つづきが知りたい
2015年4月30日木曜日
2015年4月27日月曜日
手入れが行き届いた熟練のサイボーグみたいな駅舎のこと
イベントのあれこれが決まりました。
オントローロ -01 & 00
@渋谷Flying Books
-01 2015/5/31(日)
00 2015/6/14(日)
以下、両日とも同じ
OPEN:19:00 start:19:30
料金:2,500円(1ドリンク付) 各40名
予約の受付は5月1日(金)からです。今回は電話やメールではなく、専用の予約サイトからのお申し込みになります。またこの日に改めてお知らせと、その際に予約サイトへのリンクを貼りますので、今しばらくお待ちくださいませ。(日付が変わるころに更新する予定です)
ふだんまったく用がないので下手したら今まで乗り換え以外には一度も利用したことがなかったかもしれないJR四ツ谷駅で降りたのです。
ホームは外堀をまたぐ新宿通りの真下にあって、この道をはさんだ北と南に改札口があります。その南のほう、赤坂口を橋の上から眺めていてふと駅舎の古さに気がつきました。上智大学とビジネス街があって繁華なエリアなので、駅にもなんとなく近代的なイメージがあります。じっさい四ツ谷口と麹町口の外観は今っぽいとおもう。でも赤坂口だけなんだかやたらと古いのです。昭和の趣が残っているというか、むしろ残りすぎています。日に9万人もの人が利用している(JR東日本の駅で上位3%以内に入る人員数)ことを考えると、とっくに建て直されていてもおかしくないレベルです。
行きは四ツ谷口から出たので、じゃあ帰りは赤坂口から入ってみようとおもっていそいそ向かったところ、足を踏み入れてすぐの窓際で目が釘付けになりました。
わかりづらいので拡大
窓枠がステンレスじゃなくて鉄です。脇には木製の手すりまで残ってる……。
しかもこの窓枠、ふつうに開け閉めができます。放置したらすぐ錆びついて二度と動かなくなるような古い鉄製にもかかわらず、今も開閉が可能という事実はそれだけでちょっとした驚きです。どうやら毎日当たり前のように使っているらしい。何よりこのずんぐりとして愛らしい古色蒼然のクレセント(窓鍵)……!
そうして改めて周囲を見回してみると、目立たないけどよく考えたらユニークな構造があちこち目につくのです。いい年こいたおっさんがワーワー言いながらあんまりパチパチ写真をとるのも躊躇われるから撮らずに帰ってきちゃったけど、やっぱりぜんぶ撮ってくればよかったとおもう。
さらにホームに降りると床がレンガ状のタイル張りです。風雨にさらされる地上駅のプラットホームはコンクリート打ちっぱなしのイメージがつよいので、これだけでもハッとさせられるものがあります。
とおもったらそこに衝撃の構造物が
【今日の結論】JR四ツ谷駅はホームのど真ん中にマンホールがある。
もちろん、全体に古くて歴史的価値の高い駅なら他にいくらもありましょう。そういう意味では四ツ谷駅は対象外かもしれません。でも、最新の設備をがんがん取り入れつつ、むちゃくちゃ古い設備もきちんと当たり前のように維持していて、結果その古さにほとんど気づかれていないことにはやはりグッとくるものがあります。メンテナンスが行き届いた熟練のサイボーグのようです。しびれる。
だいたいなんでホームの真ん中にマンホールがあるんだ?
オントローロ -01 & 00
@渋谷Flying Books
-01 2015/5/31(日)
00 2015/6/14(日)
以下、両日とも同じ
OPEN:19:00 start:19:30
料金:2,500円(1ドリンク付) 各40名
予約の受付は5月1日(金)からです。今回は電話やメールではなく、専用の予約サイトからのお申し込みになります。またこの日に改めてお知らせと、その際に予約サイトへのリンクを貼りますので、今しばらくお待ちくださいませ。(日付が変わるころに更新する予定です)
*
ホームは外堀をまたぐ新宿通りの真下にあって、この道をはさんだ北と南に改札口があります。その南のほう、赤坂口を橋の上から眺めていてふと駅舎の古さに気がつきました。上智大学とビジネス街があって繁華なエリアなので、駅にもなんとなく近代的なイメージがあります。じっさい四ツ谷口と麹町口の外観は今っぽいとおもう。でも赤坂口だけなんだかやたらと古いのです。昭和の趣が残っているというか、むしろ残りすぎています。日に9万人もの人が利用している(JR東日本の駅で上位3%以内に入る人員数)ことを考えると、とっくに建て直されていてもおかしくないレベルです。
行きは四ツ谷口から出たので、じゃあ帰りは赤坂口から入ってみようとおもっていそいそ向かったところ、足を踏み入れてすぐの窓際で目が釘付けになりました。
わかりづらいので拡大
窓枠がステンレスじゃなくて鉄です。脇には木製の手すりまで残ってる……。
しかもこの窓枠、ふつうに開け閉めができます。放置したらすぐ錆びついて二度と動かなくなるような古い鉄製にもかかわらず、今も開閉が可能という事実はそれだけでちょっとした驚きです。どうやら毎日当たり前のように使っているらしい。何よりこのずんぐりとして愛らしい古色蒼然のクレセント(窓鍵)……!
