2015年1月29日木曜日

Who did see the goblin? (鬼を見たのは誰ですか?)


言葉の移り変わりで思い出したけど、夏目漱石だったか柳田国男だったかの著書に「鬼見たような顔をして」というような表現があってハッとしたことがあります。なんとなればこの「〜見たような」が今で言う「〜みたいな」の原型であることに気がついたからです。

辞書を引くとたしかにこうあります。

→ みたい [接尾](「…を見たやう」の転。体言や活用語の連体形につく)

時代をへて音が転じることには別段ふしぎもありません。それもまたごくごく自然なことです。でも「〜を見たような」と「〜のような」ではぜんぜん意味がちがってくるじゃないですか?

「鬼みたいな顔」と言われたら憤怒の形相を思い浮かべるけど、「鬼を見たような顔」と言われたら思い浮かぶのはむしろ怖れおののく表情です。すくなくとも言葉だけみれば鬼を見たのは顔の持ち主であると考えてもおかしくありません。

でも実際には逆です。鬼を見たのはこちらであり、鬼のような顔をしているのは相手です。とりようによっては正反対の意味にもなりかねない、こんなややこしい言い回しが当時は混乱なく受け止められていたのだから、フームと考えさせられます。「猫見たような目をしてる」とかね。そんなことないですか。

ひょっとしたら初めはたとえば「この皿は空見たように青い」というふうに使われていたのかもしれません。対象が無機物なら「見る」のは自然と自分しかいないことになるし、迷わずにすみます。「空を見たときのように青く感じられる」というわけです。

いずれにしてもこれは時代をへて劇的に適用範囲が広がった、すごくわかりやすい例のひとつと言えましょう。いま僕らが生きるこの時代にかつての用法から正す人など、おそらくどこにも見当たりますまい。誤用だ乱用だとのたまう向きには高圧洗浄機で顔でも洗ってやったらいいとおもう。


そういえば現在全国ツアー中のクリープハイプに、ツアーグッズのひとつとしてフェイスタオルのデザインを提供させてもらいました。ライブ会場ではすでに販売されているそうです。実物を目にしていないのでどんな具合なのかいまいちよくわかっていないのだけれど、ひとまず好評との由ご報告いただいてホッとしています。今まで言い出せなかったのは、クリープハイプのファンのみなさまが何かの拍子にここへ辿り着いてしまったら怪訝な顔をされるのではないかとか夢をこわすのはよくないとか余計な気を回していたからです。




おまけ:他にもこんなデザイン候補がありました↓




時間を置いて見返すと渋いですね。

そしてあんまり自覚なかったけど、どうやらタオルをチケットに見立てるというアイディアに固執していたようです。僕が。

2015年1月26日月曜日

大丈夫はいかにしてノーサンキューへと移ろいゆくか


古書店が古本の買取をして、査定金額を提示したらお客さんに「あ、じゃ大丈夫です」と言われて戸惑った、というのです。そんな返し方されたら僕もちょっと戸惑うだろうとおもう。何しろ提案に対して承諾するのか拒否するのかが判然としないし、僕が店員だったら「何がだこのすっとこどっこい」と率直な印象が口をついて出てもおかしくありません。

「で、どっちだったとおもう?」
「承諾か拒否かってこと?」
「そう」
「うーん……7:3で承諾」
「そうおもう?」
「うん」
ところが拒否だったんだ

辞書を引けば「大丈夫」の項には、「しっかりしているさま、たしかであること」とあります。厳密に言えば本来は「人が肉体的、心理的に揺るぎない状態を保っていること」を意味していたのですね。

現在の僕らはこれをざっくり「OK」もしくは「問題ない」という意味に捉えて、もうすこしゆるやかに適用しています。

「先帰っちゃうけど、いい?」
「大丈夫です」

という具合です。おそらくここまでは誰にとっても違和感はありますまい。しかし「問題ない」という受け止め方は一見すると本来の意味と大差ないように見受けられますが、実際にはそれよりもはるかに高い汎用性を持っています。何となれば「問題がないかどうかの確認」にも適用されてしまうからです。わかりづらいとおもうので一例を挙げましょう。たとえば美容院のシャンプー台でこう訊かれたとします。

