3016年2月2日金曜日
2024年11月24日日曜日
ある意味でロシアンルーレットみたいな夜だったこと
慣れないライブの後はいつも力尽きて、しばらく人として使い物にならない日々が続くわけですけれども、今回は翌日本当に発熱してぶっ倒れておりました。まじかよとお思いでしょうが、僕もまったく同感です。ワンマンと言っても過言ではないライブをやっておいて毎回なぜ二の足を踏むのか、図らずも証明してしまったと申せましょう。プーン!(鼻をかむ音)
ともあれ「アグローと夜 2024」はおかげさまで今年も大団円のうちに閉幕と相成りました。今回も北は北海道から南は大分まで、全国各地プラス海外は中国からもお越しいただいて、この感謝の気持ちをどうお伝えしたらよいのか言葉もありません。ありがとうありがとうありがとう!
常に多くの機会を有するタケウチカズタケはともかく、まずそんな機会のない僕について言えば世界中に点在する全フォロワーが一堂に会する何らかの記念日であり、四葉のクローバーを見つけるよりも難しい同志の存在を実感できる千載一遇の夜です。
だからこそ、その甲斐あったと感じてもらえる夜になるよう全身全霊で努めていますけれども、とりわけ今年はいつになくその実感がありました。
何と言っても今回最大の特徴は、曲の合間にちょいちょいCMが挿入されたことです。ふつう挟まれるのはCMではなくMCのはずですが、たっぷりあるMCとはぜんぜん別に、演者自ら丹精こめて製作したCMが流れる構成だったわけですね。そしてそのクオリティたるや下手な外注を余裕で上回るレベルであったと、これも申し添えておきましょう。曲の余韻に浸る間もなく唐突に不可解なCMがぶちこまれるばかりか、次はどんなCMで、いつ流れるのかもわからない以上、ほとんどロシアンルーレットみたいなものであり、場内のアドレナリン濃度が高まるのは当然というほかありません。超たのしかったよね!
それから、僕にとってもカズタケさんにとっても想定外の変化を遂げつつあるのが、去年も披露している「紙芝居を安全に楽しむために」です。
これはもともとビートに合わせて書いたものではありません。そもそも音楽に乗せることすら想定されておらず、音楽とは関係のない仕事でプレゼンのためにデモとして録音しておいた、純然たる朗読です。それを組曲に仕立ててくれたのがカズタケさんなわけですが、朗読としての全体のリズムを維持しつつも、朗読をビートに合わせてめちゃめちゃ細かく調整してくれています。つまりビートを意識しながら朗読したような仕上がりになっているのです。単に朗読とBGMを貼り合わせた作品では、全然ない。それどころか余人には窺い知れない極めて高度な音楽的スキルがしれっと施されています。今でもアグロー案内における傑作の一つとして揺るがない所以です。
それゆえに当然、ライブでの精密な再現はほぼ不可能に近い。(というか本人含めて誰も求めていない)
と思っていたのだけれど、音源と同じである必要はないし、むしろ違うほうがライブらしくていいし、タイム感が変わっても問題なく対応できるから、テキスト読みながらでもええやん、とカズタケさんが請けあってくれたので、思いきって去年も一昨年も披露してきた次第です。
ところがこの3年で何百回も繰り返し練習しているうちに、僕のほうに意外な変化が起きました。これまでは綱渡りをするような感覚だったのが、口笛を吹きながら綱を渡るような感覚に変わってきたのです。
もうすこし具体的には、カズタケさんのビートに対してこちらから掴むイメージを持てるようになった、もしくは初めからビートがあることを前提にした朗読であったかのように、自ら寄せることができるようになってきています。
僕自身はもちろん、カズタケさんにとっても想定外、と先に書いたのはそのためです。作品としての発端を考えると、こんな着地は夢にも思っていなかった。
