2021年11月26日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その351


マザー偶数さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)2のことでしょうね、たぶん。


Q. なんとなく寂しくて寂しくて…というとき、どんなことをしますか?


これは僕にとって昔から興味深いものでありつづけている、問題のひとつです。というのも、僕は寂しさに対していささか鈍感で頓着しないところがあるからです。

寂しいという感覚はもちろんわかります。たとえば人がいっぱいいてざわめいているような場で、誰とも会話を交わすことなくぽつんと佇んでいるときに感じるいたたまれなさは、寂しいと言い換えてもいいとおもう。正確には自分が寂しいというより、傍目からは寂しく見えるだろうな、という客観的な意味合いのほうが近いとおもいますが、それほど大きな差はないはずです。個人的には逃避のしようがないこの状況のほうがよっぽどしんどい。

僕はそもそも知っている連絡先が人生の折り返し地点を過ぎた今も紙切れ一枚で済むような、きわめて身軽な男です。友人が少ないと言ってしまえばそれまでのことだけれど、何しろずっとこんな感じなので、しょうがないよな、と大らかに受け止めているところがあります。またその裏を返せば、寂しくない状況をろくすっぽ経験したことがない、とも言えましょう。海底しか知らない深海魚が海底の暗さを訊かれてもピンと来ないのと同じです。

浮気の経験がある人に聞くと、寂しいというキーワードがわりと頻繁に出てきます。これも僕にとっては未だにさっぱりわからない謎のひとつです。寂しさが一時的に紛れるのはわからないでもないけど、一度でも一線を越えれば二度とそのハードルは元に戻らないし、リスクと代償の大きさで言ったら覚せい剤なんかと変わりない気もするのです。その判断と行動が本当に寂しさによるものなのかどうかは当人しか知りようがないのでこうと断じることはできないけれども、少なくともここには、寂しさって何なんだと僕に首を傾げさせる何かがあります。

どうにかしたいと感じる寂しさがあるのだとしたら、それは寂しくない状況を経験していて、そうあるべきと考えているか、少なくともそれを是としているからです。でも世界はとても広いので、全然そうではない人も数えきれないくらい存在します。寂しさを当たり前のことと思わずに、はて、そも寂しさとは何ぞやとこの機会に改めて向き合ってみてもよさそうです。

僕自身はもともと一人志向なところがあるけれど、これはほっといてほしいとか積極的にそう努めているというより、ひとりでも平気というくらいのことにすぎません。また一方で、人とつながっていることはすごくすごく大事だという認識もあります。両極端に走らないこの両刀使いは実際のところかなり有益です。数十年生きてきた経験から、今まさにそのことをしみじみと実感しています。

したがって、定期的に寂しさに苛まれることがあるのだとすれば、まずはひとりで完結できる世界を構築することです。じぶん以外の誰かがいないと成り立たない世界は、それだけである種の強迫観念を生み出します。寂しさを一時的に埋めたり紛らしたりしたところでそれはあくまで対症療法であって根治にはならないし、いずれまた寂しさに苛まれるときが来るでしょう。それならその寂しさをパートナーとして温かく迎え入れるほうがむしろウィン=ウィンである、というのが僕の見解です。

ひとりでいることと、人と交わることを、等価で楽しめるように心がけましょう。と同時に、寂しさが程度の差こそあれ依存の一種であって一定の距離を保つほうがいいことも、胸に留めておきましょう。

あと、寂しさが今ここに影みたいな感じで存在するとして、大豆を煮ながらコトコト沸き立つ鍋を一緒に見つめたりしていると時間があっという間に過ぎていきますね。


A. 大豆を煮ています。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その352につづく! 

2021年11月19日金曜日

あらためて「パン屋再襲撃」のお礼とお詫びと釈明など


そんなわけでデッドストックとして発掘されたミニアルバム「パン屋の1ダース」を少数ですが販売するKBDG秋のパン祭り、もしくはプロデューサーである古川耕言うところの「パン屋再襲撃」(©村上春樹)はぶじ終了いたしました。うまいこと言うなあ……。ご購入いただいた数十名のみなさまには感謝しかありません。ありがとうありがとう。

パッと瞬いてぽとりと落ちる、線香花火のようなひとときを思い返してはしんみりとしております。花火のあとはいつもどこか物寂しい。

そして惜しくも逃されたみなさまには本当に面目ありません…!何しろあれからもう7年も経っているし、サブスク全盛で今や化石となりつつあるコンパクトディスクだけに、希望者にすこしお裾分けできればくらいの気持ちだったのです。だって7年て、古稀が喜寿になっちゃう年月ですよ。