「お湯加減はいかがですか?」
「大丈夫です」

ここではもちろん、「問題ない」という意味で「大丈夫」と答えています。このやりとりにも不自然な印象はありません。ところがこれが普通になってくると、今度は逆に「問題がないこと」を確認するケースが出てきます。すなわち……

「お湯加減は大丈夫ですか?」

元の意味からだいぶ離れてきましたね。言葉の用法に敏感な人や年配の方が違和感を覚えるとしたらおそらくここです。しかしこれくらいで怯んでいてはいけません。転がり始めた言葉の意味はさらにコロコロと加速していくのです。

「問題ない」という受け止め方はまた、時として「気遣いは無用である」というそこはかとない謝意を含むことがあります。たとえばこう。

「一人で平気?」
「大丈夫です」

ところが両方の意味を兼ねている場合はまだよいのですが、水の低きに就くが如しというか、当然予想される自然のなりゆきとして、単純に「気遣い無用」のみへと転じるケースが生じます。

「手伝ってあげるよ」
「大丈夫です」

また、「気遣い無用」は謝意遠慮がオブラートの役割を果たしていますが、遠慮である以上それは同時に辞意でもあり、したがって実際には「その必要はない」というストレートな否定を含んでいます。ここがまた大きな分岐点です。

その行き着く先が「結構です」や「ノーサンキュー」であることはもちろん、言うまでもありません。「問題ない」から始まったことを考えると、ずいぶん遠くまできたようにおもわれます。そして冒頭のやりとりは、ここにふくまれる「辞意」をアクロバティックに適用した結果であると言ってよいでしょう。アクロバティックというのはこれが「好意に対する辞退」ではなく「自らの要求に対する辞退」だからです。

「大丈夫」の変遷を1行にまとめるとこうなります。

「問題ない」→「気遣い無用」→「必要ない」→「ノーサンキュー」

ひとつのシチュエーションですべて再現してみましょう。えーとそうですね、じゃあダイゴくんが交差点で車にドカンとはねられたと想像してみてください。雑巾のように投げ出されたダイゴくんに誰かが駆け寄って声をかけます。

「ケガはない?」
「大丈夫です」→訳:問題ありません
「救急車呼ぼうか?」
「大丈夫です」→訳:体には問題ないのでお気遣いは無用です
「記念写真撮っとく?」
「大丈夫です」→訳:必要ありません
「じゃ気がまぎれる歌でも歌おうか?」
「大丈夫です」→訳:ノーサンキュー

僕が言いたいのは、言葉の移り変わりとはことほどさようにナチュラルなものである、ということです。乱用だとは全然おもわない。そう言って嘆く人もいるし、慣れない使い方に戸惑うきもちもわからないではないけれど、そうなるにはそうなるだけの理由があります。すくなくとも脈絡のない用法が広まることはありません。

変わりゆく言葉への戸惑いはいつの時代にも見られます。100年前の新聞の投書欄にもそんな相談が載っているくらいです。

しかしどう転んでもおかしくない高い柔軟性と可塑性を、そもそもの初めから言葉自体が備えています。言葉とはそういうものです。心がけや考え方が言葉の意味を曲げるのではありません。檻に鍵をかけて閉じこめておけるような類のものではない以上、なぜ逃がしたと騒ぎ立てるのはとんだ筋違いであると、やはり言わねばなりますまい。

では冒頭のやりとりに戻って僕がお店の立場だったらどう対応するかと言えば、やっぱり「何がだこのすっとこどっこい」とどやしつけることになるとおもいます。言葉が常にアップデートされるのはわかるけど、頭のOSがみんな最新だとおもったら大間違いだ。おとといきやがれ!

