2021年12月31日金曜日

2年をへた今、かすかに鳴り響く心のアラート


失われた、と彼らは言うのです。

それまで何ひとつ制約を受けなかった在りし日の日常に思いを馳せながら、本来なら得ていたはずの大小さまざまな機会とその尊さを噛みしめます。いずれ収束したら、とすこし先の未来を思い描くこともあるし、ホントそうだよねと頷くほかありません。

2年もたってまだ現在進行形だなんて想像もできなかったこともあるけれど、いっぽうで僕としてはもうこれ以上、何かを取り戻そうとするような向き合い方をしたくない、という気持ちが日に日に強まっています。あるものを大事にするならともかく、ないものをあったと仮定して惜しむその先に何があるのか、以前とは明確に異なっていて思うようにいかない日々を、否定するのにいいかげんうんざりしつつあるのです。

人生の半ばを過ぎてもいまだに地に足のつかない暮らしをしていることもあって、もしあれもこれもなかったらと想像することが今もよくあります。屋根がなかったらとか、ただでさえ少ない友人がいなくなったらとか、本当に文無しになったらとか、記憶がなくなったらとか、運がなかったらとか、今ほど健康でなかったらとか、たとえばそういうことです。ただどれだけ考えても、常に答えはそうなったらそうなったで生きていくしかないの一択しかありません。そしてまだそうなっていないのだとしたら、むしろその恩恵をしみじみ噛みしめたいのです。誰もが共感する大多数の印象は、そうでない人を不可視にしてしまうことも、忘れたくない。たぶん、「多数による当たり前」に対して心のアラートが鳴っているんだとおもう。

だからこそ、じぶんはどうだろう、まだなんとかなってる、明日はわからないけど、ひとまずそれはいい、よし、ふうー、と大きく息をついて、面を上げて、また明日への一歩を昨日と同じように踏み出したいのです。

それらを踏まえた座右の銘として、心の壁面にはいつでも「Peanuts」におけるスヌーピーの一言がチョークで大きく書きつけてあります。

“YOU PLAY WITH THE CARDS YOU’RE DEALT..” (配られた手札で勝負するしかないんだ)


そうしてどうにかこうにか、今年も大晦日を迎えています。何しろこんな日々なので、振り返るほどのトピックはありません。何か忘れていることがあったかもしれないと一縷の望みを抱いてブログを遡ってみたけれど、1月から10月までパンドラ的質問箱だけがずらずらと並んでいて目ん玉飛び出ました。え、もっと何かないの?いやあるでしょひとつふたつ何かしら、ないの?まじで?10ヶ月もいったい何をしていたの……?

なので挙げられることと言ったらつい先日7年越しに実施された「パン屋再襲撃」と、あとは安田タイル工業の本社ビルが破壊されたこと、並びに弊社の専務が留置場にぶち込まれてこないだ出所したことくらいですね。

改めて、「パン屋の1ダース」に興味を持ってくれたみなさま、本当にありがとう!ちょっとした思いつきで、そういえばまだちょっとだけ残ってた気がするな、と思ったらホントにちょっとだったけど、でもせっかくあるならと久しぶりにレーベルのボスと相談して、ひとつ残らず送り出せたことには感謝しかありません。さすがにあんなことになるとは思いもよらなかったので周章狼狽しきりではあったものの、これもひとえに今もお付き合いくださるみなさまのおかげです。ありがとうありがとうありがとう。


来年はおそらく、今やすっかり雲の上の人になってしまったタケウチカズタケ御大がどう考えても多忙すぎる日々の隙を縫いつつ丹精こめてリメイク(!)してくれた、またそれに伴ってリーディングも新たに録り直したいくつかの楽曲群が形になる…はずです。なるといいな。なりますように。カズタケさんから声をかけてくれたことが本当にうれしくて、新しい作品も生まれたらとか、珍しくそんな気持ちになっています。なぜ恋に落ちないのかと他人事のように首をかしげるばかりです。

さて、長くなりました。ついさっきまで年賀状キャンペーンにひとりどたばたやらかしていて、大晦日なのにおごそかもへったくれもありません。15年以上寄り添ってくれている古参のみなさま、今年初めて出会ってくれたみなさま、新年もこんな調子です。また引きつづき、と言っても特に得るものはありませんが、どのみち昔からそうなのであまりお気になさらず、ひとつよしなにお付き合いくださいませ。

よいお年を!今年もありがとう!