そうして改めて周囲を見回してみると、目立たないけどよく考えたらユニークな構造があちこち目につくのです。いい年こいたおっさんがワーワー言いながらあんまりパチパチ写真をとるのも躊躇われるから撮らずに帰ってきちゃったけど、やっぱりぜんぶ撮ってくればよかったとおもう。
この窓のデザインも相当カッコいい
さらにホームに降りると床がレンガ状のタイル張りです。風雨にさらされる地上駅のプラットホームはコンクリート打ちっぱなしのイメージがつよいので、これだけでもハッとさせられるものがあります。
とおもったらそこに衝撃の構造物が
【今日の結論】JR四ツ谷駅はホームのど真ん中にマンホールがある。
もちろん、全体に古くて歴史的価値の高い駅なら他にいくらもありましょう。そういう意味では四ツ谷駅は対象外かもしれません。でも、最新の設備をがんがん取り入れつつ、むちゃくちゃ古い設備もきちんと当たり前のように維持していて、結果その古さにほとんど気づかれていないことにはやはりグッとくるものがあります。メンテナンスが行き届いた熟練のサイボーグのようです。しびれる。
だいたいなんでホームの真ん中にマンホールがあるんだ?
2015年4月24日金曜日
パンと菌/it's been a long time, Mr. B
親爺さんはもういない
助手の娘も結婚したよ
今は年賀状の
やりとりだけだな
パンか、パンはもう
焼いてもらってない、というか
じぶんで焼いてる
勉強したんだ
親爺さんにゃ面目ないが
誰に食わせる齢でもないしな
変わったと言えば
つぶあんになったよ
聞いたぜ、ガキが
いるんだってな
笑えるじゃないか
父親だなんて!
あのオレンジの娘にも
ずいぶん無沙汰だ
嫁さんなんだろ
その子もふたりの
I BEG YOUR PARDON?
じゃあ誰の
てっきりお前の子だとばかり
どうなってるんだ一体?
好きなだけ呑め
今日はおごりだ
悲喜こもごもか
それにしてもな
勇気の鈴か……
もってるよ今も
錆びちゃいるがまだ
鳴るんじゃないかな
そうだこの鈴
お前にやるよ
ガキもいるんだ
鳴らせりんりん
おいよせ、そんなの
昔の話だ
敵も味方も
ないだろ、今夜は
2015年4月21日火曜日
地球が宇宙に誇る人類史上最大のジョークを探して 後編
何の気兼ねもなくひとりでぽつねんと好き勝手にリーディングするナノスケールなライブイベント@渋谷Flying Booksを計画しております。正式なアナウンスは来週あたりになるとおもいますが、日取りは5月末と6月中旬の予定です(計2回)。他では聴けないものをいくつか披露できるはずなので、続報をお待ちあそばせ。お呼びでない、なんて言わないで!
