2011年11月28日月曜日

「ゆるせない」という心のありようのこと



その関係が直接的であれ間接的であれ、明らかに罪だとおもわれることが目の前にあり、しかも自分の力ではそれ以上どうにもしようがないというようなとき、「ゆるせない」と人は言うのです。

僕が年をとったから目につくだけなのか、あるいは実際にそういう例が増えているのか、それはわからないけれど、わりとしょっちゅうその一言を目にしたり耳にすることが増えました。

腹に据えかねて地団駄を踏むことは、日々においていくらでもあります。相対する罪(と思われるもの)が大きければ大きいほど、内なる感情が激しさを増すのは当然です。かく言う僕もどちらかといえば些細なことにもいちいちブーブー心のクラクションを鳴らすほうなので、不条理や理不尽に対して抗うことそのものに異論はありません。黙れば自動的にそれらを受け入れることにもなるし、健全な社会と心の平穏を保つためにも毅然たる意志表明や発散は必要です。気に食わない上役を「ハゲ」と罵って何の不都合がありましょう。本人のいないところで大いに気勢を上げたらよろしい。そういうことなら僕も拡声器で参加して盛大にブーブー合唱したい。

僕が気になっているのは、これ以上どうにもならないと思われるところで結論として導きだされる「ゆるせない」という心のありようです。ゆるすこと能わず(=不可能)と明言しているのだから、これくらい突き放した激烈な感情表現はちょっと他にない。ですよね?おまけにすべてがそこでパタンと完結しています。だからどうという連結ではなく、むしろきっぱりとした訣別表明です。天岩戸が閉じるのに似ている。

具体的な例を挙げることは憚るけれど、僕だってある種の被害を被ったら素直にゆるせる自信はありません。こんなふうに訥々と話していながら、じっさいには復讐の鬼と化す可能性も十分に…というかすごくある。しかしだからこそそんな未来のじぶんにブレーキをかけるためにも、ここできちんと考えておきたいのです。「ゆるせない」から何なのか?

それは解きほぐせば「仮にゆるしたいというきもちがあったとしても、ムリ」ということです。もう一歩踏みこんで意訳するなら「わたしの溜飲が下がらないかぎり、あなたを永劫お怨み申し上げます」という物言いに近いものがあります。言うなればネガティブな結果に対してネガティブな見解で応酬しているのです。でも、そんな不毛なやりとりってあるだろうか?控えめにみても健全とはちょっと言いがたいし、こどもたちに胸を張れるような態度でもない。仮に正義感から出た言葉だとしても、明らかに用いかたをとりちがえている。プラスに作用しないものなら、正義に何の意味がありましょう。

目には目を、歯には歯を、ネガティブにはネガティブを、憎しみには憎しみを…ぜんぶいっしょじゃないか、そりゃ平和なんか望むべくもないよな、とこどもが肩をすくめたら、僕らはダブルスタンダードを用いることなく誠実に話すことができるだろうか?

ポジティブであれ、と言いたいわけではありません。また、ネガティブなきもちを持つなということでもありません。先にも書いたように、僕だってある種の状況下にあれば自制できる自信はない。気の済むまで罵りたいし、毒づきたいし、怨むことになってもしかたないよなとおもう。ただそれを外に向かって、さも健全なことででもあるかのように発信する意味がどれほどあるのかということを問いたいのです。

そもそもゆるすゆるさないという感情的天秤に問題を乗せた時点で、焦点を罪(客観)から怨み(主観)に移し替えてしまっているとなぜ気づかないのか?もちろん、いろいろな状況からシンプルに罪を罰することができない(=どうにもならない)からこういう話になるんだけど、だからといって「じゃあ怨みつらみに焦点を切り替えましょう」というのはどう考えてもお門違いです。それはどこまでもその人の問題であって、わざわざ対外的に表明するようなことではまったくない。

決して美しいとは言いがたい感情を持ちつづけますと宣言した人に、僕らはどう向き合ったらよいのだろう?できればそういうきもちは水に流してほしいとおもうけど、流せないと言われたらそれまでだし、一方で流せないきもちもすごくよくわかるし、だとするとみんなが負のスパイラルに陥ってかなしいおもいをいつまでも抱えこむことになるだけです。いったい誰がそれを望んだのか?いつの間にこんなことになってしまったんだ?