2021年12月25日土曜日

トラバター、12年ぶりに大幅リニューアルのお知らせ

お客様各位

製品リニューアルのご案内


平素は格別のお引き立てをたまわり、厚くお礼申し上げます。

香り高くもコクのあるなめらかな舌ざわりがホットケーキにぴったりと、創業から今年で122年をむかえる今なお絶賛の声を数多く頂戴します弊社トラバターも、世界各地における野生トラ(とりわけアムールトラ)の激減とその保護に伴い、近年はごく少量の生産とさせていただいておりました。

2010年

しかし十年一昔と申しますように、ここ数年で一気に社会的認知が高まり、今やその4文字を目にしない日はないSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の影響は何にも増して大きく、弊社としてもこのまま世界各地の希少なトラを原料にバターの製造を継続してよいのか、そもそもなぜよりによってトラなのか、というかこれは本当にバターだったのか、主力にして唯一でもある製品の存在意義を根本から揺るがす時代の到来に、新たなブランディングの必要性を痛感いたしました。

そこで改めて原点に立ち返り、未来を見据えた次世代のトラバターの開発に着手、日夜研鑽を重ねてまいりました結果、このたびトラがなくともトラたりうるまったく新しいトラバターとしてパッケージも刷新、大幅にリニューアルをさせていただくことになりましたので、ご案内いたします。

2022年

原料にトラを一切使用しない100%トラフリーでありながら、これまでの躍動感あふれる活き活きとした風味やごく少量の生産といった特徴はそのままに、むしろ野生のトラよりもずっとトラらしい味わいを実現いたしました。時代の趨勢にも沿う逸品です。

お客様には諸事情ご賢察の上ご理解を賜りたく、また今後もより一層の品質向上に努めてまいりますので、引き続きご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

敬具


※従来品からの変更点にご注意ください。
1. トラ成分は含まれておりません。
2. 前を向いて生きるために、在りし日の思い出を除去。
3. 内容量が12年前に比べて12oz(340g)増量となっております。
切替時期:2021年12月より順次



ご希望のかたは件名に「SDGs対応の次世代トラバター」と記入し、

1. 氏名
2. 住所
3. わりとどうでもいい質問をひとつ

上記の3点をもれなくお書き添えの上、dr.moulegmail.com(*を@に替えてね)までメールでご応募ください。

締め切りは12月29日水曜日です。

以前はどこからも応募がないことを見越して年明け3日くらいまではそわそわとお待ちしていましたが、よく考えたらそれはバレンタインデー後も来ないチョコを待ちつづけるのと同じだったので、もうやりません。29日といったら29日です。

応募多数の場合は抽選となります。かれこれ15年くらいこのキャンペーンを続けていますが、未だかつて一度も当たったことがないのは肝心の住所が記されていなかった人くらいの応募率なので、心配は無用です。あえて抽選と釘を刺すことで応募が殺到するかのような印象をでっちあげる立つ瀬のなさを察しつつ、ふるってご応募くださいませ。

今年もありがとうー!

2021年12月24日金曜日

暗く冷たい三畳のメリークリスマス2021


年の瀬も押し迫ったある日、心理的なスパイ組織でもある安田タイル工業の専務からコンタクトがあったのです。

ジリリリリン、ガチャ
「もしもし主任です」
「合言葉を言え。『餃子』
『おいしい』
「よし。実はだな」
「慰安旅行のことですよね」
シッ!その前に伝えることがある」
「誰か聞いてるんですか?」
「実は他でもない、本社ビルが破壊された
「え?本社ビルって」
「安田タイル工業の本社ビルだ」
「あの廃屋みたいな」
「そうだ、しかも満タンのな」
「そのハイオクじゃないですよ」
「なので本社はもうない」
「待って待って破壊?破壊って言いました?」
「映像を送る」
「スパイっぽい!」


「専務じゃないですか」
「何がだ」
「これ壊してるの専務ですよね」
シッ!今言えるのはこれだけだ。また連絡する」
「えっ待って待って慰安旅行は」
「なおこの通話は自動的に切断される。じゃあな」
「手動じゃん」



そうしてこの映像を最後に、専務との連絡は途絶えました。専務に何があったのか、積年の夢でもあった本社ビルはなぜ破壊されなくてはならなかったのか、そして肝心の慰安旅行はどうなるのか、次々と浮かび上がる疑問の先で、今年は本社ビル落成とその後の破壊を超える衝撃が待ち受けていたのです。


世界に向けて遠吠えを!