*
【前回までのあらすじ】地球が宇宙に誇る人類史上最大のジョークを探しています。
→前編はこちら
・車輪刑
世に拷問と刑罰は数あれど、いまだにその意味が判然としない刑罰がこれです。重罪人の体を車輪に縛りつけ、ポカスカ殴って全身の骨を砕く、もしくは車輪自体でポカスカ殴って全身の(以下同文)という汚辱にまみれた刑罰らしいのですが、「なぜ車輪なのか」という不可解すぎる肝心の部分については諸説あってブラックボックスのままうっちゃられています。太陽に対する信仰の象徴うんぬんという理屈もわからないではないんだけど、そんなこと言ったら車輪の上に荷台と荷物をのせて地面をコロコロ転がすことのほうがよほど憚られるはずじゃないかと思わずにはいられません。
名著「図説 拷問全書」
拡大
思えば日本におけるセルフ拷問と言うべき「切腹」もまた、奇天烈かつアメイジングな死のひとつに数えられましょう。その苦しみから解放するための、それでいて高度な技巧を要する「介錯」をセットにするくらいなら初めから斬首でいいじゃないのとおもいますが、名誉の保持と様式美というふたつの要素によって世間的にはいちおう疑念なく受け止められています。しかし「なぜ腹なのか」という点は今もって謎のままです。というかほとんど問題になりません。そこが解せない。
*
かつてジンバブエではあまりに破滅的なインフレ率のため(年間65000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000%)、最終的に驚愕の100兆ドル紙幣が発行されました。当時の闇レートだとビッグマック1個が1兆4000億ドルになる計算です。
注:以前ここでふれた一文をまるっとサンプリングしています。
付け足すことはとくにありません。これくらいシンプルでみごとに針が振り切れた史実もそうないはずです。
*
エルサルバドルとホンジュラスの間で1969年に起きた戦争のことです。ウィキペディアには「1970 FIFAワールドカップ・予選において両国が対戦した際の国民感情のもつれから国交断絶に至った」とあります。この一文だけでも目を疑うに十分な破壊力だとおもいますが、これくらいはまだご愛嬌です。何しろここから両国空軍による爆撃、陸軍による銃撃戦が始まり、これを前哨戦としてさらに領土の侵攻、占領と考えうるかぎり最悪の事態に発展しています。火星人あたりがこの様子をTVで観ていたらみな例外なく絶句していたにちがいありません。
もちろんここまでに至るには多くの社会的な要因があります。単純にサッカーの勝った負けたで片付けられる問題ではありません。とはいえワールドカップがなければこの戦争は起きなかった可能性がある、とは申せましょう。「人はなぜ争うのか」という永遠の問いに対して「人だからです」と答えるほかない生物としての業がここから垣間見えるようです。
*
個人的にはちょっと前までこれが「人類史上最大のジョーク」でした。周囲とは信仰や文化の異なる国家をあるとき好きな土地にいきなり建立して世界に認められるなんてことがなぜ可能なのか、いくら考えても腑に落ちません。もちろんそうしたいと願うきもちにはそれだけの理由があります。それが他のどの民族よりも大きいのもよくわかる。でもだからといってそのために土地の住人を力で追い払えるかと言ったらそれはまた別の話だし、その正当性と今も問題解決の兆しがない理由については子どもに説明できません。経緯を事実として受け止めることはできても、説明できない。「大人の世界では許されないことなんて何ひとつないんだね」ともし子どもに言われたら僕らはどう答えるべきなんだろうか?
*
しかし現在、それに替わって「人類史上最大のジョーク」の筆頭候補に躍り出たのが中国の引いた領海、九段線です。もう何度も見ているはずなのに、線の引かれた地図を見るたび目玉がポンと飛び出ます。かつてこれほどまっすぐにズドンとジャイアニズムを発揮した主張が他にあっただろうか?
今のところこれを超えるビッグなジョークには出会えていません。他にもあると想像するのが困難なくらい、群を抜いています。世界の終わりに「おもえばあれが人類史上最大だったな」としみじみ振り返る至高のジョークが何になるのか、果たして九段線を凌駕する強烈な一発の到来はあるのか、こればかりを楽しみにせっせと糊口を凌ぐ日々です。
「人類史上最大のジョーク」へのノミネートもお待ちしています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
2015年4月18日土曜日
地球が宇宙に誇る人類史上最大のジョークを探して 前編
すこし以前から「人類史上最大のジョーク」についてときどき考えることがあります。
本来ならおそらくネッシーやミステリーサークルあたりがその筆頭に挙げられましょう。しかしここで考えたいのは正しい意味でのジョークというより、むしろ「そう認定しても差し支えなさそうな事実」のことです。ジョークとして受け止めたほうが腑に落ちる話、と言い換えてもよろしい。
ネッシーの例を引き合いに出すなら、対象はネッシーそのものではなく、「ネッシーがいたずらだったというニュースに世界が衝撃を受けたこと」になります。なんとなればネッシーをよく知らない世代にとっては「いたずらって、そりゃそうでしょ」としか言いようのない話が一大ニュースとして世界を駆け巡った事実のほうが、ネッシーの真偽なんかよりよっぽど不可解にちがいないからです。でも史上最大というにはいささか弱い。欲しいのはもっとこう、「えええええ(゚Д゚)」と言いたくなるような、目玉がポンと前に飛び出して地面を転がり下校中の小学生に蹴飛ばされたあげく民家のガラスを割ってカミナリ親爺に「コラァ!」と怒鳴られるような事実です。
マレーシアで天使認定されて宗教的にアウトの憂き目にあったキューピーも、エピソード的にはエイプリルフールっぽくてそそられるものがあります。ただこれもインパクト的にはさほど大きくないし、何よりいちおう理屈として筋が通っているのでここでは対象にはなりません。できればモンティパイソンのスケッチに採用されてもおかしくないようなのがいい。
こういうのを、というのはつまり「ジョークとして受け止めたほうが腑に落ちる事実」をひとつの単語で表せたら楽なんだけど、今のところピンとくるものには出会わなくてもどかしいかぎりです。すでにあるんだろうか?