信念をもって怒れる人は「そんなつもりはない」と言うかもしれません。そうでしょうとも、と僕もおもう。だからこそ、他にもっと言いようがありそうなものなのに、そのへんのことを考えることなく、わりと安易に「ゆるせない」と公言する大人の多さに辟易しているのです。少なくとも大真面目な顔をして言うことじゃないとおもうし、それに対して「そうですよね」とわかったような顔で頷く人には何をか言わんやです。

大きな争いのちいさなはじまりは、いつだってこういう目立たないところにさりげなく芽吹いている…とはおもわないんだろうか?スケールがあまりにも日常的で、誰も?

2011年11月22日火曜日

竪穴式住居とヴィクトリア女王の間にあるもの



ある日の午後、晴れ渡る青空の下で築100年と言われても頷ける朽ち果てた木造のボロアパートから、ものすごい美女が出てきたときの衝撃といったらないのです。

 うっかり寄りかかったらガシャガシャペタンと崩れて薪の山になりかねない老朽ぶりとはいえ、今なお現役の住宅なのだからどんな人が住んでたってよさそうなものではあるけれど、でもたとえばですよ、豪奢な衣装に身を包んだ若きヴィクトリア女王が野趣あふれる竪穴式住居からいそいそと外出するところを目撃したと想像してごらんなさい。気取りのなさを通り越した得も言われぬギャップには、ヒョウタンから馬が飛び出すよりもはるかに深く大きな感動があります。忘れることはできません。小さくなりゆく後ろ姿を眺めながら、立ちすくんで去りがたい。何だかいいものを見たような気がするし、見てはいけないものをみてしまったようなバツのわるい心地もする。こうしてゆくりなく胸に突き刺さった恋の矢が、いったい誰に引き抜けましょう?いいえ、断じて能わざることであると宣言せずにはいられません。ことによるとガラスの靴が落ちてるような気さえして、ひとしきり辺りを見渡すありさまです。このシンデレラめ!

とは言うものの、じっさいのところ僕も思春期を通過してだいぶたつそれなりの年ごろなので、ソワソワした心の始末に困ることもなく、今みた光景の一部始終をいつからか貯め始めた眼福コレクションにポイと仕舞ってスマートに片をつける祝日前夜です。明日の法事に今から気が重たい。


ちなみにミス・スパンコールが手に入れた最新の眼福コレクションは

日付が変わろうとしている夜の地下道に3人の若者(男2、女1)がいて、そのうちのひとり(男)が「ごめん、じつはオレ終電がもうすぐなんだ!」と申し訳なさそうに駆け出したとおもったら、残りのふたりも「なんだよ、早く言えよ!」と言いつついっしょになって駆け出した。

というものです。ふむ…どこにでも転がっていそうな話ですね?じっさいありふれていると言ってもよろしい。でももしこういう細かなところに眼福を見いだすことができたら、それだけで日々はちょっとだけカラフルになると僕はいつもおもうのです。


この話の要点を書き出してみましょう。

1)先に駆け出した彼はどうやらひとりだけ電車がちがうらしい
2)とつぜん駆け出したということは、それまで言い出せずにいたようだ
3)言い出せなかったというだけで何となく彼の温かい人柄がうかがえる
4)電車がちがうということは、のこりのふたりは走らなくてもいいはず
5)にもかかわらずいっしょになって駆け出している
6)何のために?
7)もちろん友情のために。
8)3人の関係性が甘酸っぱくてかわいい


ね。ちょっとだけカラフルになった気がしてくるでしょ。ニュースになるようなただひとつの例外ではなく、むしろどこにでもあって誰にでもおぼえのありそうなごくごくありふれた話だとおもえばこそです。見すごさないようにしたいとおもう。

一方ではそのために「だから何?」と日々言われつづけてるんだけど。

伝わりづらい…?


