2025年5月23日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その453


ときめき都内一等地さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. ここのところ、ろくに読めてもいないのに、新しい本を次から次へと買ってしまいます。「積読」より、もう少し響きの良い、言い訳がましくも行為を正当化できるような言い方はありませんか?


たしかに、定期的に言及されてその度に熱狂的な共感の嵐を呼ぶほど、日本の読書家は未読の本が積まれている状態に対して尋常ならざる罪悪感を抱いている印象があります。

僕が昔からずっと不思議なのは、そもそもなぜ罪悪感を抱く必要があるのか(=行為として正当化する必要があるのか)という点です。

きちんと対価を支払っている以上、煮るのも焼くのも自由です。どう考えてもそこに罪はありません。あるのはあくまで罪悪感であって、罪ではない。ではその罪悪感はどこから来るのか?

読まれるために書かれている以上、読まないのは著者に申し訳ない、という理屈は通りません。なぜなら積読は古書にも適用されるのだし、とりわけ古書の場合は著者に何ひとつ還元されるものではないからです。また、どうあれ読まれることは著者にとって光栄ではあるはずだけれども、それは読む側が言うことではないし、エゴに過ぎません。つまりその罪悪感の対象は著者ではなく、書物それ自体に向けられています。

ここでひとつ興味深い事実を指摘しておきましょう。

積読は「tsundoku」として、Cambridge English Dictionary に記載されています。つまり「kawaii」や「emoji」などと同じく日本由来の概念であることが明確に示されているわけですね。

またBBCにも、積読について書かれた海外視点の記事があります。

英語の辞書に掲載されたり、英語の記事になるということは、それが英語圏でも共有できる概念だからです。一方で、積読がtsundokuとしてそのまま英語になるということは、この概念がそれまでなかったということでもあります。

BBCの記事では積読を「本を読みたいという志向と、その結果として思いがけず生まれるコレクション」と定義しています。しかしそれならわざわざ正当化を試みる必要はありません。結果として蔵書になっただけだからです。

同じ記事では別の考え方として「散漫な彼氏」という類推を挙げています。隣に恋人がいるのにすれ違った別の誰かに気を取られる人、ということですね。正当化の必要がある点で、どちらかといえばこちらのほうがしっくりきます。

にもかかわらず英語にはその概念がなかった、というのがポイントです。「人ならともかく、書物のような無機物に罪悪感を抱くことがほとんどなかった」と言い換えることもできるでしょう。ではなぜ日本においては読書家の多くが無機物のありように心を寄せるのか?

これはまさに特有と言っていいと思うけど、日本は実体であれ観念であれ、ありとあらゆるものを擬人化する文化があります。ここ数年でいうと主にトチ狂った天候や寒暖差で言及される「令和ちゃん」なんかがそうですね。

そしてそれは、ありとあらゆるものに神が宿るという日本古来の考え方に通じている気がするのです。付喪神なんかはまさにそうだし、不可解な現象に対する解釈としての妖怪もその延長でしょう。つまり日本では形の有無に関わらず森羅万象に対する敬意、ひいてはある種の強迫観念が他の民族よりも強い、ということです。

本来であれば読まれるべきであるはずなのに読まれず積まれた書物に対する罪悪感、もしくは強迫観念がこれまで他の文化圏になかった理由がここにある、と僕は考えます。僕らは「書物の一冊一冊に宿る神さまに引け目を感じている」のであり、それは形を変えた古い信仰の発露でもあるのです。

だとすれば積読の正当化は「気にしないでいい」という点でむしろ不敬である、と言うことができるかもしれません。必要なのは読みたいという気持ちを放擲せず抱き続けることであって、読まないことの正当化ではない。書物の神さまがどちらに納得するか、考えるまでもないはずです。

したがって僕の回答としては本を読めずに積んでおくことの正当化を不要と断じた上で、こういうことになります。


A. 神棚を作ってそこに買った本を積んでいきましょう。


ちなみに僕も相当な数の本を積んでいますが、これはこれでいいのだと自分を納得させたことはありません。全身全霊で、じぶんの不甲斐なさを受け止めています。でも人生ってそういうもんじゃないですか?




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その454につづく!


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