15分もの間、ただひたすら自己啓発セミナーの講師よろしくぺらぺらと喋っているだけのように見えながら、足場としてのリズムを要所要所で確実に踏んでいくとすれば、その醍醐味はまさにライブならではということになるでしょう。
もはやテキストの中身など問題ではありません。どのみち何も言っていないに等しいのだから、意味を聞き取る必要もない。何だかよくわからない異様な熱弁が気がつけば音楽とシンクロしている、そんな不思議な感覚を、おそらくライブではより強く味わえます。意味を追わずにぼーっと聴けば聴くほど、音楽的な側面が色濃く浮かび上がるはずです。そういう作品じゃなかったはずなんだけど。
そしてもうひとつ、「コード四〇四」が新たにラインナップに加わったことで、個人的にはピースの揃った印象があります。表現としての振り幅が大きければ大きいほど、却って他の作品が活きてくるはずとずっと思っていたので、これはうれしかった。昔は自分にとって超絶技巧だったのが、今では単なる技巧のひとつでしかないと知ることができたのも大きい。
今でこそ当たり前のようにカズタケさんのピアノひとつで「棘」や「処方箋」を演っているけれど、最初はちいさなライブで即興的に試してみたらビートなしではリズムがぜんぜんとれなくてグダグダになり、赤っ恥をかいた記憶があります。それだって昔の僕には超絶技巧だったのです。
総じて、ぜんぶ丸ごと、観てもらえてよかったと思える、そして心から楽しかったと言える夜、それが「アグローと夜 2024」だったと思います。それもこれも、新たな引き出しを開けてくれた御大タケウチカズタケのおかげであり、何より今もこうしてお付き合いくださるみなさまのおかげです。もしまたこんな夜があるとしたら、絶対に心躍るひとときになると胸を張って言いたい。
心躍るひとときになることを確約できるのに、ライブそのものを確約できないのは、やると発熱して寝こむからです。こればっかりはもう、体質だからしかたありません。
とにもかくにも、またお目にかかることを心から願って!
本当にありがとうー!
2024年11月15日金曜日
空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates
どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな
夜がそこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は
電源を切った
張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
こうして彼女は
電源を切った
あるときレンガ塀に
羽を広げてくつろぐ
一羽の蛾を見た
行きも帰りも
おなじ塀におなじ姿で
鳴りをひそめて微動だにしない
明けても暮れても
変わらずそこにいて
その位置だけがときどき移ろう
こんな時期に花の蜜はあるだろうか?
彼女はその蛾をソクラテスと名づけた
彼女はその姿に哲学者を見た
煉瓦はそれぞれが問いにも見えた
気品と
威厳と
深慮と
孤独と
しなやかな強さと
儚げな脆さと
どうしたらそう泰然自若として
いられるの?
得られるの?
あるいは選べるの?
その目に映る風景を訪ねたくて
彼女は電源を切った
張り巡らされた網の目がほどける
繋いでいた線が点線に砕ける
結び目は幾千もの点と散らばる
その距離は互いに果てしなく遠ざかる
広大無辺にぽつりと浮かびながら
投げ出された宇宙飛行士さながらに
手にしていた星を
いまは見晴かす
そのひとつひとつが
ゆらめいて瞬く
消えたのは重力
残ったのは余白
寄り添うのは初めて知るやさしい孤独
こんなに余白があるなら
絵を描こうか?
お湯を沸かして
紅茶を淹れようか?
