2022年4月29日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その372


唐揚げオブチキンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 最高に天気のいい日にやりたいことは何ですか


一見どうでもよさそうに見えて、いざみんなで話したらそれぞれの回答に人柄が垣間見えておもしろくなりそうな、いい質問です。最初はたぶんレジャー系に集中すると思うけど、

「本当にそれでいいのか?」
「これ以上ない最高の天気に見合う選択だと言い切れるのか?」
「もし人生に雲ひとつない晴天が1日しかなかったとしても、その答えでいいのか?」

とじわじわ追い詰めた先に絞り出されるファイナルアンサー、聞いてみたいですね。

のっけから暗黒級の悲観に聞こえるかもしれませんが、朝起きて非の打ちどころがない好天に恵まれていたとき、僕の第一印象は昔から今に至るまで一貫して「死ぬにはもってこいの日」です。もちろん、死ぬなら今だと鼻息荒く滝壺にダイブすることを考えるわけではありません。むしろ逆で、こんな日に人生を終えられたら最高だろうな、とその美しさに打ち震えます。それが若干いびつな感動である自覚もなくはないけど、昔からそうなのでまあ仕方がありません。

実家で飼っていた柴犬のてんぷら(という名前でした)が老衰で息を引き取ったとき、ひなびたのどかな丘陵地で火葬してもらったんだけど、その日が本当に雲ひとつない快晴で春の風も穏やか、生涯を畳むのにはまさに完璧な一日だったことを今もよく覚えています。こんなふうに日々を終えることができるなら言うことないとしみじみ感じ入ったものです。人だとなかなかそうシンプルにはいきそうにないし、だから悲しみより喜びとか感謝のほうがずっと大きかった。

それと言うのも、僕が日ごろから青天に対してちょっと過剰なくらい、並々ならぬ敬意を抱いているからです。おっ今日はいい天気だな、くらいの感慨ではとても足りません。口にはしないし顔にも出さないけど胸中では1999年が2000年に変わったあの瞬間くらいド派手な花火が打ち上がっています。つまり、限界までテンションが上がりきった結果、「もう死んでもいい」の境地にわりとあっさり達するわけですね。仮に一週間晴天が続いたとしても、毎日同じです。今はまだそうでもないけど、あと20年くらいしたら晴れただけで泣き出すんじゃないかとおもう。

そんな快晴の日に何がやりたいかと言われたら、とてもじゃないけど何もできません。と言うより「何もしない」を選びます。それはごちそうが目の前に並んで美味しそうな香りが満ちていたらどうする?と聞かれているのに近いものがあるからです。食べるほかないじゃないですか?

ただその美味をより積極的に味わい、ガツガツと貪るために、ささやかでも緑を欲する傾向はあります。木々に囲まれて、スコーンと晴れ渡る空があるなら、木漏れ日の下で何もしません。というかわりとしょっちゅう、何もしないをしています。晴天が炊きたてのご飯なら、緑が味噌汁です。


A. 何もしないをします。




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その373につづく! 

2022年4月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その371


星のカビさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 僕はよく靴ひもがほどけるのですが、一回結んだら一週間くらいほどけない紐の結び方ってありますか?


足るを知るにも似た、穏やかなお人柄がしみじみと偲ばれる質問です。

靴紐が一般にどれくらいの頻度でほどけるものなのか、言われてみれば僕もまだ統計をとったことがないので誰もがそうとは断言できませんが、ここではひとまず「そんなにしょっちゅうほどけるものではない」という前提で考えてみましょう。

まず、いただいた短い質問から得られる事実が2つあります。

1. ほどけても良いとお考えであること。
2. 靴紐をほどかなくても履ける靴であること。

ちょいちょいほどけてお困りなのに、一週間くらいほどけなければ御の字なのだとすれば、そのご希望はいかにも控えめです。僕なら苔のむすまでほどけないでほしい。

どんな結び方であれ、ほどけないために肝心なのは最後に靴紐を左右にキュッと引っ張る瞬間です。僕なんかは相手が靴紐なのをいいことに、息の根を止めるつもりでくたばれとばかりに引っ張りまくります。それでもスルリと嘲笑うかのようにほどけるなら、靴紐を口汚く罵ったあげく接着剤で結び目をガチガチに固めます。ほどかなくても履ける靴ならなおさらです。

しかるに星のカビさんはそのどちらでもありません。いっそ一思いにやってしまえばよさそうなところをそうはなさらないとすれば、そこにはやはり、慈愛に近いものが感じられます。靴紐への態度が暴君そのものでいずれ紐に寝首を掻かれそうな僕が言うのもなんですが、靴の結び方よりもよほど大切にしたい心のありようです。してみれば靴紐がよくほどけるのも多くを求めぬその優しさあってこそであり、むしろ他の人にない長所と受け止めることができましょう。なんなら靴紐がほどけるたびに、神さまからほんのすこし、褒められているのです。