常に時代の先端で誰かが来るのを待ち続けている心のベンチャー企業、安田タイル工業の気付けばこの10年で半ば義務と化しつつある年末恒例業務が今年も帰ってきた!2020年12月以来となる今回も、専務と社員、総勢2名の大所帯で繰り出します。


※これまでの年末興行については以下をご参照ください。
2010年
2011年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年 前編
2018年 後編
2019年
2020年

※とりわけ重要なのは本社ビルが落成した<2019年>です。


……と思ったらあの日以来、一向に音沙汰がありません。こちらから呼びかけても反応がないし、LINEも既読がつかない。とはいえ専務はもともと年に数回スマホを失くしては契約ごと乗り換えてアカウントその他を一からこしらえる習性があるので、どうせまたそういうことだろうとうっちゃっていたのですが

そんなある日、一通の封書が届きました。見れば差出人は専務です。


中を取り出すと






B5のノート20枚分に文字がびっちりと詰め込まれた修羅のような手紙です。思わずその場で放り投げます。人生でこれほど傷ましい手紙を受け取った記憶がありません。危険物を取り扱うように指先でチラリとノートをめくってはまた放り投げるを繰り返した挙句、そのまま数日寝かせておくことにしました。何しろこっちの腹が据わらないことにはとても読み通せる自信がありません。気味がわるいこと甚だしい。

そうしてどうにかこうにか腹も据わって、しぶしぶ読み始めたところ、


拍子抜けするほどどうでもいいことしか書いていません。跳ね上がった心拍数と寝かせておいた数日がムダに思えてきますが、なんだいつもの専務じゃないかと安堵する反面、内容がまったくないにしては尋常ならざる文字量に若干引っかかるものがあるのも事実です。

そんなことを考えながらぺらぺらと読み進めていたら、あるページで指というか、時が止まりました。


「留置場に居ます。」

獄中手記じゃねえか!


66番と呼ばれていたらしい



そんなわけで手記にもあるように、今年の慰安旅行は物理的に不可能と相成りました。十数年欠かさずにつづけてきて初めての意図せざる中止のようにもおもえますが、じつは過去に一度、専務に彼女ができたという身もふたもない理由で中止になったことがあります。今回が初めてではありません。山もあれば谷もあり、留置場にぶち込まれることもある。それが人生というものです。晴れて自由の身となった暁には、また一からタイルを並べていくといたしましょう。


♪パ〜パラララ〜(エンディングテーマ)


飽くなき探究心と情熱と何らかの罪状を胸に、安田タイル工業は今後も逆風に向かって力強く邁進してまいります。ご期待ください。

安田タイル工業プレゼンツ「専務、留置場にぶち込まれるの巻」 終わり


人生の半ばを過ぎてとうとう公権力の手に落ちた専務に励ましのお便りを出そう!


ちなみにこの獄中手記、全文の末尾に明らかに専務ではない何者かの筆跡で日付が書き込まれており、これがきちんと検閲されたものであることを他の何よりも生々しく証明してくれています。

なお、安田タイル工業の社屋は現在、新宿区に店を構える古書店アルスクモノイのどこかに鎮座する愛らしい支社ビルしかありません。あしからずご了承ください。



2021年12月23日木曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その355


追伸にタイムリーな一言をいただいたので取り急ぎお答えしましょう。


コーヒー・ルンバ(掃除機)さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. コーヒー豆を焙煎する際のチャフの処理はどの様にされていますか?

自宅で網をフリフリ直火で焙煎しているのですがチャフは飛び交うに任せているので豆を冷ましている間にいそいそと台所中を掃除しています。「え!そんな所にまで飛んでたんだ?!」と節分の豆を片付けているような気分になれて割と嫌いじゃない作業なのでこのままでも良い気はしますが、効率的な掃除法などございましたら御教授ください。もし可能であれはお気に入りの豆の品種や炒り加減なども教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

p.s. 今年も年賀状の募集はありますか?