2015年1月23日金曜日

過去作とのリンクは「リップマン大災害」の他にもいろいろとちりばめられてあること


取扱説明書に書くつもりで当初から心に留めていたはずなのにすっかり忘れて、まあいいやそんなら年末あたりにここでふれようとうっちゃっていたらやっぱり忘れてけっきょく半年がすぎてしまったのだけれど、気づくとまたちょっと世界が広がるとおもうし、「小数点花手鑑」から前作、前々作とさかのぼってくれた方もおられることだし、ふと思い出した今のうちに書き残しておきましょう。

「ダイヤモンド鉱」に出てくる「例の靴」というのは、「手漕ぎボート」に出てくる「角の店でみたカッコいい靴」のことを指しています。「小数点〜」の目次で靴とサイコロがいっしょに描かれているのは、そのためです。




「買っとくといい」と言われて買っておいたこと買ったはいいけどずっと履いてなかったことそしてようやくその靴を履くときが来たという、表立っては描かれていないもたもたした時間の流れが、「ダイヤモンド鉱」には織り込まれているのです。それを踏まえて改めて読み返してみると、単なる慰めや励ましではなくもう少し尻をたたくような調子で描かれていることにも、それなりの理由があるという気がしてきませんか?

「詩人の刻印」

「オーディオビジュアル」

「オーディオビジュアル」の取扱説明書
こちらからお求めいただくとおまけでついてきます)

こうして抜き出すとやたら靴にこだわっているように見えますね。もちろん、世界をつなぐひとつのシンボルとしてちょうどよかったのがたまたまこれだったというだけの話です。成り行きによってはコップとかたわしとか消しゴムになってたかもしれません。まあ、靴でよかったよなとおもう。

これ以外にもこうしたリンクはちょこちょことちりばめてあります。過去作をお持ちの方はお暇なときに照らし合わせてみてね。

初回盤を3枚並べてみたの初めてかも

※「詩人の刻印」と「オーディオビジュアル」はプレスによってパッケージや盤面のデザインが大きく異なります。とくに「詩人の刻印」はブックレットまで一新してしまったため何種類あるのか僕も思い出せないくらいです。

2015年1月20日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その199


ジャンヌ、ダルいってよさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 博士はなにパンが好きですか?えっと、ひもパンとかは無しで。ひとつ。よろしく。