もうちょっとだけ長持ちしてくれたらな、というお気持ちはすごくよくわかります。しかし人生とはそんな気持ちを宥めすかしながらやり過ごす日々の連続です。そして神さまに褒められていると感じられる機会など滅多にありません。

それでもなお、ええいもう勘弁ならぬというときは、接着剤で結び目をガチガチに固めてやりましょう。

ぶっちゃけ僕は靴紐の結び方より接着剤の方が詳しいです。


A. ほどけやすい靴紐にもまた意味があるのです。




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その372につづく! 

2022年4月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その370


ドリームズ・パス・スルーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 最近、「自分って成長してないな。」と思った瞬間はありますか?


ないですね。僕は今も溌剌と成長を続けています。成長しすぎて破裂しそうなくらいです。日に日にどころか秒ごとに魅力を増して、なんならそろそろ外見もロバート・ダウニーみたいになってるはずなんだけど、嘆かわしいことにいまだに誰も気づきません。むしろぜんぜん変わらないねとか言われてどこに目をつけてやがるんだと思う。

呼吸やまばたき、鼻をかんだ総回数、これまでにてくてく歩いてきた距離、食べてきたごはんの量、すれ違った人数、剃ってきた髭や切ってきた髪や爪の総延長など、どれをとっても最大最多最長を更新し続けています。やらかしたことや反省の数に至っては指数関数的です。これを成長と言わずに何と言いましょう。それでいて減ることは一切ありません。増す一方です。お金ならもう十分にあるからこれ以上増えなくていいんだけど……というエクストリームな富豪よろしく肩をすくめながら成長しつづける自身を眺めているところがあります。やーもう困っちゃうな……と頭をぽりぽりかくほかありません。

このぶんだと、1ミリも後退することなく死ぬまで成長を続けることでしょう。いったいどれほどの大人物になって息を引き取るのか、今からとても楽しみです。

なんだか泣けてきましたが、言うまでもなく歓喜の涙なので気にしないでください。


A. 全然ないです。




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2022年4月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その369


ムーンライト演説さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私は37歳なのですが25歳の彼女がいます。気はすごく合うのですがたまに育ってきた年代が違うせいでギャップを感じることがあります。その溝を埋めるにはどうすればいいでしょうか?


かれこれ400回近く続けてきた質問箱ですが、その中でも群を抜いて忌々しい質問です。37歳で25歳の恋人がいてなおそのギャップを埋めたいとはふてえ野郎だと舌打ちするほかありません。どちらかといえばスコップを持って集まるように呼びかけて大勢でその溝をマントルあたりまで掘り下げたいくらいです。「大富豪ですがお金で買えないものが欲しいです」と言うのに近いものがあります。望んで得られる境遇ではまったくないことに毎朝感謝しまくらなくてはいけません。

怪獣だったら町を片っ端から破壊して回りたい今のわれわれの心中はさておき、というのはつまり恋人云々をちょっと脇に寄せてお話しするなら、それなりに長めの年月を生きてきた僕も世代のギャップを感じることはもちろん、ままあります。

そこでいつも思い浮かぶのは、自分もいつかこうなりたいと願わずにはいられない、先輩方のことです。そう願うのはもちろん、人としての魅力に溢れているからなんだけれども、彼らはいつもおしなべて年齢差を感じさせません。言い換えるなら視点がいつも「今」に置かれていて、かつてはこうだったと過去に照らし合わせて考えることがほとんどないのです。

ギャップが生じるのは、常に過去を持ち出すときだけです。彼らは人に訊かれれば普通に過去の話をするけれども、日ごろ自ら振り返ることはありません。そしてここにこそ重要な、ゆるがせにできないポイントがあると今の僕は考えます。自戒を込めて言えば実際、多くの人は歳をとると過去との違いにいちいち驚き、そのひとつひとつに感傷を表明せずにはいられないのです。

その上で認識しておきたい点は3つあります。

ひとつは、年の差があればそこにはギャップが厳然と存在すること。もうひとつはそれを自ら持ち出さないこと。そして最後は常に自身のOSを時代に合わせてアップデートし続けることです。僕もなるべくそうありたいと心がけているけれど、少なくともこうなりたいと思わせてくれる先輩方はみんなこんな感じです。溝を埋めるのではなく、むしろ溝があると相手に感じさせないわけですね。

パートナーとして側にいるならどうでもいいや知るかこのやろうと思わないでもないけど、仮にそうじゃなくても今後あらゆる局面で有効だと思うので、参考にしてみてください。


A. 自身のOSを常にアップデートしておきましょう。




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その370につづく! 