しいて基準を挙げるとすれば
1. 事実である
2. おもしろい(大雑把ですね)
3. 社会的な影響が大きい
4. 子どもに説明できない、もしくは説明しづらい、というか面倒くさい
パッと思いついたのを挙げただけなのでまだ他にしっくりくる条件があるかもしれませんが、概ねこんなところです。合理性のなさや仮にあってもねじが外れていることが肝心なので、とりわけ4は欠かせません。
いくつか例を挙げましょう。
・チャタレー事件
7、8年前にもその公判記録について一度ふれたことがあるのでそのままコピペすると、「小説のくせに一部が伏せ字になって発売されるというある意味ミもフタもない結末を招いたチャタレイ裁判」のことです。「非常に高度な知性の応酬でもって縦横無尽に語り尽くしながら、けっきょくのところその論点は「これちょっとエッチすぎるんじゃないの」」にすぎず、「もっとも重要な部分イコールもっとも口に出すのがはばかられる部分、というジレンマに彩られた意見陳述と証言」、そしてその判決は今なおうっとりするほどバカバカしい輝きを放っています。伏字部分が解除された完全版の発売が1996年と比較的最近だった事実も見逃せません。
あるいはジョークっぽさではこっちのほうが上かもしれませんが、15世紀でもっとも売れた書物のひとつに "The Tale of Two Lovers" という大衆小説があります。ウィキペディアにも「full of erotic imagery」とわざわざ書いてあるくらいなので、官能的な描写がふんだんに盛り込まれたそっち系の作品であることはまちがいありません。問題はこれを書いた著者アエネアス・シルヴィウス・ピッコロミニが、のちのローマ法王ピウス2世だということです。
職業作家の手になる露骨な性描写と、ローマ法王が書いたソフトなエロ小説、物議を醸すのはどっちだ?
女性器をかたどったボートは猥褻になるのか、ギュスターヴ・クールベの名画「世界の起源」を不適切な画像とみなして削除したばかりか投稿者のアカウントまで一時凍結したFacebookについてどうおもうか、ピウス2世は今こそコメンテーターとして個人的にご登場願いたい人物のひとりです。
*
とっちらかって何の話だかもうお忘れかもしれませんが、「人類史上最大のジョーク」の話です。長くなりそうなのでつづきます。あとクールベの「世界の起源」は知らずに検索すると呼吸が止まるほどのインパクトなのでお気をつけあそばせ!
2015年4月15日水曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その209
休憩所……?
*
地震カミナリ火事もやしさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q: 私は昨年一人暮らしを始めたのですが、貯金がどんどん減っていくことに気が付きました。おそらく食費です!日持ちしてお腹いっぱい食べられる、オススメの料理を教えて下さい!