16日(火)正午の販売開始から5分後にはレーベルのボスから完売メールが届きましたが、翌日のアルスクモノイ店頭で入手してくれた方によれば、事前に時計を日本標準時に合わせて正午ちょうどにカートに入れたにもかかわらず、購入完了まで辿り着けなかったといいます。

いったい誰がそんな、ビーチフラッグみたいな争奪を勝ち抜けるというのだろう?おまえまじでふざけんなよそんなの買えるわけないだろうが!と僕も声を大にして言いたい。ここで言うおまえというのはもちろん僕のことですが、ちがうんですすいませんそんなつもりでは全然とひれ伏してドブに頭を突っ込むほかありません。

そしてこう仰りたい気持ちもすごくよくわかります。すなわち、「デッドストックとかケチくさいこと言ってないで1000枚くらいプレスしてたらこんなことにならなかったのに!」と。

しかしそうは問屋が卸してくれません。たとえば50枚に対して70人のウォントがあればそれはもうどうしたって血で血を洗うバトルロワイアルになります。しかし1000枚プレスすれば全員にまちがいなく行き渡る分、当然の帰結として930枚の在庫を抱えることになるのです。

ちょっと想像しづらいとおもいますが、CD930枚というのはその段ボールをベッド代わりにでもしないかぎり、4畳半の部屋ならかなりの部分を占めてしまう物量です。安田タイル工業の専務はかつてレーベル運営も手がける辣腕だったので実際に在庫を机とかベッドにして寝起きしていましたが、どうにかしたくともどうにもならない哀しみは筆舌に尽くし難いものがあります。

1秒を争う争奪戦になるのはさすがに想定していなかったけれども、といってじゃあ、えっめっちゃ人気じゃん再プレスしちゃう????とは全然、まったく、微塵もならない理由が、これでおわかりいただけましょう。

それにこれもすごくすごく重要なことだけれども、もし「パン屋の1ダース」がアルバムと同じくらい良いものなら、まちがいなく5枚目のアルバムになっています。ですよね?そうなっていないということはつまり、そういうことです。価値がないとまではご購入くださったみなさまと全身全霊を捧げた僕自身のために口が裂けても言えないけれども、そういうことです。速攻でメルカリに出品されませんようにと心から祈る今の僕のこの不安に満ちた胸の内を察していただきたい。無精髭に上下たるたるのスウェットで股ぐらをぽりぽりかきながらよたよた歩くしがない中年にすぎない小林大吾がどうという話ではなく、ただ形見みたいな製品の需要と供給に若干の誤差があったというだけなのです。

忘れてよろしい。どうあれ手元がすっからかんになった以上、僕も積極的に忘れていく所存です。なんだか惜しいことをしたような気にはやっぱりちょっとさせられるけれども、実際にはただ1本の儚い線香花火が瞬いて散った、それだけのことにすぎません。

それより僕としては、15年以上の時を経てタケウチカズタケと改めて録り直した「棘/tweezers」こそ現時点で最大のボムです。どれくらいボムかというと、一度完成した音源を聴き直すことがない、というか別に聴きたいと思わないのでまず聴き返さない僕が、生まれて初めて何度も繰り返し聴いてなお飽きないのだから、ただ事ではありません。YouTubeなのか配信なのかまだわからないけれども、これに関しては例のパン屋再襲撃とちがって聴きたいとおもえばいつでも聴ける形になります。なるはずです。

過ぎたパン屋はカラッと忘れて、どうかどうか、次はこれをお待ちあそばせ。

2021年11月12日金曜日

CD「パン屋の1ダース」販売のお知らせ

かつて存在し、今も世界のどこかにあるとまことしやかに伝えられ、都市伝説というか町内伝説というか所帯伝説というか、個人的に語り継いでいたかと言えばそんなこともないCD「パン屋の1ダース」が鬱蒼と生い茂る密林の奥からごく少数発掘され、このたびめでたく販売の運びと相成りました。


販売開始は11月16日(火)の12時、正午です。以下のサイトからご購入いただけます。

小林大吾「パン屋の1ダース」FNSR-015½
¥1,980(税込)+送料
FLY N' SPIN RECORDS


本当に少数なので、お一人様一点限りです。

さらに「小数点花手鑑」の取扱説明書(特装版)がオマケについてきます。というのもここには「パン屋の1ダース」に収録された曲の解説が載っているからです。ページが増えてしまったため、通常版に比べて「安全上のご注意」がやたらと増幅されています。


基本的には上記の通販がメインですが、唯一の例外として知る人ぞ知るイルな古書店「アルスクモノイ」店頭でも5枚限定で販売します。ただし16日(火)は定休日なので、翌17日(水)開店時からの販売です。またこちらは店頭のみで、通販、お取り置きには対応していません。ご注意ください。