2022年4月1日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その368


はらほろひれはれポリプロピレンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 子供の頃好きだった本はありますか?私は「十五少年漂流記」と、「魔法少女マリリン」という本が大好きで、毎年そのどちらかで読書感想文を書いていました。(100%純粋に好きだからという気持ちで)あまり本を読まれなかったのであれば、大人になってからのオススメなど聞きたいです。


「毎年そのどちらかで読書感想文を書いていた」というのがいいですね。初期と後期では感想や表現にも変化があったりしたんでしょうか。

小学生のころも気が向けばそれなりにちまちまと何か、有名な「ズッコケ三人組シリーズ」あたりを読んでいた気がするけれど、それほど今の血肉になっている印象はありません。本に対してこれが好きだったとはっきり断言できそうなのはむしろ中学1年くらいの時期です。

何しろこの頃の僕はとある事情から、そこにある限られた、そして見事に偏った本でしか有り余った暇をつぶすことができないという、それだけ聞くと刑務所のようだけれど別にそうではないちょっと特殊な環境に身を置いていたので、それはそれはカラスのような雑食ぶりだったのです。

今も印象に残っている本をパッと思いつくままに挙げてみましょう。13歳の少年にしてはかなり歪なラインナップです。

・津本陽「下天は夢か
・落合信彦「ゴルバチョフ暗殺
・水野良「ロードス島戦記
・田中芳樹「創竜伝
・福音館書店版「西遊記
・折原みとのティーンズハートシリーズ
・勝目梓の官能ヴァイオレンスシリーズ
・源氏鶏太のサラリーマンシリーズ
・西村京太郎の十津川警部シリーズ

あとそうそう、マンガ雑誌だけど別冊マーガレットも追加しておきましょう。

忘れられないのは当時、プラモデル両手に効果音を口にして遊ぶ正当ながきんちょでありながら、そんな子が読みふけるとも思えない「下天は夢か」「ゴルバチョフ暗殺」もめちゃめちゃ面白かったことです。これはけっこう強烈な体験で、そのせいか「子供には難しい」かどうかは子供自身が決めることであって大人が決めることではないという、考えてみれば当たり前すぎることを今も胸に留めているところがあります。と言ってその後、日本史にハマるとか落合信彦に傾倒するとかになったわけでもないので、話としてよっぽど面白かったんでしょうね。子どもに読ませたいかと言われたら今の僕でも首を傾げますけど。


そしてこの中で特に好きだった一冊を挙げるなら、僕は「西遊記」を選びます。わざわざ福音館書店版と但し書きをつけたのは、子ども向けにしてはかなり奥行きのある誠実な翻訳だったと今でも思うからです。三蔵法師がいて、孫悟空がいて、猪八戒がいて、沙悟浄がいて、天竺まで旅をすることまでは知っていたし大体みんなそれくらいの認識だと思うんだけど、たとえば八戒がなぜブタなのか、悟能という立派な名前があるのになぜ八戒と呼ばれているのか、という細部ひとつとっても濃密なドラマがあってもういちいち面白い上に、次から次へと出てくる仙人の道具とか奇妙な土地の異世界観に圧倒されまくった記憶があります。それは僕にとって南総里見八犬伝と同じように、ざっくり端折ったり噛み砕いたりしてはいけない、なるべく生(き)のままで味わいたい物語のひとつです。大人には「猿」と「猴」の明確な違いを意識して「サル」と訳した知の巨人、中野美代子版を熱烈におすすめしたいですね。

ついでにお話しすると、これは書物ではないけれど、それから数年後、深夜にテレビ放映されていた中国中央電視台制作のドラマがまた最高で、僕の西遊記観はここで完成しています。なんとなれば、活字で読んでなんとなく抱いていたディープすぎる中国文化への憧憬と渇望を映像で余すところなく満たしてくれたからです。ビデオに録って何度も見返したから今も心に深く焼き付いています。当たり前だけど細部まで知っている物語のあれやこれやがぜんぶ中国語で「うわあーこういう発音だったのか!」とか、緻密な時代考証に基づいた衣装や建築に対する驚きと興奮は筆舌に尽くし難いものがありました。


太っ腹なことに1986年のオリジナル版は全話公開されているみたいなので、字幕がなくてもよければ観てみてください。80年代ならではのチープなSFXを除けば、というか僕にはそれすら最高なんだけど、今もまったく揺るがない金字塔がそこに聳えています。

なんか勢い余ってだいぶとっ散らかった話になってしまったけど、これで答えになってますでしょうか。


A. 福音館書店版の「西遊記」です。



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その369につづく!