茶葉はほぐれて踊るように開く
みるみる紅く染まり取り巻く
ひと口ごとにつく息は深く
おかえりと呟く
誰にともなく
どこにでも転がる
ありきたりで石ころみたいな夜が
そこにあった
光があった
言葉もあった
0と、そして
1でもあった
よろこびがあり
かなしみがあり
それを誰かと分け合ってもいた
何よりそこには安らぎがあった
それでも彼女は電源を切った
レンガ塀の哲学者を
思い浮かべる
あの繊細な羽を
思い浮かべる
舞い上がるためにある
と見えてむしろあれは
舞い降りるためにこそ
あるんだろうと
損なうことなく
足はいずれ地につく
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ
ひと思いにと手放すつもりで
身を投げる思いで
ふわりと降り立つ
空に身を投げて
ふわりと降り立つ
空に身を投げて
ふわりと降り立つ
2024年11月8日金曜日
アグロー案内 VOL.7 リリースのお知らせ
今年中にできたらいいな〜とはもちろん夢見ておりましたけれども、なにぶんいろいろとタイミングというものがあります。その点に拘泥しないことこそが、細くとも長く続ける秘訣のひとつである、と大らかに構えていたらここにきて急転直下の展開です。
シリーズも早8作目となるアグロー案内 VOL.8 が、年に一度もあるとは断言しきれない稀有な実演会「アグローと夜」(おかげさまでチケットは完売です!)を前に、まさかのリリース決定と相成りました。
前回のVOL.7では「告知から配信まで10日しかない」と右往左往していましたが、あれくらいはなんでもなかったと今なら申せましょう。ぶっちゃけ今回はその比ではありません。何しろ配信日は11月15日(金)です。
7日後。
そして年に一度もあるとは言えない「アグローと夜」の7日前です。
また改めて書くつもりでいるけれど、収録される新作は、詩を書いたりそれを詠んだりしていたときよりも、すこし日がたって聴く今のほうが思い入れが深い、そんな仕上がりになっています。
制作過程のキャッチボールによって着地がここまで変わる、という意味ではシリーズ随一と言っても過言ではありません。僕がイメージしていたよりもはるかに高みに連れていってくれたというか、コップに入れた塩水をカズタケさんに預けたら海になって返ってきたようなものです。海水じゃなくて、海ですよ。嘘偽りなく、この曲は言葉を聴き終えてからが真骨頂であって、そりゃ目ん玉もスポンと転げ落ちましょう。
そしておなじみ、名探偵山本和男の新しいテーマでは、前代未聞の事件が起こります。
何しろ楽曲そのものが事件の現場になっているのです。
事件を描写しているわけではありません。曲それ自体が事件です。正直、まさかそんな着地をすることになるとは制作過程で想像もしていなかったし、当の僕らでさえ面食らっているところがあります。果たしてこれは解決するのか、しないのか、それとも新たな謎へと展開するのか、いずれにしても「そんなことある!?!?!?」という、他所ではまずお目にかからない、現実的にはほぼほぼ無理なアプローチになっているとおもうので、楽しみにしていてください。
いやーすごいわ、ほんと、いろんなことができるもんだなあ…(しみじみ)
2024年11月1日金曜日
アグローと夜2024では会場限定販売となるCDがあること
SNSでさんざんわめき散らしたのでここに明記しておくのをすっかり忘れていましたが、11月22日(金)に予定されている「アグローと夜2024」では会場限定販売となるCDがございます。去年もあったのでだいたい同じような感じかな、と思いきやさにあらず、今回はアグロー案内シリーズとしてリリースされた楽曲のインストやアカペラはもちろん、わざわざこのためだけに制作されたCMが多く収録されているのです。
CM…と侮ってはいけません。そのクオリティたるや驚異的であり、考えようによってはアグロー案内というプロジェクトの真骨頂と言っても過言ではない出来栄えです。うちの人なんかはこれだけを延々とリピートしながらずっと腹を抱えて転げ回っていた、と付け加えてもいいでしょう。
考えてもみてください。ここにいるのはミュージシャンとして第一線で活躍する男と、言葉と声を武器にする男です。何らかのCMを制作するのにこれ以上うってつけの組み合わせはありません。そしてそれは今回の会場限定販売CDで、明確に証明されています。こんなかんじのCMがあってもいいのにな、というふわっとした妄想を見事に軽々と上回る完成度で、当事者である僕らとしても爆笑を禁じ得ません。たとえば僕がこんなアイデアを別の誰かに持ちかけても、タケウチカズタケがいなければここまでのクオリティに達することはないでしょう。もちろん、その逆も然りです。聴けばわかります。そしてまったくその通りだと、完全に納得してもらえるはずです。
僕は元来ライブというのものにめちゃめちゃ及び腰な男ですが、これが販売できるなら喜んでライブをするし、むしろしたい、と本気でおもいます。そういうレベルです。
そうは言ってもなかなかイメージしづらいと思うので、収録される予定のCMとその銘柄をここに記しておきましょう。
・阿具楼本舗「浅利のしぐれ煮」
・ボスコム「アグローミルクチョコレート」
・誘拐代行はおまかせ!キッドナップサービス
・赤毛堂「ピッチピッチチャップス」
・その他数点
これらは当日も会場で流れる予定ですが、一度聴けばもう一度聴きたくなること請け合いです。
そしてそれを聴くためには、ぜひとも会場に足を運んでいただかなくてはなりません。
チケットはおかげさまで多くの方にご購入いただいています。が、まだ若干(数名…?)は購入可能だそうなので、どうかどうか、この機会をお見逃しなく…!