念のためご説明申し上げておくと、「パン屋の1ダース」とは、今を遡ること7年前、2014年にリリースされたアルバム「小数点花手鑑」の特装版(500部限定)に同梱されていた、ミニアルバムです。

タイトルは「13」を意味する英語 "baker's dozen" の訳で、収録されている曲数がたまたま13だったという身もふたもない事実に由来しています。

そして今となってはこれも但し書きとして明記しておかねばならない気もしますが、これはCDです。CDというのはコンパクト・ディスク(Compact Disc)の略称であり、専用の機器によって再生される、円盤状のプラスチックでできた記録メディアです。盤面は銀色でキラキラしているため、マンションのベランダでカラス除けとして利用されることがあります。コンポやディスクドライブといったそれ用の機器がないかぎり、再生することはできません。ご注意ください。

特装版について誇らしげに語るつもりがその前に売り切れてしまって途方にくれた当時のブログを再掲しておきましょう。



さて、早まって購入ボタンを押してしまい、届いてからその内容に地団駄を踏んで後悔することがないよう、「パン屋の1ダース」の内容をここに洗いざらい記しておきましょう。

最大の特徴は、「小数点花手鑑」や他のアルバム同様、ブックレットがきちんと作りこまれている、という点です。もともと歌詞カードというよりちいさな書物をイメージした本気の仕様なので、15ページ足らずとはいえ読み応えがあります。仮にプレイヤーをお持ちでなくとも手にする甲斐はある、というのがこしらえた当人である僕の印象です。(※印象には個人差があります)


収録されている楽曲は以下の通りです。

01.  涙ぐむ蛙の三段論法/hop, step & dump
02.  行間1:賢いハンス号/RBTL1:clever Hans
03.  はたらく爆発物処理班/time after time
04.  行間2:赶老羊/RBTL2:Gan Lao Yang
05.  もちろん蚊帳は外のほうが広い/grilled fish in the sky
06.  行間3:百足みたいに多すぎる蛇足に関する補足/RBTL3:it's no use
07.  迂回路ビタースウィート/kidnap service., ltd.
08.  行間4:甘く乱暴なシュガーヒル・ギャング/RBTL4:sweet stuff
09.  コード四〇四/page cannot be found
10.  行間5:何かについて語るときのどこまで語るか問題/RBTL5:it's no use too
11.  アリアドネの糸玉/spin me a yarn
12.  安田タイル工業のかなり重要な会議/tile different
13.  七つ下がり拾遺(タカツキの乳製品リミックス)/synaptic ah-choo (Mr.T's milk products remix))

このうち、「行間」とある5つはインストです。詩はありません。「安田タイル工業のかなり重要な会議」には声が入っていますが、これは単なる会議です。「小数点花手鑑」に収められていたものの長尺版ですが、やっぱり途中でフェイドアウトしています。

したがって、リーディングが含まれているのは7曲です。

涙ぐむ蛙の三段論法/hop, step & dump」と「コード四〇四/page cannot be found」についてはYouTubeでも公開しています。

個人的には「迂回路ビタースウィート/kidnap service., ltd.」が詩としても、またブックレット上のデザインでも好きな一編ですが、なんだかよくわからないにもほどがありすぎるという理由で、あまり公に強調したことはありません。そして今後もないでしょう。


これが本当に最後のデッドストックです。どうかあなたに、届きますように。

2021年11月5日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その350



アリとわりとぎりぎりなキリギリスさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)

Q. 私は、親切な人でありたいと思っているのですが、いまいち親切が何か分かってません。他人からしてもらった親切の中で、ダイゴさんの記憶に残ってるものってどんなものがありますか?


その昔、少年チャンピオンで連載されていた「マカロニほうれん荘」という作品があります。昭和50年代前半に描かれ、当時の子どもたちに核弾頭クラスの衝撃をもたらし、40年以上が流れ去った今もなお全国各地に熱狂的な支持者が多く存在する、伝説的なギャグマンガです。

連載されていたのはたしか、昭和52年から54年までです。たった2年の連載で数十年後も語り継がれているのだから、その影響力がいかに凄まじいものだったか、推して知るべしと言えましょう。

もちろん、僕はリアルタイムの読者ではありません。初めて目にしたのが小学校低学年だったから、連載終了からおそらく5年以上が過ぎています。進んでマンガを読むような親ではなかったし、買ってもらえることもあまりなかったのに、なぜか実家の本棚に1冊だけ、カバーのない「マカロニほうれん荘」の5巻がありました。それがすべての始まりです。ちょうど少年ジャンプでドラゴンボールの連載が始まったくらいの頃ですね。

