2025年8月22日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その459

過剰な気遣い


アメリカン土偶さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. することもなく部屋の中でピラミッドのように正方形の物を積み重ねていたとき、レコード→焼き海苔→EP盤→シングルCD→付箋→サイコロ まではいい感じに重なったのですが、最上段にピッタリくるものがが見つかりません。僕のピラミッドのキャップストーンには何が最適なのでしょうか。


かれこれ15年以上、途切れ途切れに450回以上もやらかしてきた質問箱ですが、これほど後悔したことはありません。なんとなれば「退屈で困っている」という前々回に取り上げた質問の、まさしく最適解が別の質問として寄せられていたことに、いま気づいたからです。こんなことってあるだろうか?もし僕がマッチングアプリだったら、この奇異なる巡り合わせを見逃したことによって、2度と起動できないくらいのダメージを負っていたにちがいありません。

かつてゴルフボールを3つ重ねることに苦心していたことのある僕に言わせれば、退屈こそが人生である、みたいなことを前々回に書いたような気がしますが、ここは改めて、出し得るかぎりの大きな声で念を押しておくべきでしょう。

退屈こそが人生です。

することがないなら正方形のものをピラミッド状に積み重ねたらいいじゃないか?むしろ正方形のものをピラミッド状に積み上げることを時間の使い方として否定するだけの正当な理由が果たしてあるだろうか?

断じてありません。

とかく人は日々に意味や価値を見出そうとしがちです。そして行動にもまた、いちいち理由を求めがちです。そして意味や価値や理由がこれといってない場合、自身には関係のない不要な情報として、ばっさり切り捨てがちです。

イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「なぜエベレストに?(Why did you want to climb Mount Everest?)」と問われて「そこにあるからです(Because it's there.)」と答えた逸話は広く知られています。彼の端的な答えは、なぜ意味や理由が暗黙の前提になっているのかという根源的な問いでもあると言えるでしょう。

にもかかわらず、人は今もやはり問うのです。「なぜ正方形のものをピラミッド状に積むのか?」と。

そこに正方形のものがあるからというほかありません。

意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことは、誰にとっても豊かです。この点に異存はありません。しかしこの点に基準を置くと、意味がなくて非生産的な時間は当然、マイナスになります。

一方、意味がなくて非生産的な時間を楽しく過ごせるならば、意味があって生産的な時間を楽しく過ごすことはより豊かになります。ここにはマイナスどころか、プラスしかありません。

実際のところどちらが豊かな日々であると言えるか、考えるまでもないはずです。

前々回はめんどくさくて省いてしまったけれど、退屈こそ味わう甲斐があるという、その理由がここにあります。

それはまあそれとして今回の回答ですが、僕はミックスベジタブルのにんじんを推したいとおもいます。なんとなればサイコロの大きさがどうあれ、にんじんなら削ってより小さくすることが可能だからです。もちろん、加工せずにそのままちょこんと乗せるのもよいでしょう。

より厳密に、ピラミッドのキャップストーンのように四角錐にしたいという場合でも、ミックスベジタブルのにんじんは自由にカットできる点でその要求に十分応えられる逸材です。

せっかく正方形しばりで来たのだから、個人的にはできれば加工せずにそのままちょこんと乗せたいですね。サイコロがそれを下回るサイズでないことを願うばかりです。


A. ミックスベジタブルのにんじんがオススメです。




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その460につづく!

2025年8月15日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その458


たけのこの佐藤さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 身体を起こすエネルギーはないけど、眠れもしないとき、スマホをダラダラ見るのをやめたいです。代わりにできることやオススメの考え事があれば教えてください!


僕はわりと日ごろから床に寝っ転がる男なのだけれど、そんなに多くの人が日常的にコロコロと床に寝っ転がっているともおもえないので、ここでは仮にベッドでの話としておきましょう。

気が向くとすぐ床に寝っ転がる人の割合に比べれば、寝床にスマホを持ちこむ人の割合はおそらくめちゃめちゃ多そうな印象です。したがって、同じような悩みを抱く人もまためちゃめちゃ多いだろうな、と想像できます。

そしてこれを他人事のように書かざるを得ないのは、僕が寝床にスマホを置かない男だからです。

なぜと問われると、ちょっと困ります。何しろ意識的にそうしているわけでもありません。別にいいか、くらいにしか思っていないというか、なぜだろう。しいて言えば寝ることしか考えてないんじゃないだろうか。