コーヒーの焙煎について質問をいただく日が来るなんて、時代は変わったとつくづく感じ入るものがあります。べつにコーヒーの専門家でも何でもないのに、ちょっとうれしいですね。

チャフというのは、コーヒーの生豆についている薄皮のことです。焙煎時に剥がれてなくなるのでご存じない方のほうが多いかもしれません。米の籾殻みたいなものですね。僕が焙煎を始めた30年前は確かシルバースキンと呼ばれていました。

さてその薄皮であるチャフですが、これはもう本当に薄くて軽いので、直火で焙煎すると熱で大量に舞い上がることになります。またその器具が網である場合は何しろ網なので、網目からも小さなチャフがハラハラ落ちまくります。網で焙煎するときの最大の難がこれですね。僕なんかはもう30年やっているので気にもなりませんが、これから始めようという人には確実に大きなハードルのひとつです。

僕が昔から今に至るまで一度も買い替えずに使いつづけているのは、大豆その他の豆を煎るための手網です。網と言っても同じ網の蓋がついているので、焙煎中にチャフが舞い上がることはありません。掃除が必要なのはむしろ網目からコンロに落ちたチャフのほうですね。

また焙煎後の豆を冷やすときもザルに移し替えてからベランダに出てパタパタとうちわで煽るので、チャフが舞い上がるとしたらここです。でもだいたい、風に乗ってどこかに飛んでいきます。

なので、僕のケースと異なるのは、「チャフが飛び交う」ことと、「冷ましている間に掃除をする」ことですね。蓋があれば飛び交うことはまずないし、急速に冷却する必要があるので掃除をするのは豆を冷ました後になります。さすがにその心配はないと思うけど、もし仮に自然に冷めるのを待っているのだとしたら、余熱で豆の中心から焦げていくので、気をつけてください。冷めたあと指先で豆を割ってみるとよくわかります。

もし手網に蓋がないなら蓋があるものに切り替えること、蓋はあるけど焙煎の度合いを見るために開きっぱなしにしているなら焙煎中はそれを閉じてしまうことで、チャフが飛び交うことはなくなるはずです。ありがたいことにコーヒー豆は焙煎するとパチパチと爆ぜるので、視認せずとも音で状態を判断できます。大きくパチパチと爆ぜた時点が浅煎りで、その後しばらくしてもう一度プチプチと小さく爆ぜた時点が中煎りから深煎りです。僕自身は2度目に小さくプチプチと爆ぜ始めたあたりで火を止めています。

それからコーヒーは豆の洗浄工程の違いで「ナチュラル」と「ウォッシュド」に分けられますが、ナチュラルのほうが断然チャフが多いので、なるべくウォッシュドを選ぶ、というのもひとつの手ではあるかもしれません。とはいえ風味がかなり異なるし、チャフのために変えるわけにもいかない気はしますけれども。

掃除はコンロに落ちた大量のチャフを濡れ布巾で拭き取るだけです。コンロ外に飛び散ることはほとんどありません。もし僕とまったく同じやり方で広範囲に飛び散っているとしたら、何が違うんでしょうね?

また、僕がふだん家で主に飲んでいるのはブラジルとマンデリンです。お気に入りというよりはとにかく圧倒的に安いという理由でブラジル、苦味が長所なのでモカなんかと違って焙煎しやすかったという理由で、マンデリンです。たまたま苦味に強くて好きだったから、ちょうどよかったというのもあります。そもそも以前はそれこそコロンビア、ブラジル、グァテマラ、モカ、キリマンジャロ、マンデリン、ブルーマウンテンくらいのざっくりした選択肢しかなかったから、その中から選んで今もそのまま、という感じですね。バリエーションも、あってせいぜい豆の形(例えばピーベリー)」と豆のサイズ(スプレモとかAAとか)くらいでした。それに比べると今は種類もめちゃめちゃ多いし、農園(!)も選べるし、ロブスタ種みたいな本来は缶コーヒーなんかに使われていた工業用の豆まで手に入るんだから、いい時代です、ホントに。

そして追伸に記されたこの時期最も重要な案件についてですが、年賀状キャンペーンはもちろん今年も実施されます。ぎりぎりになってしまうかもしれないけど確実にやるので、今しばらくお待ちくださいませ! 


A. なるべく蓋をしたまま焙煎することです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その356につづく! 

2021年12月17日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その354


やもめのジョナサンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 山の麓と湖の畔、居住するならどちらを選びますか?