今とはちがって、連載終了から数年が経過した少年マンガを、小さな町の本屋で手に入れるのは困難です。でもあちこち駆けずり回ってどうにかこうにか手に入れて、お小遣いで一冊ずつ増やして、揃えました。ひょっとすると人生で初めて全巻を揃えたマンガだったかもしれません。まず間違いなく今の僕を形づくったものすごく大きな原材料のひとつであり、死ぬまで手放さないマンガといったらこれと「超人ロック(初期同人誌版含む)」くらいしか思いつかない。それくらい、僕にとっては重要にして不可欠な作品です。

ただ、先にも書いたように、僕は後追いの読者です。リアルタイムでなく、単行本でしかそれを知らないということはつまり、「カラー原稿を単行本の表紙以外で見たことがない」ということでもあります。時代も時代だし、それはもうどうにもならないことなので、あんまり深く考えたことはなかったんだけれど、

注:ここまでが前置きです。

数十年後、夢にまで見たマカロニほうれん荘のカラー原稿を目にする機会がやってきました。それが2018年に東京・中野ブロードウェイで開催された原画展です。

展示期間は2週間くらいで、僕が行ったのは最終日の夕方です。そんなに大事な展示なら初日に行けよとじぶんでもおもうけど、ふだんから情報収集に長けていないのとおそらくは例によってぼんやりしていたのでしょう。どういうわけか観覧無料だったので、チケットが売り切れるとか、そういう心配をしていなかったこともある。ここで悲劇が起こります。

そのときまで僕はまったく知らなかったのです。観覧は無料だけれど、あまりに人気で入場を制限するため、時間帯ごとに区切った整理券が必要になっていたことを。最終日の夕方に観覧するための整理券は昼前に配布が終了していて、何をどうやっても観覧することは不可能でした。(このあと地方を巡回することも知らなかったから、まじで最初で最後だとおもっていた)

このときほど膝から崩れ落ちたことはありません。あまりに呆然としてその場に立ち尽くしてしまい、頭がまっ白で何も考えられなくなって帰るための階段さえまともに降りられなかったくらいです。一歩降りるのに5秒くらいかかってたとおもう。それまで過去に戻りたいと願ったことはなかったけれど、このときだけは本当に時間を巻き戻したいと、生まれて初めて痛感したことをよくおぼえています。だって1日前に来てただけでもぜんぜん話が違ってたはずじゃないか?

そのときひとりの青年が、顔面蒼白で灰になりかけていた僕に近づき、声をかけてくれました。

「あの、整理券余ってるんで……よかったら……」

え……?

何の話をしているのか脳内がフリーズしていてまったくわからず再びその場に立ち尽くします。え、待って待って、この麗しい青年はいったいどなた……?天使……?天使なの……?天使が見えるということは……まさか僕は本当に死にかけてるのではないか……?

だってそんな、もうこれ以上はどうにもならない状況で、唯一の解決策をなぜかたまたま余分に持つ人が通りがかって、見返りを求めることなく譲って去るとか、そんなご都合主義のラブコメみたいな話ある……?そりゃ人目も憚らず号泣しそうになろうというものじゃないですか?

少なくともひとつはっきりしているのは、彼がこのときの僕にとっては天使というか神にも近い存在だったということです。ここで運を使い果たしたと言われても、そうか、じゃしかたないな、と割り切れるくらい、本当に本当にうれしかった。ありがとうありがとう。本当にありがとう。大袈裟でなく、一生忘れません。だってもう、生きてるうちに鴨川つばめ御大の、マカロニほうれん荘のカラー原画を見る機会なんて、来ないかもしれないんだよ!!どうかどうか、僕が今も感じている恩義と同じくらいの幸運が、彼にも雨と降り注ぎますように……!!

あとで聞いた話では、地方から足を運んだにもかかわらず僕と同じような状況で観覧できなかった人がやっぱりいたらしくて、その絶望はもう誰よりよくわかるし、申し訳なさもあって人に話せるようなことではなかったけれど、「記憶に残る親切」で真っ先に思い出されるのがこれです。




さて、感極まって溢れ出した滂沱の涙をぬぐいつつ、質問にもどりましょう。僕の長すぎる話からおわかりいただけるとおもいますが、親切とはそれを受けた人だけがそう感じるものです。親切であろうとすることが、実際に親切であるかどうかは受けた相手にしかわかりません。僕に整理券を譲ってくれた神のように眩しい青年は、数年たった今でも僕がこうして拝んでいることなど想像もしていないでしょう。

そのときできることをする、その結果が親切になるかもというだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもありません。それはつまり、親切という結果を得ようとしない行動こそ親切の種である、ということでもあります。なんとなれば、大きなお世話にしかならないケースもままあるからです。

そうありたい、と願うきもちはすごくよくわかります。そう心がけつつ生きるだけで、きっと僕のように一生忘れない恩義を抱く人がいるはずです。


A. 灰になりかけたところを救ってもらったことがあります。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その351につづく!