー軒にはたしかオムライスもあったはずです。そしてとりわけ、ブラザー軒のチキンライスには、鶏肉だけでなくときどき豚肉が紛れこんでいました。なんで?
店名にしてもメニューにしてもその具にしても、美味ければあとは別にいいじゃないかとしか言いようがない、このひたすら頑丈で強靭な重心の低さがおわかりいただけるだろうか。
もちろんこれは極端な例です。店名やメニューかくあるべしとは思わないし、ちがう肉が紛れこんでいるべきとも思わない。でもこの揺るぎない大らかさは、良い町中華に概ね共通するものという気がするのです。そもそもメニューのすべてが中華と呼べるかどうかすら怪しい時点で、定食屋にはないバーリトゥード感が町中華にはある。
もう一例を挙げましょう。
これは今もある店の、えーと、伝票兼レシートです。「いります?」と訊かれたのでもらってきましたが、特にどうすることもできないので何となく家の壁に貼ってあります。もはや多くを語る必要はないでしょう。またしても懲りずにチキンライスを食っている点はさておき、この店で大きな中華鍋を振るっているのが僕の老母よりも明らかに年長の女性なのだから、小さなことなど気にするはずもありません。
強靭な活力と大らかさ、それは言い換えるとこういうことになります。
A. 生命力です。
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その448につづく!