2011年11月16日水曜日

それは雨と降り山と積もる枯れ葉のように



何の変哲もない接着剤の注意書き。






値段の高いものは化学的にくっつかないらしい。





掃いても掃いても翌朝にはまた山と降り積もる秋の落ち葉のようなお色気スパムなんかに、いちいちかまってられるかとはもちろんおもいます。じぶんの庭にだけならともかく、電脳世界に郵便受けを設置すればどのみちもれなくセットでついてくるのだし、受けとる人の貴賤を区別しないその分け隔てなさといったらまるで聖母のごとしです。平等にもほどがある。

奇妙な差出人やあざとい件名の揚げ足をとっていたらそれこそキリがありません。相手にするほどヒマじゃないと言い切るほど忙しくもないけれど、どいつもこいつも同じ目に遭っていることをおもえば、ギャースカ騒ぎ立てるのも詮無いことです。口にすればその時点で杯を受けたことにもなる。知らんぷりがよろしい。誰だってそうしています。その木がいかに立派に見えようと、また「エロミク申請」ということばの甘い語感に灰色の脳細胞(@ポアロ)を刺激されようと、落ち葉はただ黙ってもくもくと掃きつづける他ないのです。

にもかかわらず、中にはもうかれこれずいぶん長いこと同じ名前で、未だに毎日必ず1通は届くものがあったりするから、こういうのはだんだん健気に思えてきて困ります。情が移るというか、「おっ今日も来たな。コイツめ」という感じで何となく憎めないようなきもちになってくる。届いたメールを開きさえしなければそうそう害もなかろうし、そうなると却って無碍にもしづらい。1週間くらい間が空いた日には、「アラやだ経子ちゃんたらご無沙汰もいいとこじゃないの!」という具合にうっかり歓迎して座敷へ招き入れかねない勢いです。バカバカしいと心得つつも払い除けきれないのだから、そんな心の弱さには申し開きもままなりません。不甲斐ないとおもう。

いったい彼女はどこからやって来て、どこへ去り行くのか?10年後には世界から完全に姿を消しているだろうか?あるいはだだっ広い電脳世界のどこかでいつまでもぷかぷかと漂いつづけるんだろうか?またなぜ差出人にその名が選ばれたのか?(偽りに満ちたスパムのこういう恣意的な部分にこそ、偽りなき心理の一片がポロリと紛れこんでいたりするのです)


あっ


(「キリがない」とじぶんで釘を刺しておきながら、その釘をみずからスポンと抜いてしまったことに顔を赤らめています)


お色気スパムのキョウコさんは軽い世間話のつもりで本題はもっと別のところにあったのに、もうバカバカバカ!


という見慣れた反省ポーズも今やちょっとした一芸の域に達しつつある今日このごろです。そばで万事OK(という名の閑古鳥)が翼でお腹を抱えるようにして笑い転げています。ええい、口おしい。


2011年11月11日金曜日

万事OKと名づけた閑古鳥を飼うことについて


 画:ミス・スパンコール

そういうわけでこないだから閑古鳥を1羽飼いはじめたのです。その存在からしてそもそも忌々しいので、腹いせみたいに「万事OK(Tout-Va-Bien)」と名前をつけたら、これがなかなか具合良く、却って功を奏しています。精神衛生上もたいへんよろしい。鳥ごときにおかげさまでと頭を垂れるのはなるべく避けたいとはおもうものの、暮らしは今日もそれなりに平穏です。すくなくとも、ホウレン草のごま和えにおける「ごまと砂糖と醤油の黄金比」について頭をなやませるくらいに平穏ではある。それくらいしか考えることがないとするどく指摘するような野暮はいけません。僕だって11年11月11日を100年に1度の記念日にしようというきもちがないではなかったけれど、夜更けになんなんとしている今ごろになってそんなこと言ってもどうにもならないとおもう。だいたい、過去に一度だけとはいえ、じぶんの誕生日を忘れ(て2日後に気づい)たことのある僕が記念日をどうこうするのは理屈に合わない。