枕元にはいつも何かしらの本があって、寝つきのわるいときは眠たくなるまで、すでに眠たいときはもっと眠たくなるまでぺらぺらとめくっています。ただ日常的にそれほど本に対する欲求が強くない場合、あまり甲斐がないのもよくわかる。それならまだスマホのほうが、となるのも無理はありません。

おもうに、おそらくスマホは僕らが自覚する以上に、安心と結びついている印象があります。

僕なんかはたまにスマホを忘れて外出してもそれほど緊迫しないというか、別に困りもしない気の毒な生き様なので、あらまあ程度で済みますが、大多数の人はそうならないでしょう。今や連絡、支払い、指定の時間や地図なんかにしても、これなくしては立ち行かない社会です。なくてよいときなどほとんどありません。

そして手元にあるのが当たり前ということは、手元にないと当然、不安に直結します。現代人にとってスマホは、特に明確なわけでもない茫漠とした不安を抑制してくれる、お守りみたいなものでもあるのです。そもそもスマホが存在しなければ抱きようのない不安でもある、という身も蓋もない話はこの際脇に寄せておきましょう。

そうなるとたとえば、本を読むといいよ、とかこんなことを考えるといいよ、というアドバイスはたぶん役にたちません。とにかくまず至近距離にスマホがないと落ち着かないし、スマホがあったらあったでそっちに気を取られて読書も考え事もへったくれもないからです。

以上を踏まえた上で、というのはつまり、スマホを至近距離に置いた上で触れずに済む、最もシンプルな解決のひとつはラジオとかポッドキャスト、もしくはオーディオブックだと僕はおもいます。

日常のお供からアカデミックなものまで、選択肢は無数にあるし、誰かの話や朗読は聞いているうちにそのままじぶんの考えごとに発展することもあるでしょう。

とりわけ僕が強調したいのは、です。耳に心地よく感じられる声というのは聞いているだけで癒され、脳汁が溢れ出すところがあります。他では聞けないような特別な話をしているわけでもないし、何なら話の印象が残らなかったりするのに、話し方とか、声の高低とか、ペースとか、ただ耳を傾けているだけで満たされることが実際あるんですよね。

なのでここはひとつ、じぶんにしっくりくる番組やパーソナリティ、もしくは朗読を探してみましょう。有用かどうかは問題ではありません。ただただ、リラックスできるかどうかです。

もしぴったりのものに出会うことができたら、自然と寝床でスマホに触れることも減るんじゃないかとおもいます。好きなアーティストのポッドキャストなんかあったら、入り口としては最高ですね。


A. じぶんに心地よい声を探してみましょう。




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その459につづく!


2025年8月8日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その457


カリオストロ四郎さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 現在ニュージーランドで過ごしている23歳・オスです。なんとか仕事が見つかり生活が落ち着きましたが、この国は日本と比べて娯楽が少なく、日本のぬるま湯に浸りまくっていた私にとって、この環境が非常に退屈だと感じ始めています。おまけに友達も少なく、もちろん恋人もいないため、毎日ひもじい思いをするばかりです。ムール貝博士が娯楽の少ない外国で生活をするなら、余暇時間は何をして過ごしますか?


ニュージーランド、いいですね。と言っても僕が知っているのはキウイ(鳥)とオールブラックスくらいなのでほとんど何も知りませんが、とりわけカカポというずんぐりした鳥が暮らす世界で唯一の土地である、という点で個人的に心を寄せています。


カカポはオウムの仲間で、キウイと同じく夜行性の飛ばない鳥です。ただし、キウイと違ってカカポの生息域には古くから捕食者が存在しなかったため、防衛反応や警戒心というものがほとんどありません。実際、人が近づいても「?」という顔をするだけです。したがって、人間の入植に伴ってネズミなんかの捕食者が生息域に侵入してからも、彼らが捕食者であるという認識をもつことができず、完全に無防備のまま、あっという間にその数が減ってしまいました。近年の手厚い保護によってだいぶ数を増やしたものの、それでもまだ300匹に満たない、まごうかたなき絶滅危惧種です。

しかし僕が心を寄せているのは絶滅危惧種だからではありません。長年の環境によるところが大きいとはいえ、カカポが敵意の欠片も持たない鳥だからです。

徹頭徹尾弱肉強食が貫かれるこの世界において、カカポほどやさしく、平和で、尊い生物は他にありません。

敵がいなかったんだから当然といえば当然だけれど、敵意を持ち合わせないということは、極端に言い切ってしまえば愛しかないということです。そんなファンタジー丸出しの生物が現実に存在するなんて、とカカポのことを考えるたびに心がふるえます。だって愛しか知らない種族ですよ!フィクションだったら陳腐と一蹴されそうだけど、現実だからこそその事実は重い。