ジャパンだな」
「いきなり切り札で始まった!」
「何だというんだ」
「それはウルトラマンが登場2秒でスペシウム光線を放つようなものですよ」
「放てばいいじゃないか」
「ものごとには順序ってものがあるんです」
「何を言ってるんだかちっともわからん」
「最初はあんパンかな?食パンかな?とかそういうのから始まって……」
「食パンは好かん」
「そういう話じゃありません」
「じゃあどういう話だ」
「それでこう、途中で縞パンをはさんだりして……」
「しまパン?」
「たとえばの話ですよ」
しまじろうのパンツなんぞどうでもいい」
「僕もべつにしまじろうは……え?しまじろう?」
「そんなものを好きかと言われても困る」
「縞パンはしまじろうのパンツじゃないですよ」
「しまさぶろうだったかな」
「いえ、しまじろうで合ってますけど」
「合ってるじゃないか!」
「まちがってるのはそっちじゃありません」
「わかったわかった」
「何がわかったんです?」
「しまじろうなんだろ」
「しまじろうですけど」
「わかっとる!」
「そうじゃないんです」
「イエスと言ったそばからノーを持ち出すな」
「そうじゃなくて、パンツの話なんです」
「パンツなんぞどうでもいい」
「僕だってどうでもいいですよ!」
「お前が言い出したんだろうが!」
「ちがいます、縞パンというのは縞々のパンツのことで……」
「パンツなんぞどうでもいい」
「そういえばそうですね。あれ?」
「パンツ談義に付き合う気はない」
「なんでパンツの話になってるんですか?」
「お前が言い出したんだろうが!」
「へんですね」
「変なのはお前の頭だ」
「あ、そうだそうだ、あのですね……」
「…………」
「お茶をすすりながら遠い目をしないでください」
「もういいじゃないか」
「何がですか」
「縞パンが好きなのはよくわかった」
「そういう話じゃないですよ」
「好きじゃないのか」
「スキかキライかと言われたらスキですけども」
「煮え切らん男だ!」
「紆余曲折あってのカタルシスだと言いたかったんです」
「話をずらすな」
「初めからその話しかしてません」
「パンツの話だったろうが」
「それはもういいんです」
「そうだ、それはもういい」
「切り札を出すタイミングの話なんですよ」
「切り札?」
「今回で言えば『ジャパン』がそれです」
「ああ……」
「何年も前の話みたいな顔しないでください」
「たしかにそんなこともあった」
「最後に切り出せばすごい破壊力だったのに」
「何がだ」
「ジャパンがです」
「日本と言え」
「僕だって好きで言ってるんじゃありません!」
「そう怒るな。冗談だ」
「じょっ……」
「ジャパン人はクールが身上らしいぞ」
「そこは日本人でいいんじゃないですか」
「わかったわかった、煩わしい」
「せっかくいいオチというかカタルシスが……煩わしい!?
「要はこういうことだろ、つまり……」
「いま煩わしいって言いました?」
小腸が6mも7mもあるのは目が覚めるような爽快なお通じのためだと
「え?」
「そういうことだろう」
「お通じ?」
「有り体に言うとうんこだな」
「何の話をしてるんですか?」
「紆余曲折とそれに比例する大きなカタルシスの話だよ」
「パンの話ですよ」
「何だと?」
「パンの話です」
「なら初めからそう言え」
「そう言ってます」
「言ってない」
「言いました」
「聞いてない」
「聞いてくださいよ!」
「聞くに値しないのがわるい」
「だからジャパンが出てきたんじゃないですか」
「はっはっは!」
「何がおかしいんですか」
「パンの話なのにジャパンとは傑作だ」
「博士が言ったんですよ」
「そうとも、だから天才だと言っとるんだ」
「それで話を終えられても困るんです」
「なぜだ」
「なぜって……オチにはなっても答えにはなってないですよ」
「オチになってるならいいじゃないか」
「それを最初に言っちゃうからこんなことになってるんです」
「ああ、出オチか」
「それはちょっと意味がちがいますけど」
「わかったわかった、じゃあアルセーヌ・リュパン」
「え?」
「仕切り直せばいいんだろうが?」
「それはそうなんですけど、そうじゃなくて……」
3世じゃなくて初代のほうだぞ!
「わかってます!」
「わかってるならいい」
「そうじゃなくて、そうじゃないんですよ」
「何がそうじゃないんだ」
「食べるほうのパンなんです」
「じゃあピタパン
「だからちがうんですってば!」
「何がちがうんだ」
「むしったりちぎったりするほうのパンなんです!」
「むしったりちぎったりするほうのパンだろうが」
「本気で言ってるんですか?」
「これ以上どう本気を出せと言うんだ」
「むしったりちぎったりして食べるんですか?」
「むしったりちぎったり具をはさんだりして食う以外に何をするんだ」
「具をはさむ?」
「そのためのパンだろうが」
ピーターパンに?
「お前はバカか?」
「だってピ……あっ」


A: ピタパンです。


質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その200につづく!

2015年1月17日土曜日

もやっとするこのダック・イン・ザ・デイ(近日公開)


うちにはひとつだけ、ぬいぐるみがあります。手のひらサイズの白いアヒルで、おなかを押すと「アフラック……アフラック……アァフラァァァァァァァック!!!!!と鳴くのです。この最後のシャウトがすごい好きで、折々におなかをギュッと押しては枕元で喚かせてたんだけど、ある日とうとううんともすんとも言わなくなりました。何度押しても沈黙したままです。

絶叫しないアヒルなんてただのアヒルじゃないか。

できることなら治したい。しかし企業の販促グッズだけに修理を求めるのはおそらく筋違いです。代わりに新しいのをひとつもらえる可能性もゼロではないかもしれないけれども、そうまでして欲しいかというと全然そんなことはない。たまたまうちにやってきて、おなかを押したらいい声でシャウトするからこれも縁だと迎え入れたのであって、みずから追い求めるほどふわふわした白いアヒルが僕の日々に不可欠なわけでもないのです。いないならいないで一向に問題はない。

しかし現実問題としてここにはアヒルが1羽鎮座しています。そして完全に沈黙してしまった以上は同居する理由もありません。この先あの爽快なシャウトを聞くことができないのなら、どうかしてこの同居を解消する必要があります。僕が無類のアヒル好きだったらよかったのに、なぜこんなことになってしまったんだろう?彼女がうちにやってきたとき、僕は受け入れるべきじゃなかったんだろうか?あるいは受け入れると決めた時点でその先何があろうとすべて受け止める覚悟をしておくべきだったんだろうか?