そういえばきのう通りがかった池袋北口のパチンコ屋には「明日は混雑が予想されるので、早めに開店します」と貼り紙がしてあって、ハテ何のことだろうと首をかしげていたのです。もっと早く気づいていたらその剣呑ぶりを見物できたのに、惜しいことをした。


前回書いたたいへん困った状況も、今日の夕方になって奇跡のような信じがたいリカバリーを果たし、「最悪」から「ちょいワル」に格上げされたため、個人的な破綻をかろうじて免れることができました。こうしてキーをぽちぽちと叩くことができているのもそのためです。「ここが底辺なんだからこれ以上は落ちようがない」と安心しきっていたところへ突然「負の数もまた正の数と同じく無限である」という救いのない数学的事実を突きつけられて打ちのめされそうになっていたから、素直によろこばしい。「万事OK」(という名の閑古鳥)も、まるでそれがじぶんの手柄であったかのように得意そうな顔をしています。そう言われるとそんな気もしてくるし、却ってなおのこと忌々しいような気もする。このトリ風情が、とののしりながら夕餉のごま和えを分けてやる、つめたい雨の金曜日です。じっとしているとひどくさむい。パチンコ屋は雨でも熱気にあふれてたんだろうか?蒸発して湯気がたちこめるくらいに?

「万事OK」については、他にもまだ書くことがありそうです。こいつがまた何かにつけて、お腹を翼で抱えるようにしてゲラゲラとよく笑う腹立たしいたちの鳥なんだけれど、書きだしたら長くなりそうだし、今日のところは鼻ちょうちんで寝てしまおうとおもう。





おまけ :

その1
 

くちばしの下に口を描いて「何かがおかしい…」と首をひねるミス・スパンコール


その2

首をひねりながらも再びくちばしの下に口を描くミス・スパンコール

2011年11月8日火曜日

幽霊は人口にきちんと比例して増えているのか?



たいへん困ったことになったのだけれど、そうかといって困りすぎるのも困りものなので、とりあえずオリンパスみたいに問題を先送りにしておこうとおもうのです。悔やんでも悔やみきれないなら悔やんでも仕方がありません。だって悔やみきれないんだから。かんでもかんでも垂れつづける鼻水は栓をするのがいちばんよろしい。

取り戻すより挽回することを考えようとおもうけれど、しかしこういうときにかぶる布団はどうしてこうも温かいんだろう!


 *


何だか知らないうちに地球に暮らすヒトの数が70億をこえたらしくて、そう言われても数が極大すぎていまいちピンとこないまま、ピンとこないなりに得心したような顔をしながら「ヘー」と驚いているのです。そんなにいたって仕方ないともおもうけれど、じゃあといって一度始めたことをなかったことにするわけにもいかないし、明るい家族計画的であろうとなかろうと、この世にコロンとまろび出てしまった僕らとしては、ことの成り行きをバナナでも食べながらしずかに見守るほかありません。つい200年前くらいまではたしか10億に満たなかったはずなのに、いったんはずみがつくと今度は歯止めがきかないらしい。

 しかしこれだけ増えても床が抜けないんだから、地球というのはよくよく頑丈にできているものだとおもう。



 かねてからなんとなく疑問におもっていることがあって、ヒトが増えたり減ったりという地球人口の話になると、決まってそれをおもいだします。最後にこのことを思い出したのはたしか90年代だったとおもうけれど、宇宙のはしっこに何があるのかを考えるのにも似た埒のない疑問なので、気づけばだいたい忘れているのです。


 疑問:幽霊は人口にきちんと比例して増えているのか?