これを言うとみんなに、というか親にも「えっ」という顔をされたのですが、僕はじぶんから料理が好きだとか得意だとか言ったことってじつは全然ありません。つくるにはつくるし、どうせつくるならそりゃ美味しいほうがいい(←ここ重要)とはおもってるけど、基本的には生き抜くための手段のひとつであって、目的だったことはまずほとんどないのです。外で食べたりおかずを買ったりするとどうしたって高くつくし、若いころはとにかくいかに食費を抑えつつ食欲を満たすかということばかり考えてました。その結果台所に立つのが当たり前になっただけで、だから「日持ちしてお腹いっぱい食べられる……」というきもちはすごくよくわかります。カレーや豚汁は一度に20人分くらいつくってたし、煮詰まってきたらどっちもうどんを投入して掻っ込んだものです。
腹を満たすにはやっぱり米を炊くのがいちばん手っ取り早かったんだけど、そのころつくるようになったゴハンのお伴で、「日持ちしてお腹いっぱい」のマインドから自然と形を変えていった料理がひとつあります。ずいぶんとあとになって指摘されたときに初めて「言われてみればたしかに普通はこうつくらないかも」と気がついたひと皿がこれです。
おわかりかとおもいますが、きんぴらです。でも異様に細くて、ふわっとしています。ふつうに拍子木状のきんぴらをつくるとあっという間になくなってしまうので、ちょっとでもかさを増やそうとちまちま切っていたらいつの間にかここまで細くなりました。表面積が何倍にもなっているせいか、ほんのちょっとでゴハンがめちゃ進みます。ごぼうと人参を超細切りにして、あれば椎茸なんかも足して、ごま油で炒めて、醤油、みりん、もしくは塩あたりで適当に味をつけるだけです。やってることはシンプルだけどごぼうと人参のカットが面倒と言えばものすごく面倒なので、このへんの手間を受け入れられるかどうかがカギですね。僕の場合だいじなのは手間よりもいかに安く大量にメシを食うかだったのであまり気になりませんでした。
さらにこれは実際この形になってから気がついたんだけど、思いのほか使い回しがきくんです。まぜゴハンにしておむすびにもできるし、卵かけごはんに添えてもメチャ美味いし、チャーハンの具材にしたり、うどんのつゆにぶちこんでもオーケーとあらゆる場面で活躍してくれます。通常の拍子木バージョンだとこうはいきません。それ自体で腹を満たすというよりは、まあブースター的なひと皿です。
何もかもが面倒なら、炊飯器にぶちこめそうなものを片っ端から何でもぶち込んで塩なり醤油なりをふりかけて炊き込みご飯にするという手もあります。というか僕もしょっちゅうやってました(炊飯器はなかったけど)。肉や野菜が手軽にとれてかつ満腹まちがいなしといったらまずこれの右に出るものはありません。「鶏肉とごぼう」「豚肉ときのこ類」、ちょっと変わったところでは「粗く刻んだトマトとコンソメ(+胡椒)」なんかもアリです。いちばん楽なのはアサリで、炊きあがってから三つ葉を散らしたりすると彩りも良く、ほとんど何もしてないのになんかちゃんと料理したような気にさせてくれます。海苔、油揚げ、ゴマ、干し椎茸なんかはどれとどう組み合わせてもばっちりなので、気分に応じて足したり引いたりするのもよいですね。日持ちとかそういう観点はすっぽ抜けてますけど。
A: きんぴらをふさふさにするとゴハンがいっぱい食べられます。
*
質問はいまも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その210につづく!
2015年4月12日日曜日
一度はお別れした須藤部長に復縁を申し出る話
いつまで待っても春は戻ってきそうにないし、身も心もすっかり冷えきってしまったので焼けぼっくいに火を点すべく、須藤部長に復縁を申し出たのです。
「コバ子くん、いつまでもこんなことを続けてはダメだ」
「でもわたし、部長がいないと生きていけません」
「そんなことはない。大人になりなさい」
「いやです」
「春はもうそこまで来てるんだぞ」
「それはもう聞き飽きました」
「灯油だって使い切ったはずじゃないか」
「そんなの買い足せばいいことです」
「すぐに春がきてまた余らせることになるぞ」
「知りません」
「馬鹿げてる!よく考えるんだ、もう4月だぞ」
「関係ありません」
「大アリだ。じき夏もやってくる」
「勝手に来ればいいんです」
「冬服も畳んだばかりだろう」
「それを反故にしたのは春じゃないですか?」
「桜だってもう散ったのに今さら何を言うんだ」
「桜だって呆れて散ったんです、きっと」
「八百屋をみろ、春野菜でいっぱいじゃないか」
「あんなの、見てくれだけです」
「ふきのとうはどうだ?もうすこししたら空豆だって」
「ふきのとうならもう食べました」
「なんだ、ちゃんとやっていけてるじゃないか。天ぷらかね」
「天ぷらです」
