ジャバザハットたかたさんからの質問です(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q.一見幸せなようで実は不幸なんじゃないか、と思うことは何ですか。
言わんとするところはよくわかります。それはたとえば、絶世の美男/美女と結婚することと、その美しさゆえに気苦労も絶えないことがカードの表裏になっている、みたいなことですよね?みんなでワイワイと論じたらぜったい楽しいし、僕もその場にいればあーでもないこーでもないと考えるでしょう。
ただ、こうして今、僕ひとりになってみると、同じように考えることはできません。なんとなればこの問題は、「幸不幸は比較によって判断されるもの」という、こうして言葉にしてみたら絶対に誰もそれにイエスとは言わないはずの前提に立っているからです。
絶世の美男/美女と結婚した本人が幸せならそれはもう絶対に幸せであり、逆に本人が気苦労の絶えないことを不幸と言うならこれまた誰がなんと言おうと不幸と結論づけるほかありません。幸福とは徹頭徹尾、本人だけの問題です。重要なのは幸せかどうかであって、幸せに見えるかどうかではない点に注意しましょう。
実際、多くの人は幸せに見えるかどうかを幸せの基準と考えている印象があります。言ってしまえば、人が羨むかどうかです。そしてその幸せは比較によって相対的に決定されるので、ぜんぜん別の尺度を持ち出して比較した途端、不幸に転じて見えたりするわけですね。でもそれはせいぜい比較する第三者の溜飲を下げることにしかならないし、それゆえに却って羨望が日々つきまとうことになります。ですよね?
かくいう僕も、たとえば「良いものを安く買えた」といったことに喜びを感じてしまう男なので、日々反省しきりです。それはそれでまちがいなく幸せではあるんだけど、でもこの幸せはもっと安く買えたと知った途端に色褪せてしまいます。良いものであることには何ら変わりがないにもかかわらずです。こうして文字にすると本当にバカバカしくなるけど、何しろずっとバカなのでしかたがありません。
一方、うちの人なんかはむしろ「良いものを買えた」ことに喜びを見出すタイプです。そこに価格の高低はあまり関係がない。なのでそこで得た幸せはいつまでも色褪せることなく、燦然と輝いているわけですね。ああもう、ほんとにそういうことだよな、といつもおもう。
この強度のちがいがおわかりだろうか。
以上のことを総合すると、答えは自ずとこうなります。
A. 比較によって得られる幸せすべてです。
*
質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。
dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)
その435につづく!