 僕はおばけとか宇宙人を鼻で笑えるほど現実主義者ではありません。そもそもじぶんの実感する世界をそれほど確かだとは考えていないのです。姿が見えないからと言って、人や獣や虫のとなりにそれ以外の席が用意されていないことにはならない。ですよね?

雪男的生き物を指すイエティという名が世界に知られるようになってから半世紀がたつ今年は、そのありやなしやを真剣にああでもないこうでもないと議論する国際会議がロシアでひらかれたそうだけれど、ひとにぎりの体毛や足跡をうっかりのこしてしまっただけでも彼らからしてみれば大きな手抜かりなのに、これ以上むやみな家宅捜索をつづけられたらそれまでの安穏とした暮らしが不要に脅かされることになるのではなかろうかと、むしろそっちが気になってしかたないのです。いるいないが問題になるのなら、神様を探すほうがよほど人々のためになりそうなものだという気もするし、だいたいなぜわざわざ標高5000メートルの雪山で危険をおかしてまで彼らの暮らしを暴かなければならないのか、ちっとも理解できない。イエティにはイエティの日々があると、慮れない理由がどこにありましょう?

幽霊もあんまりこわいのは困るけれど、いるならいるでしかたがないとおもう。だいたい気のせいだと躍起になって否定したところで、それはこちらの問題であって幽霊の問題ではありません。いるとなったら、こちらの思惑などおかまいなしに依然としていつづけることは必定です。そうなるともう、何のために幽霊を認めないのかもよくわからなくなってくる。僕が願うのは、暮らしをおびやかさないでほしいというただその1点のみです。透けたりするのはちょっと…とおもうけど、人の話を聞くとどうも「シースルーがデフォルト」というわけではないようだから、その点はよしとしましょう。気さくなやつなら昼間に出てきてもかまわない。

そういうわけで、彼らの市民権については僕のなかで折り合いがついています。共存共栄の精神をもって、未来なき幽霊の辞書に「栄」という字があるかはわからないけれど、今後もこの良好な関係を保つにやぶさかではありません。

ところでここでは便宜上、市民権ということばを使ったけれど、そうなると問題になってくるのはその人口です。地球において実体をもつ人口が70億をこえているとすると、これまで生きて今は実体をもたない人々の数というのは、ちょっと考えただけでも頭がくらくらするようなことになっているのではありますまいか。

右をむいても左をむいてもうらめしいとなれば、おちおちご飯をかきこむこともできません。いくら目には見えないからといって、そんな無尽蔵にうようよされても困ります。ひょっとして山の頂上で深呼吸をしたら幽霊のひとりやふたり、素麺みたいにつるっと吸いこんでるかもしれないし、じぶんしかいないと思っていた部屋ではやんややんやの大宴会が無音で今まさに催されているかもしれないのです。共存の前提を今一度、根底から考え直してみる必要があるのだとしたらどうだろう?見えないというのは見えていても気づかないことと実質的には同じであることを考慮に入れるべきなのではないか?というのはつまり…AKBは本当に48人いるのか?サンシャイン60は本当に60階建てなのか?ウルトラマン80の「80」はひょっとして見えない79人を足した数なのではないか?KGBAK47は本当にアイドルグループではないのか?

しかし…


ズズー


(お茶をのんでいます)


実際のところ、そういう話は聞きません。怪談が今よりもはるかに幅を利かせていた時代とくらべて、幽霊がふえたといういささかの印象もなければ、増えつづける人口のために閻魔さまが腰をわるくしたり、過労で入院してナースにいたずら、といった噂も聞きません。

シンプルに考えてみても、これはちょっと妙なことです。べつに閻魔さまがナースにいたずらすべきだと主張したいわけではないけれど、そうあってもふしぎはないくらい人はふえているのに、幽霊が急激に増えたりはしていないらしい。なぜ幽霊は目に見えて増えないのか?いえ、じっさい見えないけどもこの場合はそういう意味ではなく、程度をあらわす慣用句であって幽霊の視認は問題で、いえこの場合のシニンももちろん死人ではなくて目で認めるという意味の漢語であって、えーと、困ったな。収拾がつかない。