「うまかったろう?」
「苦かったです」
「そのほろ苦さこそ春だ!」
「( ゚д゚)、ペッ」
「あっうら若き乙女がそんなことしちゃいかん」
「あいにくですけどもう若くありませんから」
「そう機嫌を損ねるもんじゃないよ」
「だって部長が……」
「コバ子くん、私も年なんだ、わかるだろう?」
「でも……」
「こんなことで投げ出していたら次の冬はどうなる?」
「ずっと部長といれば平気です」
「私だっていつまでもそばにいられるわけじゃない」
「そんなこと言わないでください!」
「力になりたいのは山々だが、できることとできないことがある」
「そばにいてくださればそれでいいんです」
「そばにはいるとも。いつだっている」
「なら……」
「だが火を点すわけにはいかん」
「どうして!」
「聞き分けなさい。君はもう立派な大人だ」
「わたしだって努力したんです」
「ならそれを続けなさい。春を信じて待つんだ」
「もう待ちくたびれました」
「おやっ!ごらん、シデコブシが咲いているじゃないか」
「話をそらさないでください」
「春は来てる」
「来てすぐ帰りましたけど」
「シデコブシはコブシの仲間だが、すごく珍しいんだ」
「そうなんですか」
「自生地は日本に数カ所しかなくて、絶滅危惧種なんだぞ」
「じゃあこれは?」
「え?」
「なんでここに咲いてるんですか」
「これはアレだ、園芸種だから……」
「庭木としてはよくあるってことですよね」
「自生がすごく貴重なんだよ」
「これは?」
「もちろん自生じゃないが、でもあんまり見ないだろう」
「コブシに比べたらでしょ」
「愛らしい花じゃないか。春ならではだ」
「部長」
「そうおもわんかね」
「わたし、もう灯油買ってあるんです」
「あっ早まったことを!」
「挿れていいですよね」
「どきり。挿れるって何をだ」
「灯油ですけど」
「字がちがう!いや、いかん。落ち着くんだ」
「わたしは初めからずっと冷静です」
「こんなことでは春に面目が立たない」
「もう決めたんです」
「こんなところを見られたら世間が何と言うか……」
「どんなときもじぶんを信じなさいと仰ったのは部長です」
「それとこれとは話がべつだ」
「べつじゃありません」
「たしかに水曜はさむかった。木曜もだ」
「知ってます。湯たんぽ抱えて泣いてましたから」
「だが今日はどうだ」
「……」
「むろん格別暖かくはない……だが灯油を持ち出すほどか?」
「部長」
「目をそむけてはいかん。さむくはないはずだ」
「わかりません」
「わからないことはないだろう」
「心の毛穴がとじちゃったので」
「コバ子くん!」
「わたし、もう決めたんです」
「そんなことをしたら私はもうそばにはいられなくなる」
「いいえ、部長はそばにいてくださいます」
「マッチをそこに置くんだ」
「ごめんなさい、もう決めたんです」
「春は来てるんだ!本当なんだよ!」
「どっちでもいいんです、もう」
「擦っちゃいかん!春が来なくなるぞ!」
「ほら。やっぱり来てなかったんだ」
「そうじゃない!マッチを置くんだ!」
シュボ
「あー!」
「点けちゃいました」
「なんてことを……」
「わたしたち、永遠にいっしょですよね、部長」
2015年4月9日木曜日
「さむい」の専門家がゆるせるたったひとつの「さむい」について
以前にも申し上げたかもしれませんが、僕はさむさにめっぽう弱い男です。嗅覚に置き換えると麻薬犬にも匹敵するその過敏ぶりはどうも近年ますます拍車がかかっているようで、我ながらがっかりさせられます。世が世なら「さむい」の専門家としてテレビや新聞に引っ張りだこでも全然おかしくありません。
とにかくちょっとでも冷えをかんじるとクイズの早押し並みの反応でさむいと言いたくなるし、同時に脳内でビービーと警報がけたたましく鳴りひびきます。多くの人が「今日は冷えるね」と口にするころにはこちらはすでに心中のっぴきならないことになっており、雑踏であってもきもち的には冬山で遭難して猛吹雪のなか雪に埋もれながら遺書を書いておかなかったことが悔やまれるようなかんじです。今までに食べてきた温かくておいしいものが脳裏に浮かんではマッチの火のようにはかなく消えていきます。さむくて息絶えるというより、こんなにさむいならここでお別れしたほうがましだと思わせられるのです。それくらい弱い。
したがって春先に聞く「真冬並み」という一言ほど僕を文字どおり震撼させるものはありません。危機は去ったと認識して毛穴がゆるんでしまっているぶん、事態は真冬よりもはるかに深刻です。おまけに灯油も尽きています。ホラー映画よろしく絶叫したい。今もダウンを着込んでガタガタふるえながら半ベソでキーを叩くこのきもちがわかってもらえるだろうか?3℃ってなんだよ!もう4月だぞ!「アンコールにお応えして」みたいな顔でのこのこ舞い戻ってきやがって冬のやろう、散弾銃でハチの巣にされたいのか?