キウイも含めて、カカポにかぎらず総じて捕食圧が著しく低かった、ニュージーランドとは世界的にも極めて特異な土地のひとつです。


さて、そういう話ではないことを思い出したところで、質問に戻りましょう。若いうちに海外に出ることはともかく、そこで職を得る、というのは僕からするととんでもない偉業です。それはこの先、英語が通じる国ならどこでも生きていけるということでもあるし、なんなら他のどんな国でも、その胆力があれば生きていけます。誰にでもできるわけでは全然ないし、それをすでに成し遂げてなんならちょっと落ち着いているとすれば、それだけで心から尊敬の念を抱かずにはいられません。

一方、僕にとってちょっと不思議なのは、はて娯楽とはなんぞや、という点です。

僕が20代前半だったころを思い出してみると、そうですね、毎晩のようにビリヤードに通っていました。誰かと競うゲームのように思われるかもしれないけど、ボウラードというボウリングを模したプレイ方法があるので、1人でもぜんぜん問題なかったのです。バイト先の先輩と打つこともあったけど、缶コーヒーと煙草を手にひとりコツコツ打ってた記憶があります。それ以外はどうかというと、本を買いまくったり、美術館に通ったり、CDを買いまくったり、レンタルビデオ店で映画を借りまくったり、パンを焼いてみたり、ヤマハのXJRをあてもなく乗り回しては派手に事故って宙を舞ったりとか、その程度です。とくにCDはひと月に30枚以上買ってたとおもう。

しかるにマンガや音楽や映画は、現代においてネット環境があれば事足ります。また知りたいとか学びたいことがあれば、図書館や博物館に行かずともある程度まではカバーできるでしょう。

退屈ってどういうことやねん、と僕なんかは訝ります。

つまり僕からすると、これまでが娯楽に溢れすぎていた、という印象です。あまりに暇すぎてすることがなかった若かりしころの僕はゴルフボールを3個重ねることに多大な時間を費やしていたことがありますが(一度だけ成功したことがあります)、どう考えてもネット回線があればそんなことはしていません。退屈とはそういうことです。なぜゴルフをしない僕がゴルフボールを3個持っていたのかは、思い出そうとしてみてもさっぱりわからない。

したがって、今感じている退屈こそむしろ極めて貴重な経験である、と断言してよいでしょう。それはまちがいなく同世代が感じることのないもののひとつであり、僕からすると今のうちに全身で堪能しておくべき経験のひとつです。確実にこの先の大きな糧にもなるでしょう。

どうしても耐えられなくなった場合は、カカポに思いを馳せてみてください。


A. 退屈、それは現代では得難い経験のひとつです。




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その458につづく!

2025年8月1日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説 その他の不毛かつ不可欠なギミックについて


さて、VOL.9についてはお話しできることもだいぶ少なくなってまいりました。(だだっ広い講堂で2、3人がポツンポツンと離れて席についているイメージ)

あってもなくても楽曲には何の影響もないというか、なくても別に困らないけれども、これまでのシリーズにはなくて今回にだけあるもの、それがジャケット画像に含まれたタイアップステッカーです。


今となっては見かけることもない過去の遺物みたいなツールなので、念のためご説明しましょう。タイアップステッカーとはその昔、CDのケースとかフィルムの外側に貼られていた販促ツールです。アルバムに収録された曲がドラマとかアニメの主題歌や挿入歌、CMソングなどに採用されていることを、このステッカーでアピールしていたわけですね。

極端な例では全曲タイアップ(!)を掲げたアルバムなんかもあって、ステッカーの面積がジャケットの1/3を占めていたほどです。あの曲入ってますというアピールのためのステッカーなのに、ジャケットの全体像がわからないばかりかお目当ての曲が入っているかどうかもパッと見ではわからないという本末転倒ぶりに、なんともいえない趣がありました。それもこれも、このステッカーが文化として定着していたからこそです。

VOL.9のジャケット右下にあるステッカーは、こうした文化へのオマージュとして描かれています。

こう書くとこのためにタイアップが企画されたように思われるかもしれませんが、そうではありません。実際には世間一般の流れと同じく、タイアップの企画がまず先にあり、驚異的なクオリティで世間を震撼させた例のCMが放流されたのち、ふとステッカーが貼れることに気づいたという次第です。ジャケットも自前のアグロー案内だからこそできた、画期的なアプローチだったと申せましょう。