まあどのみち明日には忘れているのです。

現世における幽霊の数には、ディズニーランドみたいに入場制限とか抽選があるのだとおもうことにしたい。

2011年11月5日土曜日

なまいきなメタ靴下をベランダで一喝すること


片方の靴下がないないとおもっていたら、別の靴下の爪先あたりにすっぽりと収まっていたのです。重ねて履いたわけでもないのに、何をどうしたらそんなことになるのかさっぱりわからない。言うなれば靴下の中の靴下、つまりメタ靴下です(靴下でできた靴下はフラクタル靴下と呼びます)。英語で言うと「sock in sock」であって、たとえば「王の中の王」というような「No.1」を意味する「the sock of socks」ではありません。ただ中にすっぽり入って丸まっているだけです。みの虫じゃあるまいし!

靴下が靴下を履くなんて、といまいましい思いをこねくり回すうちにふと気づいたけれど、それ自体が一部ではなく完全に包まれることを考えたら、むしろ「着る」と言わなければいけないようにもおもわれます。仮にじぶんの体よりもはるかに大きい靴下があって、布団のごとく潜りこむとするなら、控えめにみてもそれはもはや「履く」とは言えません。あんまり大きすぎると「着る」も通用しなくなる気がするけれど、密着するくらいギリギリの空間なら、やはり「着る」があたっているとおもう。いずれにしても「履く」ではないことだけはたしかです。

本来足に装着すべきものが、その本分を棚に上げて「着る」とはまったく、畏れ多いにもほどがある。控えろ控えろ!そして脱げ!脱ぐという行為もまたそもそも主人たる僕の特権であって、従僕たるおまえにゆるされることでは全然ないと腹の底から心得ろ!


それはさておき



ここではすっかりお馴染みとなったTBSラジオの妄想洋楽プログラム、「高橋芳朗 HAPPY SAD 」ですが、いつの間にかその番宣フライヤーにちょっと大きめのサイズができてました。(一部手ちがいで別のものが写っています)

とにかく多くの人がうっかり手にしてしまうことを前提としているため裏面がモノクロになるいっぽう、サイズが大きくなったぶん情報量がいくらか増えて(主にタワーレコードとのコラボレーション関連)、意匠もがらりと変わりました。(一部手ちがいで別のものが写っています)

また、番組ではこのフライヤーを置いてくださるお店をただいま大々的に募集しております。AKBのそれとはちがう何らかの総選挙に立候補したかのような草の根広報戦略です。パーソナリティのおふたりにいたっては、とある大学の文化祭にまで足を運んで広報活動をしてきたらしい。こうして蒔いた種が実を結び、蕾となり、花と咲いて満開になる春も近うございます。

単位は100枚からだそうですが、フライヤーがなじむような空間であればお店でなくてもかまいません。happysad@tbs.co.jp まで、よろしければご連絡くださいませ。





そして諸君、よろしいか、レコード会社の思惑がいっさい関わらないガチンコ選曲(ここ重要)と、それに起因するMr. ジュークボックスの一匹狼的な、あるいはきわめてロンリーな立ち位置が却って音楽のよろこびを純度100%で伝えてくれる、この甘酸っぱくも比類なき洋楽番組をゆめゆめ聴きのがすことなかれ!ひいては僕が得をすることになるのです!