しかしそんなナイーブ極まりないさむいの専門家にもゆるせるというか、むしろ両手を広げて大らかに迎え入れることのできる「さむい」がひとつだけあります。
それが「サムイ島」です。
タイ南部のタイランド湾に浮かぶこの島は熱帯に位置するので1年を通じて気温が高く、25℃を下回ることがほとんどありません。いったいこれまでに何人の日本人がこの島を訪れて「さむくない!」と絶叫してきたのか、想像するだに寒い話ですが実際サムイ島の辞書に「さむい」の3文字はないのです。まさしく常夏の楽園であり、さむさとちがって暑さにはめっぽう強い冷房いらずの僕としても望むところであり、さむいの専門家にとってはエデンのような土地であると申せましょう。
今すぐにでも渡航と移住の準備に取りかかりたいところですが、しかしさむくない土地に移り住むということはさむいの専門家がもはや何の意味もなさないということでもあります。意味を成さないということはつまりこの島でなくてはならない理由がきれいさっぱり消え失せるということであって、だとするとはてそもそも何がしたいんだったかな……と毎回首をかしげることになるので、実現にはもうしばらく時間がかかるかもしれません。
だいたい春のやつがもっと毅然たる態度で冬を追い返してくれればこんなことにはならずにすむのです。ひとりで心細いならいっそ夏も連れてくりゃいいんだ。
2015年4月6日月曜日
どういう風の吹き回しだ的な話半分のお話
ここのところグラフィックサイド(@TRINCH)にばかり心血を注いでいたので出し抜けにこんな話をするとグキッと筋を違えるようで恐縮ですけれども、そろそろ正面からリーディングと向き合ってみてもいいんじゃなかろうか……とある日ふとおもったのです。
注)お忘れだといけないので念のため補足しておくと、こう見えて僕の本分は詩作ということになっています。形はちがえどグラフィックもその一環です。
そんなわけでひとつリーディングに主眼を置いた、それはそれはささやかな独演をぼんやりと考えています。もちろんビートも欠くべからざる要素のひとつとしてキープしつつ、でもどちらかといえば声に出して読むこととか言葉それ自体のリズムにピントを合わせるかんじです。うーん、うまく言えないな……。みずからやると言って切り出したのが何しろ初めてのことなので、どうもこう、勝手がわからなくて困ります。
あとこんなのがアピールになるかどうか、手元にむかし書いた詩があって、たしかもう十数年、声には乗せてないはずだから、そうだこれも読んでみたらよさそう、でもこれじゃアレだな、せっかくだから書き直すか、そういえばビートに乗せたことはなかったな、バックにちょっとしたループがあってもいいな、じゃMPC立ち上げよう(←2年ぶり)、しかしどうせ組むならちゃんと乗せたほうがいいような気もする、というか乗せるなら言葉もすこし練り直そう、とあれこれいじっていたら案外アリなかんじになったので(もうできた)、おそらくこれもそのときお披露目と相成りましょう。例によってうやむやになりそうな気配が漂ってきたら「あの話はどうなったのですか」とせっついてください。
もっといろいろはっきりしてからお知らせすればいいのになぜ見切り発車でこんなことを書いているかというと、ひさしぶりにMPCを叩いたり詩を書いたりしていたらブログに向けるきもちの余裕が空っぽになってしまったからです。
いやあ、慣れないことはするもんじゃないな。
2015年4月3日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その208
【TRINCH】にボンクラの、ボンクラによる、ボンクラのためのカッコいいTシャツを追加しています。
ホテルのカリフォルニア巻さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q: 群馬のひいおばあちゃんからの質問なんですが、pってアルファベットの輪っかの部分はなんで右上にあるんですかね??