チケットのご購入はこちら!
2024年10月18日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その434
ジャバザハットたかたさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q.一見幸せなようで実は不幸なんじゃないか、と思うことは何ですか。
言わんとするところはよくわかります。それはたとえば、絶世の美男/美女と結婚することと、その美しさゆえに気苦労も絶えないことがカードの表裏になっている、みたいなことですよね?みんなでワイワイと論じたらぜったい楽しいし、僕もその場にいればあーでもないこーでもないと考えるでしょう。
ただ、こうして今、僕ひとりになってみると、同じように考えることはできません。なんとなればこの問題は、「幸不幸は比較によって判断されるもの」という、こうして言葉にしてみたら絶対に誰もそれにイエスとは言わないはずの前提に立っているからです。
絶世の美男/美女と結婚した本人が幸せならそれはもう絶対に幸せであり、逆に本人が気苦労の絶えないことを不幸と言うならこれまた誰がなんと言おうと不幸と結論づけるほかありません。幸福とは徹頭徹尾、本人だけの問題です。重要なのは幸せかどうかであって、幸せに見えるかどうかではない点に注意しましょう。
実際、多くの人は幸せに見えるかどうかを幸せの基準と考えている印象があります。言ってしまえば、人が羨むかどうかです。そしてその幸せは比較によって相対的に決定されるので、ぜんぜん別の尺度を持ち出して比較した途端、不幸に転じて見えたりするわけですね。でもそれはせいぜい比較する第三者の溜飲を下げることにしかならないし、それゆえに却って羨望が日々つきまとうことになります。ですよね?
かくいう僕も、たとえば「良いものを安く買えた」といったことに喜びを感じてしまう男なので、日々反省しきりです。それはそれでまちがいなく幸せではあるんだけど、でもこの幸せはもっと安く買えたと知った途端に色褪せてしまいます。良いものであることには何ら変わりがないにもかかわらずです。こうして文字にすると本当にバカバカしくなるけど、何しろずっとバカなのでしかたがありません。
一方、うちの人なんかはむしろ「良いものを買えた」ことに喜びを見出すタイプです。そこに価格の高低はあまり関係がない。なのでそこで得た幸せはいつまでも色褪せることなく、燦然と輝いているわけですね。ああもう、ほんとにそういうことだよな、といつもおもう。
この強度のちがいがおわかりだろうか。
以上のことを総合すると、答えは自ずとこうなります。
A. 比較によって得られる幸せすべてです。
*
質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その435につづく!
2024年10月11日金曜日
ゆで玉子の誤謬について考える
ああ、あのこと書き残しておけばよかったなあ、と思いながらこの世を去り、その未練が原因で成仏できず、怨霊となって下界をうろつくようになっても困るので、今のうちにゆで玉子のことを書き残しておきます。ゆで玉子を手にうろつく怨霊は想像するだけでめちゃめちゃ怖いです。そういう望ましくない未来を断ち切るためだけでも、今回の話にはたいへんな意義があると申せましょう。
僕がここである種の遺言として書き残しておきたいのは、「玉子の殻を剥きやすくする技」のことです。玉子のお尻に穴を開けたり、酢を入れて茹でたりといろいろありますが、技そのものや効果を否定したいわけではありません。率直に言えば、それ以前の問題です。そして僕がこのことに懸念を抱いているのは、それが必ずしも玉子にかぎった話ではないからです。
たとえばここに、殻が剥きやすくなる技を使って、きれいに剥けたゆで玉子があるとします。技のおかげできれいに剥けたと考えるのはごく自然な気もしますが、実はそうとはかぎりません。
なんとなればここには、技を使わなくても殻がきれいに剥けた可能性もあるからです。おわかりだろうか?