声を失ったくらいで見限るなんて冷たい、とは僕もおもいます。じっさい、彼女を丸ごと愛することができればこうも苛まれたりはしなかったはずです。彼女に罪はない。責めを負うとすればまずまちがいなく僕ということになりましょう。正当化するつもりはありません。シャウトしない彼女に価値はないと決めつけているも同然なのだから、冷血と罵られるのは承知の上です。そんなつもりはないと弁解したいのは山々だけれど、現に心が彼女から離れてしまっている以上、何の説得力もないことは僕がいちばんよくわかっています。

しかし一方で、みずから望んだわけでもないのになぜ苛まれなくてはいけないのかというきもちも拭うことができないのです。そもそも彼女は人として大事な部分が欠けているとしか言えない僕ではなく、一切合切をそれこそ羽毛のようにやさしく包み込んでくれるべつの誰かを選ぶべきだったのではないのか?果たして本当に僕である必要があったんだろうか?

そんなことはありますまい。僕でなくともよかったはずです。でも彼女はうちに来た。僕は彼女を受け入れた。単なる巡り合わせとしか言えない出会いがここにあり、その結末がハッピーエンドにならないことで苛まれる僕の心中こそ悲劇です。彼女がうちにさえ来なかったらとおもってしまうのは、そんなに身勝手なことだろうか……?

(ナレーション)せめぎあう良心と本音……たしかな充足と同じくらいたしかな喪失……葛藤しつづける男のそばで、彼女はただ沈黙を守る……。引き裂かれた愛と情の狭間で揺れ動く男の痛みと慟哭をリアルに描き、全世界が(欠伸で)涙した不毛のドキュメンタリー「ダック・イン・ザ・デイ」、すったもんだの挙げ句ついに上陸!

うつろな世界にこだまする、魂のシャウトを聴け!


2015年1月14日水曜日

デュシャンの「泉」が男子トイレに帰る日

1917年に発表されたマルセル・デュシャンの「」は、美術界のちゃぶ台を派手にひっくり返した歴史的作品であり、こう言ってよければ世界で一番有名な工業製品のひとつです。何しろどこからどう見てもただの便器だし、実際ただの便器だし、それ自体ある会社の既製品であってデュシャンがこしらえたものでは全然ありません。彼がしたのはこれを会社のショールームで見つけ、小脇に抱えて持ち帰り、すらすらと署名をし、作品としてのタイトルをつけたことくらいです。おまけに署名も架空の人物のものときています。人が鑑賞する作品に知らず求める創造性や独自性を爪のアカほども気に留めずにスルーするこの「泉」が当時どれほど多くの人の目を点にしたか、想像に難くありません。念には念を入れてもういちど申し上げますが、ただの男性用小便器です。100%拒絶するのも、100%賛美するのも、どちらも同じくらいバカバカしい。痛快にしてこれほど雄弁な便器はおそらくこの先二度と現れないだろうとおもう。

photograph by Alfred Stieglitz, 1917

便器を本来あるべき場所と用途から切り離して作品にしたのがデュシャンの「泉」ですが、これと同じ便器を本来あるべき場所と用途に戻した「作品」が東京にあるのをご存知ですか。

牛波(Niu-Bo)/泉水(1993)



東京都板橋区立美術館の男性用トイレにあります。もちろん、ふつうに使用可能です。ちょっと古めかしいだけでただの便器だとわかっていながら、用を足すのになんとなく二の足を踏んでしまうあたり、観念とはまったくおそろしいものだと思わずにはいられません。デュシャンの「泉」は量産された工業製品なのでこれまでにそれこそほいほい複製されたはずですが、その意味をふまえた上でトイレに設置した例って他にもあるんだろうか?