日ごろ当たり前のように目にしていながら何の疑問も持たず、そういうものとして無批判に受け入れていたことを思い知らされる、じつによい質問です。揺るぎなく見えた世界にぴしりとヒビの入る音が聞こえます。
おもえば僕もひところ、円(¥)はYなのになぜドル($)はSなのか、ふつうに考えたらDではないのか、あれっちょっと待てよく見たら円もYENであってENじゃないな、てことは正しくは「えん」じゃなくて「ゑん」なのか、うわっえええー!まじかよ知ってたのに全然気づいてなかったこれア行じゃなくてヤ行だ!奈良時代にははっきり区別されながら今ではすっかり失われたはずの「ゑ」の発音が現在もキープされてるなんて、そしておそらく九割九分九厘くらいの人が「YEN」と知りながらその読みを気にもしてないなんて、でも「ゑ」の表記じたい明治以降は廃止されたんじゃなかったか?だとしたら「円」を「YEN」と表記したのはいったいいつなんだ?そしてそれは実際に「ゑ」と発音されていたのか?というか今もそう発音すべきなのか?してる人はいるのか?
と最初は素朴だった疑問が気がついたら「現代に残る古代日本語の発音」というまるでシーラカンスの発見みたいな話になっていてわれながら困惑したものです。そのままドルのこともすっかり忘れ、最終的にはポイと匙を投げたことがなつかしく思い出されます。
素朴と言うなら「孫の手」なんかもそうです。なぜ孫なんだ、孫は背中をかくために生まれてくるわけじゃないぞ!と抗議するつもりが豈図らんや、もともとは孫ではなく麻姑という中国の仙女だったと知ったあの日の驚きは忘れようにも忘れられません。飲み会かなんかでおっさんが適当に吹いたホラではないのかと目を疑ったくらいです。一見すると何でもなさそうなことも、一歩ふみこめば時としてことほどさように思いもよらない奥行きを秘めています。いつどんな驚きに出会うかわからないのだから、徒然なる日々であっても探究心だけはつねにゆるゆるとアイドリングさせておきたい。
無論、pの輪っかもこの例に漏れません。奥行きと言える奥行きがあるかどうかはともかく、一皮むけばそこからはぐうの音も出ない事実が浮かび上がります。
A: 輪っかが左上にあるとqになり、左下にあるとdになり、右下になるとbになってしまうからです。
質問はいまも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その209につづく!
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ホテルのカリフォルニア巻さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q: 群馬のひいおばあちゃんからの質問なんですが、pってアルファベットの輪っかの部分はなんで右上にあるんですかね??
日ごろ当たり前のように目にしていながら何の疑問も持たず、そういうものとして無批判に受け入れていたことを思い知らされる、じつによい質問です。揺るぎなく見えた世界にぴしりとヒビの入る音が聞こえます。
おもえば僕もひところ、円(¥)はYなのになぜドル($)はSなのか、ふつうに考えたらDではないのか、あれっちょっと待てよく見たら円もYENであってENじゃないな、てことは正しくは「えん」じゃなくて「ゑん」なのか、うわっえええー!まじかよ知ってたのに全然気づいてなかったこれア行じゃなくてヤ行だ!奈良時代にははっきり区別されながら今ではすっかり失われたはずの「ゑ」の発音が現在もキープされてるなんて、そしておそらく九割九分九厘くらいの人が「YEN」と知りながらその読みを気にもしてないなんて、でも「ゑ」の表記じたい明治以降は廃止されたんじゃなかったか?だとしたら「円」を「YEN」と表記したのはいったいいつなんだ?そしてそれは実際に「ゑ」と発音されていたのか?というか今もそう発音すべきなのか?してる人はいるのか?
と最初は素朴だった疑問が気がついたら「現代に残る古代日本語の発音」というまるでシーラカンスの発見みたいな話になっていてわれながら困惑したものです。そのままドルのこともすっかり忘れ、最終的にはポイと匙を投げたことがなつかしく思い出されます。
素朴と言うなら「孫の手」なんかもそうです。なぜ孫なんだ、孫は背中をかくために生まれてくるわけじゃないぞ!と抗議するつもりが豈図らんや、もともとは孫ではなく麻姑という中国の仙女だったと知ったあの日の驚きは忘れようにも忘れられません。飲み会かなんかでおっさんが適当に吹いたホラではないのかと目を疑ったくらいです。一見すると何でもなさそうなことも、一歩ふみこめば時としてことほどさように思いもよらない奥行きを秘めています。いつどんな驚きに出会うかわからないのだから、徒然なる日々であっても探究心だけはつねにゆるゆるとアイドリングさせておきたい。
無論、pの輪っかもこの例に漏れません。奥行きと言える奥行きがあるかどうかはともかく、一皮むけばそこからはぐうの音も出ない事実が浮かび上がります。
A: 輪っかが左上にあるとqになり、左下にあるとdになり、右下になるとbになってしまうからです。
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