もちろん、技のおかげである可能性も同じくらいあります。それを否定したいわけではないと言ったのはそのためです。問題は、それを証明することは誰にもできない、という点です。
それを証明するためには、同じ1つの玉子で「技を使った場合」と「使わなかった場合」の両方を試す必要があります。まったく同じ条件下であっても、別々の玉子であればその時点で証明にならない点に注意しましょう。実際、同じパックの玉子でも剥きやすさが違うことは往々にしてあります。証明するなら、あくまで1つの玉子で2つのやり方を検証しなくてはいけません。
いや、無理じゃん、と思われましょう。そのとおりです。ではなぜその技が有効であると断言できるんだろうか?同じ玉子で技を使わなかった場合を検証していないし、したくてもできないのに?
玉子にかぎった話ではないと先に書きましたが、では玉子抜きで言い換えてみましょう。ここでは、本来であれば2つの結果を比較して初めて証明されるはずのことが、1つの結果のみで証明されたことになっています。
というのも、得られた結果が言ってみれば望んだとおりだったからです。誤謬に気づかない理由がここにある。
具体的すぎる別のケースに置き換えてみましょう。たとえば僕がアルバムのリリース前に全曲試聴を用意したい、と主張したとします。それに対して、全曲試聴はネタバレみたいなもので期待値を下げるし、売り上げを下げることに繋がりかねないから試聴は1、2曲にとどめたい、と反対されたとします。その意見を尤もだと受け止めた僕は、試聴を1、2曲にすることに合意します。アルバムはぶじリリースされ、なかなか好調な滑り出しを見せたとします。ここまではよろしい。問題はその後です。
この状況で、「試聴を1、2曲にとどめて正解だった」と結論づけることは可能だろうか?リリース後の好調な滑り出しは、全曲試聴をしていたらこれ以下の結果にしかならなかったと結論できる根拠になっているだろうか?
なっていません。ですよね?
これを先のゆで玉子に置き換えるなら、「技を使った場合」が「試聴を1、2曲にとどめる」で、「技を使わなかった場合」が「全曲試聴」になります。繰り返すけれど、それはどちらも、同時に検証することができません。
全曲だろうと数曲だろうと試聴が売上にさほど影響しなかった可能性もあれば、全曲試聴が思いのほか功を奏した可能性もある。しかし得られた結果が望んだとおりかそれ以上になると、検証のしようがない他の可能性に蓋をして、判断の正しかったことが証明された、と考えてしまうわけですね。
ゆで玉子くらいなら別に問題でもないけれど、この論理的誤謬が本質的にマズいのは、誤謬と気づかずに証明されたと考えてしまうことがそのまま経験値として次の判断に影響を与えることになるからです。ぶっちゃけ会社組織なんかもう、そんなんばっかなんじゃないかとおもう。
そしてこのゆで玉子の話がめちゃめちゃ教訓的なのは、件の誤謬が例外どころか、ほぼすべての人に適用される可能性を示唆しているからです。これが教訓でなくて何だろう?
そんなわけで、以前はあれこれ試してみたりもしたけれど、今の僕はゆで玉子の殻をきれいに剥くための技を使っていません。経験則としてやっているのは、茹でた直後に水で冷やすこと、あまり新しい玉子を使わないこと、の2つだけです。
うまく剥けないときもあるけど、人生だって似たようなもんですからね。
登録:
投稿 (Atom)