ただ、ステッカーを含めたジャケットが配信の審査に通るかどうかもちょっとした賭けでした。というのも、配信にはフィジカルの時代にはなかったいろいろと細かなルールがあって、そのルールに抵触する場合は受理してもらえないからです。「紙芝居を安全に楽しむために」もそうだけど、考えてみたらアグロー案内にはそういう、ちょっと待ちなさいと言われかねない異物的な何かがあちこちにあります。異物どころかこちらとしてはむしろその正当性を主張するスタンスです。言ってみれば始まりから今に至るまで常に道を切り開いているのだ、と改めて強調してもよいでしょう。

一方、こうした水面下のハードルゆえに、できなかったこともあります。アポロニカ学習帳のCMには山本和男がしれっと出演しているので、できれば「feat.山本和男」と表記したかったのだけれど、これは叶いませんでした。

というのも、フィーチャリングを表記する場合、その人物を楽曲とは別にアーティストとして登録する必要があるからです。探偵としてならともかく、アーティストとして登録することにはさすがに僕らもちょっと抵抗があります。山本和男自身は諸手を挙げて歓迎する気もしますが、どちらかというとだからこそイヤです。ない謎を解く本分に集中してほしい。


とまあ、ひと月に渡って語り散らしてきましたが、ともあれ肝心の音楽的側面がすっぽ抜けていることを除けば、これがアグロー案内 VOL.9の全貌である、ということになります。辛抱づよくお付き合いいただいたみなさまには本当に感謝しかありません。

(だだっ広い講堂で2、3人がポツンポツンと離れて席についているイメージ)

(まばらな拍手)

ではまた、アグロー案内 VOL.10でお会いしましょう!


2025年7月25日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「名探偵、都会へ行く/the adventure of a wandering man」


リリースから3週間が経過した今でもトレンドの上位を独占し続け、一向に話題の尽きる気配がないほどの一大ムーブメントを巻き起こしているとアポロニカ学習帳に書いてあるアグロー案内 VOL.9、今回は当プロジェクトのメインコンテンツにいよいよ昇格した感のある山本和男シリーズの新たな局面についてです。

前回のVOL.8では、足を滑らせて滝壺に落下したはずの山本和男が、どういうわけかセスナの機体外側に仁王立ちで颯爽と現れ、奇跡の大復活を果たしています。そしてこれは、新たに幕を開けたシーズン2のスケールアップを暗示していた、と言ってよいでしょう。アグローという町がホームだとすれば、次の舞台は世界である、そんな壮大なビジョンがあるように思われます。

ニューヨークのハーレムを舞台にしていた映画「黒いジャガー(Shaft)」が3作目の「黒いジャガー/アフリカ作戦(Shaft in Africa)」でエチオピアに行ってしまうようなことですね。

基本的な活動範囲が自転車で回れるところに限られている山本和男からすれば、大都市を闊歩するだけでなんだか国際的な名声を得たような気になるのも無理はありません。そして実際、彼はそう考えているでしょう。彼が海外の名だたる都市にいるのか、あるいは関東なら大宮とか町田あたりにいるのか、それはさすがに僕もわかりませんが、個人的にはなんとなく後者の印象です。

ちなみに副題の「the adventure of a wandering man」は、「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」に収録されている「踊る人形(The Adventure of the Dancing Men)」を元にしています。ホームズが滝壺に落ちたあとの短編集であるあたり、じつに抜かりありません。

あと、そうだこの曲における会話の通話先、つまり加藤くん視点がリリース前にSNSで示されていたので、これも参考にしてみてください。


それにしても山本和男は大宮、じゃなかった大都会で何をしているのか、そしてこれまでに提示されたような気がしなくもない謎には一体どんな関連があるのか、それとも全然ないのか、すべてはアグロー案内シリーズの再生回数にかかっていると言ってもそれこそ過言ではありません。積極的にどんどん再生していきましょう。

なんかこう、展開の仕方が昭和のゲーセンにあった脱衣マージャンみたいな気がしないでもないですが、脱ぐ必要性と需要が1ミリもないぶん、はるかに健全で好ましいと僕なんかはおもいます。


2025年7月18日金曜日

アグロー案内 VOL.9解説「魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish」


まずは前提として、先週に引き続き「饗宴2025/eureka (revisited)」の話をもうすこしだけしておきましょう。

饗宴2025/eureka (revisited)」は僕としても胸を張れる作品のひとつですが、書き手の視点からするとこれは基本的というかごくごくオーソドックスな手順で書かれています。