というのも、私事ですが、今年度から仕事の部署移動があり、主な仕事が「アライグマの捕獲及び殺処分」になりました。アライグマについて聞きたいことがあったら、いつでもお申し付けください。


ひさしぶりに肝心の質問がまったく頭に入ってこない質問です。これはアライグマを捕獲するならこのエリア、という意味なのか、それとも殺処分にうってつけのエリアなのか、あるいはアライグマに荒らされやすいとか襲われやすいエリアなのか、それとも逆にその心配はありませんということなのか、いずれにしてもアライグマは見た目に反して懐きにくい上にかなり獰猛な生き物なので、なかなかハードなお仕事であるとお察しします。しかし世の中にはいろんな部署があるものですね。

僕が暮らす地域でアライグマを見かけることはほとんどありませんが、代わりにハクビシンがいます。夜中に大通りをのんびり横断しようとするもんだから原付を停車する羽目になったり、ふと夜空を見上げたら電線をサーカスよろしくトコトコ歩いていてギョッとさせられることしばしばです。木も土もろくにないような住宅街で普段いったい何食ってんだろうとおもう。

質問に戻りましょう。アライグマについてはまあ、いたらいたでどのみち対処しなくてはならないのだし、考慮に入れないでおくとして、山の麓と湖のほとりなら、圧倒的に湖のほとりですね。というのも、山はどうあれ、地面が盛り上がっているだけだからです。

誤解してはいけません。山は大好きです。多様な植生も、そこで暮らす獣たちも、また僕の体質的にも町よりは断然向いています。しかしそれでもなお、依然としてラクダのこぶみたいなものであることもまた確かです。斜面があり、頂上があり、より多くの水を貯えることができる、それだけです。結局のところ山とは森の一種であり、平地の森と何が違うのかと言えばその形状と高度にすぎません。また考慮すべきリスクとしてはオオカミや熊に食われることもあリます。21世紀を迎えシンギュラリティすら目前に控える今このときにあっても、丸腰の人間は大自然に対して無力です。

湖もまた大自然の一部ですが、山とはすこし違います。地面の代わりに水なので舟さえ用意しておけば追手が来てもすぐに逃げ出せるし、魚に食われる心配もありません。ネッシーみたいな怪獣がいれば若干リスクは高まるけれども、そこまで気にする必要もないでしょう。また、とりわけ大きな利点としては例えばうっかり斧なんかを落としてしまったときに、金と銀の斧を手にした女神が現れる可能性もあります。山ではそうもいきません。バイカル湖くらいの大きさになると女神の登場するポイントが岸からだいぶ離れて視認できないかもしれませんが、それでも可能性がゼロよりははるかにましです。日頃から「いえ、僕が落としたのは錆びついた小汚い斧です」とすらすら暗唱できるように練習しておく甲斐は十分にあるでしょう。アーサー王伝説でも「湖の貴婦人」はその絶世なる美しさを謳われているし、要するに湖にはなんというかこう、憧れにも似た夢があるのです。

山もすこしは湖を見習ってですね、何ならここで命を落としても本望であるとおもうくらいメロメロにさせられる夢があって然るべきだと、僕なんかは強くおもいます。


A. 湖のほとりです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その355につづく! 

2021年12月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その353



ちょっとずつ猛進さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 5-6年ぶりにできた彼女とけんかしたときのナイスな仲直りのしかたを教えていただきたいです。


3年前にいただいた質問なので、今もその仲は続いているのか、とうにお別れしているのか、なんならその方と結婚して今や父となっていたり、仮に父となっていてもお相手が別だったり、そもそも父ではなくおふたりとも母だったりしていろいろ面目ない可能性も大いにあるとおもいますが、その後いかがお過ごしでしょうか。僕はと言えばおかげさまで3年前とほぼ同じです。

さて、世の中にはナイスな仲直りについてのアドバイスが星の数ほど散らばっているように見受けられますが、そうですね、かれこれ20年ちかくをうちの人と共にすごした僕個人の印象から申し上げるなら、そんなものはありません。どちらか一方が折れて譲るのでないかぎり、仲直りというのは常に、木枯し吹く河川敷で対峙したふたりがさんざんボカスカ殴り合ってもうこれ以上は腕が上がらないほどへとへとになり、傷だらけでぶっ倒れて喘ぎながら「…やるじゃねーか」「…おまえもな」と互いに顔を見合わせてニヤリとするみたいなことでしかないのです。