大見得きったら口がすべった。

2011年11月2日水曜日

110番街交差点で角川文庫を読むボビー・W


<前回までのあらすじ>
ソウルとファンクとレアグルーヴが好きならみんな知ってる極上にして漆黒のサウンドトラック "Across 110th Street" 、一方で本体である肝心の映画についてはほとんどの人が気にしていません。LPを持ってる人でさえほぼ例外なく「知らない」と首を横に振るはずです。封切りから40年後の現在において "Across 110th Street" といったらそれはまっすぐ主題歌か、あるいLPのタイトルを指しているのであり、映画それ自体はどこか歴史のすみっこに置き去られています。DVDがあれば観てみたいような気もするけど、観ないからといって何かに欠けるわけでなし…


とまあそんな感じのお話だったのですが、

まさか文庫で邦訳が、しかも角川から出ていたとはまったく思いもよらなんだ



ブラックスプロイテーションと高を括ってうっかり早合点していた。ノベライズではなく、原作となる小説が先にあったのです。主演がアンソニー・クインという時点で通常のブラックスプロイテーションとはいささか立ち位置が異なることに気づいても良さそうなものだけれど、何しろ




ちっちゃくて気づきませんでした。主役のはずがまるで集合写真の欠席者扱いです。慎ましいにもほどがある。


聞けばそもそもこの小説の映画化をつよく望んで自ら製作に携わったのが彼だというじゃありませんか。色眼鏡がパリンと音を立てて割れるような思いです。先入観ほんとヨクナイ!

そしてそれは、裏を返せば「映画化がつよく望まれるような小説だった」ということでもあります。「110番街交差点」という作品はこの時点ですでにひとつのお墨付きを与えられていたのです。であれば角川から翻訳が出されていても一向にふしぎはありません。げにおそろしきは無知と蒙昧である、という思いがむくむくと頭をもたげてきてちぢこまるわたくし。

実際あとがきには「本書がたんなる、犯罪シンジケート"マフィア"の内幕暴露や、その内部抗争をえがいたギャング小説の域にとどまらず、『第一級の警察小説』としてニューヨーク・タイムズ紙で絶賛された」とあります。

いやまったく、その言にたがわず、濃密なプロットを脂ぎった情景描写で彩るじつに硬派な小説であったと、読後のぐったりしたきもちを思い返してしみじみ告白せねばなりますまい。汗をかく描写がやたらと多くて、しかもいやに力がこもっているものだから、読んでるこっちの額にまでじっとりと汗が浮かんでくる始末です。やりきれなさが先に立つ苦い結末もふくめて、「ハード」の3文字がいちばんしっくりきます。「110th Street」が何の境界線で、それをまたぐことが何を意味しているのか、考えさせられることが多すぎて、娯楽の「ご」の字もありゃしない。フーやれやれと文庫を閉じるころにはボビー・ウーマックのことなんてすっかり忘れていた。こうなると是が非でも映画を観なくてはなるまいとおもうけど…とおもったらちゃんとDVD化されてました。今まで訳知り顔で話してきたことはいったい何だったんだ。


でもこの作品の場合は、原作を読んでいるのとそうでないのとで色眼鏡の割れ方がちがってくるような気がしないでもありません。だって刺激的な映像とクールな音楽があったらそれだけで満足しちゃう可能性はじゅうぶんあるし、何も考えずに「イヤッホウ!ブラックスプロイテーションさいこう!」とか普通に言い出しかねない。それはそれで全然かまわないですけど。


それに、翻訳されてるってやっぱりちょっとしたことだと言いたい気持ちもあるのです。こんなものまで…と思わずにはいられないですよ、今からすればそりゃどうしたって!「DJ御用達」と書かれた扉から長い階段を地下に降りていくとやがて辿り着くのが「第一級の警察小説」なんだから、誰だって面食らうのが当たり前です。文化の根っこは思いもよらないところに伸びているとつくづく感心してしまう。それまで親しんでいたものが何かの拍子にぜんぜん別の顔でヒョイと現れるふしぎも、なかなか言葉にしづらいものがあります。





それはそうと、「Across 110th Street」という原題を直訳したら決してそうはならないのに、舞台となるエリアを指して「110番街」、種々の思惑が縦横に交錯する地点という意味で「交差点」としたのはさりげない和訳の妙だとおもいませんか。語呂もいいし。