書かれたテキストは最初から最後まで一貫して、1小節につき1行が目安です。小節の最後に句点「。」がつくイメージですね。

それはもう本当にシンプルで、人にも伝授できます。基本的とはそういう意味です。基本も何も当時の僕にはそれしかやりようがなかったという身も蓋もない事情はひとまず投げ捨てておきましょう。

対して「魚はスープで騎士の夢を見る/the order of the landfish」は、この目安がないというか、小節をほとんど意識していません。きっちり収めようとして書いたのは脚韻を踏むフックだけです。

とはいえ段落としての区切りはほしいので、だいたい8小節くらいに収まるテキスト量をなんとなく意識してはいましたが、それが実際に収まるかどうかは書いている段階ではぜんぜんわかりませんでした。とにかく描きたい情景を書きたいように書くことを優先しています。句点が小節の最後に置かれず、あちこちに散らばっているのはそのためです。

つまり、ビートが前提のリリックではなく、テキストを書いたあとでそれをどうビートに乗せるか、という手順になっているわけですね。

小節単位の基本的な手順であれば、書いてすぐ録音することができます。何しろ書く段階ですでにどう乗せるかのイメージが概ね確定しているのだから当然です。

しかしビートを踏まえず好きに書き散らかしたものを乗せるとなると、さらに一手間増えることになります。そもそも一文の区切りがどこにくるのかさえ、この段階ではわかっていません。フレーズごとに配置を決めながら、文意を損なうことなく、盆栽のように細部をちょきちょき整えていく工程が必要になります。

そんなに面倒ならやらなきゃいいのにと僕も思いますが、それでもやるのはこれがラップと違って明確にリーディングでしかできないことだからです。

それを端的に象徴するというか、僕自身ビートに乗せる段になって驚いた部分が、5段落目にあります。

「夢を見ていた。1匹の魚として、気の向くままに泳ぐ……はずが、どこかに囚われている。水槽?にしてはすこし狭すぎる。浴槽?にしては熱すぎる。むしろご馳走……つまりスープらしいと気づいた。誰かの投げた匙で今まさに食われようとしているところ。」という部分です。

ここでは「水槽」「浴槽」「ご馳走」で語尾を揃えています。もし初めからビートと押韻を意識していたなら、小節の最後=脚韻として書いたはずですが、実際には小節の頭に跨って、音的にはむしろ頭韻になっているのです。なんなら水槽という2文字すら前後で小節に跨っている

どう考えても、小節を意識していたら踏めない韻がここにあります。そして僕がラップと言わずにリーディングと言い張り続ける理由のひとつもまた、ここにある。

結果論なので毎回これを意識するとまた話が変わってくるけど、少なくともリーディングならこんなこともできるという一例に、この作品はなっているのです。


それからフックにある「パパラッチもどさくさに紛れてスクープ」というラインについても、せっかくなので注釈を加えておきましょう。スクープはもちろん英語で “scoop” なわけですが、じつはこれ元来は掬うという意味があります。

音も意味も「掬う」とほぼ同じです。

ただ日本語の「掬う」は小さじであっても「掬う」である一方、英語の "scoop" は塊というか、ある程度のまとまりに限定されます。アイスとか土とか、ごそっとラフに抉るようなイメージです。コンソメスープには適さないけど、具沢山の豚汁とかならscoopでもOKというかんじ。たぶんオランダ由来の「スコップ」と同根じゃないかとおもう。

ここから僕らもよく知る「スクープ=特ダネ」に転じたわけですね。

つまりここでは、パパラッチが晩餐会の様子を激写していると同時に、じつは一緒になってスープを食っているというダブルミーニングになっているのです。

突拍子もないように見えて、どいつもこいつもスープに手を伸ばすような状況においてはむしろ彼こそ必要な存在だったと申せましょう。そしてscoopというからにはかなりがっつり食っているはずです。


そして最後にどうでもいいと言えばどうでもいいことこの上ない話ですが、この作品、「手漕ぎボート/helmsman says」、「象を一撃でたおす文章の書きかた/giant leap method」、「ダイヤモンド鉱/hot water pressure washer」からなるカッコいい靴三部作」第四部です。

そもそもそんなシリーズが存在したことすらご存知ないほうが当然なので、えっどういうこと…?という人はよーく聴くと同じキーワードが含まれているので、この機会に聴き返してみてね。

基本スキルによる最高峰のひとつと20年を経た応用スキルがひとつにパッケージングされているばかりか、過去ともつながる VOL.9 は個人的にも胸に染み入るものがあります。じーん。