何より粋だと感服するのは、この作品が美術館のフックとして特に前面に打ち出されてはいない点です。じつにさりげなく、というか明らかにひとつだけ骨董みたいな便器があるから扉を開ければいやでも目につくんだけど、逆に言えばもよおさないと気づかないし、当然その性質上、女性は目にすることができません。人の目に触れることを前提にした「作品」なのに鑑賞者の1/2を強制的に排除してしまう奇妙なジレンマもさることながら、これを公立の美術館が施設の一部にしれっと組みこんで多くを語らずにいるというのは、それ自体デュシャンが投じた一石に対するひとつの誠実な返答だとおもうし、おそらくここには見た目以上の大きな意義があります。そしてまたそれゆえにこそ信頼に足る美術館であるとも申せましょう。美術に興味があっておしっこの近い男性諸君はぜひとも板橋区立美術館で小用を足してきていただきたい。かつてない排泄体験にふるえます。ぷるっと。

2015年1月11日日曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その198


初めてお会いした人に「なんかおもってた感じとちがう」と言われました。

「どうちがってたんですか?」
「もっと怖い人だとおもってた」
「怖い……」
「ていうか、奴隷を従えてそうなイメージ?」

僕は昔から第一印象が最悪らしいので、そういう自覚があるには一応あったんだけれど、それにしてもここまで傲慢で専制的な印象を人に与えていたとはこれまでちっとも気づきませなんだ。これから人前に出るときはいっそ全身にモザイクをかけてもらいたい。


アメイジング素通りさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q: 男女間の友情は成立しますか?


いつの世も問われる永遠の命題のひとつですね。

しかし男女と言っても実際のところ、相手が本当に異性であるかどうかというのは互いにすっぽんぽんにならないかぎり、知ることはできません。見た目も名前も異性なのによくよく確かめたら同性だったということだって十分にあり得ます。注意して周りを見渡せば、おじちゃんみたいなおばちゃんやおばちゃんみたいなおじちゃんが割とそこかしこにうろちょろしている様子も見て取れるはずです。

また、仮に異性であることがたしかでも、恋愛対象が同じように異性であるとはかぎりません。男男のときもあれば、女女のときもある。見た目とちがって胸に秘めていたらそれこそ誰にもわかりっこないのだから、そうとは知らずに接しているケースも当然ありましょう。はっきりしているのはせいぜい男女の組み合わせのほうが多いということくらいです。

このふたつの前提を踏まえると、もうひとつ別の疑問が浮かび上がります。ここで言う男女とはいったいどういう意味だろう?性差によって友情の成立が困難になるのだとしたら、その理由は恋心の有無とその介入以外に考えられません。しかし恋心が問題になるのだとしたらそれは男男や女女であっても同じはずです。だとすれば僕には男女にかぎって成立しない可能性があるという話のほうがよほど不自然におもえます。なぜ男男や女女は当然のように友情が成立するようなことになってるんだろう?そこには何か、無意識の固定観念みたいなものが隠れてはいないだろうか?

したがって僕の答えは、そのために根拠を誂えたり実例を持ち出すまでもなく、イエスということになります。


A: もちろんです。


ただ友情の成否を問う時点で、成立はむずかしくなるかもしれません。それはつまり、異性としての認識のほうが大きいということだから。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その199につづく!

2015年1月7日水曜日

安田タイル工業の慰安旅行2014(専務視点)






屋内にあるにもかかわらず、なぜかソーラーパネルがついた自販機







ここで記録係である主任のカメラの充電が切れたため、専務秘蔵の一眼レフがその威力を発揮し始めます。






左の人は人形です



無類の重機好きである専務がこの日最も多くシャッターを切った場所がここ






電話番号が4ケタしかない……


3ケタになった……

道がない





アー写みたい




このあと下見たら6〜7頭いてなんか食ってました



廃線好きの専務が重機エリアの次に多くシャッターを切った場所がここ











JR日光駅(観光の時間はゼロ)


スースーする路線図



後で見ていちばん恥ずかしかった1枚






そして新宿