お付き合い初期はまだ気持ちに余裕があるので、持ち上がった問題を脇に寄せつつ有形無形の贈り物かなんかでなんとなくうやむやにすることもできます。しかし実際のところそれはコップに水を1滴ずつ溜めていくようなものです。最後の最後は本当に1滴未満で溢れてそれ以上はどうやっても入らなくなります。何ならあくびをするときの顔が耐えられないとかそういう豆粒レベルの話で関係が終わるでしょう。

続くときはたとえ血みどろの殺し合いになってもなぜか続くし、続かないときはどんなに愛情を注いでもなぜか続きません。恋愛とはそれが始まった太古の昔からそういうものだし、またこの先も永遠にそうでしょう。それならあれこれ考えたところで同じことです。堂々と胸を張って指をポキポキ鳴らしながら河川敷に赴いてください。手を抜いてはいけません。いつでも全力で突っ込んでいき、一発お見舞いしたり返り討ちにされたりして、また明日を迎えるのです。互いに満身創痍で手をつないでこそ辿り着く、ふたりだけの境地があると僕はおもいます。


A. 全身全霊で立ち向かうその先に真の仲直りが待っています。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その354につづく! 

2021年12月3日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その352


おやゆび悲鳴さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 眠れない時に「羊が一匹、羊が二匹…」と数えると良いと言いますが、犬に置き換えるなら、どの犬種が良いと思いますか?


ふむふむ、たしかにそういう話は昔からよく聞くし、何なら今でもふつうに通じますよね。

しかし言い伝えとして道ばたのガムくらいがっちり定着しているわりに、実際に羊を数えて眠れたという話はとんと聞きません。なぜそう言われているのか、誰がそう言い出したのか、そもそもこの話のいったいどこにそんな説得力があるのか、そしてもうそろそろいいかげんはっきりさせておいたほうがいいのではないかとおもうから言いますけれども、この程度で眠れるならそれは眠れないとは言いません。ただ眠れない夢を見ているだけです。

だいたい思い浮かべるその羊が3次元(実写)なのか2次元(アニメ)なのかも判然としません。でも牧草地でもくもくと草を食むリアルな羊を頭の中でぞろぞろ歩かせる人がいるとも思えないし、ほとんどの人がデフォルメされたイラストをまず思い浮かべそうです。リアルじゃなくてもいい、もしくはせいぜい羊的な何かでよいのだとすれば、工場でベルトコンベアを延々と流れてくる肉まんを数えたって同じことじゃないですか?羊じゃないからダメだというなら、この肉まんの肉が羊であるとムキになって反論する用意もあるし、白くて温かいふわふわしたものに包まれた羊の肉ならそれは見た目からしても実質的にもほぼ羊です。これが羊でないなら一体何が羊だというのだ。

そうしてどうにかこうにかほかほかの肉まんもまたある種の羊であるとその筋の権威に認めさせて、心置きなく布団をかぶり、満を持して工場のベルトコンベアを流れてくる無限の肉まんを思い浮かべながら、肉まんがひとつ、肉まんがふたつ、肉まんがみっつ……まあ、ひとつくらいは食ってもいいだろう、どうせ無限に流れてくるんだし、また数え直すとして、もぐもぐ 、今流れていった20個くらいはカウントしなくてよいのかな、こうしている間にもどんどん流れてくけど……

何しろ本質的には羊でありつつ実質的には肉まんでもあるから、飽きてきたらあんまんとかピザまんとかキン肉マンに置き換えることもできるし、それはそれで汎用性が高くていいけれど、いずれにしても安眠どころか不眠をこじらせるだけなのはわかりきっています。なぜおれは肉まんを食いながらキン肉マンを数えているのだと至極当然の疑問を抱くことなく眠れる人は、どう考えても初めから羊なんかいなくたって眠れる人です。

したがって文字通り、目を覚まさなくてはいけません。羊は数えるより毛を刈るべきものだし、肉まんは数えるより寒い冬に湯気を立てつつコンビニの前なんかでひとりもふもふと食むべきものだし、キン肉マンはマンガ史における不朽の名作です。

そうして真の意味で目覚めたとき、わたしたちは真の意味で新しい朝を迎えているでしょう。

それはそれとして犬についてですが、個人的にはシーズーなんかいいとおもいますね。飛び越えるべき柵の手前で「?」みたいな顔したりしてね。


A. シーズーです。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その353につづく!